「表現自体」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 表現自体とは

2024-04-17

anond:20240417023117

hapzeさん、ご返答いただきありがとうございました。


ブコメで”おっしゃることよくわかる”と書き込みましたが、増田はhapzeさんの主張を誤解していたようです。”キチ〇イ(クソフェミ)を揶揄しているのだから、細かいことグチグチいうな”

という主張だと思っていたのですが、返答みて認識のズレを感じました。誤解して申し訳ありませんでした。(ただ背景を考慮に入れても、hapzeさんのいう元増田の主張はわかりませんでしたが(元増田にキチ〇イを揶揄する以上の内容があるのか?という疑問))

また、増田の返答に対して。あれは自己矛盾しており、そのため何を主張したいのか増田自身でもわからない状態です。そのため、とりあえず無視していただけると幸いです。(言い訳1)

せっかく意図をくみ取ろうとしてくださったのに申し訳ありません。


元増田投稿は、ご存知かと思いますソフィーのアトリエフィギュアに関する騒動を受けてのものだと推測されます



→このような背景は見落としていたので、全面的増田が悪いです。深くお詫び申し上げます(安い謝罪)。(言い訳2)

 増田元増田の主張を過剰に単純化(キチ〇イは「3別」のいずれかを満たしていない)して解釈し、この主張自体妥当な指摘と考えました。

 しかしながら、元増田表現自体にもツッコミどころがあるように見えたので、それを指摘するブコメを書きました(これ自体建設的ではないかもしれない)。


それを踏まえると「男女関係ない」という主張は全体化することによる希釈のように感じられますし、そこが本題ではないように思えます



→これはいまだによく分かりません。発端の「そのシコいエロフィギュア現実の女を2次創作したもんなんよなぁ」という発言は、増田もとんでもないと思います

 hapzeさんにご教授いただいた増田も、上記発言に対して不明瞭な点を指摘しているものかと思います

 ただ、元増田が誰に向けて書いているのかわからず、何が言いたいのか釈然しません。増田には発言者の主語がでかいから、それを当て擦っているようにみえるのですが…


批判的(攻撃的)な表現も用いたため、不快にしたのであれば申し訳ありません。ただコメント自体撤回するつもりは今のところありません。お互いの観点の相違かと思います



→お気を遣わせてしまい、こちらこそ申し訳ございませんでした。撤回する必要は(もちろん)ございません。見方の違いについては非常に興味深く、勉強になりました。御礼申し上げます



言い訳1)あの増田はとりあえず”返答する意志がある”ということを示したくて公開したものでした。まともなものにしようとすると時間がかかりそうだったのと、増田自身が飽きてほったらかしにすることを防ぐという意味もありました。

      いずれにしろ、hapzeさんのお手を煩わせてしま申し訳ありませんでした。(増田でも”見てくれ”って書いてますね…すいません…)

言い訳2)”ソフィーのアトリエフィギュアに関する騒動”はうっすらと認識していたのですが、「またキチ〇イがなんか言ってんのか」と解釈してあまり気にしていませんでした。

2024-02-26

anond:20240226035937

お前らみたいなアンフェ表自戦士には悪意のみで言論でもなんでも無い石を投げてるかもなぁ

マジで嫌いで害悪と思ってるし

でも表現自体批判はすれど表自に投げるそれには到底及ばない悪意ってか批判してるとしか言いようがないな

2024-02-25

H&Mの広告問題だって言ってる人たちさ、

COMIC LO編集部より読者の皆様へ | 茜新社

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.akaneshinsha.co.jp/news-ad/21038/

↑この記事で圧倒的に★を集めているトップブコメが、以下のもの

hutaai774a7b

前段階として豪の保育所で91人1600件超の児童性的虐待発覚、社会問題化→H&Mが女児服を「性的魅力で振り向かせよう」と宣伝炎上撤回日本人LO作家が茶化して炎上の流れ。2次と現実の切り分けが出来ていると言う欺瞞

