はてなキーワード: ひきこもりとは
周りに迷惑かけたくないので恋愛は諦め友達づきあいも最低限、仕事は家でできるちょっとしたお小遣い稼ぎ程度で、今はほぼひきこもりみたいな生活してる。もちろん実家。
昔はどうにかして普通の人になろうと仕事も恋愛もめちゃめちゃ頑張ってたけど、でも全部ハリボテというかカリソメというか、とにかく長続きしないし後からくる疲れやダメージが半端なくて、全部やめた。
ストレス減って結構いい感じだよ。無理して生活してた時期より気に入ってる。
将来への不安はもちろんあるけど、最悪生活保護か、行き着くところまで行ったら自分で人生を畳んでもいいし(さすがに両親より先には死なないけど)、もうどうにでもなーれって感じ。まじ安楽死制度ほしいわ。
人手不足の状況であっても、求職者としてバイトに採用されるかどうかは、さまざまな要素が影響します。個々の状況によって異なることがありますが、いくつかの可能性を挙げてみます。
1、競争が激しい業種や地域に応募している可能性があります。特に需要の高い業界では、応募者が多くなることがあります。
2、履歴書や面接の際に、他の応募者よりも魅力的な要素や経験をアピールできていない可能性があります。自己PRやコミュニケーション能力など、採用側が重視する要素に焦点を当てて準備をすると良いでしょう。
3、発達障害やひきこもり時期の空白期間の説明ができないことが、採用の際にネガティブに作用している可能性があります。しかし、自己紹介の際に無理に説明する必要はありません。代わりに、自身の強みや独自の視点をアピールすることに焦点を当てましょう。
4、履歴書や応募書類の書き方や面接の対策に不慣れである可能性があります。この場合は、専門の職業支援機関やキャリアカウンセラーに相談すると役立つ情報を得ることができます。
バイトの採用は様々な要素が絡み合って決まるため、一度落ちたからといって自己評価を下げる必要はありません。挫折を経験することもありますが、継続的な努力や改善を行うことで、新たな機会を見つけることができるでしょう。また、自分自身の強みや特技を活かせる仕事や、履歴書や面接にあまり関係のない仕事も探してみると良いかもしれません。
子育てで夫の愚痴と不満を全開にしているツイッターやブログをよく目にするが、男性側の本音を言わせてもらえれば、「そこまでしなくていいんじゃね?」という感想しかない。
ブチ切れられるから面と向かっては絶対に口にはしないけど、あきらかに女性は育児や家事を「やり過ぎている」と思う。そして、「頑張っている」自分を基準に、「そこまでしなくも」と内心思っている夫をガミガミと叱りつけていることを、当然で正しいかのように周りに触れ回っている。会社だったら普通にパワハラだし、男女逆だったらひどいモラハラと言われるものだけど、「育児」の名目で妻が夫にやる分には、なぜか正当な訴えになってしまう。
女性が育児や家事について夫を叱責しているのは、ブラック企業の社長が部下を「お前はつかえない」と罵倒しているのと同じ。女性は弱いというけど、確かに政治経済は男性社会だとしても、家庭の中では多くの場合は女性主導で、家事育児のやり方は、女性が決めて男性がそれについていくというパターンが圧倒的に多い。
そもそも子育てなんて、最低限のこと以外は超適当でいいはず。実際、昭和の頃までは超適当だった。「ちゃんとした子に育てなければ」とか思っているのかもしんないけど、そういう考え自体も正しいとは言えない。どんな手間ひまをかけて育てても、子供はひきこもりやニートになることはありうる。その時に、「子育てに失敗した」という親の気持ちが子供に伝わる可能性を想像してほしい。
フェミニストは「夫が悪い、男社会が悪い」という結論にしたがるけど、運動の言葉としては否定はしないが、核心をついていない。はっきり言えば、育児と子供の教育のために人生を犠牲にして当たり前みたいな、「真面目な親」の発言力ばかりがやたらに強いが全ての元凶。男性にもいるが、女性のほうに圧倒的に多い。
そうしてこうした「真面目な親」が、「子供のため」の名の下に、育児と教育のコストと負担を天井知らずに引き上げていている。結果、結婚や出産は贅沢品になっている。韓国と日本で共通して生じていること。
痴呆の父本人が嫌がっても強制的に入院させた、という増田にこんなブコメがついてる。
痴呆がすすんでも生きながらえさせなきゃダメなのか。残された家族のQOLが爆下がりするなら安楽死だって選択肢ではないのか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4734234384946062020/comment/emt0
ここでの「安楽死」とは、命にかかわる病気ですぐ先に死が見えている状況で、生きるのに肉体的・精神的な苦痛が続き、本人が望んで死を選ぶ「尊厳死」ではなく、
「痴呆で本人の判断能力が損なわれ、自制力や生活力がなくなり、周囲(家族)に迷惑をかけるので、この世からいなくなってもらおう」という意味で、つまりのところ「お荷物人間の殺処分」てことだ。本人の意に反しても社会的に有益なら殺人を認める、そんな制度を国が法的に認めて整備したらと言ってるんだ。
