はてなキーワード: 2002年とは
新自由主義が流行ったというのは要するに小泉純一郎政権期のことだろう。
在任期間は2001年〜2006年だから、氷河期世代(1970年〜1982年生まれ)が主に20代の頃である。
https://www.crs.or.jp/backno/old/No569/5691.htm
20歳代 | 30歳代 | 40歳代 | 50歳代 | 60歳代 | |
---|---|---|---|---|---|
全期間 | 42.5 | 44.8 | 44.2 | 47.5 | 56.7 |
田中更迭以前 | 62.2 | 61.0 | 61.1 | 63.9 | 67.9 |
田中更迭以降 | 37.5 | 39.0 | 38.4 | 41.8 | 52.3 |
20代だけが特に小泉を支持していたとは思われない。むしろ若干低めである。
ただし他の政権ではもっと低かったので、相対的に小泉政権は若者の支持率が高かったとは言える。
https://www.mdr-j.co.jp/jisyu/seiji/index.html
若者の政治に対する意識2「小泉内閣を支持しますか」(2002年2月)
https://www.mdr-j.co.jp/jisyu/seiji2/index.html
https://www.kkc.or.jp/data/question/00000034.pdf
◆それが将来実を結ぼうと結ぶまいと、意思のあるフリーターには賛同いたします。何か目的があり、そのためにがんばっている今のフリーターは全く問題がないと思います。そうではなく、楽な道を選んだ結果のフリーターが増えるようならば、後々大きな社会問題としていろいろな方面で顕在化してくるように考えます。確かに、近年老若問わず「我慢」することに耐性がない人が増えているのは事実のように感じていまして、その大きな原因は個人的に(1)親の教育、(2)学校・企業の教育、(3)それを許容している社会環境・制度にあると思っています。ある意味、法で取り締まれる分野でなく、モラルで守られてきた範囲であるがため、余計に難しい課題のように感じるのですが。
◆今の会社は正社員減少を進めることによって企業を建て直している。一方フリーター・パート・派遣社員等の流動的な労働力を歓迎している。現時点だけを見ればいいのかもしれないが、将来的には問題は大きいと思われる。新しい安定した雇用を生み出せたらと強く思う。
◆この春から、新入社員として「働く」ことになりました。仕事があるだけマシという思いもありますが、入ってみて技術や知識の面でまだまだな自分を突き付けられた思いです。日々の出来事に追われ、余裕のない自分がやっていけるのか、スキルを高め、役に立てるのか不安いっぱいのスタートです。大学時代、自分としては一生懸命勉強していたつもりなのですが、仕事で必要なものとの分野としてのギャップも感じます。昔、大学は出たけれどという言葉がありましたよね。時間に余裕のあるうちに、何が必要なのか情報を得ていれば、少しは違ったのかなと思う新入社員です。
◆若年のうちは気楽にフリーター生活でもやっていけるが、将来を考えると不安が大きい。
◆企業の人件費を抑える為に、派遣を多く採用してしまい、そのため社員にならないフリーターが多くなってしまったりと悪循環ではあると思う。最近、がんばっても給料も上がらないし、評価もされないし、給料体系は学歴で決められてしまうので、社員としてのメリットがないと感じています。
◆現在大学3年生で就職活動を行っているが、希望する企業はどこも募集人員が少なく、面接をする前の書類選考で落とされているところがほとんどで、紙面でしか判断されていないという
ことを悲しく感じる。やりたい仕事があるのに“できない”ということで、どんどんやる気がうせる。このまま希望している職業に就けなかったら、妥協して別の仕事を探す人もいるが、私はバイト・パートという形でもやりたい仕事を選ぶと思う。しかしこの考えは親は反対で、何でもいいから就職しろと言う。現在もまだ進路は決まらない。
◆昨年就職活動を行い、この4月から社会人としてスタートを切りました。就職活動を始めるまでは、若年のフリーター増加や早期退職には否定的に考えており、本人の働くことに対する意識の低さ、忍耐力の無さが主な原因と思っていました。しかし就職活動を通して、自分の希望する会社に入社できる学生は一握りという現状を目にし、学生の意識を変えるだけでは問題は解決しないと実感しました。
◆私自身、新卒で入社した会社を1年で辞めており、今回のアンケートは興味深いです。私について述べれば、会社を退職した理由はやはりがまんが足りなかったという事だと感じておりま
す。
◆私も小さい頃から、両親共働きの家庭で育ちました。そのためか、大学卒業後は働くのが当たり前だというように思っていました。やはり、親の姿を子供に見せる(コミュニケーション)
ことが、とても大切だと思います。
ソースを出してくれ。
日本がラストチャンスとばかりに開始した「日の丸半導体」ラピダスに多大な公費が追加されていることが話題を集めている今日この頃。
心無い専門家たちからは必ず失敗するだの金ドブだの批判殺到中だが、本当に日本(経済産業省)主導の国家プロジェクトは今まで成功しなかったのだろうか?
