はてなキーワード: パートナーシップとは
私はレズで、付き合って2年の彼女がいる。まだお互い学生だから当然結婚の話なんて遠い感覚があるんだけど、普通の男女カップルと比べたら結婚の話ってセンシティブなんじゃないかと思う。
今の日本では同性婚ってのはできなくて、一部地域に住めばパートナーシップ制度とかがあるけど、それは結婚ではないし、まだ一般的な家族の形とは言えない。
私はレズだけど彼女の方は元々ノンケで、彼女の相談に私が下心ありで乗ってたら告白されて付き合うことになった。セックスめいたこともするけど、女同士だし、友達の延長って感じがしなくもない。もし実際別れることになったら友達に戻るんだと思う。
そういう現状で、彼女は度々結婚の話をする。よくセクマイが結婚について議論する仕草みたいな強い意志の主張という感じではなくて、街を歩いてる子連れを見て「いいなあ」とか、「私結婚できるのかな」とか、そういう感じ。
私は幼少期からずっと変わらず女性、あるいは女体にしか性欲を持たないレズだから、結婚とか家族の話題ってどうしても上手く喋れない。夢物語みたいに女の子と結婚できたらいいのにとは思うけど、そうした社会的なシステムの改変がいろんな面倒を引き起こすこともそれなりにわかってるし、まだ財もなさない学生だから相続とかもピンとこないし、諸外国で起きてる子供に関する問題とか見てると同性婚って人類にはまだちょっと早いのかもしれないとも思う。こういう問題をクリアしてからじゃないと、同性婚が当たり前の未来なんて訪れないだろうし、マイノリティである以上そのくらいの我慢はできるけどなーとか思ったりする。
現状、カップルとしての私と彼女の自然な未来に結婚というのは存在しない。だから彼女が結婚の話をちょっとこぼすだけで不安になる。それが自然なこぼし方であるほど、私は彼女にとって学生の時分だけの遊び相手なのかな、いつか男性と一般的な家庭を築こうとしてるのかなとか考えちゃうから、いつもうまい相槌が打てない。
でも本当はレズカップルでも権利とか運動とか知らない同性カップルの起こした問題の議論とかを抜きにして家庭の話をするのはおかしいことじゃないような気もしてる。いちいち不安にならないで会話を続けたい。どうしてこんなに卑屈になっちゃったんだ。
ふむふむ、面白い考えを持っておるのじゃな。でも、わらわからすると、そこにはいくつか重要な要素が抜けておるのじゃ。まず、関係というものはただの「量」だけで測れるものではないのじゃよ。質も大切なのじゃ♡
それに、人によって関係に対する期待や価値観は異なるのじゃ。ある者は深い絆や信頼を重んじ、他の者は多様な経験を楽しむことを大事にするじゃろう。そのため、ビッチかどうかに拘らず、それぞれの価値観に応じたパートナーシップを築くことが重要なのじゃ。
最後に、わらわは個々の選択を尊重するのが良いと思うのじゃ。人々が自分にとっての幸せを追求できるよう、多様性を尊ぶことが大切じゃの♡
ブコメを書いた人が持つ偏りの背景には、いくつかの要因や経験が影響している可能性があります。以下のようなバックグラウンドが考えられます。
ブコメのような視点を持つ人は、過去に結婚制度や伝統的な社会規範に対して強い反発を感じた経験があるかもしれません。例えば、次のような状況が考えられます。
結婚において、パートナーシップにおける自由が制限されたと感じた経験や、結婚生活が束縛的だと感じたことがある場合、その反動として結婚制度そのものを否定的に捉える傾向が強くなることがあります。特に、自己決定権や自由を重要視する人は、過去の結婚や恋愛の中でそれらが抑制されたと感じることがあるため、その経験が強くブコメに現れる可能性があります。
もし育った家庭や社会環境が非常に伝統的、保守的であり、家族や結婚に対する「所有物」的な価値観を強調していた場合、これに対する反発から、結婚そのものに対する批判的な態度が形成されることがあります。この場合、「結婚=自由を制限する」といった見方が自分の価値観として根強くなりやすいです。