2024/02/24 リンク yellow156yellow



H&Mが女児服を「性的魅力で振り向かせよう」と宣伝炎上

はてブでもこれがあたか事実のように語られているが、Buzzfeedが続報したように、

この広告攻撃し、炎上を煽ったメディア評論家のメリンダ・タンカード・リースト氏の批判投稿

女児服を性的に~」みたいな内容は別にないようである

Buzzfeedによる続報(訂正?)記事

H&M、制服姿の女児広告撤回 ⇒ 目立った抗議理由は「性的表現」よりも「ルッキズム助長」だった(オーストラリア

https://www.buzzfeed.com/jp/kenjiando/hm-girls


そもそも初報の段階での小宮先生による解説も、戸惑い含みというか、歯切れの悪いものだったよな。

小宮氏:児童への性的虐待に対する危惧女性がより性的対象にされやすい現状への問題意識などが議論ポイントになっていると考えられる。

広告一見すると、女の子性的対象にする描き方はされておらず、むしろおしゃれをしようという女の子主体性が描かれているともとれる。

しかし、だから問題ないという話にはならない。あくま広告には作り手がおり「どういった価値観表現しているのか」が問われる。



小宮先生初見で「これのどこが問題なんだろう?うーん、でも批判正当化せねば」と頭をひねったであろうことが伝わってこないか

しかしメリンダ氏の投稿は「性的虐待に対する危惧」ではなくアパレル企業子供にまでルッキズムを煽ること」への批判が主である

小宮先生ちょっと困って「などが議論ポイントになっていると考えられる」といううすらぼんやりした表現を使ったのではないか

それでも広告狩りを正当化したい人々が「Make those heads turn in ~という表現性的ニュアンスが強い」などと言い出したが、

記事を見る限りオーストラリアではこの表現自体は別に問題視されていない。

この光景ももはや何度見たことか、日本ネット民の悪い病気の一つだと思う。

だいたいさ、はてブ最初ホッテントリ入りした以下の記事ブコメを見てほしい。


女児性的対象化につながる」H&Mの広告批判殺到→削除し謝罪 消費者広告とどう向き合うべき?識者に聞いた

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/maidonanews.jp/article/15133686

性的対象云々以上にルッキズムを煽ることへの批判でしょ。とくに女児にオシャレに対するプレッシャーをかけることが正しいのか。


女児は思った以上に気を付けて見ておかないとすぐにおしゃれを通じて承認欲求を煽られる事で摂食障害危険な整形手術にシームレスに繋がってしまう現状を知ってるかどうかでこの主張の理解度変わると思った


性的じゃなくて、性差別的な点が批判されてるわけでしょ。そしてH&Mもその指摘を理解したと。


大人視点子供押し付けてないかという問題だと思う。女の子から見てこの広告は素敵に映るだろうか?個人的には子供より大人・親へのアピール感が強くて微妙


批判は正しい。ナニを表現したいか、そして、広告からこそ、受け手評価がすべて/印象としては、女児を素のまま広告塔にする意図が透けて見えるから気持ち悪い。これでケバケバしくヘイクしてたら気持ち悪くない


男子2人の親だけど、子供消費者に仕立てあげるマーケティング活動が年々対象年齢を下げていることに危惧を覚る 経済的自立が可能な年齢を対象にして欲しいと、子供が接する各種メディアを横で見ていて思います


これくらいでと思うかもしれないが、その“これくらい”が無数に積み上がって若い女子の無理なダイエットや拒食過食整形などに繋がるので。男子未成年脱毛や整形希望が増えて親が困ってたり他人事じゃない。


表現の自由と、ルッキズムに煽られてすぐ摂食障害やら港区女子になってしま女子リスクと。家庭で教育したくとも外の世界で友人や雑誌漫画アニメ広告から影響を受けてしまうのよね。



性差別である」(男児モデルがいないか???