この記事では主に経済産業省、旧・通商産業省が中心となって始めた国家プロジェクトを振り返る。
大規模集積回路(LSI)の研究、特に基礎研究に力を入れた国家プロジェクト。
当時、半導体弱小国であった日本で700億円以上の金を基礎研究に投資するのは挑戦的であったが、電子ビーム露光技術などの研究レベルのアイディアを実用・量産レベルに持ってくることに成功。
よく「日本は半導体生産はダメだが、生産機械はまだシェアがある」というが、この40年前の国家プロジェクトの技術的成功がかなり大きく、現在でも半導体製造機械はこのプロジェクトに関わった企業が上位にいる。
この成功をバネにして1980年台の日本は半導体生産の8割を占めることとなった。しかし鮮やかすぎる成功体験と日本政府の政治的脆弱性により、90年台に入ると見る影もなく没落したのはあまりにも有名。
通産省は前述の大規模集積回路(LSI)の成功体験を強く意識し、コンピューター技術の「進歩段階」は大規模集積回路が「第4世代」、そしてAI技術が来たる「第5世代」であると想定した。
「仕様書を読んでプログラムを作ってくれるすごい機械」を目指し、500億円規模の国家プロジェクトに踏み切った。
しかし当時の通産省は何もかも見通しが甘かった。大規模集積回路の次がAIというのも謎の括りで、ハードウェアとソフトウェアを混同していた。そもそもなにを研究するのか?という具体的な内容すらあやふやで、やがてはスパコンをよせ集めてもそんなものは出来ないという技術的課題に直面。
現在でいう自然言語処理などのソフトウェア開発を散発的に行い、難航。
それぞれが独自のプログラム言語を作ったりOSを作ったりしたが、特に統合されることも活用されることもなく、「ソフトウェアはむずかしい」ということだけが判明し、放棄された。
なお、唯一の結論「ソフトウェアはむずかしい」ということですら後に生かされることはなかったが、通産省は成功したと主張している。
「10年後にはソフトウェア技術者が60万人不足して、日本は技術的に取り残される–––」
この現代でもよく聞くようなフレーズに慌てた日本産業界は、ソフトウェア技術者の育成に熱い視線を向け始めた。
そこに通産省が入り込むと、さまざまな思惑が一致し、ついには国家プロジェクトとして250億円を投入するΣ計画が発足。日本はソフトウェア技術者の天国となる予定であった。
ソフトウェアという実態の見えないものに予算をかけることへの抵抗感からか、対象は主にハードウェア系企業に集中。
ソフトウェア技術者を増やすという本来の目的は曲解され、最終的には「安価な計算機を普及させる」というハードウェア重視の目標にすり替わっていた。
その結果としてΣステーションと呼ばれる計算機が誕生したが、特に安いわけでもなく、規格が致命的にガラパゴスだったので、ほとんど普及せずに失敗した。
失敗した後も地方を名目としてダラダラと予算が積み重ねられたが、何の成果もなかった。
日本のソフトウェア技術の息の根を止めたとして有名なプロジェクトである。
日本がIT技術に致命的に遅れていることにようやく気づいた通産省は、起死回生の一手としてIT技術に約500億円をかけることを決定。これを「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」と名づけた。
しかしそもそもこのプロジェクトには、何の見通しも何の戦略もなかった。
約50個の研究が「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」の内容であったが、その実態は検索ソフトから光ファイバーまでバラバラであり、散発的かつ無計画に予算をばら撒くという意味不明な行為は、もはや単一の計画である必要性がなかった。
この計画は最終的に10年にもわたって継続されたが、特に何の成果もなかった。そして膨大な予算とともに記憶の彼方へと消えた。
2000年に入ると、経済産業省は「かつて世界一だった日本の半導体産業を復活させる」という妄想に取り憑かれるようになる。
その数はまさに膨大である。
「みらい」プロジェクト(2001年)に465億円を注ぎ込むも見事に失敗すると、「はるか」プロジェクト(2001年)、「あすか」プロジェクト(2002年)、「DIIN」プロジェクト(2002年)、「あすか2」プロジェクト(2006年)、「つくば半導体コンソーシアム」プロジェクト(2006年)などが代表で、そのほとんどが失敗はまだしも、なんの検証もなく消えさった。
「アスパラ」(2002年)はかなり象徴的で、日本の先端半導体企業が集合して日の丸半導体企業を作ろうと国費315億円を費やしたが、2006年には泡の如く消えた。
これらの膨大な失敗は特に顧みられることもなく、なぜ失敗したのかいう考察もなく、ただ予算ともに忘れ去られた。
いったい何故だろうか?
摩訶不思議なことに、ソフトウェア技術者が致命的に不足していた日本においては、国産の検索エンジンが誕生しなかった。
中国やロシアが自前の検索エンジンを開発し始めると、日本でも国産検索エンジンを作るべきという安全保障上の発想が経済産業省に芽生える。約300億円をかけて国産検索エンジンを開発することにしたが、当時普及し始めたネット界隈はこれを激しく批判。
失敗続きの国家プロジェクトと比較されるが、経済産業省は「かつての国家プロジェクトとは違う!」と強い自信を見せた。
しかしなにも成さず、なんの検証もなく、予算とともに忘れ去られた。
ラピダスにおいては、経済産業省主導の国家プロジェクトは失敗するという根拠のない批判が多い。
しかしこうしてまとめてみるとどうだろうか?
膨大な数の実績が経済産業省には積み重なっている。
少しは信じてあげよう(完)
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
今から22年前の2002年に、11歳の脳障害児である日木流奈が話題になった。
俺は彼が本当に奇跡の詩人であり、自分の言葉で話していると信じていた。
NHKで放送され、ネットなどの批判によりNHKは謝罪したが、俺は彼を信じていた。
彼の話法は、母親が彼の手を取り、50音が書かれた紙を指差して話をするというものだ。
「実は母親が指差しているだけでは?」と指摘されていたが、俺は違うと思っていた。
「そのまんまでいいよ」「心配しなくていいよ」という彼の詩に感銘を受けていたからだ。
そこから20年経った2022年に、俺はなんとなく再度彼の動画を見直してみた。
すると、どうだろう。これは明らかに、母親が彼の手を故意に動かしているではないか…?
なぜ俺は気付かなかったのだろう。
その時俺は、コロナ禍で危うく反ワクになりそうなほど、陰謀論に傾きそうになっていた。
しかし大人になった俺はなんとか陰謀論を逃れ、ワクチンを打った。
だからこそ、日木流奈くんが操られてることに気付けたのだ。
遅い、遅すぎた。
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm16732325
まあこれだけでも彼が操られてることが分かると思うが、次に彼の2019年の状態を見てみよう。
『日木流奈さんインタビュー/第1回 「何が起きても大丈夫!」という人が増えてほしい』
https://starpeople.jp/seijingoroku/hikiruna/20190503/4279/
どうだろう。
俺は彼の著作を市販されているものは全て持っていたのでわかるのだが、彼の話し方や内容はは全く変わっていない。
…だが、そんなことあるのだろうか?
このインタビューには具体性がない。成長がない。11歳だった彼と変わらない受け答えがそこにあった。
「やはりこれは母親が答えているだけでは?」
そう思わざるを得なかった。
おそらく、母親は自分の子供が脳障害児であることを受け入れられずに、天才だと思うことによって自分を保ったのではないか?
それが今まで続いているのではないか?