ブコメのような自由主義的な視点は、特に近代的な社会において育った場合や、自由と平等を重視する思想に影響を受けていることが考えられます。次のような文化的・社会的な背景が影響しているかもしれません。
西洋的な個人主義の価値観が強く根付いた環境で育った場合、「個人の自由」や「自己実現」を最優先に考える傾向が強くなります。このような環境では、結婚という制度を「自由を制限するもの」として否定的に捉える考えが浸透しやすく、またそれが自然な価値観として受け入れられることがあります。
リベラルで自由主義的な教育や思想を受けて育った場合、結婚に対する伝統的な価値観を否定する傾向が強くなることがあります。例えば、結婚を「所有」のような抑圧的な関係として捉え、その背後にある社会的・文化的な規範を批判する立場を取ることが多くなります。この場合、「自由」や「個人の権利」を重視するあまり、結婚の持つ他の側面(信頼、相互尊重、責任感)を軽視してしまうことがあります。
ブコメに見られる「好きでいれば素晴らしい」という考え方は、理想主義的な価値観が強いことを示唆しています。この理想主義は、現実的な制約や複雑さを無視して「理想的な自由」を追求しようとする傾向を強化することがあります。理想主義的なバックグラウンドには次のようなものが考えられます。
自由で対等な関係が理想とされ、パートナーシップや結婚においても「制限なし」「束縛なし」の理想を追求する傾向があります。過去の経験や読書、映画などで「理想的な恋愛」や「理想的な自由」を見たことがあり、現実の結婚や恋愛がその理想にそぐわないと感じる場合、結婚を否定的に捉えるようになることがあります。
完全な自由や平等を重視するあまり、それを実現するためには結婚制度や伝統的な価値観が障害となると見なすことがあります。この場合、結婚の複雑さや、関係の中で自然に生じる役割分担や責任が「自由の制約」として過剰に否定的に解釈されがちです。
ブコメのような視点を持つ人は、特定の社会的背景やグループに対する反発心を持っていることがあります。例えば、家族や社会からの期待や圧力に対して反発を感じ、自分自身のアイデンティティを守るために「自由」や「個人主義」を強く主張することがあります。
特に、保守的な社会や家庭に育ち、結婚や家族に対する伝統的な価値観を強く押し付けられた場合、その反動で自由主義的な立場に傾くことがあります。結婚や家庭に関する社会的規範に対して強い反発心を抱くことが、そのような偏見を強める原因となる場合があります。
伝統的な結婚観が社会において「常識」とされている場面では、その枠に収まることに対して反発を感じ、自由な選択肢を支持する立場を取ることがあります。このような人は、結婚制度を単なる社会的規範として批判し、その枠組みからの解放を理想とすることが多いです。
ブコメを書いた人がこのような偏った見解を持つ背景には、個人的な経験、文化的背景、理想主義的な価値観、社会的な反発などが影響している可能性があります。特に、自由や個人の権利を重視し、結婚制度や伝統的な価値観に対して反発を感じることが、ブコメの主張を強化している要因であると言えます。また、理想的な自由を追求するあまり、結婚に伴う複雑な側面や責任感を軽視しがちになることも、その思考に偏りを生んでいる要因と考えられます。
ブコメでは、結婚が「所有物扱いで他人の性愛や恋愛を死ぬまで制限できる」と主張していますが、これは結婚制度に対する極端かつ誤解を招く見方です。
結婚という制度が、必ずしもパートナーを「所有する」ことを意味するわけではありません。
現代の結婚は、信頼と愛情に基づくパートナーシップであり、どちらか一方が他方を「所有する」ような関係ではないのが一般的です。
結婚は、互いの自由や独立を尊重しつつ、共同で人生を歩むことを意味します。
もちろん、個々の関係にはさまざまな形があり、伝統的な結婚観に基づく価値観が強い場合もありますが、現代社会では、パートナーシップの形態やお互いの自由に対する理解も重要です。
