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2022-08-01

国葬反対、内閣自由民主党合同葬で十分

安倍晋三国葬に反対する、なぜなら国葬の重みが下がるからだ。

20世紀に行われた国葬は以下の通り。

1903年 彰仁親王 元帥 陸軍大将 参謀総長

1909年 伊藤博文 公爵 内閣総理大臣 元老

1912年 明治天皇 天皇 大喪

1913年 威仁親王 元帥 海軍大将 軍事参議

1914年 昭憲皇太后 皇太后 大喪

1916年 大山巌 公爵 元帥 陸軍大将 内大臣

1919年 李熈 李太王(元韓国皇帝 高宗

1922年 山縣有朋 公爵 元帥 陸軍大将 内閣総理大臣 元老

1923年 貞愛親王 元帥 陸軍大将 内大臣

1924年 松方正義 公爵 内閣総理大臣 元老

1926年 李坧 李王(元韓国皇帝純宗

1927年 大正天皇 天皇 大喪

1934年 東郷平八郎 侯爵 元帥 海軍大将 連合艦隊司令長官

1940年 西園寺公望 公爵 内閣総理大臣 元老

1943年 山本五十六 元帥 海軍大将 連合艦隊司令長官

1945年 載仁親王 元帥 陸軍大将 参謀総長

1951年 貞明皇后 皇太后 大喪儀(事実上国葬、準国葬

1967年 吉田茂 内閣総理大臣 国葬

1989年 昭和天皇 天皇 大喪の礼

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いずれも皇族歴史的人物だけである

賛否があった吉田茂も、サンフランシスコ平和条約によって日本独立と第2の建国を達成した実績がある。

これらの偉人たちと安倍晋三が並び立つことが可能なのか?

否。断じてである

日本国の国葬の重みが下がるだけである

そして外交儀礼云々が必要ならば内閣自由民主党合同葬で十分だ。

よって安倍晋三国葬には反対だ。

2022-06-17

歴代ノーベル文学賞受賞者と、受賞理由

https://moriishi.com/entry/nobel-prize-in-literature-early20c

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

面白かった。ウィンストンチャーチルも受賞してたの知らなかった。

日本人

1968年 川端康成 (1899 – 1972)

日本人の心の真髄をすぐれた感受性をもって表現し、世界の人々に深い感銘を与えたため

受賞講演 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BA%8F%E8%AA%AC

1994年大江健三郎 (1935 – )

詩趣に富む表現力を持ち、現実虚構が一体となった世界創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている

2017年 カズオ・イシグロ (1954 – )

壮大な感情の力を持った小説を通し、幻想的な世界とのつながりの感覚の下にある深淵発見した

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1901年 シュリ・プリュドム(仏)

高尚な理想主義芸術的完成度の形跡、心情と知性の両方の資質の珍しい組み合わせを与える、詩的な構成物に対して

1902年 テオドールモムゼン(独)

彼の記念碑著作"ローマ史"を代表作として、存命中歴史著作家の中では最大の巨匠であること

モムゼン ローマ歴史I―ローマの成立―

1903年 ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(ノルウェー

その感化の鮮度と精神の希少な純度の両方において名高い、高貴で壮大、且つ多彩な詩に敬意を表して

アルネ

1904年 フレデリックミストラル(同時受賞)(仏)

プロヴァンス言語学者としての重要な業績の他、自然景観と人々の土着の精神を忠実に反映した、彼の詩作の新鮮な独創性と真の触発に対して


1904年 ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ(同時受賞)(スペイン

独創的で個性的手法スペイン演劇の偉大な伝統を復活させた、数多くの鮮やかな構成物に対して


1905年 ヘンリク・シェンキェヴィチ(ポーランド

叙事詩作家としての顕著な功績に対して

1906年 ジョズエ・カルドゥッチ(伊)

念入りな学究とその成果を評価するとともに、創造的なエネルギースタイルの新鮮さ、詩的な傑作を特徴づける叙情的な力に敬意を表して

1907年 ラドヤード・キプリング(英)

この世界的に有名な作家創作を特徴づける、観察力、想像力独創性、発想の意欲と、叙情非凡な才能に対して

ジャングル・ブック

1908年 ルドルフ・クリストフ・オイケン(独)

真実のための本格的検索思考の一貫した力、視野の広さ、表現の暖かさと強さによって、数多くの作品の中で人生理想主義哲学実証したこと

1909年 セルマ・ラーゲルレーヴスウェーデン

その著作を特徴付ける崇高な理想主義生気溢れる想像力精神性の認識を称えて

ニルスのふしぎな旅

1910年 パウル・フォン・ハイゼ(独)

叙情詩人、作家そして世界的に知られた短編小説家としての長年の創作活動を通して世に送り出してきた、無上の芸術性、理想主義の浸透を賞賛して

1911年 モーリス・メーテルリンクベルギー

多岐にわたる文学活動特に戯曲の数々を評価して。豊かな想像力と詩的な空想は、時に御伽話の形を装いながらも、それぞれの作品神秘的な方法で読者ひとりひとりの感性に訴え想像力を刺激する間、深い創造的発想を明らかにする

青い鳥

1912年 ゲアハルト・ハウプトマン(独)

主に、演劇の分野での豊饒で多様、且つ顕著な功績に対して


1913年 ラビンドラナート・タゴール(印)

西洋文学一角なす英語思考表現された、至極の技巧による彼の深く敏感な、鮮やかで美しい韻文に対して

1914年該当者なし

1915年 ロマン・ロラン(仏)

彼の文学活動の高尚な理想主義に、人類の異なるタイプ描写した思いやりと真の慈愛に、敬意を表して

ジャン・クリストフ

1916年 ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム(スウェーデン

我々の文学における新時代を率先的に代表する者としての重要性を認めて

1917年 カール・ギェレルプ(同時受賞(デンマーク))

崇高な理想に触発された、彼の多様で豊かな詩に対して

1917年 ヘンリク・ポントピダン(同時受賞)(デンマーク

デンマーク現代生活の本格的な描写に対して

1918年該当者なし

1919年 カール・シュピッテラースイス

1920年代

1920年 クヌート・ハムスン(ノルウェー

彼の記念碑著作"土地の成長"に対して

ヴィクトリア (岩波文庫)

1921年 アナトール・フランス(仏)

格調高い様式人類への深い共感優美さ、真なるガリア人気質からなる作風による、文学上の輝かしい功績が認められた。

神々は渇く

1922年 ハシント・ベナベンテ(スペイン

スペイン演劇の輝かしい伝統継承する、幸福手法に対して

1923年 ウィリアム・バトラー・イェイツアイルランド

芸術性が高く精妙な詩歌によって国民全体の精神表現した貢献に対し

1924年 ヴワディスワフ・レイモント(波)

彼の偉大なる国民叙事詩"農民"に対して

1925年 ジョージ・バーナード・ショーアイルランド

他に類を見ない風刺に満ち、理想性と人間性を描いた作品を送り出した事に対して


1926年 グラツィア・デレッダ(伊)

まれ故郷の島での生活人間一般的問題を深く人工的に明快に描写した、理想的な天来の著作に対して

1927年 アンリベルクソン(仏)

彼の豊かで活発な発想と、それが表現された鮮やかな技巧に対して

時間自由

1928年 シグリ・ウンセット(ノルウェー

主に、中世北欧生活についての力強い著述に対して

1929年 トーマス・マン(独)

主に現代古典としての認識を広く得た傑作『ブッデンブローク家の人々』に対して

ブッデンブローク家の人びと

魔の山

1930年 シンクレアルイス(米)

活き活きとした写実的描写技術および機智とユーモアを伴った、新しいタイプ人物を造形する能力に対して

本町通り

1931年 エリクアクセルカールフェルトスウェーデン

エリクアクセルカールフェルトの詩に対して

1932年 ジョン・ゴールズワージー(英)

"フォーサイト物語"で頂点を極めた、優れた物語芸術に対して

林檎の樹

1933年 イヴァンブーニンソ連

散文によって古典的なロシア伝統継承した厳格な芸術に対して

呪われた日々、チェーホフのこと

1934年 ルイジ・ピランデルロ(伊)

劇的且つ美しい芸術を、大胆且つ独創的に復活させたこ

月を見つけた

1935年該当者なし

1936年 ユージン・オニール(米)

悲劇の独創的な概念を具現化する、彼の戯曲の力強さ、誠実的さ、深い感情に対して

楡の木陰の欲望

1937年 ロジェ・マルタン・デュ・ガール(仏)

"チボー家の人々"で、現代生活のいくつかの基本的な側面のみならず、人間葛藤を描いた芸術の力と真実に対して

チボー家の人々

1938年 パール・S・バック(米)

中国での農民生活の豊かで真に叙事詩的な記述と、彼女の伝記の傑作のために。

1939年 フランス・エーミルシランペー(フィンランド

1940年代

1940年該当者なし

1941年該当者なし

1942年該当者なし

1943年該当者なし

1944年 ヨハネス・ヴィルヘルム・イェンセン(デンマーク

広い視野知的好奇心と大胆で新鮮な創造スタイルに結びつけられた、彼の詩的想像力の類稀なる強さと豊かさに対して

1945年 ガブリエラミストラルチリ

その力強い動機に触発された抒情詩によって、彼女の名が全ラテンアメリカ世界理想主義的な願望の象徴と化したこと

1946年 ヘルマン・ヘッセスイス

古典的な博愛家の理想と上質な文章を例示する、大胆さと洞察の中で育まれた豊かな筆業に対して

車輪の下

1947年 アンドレジッド(仏)

人間問題や状況を、真の大胆不敵な愛と鋭い心理洞察力で表現した、包括的芸術的重要著作に対して

狭き門

1948年 T・S・エリオット(英)

今日(こんにち)の詩文学への卓越した貢献に対して

1949年 ウィリアム・フォークナー(米)

アメリカ現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献に対して


1950年代

1950年 バートランド・ラッセル(英)