当時からそのような指摘はかなりあったが、俺はそれを少し前まで気付かなかったのだ。
本当に恐ろしい。
本来は周りの人間がそれを指摘して彼を救うしかないのだろうが、それももう叶わないのだろう。
今後彼の母親が先立った時、やっと彼の自由が叶うのかもしれない。
これが俺の懺悔だ。
過去に似た流れがあったことを、世間は忘れているのではないかと思う。
1999年に週刊文春は元ジュニア達による性被害告発を、大々的に報道した。ジャニー氏と事務所は名誉毀損訴訟を起こすが、東京高裁は2002年に性加害の真実性を認める判決を下した。重要なのは、裁判で少年たちへの「性加害の真実性が認められた」にも関わらず、ジャニー喜多川氏は逮捕されることなく、刑事責任を問われることもなかったという事実だ。
「刑事責任を問う」には、被害者が児童であれば直後に加害者の精液等を採取して被害届を出したり、加害者自ら暴行の様子を撮影して映像を保管していたなど、よほどの直接的証拠が残らなければ難しい。文春のA子さんのケースのように、事前にスマホを取り上げられて密室で暴行をされたという流れが事実であれば、そもそも物的証拠は残りようがない。
これに限らず多くの性犯罪がそうで、密室内で行われる暴行は、そもそも物的証拠が非常に残りにくい。そのため警察も性犯罪の被害届は門前払いにしたがる。被害者は精神状態が麻痺しており、トラウマそのものを扱う聴取や裁判に耐えうる人は少ない。結果として、人が人に重い精神障害を負わせるような暴行が起きたとしても、日本では殆どは裁かれることなく野放しになる。刑事事件として被害が認めらるハードルは非常に高い。
文春編集局長の「刑事事件として起訴するための証拠はない」という発言を「今になって証拠がなかったと認めた、デマ記事だった」とするのは単なるミスリードだし、時期尚早だとも思う。民事裁判では状況が異なる。刑事事件として扱うための物的証拠はない=暴行はなかった ではなく、単に証拠不十分で不起訴になるだろうということだ。
先に挙げたジャニーズの裁判のように、刑事事件としての物的証拠がなくとも(そもそも残りようがないが)、民事では、証言や状況証拠も重要視される。双方の主張をつきあわせて矛盾がないか調べ、状況証拠を照らし合わせ、時間をかけて真偽を問うことになる。このとき、もしも報道通りだとしたら、裏付けはそれなりに出せるはずだ。被害を訴える人々の、事件があったとされる日以降の精神科への通院歴、LINE等で友人や家族に被害について相談していた電磁的記録、これらを時を遡って捏造することは難しい。(性的サービスのない)マッサージ店における暴行の件であれば、松本氏に性的要求をされ即退職したという店員、出禁になったにも関わらず翌日に偽名で来店した松本氏に腕力で頭を押さえつけられ暴行を受けたとされる店員、複数の店員が当時その場で対応している。第三者を含めた証人や、状況証拠はそれなりに揃っているはずだ。
刑事事件としての起訴はもとより無理であって、これから民事裁判で真実性が問われるだけの話だと思う。注意点として日本の法律では、内容が真実であっても名誉毀損は成立する。報道内容について「過度に侮辱的な表現がある」「社会的ダメージが大きい」「報道に公益性がない」などを争点にすれば、加害が真実であるかは問わず、松本氏に勝算はある。だからこそ訴訟を起こしたのだろうとも思うが。
そのとき世間は「週刊誌が負けて賠償金を払った」というタイトルしか読まないだろうし、「無実だった」という印象を世間に与えることができる。園子温監督のケースでは、訴訟相手の週刊誌と和解し「事実と異なる内容で、全文削除させた」と強気の表明をしたが、そもそも被害を訴えていた女優さんは自死されていて、真偽は不明のままだ。そうやって何もかもがうやむやになり、忘れられ、また性犯罪の告発があれば、とりあえず疑って全力で叩くことから始める。(いじめやパワハラの告発ではそうはならない、ずっと冷静に話を聞く)建前はどうあれ、性加害の欲求を持つ人が大勢いることを本当は知りながら。
どれだけの人が似たような訴えを起こしても、世間は冷静に耳を傾けることなく、永久に同じことを焼き直し続けるのだと思う。
法務省が実施した性犯罪調査によると、警察が被害届を受理した事件数は、推定被害者数の4.71%しかない。性犯罪に遭った人は、直後は否認と麻痺状態に陥り、すぐに行動できる人は非常に少ない。例えるなら、全身を轢かれて重体になった人に対して「すぐに自力で立ち上がって動けないのはおかしい」と非難しているようなことに近い。PTSDを負えば、一生涯精神科に通院しかねない深刻な後遺症が残るのが、性犯罪だ。警察の聴取、裁判に耐えうる人は少ない。トラウマを受けた人は加害者への恐怖心が非常に強く、再加害の危険を本能的に回避しようとする。どうにか勇気を出して警察に行っても「証拠がないので難しい」と、被害届をつっぱねられるケースも多い。一言でいうと当人の精神状態、環境が整っていない。
相手が日本全国で名が知られ、ファンも大勢いる人であれば、なおさら警察に被害届を出せないだろうと思う。ジャニーズ当事者の会では、激しい誹謗中傷を浴びた男性が自死している。最高峰の弁護士を雇える権力者と、法廷で一般人が対峙できるものだろうか?ただでさえボロボロの状態で。ずっと時間が経ち、(優秀な弁護士を雇うことのできる)大きな週刊誌の後ろ盾があり、かつ他にも同様の被害を訴える人が多いと知らされて、やっと世間に被害を告発をできるようになる心理は、同じ立場に立ったら本当は理解できるはずだと思う。当時泣き寝入りを選択したことを非難し、そのため虚偽であると決めつけるのはあまりにも理不尽だと思う。
「のこのこホテルに行った方が悪い」
立場の上下関係がなく、最初から二人でホテルに行こうと提案されていたなら、あるいはそうかもしれない。しかし新人の立場で「失礼があればこの界隈で歩けなくなる」と事前に脅され、複数の男女の飲み会を「VIPを招いたので、週刊誌対策でホテルの部屋飲みに変更しますね」と当日になってLINEで通知された流れが事実だとしたら、かなり話が違う。その「飲み会」の趣旨が明確でない上に、意思決定をする時間を十分に与えられておらず、芸能界の強固な上下関係からキャンセルしづらい立場に置かれている。
ちなみにこれは不同意性交等罪の構成要件のひとつ「経済的又は社会的関係上の地位に基づく影響力によって、受ける不利益を憂慮させること又はそれを憂慮していること」に当たるが、法律は時を遡って適用されないため、今回の件では問うことができない。単に相手の立場の弱さにつけこんではいけないという話だ。
「スマホを持った馬乗り写真がある、スマホ没収されていないという証言がある」
女性がスマホを持って松本氏にまたがる写真は、性加害を告発された飲み会とは別の飲み会。真逆の印象を与える写真で、ミスリードされている。セクシー女優の霜月るな氏が「記事にあるギャルは私だと思いますが出鱈目です、楽しい飲み会でした」と主張したのも大阪の異なる飲み会。ちなみにこの方は女性を集めるアテンド役をしたと自ら書き、1月14日時点で「松本さんがいないテレビは面白くない、喜んで参加したくせに。告発者はビッチ」といった内容をSNSに投稿している。
デマも多いが、真実を告発した記事も多い。その記事を扱う記者、編集長によって異なる。週刊誌は正義でも悪でもなく、単なる媒体だと思う。
もっともだが、そもそも松本氏は逮捕されていない。告発を信じるも信じないも、世論は割れている。同じような被害を訴える人が沢山いるというだけの状況だ。松本氏は「事実無根である」として名誉毀損訴訟を提起しており、言い分は一方的でもない。片方の主張を鵜呑みにするべきではないが「とりあえず話を聞く」ということをせずに、頭から否定して告発者を叩くことが(日本では)性犯罪においてはお決まりの流れになっているように感じる。伊藤詩織氏、ジャニーズの件でも、ネットは胡散臭い・冤罪だと主張しては熾烈なバッシングを繰り広げたが、最終的に被害を認める判決が出ている。
オッケー!2002年くらいからネット小説を嗜んでいる若輩者ではありますが、増田向けにチョイスしてみるよ!