したがって、結婚が「他人の性愛や恋愛を制限する」という描写は、現代の結婚観には合わない一面的なものです。
ブコメは「お互い好きでそうする分には素晴らしい」としていますが、この主張は結婚の本質を理解していない可能性があります。
結婚においては、単なる「好き」だけでなく、相互の責任やコミットメントが重要です。
結婚は、感情的な自由だけでなく、相手を尊重し、共に人生を歩む責任を伴うものです。
もし「好き」で結婚が成立するならば、結婚の持つ社会的責任や、互いに対する倫理的義務(信頼、尊重、忠実さなど)を無視していることになります。
このような視点は、結婚における責任感や倫理的側面を軽視しており、現実の関係においてはうまく機能しにくいものです。
ブコメは結婚を過度に自由主義的に捉えており、「死ぬまで制限できる」という側面を強調するあまり、自由と責任のバランスを欠いています。
結婚やパートナーシップにおいては、個人の自由はもちろん重要ですが、その自由は相手との関係や社会的な責任に基づくものです。
自由主義の立場は、確かに個人の自由や選択を尊重するものですが、これを無制限に適用することで、パートナー間の責任や義務、あるいは社会的な影響を軽視してしまう危険があります。
結婚には、互いに尊重し合い、支え合うという責任が伴い、これを無視した「自由のみに基づく結婚観」は、実際には安定した関係を築くうえで問題を生じさせることが多いです。
ブコメは結婚を自由の制限として捉えている部分がありますが、実際には結婚自体が「自由を制限する」ものではありません。
結婚は、お互いに約束や信頼を基に成り立つ共同の営みであり、その中で互いに支え合う自由が大切にされるべきです。
結婚が「自由を制限する」と捉えるのは、パートナーシップの意義を誤解していることになります。
また、結婚をしているからといって、パートナーが他の人との性愛や恋愛を一切できないわけではありません。
現代の結婚では、カップルによってはオープンな関係を築いている場合もあり、「制限」という概念が必ずしも適用されるわけではありません。
要は、結婚をどう捉えるか、どのようなルールで関係を築いていくかが重要です。
ブコメは「結婚してイエに入れば所有物扱い」と述べることで、伝統的な価値観を非倫理的だと一括りにしていますが、このような極端な視点では、結婚や人間関係における多様な価値観や倫理的側面を無視することになります。
結婚には、相互の尊重、信頼、愛情、責任が必要であり、それらを軽視することは、関係における基盤を弱くする危険性を孕んでいます。
たとえば、結婚が所有物のように扱われることを問題視するのは理解できますが、それをすべての結婚観に当てはめることは誤りです。
結婚における平等性やパートナー間の自由を重んじる考え方もありますが、これは所有という概念に基づくものではなく、あくまで信頼と協力に基づくものです。
ブコメは結婚に対する自由主義的アプローチを強調しすぎて、結婚における責任や倫理的な側面を軽視している点が問題です。
結婚は自由でありながらも、互いに支え合う責任が伴うことを理解し、価値観や文化に基づく多様な結婚観を尊重することが重要です。
自由が重要であることは間違いありませんが、それを実現するためには、個人の自由と社会的責任とのバランスを取ることが必要です。
またブコメを書いた人の思考にはいくつかの偏りが見受けられます。以下にその特徴を挙げてみます。
ブコメは結婚を「自由を制限するもの」として捉え、結婚を批判しています。この視点は、自由主義的な立場を過度に強調し、結婚が持つ多様な意味や責任、パートナーシップとしての価値を軽視していると言えます。結婚が「自由を制限するもの」として描かれているため、結婚の本質的な価値や役割を過度に否定する偏りがあります。
