はてなキーワード: 無謬とは
「ダンマリだ」論は結局森羅万象全てに言及せよという無茶振りになるからあまり好きではないが
自由戦士ってフェミに対してダンマリだ連呼しつつ「福井の高校生が演劇脚本を没収された」「宗教二世の漫画が圧力で打ち切りになった」あたりは完全スルーか言い訳程度に触れてても明らかにエロ批判とはテンションが全然違うんだよな
7万人の署名集めて宗教団体や出版社に提出とか、数千人対象のアンケート取って問題かどうか答えさせるとかそういう金かかることを普段エロ系では盛んにやってた奴らがやらなかった
「ガチの弾圧には臆して黙ってるくせにネットでエロ作品について批判的な感想を述べただけのなんの権力もない匿名の人間には群れをなして飛び掛かってる」
これじゃ馬鹿にされても仕方ない
(タイトルは引用ではなく不正確な要約だが、id:cinefuk氏も同様の行為をしているので問題ないだろう)
https://b.hatena.ne.jp/entry/4719044582818891426/comment/cinefuk
たぬかな事件を踏まえて、オタク仲間で日常的に飛び交う「ガイジ」という罵倒語を(プロとして許されない、と思って)口先だけ言い換えたのだろうけど、残念!その発想自体がアウトという事を理解できてなかった
https://b.hatena.ne.jp/entry/4719039584547673634/comment/tikuwa_ore
たぬかな事件から何も学ばなかったプロゲーマーをあえてオタクと表現する事でオタクの汚点を作ろうと画策しているcinefuk氏のブコメが実にいやらしい。対立煽りを誘ってる人ってこういう人なんだよね。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4719100836186248098/comment/cinefuk
炎上の記事に「オタク同士で使いがちな差別用語が〜」と書いたら「ゲーマーはオタクじゃないのにオタクの悪事に含める印象操作!」とid呼ばれ「悪い奴、愚かな奴をオタクから切り離すならオタク無謬だよな」と思った
さて、元発言を捻じ曲げて解釈してるのはどちらでしょうか(個人的には、 id:cinefuk 氏が元ブコメの「プロゲーマー」を敢えてプロ抜きの「ゲーマー」としてるところがかなりポイント高い)
けっこういい感じに分厚かったけど、半日没頭して読んでしまった。
来月辺りに広瀬すずと松坂桃李の主演の映画が公開されるし、TSUTAYAに行けば売れ筋ナンバーワンとしていっぱい平積みされているので、わざわざ私が紹介しなくてもいい気がするが……。
著者の凪良ゆう先生はBL小説家としてデビューした人気作家。数年前からBLレーベル外の小説も書くようになった。『美しい彼』『わたしの美しい庭』『滅びの前のシャングリラ』など著書多数。
主人公の更紗(さらさ)は、風変わりな両親に愛され、自由奔放で健やかに育っていた。だが、平和な日々は突然瓦解してしまう。天涯孤独となった更紗は伯母の家に預けられたものの、普通の家庭に馴染むことが出来ない。居場所のない彼女は放課後、独りきりで公園に行き、ベンチに腰掛けて読書をして時間を潰すようになる。
公園には更紗以外にもう一人、ベンチの常連がいた。更紗の学校の友人達からは「ロリコン」と呼ばれる、痩身の若い男。彼は毎日、暗い目で女児達の姿を追っていた。
更紗が伯母の家での暮らしに限界を感じた夕方、これまで更紗に対して無関心を貫いていた「ロリコン」が彼女に近づいてきて……。
ざっくりと言えば、かつてTwitterとかでフルボッコにされた伝説の『幸色のワンルーム』(はくり)みたいなストーリー。傍目には、猥褻目的誘拐犯に性犯罪被害者が懐いてしまうストックホルム症候群にしか見えないけれど、実は訳ありのお兄さんが虐待を受けている女の子を救い、それをきっかけに強い絆で結ばれ、唯一無二の関係性を築いた二人の物語。
なんか物議を醸しそうな筋書きだけど、今のところ『幸色のワンルーム』のようなボコられ方はされていなさそうだし、これからもそうはならないかもしれない。
ただ、レビューを見てみると、猫も杓子も作者が読んで欲しいように読んでいるというか、「事実は真実とは違うということがわかりました。わたしも無理解から他人を傷つけないように気をつけてようと思いました」と多くの人々が判を押したように書いていて、道徳の時間の小学生じみていて、うすら怖い。一体どうした、みんな真面目か。