どういうジャンルが好きか分かんないから、とりあえず地の文が比較的多そうな作品を選んでみたよ!
サイト:https://www5b.biglobe.ne.jp/~dww/watan_027.htm
サイト:https://ncode.syosetu.com/n5011bc/
確か作者さんが連載時、登場人物が迷宮に入る度に生存判定ダイスを振ってたからマジで誰が死ぬか分かんないよ!
サイト:https://wizdiary.hatenadiary.org/
でも↑のサイトのPDFリンク切れだから手持ちのやつを善意で貼っとくね!
https://35.gigafile.nu/0327-29f970173c45a48e5d628ec900009080
作者さんが改変しなければ再配布オーケーっていってるからあんしんしてね!
ジャンプに鬼滅の刃があるなら、なろうには鬼人幻燈抄がある!(本当はArcadia)
・父
・母
・第一子 (以下,私)
・第二子 (以下,二号)
2002年生まれの大学3年生.幼稚園から大学の学科まで私と同じ.
・第三子 (以下,三号)
大学に行かせてくださいと私が頼んだ時,父は以下の条件を出した.
・理系の,
・国公立大学に,
・予備校などには頼らず,
・現役で合格すること.
これら全てを満たせば学部を卒業するまでの生活費も学費も払ってくれるという.
私の高校は進学実績が落ちてきてはいたけれど進学校で,教育費には糸目をつけない親を持つ同級生が多くいた.
同級生たちよりも厳しい条件で大学受験に臨むことを不満に感じなかったと言えば噓になる.
が,学費を払えなくなったり,子供ができたりして高校を中退した中学の先輩を数人知っていたので,彼らに比べれば自分はずっと恵まれた環境にいるということを私は知っていた.
そして私は父の出した条件に従うことにした.
・A大学
通学時間は片道2時間.興味のある分野について学べるが,定員が少ないうえに後期試験がない.センターリサーチではC判定.二次試験は苦手科目の配点が大きい.
・B大学
通学時間は片道2時間半.興味のある分野に関連する学科はないが,設備が充実している.センターリサーチではB判定.二次試験は苦手科目の配点が大きい.
・C大学
通学時間は片道1時間.興味のある分野に関連する学科はないし,設備も充実しているとは言い難い.センターリサーチではA判定.二次試験は得意科目の配点が大きい.
A大学にどうしても通いたかった私は,合格の可能性が低いことを分かっていながら前期試験はA大学を受けることにした.後が無いので後期試験は安パイのC大学に出願した.
私はC大生になった.
入学一週間後には,自分が大学の下調べをかなり怠っていたことに気づいた.
シラバスを読む限り1年生の講義は高校の復習と言って差し支えなかった.2年生以降も,うちの学科はさして専門的な講義はないらしい.
1年生の時点で,大学で新しく勉強を始めたものは必修でもないのにとった第二外国語くらいだった.
やる気を出さないまま1年生の前期が終わった.GPAは4だった.
私は頭が良いと同期たちがあまりにほめるので,「いやいや,センターの数学で65%しかとれないくらい勉強苦手だよ」と事実を言うと,めっちゃ頭いいじゃんと返された.
やる気を出さないでいるうちに色んなことができなくなっていった.オンラインなのに講義を毎日欠席し,部長まで務めていたサークルを無断で辞めた.
堕落しているのは自分なのにC大学を見下す気持ちが強まっていく.
その頃,高校1年生の三号が志望大学を決めた.東京で一人暮らしをして文学部に通いたいらしい.個別指導の塾に通うし,滑り止めで私大を受けるし,浪人も視野に入れているという.
一体どんな手を使ったのか,三号は頑固な父を説得して自分の望み通りの条件で大学受験をすることになっていた.
私は理解できなかった.親の方針って,絶対的なものではなかったのか.大学に入ってからの この3年の月日は何だったんだ.
親に制限されたからぱっとしない大学生活を送ることになったのだと,私はこれまで現実逃避してきた.本当は違ったのだ.
与えられた状況に流されるまま行動してきた結果がこれなのだ.
はっきり言ってこれは逆効果だった.
医者に,「私は学歴コンプがあるんです」なんて恥ずかしくてとても言えない.
結局2度目の3年生の春にまた自殺未遂をし,大学病院へ転院することになった.
だが,新しく処方された薬でやる気のなさが改善し大学へ通えるようになった.
真面目に大学へ通い始めて,うちの大学には親切な先生が多いことを知った.
通院でどうしても講義を受けられないときは代わりに課題を出せば出席扱いにしてもらえたし,語学試験を受けたいと第二外国語の先生に相談したら週1でレッスンをしてくれた.
特に親身になってくれたのが指導教員で,色んな学術書を貸しては解説をしてくれた.
進学の準備を始めた矢先,自分でもどうしてだか分からないのだが自殺未遂をしてしまった.入院しましょうと主治医が言った.
その部屋には布団とトイレと監視カメラしかなかった.部屋には何も持ち込めないので情報収集も勉強もできなくなった.
数日後に読書が解禁されて,父がたくさん本を買ってきてくれた.一日中本を読んだ.ただ本を読むことに没頭できたのは小学校時代以来かもしれない.
入院しているうちに気持ちが落ち着いてきて,2カ月ほどで退院することができた.
入院したことで準備が間に合わず,C大学以外の大学院は受験できなかった.学科内の同期で内部進学をしたのは私一人だけだった.
昨日の朝二次試験のために東京へ行く三号と両親を,二号が車で駅まで送っていった.飲んでいる薬のせいで私は運転できないから家に残った.
夕食後の薬を飲むといつもは副作用で起きていられなくなるのだが,今日は目がさえて眠れない.
二次試験を受けるのは私ではなく三号なのに緊張してしまっているようだ.
三号への感情は羨ましい妬ましいという気持ちと,私ができなかった分も大学生活を満喫してほしいという気持ちがないまぜになっている.
春からは三号に対して学歴コンプを抱くようになるのだろうか.今すぐにはできなくても少しだけでいいから,いつかは克服したい.