違うとは言わせない。病識がなく入院すら嫌がってる状況で、自ら死を選ぶはずがないのだから。
これ、「自制力や生活力が現役時代より劣った痴呆親」どころか、もっと重度に精神的に遅滞してる精神障碍者ばかりのやまゆり園の入居者を「彼らは意思疎通すらできない、人間ではない、生きてる意味がない、殺してやるのが本人にとっても幸せだ」と大量殺人を犯し死刑判決をくらった植松死刑囚の思考と、何が違うんだろう。
俺には違いが見えない。
むしろ、こんな言い方をすると反発が来るだろうが率直に書いてしまえば、家族が医療費や生活費を負担して入院させてる痴呆老人よりも、国が生まれたときから一生の世話をすべて公費でまかなってる生来の重度精神障碍者のほうが、「社会のお荷物」度は大きい。
植松は自分が殺人者として捕まり裁かれるのをわかったうえで自ら犯行に及んだが、「国がそういう制度を作れ、誰か(「安楽死」という言い方からして医師や保健所を想定してそう?)が殺して処分できるようにな」と他人任せにしてるブコメ・賛同者のほうが、より醜く見える。
俺個人としてはどちらも「負担だからこの世から無くしてしまえ」など思わないが、でもそんな思考である「痴呆老人は周囲の迷惑だから殺せ」てブコメにこれだけの賛同スターが集まり、批判ブコメがほとんどつかない(現時点では一つだけ)状態にはてブが陥ってるのに、びっくりだ。
それとも上記ブコメに賛同する人たちは、植松の思想・犯行にも共感・賛同してるのか?
まったく理解できないが、はてブが現在こういう状況になってるのに驚いてしまって、暗鬱としてる。
どうなってしまったんだろう。
そんな都合よく認知症になったら死ねるかどうかわからないし今のうちに死んどくといいんじゃないかな。元気なうちなら人に迷惑かけずに死にやすいだろうし
それな。
「痴呆怖い、安楽死、安楽死」つってる人たちは、元気な今のうちなら痛みなく死ねる方法を取れるから、やっとけばいいよ。
痴呆でなくても生きるのいろいろ大変だろ?他人を巻き込む制度化を求めてグダグダ言ってる暇で、さっさと自決したらいいのにね。
実際に重度精神障碍者介護の現場に入って苦労するうちに思想が変わった植松死刑囚もそうだね。
「大変だ」と苦労するところと、「だから安楽死(殺処分)」との間には大きな一線があるんだよ。
「重度精神障害の人と付き合ったことあるなら分かるだろうが見てて痛々しくなるんよ」
『安楽死が認められた世界では俺のような人間はまず間違いなく「社会的に価値がないにも関わらず安楽死を選ばない傲慢で古い価値観の人間」と断ぜられるだろう』
これ。
医療的な基準(余命、肉体的苦痛)に基づかず、「生きるのがつらい、死にたい」という本人の希望だけで「安楽死」が認められるようになったら、
元ブコメのように「社会的に負担にしかならない痴呆老人」「重度精神障碍者」から始まって、「勤労意欲のないひきこもり」「ホームレス」「生活保護受給者」など社会的生産性のない人間までが「安楽死」を選ばされる未来になるのは目に見えてる。
家族や親権者や代理人が「本人は今は意思表示できませんが、元気なころにこうなったら死にたいと言ってました」「本人も愛する家族に負担ばかりかける現状が続くより、死んだほうが幸せだと思ってるはずです」「この状況で安楽死を選ばないのはおかしいです」つってな。
なんせ制度がない今ですら「痴呆老人は負担になるから殺処分しろ」てブコメにこれだけ賛同が集まってるんだから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6
極めて皮肉なことに、「病人は社会の寄生虫である」と書いた4か月後、ニーチェは脳梅毒により精神に異常をきたし以後の10年余り狂人として家族の世話になって過ごした。
守る術なき患者が遅かれ早かれ殺されるという事を予期することである。
何故なら、彼らは「生きる価値がなくなった」と担当の役所や委員会が判定しているからである。
君も私も、私たちが生産的である間だけ、生産的であると他者から認められる間だけ生きる権利があるというのであろうか?
もし「非生産的な」人間は殺してもよいという原則がたてられ使われるとすれば、年とった者、老衰した者すべては何と痛ましいことになることか!
もし非生産的人間を殺してもいいなら、生産過程において力を尽くして働いた結果、犠牲になった病弱者は何と痛ましいことか。
もし非生産的同胞を暴力で排除してよいものなら、戦争負傷者、身体不自由者、傷病兵として故郷へ帰ろうとする私たちの勇敢な兵士たちは何と痛ましいことか。
もしひとたび、人間が「非生産的な」同胞を殺す権利を持ったら、原則的にはあらゆる非生産的な人間への殺人、すなわち不治の患者、労働と戦争の負傷者の殺人、そしてもし私たちが年をとり老衰し、非生産的になる時には私たちすべての者の殺人が自由に許されることになるのだ。
82年も前の説話だぞ。