まあそれは置いといて。『幸色―』よりは好意的に受け入れられているっぽいのはたぶん、そもそも挿し絵無しの小説なので、女児の可愛い言動や性犯罪被害を描いてもそれを「性的消費」目的で書かれたとは思われ難いというのがあるのかなと思う。それに、物語全体のうち、被害者女児と誘拐犯の暮らしが書かれた部分はそんなに多くない。それより、更紗が事件以来、15年の歳月をどのように生きてきて、現在はどんな風に暮らしているのかに多くのページが割かれている。そして、更紗が性的虐待を受けている場面や、彼女にとってはしんどいだけの性行為の場面は、心情はリアルに書かれても行為そのものは生々しく描写されはしないので、虐待描写のオカズ化は防がれている。そういう意味では安心。
未成年者略取という犯罪に夢見すぎという批判はあると思う。だがそれも罪を犯した文(ふみ)の内心が吐露される章で緩和されるのかな、たぶん。
現実にも起こりうる、子供が被害に遭う犯罪とその冤罪。当事者しか真実は知らないはずなのに憶測が飛び交い、被害者・加害者ともにオーバーキルとなるほど晒し者にされ平穏な日常生活を奪われ追い詰められること。そういうことを物語のネタとして取り上げることの良し悪し。それについて私自身がどう思うのかといえば、良しとも悪しとも言えないなぁという歯切れの悪いことを言うしかない。
個人的な好き嫌いのことをいえば、センシティブなネタほど「逃げの一手」を打たない方が好き。例えば近親相姦もので実は血が繋がっていなかったのでセーフでしたとか、小児性愛者が未成年者略取の罪を犯したと思ったら実はそいつは小児性愛者ではなかったのでセーフでしたとかいうのは、何がセーフじゃ甘えんな! もっと業に正面から向き合えと思う。
『流浪の月』はどうだったかといえば、文は実は小児性愛者ではなかったので、そういうとこは私のあまり好きじゃないものの類なんだけれど。だってたぶん多くの読者が「更紗と文にはこれからは静かなところで幸せに暮らして欲しい」とレビューに書いているのって、文が「安全な人」だとわかったからで、もしもまじもんの小児性愛者だったら同じ感想が出るか? っていう。なんていうのか、結局は罪を軽減して世間並に受け入れられるレベルまで物語引き下ろした感が出てしまうというか。それで事実と真実は違うよねーと言われてもなって感じがする。
だが、文がなぜ自らを偽ってまで小児性愛者のふりをしてきたのか、その事情と心情があまりにも切々と書かれていて胸を打たれたので、私の個人的好き嫌いとかどうでもいいかもう、と思い直した。
事実と真実は違う。人それぞれに抱えているものがあって、それを他人が何も知らない癖に常識だのなんだのを笠に着て叩くことが許されようか? 本作のテーマはそんな感じだが、幼い頃の更紗を育んだ家庭や、大人になった更紗に関わる人々などを、更紗が許容するもの・拒絶するものに、そうは言ってもな……とちょっと疑問が残るようになっているところが良いと思った。
たとえば、母親が無理をせずに幸せであることは大切だとして、更紗は彼女自身の母親や、同僚の子持ち女性の自由奔放ぶりを許容する。ところが更紗の母親と同僚女性は娘の物分りのよさに甘え、自分の恋愛にかまけて娘を放置するという全く同じ行動をする。だが、その結果は大きく異なる。更紗は母親に遺棄されたせいで理不尽に辛酸をなめることになったが、同僚女性の娘は放置されたものの完全には棄てられず、それが切っ掛けで更紗と文という年の離れた友人に出会い、精神的に救われることとなる。同僚女性は更紗と文という協力者を得たお陰で、娘を遺棄せずに自分の人生も大切にできたとも言えるかもしれない。同じ事が起きても結果は違う。これを人それぞれと言うか、そんなんただの運だから、最初からちゃんとしているに越した事はないと思うか。現実としては、周囲から親にかけられるプレッシャーのお陰で子供が守られているという事も、往々にしてあるが……? などと、ちょっと考え込んでしまう余地が読者には与えられている。
一方で、更紗はDV気質のある恋人の亮のことは、交り合うところが一つもないと拒絶し切り捨ててしまう。亮がなぜDVを止められなくなってしまったのか、その理由を知っていながら、理解も共感も彼女は拒否するのだ。母親が我が子を遺棄することには同情すら示すというのに、DV男はどんな事情があれどもダメであるというアンバランス。DV男は許してはならない、そんな奴からは早急に逃げるべきだというのは正しい。ここを違えたら今時の読者には受入れられないのは想像に難くないが、世間へのご機嫌取りとも思えない、あえての偏った描写なのだろうか。と、ここにも悶々と考えさせられる余地がある。