人道的理想思想の自由尊重する、彼の多様で顕著な著作群を表彰して

哲学入門

1951年 ペール・ラーゲルクヴィスト(スウェーデン

人類が直面する永遠課題に対し詩作により解を探ろうと試みる芸術的活力と真の意味での精神的自立に対して

バラ

1952年 フランソワ・モーリアック(仏)

彼の小説人間生活ドラマに浸透した、深い精神的な洞察力と芸術的な強さに対して

テレーズ・デスケル

1953年 ウィンストンチャーチル(英)

歴史や伝記の記述熟達に加え、高揚した人間価値についての雄弁な庇護であること

第二次世界大戦

1954年 アーネスト・ヘミングウェイ(米)

"老人と海"に代表される、叙述の芸術への熟達と、現代ストーリーテリング形式に及ぼした影響に対して

老人と海

1955年 ハルドルラクスネスアイスランド

アイスランドの偉大な物語芸術革新した、彼の鮮やかで壮大な力に対して

1956年 フアン・ラモン・ヒメネス(西)

高邁な精神芸術的純度の一例を構成する、スペイン語による彼の叙情的な詩に対して

1957年 アルベール・カミュ(仏)

この時代における人類道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要文学創作活動に対して

1958年 ボリス・L・パステルナークソ連

現代風の叙情的な詩、および大ロシア歴史伝統に関する分野における、彼の重要な功績に対して

ドクトル・ジバゴ

1959年 サルヴァトーレ・クァジモド(伊)

古典的な火で現代生活悲劇的な経験を照らし出す、叙情的な詩に対して

1960年代

1960年 サン=ジョン・ペルス(仏)

我々の時代の状況を先見的に反映した、彼の詩の高らかな飛翔と喚情的な形象に対して

1961年 イヴォ・アンドリッチユーゴスラビア

自国歴史主題人間運命を叙述した、彼の偉大な力量に対して

宰相の象の物語

1962年 ジョン・スタインベック(米)

優れた思いやりのあるユーモアと鋭い社会観察を結びつけた、現実的で想像力のある著作に対して

怒りの葡萄

1963年 イオゴス・セフェリス(希)

ヘレネ世界観への深い感情から着想を得た、優れた詩作に対して

1964年 ジャン=ポール・サルトル(受賞辞退)(仏)

アイデアに富み、自由精神真実の探求に満ちた彼の作品が、私たち時代に広範囲な影響を与えてきたことに対して

嘔吐 

1965年ハイル・ショーロホフ(ソ連

彼の「ドン」の叙事詩によって、ロシアの人々の生活歴史的な段階を表現した芸術の力と整合性に対して

静かなドン

1966年 シュムエル・アグノン(同時受賞)(イスラエル

ユダヤ人の人々の生活モチーフにした、深遠に個性的な叙述の芸術に対して

1966年 ネリー・ザックス(同時受賞)(スウェーデン

イスラエル運命を伝える優れた詩と劇作に対して

1967年 ミゲル・アンヘル・アストゥリアスグアテマラ

ラテンアメリカ原住民伝統国民性に深く根ざした、鮮やかな文学的業績に対して

マヤの三つの太陽

1968年 川端康成日本

日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現世界の人々に深い感銘を与えたため

雪国

1969年 サミュエルベケットアイルランド

小説戯曲の新たな形式の中で、現代人の悲惨を描き、その芸術的な偉業を果たした彼の作品に対して

ゴドーを待ちながら

1970年代

1970年 アレクサンドル・ソルジェニーツィンソ連

ロシア文学の不可欠な伝統を追求したその倫理的な力に対して

収容所群島

1971年 パブロ・ネルーダチリ

一国の大陸運命と、多くの人々の夢に生気を与える源となった、力強い詩的作品に対して

1972年 ハインリヒ・ベル(西独)

時代への幅広い眺望と鋭い描写によって、ドイツ文学刷新に貢献した

1973年 パトリックホワイト(豪)

文学新大陸を導入した、叙事詩心理的叙述の芸術に対して

ヴォス―オーストラリア探険家の物語

1974年 エイヴィンド・ユーンソン(同時受賞)(スウェーデン

地域および各時代俯瞰しつつ自由のために奉仕する語りの技法に対して

1974年 ハリーマーティンソン(同時受賞)(スウェーデン

露のひとしずくを捉えて宇宙を映し出す作品群に対して

ニアーラ

1975年 エウジェーニオ・モンターレ(伊)

2022-05-29

自分若いうちにに女をヤリ捨てしまくる」が一番要求スペック低い戦略なのに

まず適当なブスとかババア努力して口説いて彼女としてキープして

彼女ができたらモテるのを利用して

少し容姿のいい女を努力して口説いて彼女としてキープして

どんどん彼女を増やして

最終的に一番いいなと思える女と結婚すれば

少子化が進んでおり「上の年齢階級ほど人口が多い」という傾向を持つ2022年現在、多くの女性から選ぶことができるのに、

その逆をやり(10代~30代をゲームネットだけやって時間をドブに捨て、40代50代弱者男性になって焦って20代前半有職女性を急に狙いだす)、

当然の結果として余る、愚かな中年男性

 

2021年日本において、30代前半男性の53%は既婚。

年代同性の過半数が既婚の年齢になっても未婚のままでいる、

10代~30代を怠けて時間をドブに捨てた40代50代余り物中年が、

なぜ20代前半女性しか可愛い経済的自立している)に対して「イケる」と思えてしまうのか。

 

45~49歳男性需要も無いのに505万人もいて、

2024女性大人気なのに311万人(45~49歳男性の6割の人数)しかいない。

なぜこんなに減ったかというと、2024歳は45~49歳の子世代からだ。

45~49歳のうち結婚して子供を作った人の割合が低かったか2024歳はこれだけ減った。

余り物の45~49歳男性が、まともな2024女性に選ばれるわけがない。父親の年齢だ。

しかも、35歳を過ぎた睾丸生産された精子はメチル化が起きやすく、子供発達障害ASD)率を上げる。

理解婚(生活費)を求めているメンヘラ貧困層などではない、まともな個体なら、±3歳以内の同年代婚をする。

夫大幅年上の結婚割合が激減し、同年代婚の割合が激増しているのは、統計に出ている。

1943年結婚は平均4.5歳男性年上→2010年の結婚は平均1.7歳男性年上と、年齢差が縮小。

婚姻数全体に占める「同い年結婚」の割合1970年10%→2015年21%と倍増。

婚姻数全体に占める「±3歳婚」の割合1970年50%→2015年80%。男性年上婚は半減した。

若い女性が同世代結婚したがっている以上、余り物中年男性は、もう手遅れなのだ

いい年して独身の奴って本当に好きになった相手しかアプローチしてはいけないとか

好きな相手に一途になるのが美徳みたいな下らない倫理観に囚われてる奴が多い

そういう奴はストーカーになるか片思い引きずって高齢独身になってる

若い頃女遊びやヤリ捨てに精を出してた奴で、高齢になって独身の奴って見たことない

いい加減一途が美徳みたいな風潮は無くして女遊びやヤリ捨てを推奨する風潮に変わるべき

人生って下らない倫理観を捨てると充実してくるよな

浮気やヤリ捨てをしてはいけないとか本当に好きな相手しか口説いてはいけないって思いこんでて彼女ができない奴は

浮気やヤリ捨てを解禁して付き合う気になれない女も口説いてヤリ捨てするようにすると

人生楽しくなってくる

口説けた女の中から一番マシな女を彼女にすればいい

結局清潔感とか努力する気になれないのは一人の女だけを大切にしなきゃいけないっていう倫理観があるからなんだよな

そういう倫理観があるとせっかく清潔感を磨いても一人の女としかヤれないからもったいなくて清潔感を磨く気なんてなくなる

女なんて片っ端からヤリ捨てしまくっていいっていうスタンスでいると清潔感を磨けるようになるからオススメ

清潔感を磨きつつ街コンマッチングアプリ出会った女を片っ端からホテルに誘ってヤリ捨てしていくようにすると自然清潔感を磨くのが習慣になる

2021-10-16

[]ヴィリー・ヘロルト

「エムスラント処刑人」として知られる。

1925年ドイツ生まれる。

第二次世界大戦下の1943年徴兵され、1945年3月、戦いの最中に本隊とはぐれてしまう。

そのときたまたま空軍大尉軍服を手に入れたへロルトは、それを着て大尉なりすまし

同じく本隊からはぐれた数十人の兵士たちを引き連れて、エムスラント収容所に到着した。

へロルトは、自分ヒトラー命令で動いていると偽って、そこの収容者たちを処刑しはじめた。

一週間ほどで200人近くが殺害されたという。

イギリス空軍の爆撃を受けたために、収容所破壊され、ヘロルトたちも脱出した。

各地を放浪しながら、ヘロルトたちは散発的に処刑を行った。

その後、一旦はドイツ軍に逮捕されたが、混乱のなかで釈放され、そのままへロルトは逃亡した。

終戦後の1945年5月23日に、パンを盗んだ罪でイギリス軍逮捕されて、あらためてその戦争犯罪が発覚した。

そして1946年11月14日、へロルトの命令にしたがった何人かの兵士とともに、ギロチン処刑された。享年21。

2021-08-23

「ガス殺死体は一体も見つかっていない」ホロコーストの話

阪神淡路大震災オウム真理教をめぐる事件で騒がしかった1995年に起きた、文藝春秋雑誌マルコポーロ』を廃刊にしてしまった事件の、そのホロコースト否定記事の著者である西岡昌紀氏がその記事でも使った文章がこれである

 

「なんと驚くべきことに、ガス殺の遺体は一体も見つかっていないのです」

西岡はそれ以来、繰り返しこのセリフを語った。今回はこれについて考えてみよう。

 

ガス殺遺体は見つかってないこともないのだが…… 

上の西岡が使う常套句は、実は微妙に嘘なのであるが、ほんとでもあるというややこしい話でもある。嘘であるというのは、見つかっていたという報告自体存在するからだ。知られているのは二つあり、一つはマイダネク収容所ソ連犯罪調査委員会による報告書であり、1944年10月頃という早い時期にまとめられた報告書の中に、ガス殺遺体発見事実さらっと書かれている。マイダネクはソ連赤軍の急襲にあって終戦前年の1944年7月にさっさとソ連解放されてしまったので、ガス室やその遺体の処理が間に合わなかった、とされている。もう一つはロシア南西部黒海に面するクラスノダールでもガス殺遺体発見されたと報告されている。こちらの方は1943年初頭にさっさとソ連占領されてしまっているので報告(裁判)の時期も1943年7月と最も早い。ガス殺遺体写真である