大人価値押し付けている」

子供消費者にしようとしている」

女児ルッキズムに煽られて摂食障害になる」

女児を素のまま使う広告意図が透けてみる。ケバくメイクしてればキモくない」(これが一番意味不明。素のままか???

言ってることバラバラじゃねえか。

なのに全員が「これは誰がどう見ても◯◯って意味でしょ。普通わかるでしょ。ロリコンどもはとぼけるな」ってテイなのがまたよくわからん

非難してる人たちも「正直どこが問題なのかよくわからないが、白人様によるリベラル的な立場から性搾取批判っぽいか肯定せねば(使命感)」みたいになってないか

それの行き着く先を想像してみてほしい。STARTOなんか即廃業やで?

2024-01-13

anond:20240113105719

ソシャゲという表現自体時代に即してないレッテルワードから妥当じゃないと思うが

ガチャありゲーだからといって全てが性悪運営と貧しいゲーム内容というわけでもなく

ガチャなしゲーだからといって全てが愛される開発でリッチゲーム作りをしてるわけでもない

前者の上澄みはゲーム史上最高額の開発費かけてコンシューマ超える質・量の追加コンテンツを月ペースで作ってるし

後者の下はガチャ以上に悪質なランダム強化アイテムとかで際限なく搾り取ろうとしてくる

2023-12-27

anond:20231226123123

この増田も私dorawiiが書いた。

誤字は完全に偶発的なミスで、それ以外で読みづらいのはたぶんハッタショの影響だと思う。

しろもやもやするのはたとえば

「彼は泣きながら家を出た彼女を追いかけた。」という趣旨の内容を口頭で表現するときみんなどうしてるかということだ。

これは文章だと意味に応じて

それぞれ「家を出た彼女を彼は泣きながら追いかけた」「泣きながら家を出た彼女を彼は追いかけた。」と書き分けられるべきことらしいのだが、

口頭でそうやって表現自体を意味に応じて器用に変えているとは思えない。

多分イントネーションパターンをこの2パターンで使い分けてるんだよな(あるいは一文で言わず二文以上で表現する人も多いかもしれない)?

音声言語としては必ずしも要求されない表現の使い分けを文章において一律に求めるのは酷だと思うんだよね。

話し言葉としてはわかりにくいの域に入ってない言い回しを使う人も、同じことを書き起こしたらわかりにくいの域に入ってしまうってだけの話なんだから

2023-12-25

ハゲなじり論法誤謬

「私はいいけど、他の人が傷つくかも知れないから」論法は好きじゃない。


記事の要旨:

 「私はいいけど、他のひとが傷つくかもしれないから」論法は(不当な)説得力ドーピングである


記事へのコメント(上記反論):

 「○○という表現リスクがある、こういった属性の人が不快に感じるかもだから」という意見意味があるかと。

 私自信はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体はリスクがあるように見えるので言いますね。


記事へのコメントの要旨:

 「○○という表現リスクがある、こういった属性の人が不快に感じるかもだから」という意見は、(不当な)説得力ドーピングではない(意味がある)。

 例として、「私自身はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体はリスクがあるように見える」、

 したがって、「私はいいけど、表現自体はリスクがあるように見える」という指摘は、(不当な)説得力ドーピングではない。


この反論は、元記事重要論点無視している。

 そのため、本来適切でない「ハゲの例」を引用してしまっている。


論点

 元記事の主張は、ある表現への反論において、

 「ほかの人が傷つくかもしれないから」という論証を行うことで、"説得力の添加"を行っており、それが問題なのだ、という点である

 しかし実は、誰かをハゲ表現することは、「私、あなた、もしくは特定の誰か、もしくは不特定の誰か」を前提するまでもなく、リスクある表現であることがわかっている。

 したがって、「私はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体はリスクがあるように見えます」という主張は、

 "「私はいいけど」論証による説得力の添加"が行われていないことになる。(どこかの禿げた他人を前提せずとも、ハゲなじりは失礼である。)