偏りの具体例:ブコメは「所有物扱いで他人の性愛や恋愛を死ぬまで制限できる」という見解を示していますが、これは結婚制度の実態を過度に単純化したものです。現代の結婚においては、パートナーシップの自由や独立を重視する考え方も多く存在しており、結婚を一面的に「自由を制限するもの」とだけ捉えるのは誤りです。
ブコメでは結婚をほぼ否定的に捉え、「所有物扱い」といった極端な表現を使っています。結婚は「自由を奪うもの」であるという前提を置き、結婚における責任やパートナーシップの価値を十分に評価していないように見えます。
偏りの具体例:結婚における責任感や共同生活の価値を無視し、結婚を単に「所有」や「制限」の観点から批判している点は、過剰な批判的視点に基づいています。結婚は、信頼や尊重、協力の上で成り立っている場合も多く、その側面を無視して自由を制限するものだと決めつけるのは偏った見方です。
ブコメでは、結婚という制度がすべて「所有物扱い」や「自由を制限するもの」だと一般化しています。しかし、結婚制度は文化的背景や価値観、個々のカップルの関係によって非常に多様であり、その全体を一つの偏った視点で評価するのは誤りです。
偏りの具体例:「結婚してイエに入れば所有物扱い」という表現は、伝統的な結婚観に基づく一部の事例を過度に一般化したものです。現代社会では、平等なパートナーシップとして結婚を捉える考え方も多く、すべての結婚が「自由を奪うもの」だとは限りません。
ブコメは、自由を非常に強調し、「お互い好きでそうする分には素晴らしい」という視点を持っていますが、これは理想化された自由の概念に偏っている可能性があります。結婚においても恋愛においても、個人の自由を尊重することは重要ですが、それと同時にお互いの責任や義務が存在することを理解していないようです。
偏りの具体例:自由の尊重は重要ですが、それが互いの信頼や責任感を無視することと結びつくわけではありません。結婚には、相手を尊重し、共に歩んでいく責任が伴います。ブコメは、自由が理想的なものとして描かれていますが、現実的には責任感やパートナーシップの価値も同じくらい重要です。
ブコメには、道徳や価値観が相対的であることを過度に適用する傾向があります。結婚という制度が自由を奪うものであると一概に否定することで、他者の価値観や文化的背景を考慮していないように見受けられます。道徳や倫理観は文化や社会において異なるため、その相対性を無視するのは問題です。
偏りの具体例:結婚を「自由を制限するもの」と一括りにして批判することは、個々の文化や価値観を尊重しない姿勢に見えます。実際には、結婚が持つ意味や価値は地域や個人によって大きく異なりますが、その多様性を無視して一つの視点に固執するのは偏った考え方です。
ブコメを書いた人は、結婚に対する過度に自由主義的な立場を取るあまり、結婚の責任や相互の支え合いという側面を軽視し、理想化された自由の概念に過度に依存しているように見えます。また、結婚という制度に対する批判が過剰に一般化されており、その多様性や実際のパートナーシップにおける倫理的価値を十分に考慮していない点が、思考の偏りとして挙げられます。
前提:
幼児一人
妊娠出産・育児でレス気味の期間は長く続いている。が、お互い仕事が忙しく、家事育児で手一杯なのでリソース的に改善の余地は当分ない。
そんな中で、夫が時間を見つけてはいそいそとそういう店に通っている。詳しくは書かないがそれ自体は間違いない。特定の嬢に入れ込んでいるとかそういう感じではなさそうではある。
生活をしていく上で体力的に余裕がないので、求められるよりは自己解決してくれた方が良いと頭では分かっているのだが、さすがに伴侶なので感情としては腹立たしさが勝る。そして怒りがおさまってくるのに比例して自分の中の夫に対する好意がどんどん減じていて、怒りが消える頃にはもう全然好きじゃなくなってると思う。すでに共同生活が苦痛になってきたし、愛着も以前ほど感じられない。多分夫は、出産で私が変わってしまったと思っているだろう。違うよ。