 

このように実際には見つかっていたという話を知らないネット否定派は多いようだが(西岡1995年当時には知らなかっただろう)、見つけたのがソ連であるという理由で信じないのが否定である。実は個人的にもマイダネクの報告書ちょっと怪しいと思っているが細かい話になるのでそれはここでは言わない。クラスノダールの方は写真まであり、その写真自体に「一酸化炭素中毒死体」とまではっきりコメントが書いてあって、信頼性はあるように思うのだが、ソ連裁判という理由否定派は認めようとしない。当時ソ連見せしめ的な裁判をやっていたらしく、それが信じない理由とされているようだが私は詳しくは知らない。

 

しかしこれが、否定派が主たる攻撃対象としている絶滅収容所、中でもアウシュヴィッツ収容所の話になってくると、確かに解放後に連合国によって一体も発見されていないのは事実である定説では、それらのガス殺による遺体は全部焼却処分してしまたかである。が、ここでは少し否定派側の視点に立って考えてみよう。

 

ガス殺死体が一体も見つかっていないのに、なぜガスによる虐殺があったと認定されるのか?

かに、そう言われると奇妙な気もしてくる。一般的に言って、死体なき殺人は肝心の殺された死体存在しないため、その立証は困難である。かつて日本で起きた北九州一家連続殺人事件では家族七人が殺されたが、その死体は一体も見つからなかったどころか、犯行現場とされたアパートからも血痕の一つも見つからず物的証拠は何一つ存在しなかった。その為、主犯格共犯者である愛人と逃げて助かった生存者の証言事件を立証する以外になかったのである

 

しかし、アウシュヴィッツは七人どころではなく、約百万人がガス室で殺されたとされている。ニュルンベルク裁判時点では250万人〜400万人という膨大な犠牲者数が述べられた。なのに、ガス殺死体は一体も見つかっていないというのは極めて異常な話ではないのか? ガス室による殺人は全く立証されていないじゃないか、と言いたくもなるのだろう。特に、青酸ガスという毒ガスで殺されたという類例のない事実を立証するには、遺体の検死解剖の一つくらいあっていいはずなのにそれすらないのだから疑惑を持つ人がいても不思議ではない、とは思う。

 

では一体どうやって毒ガスによる大量虐殺を立証したのであろうか?

 

実はその立証の主役となった証言は極めて多数でありまた詳細でもあった

流石にニュルンベルク裁判やその他の裁判で具体的にどのように立証していったのかという全貌は知らない。よほどの研究者でもない限り、膨大な裁判資料精通している人は限られると思う。ニュルンベルク裁判資料ですら素人には手に負えない。

 

しかし、物証の一つである文書資料もそこそこ裁判採用されているようであるナチス親衛隊は徹底的に大量虐殺事実隠蔽しており、例えば直接「毒ガスで殺した」などと文書記述したりしなかった。ガス室についても、残されている図面には「死体安置所」としか書かれていないし、アウシュヴィッツ火葬場に関する使用データも一切残さなかった。収容所解放前にガス室のあったビルケナウのクレマトリウムは全て解体撤去・爆破処分しており、火葬炉の一つも残っていない。それでも、ある文書の中には「ガス室」とついうっかり書いてしまったのであろう記述があったりもしたし、クレマトリウムの残存パーツからシアン成分も検出している。

 

さらに、裁判採用された証言者は何百人にも上り、その多くは非常に具体的にガス室のことを証言しており、詳細な証言もいくつもあった。ガス室での殺害目撃証言も多数存在したし、ともかく大勢の元囚人ガス室に関する証言を行なった。中でも、遺体処理を担当したゾンダーコマンド生存者の証言は極めて詳細であった。最も衝撃的だったのはアウシュヴィッツ収容所司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスニュルンベルク裁判での証言であった。彼は、他の多くの加害者側の人間とは異なり、無罪を主張しなかった。それどころか、自分から進んで積極的にそのおぞましい犯罪の全貌を裁判で語ったのであるさらに彼は、拘置所において自らの意思回想録執筆し、裁判時の証言よりもさらに詳細な内容であった(この自伝日本でも普通に売ってる)。

 

かい話をすれば、例えばナチス親衛隊による大量虐殺隠蔽に関する証言でさえも、囚人証言している。「ガス室での殺害については、「特別処理」という表現記載していました」などの証言も何人もしている。これは事務的部署でも囚人が働いていたかであるさらにそうした証言をしている法廷で裁かれていた加害者側の被告であった親衛隊員たちは、ガス室を全く否定しなかった。それら親衛隊員が裁判反論したのは、自らの意思に基づく非道な行い等についてのみであり、指示・命令で行っていた任務であるガス室に関しては否定しなかったのである

 

結局、後々のナチ犯罪裁判を含めそれら戦犯裁判では誰一人、ガスによる大量虐殺否定しなかった。少数の「知らなかった」と語った証人被告存在しただけである果たして、こうした証言状況で、「ガス殺死体が一体も見つかっていない以上、それらの証言は全て疑わしい」と言えるのであろうか?

 

ガス室大量虐殺を認める証言否定派にとっては全て嘘になる法則

ネットに多い素人否定派程度では、まさかガス室大量虐殺を認めることになる証言が何百件もある(裁判以外も含めれば何千件になるのか見当もつかない)だなんて知らないと思うし、それらの証言の一つもまともに読んだことすらないだろう。例えばその一つを任意に選び出してみよう。

証人アウシュヴィッツ絶滅された子供たち移送に関しては、ゾンダーコマンド特別部隊)で働いていた同僚からいたことを繰り返すことができますの子供たちはガスで殺されました。ビルケナウの最初火葬場で行われたテストガスの犠牲者でした

私は3週間の検疫を経て、クレマトリウム建設班に配属されましたが、そこで初めてグラブナーと出会いました。ある時、私の仲間が50キロセメント袋を運んでいたのですが、その重さに耐えられず、グラブナーは私のカポーに向かってこう言いました。「あの犬にとどめを刺せ」と。カポーシャベルの柄を折って、それと自分の足を使って囚人を激しく殴り、彼は本当に死んでしまいました。これはグラブナーの指示で行われました。

その後、私は火葬からカナダ」という兵舎に移されました。そこでグラブナーと再会しました。グラブナーは政治部部長で、ガス処刑される人たちの書類をモルに渡していました。グラブナーはほとんどすべての輸送列車の到着に立ち会っていました。

ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠(2)|蜻蛉|noteより

 

人間証言には、しばしば誤りが存在する。記憶間違いであったり認識間違いであったり誤解であったり、場合によっては意図的な嘘であったりもする。個人的に、こうした証言をたくさん海外サイトから翻訳したので、そこそこ誤った内容を含む証言があるのも知っている。しかしだからと言って「ガス室」に関する証言のその全てが嘘になることなどあり得るのだろうか? 知っている裁判証言だけで数百件に上るのだが。

 

しかもそれらの証言に含まれる「ガス室」に関する内容は、ただ単に「ガス室があった」と言っているだけでなく、上にあげたたった一つの例ですらも具体的な内容を持つ証言の中で示されているのであるしかもそれらは裁判の中での証言であり、被告法廷存在しており、被告には証言者への質問の機会も与えられていたのに、誰一人被告ガス室否定しなかった。

 

でも否定派は、それら証言をどんな難癖をつけてでも否定する。上の例では、「連合国陰謀者によって、ガス室証言をするように脅迫されている可能性がある」等。また、否定派が最も証言に対して使うセリフは「矛盾があるものばかりであるであるルドルフ・ヘスに至っては、ほんの些細な記憶間違いとしか考えられない証言上の矛盾を元に、証言の全て(もちろんガス室大量虐殺に関することだけ、であるが)が連合国によって強制的に嘘を言わされていることにされた。私はそれをいうネット否定派に対して、「ではあなたは数年前の出来事について一つの誤りもなく証言できるのですか?」と質問したがまともに答えが返ってきたことは一度もない。ひどい場合には、単なる翻訳上の間違いを元にして「この証言には矛盾がある」と難癖をつけられていたことさえある。

 

でも、真面目な否定派もいるにはい

少なくとも、マルコポーロ事件西岡昌紀は真面目とは言い難い。その理由は、絶対にただの一つとしてもホロコースト否定説には欠陥があることを認めようとはしないかである。実は、稀にこの「否定説の欠陥」に気付く否定派がいる。中でも否定説の最大の欠陥は、では「一体、数百万人に上るユダヤ人はどこへ消えたのか?」に答えられないことであるユダヤ人ナチドイツの手によって大量移送されたこ自体否定する人はいないので(それすら知らない人は別だが)、殺されていないのなら数百万人の消えたユダヤ人はどこかに生存していなければならない。古くは、ソ連だった。ソ連スターリン収容所収容しただとか、移住させたのだとか、色々言っていたらしい。だが、冷戦が終わってなお、そんなユダヤ人は全く確認することは出来ない。旧ソ連に関するそうした情報も公開されているのだが、どこにも出てこない。

 

ほんの僅かだけど、ネット議論しているとそこに気づいた否定派もいた。確かにその質問には否定派は答えられない、と。欧米では、著名な否定派が、さらに高名な否定派の誰にそのことを聞いても「知らない」と返答されるだけだったので、否定派を辞めてしまった人さえいる。この重大な欠陥を認めるか否かが、ある種の分水嶺になっているとは思われる。

 

2021-08-21

アウシュヴィッツプールと『パサジェルカ』

ホロコーストは嘘」って主張自体が嘘である、と言うことは日本ではあまり知られていない。せいぜいが「ホロコースト否定してはいけない」程度の認識であるようだ。私ほどの物好きでもない限り、そのファクトチェックを行うという面倒なことをする人は滅多にいないから仕方ない。欧米否認論の本場なので、否認論に対抗する人もそれなりにいて「ホロコーストは嘘」自体が嘘であることはそこそこは知られているようであるTwitterなどで状況が意外と簡単にわかる。