 なんらかの他人を前提せずとも、ハゲなじりはリスクがあるのだから

 もともとの議論で強調されている「なんらかの他人規定して"説得力を添加"することの是非」の話を無視した例示となっている。


コメント検証

 「ある属性の人が不快に感じるかもしれないから、指摘することには意味がある」

 この意味においても、「ハゲなじり」の例示は不適切である


 実は、ハゲとなじられることに不快感を覚える人は、「実際に禿げている人」にとどまらない。

 「今現実に禿げていない人」であっても、もしくは「禿げているかどうかすらわからない不特定多数の人々」を指す上でも、不快感を覚える可能性はある。(というか、高い。)

 すると、「現実に、なんらかの属性(ハゲ)を持っている人が実在するかどうか」すら関係がなく、

 ハゲなじりはリスクある表現であるということがわかる。

 したがって、「ある属性の人が不快に感じるかもしれないから、ハゲなじりの不適切性を指摘しますね。」という説明は、

 その論証が"「誰かを規定する手法に基づく説得力」の添加が成されていない(ハゲなじりはその属性を持つ対象実在していなくても成り立つ)"がゆえに、「私はいいけど」論法擁護になっていない、と言える。


まとめると、

 誰かをハゲとなじるのは、特定の誰かであろうが、不特定の誰かであろうが、

 また、禿げた何者かが実在するかどうかにすら無関係に、失礼で、リスクある表現である

 これは、「○○論証により、ハゲなじりはリスクがあることが分かる。したがって○○論証は(リスクを論ずる上で)健全な論証である。」と言ってるのと変わらない。

 これは後件肯定という形式的誤謬である


 「ディズニーランド論法」、「(私はいいけど)ディズニーランド好きな人不快に思うかもしれない表現は慎むべきだろ!」という論法においては、

 「不特定対象」を規定することで、"説得力の添加"を行っており、そのような論証は本来濫用されるべきではない(と元記事は主張する)。


 一方、「ハゲなじり論法」、「私はハゲとなじられても何も感じませんが、表現自体にはリスクがあると指摘します」という論法においては、

 私はいいけど論法問題である"何者かを想定することに基づく説得力の添加"が実質なされておらず、私はいいけど論法擁護になっていない。


 上記の両方の例において、「私はいいけど」論法健全論法であることは意味されない。

「い抜き」言葉、つまり「やっている」を「やってる」と言ったり書いたりする例は、文法的には間違いとされて(い)ますよね。こういうことは先に話すことのなかで起こるのでしょうか?

まり動詞終止形連体形と同じ形で書くのはもともと文法的には間違いだったわけですが、これが正しいとなる過程のなかでは、連体形と同じ形で表現することは、書くことにおいてではなく話すことにおいて先に始まったのでしょうか?

それで話しの中での使われ方に押されて、書くときにも使われるようになり、なし崩し的にそっちの方が文法的に正しいということになっていったということなのでしょうか?

い抜き言葉話し言葉の中でいくら多数派になったとしても、それだけでは文法的に正しいということにはなりませんか?必ず書き言葉世界でも圧倒的に多数派になる必要があるのですか?

どうにも「文法的に正しい」という表現自体が腑に落ちないのです。誰かなんの権限でもってなにを基準に正しいとか誤りとか断じられるのかと思ってしまうわけです。

文法母語話者表現なかに見いだされる法則、なら、「い抜き」言葉はすでに法則と呼べるレベル通用してると思うのですが。それを「いや、文法に即していない」といえる根拠ってなんなのでしょうか?たぶんその根拠に立つと、終止形連体形で表すことだって文法に即してない」ということになるように思えるのですが…。

2023-12-14

非実在青少年ポルノ規制論を馬鹿にする風潮について

https://courrier.jp/news/archives/347289/

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/courrier.jp/news/archives/347289/