ジャニーズ対文春裁判では、2002年の地裁判決は少年たちの証言には信用性が欠けるとして文春は全面敗訴し880万の支払いを命じられた。
ジャニーの死後に事務所が実際にやっていたと認めたような話でも、裁判所は証言に立った少年たちが幼すぎてあやふやな証言を信用できないと、一度は文春に全面敗訴をさせた。
2003年の高裁判決ではセクハラ行為の真実性が認定され、文春側が一部勝訴、文春はジャニーズに名誉毀損で120万円を支払った。
ジャニーが「彼らが嘘の証言をしたということを、僕は明確には言い難いです」と言ったのが主な敗因だ。
2004年には最高裁がジャニー氏らの上告を棄却し、高裁判決が確定した。
しかし今回ほぼ同じ文春への名誉毀損裁判で、松本人志は負けると、殆どの弁護士が口を揃えて言っている。
文春ジャニーズ裁判を見ても、楽勝と言えるような裁判ではないはずなのに、誰も松本が勝てると思っていない様子なのが不思議だ。
1993年・14号 7月で27歳、ふり返ればマンガだらけの27年、これでいいのか?
その後ろでときメモ2片手に立ちつくすオレが!!ダメ人間だもの。
2001年・10号マンガ家暦13年、初めての一週間強のお休み。久米島にダイビングの免許を
2001年・24号ひと月半で外出できたのはジョナサンでメシくった2時間だけ。プチひきこもり?
2002年・7号長い間、人に会わないと口がうまくまわらなくなる。
2002年・21号2年間着信ゼロ。携帯解約しよ。まずしい人間関係が私を机に向かわせる原動力。
2004年・11号初めて仕事場と寝る場所以外のあるお家に引っ越す。
2004年・12号気がつけば一日三食カロリーメイト。体は健康でも精神的にはヤバイかも?
2004年・23号俺の休みは2か月に半日。もう4年も2日続けて休んでない。
そろそろあちこちガタがきてる。
2005年・9号過労でまた倒れた。グインの百の大典行きそこなった。うえ〜ん!
2006年・2号30代もあとわずか。マンガ以外何もないイビツな人生だが
もうとりかえしがつかないのでこのままGO!
2006年・3号今年もひきこもるぞ━━!
2006年・8号ついに30巻。最初は2〜3巻で終わるつもりだったのに・・・。
ソ連という共通の敵を失ったことによって中国と西側諸国の友好関係が薄れていき、天安門事件によって決裂が明らかとなり軍事技術的にも独自路線を歩み始めた時期 そして第三次台湾海峡危機でアメリカの圧倒的な軍事力を目の当たりにしたことが、中国海軍のその後に大きな影響を与える
★劉華清 江沢民の後見人として党中央政治局常務委員と党中央軍事委員会副主席に任命される
051G型駆逐艦(旅大III型) 1番艦 湛江 就役 051DT型の発展版 フランス・イタリア・イギリスなどから導入した兵器の国産化を試みている
★052A型(旅滬型)駆逐艦 1番艦 哈爾浜 起工 西側技術を大規模に導入し、中国初の外洋型近代的駆逐艦として建造された
対空ミサイルやレーダーはフランス製、主機のガスタービンエンジンはアメリカ製、ディーゼルエンジンはドイツ製を導入、哨戒ヘリコプターはフランス製のライセンス生産
★湾岸戦争開始 米軍による一方的な空爆を目の当たりにし自国の防空システムの限界を認識した中国は、新しい防空ミサイルシステムHHQ-9Aの開発に着手
★ソビエト連邦崩壊 中華人民共和国の第一仮想敵国はロシアから台湾を支援するアメリカ合衆国に変わった
053H2Gフリゲート(江衛型) 1番艦 安慶 就役 053H2型に個艦防空ミサイルと艦載機の運用能力を付与したもの。
1989年の天安門事件を受けて西側からの軍事技術供与が停止されたため、2番艦以降は1番艦とは異なる構成になっている
2番艦ではガスタービンをウクライナ製UGT-25000(DA80)ガスタービンエンジンにしている。
053H1G型フリゲート(江滬V型) 1番艦 自貢 就役 053H2型フリゲート
プロジェクト877EKM(キロ級)潜水艦 1番艦 袁正64 就役 中国が初めて入手した近代的ディーゼル潜水艦
中華民国が遷台してから史上初めて正副総統の直接民選選挙、李登輝当選
アメリカは2つの空母戦闘群を派遣、ミッツ空母戦闘群は台湾海峡を通過した
中国軍はアメリカの空母戦闘群に対し何もできず、アメリカが台湾を支援した場合は止められないことを理解し軍備増強を大幅に加速した
艦隊防空能力強化のためロシアにソヴレメンヌイ級駆逐艦2隻を発注(中国語では「现代级」と表記されることから何を期待していたのかが理解できる)
対空戦能力を有する国産のミサイル駆逐艦整備計画が着手、複数のタイプ(052B型と052C型)の駆逐艦を少数建造し設計とプロトタイピングを繰り返すスパイラルモデルでの開発が始まる(「小步快跑」)
970型試験艦 就役 HQ-9A艦対空ミサイル、HQ-16艦対空ミサイル、Vertical Launching System、フェーズド・アレイ・レーダーのテストを行う
プロジェクト636(改キロ級)潜水艦 1番艦 袁正66 就役
956-E型(ソヴレメンヌイ級) 1番艦 杭州 就役 艦隊防空機能を有し、射程160kmの超音速対艦巡航ミサイルSS-N-22(P-270)を搭載しアメリカの空母戦闘群の接近を阻止する役割を担う
中国国産ディーゼル潜水艦で旧式化した035型に替わる新世代の潜水艦として建造
ロシア製兵器、フランス製戦闘システム、ドイツ製ディーゼル・エンジンを搭載した
052A型をベースとした中国版ソブレメンヌイ、本命の広域防空艦は052C型で052B型はその保険
国産で新開発のHQ-9艦対空ミサイルやフェーズド・アレイ・レーダーの完成は間に合わないため、ロシア製対空ミサイルシステムを搭載して建造
ZKJ-5戦術情報処理装置 今まではイギリス製をコピーしたZKJ-3かフランス製をコピーしたZKJ-4しかなかったが、新規開発された国産戦術情報処理装置をテスト
通信設備としてHN-900(中国海軍の第1世代戦術データ・リンク装置)を採用
ウクライナからSu-33の試作型T-10K-3を入手、後にJ-15の開発につながる
国産で新開発のHQ-9艦対空ミサイルやフェーズド・アレイ・レーダーを搭載した中国人民解放海軍の本命
039A型潜水艦(元型) 1番艦 330 就役 プロジェクト877EKM(キロ級)の経験で得られた技術を、039型潜水艦に盛り込んだ性能向上タイプ
従来の中国海軍のフリゲートと比較して武装のレベルが極めて高い、また船体の大型化によって外洋航行能力も大幅に向上している
054A型のテストベッドとしての性格があり、建造は2隻に留まった
2004年に就役した蘭州と共に、新世代艦のプロトタイプとして性能・運用試験を実施
094型原子力弾道ミサイル潜水艦 1番艦 411 就役 092型からは大幅に進歩したが未だ米英露仏のレベルには至らず
なお2005年当時の中国軍の評価は以下のようなものである、きわめて妥当な評価で当時の中国海軍がまだ立ち遅れていたことがよくわかる
■中台の軍事バランス ―中台の安全保障戦略に与える影響―(2005年5月発行)
https://jats.gr.jp/cp-bin/wordpress5/wp-content/uploads/journal/gakkaiho007_05.PDF
中国は、約3,200 機の作戦機を保有しており、編制上桁違いの優位があるが、第4世代戦闘機を150機程度しか保有していない〔USDoD, 28 July 2003, p. 23〕。