 

だが「嘘」と言っても、その実態はややこしい。そのほとんどは事実を用いた印象操作のようなものであり、細かな具体的主張それ自体が嘘そのものであることは少ないかである。いわばホロコースト否定論はその主張をする人が意図的無自覚であるかは別として「詐術」なのであるしかし、あなたの知性が正しく働いているのならその詐術に騙されることはない。例をあげよう。

 

アウシュヴィッツプール

アウシュヴィッツには遊泳プール存在し、親衛隊員や囚人水球で楽しく遊んでいたという事実まで存在する。アウシュヴィッツ収容所地獄のような過酷収容所ではなかったのか?」というものである。後段の疑惑はともかく、これは事実であり、確かにアウシュヴィッツには遊泳プール存在し、元囚人の手記によると親衛隊囚人水球などで楽しんでいたようである

 

先に結論を言うと、遊泳プールがあったからと言って、アウシュヴィッツ収容所地獄のような過酷収容所であった事実は変わらない。登録囚人限定しても(登録されずに殺されたユダヤ人が圧倒的に多いが)、毎月数千人単位で死者が出る収容所だったのである。だけど、そう説明されたところで、遊泳プール存在は思っていたアウシュヴィッツイメージ全然違い、かなり違和感があると思う人もいると思う。実は肝心なことは「思っていたアウシュヴィッツ収容所イメージ」なのである。そしてこのプールの話は、実際、相当色々とよく知っていないと納得しづらい人もいて当然だと私も思う。

 

まりに何もかもをここで説明するのは無理なので、アウシュビッツ収容所のみに限定して簡単解説する。アウシュヴィッツ収容所ポーランドにあり、1940年5月ごろから実質的スタートした強制収容所である最初は、ユダヤ人のためではなく、政治犯主体として収容するための強制収容所であり、ドイツ人ポーランド人などが収容されていた。翌年1941年6月を過ぎると独ソ戦によって発生した赤軍捕虜が大量に収容されるようになっていく。が、この赤軍捕虜に対する扱いはあまりにも非道であり、特に政治将校はその大半が銃殺刑で処分された。いわゆる国際法ガン無視のコミッサール司令である。また、アウシュヴィッツで行われた最初ガス室での殺害犠牲者はこのソ連捕虜だった。そして、元のアウシュヴィッツ強制収容所からキロ離れたところにあるビルケナウ捕虜収容所建設が始まると、そのソ連捕虜建設労働に駆り出され、一万人くらいいたはずのソ連捕虜の大半は一年も経たずに大半が過労・餓死などで死んでしまったのである

 

ユダヤ人については、当初からユダヤ人も含めて政治犯として収容はされていたものの、囚人登録もせず収容もしないで収容所到着時にそのままガス室送りにしてしまう、いわゆる「ユダヤ人絶滅」がアウシュヴィッツで始まるのは1942年3月からであり、ビルケナウの敷地外にある農家を改造したガス室(ブンカーと呼ばれる)で最初一年くらいは実施されており、1943年3月にクレマトリウムと呼ばれる火葬場が完成すると、その後はビルケナウのクレマトリウムで行われるようになっていく。アウシュヴィッツの基幹収容所ガス室は併設された火葬場の火葬能力が低いこともあり、実は絶滅にはほとんど使われておらず、1942年末でガス室使用を終了している。ともかく、ビルケナウ収容所でのユダヤ人ガス室での大量殺害は、ヒムラーが中止命令を出す1944年10月末ごろまで続いた。ガス室ではトータルで100万人程度虐殺されたと言われている。

 

もちろんだが、ガス室での殺害は何も囚人にさえしてもらえなかった非登録ユダヤ人だけではない。最初の選別では老人や14歳以下の子供、子持ちの女性などが労働不適格としてガス室送りにされたが(概ね到着したユダヤ人の75%、ただし選別条件に当てはまるのに例外的囚人登録された人もいた)、囚人登録されたところでその大半は3ヶ月程度で役立たずになりガス室送りになるか病棟バラック注射で殺されたりもした。こうした収容所内での「選別」は常時行われており、その選別方法親衛隊の選別の担当長が適当恣意的に選んでいるだけなのが実態だった。親衛隊員による囚人への暴行日常茶飯事であり、殴り殺すことさえ珍しくなかった。些細なことでも見せしめ的に処刑されたし、収容所内での配給食料だけに頼っていたらすぐに死んでしまうほど食料の質も劣悪だったりもした。

 

……とまぁ、これだけ酷い話を聞いていたら、「プールで遊ぶなど考えられない」と思う人がいても全く不思議ではないと思う。プール存在に対する疑念はこのアウシュヴィッツ悲惨イメージとあまりにかけ離れているから生ずるのだ。だが……。

 

遊泳プール存在アウシュヴィッツ残酷場所だったことを示す

このプール詐術に引っかかる人は、人間が斯様にも残酷になれるということを理解出来ていないのである。ここで一つ解説を加えておくと、このプール絶滅の行われていた現場であるビルケナウではなく、アウシュヴィッツ基幹収容所の方にあったが、元々の目的防火用であり、完成したのは1944年8月ごろである推定される(フランクフルトアウシュビッツ裁判証言にある)。収容所親衛隊員は、ユダヤ人囚人に命じて飛び込み台を作らせ、遊泳プールとしても使えるようにした。で、このプールを利用して遊んでいたのは親衛隊員と、上級囚人だけだったのである上級囚人とはユダヤ人でない囚人のことであり、おそらくは過酷労働をしていなかった囚人であるカポなどであろう。つまりは、大半の囚人毎日酷い目にあっているそのすぐ側で、収容所生活を存分に謳歌している人たちがいたというのが事実なのであるビルケナウの方ではサッカーでさえ楽しんでいたそうだし、有名なアウシュヴィッツオーケストラ演奏会をさせたり、囚人劇団まで作らせて劇場で公演させたりもしていた。また親衛隊員は当然として上級囚人も、ユダヤ人ら下等囚人食事量・質とも全く違ったし、親衛隊員は恣意的食品などを横流しさえしていた。さらに、ユダヤ人が持ってきた私物(「再定住させられる」と言って騙されて連れてこられているのだから、それらはユダヤ人の全財産と言っていい)を全部収容所の方で掻っ攫うのであるけれど、そこから横領しない親衛隊員などいなかったと言われるほどである(ただし横領は発覚すると厳罰処分が下される)。

 

もちろん、囚人たちの多くはそうした私腹を肥やす親衛隊員たちの行動や、プールなどを楽しんで収容所生活謳歌している姿も知っていた。だから戦後地元法廷で、少ないとはいえ裁かれた親衛隊について証言者となった元囚人たちのほとんどは、それら親衛隊被告非道ぶりを存分に告発したのである

 

「単なる印象」にあまりに弱すぎるネット否定派達。

ほんとに否定論の細かい具体的な主張ってこの手の話があまりに多い。例えば「ガス室の扉が木製だなんておかしいじゃないかアメリカ死刑ガス室は鉄製の部屋でありドアだって厳重なハンドルまでついていて非常に厳しい毒ガス管理をしているくらいだ。あんな木製の簡易な扉だったらガス漏れして外にいる人まで死んでしまうに違いないから、あれがガス室だったなんてあり得ない」ってのがある。んでこの話、たくさんの米国死刑専用ガス室写真とともに出回っている。

 

えー、青酸ガス発生用に使っていたチクロンB害虫駆除用として当時一般に広く使われており、それなりに密閉処理さえすれば「どこでも」使えた。それなりの密閉処理とは空気漏れ起こしそうなドアの隙間などにダクトテープを貼る程度のものであるアウシュヴィッツ収容所にも、殺人ガス室以外に衣服などのシラミ駆除のための専用ガス室複数存在し、現在現存しているが、それらのガス室の扉も殺人ガス室と同じ木製扉であり、気密には隙間にフェルトが貼られているだけであるチクロンB製造であるディケシュ社の文書にも別に木製扉がダメだとは書いてない。専用の頑丈な鉄製のガス室しか青酸ガスを発生させられないような害虫駆除剤だったとしたら、当時一般的に広く使われたはずがないだなんて、少し考えればわかることなのに。

 

「じゃぁ何故米国処刑ガス室あんなに頑丈そうに出来ているのか?」と聞かれたって答えは知らないが、それなりの要求仕様があるとか昔からの慣習であるとか、何か理由があるからであろう。でもそーういうことは否定派さんは全く調べない。いずれにしても、実際にチクロンは当時広く使われていたのだから米国処刑ガス室構造は、アウシュヴィッツガス室に関しては何の参考にもならないのである。どうしてそんな見た目の単なる印象に過ぎないことが、アウシュヴィッツガス室否定する理由になるのか?