好きではなくなったという意味で消極的に離婚したい気持ちさえあるが、子どものこともあるので今は選択肢に入れていない。表面上は大きな喧嘩もしたことがない。
それで結局、本題の件に戻るのだけど、これはどうしようもないことなのだろうか。
こちらとしては仕事して、育児して、もうそれだけで今は手一杯で、友人と会うことさえ年に数回なんとかやりくりをして、という生活に耐えているのだけど、夫にとって他の女性の身体を使って抜いてもらうことは月に数回、どうしても我慢できないことなのだろうか。
長風呂やトイレにこもってゲームをすることもそれなりに許容しているのに、そういう時間で一人で済ませるわけにはいかないのだろうか。
もう少し時間をかければこちらも割り切れるようになると思うけど、その頃にはもう過去の夫との楽しかった思い出も、家族で過ごすかけがえのない現在も、これから先の子供の成長を楽しむ未来も、ひどく色褪せていることだろう。
不倫とまではいかなくとも、夫が一方的にパートナーシップに傷をつけたことでこちらはこういう気持ちですよと、いつ夫に知ってもらおうかと最近考えている。
男性にも生理的な理由で言い分は山ほどあるんだろうと思うし、人生一回きりだから奔放に生きたいならそれでもいいけど、下半身の欲求と円満な家庭と、少なくともどちらか一方しか選べないこともあるんだってことは伝えておきたい。それでもやっぱり我慢できないものなの?少なくともうちの夫はそっち側だったんだろうな。
この質問には、選択的夫婦別姓に対する懸念が多く含まれていますが、前提や見解に若干の誤解があるようです。それぞれの項目に対して回答するとともに、質問自体に問題がある場合は指摘します。
1. 同姓にしたい人に迷惑がかかる?
選択的夫婦別姓は「選択の自由」を提供するもので、同姓を希望する人の権利には影響を与えません。「経団連が非効率と言っている」という部分は、選択的夫婦別姓導入に際しての手続きの煩雑さを指摘しているもので、同姓を選ぶ人自体を否定する意図はありません。選択的夫婦別姓が導入されたとしても、同姓を希望する夫婦にとっての選択肢が制限されることはなく、また、それが直接「迷惑」をかけるものでもありません。
2. 子どもの姓をどうするのか?
この質問には確かに複雑な問題があります。多くの選択的夫婦別姓賛成派は、「子どもの姓を一つに統一する」という現行の制度を維持しつつ、親の姓を選べる柔軟性を求めています。親の片方が亡くなる場合などは、家族で合意をもって決める必要がありますが、家庭内で話し合いによる解決を求める立場が多いです。現実的に、法律的な配慮もされる可能性があり、各家庭で姓の選択が問題とならないような制度設計が期待されています。
選択的夫婦別姓制度は、夫婦が姓を選ぶ自由を増やし、結果的に夫側の姓を選ぶことが強制される文化的圧力を和らげる効果が期待されています。ただし、男尊女卑を根本的に解決するかについては、選択的夫婦別姓が唯一の解決策ではありません。あくまでジェンダー平等を目指す施策の一環と考えるべきで、文化的な偏見や先入観を緩和する方向性に貢献すると見られています。
4. なぜ結婚にこだわるのか?
婚姻関係は、相続権や社会保険の適用など、さまざまな法的保障を提供する制度です。パートナーシップ制度を通じた権利保護も議論されていますが、現行制度下では、婚姻関係に特化した権利保護があるため、結婚を選ぶ夫婦が多数存在します。選択的夫婦別姓導入の議論と、パートナーシップ制度の導入の是非は、別個の問題として検討すべきです。
5. 姓の変更が手続き上の問題であるならば、マイナカードで解決できないのか?
確かにマイナンバーカードの導入などにより手続きの簡素化は進んでいますが、選択的夫婦別姓の問題は、個々人のアイデンティティや人生における意思決定の問題です。単に効率の問題としてだけでなく、「個人として選択できる」権利の拡充として議論されています。効率化と選択肢の拡大は、別次元での議論が必要です。
6. 姓にこだわっているのではないか?