しかも、中国空軍の訓練時間は、新型戦闘機のパイロットを優先的に長時間訓練させていると見られるものの、全体として西側空軍の常識から見て極端に少なく、メンテナンスも劣悪で故障も多く、また1日に大量の航空出撃を実施するような演習をほとんど経験していない〔Allen, 1997, pp.224 –232〕。
このため、中国空軍の作戦機が台湾攻撃に必要な高い練度を獲得するには今後長い時間が必要である。
他方台湾空軍は、すでに F-16、ミラージュ 2000-5、および経国号を配備完了しているため、旧式機から第4世代への換装をほぼ終えている。
空中戦の態様は、戦場が中国から離れた台湾の航空管制の範囲内であり15、台湾側の方が各種装備が優越し、練度も高いため、台湾空軍側に有利に展開するものと推定されている。
特に、F-16 用のアムラーム・空対空ミサイルの売却が 2003 年に実施されたことにより、台湾空軍の空戦能力は飛躍的に向上した。
しかも、中国が保有している Su-27 および Su-30MKK の性能は、電子戦能力と戦闘能力において台湾が保有するミラージュ 2000-5 におよばないとされるし、遠距離からの攻撃では経国号の装備が勝っているとされる16。
このため、大幅な改良を加えない限り、Su-27 は量産されても台湾空軍に対して質的な優位を確保することができないと考えられ
中国海軍の水上艦艇の特徴は、艦隊防空能力(特にミサイル防御能力)が極めて低い一方で、対艦ミサイルの数量が圧倒的に多いことにある。
このため、中国海軍は防御を省みることなく攻撃を仕掛けることになる〔McVadon, 1997, pp.259-260〕。
ところが、中国海軍の水上艦艇には、視界外レーダー(OTH レーダー)がなく、敵の位置を計測してその対艦ミサイルのアウトレンジから対艦ミサイル攻撃をかけることが困難である。
このため、対艦ミサイルの「数の優勢」は当てにならず、中国海軍の水上艦艇は台湾軍が保有する大量のハープーン対艦ミサイル等によって多大な損害を受けることが必至である〔McVadon, 1997,pp.259-260〕。
HHQ-16艦対空ミサイルを装備し、中国海軍のフリゲートとしてははじめて艦隊防空能力を有する
054型はミサイル発射機を備えていたが、054A型では32セルVLSへ進化している
以降『40隻』を超える大量建造が行われる
052C型4隻の追加建造
2004年、2005年に就役した052C型2隻をプロトタイプとして性能・運用試験を実施し完成度を高める為の研究が行われた、結果2008年には艦隊防空艦としての完成をみた
052C型の発展型として052D型駆逐艦の開発が進んでいたが実用化には相応の時間を要するため052C型駆逐艦の追加建造が決定
世間はチョコレートだ愛だと言って、それはGHQだ陰謀だと言っている連中にささげる、オールアンラーッキーバレンタインデーズだ
2月14日も結局1月17日、3月11日、4月14日、8月6日、8月9日、8月15日、9月6日、9月11日、10月23日と同じように不謹慎の日だから、来年の元旦もそうやって不幸になるんだナ
( ^ω^ )
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%A5%B3
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%8D%81%E4%B8%89
「突然の死
1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京都港区麻布台3丁目のマンション南側下の駐車場で、飛び降りたとみられる遺体となって発見された。葬儀は故人の遺志により執り行われなかった。当初からその経緯について様々な説が飛び交った。
かつて『ミンボーの女』公開後に襲撃事件があったことから、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。なんにもなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです。」との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった[19]。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また死の直前に『FLASH』の記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子が『FLASH』誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた[20]。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、『FLASH』発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。
ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという[21][22]。また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した[23]。
伊丹映画に出演経験のある伊集院光は、1997年9月22日に行われた伊丹監督作品10作品目「マルタイの女」記者発表兼記念パーティーの席上で「OLがたくさん出るような映画を撮りたいから、また出てくれる?」と言われたという。 俳優・中尾彬はキャリアウーマン物「キャリアの女」の企画を聞いていた[24]。また「すでに5~6本の新作の台本が出来上がっていた」とも言われている。
最後のバラエティー番組出演は、1997年9月29日放送の『SMAP×SMAP』での妻の宮本信子との共演となった。
宮本信子は、2002年12月20日の「感謝の会」における挨拶で「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」[25]と語っており、伊丹の死後、プロデューサーの玉置泰に伊丹の遺書が渡されている[26]。
2005年1月、インターネットの掲示板上で、伊丹の死が創価学会によるものという風評が掲載された。創価学会は事実無根として掲示板の管理者に対し訴訟を起こす。2009年2月、東京地裁は原告創価学会の主張を認め、被告に80万円の損害賠償を命じた[27]。」
※ただし独身に限る
この「ただし」を抜いて記事にしたらバズるっていうのが結構前から繰り返されてるんだけど
許して良いのかねこれ
っていうか、許す許さないの前に、ソース読んでる人がまじで1割以下なんだけど
俺はもうナニと話してるんだろう
【童貞大国ニッポン】20代男性の性交渉未経験率が4割超え「女性から見下されているようでとてもつらい…」現役童貞の悩みと独身研究家が指摘するこれからの不安
現在の20代男性の性交渉未経験率が4割を超えるというデータがあり
https://shueisha.online/love/192184
この記事のソースはこれなのかな?曖昧すぎてわからんが、ここが一番詳しいと思う
https://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou16/JNFS16_ReportALL.pdf