また、他人の無理解によって苦しめられてきた更紗もまた無謬の人という訳でもなく、無邪気な思い込みで発した一言で文を深く傷つけたのに長い間気づかず、文の真実を知らないままであった。それは、読者が安易に更紗と自己を同一視して気分を良くするだけにとどまるのを阻んでいる。更紗が文の真実を知った時、それまで更紗と一緒に被害者意識を持って、解っていない人々を糾弾出来る立場にいたはずの我々は、自分達が解っていない人々と同じ穴の狢であることに気付かされ、ショックを受けるのだ。
後半、読者目線では余裕で予想できる破滅的な結末に向けて、更紗と文が善意やちょっとした人としての良識を発揮したせいで転がり落ちてゆくところは、はらはらしてつい目が離せなかった。それはダメだ、善意でもやったらいけないやつだと、更紗達を批判することを、圧巻の心理描写が妨害してくる。簡単に教訓を得ていい気分になって読み終えることを許してはくれない。それがこの小説のすごい所なのかなと思う。
にも関わらず、レビュー者が判を押したように教訓を得た事ばかりを書くのは、この小説が安易な共感を読者に許さない、熟考を強いてくるからなのかもと私は思った。そう易々とは自分の意見を書くことが出来ないから、かえってテンプレみたいな感想を書いてお茶を濁すことになるのだ。
さて、以下は凪良ゆう先生のBL作品の紹介と、『流浪の月』とテーマが似ていると思う作品とかの紹介。
主人公の平良は吃音を持っているせいで上手く喋ることができず、学校生活の中ではスクールカースト最底辺に追いやられていた。両親に心配をかけることを畏れた平良は、イジメのターゲットにならないように極力目立たぬよう、息をひそめて暮らしている。
そんな平良は、高校二年の新学期、同じクラスになった清居(きよい)に一目惚れをしてしまう。清居はスクールカーストの頂点に君臨し、陽キャの面々に一目置かれながらも孤高にマイペースを貫く、まさに王者である。そんな清居とそのしもべ達から奴隷のようにこき遣われる平良だったが、清居が気まぐれに差し伸べる暴力的な救いの手や、逆境をものともしない凛とした姿勢に心酔する。やがて平良は、清居の一兵卒から立派なストーカーへと進化していくのだった……。
凪良ゆう先生のBL小説のなかでたぶん最も人気のあるシリーズである。イジメの被害者と加害者のカップリング。主人公の平良と、平良に惚れられた清居、それぞれの視点によって相手の人間性や共通の体験についての見方ががらりと変わる。事実と真実は違うとはまさにこのこと。
幼い頃、近所に住む「にいちゃん」に遊んでもらっていた、ゆい。彼はにいちゃんのことが大好きだった。ところがある日、にいちゃんが奇妙な遊びに誘ってきた。怖くなったゆいは、にいちゃんの部屋から逃げ出した。そこへゆいの母親が鉢合わせたことにより、にいちゃんは逮捕されてしまう。
数年後。高校生になっても、ゆいはにいちゃんのことが忘れられず、親には内緒でにいちゃんの行方を探していた。そして遂ににいちゃんと再会を果たしたゆいだったが、にいちゃんはゆいを怨んでいた。にいちゃんはゆいを拘束して動画を取り、それを脅迫材料として、ゆいを呼び出し、苛烈な性的虐待を加えるのだった。
ほんものの小児性愛者でしかも性犯罪者の大人と、ストックホルム症候群な高校生のカップリング。虐待描写があまりにも凄惨で心を折ってくるので、性描写がゴリゴリにあるが抜けないエロ本みたいなことになっている。ヤバい奴に雁字搦めにされてしまった状況での愛は偽りなのかもしれないが、渦中にある本人にとっては本物に見える。その様を綺麗事なしに描写した怪作である。
腐野花(くさりの はな)は、恋人との結婚をもって養父の腐野淳吾の手を離れることになった。花は幼いうちからまだ年若い養父と性的な関係を持ち、そしてもう一つ、誰にも言えない秘密を淳吾と共有していた。
そんな花と淳吾の暮らしを、時の流れとは逆順に、章ごとに語り手を変えつつ描いた物語。最後には花と淳吾の真の関係性が明かされる。
はたからみれば養父から性的虐待を受ける女児の物語だが、やはりこれも事実と真実は違う系。ところが真実は事実よりもどろどろとしていて、なのに純心であり耽美でもあるが、物凄い業の深さでもある。
第1章が花と淳吾の別れの話で、それから章ごとに時を遡っていき、最終章は家族を亡くして孤児になった花が淳吾と出会い養子になるところで終わる。
私は初読の時に、まるでハッピーエンドのように終わるなぁと思ったのだが、再読したら別にハッピーエンドには思えなかったのは何故なんだ。もう一度読めってことかな、ハハッ。
映画にもなっているのだが、映画版はまるで小さな悪女・花に淳吾が狂わされ搾り滓にされたみたいなラストだったから、あまり好きじゃないな。