 

『パサジェルカ』

今年はホロコースト映画公開が少し多いようだけど、一つとして見に行こうとは思わなかった。あんまり興味が湧かなかったからだけど、しか最近、古い映画にすごいホロコースト映画があるのを発見した。YouTube全編上がっているのだけど、惜しいのはポーランド映画であり全編ポーランド語でさっぱり言語がわからなかったりすることだ。日本でもDVDは発売されてるけど、買ってまで見ようとは思ってない。しかし何が凄いって、何気に再現度が凄い。興味がなければ何のことはないシーンだけど、ガス室にガスを投入する作業のシーンが思ってた通りの再現だった。ガス室というかクレマトリウムはすでに破壊されてなかったからわざわざセットで作ったのかと思うと尚更すごい。何気にあのチクロン投入煙突位置が正確なのも素晴らしい。未完成監督が死んでしまい、友人達で残っていた映像繋ぎ合わせただけらしいけど、唐沢寿明の『白い巨塔』よりもずっと前にアウシュビッツ収容所ロケ地に使っていた映画存在したというのも発見だった。

PASAŻERKA - POLSKI FILM PSYCHOLOGICZNY HD, WYSTĘPUJĄ: ALEKSANDRA ŚLĄSKA (SOUS-TITRES FRANÇAIS)

2021-07-23

アウシュヴィッツガス室への誤解

anond:20210718162617

人口数について簡単解説したけど、そのついでというかこんな話も。

 

大したプランもなしに始まったガス室

ホロコーストは誤解が多いというか、そんなに簡単でも無い話なのは間違いない。日本人ありがちな多くの誤解の一つが「アウシュヴィッツドイツにある」というものだろう。日本人に取って縁遠い話だし、義務教育世界史でも大して詳しく教科書に書いてあるわけでも無いから仕方ないが、ドイツ本国ではそんなに沢山のユダヤ人は殺されていないだとか、強制収容所絶滅収容所は違うだとか、ソ連でも現地虐殺部隊映画では例えば『炎628』は有名だが、あんな風なことが実際にあったかもしれないけど、その多くはピットを使った銃殺である現実の現地虐殺映画にしたら正視に耐えないだろう)でたくさん殺されたとか、細かい話をし出すと訳がわからなくなるかもしれない。

 

そんな多くの無理解や誤解の中でも、「ヒットラーナチスドイツ計画的ユダヤ人大量虐殺した」なる言葉に対する誤解があると思う。「計画的とあるから、何やらナチスドイツユダヤ人絶滅のために綿密なプラン策定してから絶滅計画推し進めたかのように捉えられがちだが、実は全然違う。むしろ最初から計画されたものではなかったと、今ではほとんどの歴史家同意している。昔は意図派と機能派と呼ばれる歴史家グループが盛んに論争したそうだが、最初から計画的意図的にユダヤ人絶滅を進めたという説はこの論争に敗れ去ったようである。私個人は、ナチス内部の権力争い・主導権争いがユダヤ人絶滅引き起こした原因だと考えているが、ユダヤ人絶滅ヒトラーの夢でもある事は間違いなかったと考える。そうでなければ、親衛隊だけでなく、ナチス全体、国防軍までユダヤ人絶滅に協力するなんてあり得なかったろうからだ。

 

しかし、ユダヤ人絶滅は、当初は確かに単なる支配地域からユダヤ人排除だった。そして当初のユダヤ人排除マスタープランであったマダガスカル作戦バトル・オブ・ブリテンでのドイツ実質的敗北によって実行できなくなった為、ドイツ地域東方へ拡大するというヒトラーの目論みと共に始まったバルバロッサ作戦、すなわち独ソ不可侵条約勝手に破ってソ連領へ進撃すると、今度はヨーロッパユダヤ人ソ連地域追放するという東方移送計画生まれる。ところが、この独ソ戦の見通しの甘さから最初こそ快進撃だったものの、1941年末には戦線が拡大しすぎて膠着状態に陥ってしまう。

 

しかし、ユダヤ人ポーランド地域などにあるゲットーへの移送(要するに狭い地域に押し込めることによる排除政策)がずっと続いため、とうとうゲットー悲鳴を上げ始めた。で、ゲットーに集めておいて、さら移送させるなどという面倒な事はやめて、ユダヤ人を殺すべきだ!との声が実際に上がり始めたのである現実には、共産主義と結託していたとみられたソ連地域ユダヤ人危険と見做され、ドイツ軍の進撃とともに、現地で絶滅させられる動きが既に始まっていたからであろう。

 

このような流れの中、1939年から既に始まっていた障害者絶滅作戦であるT4作戦を、ユダヤ人絶滅に流用する形で、ガス殺による大量殺戮実施されていくのである。だから毒ガス代表であるとされる青酸ガス=チクロンB最初は用いられず(実験的に使用されたという説もある)、T4作戦を引き継いだ形での一酸化炭素ボンから始まったのだ。もっとも、最初ポーランドポズナンでの精神障害者虐殺からスタートしたものをその辺の地域ユダヤ人殺害転用しただけのことである。そのうちに、ガスボン積載車地域を移動してガス殺を行うようになり、それがガソリンエンジン排ガスを使えば手っ取り早いということで、本格的なガス車へと移行していく。

 

このガス車によるユダヤ人殺害が、その近くにあったリッツマンシュタット・ゲットーでの「ユダヤ人なんか殺すべきだ!」との声に呼応する形でヘウムノ収容所で利用されるようになっていく。こうしてまず最初絶滅収容所であるヘウムノ絶滅収容所がガス車を持ちた形で稼働し始めたのであるリッツマンシュタット・ゲットーユダヤ人絶滅させるために。ヘウムノは一旦1943年中に活動を終えたのちに、1944年短期間だけ再稼働され、トータルで15万人以上のユダヤ人虐殺されたと言われる。

 

アウシュヴィッツビルケナウのガス室はどうだったのか?

これがいまいちよくわからない。ベウジェツ・ソビボル・トレブリンカはラインハルト作戦収容所として、ユダヤ人絶滅目的だけのために建設された収容所であり、かなり計画的ものであった事は間違いない。しかし、アウシュヴィッツラインハルト作戦収容所ではなく、そもそも一般強制収容所捕虜収容所であり、絶滅機能はあとで追加されたものであった。ではどのような経緯で絶滅収容所に設定されたのか? これが司令官だったルドルフ・ヘス証言の中にしか出てこない話で、ヘスは記憶を誤って証言したりしており、はっきりしない。最初ガス室アウシュヴィッツの基幹収容所で始まったのであるが、最初にガスで殺されたのは、1941年当時大勢いたロシア人捕虜だった。だが、この時確かに毒ガスを、アウシュヴィッツでは他の絶滅収容所とは違ってチクロンBで行くと決めたのであるチクロンB自体はマイダネク収容所も使っていたが、マイダネクでは一酸化炭素ガスやガス車もあるようで、これについては実態不明瞭ではっきりしない)。

 

そして、アウシュヴィッツビルケナウで本格的なガス室によるユダヤ人大量虐殺が始まったのは、実はアウシュヴィッツ基幹収容所ガス室観光用に公開されているガス室)でもなければ、有名なビルケナウのクレマトリウムでもなかった。ビルケナウの敷地外にある農家を改造した、日本語ではブンカーと呼称されるガス室からだったのである。このガス室は二箇所あったが、一箇所は既に影も形もなく、もう一箇所はほんの少しだけ土台を残す程度であり、おそらく一般にはあまり知られていないだろう。ここで、おそらく1942年3月から1943年3月頃の一年の間に15〜20万人程度のユダヤ人虐殺されたと考えられる。なお、同時に基幹収容所第一火葬場のガス室も使われていたようであるが、ここでは併設の火葬炉を死体処分に使っていたのだが、この火葬炉の数が少ししかなかったため、一度のガス室での殺害人数の少なさや焼却処理能力問題があり、毎日使うなどは全く無理であり、トータルで一万人もガス殺はされていないと言われている。このガス室1942年末で使われなくなった。

 

では有名な、ビルケナウのクレマトリウムはどうだったのか? 実は当初はこのビルケナウのクレマトリウムにはガス室は設定されていなかったのである。元々は純粋ビルケナウの囚人用のために設定された火葬場であり、のちにガス室となる場所はただの死体安置所であった。これが、どうしてガス室に変わったのかは、事情は複雑である。この謎については、実際にはとっくの昔にルドルフ・ヘス自伝にその理由を書いていたのだけど、細かく解き明かしたのは、1989年に発表されたJ-C-プレサックという薬剤師(プレサックは当初はホロコーストを題材にしたSF小説を書こうとしていたのである)による『アウシュヴィッツ ガス室操作技術である

 

ヘスは自伝で、ブンカーのガス室殺害遺体は、最初は単に近くにピットを掘って、埋めていただけだと書く。ところが、この大量遺体の埋葬が衛生的な問題引き起こしたので親衛隊トップヒムラー命令で、アウシュヴィッツを含めた各地の大量埋葬地の遺体をもう一度掘り起こして、焼却処分することになった。だがアウシュビッツでは焼却の始まる夏の終わりまでに10万体もの遺体を埋めていたため、これを焼却し切るには昼夜を問わず延々と焼却をし続ける必要があった。これが問題化する。夜でも煌々と光る焼却の炎は何キロも離れたところから見えるほど目立ち、ものすごい煙で悪臭が周辺数キロにまで漂い、地域住民は全員がアウシュヴィッツで大量殺戮を知ってしま事態へと発展してしまう。すでにある程度はガスによる大量虐殺情報は外部へ漏れワルシャワ地下組織などに伝わっていたが、この焼却はなんとニューヨークタイムズで報じられるまでになってしまう。

 

実は、ビルケナウのクレマトリウムガス室を併設する案は、これが原因だったのである。野外焼却をこのまま続けるのは秘匿性の観点問題ありすぎるので、ビルケナウの焼却場で遺体焼却を行い、それなら基幹収容所ガス室同様、焼却等に併設してしまえということになったのだと考えられる。そして、ソ連アウシュビッツ博物館資料から大量の図面を入手していたプレサックは、クレマトリウムに重大な設計変更がなされていることを見抜く。1942年の夏頃の図面にはあったはずの地下死体安置所に死体を下ろすための死体シュート1942年12月19日図面から消え去っていたのだった。これはどう考えても、死体が地下へ自分の足で降りていくことを意味するとしか考えられない、とプレサックは自著に記述したのである。他にも、死体安置所の扉は内開きだったのが外開きに変更されていたり、その後の図面では外開きの一枚扉に変更されていたりと、結論としてプレサックは、やはり多くの証言どおり、図面には死体安置所としか記述されていないそこは、ガス室である事は間違いないと決定付けたのだった。なお、証拠はそれだけではないのだがややこしくなるのでここでは省く。

 