18〜19歳 25.5%/74.5%
25〜29歳 63.6%/36.4%
それで、既婚率はこう
25〜29歳 27.1%
あわせると
20〜24歳 4.8%が既婚/47.3%が未婚非童貞/47.8%が未婚童貞
25〜29歳 27.1%が既婚/46.3%が未婚非童貞/26.5%が未婚童貞
(47.8+26.5)/2 = 37.1%
だいたい3人に1人
25〜29歳 36.5%
これも雑に平均を取ると38.3%となり約4割だ
これに既婚者を混ぜると
20〜24歳 4.8%が既婚/56.9%が未婚交際経験あり/38.2%が交際経験なし
25〜29歳 27.1%が既婚/46.6%が未婚交際経験あり/26.6%が交際経験なし
つまり、がち非モテで童貞こじらせた魔法使いはだいたい4人に1人だ
記事では「1980年から変わってないんですよ」みたいなアホなこと書いてるが、既婚のこと無視してる
2010年 21%
たぶん、非モテ向けの「大丈夫だよ安心していいよ」系の記事なんだろうな
まあそれは百歩譲って良いんだけど
おまけ
なんかこういう記事って男のことばっか書いてるんだよね
18〜19歳処女率は1987年レベルまで増えている、だいたい80%
一番お盛んだったのが2002年ころ
https://twitter.com/midoriSW19/status/1751593181471199695
米国には、米国人が国際刑事裁判所(ハーグ)で裁かれるような事態になった場合、米国はハーグを侵略するという「ハーグ侵略法」があります。2002年にブッシュが制定しました。これは冗談ではありません。
https://en.wikipedia.org/wiki/American_Service-Members%27_Protection_Act
同法は大統領に、「国際刑事裁判所によって、その代理として、または国際刑事裁判所の要請に応じて、拘留または投獄されている米国または同盟関係者の釈放をもたらすために必要かつ適切なあらゆる手段」を行使する権限を与えている。
米国は国際刑事裁判所(ICC) の加盟国ではありません。同法は、米国大統領に対し、「国際刑事裁判所によって、その代理として、または国際刑事裁判所の要請に応じて、拘留または投獄されている米国または同盟関係者の釈放をもたらすために必要かつ適切なあらゆる手段」を使用する権限を与えている。
この承認により、この法律は口語的に「ハーグ侵略法」と呼ばれるようになりました。
この法律により、大統領はハーグがあるオランダへの侵攻など、米国の役人や軍人を危険から守るために米国の軍事行動を命令することができるからです。
1948年 41人
1949年 76人
1951年 40人
1952年 34人
1953年 26人
1955年 19人
1956年 22人
1957年 25人
1958年 21人
1959年 14人
1960年 36人
1961年 18人
1962年 14人
1963年 16人
1965年 7人
1967年 13人
1969年 13人
1971年 7人
1972年 7人
1973年 5人
1974年 2人
1975年 2人
1976年 2人
1977年 2人
1978年 4人
1979年 4人
1980年 7人
1981年 3人
1982年 1人
1983年 1人
1984年 3人
1985年 2人
1986年 0人
1987年 7人
1989年 5人
1990年 7人
1991年 4人
1992年 5人
1993年 7人
1994年 3人
1995年 3人
1996年 3人
1997年 4人
1998年 7人
1999年 4人
2000年 6人
2001年 3人
2002年 3人
2003年 2人
2004年 14人
2006年 21人
2009年 15人
2013年 8人
2014年 7人
2015年 2人
2016年 7人
2017年 2人
2018年 2人
2019年 5人
2021年 4人
2022年 0人
2024年 1人
所感
まずは簡単にヒュッケバイン問題を振り返る。知ってる人は読み飛ばしてね。
ヒュッケバインとは、1995年に発売されたゲーム「第四次スーパーロボット大戦」に登場したゲームオリジナルのロボットを指す。
このデザインは誰がどう見てもガンダムのパクリである。選択式のカラーでは白・青・赤のガンダムカラーにすることも可能だった。
(ヒュッケバインに関して、初稿はバイザー型の独自的な頭部デザインだったが決定稿でガンダムフェイスになったのも有名。つまりデザイナーが寄せたのではなく、ゲームコンセプトに基づきそのデザインとなった)
その後、2000年に発売された「スーパーロボット大戦α」ではヒュッケバインMk-2、Mk-3が続けて登場する。
依然としてガンダムフェイスであり、さらにコアブロックシステム(コクピットが戦闘機になるやつのこと)も追加されて、ガンダム感はまだ色濃い。
ただ紫と黄を基調としたカラーリング、中二心揺さぶる重力兵器、ごつい追加装備、当時のガンダムに見られない謎のチャクラム系の武器など、独自のアイデンティティが確立したことも付け加えておく。
その後、2002年~05年の期間に発売された、スパロボのオリジナル機体を集めた「OGシリーズ」でもメインの扱いで登場し、ヒュッケバインはファンから根強い人気を得たことだと思われる。
「ガンダムのパクリだよな」という共通認識はありつつも、それを愛でるのような状況だったのではないだろうか。
問題は06年以降。以下のようなことが起きる。この一連の事件を主に「ヒュッケバイン問題」と言う。
・「OGシリーズ」がアニメ化するが、ヒュッケバインが一切姿を見せない(部分的な描写はある)
・コトブキヤからヒュッケバインシリーズのプラモデルが販売されるが、再生産なしと販売時に明示される(実際今に至るまで再販なし)
・「OGシリーズ」のゲーム新作で、ヒュッケバインMk1~MK3が並んで登場するが、イベントシーンで跡形もなく壊される。もちろんその後そのゲームで再登場なし。
・ヒュッケバインからガンダムフェイスなどのガンダム的要素を取り払った「エクスバイン」等のメカが代替的に各メディアに登場するようになる
このときのファンの反応は冷静で、「まぁガンダムのパクリだしなぁ……」みたいなものが主流だった印象だ。(作中の設定と合わせてバニシングしたと寧ろ楽しんでた)
ただ状況は変わり、17年に発売されたスパロボではヒュッケバインがデザイン変更なしでそのまま登場して、ファンを沸かせた。
これを皮切りに10年間封印されていたヒュッケバインの解禁が進み、スパロボにも度々姿を出すようになる。
最近ではバンダイ製のヒュッケバインMk-3のプラモデルも販売されたが即完売。今は転売価格だ。
大人の事情があっただろうと憶測はできても、真実はまだ語られていない。
とりあえず権利的な問題は解決されたと見なされていて、ファンも堂々とヒュッケバインを愛でられる状況に改善されたと言える。
ヒュッケバインはパクリデザイン、つまりガンダムの「偽」として登場したが、上述のように色々あって権利的に問題ない人気コンテツと化した。
もはやヒュッケバインは「真」となったと言っても差し支えはないだろう。