酷暑の真夏、若い母親は幼い子供達を部屋に置き去りにし、餓死させた。懲役30年の実刑判決を受けた母親を、世間の人々は好き勝手に糾弾する。一体、母親は何故、愛していたはずの子供達を死に追いやってしまったのか? 母親自身の生い立ち、彼女の祖母の代から続く凄絶な負の連鎖とは……。
小説にしか描けない現実があるとして、実際に起こった事件をモチーフに書かれたフィクション小説である。
児童虐待と、世間の人々が助けたいとは思わないタイプの社会的弱者の物語。著者の山田詠美先生は自由な女性の恋愛小説を書く一方で、昔から社会の最下層にひっそりと生きる人々の事も書いてきた。中でもこれはすごい作品。
ロリコンの俺のことかーーーーーーーッ!!
当然チャイルドマレスターじゃないし、あくまで二次元の少女のみを性的対象にし。
三次元の少女はジロジロ見ることはおろか、頭の中でさえもマスターベーションのおかずにしたことがない、俺(追記・夢の中で出てきたことはある)。
俺は現実に性加害をしてないのだから、犯罪も、倫理規範的な罪も、何もおかしていないよな?
誰も傷つけてないのだから、何の dis りを受けるいわれもないよな?
あの件を擁護してるリベやフェミっていうのは俺の観測範囲にはいないんだけど、まあ「誰もそんなこと言ってない!」っていう逃げ口上はいい加減卑怯と認識されるべきなんだろうな。
残念なことに、大抵の「藁人形」にはその通りの行動をする無能な味方が少なからずいて、そのことを自覚しながら反論していく必要があるんだと思う。(「セレクティブエネミー」という言葉はそういう文脈で生まれた言葉だろう。)「オタク」が無垢無謬だとは全く思わないんだけど、対人性愛のマジョリティ性には無自覚な人が割と多い印象。「男性」のマジョリティ性に無自覚な人と同程度にはね。
全ての陣営に言えることだけど。
『戦争プロパガンダ10の法則』はポリコレ論争にも有用な議論かも。
1.われわれは戦争をしたくない
4.われわれは偉大な使命のために戦う
5.敵はわざと残忍な行為に及んでいる
お互いに、ね。
すぐ確実に儲かる研究じゃなけりゃお前にとって、くっそくだらん研究なんだろ?それが基礎研究なんだが。
更にいうと、お前の思いつきで「面白そうだからビジネス化しようとしたら」とほざくが、お前の思いつきにしか過ぎん。実際世に出して何が足りないかの吟味は必要だろうが、修正はわずかしか許さずその吟味のための時間も金も出さんくせに。
お前の思いつきは常に正しくて、引っ掻き回して、それでうまくいかなければ、起業家が全て悪いし能無しなんだろう。まあ投資家の金なんてそんなもんだけど。
本当は世に出しての吟味が必要で、実現できれば開発力として認められることおあろう。だけど、投資家はすぐ確実に儲かることしか求めてないから、吟味が許されない。投資家の思いつきが正しいという無謬の存在らしいから。だから開発力がないんだよ。
失敗したら、やる気もないもともとやる価値もなかった人間が偉そうなことを言ってと世界の敵として石を投げるくせにな。そうやって石を投げて潰したことすら忘れるから「ただの能無しだけの世界だ!」となるのだが。中二病は中学生のうちに終わらせろ。
ベンチャー投資なんてそんな悪趣味な人形遊びの世界を感じるからみんな逃げるんだよ。お前が馬鹿にする人間もかけがえのない一つの人生だし、世界の敵なんざになりたくない。
それでITリテラシーがあれば開発力がつくだぁ?そもそもIT周りも実際は金と時間がかかるものなんだからこそ近視眼的な費用対効果でぶっ潰しているのだがな。
IT教育しようがまず金と時間をどうやってかけるかに立ち戻らんと開発力(笑)なんてつきません。そもそもお前が思いついたものは完全無欠で、実現しないのは起業家が悪いという根性をなおさんとむしろやる気のあるやつほど潰される。
まあお前は新規開発には向いてないんだから偉そうにほざくな。向いてねぇよ。ネタがないんならさっさと今の仕事やめろ。
お前みたいなやつを排除して、きちんと何に使えるかわからない基礎研究、使徒を着想したが顧客とマッチしてなかったり不完全な技術を磨く応用研究に金を出すことしか日本の復活はない。
https://bigissue-online.jp/archives/1079463289.html
ジーンズは米国を中心とする西側諸国による暴力的文化支配の象徴でしかないですし、それを履くことは西側諸国の提示する「正義」に隷従することを示すんですよね。
高校・大学でみんなジーンズ履いていて「この人たちに自由意志はあるんだろうか」と本気で心配になった記憶があります。
結局自由であるように見えて実際は西側の提示するイデオロギーに操られているのでは?と思っていました。
東側(今はロシアとか中国)のプロパガンダは粗雑で強権的で「楽しくない」ので効果のほどは薄いです。
