くーちゃんのお世話をすると決めたときに、ひとつ、自分に誓ったことがあります。
それは、このねこちゃんのことは、何があっても一生傷つけない、悲しい思いをさせないということです。
ねこは、生きて20年。僕はその頃42歳で、だからまず、自分が死の想念から卒業しなくてはと思いました。
お酒をやめたり、書物に耽溺悪酔いしたり、キャバクラ通いや、いかがわしい界隈を帰り道に散歩することも、やめました。やめたというより、船橋駅のシャポー口までくると、駆け出して一刻も早く、くーちゃんに会いたい。
外から窓辺を見上げると、くーちゃんが内側から見ていることが多くなりました。僕よりも、どこかもっと遠くを見ている感じのする眼差しです。そのくーちゃんが、僕に気づくと「はっ」として目を合わせてくれる。
そんなときにふと、下僕が思い出すのは、カズオ・イシグロ「日の名残り」のことです。そうして、階段を上がりながら追いかけてくるやわらかい視線に、何かに仕えることのできる喜び、生の充足と、その拠りどころを噛み締め、確かめます。
「ふにゃふにゃ」
ドアを開けるとくーちゃんが足元に歩み寄り、爪を研いで、甘えてきます。
下僕は「ただいま」といって、水を換え、ドライとウエットの2皿のご飯を用意し、くーちゃんが食べるのを離れて見守ります。
申し遅れました。僕は、これまで、くーちゃんに5つ、辛い思いをさせました。
どのひとつをとっても、万死に当たるでしょう。それなのに、くーちゃんは毎晩、僕の毛布に潜り込んできてくれます。
「かわいいさん」「すきすきー」「にゃーん」を、1日に100回、あるいはそれ以上、4年半のあいだ、続けてきました。くーちゃんは、ときに、僕にとっては神の化身と見紛う、何か特別な雰囲気を身にまとった存在と感じられるほどになりました。
ココア会議をはじめましょう。