いや、かなり特殊な事情であるし、パルワールドの悪趣味性と相まってとは一概に比較できないのは重々承知なのだが、「デザインの剽窃は創作に悪影響を与えるので絶対に許してはいけない」などの言説は、ヒュッケバインの前例を鑑みるに疑義的だ。「偽」であるパルだって紆余曲折を経て「真」として受け入れられる可能性もあるだろう。支持するファンが多ければ多いほど、そうなる可能性はある。
寧ろ、ポケモン的なデザインを模倣することは絶対に許されないとするならば、それは事実上の無期限の特許化であり、そちらの方が創作において抑制的でよほど悪影響だろう。
寺田憲史さんはかなり多彩だよ
主な作品
『バビ・ストック』シリーズ(角川スニーカー文庫) 挿画:影山楙倫 OVA製作のための原作。
花のあすか組!―年端もいかず、心はヤワで(角川スニーカー文庫) 挿画:高口里純(1988年7月)
ファイナルファンタジーII 夢魔の迷宮(角川スニーカー文庫) 挿画:天野喜孝(1989年4月)
『爆裂お嬢シンディー・スー』シリーズ(富士見ファンタジア文庫) 挿画:鈴木雅久
悪党たちに投げキッス!(1988年11月) 後にドラマCD化され、こちらでも脚本を担当。出演は久川綾他。
『朱鬼シオン―魔道霊士(アガディーン)伝』シリーズ(ベストセラーズ)
『新きまぐれオレンジ☆ロード』シリーズ(JUMP j BOOKS)挿画:まつもと泉
新きまぐれオレンジ・ロード2002(集英社スーパーダッシュ文庫)リメイク
作画:鷲尾直広 壽屋の雑誌・HOBINO→HOBINOホームページにて連載中。
作画:円英智 日本ファルコムのPCゲームソフト『ロマンシア』の翻案作品。角川書店のPCゲーム情報誌・コンプティークに連載の後、単行本化(ドラゴンコミックス、全1巻)。後にドラマCD化されており、こちらでも脚本を担当。
悠久の風伝説 ファイナルファンタジーIIIより(原作)
作画:衣谷遊 角川書店のファミコン情報誌・マル勝ファミコンに連載の後、単行本化(ドラゴンコミックス、全3巻)。
作画:水縞とおる 学研の漫画雑誌・月刊NORAに連載の後、単行本化(ノーラコミックス、全1巻)。
鬼切丸(脚本)
ドラミ&ドラえもんズ ロボット学校七不思議!?(脚本・米谷良知と共同)
ザ☆ドラえもんズ ムシムシぴょんぴょん大作戦!(脚本・米谷良知と共同)
MEREMANOID 〜マーメノイド〜(シナリオ)
テクストート・ルド〜アルカナ戦記〜(総合プロデュース・監修)
サウンドノベルツクール(収録サンプルゲーム「夏の樹に棲むニンフ」を担当)
変更履歴:皆が体感より遅いと言うので、一般化を普及率50%にしました。都会は-3年、田舎は+3年くらいでちょうどいいかも(2024/01/20 8:41)
1979年 29歳 スペースインベーダーブーム
1986年 36歳 写るんですが登場
2018年 68歳 TikTok(ショート動画)が流行り始める
2019年 69歳 60代のスマートフォン率がガラケーを超える
2010年代 60代 本、新聞、CD、DVDが凋落、電子化・スマホ化する
2024年 74歳 ?
変化が濃すぎる
年はザックリ、わかりやすさ重視
全部調べて書いてます
普及率の伸びというのは体感より遅いんですよ、先進的な人は5〜10年早めるくらいで丁度いいかも
→ 皆が体感より遅いと言うので、一般化を50%にしました(2024/01/20 8:41)
※隆盛:身近になってきた当たり
※最盛期:ピーク
※一般化:大体普及率50%(ピークがそこまで行かない場合はピークの5合目当たり)
※FAXは非常にゆっくり浸透した、時代遅れになってから一番売れているのが面白い
※固定電話の普及は1950年代なのでこ50年生まれが物心つく頃は既にあったと思われる。また電話普及率は良い統計が無い
※炊飯器についても良い普及率のデータはなく、推測する論文がある始末
※新幹線と飛行機を入れたかったが、時代差より個人差が大きそうなので割愛
「死んだら無になる」って誰が言いだしたんだろう、と思い調べ始めたが……思ったよりも大変だなこれ
『近代日本人の死生観』という論文……国士舘大学の講演会資料?……に以下のような記述がある
一九〇一年、死を宣告された政治思想家の中江兆民は、間近に迫った自己の死を強く意識しながら、『一年有半』、『続一年有半』を著しました。そこでは身体(駆殻)こそがすべてで、精神などというものの実在を想定する必要はない、死とともに個人の存在は終わるのだというさっぱりとした考えがけれんみなく提示されています。
へぇ~、明治のころにはもう最近の日本人がしばしば言いがちな「死んだら無になる」って考えを持った人がいたんだなあ
じゃあこの「死んだら無になる」って考えはどの時代までさかのぼることが出来るんだ?
「神」の存在は否定しても「霊魂」の存在は否定しない考え方もあるようなのだ
断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解で、断滅論(ucchedavādā)ともされ、邪見のひとつ[1]。反対語は常見(じょうけん)。
まさしく「死んだら無」の考え方
しかし、この仏教の断見という考え方が現在日本の「死んだら無」という考え方に直接つながっているわけではおそらくないだろう
こうした考え方が広がっていく背景には、近代科学が前提とする唯物論的な世界観の影響があるのは確かです。しかしまた、現世を尊ぶ儒教や神道、また霊魂の実在ということを否定する仏教の伝統が影響を及ぼしていると見ることもできます。
じゃあ唯物論について調べるか……と思ったがここで調査打ち切り
なんか唯物論の西欧での歴史をざっくり眺めてると、神の存在は否定していないように見えるんだよな……ここらへんキリスト教の知見が足りないのかもしれない
そしてなぜか途中から共産主義の話になる、わけわからんくなってしまった
キリスト教の歴史について書かれた初学者向けの本を先に読むべきかもしれない
もともと私は幕末~明治の日本人の宗教観を調べていたのだが、面白そうなテーマがあってつい脱線してしまった
2002年刊行の『死と唯物論』という本が面白そうなのだがすぐには入手できなさそうだ
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Wikipediaの「無神論の歴史」のページの記述で関係ありそうなところをピックアップしておくか
「チャールヴァーカ」の項
パーリ経典によれば、紀元前6世紀のアジタ・ケーサカンバリンが仏教徒と議論をして「身体が滅びるとともに、賢者も愚者も等しく滅する。彼らが死後も存在するということはない」といったことを既に説いている[3]。
江戸時代の日本の「浮き世」の考え方(=現世利益)ととても相性がいい
「死んだら無」とはすなわち祖先もまた無になったということになるので受け入れ難いか?
これも「死んだら無」の論理だったが先祖を敬うことは推奨する思想になっていたのが上手いところ
流行りはしなかったようだが
エピクロスは「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」という語録も残しているようだ。原子論的(唯物論的だ)な考えから導き出された思想か
西洋の啓蒙時代まではキリスト教の影響が大きすぎて無神論の考え方は全然育たなかったみたいだ
ざっと見た感じ現世利益と唯物論の合わせ技で生まれる発想みたいね
誰が言い出したんだという話からはズレるが、現代日本で「死んだら無」って言ってる人は漫画の影響とかありそうな気もする、知らんけど