記事は決して出来の良い記事ではなく、その点はちょっと困るところもあるのだが、いわゆる「非実在青少年ポルノ画像等の規制論についてインターネット、というか少なくともブコメでは、およそ話にならないと馬鹿にする論調が人気だ。もちろん、規制の厳しい欧米各国で必ずしも児童被害が少ないとは言えないことや、他の架空違法行為規制との兼ね合いなど問題はあり、当該表現自体直ちに特定人の権利侵害しているものではない以上、法規制には慎重であるべきであることには私も異論はない。ないのだが…。

この手の規制論が児童人権保護する立場の人たちから度々出てくるのは、現実児童を食い物にするような事例に対峙する際、いわゆる「グルーミング」的な問題によく対峙することになるためだろうと思われる。十分な判断力性的知識がないこと、あるいは、愛情への飢えのようなもの犯罪者に利用され、「自発的に」ポルノ画像を撮り、送らされるというような児童の事例は枚挙にいとまがない。そのような事例に「他の子もやっている(ように見える)」ことが影響していないだろうかというと、していないとまでは言えないのでは…となるのは無理なからぬところのように感じる。例えば万引きが「普通」の環境で育てば万引きをする子になりやすいということは感覚的には否定しがたいのではないか

もちろん、データがあるのかというと、ほかの社会的な影響を除いてそのようなものに触れることの効果だけをデータとして出すのは困難であると思われるため、根拠はある程度感覚に頼るしかないところはある。その点でどうしても弱いところはあるのだが、それでも児童保護という一定パターナリズムが許される分野において、露骨表現くらいは規制するべきではないかという議論が、馬鹿にするべきものだとは思えない。理由手段との対応関係を考えても、これを認めたらあれもこれもと際限なく規制されるディストピア、みたいな話にもならないだろう(非実在児童ポルノ規制される欧米日本と比べて顕著に表現の自由が規制されている社会に見えるだろうか。)。なんにしても、とにかく相手馬鹿にするところから始めるような議論が人気になる風潮は何とかならないのかと今日もふんわり悲しい気持ちになるところである

2023-12-11

ある書籍出版するべきではないという主張にも表現の自由はある

https://querie.me/answer/ST8s9I6rozezVXc5z41p?timestamp=1702007027

https://b.hatena.ne.jp/entry?url=https%3A%2F%2Fquerie.me%2Fanswer%2FST8s9I6rozezVXc5z41p%3Ftimestamp%3D1702007027&_www_via=login

既に回答欄で必要なことは書かれているが、「有害な本を出さな道徳的義務があるに決まってますよ。」等の表現にひっかかってしまう人はいるようだ。誰がその正しさを担保するのかというような噛み合わない指摘がブコメには散見される。そもそも質問自体が少し混乱した内容になっているように思われるので、前段の「事実誤認や著しい誤りがある本は出版するべきではない」という主張について、少し内容を変えて「(ある書籍を)出版するべきではない」という表現表現の自由が認められるだろうかという観点から考えてみたい。

まず、おそよどのような主張であれ、その内容に一切かかわらず、言う(表現する)ことが正しく、言わない(表現しない)ことが間違っているという価値観を持っている人は、恐らくいないだろうというところから始める。「どのような」という中身は、回答者のいう「デマ」や「他人に害を与える」内容のものかもしれないし、名誉棄損(他人に害を与えるに入るだろうが)やステマ広告かもしれないし、ある表現をするべきではないという内容の表現かもしれない。その範囲に関しての価値観はそれぞれに違いがあっても構わないし、むしろ違うはずだが、およそ常に表現がされることが正しく、されないことが正しくないという主張は、誰にも支持されないだろうとういことは前提にできると思う。

その中で、具体的にどの表現がされるべきでないものなのかということについては、社会構成員間で価値観の違いがある以上、社会的に決定せざるを得ない。その決定は、各々の異なる意見表現によって交換すること、すなわち、議論によって形成されていくべきだ。そうやって、名誉棄損や著作権法違反への表現規制は認められてきたわけで、その議論担保するからこそ表現の自由は民主主義社会において重要性があると言える。つまり表現規制についてもその限界議論によって定められるべきだということも前提にしていいだろう。