このややこしい経緯のあるガス室全否定する修正主義者

修正主義者達はどんなことがあっても、ガス室だけは絶対に認めない。知恵の限りを絞り尽くしてでも、ガス室否定する論拠を導き出し、それがどんな出鱈目でも採用しようとする。有名なアルフレッドロイヒターなる死刑技術コンサルタント(当時彼1人しか全米にいなかった)がカナダ修正主義者エルンスト・ツンデル扇動罪に関する裁判で、有名なロイヒター報告を裁判に提出した(しか裁判から証拠採用されなかった)。曰く、アウシュヴィッツガス室とされる場所採取サンプルを分析すると、極めて微量のシアン化成分しか検出されず、ガス室などなかったと結論付けられると。「極めて微量」というのは、チクロンB合法的使用方法である害虫(疫病を媒介するシラミ駆除をしていた害虫駆除室のサンプルと比較して、という意味であるしかし、これは分析ルール違反であった。なぜなら、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンBの使い方は同じガスを使うというだけで全く異なる使用方法であり、さらに、害虫駆除室はガス処理は二十四時間が基本(ガス殺は1日あたり一回で30分程度)、その使用状況の違いか害虫駆除室ではプルシアンブルーという極めて安定したシアン化合物を生成しており(殺人ガス室にはなく、通常の壁表面などに浸透したシアン成分は安定度が低く、水などで大半は洗い流されてしまう)、これをロイヒターはサンプルにしているのだからほとんどインチキなのである。なお、余談的ではあるが、このロイヒターのアウシュヴィッツにおけるサンプル採取は完全に違法であり、無許可である。その上、ロイヒターらは入ってはいけない施錠された部屋の施錠を勝手にぶち壊したりして入ったりもしており、無茶苦茶であった(それをあろうことかロイヒターのチームはビデオに収めて堂々と公表しているのだから呆れてしまう)。

 

その数年後に、ポーランドクラクフ法医学研究所アウシュヴィッツ博物館側の正式依頼でロイヒター報告に対する対抗調査を行なって、プルシアンブルーを除外した上で分析した結果、殺人ガス室であると断定できる濃度のシアン成分を殺人ガス室から検出している。しかし、修正主義者は、クラクフ調査方法の方がインチキであるとして全く譲る気配はなかった。ともかく、修正主義者は、ほんとに知恵の限りを絞り尽くしてでも、そこはガス室絵ではなかったという結論を無理からにでも捻り出して、断じて認める気配はない。プレサックの死体シュートの話だって、実際には設計変更が工事の進捗状況に間に合わず死体シュートが作られてしまっていたことを理由に「死体シュートはあったのだから死体シュートは実際に使われたのである」などと、設計変更のことを無視したりしている。だが、その死体シュートが使われた証拠は何もない。

 

ガス室を正しく理解するのは難しいけれど

そう簡単な話でもないという事は少しは理解してほしい。もしホロコースト勉強したいのなら、修正主義なんかから入らず、まずは普通ホロコースト関連書籍を読むべきである。どうしてユダヤ人迫害ホロコーストに発展してしまったのか、あの時代はどんなことがあったのかなど、先に歴史を学ばないと、修正主義にコロッと騙されると思う。ガス室ひとつとっても、述べたようなさまざまな経緯の中で成立したものなのであって、予断を可能な限り廃して、普通の真面目な歴史学者・研究者達の記述内容に従うべきだろう。

 

でも、一部のネット民全然学ばないで修正主義に走るんだ、これが。なんでなんだろうね?

2021-07-07

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い

 戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側  

 多くのコメントブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございますhttps://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください

古代

テルモピレーの戦い

 B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下

 スパルタレオニダス指揮下のギリシア連合軍ペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。

 参考作品「300(ザック・スナイダー監督)」

・彭城の戦い 

 B.C205 楚漢戦争 ★楚3万vs漢56万

 漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態太刀打ちできず20万人以上が戦死した。

昆陽の戦い

 23年 ★緑林軍1万vs新43万

 劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。

・ワトリング街道の戦い

 60年 ★ローマ軍1万vsブリタニア23

 ブーディカ女王率いるケルト人ローマ支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。

・博望坡の戦い

 203年 三国時代 劉備軍4000vs曹操12

 劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。

淝水の戦い

 383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万

 華北統一成功した前秦東晋征服のために大軍派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。

中世

・チェラーミの戦い 

 1063年 ★ノルマン軍136vsムスリム5300

 アラブ人支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入イスラム教徒撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。

・黄天蕩の戦い

 1130年 宋金戦争 ★南宋8000vs金10万 

 韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。

志度合戦

 1185年 治承・寿永の乱 ★源氏80vs平氏1000

 屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏源義経が追撃した。平氏大軍が後に続くとみて敗走した。

・下赤坂城の戦い

 1331年 元弘の乱 楠木軍500vs★鎌倉幕府1万

 楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府楠木正成護良親王を討ち損ねた。

千早城の戦い

 1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000

 千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。

・船上山の戦い

 1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000

 後醍醐天皇隠岐の島から脱出すると伯耆国武将名和長年挙兵し、隠岐守護佐々木氏攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。

応永の外寇

 1419年 ★対馬国600vs李氏朝鮮1万7000

 倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。

ビルスの戦い

 1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万

 スイス軍チューリッヒを包囲したことにより、フランス戦争突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍死闘の末に壊滅するが、フランス軍2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。

土木の変

 1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万

 明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝捕虜となった。

近世

九頭竜川の戦い

 1506年 戦国時代 ★朝倉軍1万5000vs一向宗30万

 越前制圧を目論む一向宗朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙朝倉軍は夜襲により一向宗撃退した。

セントラの戦い

 1519年 スペインメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万

 征服コルテス率いるスペイン軍がマヤ大軍交戦マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲わずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオ女性マリンチェを得た。

・オツンバの戦い

 1520年 スペインメキシコ征服 ★スペイン・トラスカ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万

 アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。

・プナの戦い

 1531年 スペインペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000

 スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。

・ディーウ包囲戦

 1538年 オスマンポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラー連合軍2万2000

 ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。

・スィゲトヴァール包囲戦

 1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン10万~30万

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍クロアチア総督リンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍ほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。

今山の戦い

 1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万

 佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。

木崎原の戦い 

 1572年 戦国時代 ★島津軍300vs伊東軍3000

 島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。

信長第一回雑賀攻め

 1577年 戦国時代 雑賀衆2000vs織田10

 信長石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。

天目山の戦い

 1582年 戦国時代甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000

 織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。

・沖田綴の戦い

 1584年 戦国時代 ★島津有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万

 連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。

・岩屋城の戦い

 1586年 戦国時代 高橋軍763vs★島津軍2万~5万

 島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。

忍城の戦い

 1590年 戦国時代小田原攻め 成田2000vs★豊臣軍2万~5万

 石田三成ら率いる大軍忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。 

四川の戦い

 1597年 慶長の役 ★島津2000vs明・朝鮮連合軍10

 島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。

田辺城の戦い

 1600年 戦国時代 東軍500vs★西軍1万5000

 田辺城に立て籠もった東軍西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後後陽成天皇の命で開城したが、西軍関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

・第二次上田合戦

 1600年 戦国時代 西軍2500vs東軍3万8000

 関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍真田昌幸率いる西軍交戦した。足止めを食らった東軍関ヶ原に間に合わなかった。

・リオ・サン・フアン・デ・ニカラグアの戦い

 1762年 七年戦争 ★スペイン100vsイギリス軍2000

 イギリス軍ニカラグア処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。

近代

アラモの戦い

 1836年 テキサス独立戦争 テキサス200vs★メキシコ軍4000

 当時メキシコ領であったテキサス移住したアメリカ人メキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。

 参考作品アラモジョン・ウェイン監督)」

・雨花台攻略

 1862年 太平天国の乱 ★湘軍2万vs太平天国20

 湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。

・第二次サビーネ・パスの戦い

 1863年 南北戦争 ★南軍50vs北軍5000

 サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パス防衛する南軍北軍攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍100名が死傷し、350名が捕らえられた。

カマロンの戦い

 1863年 ナポレオン三世メキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ2000

 65名の外人部隊現金300万フラン輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊目的地へ現金を届ける事が出来た。

・ロルクズドリフトの戦い

 1879年 ズール戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000

 ロルクズドリフト伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。

・アブ・クレアの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000

 ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。

・アブ・クルの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000

 ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。

現代

盧溝橋事件

 1937年 日中戦争 ★日本軍5600vs中国軍10

 盧溝橋付近日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由中国軍攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争きっかけとなった。

タラワの戦い

 1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000

 タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊アメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。

・拉孟の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍8000人が死傷した。

・騰越の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍2800vs★中国軍5万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。

アンガウルの戦い

 1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000

 日本軍歩兵第59連隊第1大隊守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍玉砕したが、米軍2000人死傷した。

 参考作品英霊の絶叫(船坂弘著)」

・一江山島戦役

 1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000

 人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。

・ロングタンの戦い

 1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500

 ベトコンオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。

 参考作品デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」

・ロンゲワラの戦い

 1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000

 ラジャタンのロンゲワラ村でパキスタン軍インド軍守備隊が交戦インド軍航空機支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった

モガディシュ戦闘

 1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000

 アメリカマレーシアパキスタンからなる多国籍軍が、民兵リーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍目的を達成したが、100名以上が死傷した。

 参考作品ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」

  

 

2021-05-19

anond:20210519203323

総生産数は約50000両。ドイツ軍の3号、4号、5号パンター6号ティーガー生産数合計の2倍以上。

これの相当数がノルマンディー以降漸次投入されたからまあ、それなりではあったでしょう。

投入は一気だったけど、生産1943年から大増産がかかって、訓練もされて、ノルマンディー作戦時はとてつもない戦闘集団にふくれあがっていた。作戦だけみると信じがたいが、長い時間をかけて準備している。

うろ覚え知識Wikipedia棒引きだけど、大間違いはないと思う。

2021-04-20

こういうエピソードいいよね

美男美女出会い最後まで同伴したという話

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-56702865

ドイツとの戦争がいつ始まってもおかしくない時世にあって、フィリップ殿下軍人を志した。英空軍希望したものの、母方のマウントバッテン家は海軍や海とのかかわりが深く、殿下は結局、海軍士官候補生として英南東部ダートマス海軍兵学校入学した。このとき海軍にするよう殿下を説得したのが、おじのルイ・マウントバッテン卿だった。