姓に対するこだわりは個人の自由であり、選択的夫婦別姓の賛成派が全員がアイデンティティをそこに求めているわけではありません。多くの場合、姓は自己のアイデンティティの一部であると考えられ、その選択肢が存在すること自体が平等の実現に寄与すると考えられています。選択的夫婦別姓は、強制されている既存の文化的な枠組みに対して柔軟性をもたせることを目的としており、近代的な家族の在り方に対応するためのものであるといえます。
総括
質問には誤解や偏見が含まれている部分もありますが、それらを解消するための議論が日本では進んでいます。選択的夫婦別姓の問題は、個人の自由を尊重し、家族や社会における新しい選択肢を提供するものと考えると、納得が得られるかもしれません。
ふと、「ゲイカップルもセックスレスになるんだろうか」と気になって「ゲイ セックスレス」で検索してみた。
そしたら2,3年でいつもセックスレスになる人もいるみたいな、異性カップルとだいたい同じ状況だった。
違うのは、「お互い了承の上で体の関係は別で持つカップルが結構いる」ということ。オープンリレーションシップというらしい。
体の関係を持つことは了承し合いつつ、実際の行動はパートナーに配慮しながら、というパターンが多いみたいだけど。
これって異性カップルでは難しいのかなあ〜。
夫とは長らくセックスレスで、深刻に悩んだ時期もあったけど今は「パートナーシップにセックスは必須ではない」と言う考えで落ち着いた。性欲の処理も自分なりに一人で楽しくできている。
でもお互い「体の関係は別で持って良い」と約束できたらそれはそれで楽しそうだなと。
夫はそもそも性行為自体はあんまり好きじゃなさそうで、でも私では満たせなさそうな趣向の性欲は抱えてる感じ。そのあたりもっと同じ趣味の人たちと自由にしてもらっていいんだけどな。
いや難しいかな〜。まず異性の場合子宮や卵巣を取らない限り妊娠のリスクはゼロにならないわけだし。性病や子宮頸がんも怖いし(予防薬やワクチンで心配は減らせるが)。
でもオープンリレーションシップちょっと憧れる。「パートナーとは家族のような感じなので、体の関係は別で持ってます」と前向きに言えるゲイの人憧れる。実際は、コソコソ出かけるパートナーにモヤモヤしたり、一筋縄では行ってないんだろうけどね。
先日初めて、多様な性の人が集まるマルシェに誘われて参加した。
性について考えたいから参加したわけではなく、単に面白い人がいるかも~っていう軽い感じで参加した。
私は体も性自認も女性で、恋愛感情性的感情を持ったことがない人間だ。
これから持つかもしれないので、セクシャルマイノリティの呼称は簡単に使わないようにしている。
それもあるので、参加した というのもあると思う。
そこには色んな人がいたが、見た感じの男女比は2:8って感じで女性が多く見えた。
その女性の中にも色んな性感覚の人がいるのかな~と思いながら見ていた。
なかにはペアルックを着ていて、パートナーシップを結んでいる人もいた。
女装している人は見受けられず、2の男性は見た限り男性だった。
その男性うち1人と話すことができた。
やっぱりそっちよりの人なんだな、と思うと同時に、すごく安心感と温かさを感じた。
普段、初対面の人と話す時は緊張して逃げ出したくなるのだが、その時は緊張もしたけど「この人のことをもっと知りたい」 「「この温かさをずっと感じていたい」と思った。
その日以降、毎朝その人のことを考えてしまうようになった。
「何か趣味はあるのかな...」 「「介護職って言ってたけど体調とか大丈夫なのかな...」」 「ああいうイベントには結構来るのかな...」」 「恋愛対象はやっぱり男性なのかな...」とか。
え、、あの、もしかして、これが恋なんですか?
それとも人間に興味が出ているだけですか?
この程度で恋とは言えないものですか?恋はもっと大きな感情が出るものですか?