一方西側のそれは巧妙で、娯楽とかファッションのような「楽しい」ものを使って文化侵略を行うので効果的です。
西側も無謬ではありません。民主主義の皮をかぶり新自由主義を世界中に蔓延させ、社会の存立基盤である基本的人権を脅かしています。
西側に隷従することをアピールするのは、主体的個人の「死」です。そういうわけで自分はジーンズは絶対に履きません。寝るときもスラックスです。
日本に関していえば、確かに米国による軍事的庇護のおかげで経済発展に注力することができ、世界有数の大国に発展したという事情はあります。
そういうわけで米国やそれに付随する事物(例えば日米同盟)を十把一絡げに否定する気はありません。
ただ「西側こそ正義」という考えの蔓延が、日本の実情にそぐわない形での欧米文化や制度(例えば日本型雇用を無視した新自由主義的経済政策)の導入を後押しし、結果として日本社会に禍根を残しています。
そういうことを防ぐためにも西側諸国の提示する価値観に対してはいったん咀嚼し相対化する必要がありますが、ジーンズをはくことで無意識のうちに「西側=善」という粗雑な意識が醸成されるのではないかと懸念しています。
最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。
歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。
すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。
さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石の思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石の意図」に接近しようとした。
これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。
聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である。
これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者のあなたが「八百屋さんの隣にあるポストに手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供が八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。
これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァの世界で公式に起きたこと」にアニメや劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダムの関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀「データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。
話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生のノートをもとにソシュール『一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。
聖書や漱石の研究など、ソシュール以前は「世界が言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンルの議論で酷使されすぎだと思う)。
それに対して、「言葉が世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回」である。ソシュールが言ったのはあくまで言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまりに革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義は1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてからの文学理論の最近半世紀である。
それまでの哲学(世界観と言ってもよい)においては、言語の研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたま」のものをいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?
よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題は一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも「日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学の講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。
これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しかし言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかしソシュールいわく言語と対象の結びつきは「たまたま」である。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語が言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。
冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。
もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。
二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野や富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズ、エラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者が調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。
しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野や富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ「作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたしの感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。
上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこの言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作とアニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観をいかに正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。
しかしそうした努力にもかかわらず、論理学や数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデルの不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。
かくして文学研究者らはそうした論理的数学的理論を縦横無尽闊達自在に引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。
しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日の文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに、自分の場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。
だから、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情=想像力こそ、人間が発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから。
最後に
これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探しています。Pythonとかほんの少しできます。よろしくお願いいたします。
俺は男だけど、「差別は必ずしも『悪』なわけではなくその妥当性は議論や対話によって決められるが、自らの無謬性を絶対に守り抜きたい人間とは議論も対話も行うことができない」での議論にちょっと納得できないので書く。
本来、個人がどういうふうに振る舞おうがそれは基本的に自由だ。周囲を警戒しながら夜道を歩こうが鼻歌を歌いながら歩こうが自由であり、女が夜道で男が現れたときにだけ警戒するのもまったくの自由だし、男が道で通りすがりの女の胸に目線をやるのも完全に自由だ。人には好きなように道を歩く自由がある。
それに対して「警戒された!」と男が騒ぐのは、女が「性的に見られた!」と騒ぐのと一緒だ。不毛すぎる。それに何の問題がある。好きに振る舞えばいいだろう。
だいたい、人を警戒することに何の問題があるのか。俺はもちろんカフェでトイレに立つときには財布を持っていくが、それの何がいけないのだろうか。そりゃ、友人とお茶してるときにトイレに行くならいちいち財布は持たない。「あんたは泥棒するかもしれない」と言っているに等しいからだ。しかしそれは礼節の問題であって差別の問題ではない。
男として生きていれば、夜道で女に警戒されたことは何度もある。しかしそんなの気にしなければいい。何度も言うが、個人の私的な振る舞いは自由だからだ。だから俺も気にしない。目的地が同じ方向ならそのまま歩く(速度差があるなら追い越す)し、同じアパートの住人ならこんばんはとか声をかけて開けてくれたオートロックに滑り込む。なんなら同じエレベーターにも便乗する。別にこちらにやましいところはないのだから、堂々としていればいいのだ。
良識あるはてなー諸氏は、それらの行動は女に恐怖を与えるのでやめるべきだ、とはまさか言うまいね。女の恐怖感への配慮を求めるなら、男の傷つきにも配慮したらどうだ?
もちろん、女は男の傷つきになんて配慮する義理はどこにもない。男が女の恐怖感に配慮する必要がどこにもないのと一緒だ。胸を張って堂々と男を傷つければいい。こちらも、女が恐怖しているかどうかとかは特に気にせず歩くので。
女性がコスメ売り場で一部の男性の行為により被害にあい、その結果男性全員を警戒せざるを得なくなるっていうよくあるパターンの話で
これまたよくある正論がこれです
悪いのは一部の男性なだけで男性全体を標的にするなといった旨のご意見ですね
女性と男性に分けちゃうと脊髄反射で反対しちゃう人は女性を子供に変えてもいいですよ?
おとなからなんらかの被害にあった子供が大人全員を警戒するようになる事を正論で抑え込むのが正解か?って話です
結局その正論って一部の加害者からの被害と対策を「狙われた属性だけで解決しろよ」って言ってるだけなんですよね
被害者に寄り添えるならば、一部の男性による被害が女性を警戒させ「その一部の男性の行いが」他の男性にも波及してしまったと認識できるんですよね
遠因の被害者の男性が近因の被害者たる女性に対して「お前らだけでなんとかしろよ。こっちにまで被害広げんな」ってキレてるわけです
それってバカバカしくないですか?根本の原因は一部男性なのに被害者同士が争っちゃってる
入店拒否とかまで差別されるならまだしも、多少警戒されるぐらいは被害者同士寄り添って理解し合えないものでしょうかね?
[B! 差別] 差別は必ずしも『悪』なわけではなくその妥当性は議論や対話によって決められるが、自らの無謬性を絶対に守り抜きたい人間とは議論も対話も行うことができない - 自意識高い系男子
[追記]
sotonohitokun ロシア兵士に殺されたからロシア人全てを憎むのは仕方ないよ派と、反戦で捕まったロシア人迄憎むのはおかしいよ派。この人は前者だが俺は後者で有りたいかな。
憎むのは仕方ないとは言ってませんよ?
反戦で捕まったロシア人迄憎むのはおかしいよという意見は私も同意です
ロシア兵士と反戦で捕まったロシア人のように居場所が違えばいいのでしょうけどね
売り場にくる一般男性と一部の面倒な男性の見分けは付きませんし、同じ場所に存在しています
売り場はいわば戦場であり戦時中なのでロシアウクライナで例えるなら…
ロシア兵士が一般的なロシア人の見た目に偽装してウクライナで暴れている状況でしょうか?