ここで、「出版表現)するべきではない」という主張に表現の自由が認められないとすれば、表現に関する規制について、常に片側の議論の主張を欠く状態になってしまう。無論、あらゆる表現において表現されることに価値があるとか、表現すべきではないことについては議論余地なく決めることができるという前提があれば、そのような表現規制も許されるだろうが、これは今まで書いてきた前提とは反する。つまり出版するべきではないという表現にも表現の自由は認められ、一定尊重がされるべきであるに決まっている、ということになる。

その上で、質問者に戻るのだが、出版するべきかどうかという判断に「事実誤認や著しい誤りがある」かどうかという観点を入れた場合、いわゆる思想の自由主義市場問題、すなわち、誤っているかどうかという判断自体表現を戦わせることによってしか得られれないものではないかという問題が出てくるという側面がある。その点から、およそと事実誤認等を理由にした表現の事前の抑制は行うべきではないという主張はあり得るだろう。ただし、医薬品に関する虚偽の効能広告規制のように、実際には事実に反することを理由法規制される出版行為がある場合もあることからかるとおり、少なくとも現行法解釈上は思想の自由主義市場的な価値はほかの価値との相対的な衡量の中で認められるものにすぎない(出版という一行為態様が禁じられるということが直ちに表現のものを封じられるわけではないということも考慮すべきだろう。)。抽象的な議論を離れ、個別の事例の判断になれば、消費者保護等の観点から規制をおよそ認めないという人は少ないのではないかと思われ、そうだとすれば、その限界判断批判を含めた議論の中で決められるべきという上述の議論に戻ることになる。

インターネット上では、いわゆる反キャンセルカルチャー的な文脈から批判表現自体ですぐに表現の自由を持ち出し反批判を行う意見散見されるが、批判表現表現の自由で認められるべき重要表現である。少なくとも、近時話題になっている角川の事例においては、表現の自由な交換による意思形成を超えた、事実上の表現規制的な圧力がかかったとは私には到底考え難い(まあ、そう考えたい向きがいることも仕方がないことだなとは思う。)。他方で、個人ツイッター(X)上の大したことのない発信に鬼の首でもとったかのような大量のリプライが付くような場合など、この時代において考えるべき問題存在しないわけでもない。批判表現という表現の自由にとって重要表現一般論で封じ込めて「論理的にすっきり」しようとするのではなく、一つ一つの事例にきちんと頭を悩ませることが重要なのではないかとふわっとさせて終わりたい。

2023-09-25

anond:20230925143536

横だが、「基準にする」という表現自体曖昧であって何を意味するか明確ではないのだから、その表現書き手読み手の間に解釈の相違が生じているというだけのことではないのだろうか?

それとも「基準にする」という表現意味するところはそんなに明確なのだろうか?

2023-09-23

anond:20230923150756

そっちのほうが反応が良いなら、市場原理的には勝手表現自体がそっちの方向に向かう訳で、ポリコレによる炎上とか自主規制とか批判ってそもそも要らないってことだよね

それなら文句ないんだけど

2023-08-29

anond:20230829162724

なんで表現自体ではではくそ頒布の可否について言ってるのにそれが憲法違反になるの?根拠条文は?公開の自由表現の自由に含まれるか?