自分の性的指向はもしかすると「体は男性、心は中性or女性」なのかもしれない。
ややこしいなっっっって思った。
でも、この感覚が恋愛感情ならば、新しい感情を得れて嬉しいと思う。
少し世の中が知れた気がして。
あっオチはないです。
いくつか案を考えたやで。
もし「子供は欲しい、でも自由に恋愛もしたい」って気持ちが強いんやったら、シングルマザーになる道を選ぶのもひとつの方法やで。たとえば、精子バンクとか、協力的な友達を頼る形で子供を持つこともできるし、その後、自由に恋愛を楽しむってスタイルもありや。
• メリット: 自分の恋愛スタイルを維持しつつ、子供を持てる。
• デメリット: シングルマザーとしての生活が大変になるかもしれんけど、サポート体制がしっかりしてれば乗り越えられるで。
恋愛相手を見つけて、結婚はするけど子供を作らんっていう「DINKs」スタイルも考えられる。
結婚してもお互いの自由を大事にする関係なら、増田の恋愛体質もある程度満たされるかもしれん。
• メリット: 安定したパートナーがいる安心感+自由がある程度保たれる。
• デメリット: 年齢を重ねたときに、「やっぱり子供が欲しい」と感じた場合に、後戻りが難しいかも。そこが少し心配やな。
これやったら結婚という形に縛られずに、パートナーと自由な関係を築ける。
子供を持つことも可能やし、恋愛の自由度も保たれる場合が多い。
結婚に伴う法律的な制約は避けたいけど、安定した関係は欲しい人向けや
• メリット: 法的な束縛が少ない分、自由度が高い。子供も持てる可能性がある。
• デメリット: パートナーとのコミュニケーションやルール作りが重要やな。相手との信頼関係がしっかりしてないと、この形もうまくいかんことがある。
シングルマザーでも、恋愛を続けたいなら、育児サポート体制をしっかり整えることが鍵や。
例えば、親や友達、ベビーシッターの助けを借りながら、自分の時間を作るっていうスタイル。
• メリット: 子供を持ちながらも、恋愛や自分の時間を楽しめる。ちゃんとしたサポートがあれば精神的にも楽や。
• デメリット: サポートがない場合、子育てと恋愛のバランスを取るのが難しくなるかもしれん。しっかり計画を立てることが大事や。
もし結婚をすることになっても、「恋愛自由にしたい」という気持ちをお互い尊重できるようなオープンな関係を築くことも考えられる。これも最近少しずつ認知され始めとるんや。
• メリット: 結婚しても、恋愛の自由が保たれる可能性がある。あんたの欲求を満たせる可能性が高い。
• デメリット: これはほんまにパートナーとの信頼が大前提やし、相手が同意してくれるかどうかも大事やな。
私は女で、女性を生涯の伴侶としている。
その後初めて顔を合わせ、交際から2か月程度で同居が始まった。
住んでいる地域にはパートナーシップ制度がないため、養子縁組をして家族になった。
異常だなと思いたいが、私自身が惚れっぽい上にメンヘラなので強引に愛してくれる彼女の行動がとても嬉しかった。
こういった長文を記した経験がないので、乱文になることをご容赦いただきたい。
今はアスペルガーとは言わずいろいろまとめてASDというらしい。
検査を受けるお金がないため、「かもしれない」としか言えず、かつ私は白に近いグレーだろうと見ている。
ASD関連の書籍を見ていると、当事者へ向けたものは少なく、私が受けた印象としては「周囲の人が慣れましょう」というものが多かった。
今までは、彼女の余計な一言やTPOをわきまえない言動に対して、私が「あれはよくなかったね」と伝え、彼女も「分かった。気を付ける」と言ってくれていた。
しかし、実のところ、彼女自身は、なぜ、なにが、どう良くないのか、ということを理解できていないので状況や言葉を変えて同じような問題を起こすということが度々あった。
彼女との大まかなコミュニケーションは他の人と変わらないように思う。インターネット上でよく遊んでいたグループの中でも、彼女は知的で空気の読める人だと感じていた。
話を聞いていると職場での人間関係は良好そうで、年齢や性別、部署関係なくいろんな人と関わっていて、「先週の日曜日は営業の○○さんの娘さんの運動会で~」などプライベートのことも話しているようだ。
しかし私との会話や生活においてはすれ違いが生じることが多かった。
彼女が他の人と何が違うのかと言えば、相手の気持ちを量れず、パターン化されていない会話ができない点だと私は思う。