1939年7月に、英国王ジョージ6世王妃や2人の王女を連れて兵学校訪問した際には、フィリップ殿下エリザベス王女マーガレット王女の案内役を務めた。この段取りを手配をしたのも、マウントバッテン卿だった。

Princess Elizabeth (third from left), with King George VI and Queen Elizabeth during a visit to the chapel at the Royal Naval College, Dartmouth, 23 July 1939

画像提供,GETTY IMAGES

画像説明,

この写真は、エリザベス王女(当時、左から3人目。現女王)と、海軍士官候補生だった「ギリシャおよびデンマーク王家フィリップ殿下」(右後方の白い制帽姿)が、初めて同時に撮影されたものと思われている。王女は13歳、殿下は18歳だった。前列中央エリザベス王女の両親、ジョージ6世エリザベス王妃がいる。1939年7月23日、英南西部ダートマス海軍兵学校

この出会いエリザベス王女には決定的なものとなった。王女はこの時、恋に落ちたと言われている。

一方のフィリップ殿下は5歳年下の13歳の少女にいきなり恋したわけではなく、戦時中1943年末、ウィンザー城クリスマス休暇を過ごしたころに初めて、王女気持ちを返すようになったとみられている。

2021-03-31

[]堀和生氏による「慰安所管理人日記」論評

http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/hori-1502.html より

慰安婦達が受け取った金を貯蓄や送金をしていたことは疑いがない。野戦郵便局対象軍人軍属のみで民間人は使えないので、慰安婦慰安所従業員軍属待遇であったことを確認できる。

1943年以後占領地域から日本への労務利益金、政府海外受取(主に郵便預金)が急速に増えていった。

占領から資金流入封殺措置として、送金額制限圧縮強制現地預金制度、送金額一定比率負担を課する調整金徴収制度預金凍結措置等が次々と導入された。

ただし、この日本流入資金のさまざまな規正措置は、地域ごと時期ごとに頻繁に変更されており、現在その制度運営のすべてをあとづけることはできない

上記からは、地域や時期によっては、内地において相当額を引き下ろせていた慰安婦もいたとしか読めない。

これらから、以下の単純な結論を導くのは早計ではないだろうか。

(1)日本政府は、軍票・南発券で膨張した資金日本内地朝鮮への流入を極力規制した。慰安婦達が内地朝鮮に送金した分については、先に述べた外地送金の引出額制限預金凍結措置によって、月々規定生活費水準を超える額は引き下ろせなかった。つまり一定の額しか引き出せない状態で、すぐに日本朝鮮統治の崩壊を迎えたと思われる。

2020-12-06

日本競馬史上の重要事件並びに記憶されるべき事件(画期となる出来事) 1854-1980

https://anond.hatelabo.jp/20201219095651

出来事

1854 日米和親条約締結、下田函館開港

1856 日米修好通商条約締結

1859 函館横浜長崎開港

1860 横浜外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬

1867 大政奉還王政復古

1868 明治改元戊辰戦争開始

1869 戊辰戦争終了

1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬1898年まで)

1874 台湾出兵

1877 西南戦争開始~終了

1894 日清戦争開始

1895 日清戦争終了/馬匹調査会設置

1904 日露戦争開始/臨時馬制調査委員会設置

1905 日露戦争終了

 桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬中央競馬ルーツ

 馬政第一計画の制定(第一期:1906年1923年、第二期:1924年1935年

 帝室御賞典(横浜)創設(当初の名称皇帝陛下御賞盃)

1906 内閣総理大臣直轄の機関として馬政局が設置される

 帝室御賞典(東京)創設

1907 小岩井農場種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する

1908 馬券発売の禁止馬券禁止時代の始まり

1909 ウラジオストックにおいて日露競馬会が行われる

1910 韓国併合

 馬政局陸軍省外局となる

 改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬ルーツ

 主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限1928年まで)

 帝室御賞典(阪神)創設

1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)

1912 大正改元

 宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票実施される(事実上馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部実施するようになる

1914 第一次世界大戦開始

1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵1922年まで)

1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年1924年は春のみ。1925年1937年は秋のみ)

 帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)

1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止

 帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設

1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念

1926 昭和改元

 下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する

1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)

1931 満州事変

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する

1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する

1934 中山大障害創設

1936 二・二六事件

 旧競馬改正

 馬政局再設置/馬政第二次計画実施1945年まで)

 各地の競馬倶楽部統合し、日本競馬会発足

1937 日中戦争開始

 天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回から春秋共に3200mで施行ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)

 連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止

 ヒサトモ牝馬として初の東京優駿制覇

1938 軍馬資源保護法制

 菊花賞京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬オークス)(阪神優駿牝馬)創設

 ヒサトモ牝馬として初の天皇賞(帝室御賞典)制覇

1939 皐月賞横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)

1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成

1943 クリフジクラシック三冠(変則)を達成

1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬能力検定競走として施行される(戦前競馬はこの年限りで終了)

1945 太平洋戦争日中戦争終了/日本占領/馬政局廃止

1946 競馬再開/地方競馬法制

1947 天皇賞再開(この年春は「平和賞」の名称施行

1948 新競馬法制定。日本競馬解散国営競馬時代の開始

 2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる

1949 朝日杯3歳ステークス1991年から牡馬及び騸馬(せん馬限定レースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設

 阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定レースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設

1951 中央競馬における重勝馬券の発売(1961年廃止

 トキノミノルが無敗で二冠を達成

1952 日本独立占領時代の終了)

1954 高度経済成長の開始(1973年まで)

 日本中央競馬会(略称1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)

 啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬表彰することを始める(1972年から優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初年度代表馬ハクリヨウ(ハクリョウ))

1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁相互実施協定を締結する(国際交流の始まり

 東京大賞典(秋の鞍)創設

1958 ハクチカラ戦後日本調教馬として、初めて海外遠征する

1956 有馬記念中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)

1962 日本中央競馬会が優駿誌上でフリーハンデ公表

1963 中央競馬において8枠制が導入される

 メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される

1964 東京オリンピック。東海道新幹線開業

 シンザン戦後初のクラシック三冠を達成

1965 シンザン天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)

 シンザンが2年連続年度代表馬に選出される

1967 栗東トレーニングセンター開場

1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

1969 競走馬輸入自由化

1970 大阪万博

 スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される

 競馬ブックより「合同フリーハンデ」が発表される

1971 ニクソン・ショック

 地方競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

 貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策実施されたことにより、持込馬有馬記念を除く八大競走への出走権を失う

 トウメイ天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される

1972 沖縄返還

 地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止

1973 第1次オイルショック高度経済成長の終了)

 ハイセイコー中央競馬移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年有馬記念2着(勝馬タニノチカラ)を最後引退

1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止最初指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ最後指定馬は1991年セントライト記念におけるレオダーバン

1977 テンポイント有馬記念トウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス

1978 美浦トレーニングセンター開場

2020-11-28

anond:20201127165849

(3歳馬による)クラシック三冠馬牝馬三冠馬について

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クラシックとは、皐月賞東京優駿日本ダービー)・菊花賞桜花賞優駿牝馬オークス)の5つのレースを指す。

クラシックレース定義・成立等については省略。

一般的に、皐月賞東京優駿日本ダービー)・菊花賞を捉えてクラシック三冠馬と言うが、クラシック三冠馬牡馬に限るものではない。牝馬がこれらのレースを達成しても正則のクラシック三冠馬となる(達成馬なし)。また、牝馬については皐月賞東京優駿日本ダービー)・菊花賞桜花賞優駿牝馬オークス)の内、桜花賞優駿牝馬菊花賞を勝てば、牝馬三冠馬(かつ牝馬クラシック三冠馬)、その他の組み合わせの三つを勝てばクラシック三冠馬(変則)、二つを勝てばクラシック二冠馬(変則)と見なして良い。

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牝馬三冠は、1970年ビクトリアカップ制定される以前は、桜花賞優駿牝馬菊花賞牝馬三冠であったと見なして良いだろう(達成馬なし)。

例えば、1964年カネケヤキ牝馬二冠馬)が菊花賞に出走している(結果は5着。なお、このレースで、シンザン戦後初の三冠を達成)。

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変則のクラシック三冠馬1943年クリフジ東京優駿日本ダービー)・優駿牝馬オークス)・菊花賞。無敗で達成)がいる。

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東京優駿6/6→阪神優駿牝馬オークス10/3→京都農林省賞典四歳呼馬11/14(京都農賞。後の菊花賞)というローテーションで達成(戦前競馬春秋に開催)。また、クリフジは仕上がりが遅く、4月横浜農林省賞典四歳呼馬(後の皐月賞)には間に合わなかったもの(デビューが早く、出走できていれば勝ったと思われる)。

翌年1944年以降は太平洋戦争大東亜戦争)の激化により、競馬平時通りの開催ができなくなったため、三冠馬の発生するチャンスは戦後1947年まで無くなる。

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変則のクラシック二冠馬は、1947年トキツカゼ皐月賞(当時・農林省賞典)・優駿牝馬。同年の東京優駿2着)がいる。

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2020-11-22

1943年でも2020年でも「今が異常な時期である」ことを意識し続けることは非常に難しい

2020-10-09

一体どうやってアウシュヴィッツで大量の遺体焼却したのか?

anond:20201009034616

 

ええっと、これが正解!というのはブコメにもトラバにも私の見た限りではありませんでした。近いものはありましたが、これ、知ろうとすると先ずアウシュヴィッツビルケナウのマッフル炉がどんなものだったかを知る必要があります。ええっと、簡単にググった範囲では、このページにある上から3つ目の写真ですね。

Wollheim Memorial

 

わかりますかね、一つのマッフルの口の幅は大体60〜70cmだったかと思います。わかりにくかったら類似画像検索か何かでもっとやす写真もあったかとは思いますが、この一つのマッフルが三連になっていて実質的には3つで一つの炉を形成しています。これをトリプルマッフル炉と呼びます

いわゆるコークス炉と呼ばれるもので、石炭が燃料なのです。

で、正解は?