2023-08-24

anond:20230824211657

君らも10年前で思考価値観が止まっている

男は性欲を所与のもの絶対のものと思いすぎ

必要悪からこそ最小限に留めるのが理想のはず。

性欲は愛する相手にだけ向けてれば十分。

分別が荒削りで未熟だった子ども時代に留まらず、男は成長すべきだ。

エロ文化肥大化したのに、理性の文化は未発達のまま。

男にしても女にしても人それぞれであり「男は」という表現自体NGだし、

人の在り方に正しい姿、理想の姿、そうあるべき姿が存在するかのような表現包摂多様性否定NG

 

性欲の強さ、その発露の仕方、理性や抑制力の強さもすべて個々の欠陥ではなく特性であり、

それがもし現代社会において著しい不適応を生じるのであればそれは医療社会サポート解決されるべき

個々の自助努力で「あるべき理想の姿」になれる、なるべき、という考え、そもそもそんなものがあるという考えは時代遅れ

2023-07-11

「~の方が倫理的」という表現自体民族を問わない唯一絶対グローバル倫理存在する前提で語られていて文化的多様性否定していて非倫理的

2023-06-12

anond:20230611130551

元増田の考えだと「不快お気持ち」は実害ではなく「プール利用者が減る」は実害としてカウントなのか

不快お気持ち」が一定数集まり、行動に移ったら「プール利用者が減る」

アツギタイツの件とか他のもそうだけど、そもそもターゲット一定不快に思って意見を飛ばせば公式が動く」ってのは商業のものである限り仕方ないし、そこ自体は表自戦士規制側も個人ではどうしようもないことは事実

まり投票と同じようなもんで、表自側もやってることは規制側と同じように見える(お互い自分基準だ、と主張しているだけ)

商業展開(公共の場)から外れて表現自体規制されるのは別問題だし、表自側の怒りに正当性があるのはここからな気がする

2023-06-09

anond:20230609180134

表現自体は認めてるでしょ。中学生参加させて県営公園でやるのはそりゃ抗議が来るよねっていうだけで。竹書房の近くに民営プールないの?

2023-06-05

anond:20230605200518

「ぶつかりおじさん」の反対語は「やさしいおじさん」や「遠慮するおじさん」など、相手にぶつからないように気を配るおじさんのような表現が考えられます。ただし、「ぶつかりおじさん」という表現自体が比喩的意味合いを持つことが多いため、厳密な反対語とは言い難いかもしれません。

2023-06-01

anond:20230531234800

弁護士ワイ、開示請求やってペイするかなあと疑問に思う。弁護士報酬報酬でいただくとしても、依頼者ペイするかな。

それはともかく、名誉毀損ビジネス仮称)が違法と言えるかを検討してみる。

まず、依頼者の違法性だが、不安を煽ったりコンプレックスを刺激したりする表現自体直ちに違法とは言えない。金商法風説の流布とか、特定個人の哀しき過去暴露したりとか、医薬品広告をしたとかなら話は別だが。

名誉毀損ビジネスという目的があったからと言って、適法表現違法になるということはあるまい。違法表現違法性が阻却される場合はあるけど(刑法230条の2)。

違法ではない表現をした者に対して、侮辱名誉毀損脅迫を行った場合不法行為ということになるだろう。ただ、名誉毀損ビジネス目的がもしも認定されたら、損害額を控えめに算定されることはあるかもしれない。

過失相殺という構成も考えられるが、ネット名誉毀損はやる方が積極的に関わり合いに行ってるので、過失はちょっとそぐわないと思う。

では弁護士はどうか。名誉毀損ビジネスを受任することが弁護士法56条の品位を失うべき非行に該当すると判断されないとまでは断言はできない。

何でもかんでも開示請求していたら、権利濫用を手助けしてるということになるのでヤバいかも。

しかし、開示請求が通りそうなものだけ選んで大体はちゃんと通っているというのであれば権利濫用とは言えまい。開示されたということは、権利侵害の明白性があるのだから示談交渉しても悪いとは言えない。

つらつら書いてみたけど、名誉毀損をやる方がリプライ等を送ることで積極的個別の関わりを持ちに行ってる点で普通当たり屋とは異なると思われ、わざわざ名誉毀損をした方が悪いと言うしかいかもね。

2023-05-22

anond:20230522123222

2000年前後から美少女キャラ採用した専門書が増えて「萌え本」とか言われてたこと考えると、世間に「美少女キャラ」=「萌え」って認知が定着したのはそのへんじゃない?