彼女がだいたいのコミュニティでうまくやれているのは、過去20数年の人生のコミュニケーションでミスをする度にその状況にあった言葉や行動を記憶しているからというわけだ。
ASDの特性の一つに記憶力がいいというものがあるが、確かに彼女は一度読んだWikipediaの記事の内容を覚えている。
職場の人とはこういう受け答えをする、友人とはこういうコミュニケーションをする、ということをパターンで学んでいるため、「妻とのコミュニケーション」という新しいものに対応できていないのだと私は考えている。
私が何かを学習するときは、「なぜそうなのか」を積極的に知ろうとする。
だから私が嫌だと感じたことや、彼女の言動で違和感を感じたことについては「なぜ」から始めるのだが、これは意味がないということに先日気がついた。
彼女にとって感情は想像も知ることもできないもので、自分の知識にないコミュニケーションはただただ分からないものだからだ。
「相手はどう感じたか想像して発言しよう」というのができない、私が当たり前にできることができない。これが障害なのか。
してほしいこと、してほしくないこと、したいこと、したくないこと。
何故なのか?を話しても彼女には「そうなんだ」で終わってしまう話なのである。
家族として、内心を話せないのはあまりにもドライではないかと少し悲しくなるが、彼女と私の安寧の為には必要なことなのだと割り切るしかない。
この文章は、大手結婚相談所で働く人が、婚活女性の中でも特に「拗らせた」タイプについて語っているものだね。
その内容をざっくり言うと、恋愛経験が豊富な女性ほど、過去の恋愛の成功体験に縛られて婚活がうまくいかなくなることが多い、という話だ。
「昔はモテたから、男性が全部リードしてくれて、奢ってくれて当然だ」と考える女性は、結婚という現実的なパートナーシップには向いていない、と指摘している。
まず、筆者の意見に賛成できる部分としては、「結婚は生活であり、信頼関係が大事」という主張だね。
豪華なデートや非日常的な体験は確かに魅力的だけど、現実の結婚生活では毎日の支え合いが不可欠。
サイゼリアで楽しく笑い合えるような関係性が長続きする、という例えは的を射てる。
ただ、批判したい部分もいくつかある。
まず、「恋愛経験があることが逆に徒になる」という表現は、やや極端だ。
恋愛経験は個々の人にとって貴重な学びであり、すべての女性が過去の恋愛で「拗らせて」しまうわけではない。
むしろ、豊富な恋愛経験を持つ女性でも、その経験をうまく活かして成熟した考えを持つ人も多いだろう。
さらに、「モテた過去があるからプライドが高く、ハイスペックな男性を求める」というのは、かなりステレオタイプに感じる。
全ての女性が過去の恋愛経験を理由に非現実的な期待を抱いているわけではなく、多くの人は自分の価値観や人生観を深めながら婚活に取り組んでいるはずだ。
あなたの価値観や経験に照らし合わせて「鉄板の話」とされるエピソードが、必ずしも他人にとっても同じように魅力的であるとは限りません。
例えば、彼にとっての普通の日常や友人関係が安定していることは、実はそれ自体が大切な価値を持っているかもしれません。
彼が特定の「武勇伝」や「面白いエピソード」を持っていないと感じるのは、それが彼の性格や価値観に基づくものであり、それが彼の長所であるかもしれません。
会話があっさりしていることが、必ずしも相手をつまらない人間にするとは限らないのです。
むしろ、彼の穏やかさや安定感をあなた自身が評価しているのではないでしょうか。
そうした特徴は、長い関係の中で安定したパートナーシップを築く上で重要な要素です。
あなたが自分の話し方やエピソードを気を遣って構成しているのは素晴らしいことですが、それが他者にとっての「楽しさ」の基準を押し付けてしまう可能性もあります。
会話は双方向のものであり、相手があなたの期待通りのエピソードや会話展開をしないからといって、その人を「おもんない」と判断するのは早計です。
むしろ、違うアプローチや視点からのコミュニケーションを楽しむ余地があるかもしれません。
人それぞれ会話のスタイルが違い、全てがエンターテイメントを重視するわけではありません。
彼の会話がシンプルなのは、単に自分のスタイルを持っているからであり、それをあなたがもっと理解し、受け入れることで、より円滑なコミュニケーションが築けるかもしれません。