そんな状況で正論を言う人は
「今ウクライナにロシア人が入国しても一般ロシア人の可能性もあるのだから警戒せず受け入れろ派」ですかね
とかもありそうですね
その場合私は「今ウクライナにロシア人が入国したら警戒されても仕方ない派」ですね
ウクライナ人がそれを差別と認識できなくても…それすらも仕方ないかなと思えます
なんというか他の記事のブクマも見たりしていると正論一辺倒の人って売り場が戦時中っていう認識が薄いのかなと思っちゃいますね
私も別に戦後まで差別すべきとは思ってないですし、売り場の人も一部の面倒な男性がいなくなれば警戒しなくなると思いますけどね
CocoA "女性がコスメ売り場で一部の男性の行為により被害にあい"<-"一部の男性"を"一部の日本人"としないのは自分が加害者側にいたくないからですよねー。いつも私は被害者側で糾弾する正義の味方
こう言う話を増田に書くと無条件で女性だと思っちゃうんですかね?
私は男性ですのでその言い方ですと加害者側になるかと思いますし、ずっと男性の立場で書いているつもりでした
それと元記事が一部の男性と書いてあったのでそのまま書いていただけでしょうね。特に意識していなかった部分です
karaage280 母親に虐待された男が女自体に憎しみをぶつけていれば、ミソジニストと呼ばれるだろう。「被害者」だからって何もかも許されるわけではない。
何もかも許されるべきとは書いてないですよ
「入店拒否とかまで差別されるならまだしも、多少警戒されるぐらいは」と書いてます
whkr 「女性を子供に変えてもいいですよ?」って自然に書いちゃう人は、女性を未熟な子供と同一視している慈悲的差別に気付いてなさそう。
女性の話となると無条件で拒否反応示すだろうなと。上のお二人のように。
未熟ではないものに例える(反撃能力があるものに例える)と〇〇すればいいじゃんとブクマするのが目に見えているので
https://twitter.com/RusEmbassyJ/status/1500638790779809792
駐日ロシア連邦大使館が、こういう誰も信じないプロパガンダをツイートするのはなんでなんだろうと思ってたけど、
こういう人たち向けにやってるのか。
****************
ウクライナのゼレンスキーが、大げさに情報の拡散を懇願しているのはわかった。因みにロシアの報道官は「ウクライナの工作員が施設に火を付けた」と言っていた。
日本国内の報道からしたらまだ中立寄りなBBCでもコレか。プーチンが今の日本の報道見たらどう思うんだろう。
ロシア侵攻前から、ルガンスク,ドネツクへの攻撃によるミンスク合意違反でウクライナが挑発を繰り返しロシアが侵攻した。ハルキウ爆破も実はウクライナの誤射疑いの件もあるし、報道は慎重に見ていく必要があるね。
歪んだウクライナの歴史教育もあるかもよ。この人の言うソ連時代の大虐殺ホロドモールとは、90年前のソ連時代の農業集団化に伴う大飢饉で、被害者はウクライナ人のみではなくジェノサイドとは言い切れないようだよ。
何度か書いてるけど、先にウクライナがミンスク合意に違反し、ドネツク,ルガンスクに攻撃型ドローンなどで何度も攻撃をしロシアが侵攻した。今回その侵攻が国連憲章が認めた集団的自衛権の行使として紹介されている
西側の報道だし。例えば、ウクライナの傭兵部隊はネオナチだとか、国家レジスタンス基本法で民間人も兵士として戦えるとか、ロシア侵攻は集団的自衛権主張の可能性があるなどなどは、TVではまだ報道されてないかな。
モスクワの反戦デモで代表されるように、多分、ロシア国内のほうが戦争反対の人は多いと思うよ。ウクライナは、近代の歴史教育でもロシアを過剰に敵視してるから、どうなんだろうね。早期終結を願いたいんだが。
そもそも今回のロシア侵攻は、ウクライナのミンスク合意違反の、ドネツク,ルガンスク各共和国への繰り返される攻撃が発端なので妥当な条件とは思う。これはウクライナも飲める条件だと思うんだけど、拒否するの?