萌えって表現自体1990年代パソ通でも使われてたけど、萌え対象は必ずしもキャラではなくて。「燃える」がかっこいいものに対する気持ちが高まった時の表現というのがまずあって、可愛さがあるものにたいして気持ちが高まった時に「萌える」って表現つかってたと思う。

2023-05-01

プログラム著作権についての判例を読んでみたが、標準的規約に従ってメンテナンスやすコードにすればするほど

思想又は感情創作的表現したもの

から離れて、単なるアルゴリズム表現したものになるっぽい。

お前らも、お前ら自身しか理解できないような、独自思想表現したプログラムを書いた方がいいんじゃないのか。

https://www.ip-bengoshi.com/archives/3308

プログラム著作物性があるというためには,指令の表現自体,その指令の表現組合せ,その表現順序からなるプログラムの全体に選択の幅があり,かつ,それがありふれた表現ではなく,作成者個性,すなわち,表現上の創作性が表れていることを要するといわなければならない。

ゲラゲラ笑ってる」を真に受ける人たち

こういう人たちをなんとかしないとインターネットはよくならないと思う

まあ元の表現自体よくないインターネットだが、そういう問題とは別に、こう…

2023-04-25

anond:20230425205317

失礼ながら、萌え という表現自体ほとんど見られなくなってると思う。

ブヒるのような代替表現でさえ死語になってしまった。

例外フェミニスト

フェミニストけが批判文脈萌えを使う。

それに対して大衆萌えを使わなくなったのは、彼らも心の奥底ではそれが女性に対する見下しの感情支配欲の発露から来てるって理解してるからじゃないかな。本当は性的消費が何か解っているからこそ、指摘される度に刺さってきた。だから表立って使うのを諦めた。

2023-03-09

anond:20230309121623

5兆語も学習してるなら日本ことわざとき全部網羅しそうなもんだけど…

売り家と唐様で書く三代目とは?

「売り家」と「唐様」は、江戸時代浮世絵に登場する「三代目歌川豊国」という浮世絵師の作品によく見られる表現です。彼は、歌川豊国という名前の三代目であり、「売り家豊国」として知られることもあります。また、「唐様豊国」としても知られており、唐獅子唐草模様など、中国風のデザインを得意としたことから、「唐様」の名でも呼ばれます



そうではなく「売り家と唐様で書く三代目」ということわざがあるそうですが知ってますか?

おっしゃることわざには聞いたことがありませんが、「売り家と唐様で書く三代目」という表現自体は、同じ意味で使われることわざである「三代続いたら貧乏神も逃げる」と同様、何かが三代続くと繁栄するという意味があります

2023-02-17

anond:20230217071511

レスポンチバトルって言葉は既にふたば界隈では使われてるから

検索しても意味の手がかりすらない言い回しよりはマシだろ

いやどっちがマシとかはどうでもいい

フルーツポンチとか穴あけポンチエントリーしてしかもそれが美味しいってどういう意味なんだよってこと

穴あけポンチと言わなかった理由じゃなくて表現自体意味がわからなくてもやもやしてるのよこっちは。

ついでに故事成語の由来みたくそ表現が成立した過程も教えてほしい。たとえば漁夫の利の由来知ればそれがその意味で使われるのも納得みたい感じのね

2022-12-10

anond:20221210132542

いままでのトラバ読んで見て思ったことざっくりまとめれば

ノーベル文学賞表現自体巧拙選考基準にしてるのかということが思われた。

前は中南米のが選ばれてた気がするけどあれにしてもそのメッセージ性が評価されてたんだよな。表現自体じゃなく。

小説という意味での文学定義を考えるのにノーベル賞様相を土台にすることには議論余地もあろうが、まあそのあたりがひっかかるわけよ。

結局小説に誌的な技巧は必ずしも必要なのかねって。

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