記事が意訳されてないのなら、ゼレンスキーは、ロシアのあの作戦行動を「核テロ」と国内外に煽ったのか。
ブコメ見ると、今回のロシア侵攻は、ウクライナのミンスク合意違反のドネツク,ルガンスク各共和国への断続的な攻撃が発端と言う点が知られてないのかな? /ウクライナはレジスタンス基本法で民間人女性も兵器所持可。
因みに、ウクライナ国内で、ゼレンスキーが釈放した軍事経験のある受刑者が、武器を持ってレイプしてるという米国人の告発があるよ。信憑性は知らんけど
まぁ、今現在でも、ウクライナはドネツク共和国への攻撃を継続してるようだし、プーチンの「東部の親露派保護には全面侵攻必要だった」の言い分はさもありなん。
そもそも、米国がウクライナへの武器供給さえ止めれば、ウクライナも傭兵部隊を使ったり、市民を兵士にしてまで戦う必要などは無いんじゃね?
日本ではまだゼレンスキーの言動を真に受ける人がいるけど、米国でも、もうそんな感じでもないかもよ。元米陸軍大佐ダグラス・マクレガー「ゼレンスキーは操り人形」
「ウクライナが無謬かわからない」と書けば「露助の手先め」とまだ咎めるはてブ。方や「ゼレンスキーは操り人形」「(ウクライナは)嘘として暴かれる」との元米陸軍大佐の弁を報道する米国FOXニュース
ロシアが休戦に応じないのは理解できる。が、仮にロシア側の主張が正しいなら、なぜウクライナは自国の国民の避難の妨害をするんだろう。他のニュース記事ではロシアは砲撃は「ウクライナ側によるもの」とある。
敵対的な反ロシア歴史教育、有事には一般市民も兵士になれ、軍はSNSで国民全員参戦を呼びかける。結果女性兵3万名以上。ゲリラ戦の訓練済みの可能性もある。一面だが、ロシアはそんなウクライナと戦争をしている。
”読み解く”と言うか、ウクライナの政権転覆が狙い(ドンバス地域の平和のため)なのは、侵攻前からロシア関連の記事でちょこちょこ書かれてたように思うけどね。
プーチンの主張の真偽はさておき、ウクライナは1994年までは核兵器保有国で、核兵器製造のための情報と環境もあり、特にここ10年程度は軍事力増強に極めて積極的な国家である事は承知しておいたほうがいいと思うよ。
つまりウクライナ側は、ウェブを使ったPRが遥かに上手という認識でよろしいか? / SNSだとロシア侵攻前にウクライナ領土防衛隊公式SNS(FB)で年齢制限無しで全員戦争参加の呼びかけを見たよ/日本もステマっぽいのがあるね
大量虐殺は知らんけど、ロシア侵攻前から、ウクライナはミンスク合意に違反しドンパスのロシア人への攻撃を継続してて、今でもやめてないみたいだよ。
えーと、多分、プーチンの要求は、ロシアのウクライナ侵攻前からほぼブレてないと思うよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4716381310305222050/comment/II-O
まとめると「ウクライナ政府をネオナチ政権」といろんな人が拡散してるが、インフルエンサーだとより広がる。と言う話でよろしいかな?
いやナチ全体が福祉国家的で無かったら、慰安婦制度が福祉国家に基づくものって発想どっからでてきたん?
って全然間違いなくないよ。綱紀粛正や性病予防はどの軍隊も気を使ってて、慰安婦制度はその一形態でしかないんだから。
勝手にずっこけてりゃいいけど別に全体主義でも説明できると思うよ。あるいは権威主義体制は民主主義体制よりも統治者の無謬性が求められるから、と説明してもいい。
もっと個別の話をするなら、日独両国は大規模な侵略を仕掛けてその統治が長期間に及んだからだね。
そういう状況では兵士の不満が蓄積し、被支配民を見下すので乱暴狼藉が多くなる。一方軍上層部は民心離反を恐れるので兵士の性管理を始める動機ができる。
で、軍政下っていうのは緩やかな無政府状態だからね。本国では法と体面を気にしてできない「軍による管理売春」ができてしまう。
日独の慰安所があったのは基本的に占領地だけ。朝鮮台湾から連れていかれた慰安婦はいても、朝鮮台湾に慰安所はなかった。そこは占領地ではなく、一応法の支配が及ぶ場所だからね。