 

アウシュヴィッツ大量虐殺現場アウシュヴィッツⅡとも呼ばれるビルケナウキャンプの方です。アウシュヴィッツインキャンプからキロほど離れた場所にあります。上で示したリンク写真はすべてビルケナウのものです。

このビルケナウにトリプルマッフル炉を5基備えたクレマトリウムⅡとⅢの2つがあり、そこから少し北に行ったところに……えっと、炉の形式ちょっと忘れましたのでとにかく8マッフルの火葬炉をもつクレマトリウムⅣとⅤの2つがありました。故に、計46マッフルあったわけです。

 

さて、計算上は1日仮に3,000体ならば、一時間あたり約3体/マッフルとしなければダメであり、一体20分なわけですが、実際はどうやったかと申しますと、実は複数遺体を同時に焼却処分していました。これとほぼ同じ答えはありましたが、でも少し考えてもらいたいのです。

一体を一時間で焼却できるというのは、焼却エネルギーをそれだけ与えるからです。1体につきnカロリーならば、3体なら3nカロリーです。つまりカロリー計算ならば、同時に焼いたところで、炉が与えるエネルギーは同じなのだから、3倍の時間がかかるはずです。

あれ? と思いませんか?

そこで、もっとコークスを入れればいいのだ、という話になってきますよね? 一体あたりコークス料はこれは流石にデータがまったくないのでわかりません。しかし、幅6,70センチしかないマッフルに三体も入れて、更にコークスを三倍にするなんて、非現実的だと思いませんか?

 

実は当初、親衛隊自身がそう思っていたフシがあるのですが、これにはカラクリがあります。上で述べたように、実はマッフル一つが1炉ではないのです。トリプルマッフル炉なのです。つまり、炉としては1炉1マッフルよりも三倍も大きいので、熱量/高温をそれだけ維持できるのです(要するに外部へ廃棄されたりして無駄になる熱量が少ない)。しかし、まだ問題解決してはいません。何れにせよ、遺体量分のコークス必要なのはそれほどは変わらないからです。

 

で、一体どうやってこの問題解決たかというと、それは「遺体自身を燃料にする」だったのです。流石にそれは誰も思いつかなかったのではありませんか?

嘘だろ? と思う人がいたら、そう証言した人がいると答えておきましょう。ヘンリク・タウバーというこの遺体処理作業に当たった、ユダヤ人収容者の作業員、いわゆるゾンダーコマンドがいます。タウバーは酷く否定派に嫌われています。当たり前です、このタウバーの証言を認めたら、否定論は一瞬で破綻してしまうからです。戦後裁判などで当然証言台に立ってます

で、このタウバーは遺体がよく燃えるので、燃料の追加はほとんど必要なかった、と答えているのです。このタウバー、驚くなかれ一度に9体くらいも遺体を入れたことがあるとまで証言しています。そんな馬鹿な?と思うでしょ? 

想像ですけど、おそらく、タウバーのこの証言は、遺体をどんどん連続投入していたがために、実際には同時に9体入れたのではなく、次々に入れていった場合の先に入れた遺体は燃焼して体積が減っていき、それで9体などと言ったのだと思います。あるいは普通にトリプルマッフル一基を1炉と考えて、3つのマッフルに対しての9体なのかもしれません(それなら理解やすい)。

何れにしても、遺体自体を燃料にするって少々信じ難いと思いませんか? 人間の体って普通は7割は水です。アウシュヴィッツについてすぐ殺された人が大半ですから、痩せてすらいないわけです。しかも、このついたばかりのユダヤ人の方がよく燃えたというのです。流石にそれは嘘だと、言いたくなってきませんか?

でも、遺体を燃料にしたというのは証言しかないのですが、15分程度で焼いたという当時の文書記録はいくらでもあるのです。

 

えー、それっぽく引用文献が載ってますが、これはあるページからコピペと少し修正しただけですので、ご勘弁。ともかく文書資料はそれなりに残っていて、多分まだまだあると思いますが、実際に算術火葬率1体あたり15分程度をやってたということに疑いの余地はありません。

 

というわけで、こういう具合に細かく突っ込んでくるのがホロ否認論です。そんなの出来るわけない! というのを反論するのが結構大変だということがご理解いただけるのではないでしょうか?

で、どうして引用文献を示したかというと、「Mattogno」という人物名前が出てきます。この人、超有名なホロ否認論者です。ホロ否認論者が普通にホロコースト肯定するような資料を自著に載せるのです。ホロ否認論者に、粗雑なリビジョニストがやるような「やばい資料を隠す」ような人はいないと言っていいでしょう。

でもま、マットーニョ先生は、自説に合わないと特に大した根拠もなく「なにかの間違いだ」のように切って捨てるんですけどね。

2020-10-08

ホロコーストのある資料について意見が欲しい

こんなところで質問してもほぼ意味はないような気がするんだけど、他でも誰も答えてくれず困っている。協力があればなと。

これはパズルなのです。

 

簡単説明

ホロコースト否認者たちは、ガス室だけは絶対に認めません。ガス室を認めると大量虐殺肯定してしまうからです。ですから、一番目立つアウシュヴィッツを狙ってきます問題は、アウシュビッツには正確にいうと、ソ連が近づいてきたのでナチス親衛隊撤退するのですが、証拠隠滅のために、ガス室だったところをダイナマイト破壊してしまます

ナチス親衛隊は、全国指導者ハインリヒ・ヒムラー1942年暗殺されてしまったヒムラーの側近中の側近ラインハルトハイドリヒSD長官指導により、徹底的にユダヤ人殺害隠蔽したので、文書資料にすらほとんど「ガス室」や「処刑」などの用語もなく、ユダヤ人虐殺を「再定住」、処刑を「特別処理」などと言い換えたりしていましたので、これが戦後ずっと続くホロコースト否認者の格好の餌のようなものになってしまい、奴らは平然と「証拠はない!」とほざくわけです。確かに、ガス殺死体アウシュビッツには一体もありませんでした。なぜなら焼却して骨は砕いて川に捨ててしまたからです。

 

ガス室証拠

実は結構あるのです。文書資料として残ってしま図面にこそ「ガス室」とは書きませんでしたが、報告文書にうっかり書いてしまった記録などはあるのです。それ以外にも沢山あります。当然ですけど、証言記録は滅茶苦茶ありますアウシュビッツ司令官ですら戦後裁判証言し、死刑になって処刑されるまでに詳しい殺害方法を書いた自伝まで残しています

ところが、当然といえば当然ですが、否認者たちは証拠資料解釈で捻じ曲げて歪曲しまくり、証拠ではないと言い張り、流石に否定できない文書資料などがあると捏造だと一切認めず、当たり前のごとくに膨大な証言適当に難癖的にあそこがおかしいここがおかしいと文句をつけて全否定するのです。証言者が言ってることが多少誇張が入っていたり変だったりすることはよくある話なのに、一切認めません。ガス室の周りの地面に当時のユダヤ人作業員メモ証拠として埋めたのが戦後発見されていますが、戦後捏造だと言って絶対に認めようとしません。頭おかしいと思うレベルですが、これマジなのです。

 

認めざるを得ない証拠があったのに・・・

しかし、いくら否認論者でも、当時の文書記録として、加害者側の親衛隊人物業務内容として残した資料の中に、ユダヤ人のガス殺の様子を記録した文書があれば、流石に否定しようがないはずです。実はあったのです。

1970年代後半に、グリクシュ報告というのが見つかります。グリクシュ少佐というのは親衛隊人事本庁の職員で、1943年5月アウシュビッツの視察に訪れ、司令官ヘス同行の上、ガス室を見回って報告書を書いたのです。言葉は選びながらも、どう読んでもユダヤ人をガス殺する手順としか読めない内容がきっちり書いてあるのです。流石にこれは否定できないだろうということになったのでしょうか、10年以上、否認論者はこれを「まぁ偽造だろう」とほったらかしました。何故ならば、その報告書原本ではなく、戦後裁判資料を整理していた米軍将校タイプライターで打ち直したものだったからです。おそらく原本保管のためでしょう。だから原本じゃないので証拠にならず、米軍により偽造されたものだと言い張ったのです。

で、1991年に、アメリカ人リビジョニストのある人が、このタイプコピー版を徹底的に内容批判して、偽造だと断定します(実際には根拠は薄弱であり、捏造それ自体事実は一切証明しておらず、断定は無理です)。それがこちらです→フランケ・グリクシュ「再定住報告」:偽造の分析(レンク)

で、一旦これで否認論者もほくそ笑んだでしょう。原本などないんだから嘘に決まってる、と。ところが・・・

 

原本発見される

2019年、つまり去年です。ある反否認論者がふと、「もしかしたら?」と思ってドイツ連邦公文書館検索したのです。すると、その原本報告書製作時に同時にタイプされたカーボンコピーだった一枚)があったのです。ニュルンベルク裁判戦後裁判関係資料は膨大な量があり、昔は探すのが大変だったのですが、インターネット文書デジタル化が進んで、いつの間にか外部から検索をかければ見つかる状態になっていたのです。まさか探せるとは誰も気づいていなかったわけです。

発見者は、様々な検証を行い(と言ってもデジタル化された写真なので物理的には調べられない)、当時の他の文書とのタイプフォントの照合まで行い、フォントの一部に欠けがあった文字を数文字発見し、他の文書とそれが一致することから、おそらくは原本で間違いないだろうと。他にも色々特徴を調べていますが、疑問点は今の所ありません。

それがこちらです→Holocaust Controversies: Nazi Document on Mass Extermination of Jews in Auschwitz-Birkenau: The Franke-Gricksch Report

詳しく詳細な解説もされていますが、ともかく間違いないだろうと。内容も、否認論者は批判していましたが、それらおかしいと思われる箇所も十分問題なく解釈できる範囲です。何れにせよ、原本です。

 

捏造」とすると辻褄が合わない

否認論者としては、絶対に認められない資料証拠ですからこれを「捏造」と言わなければならないはずです。しかし、「捏造」と仮定した途端に辻褄があわなくなるのです。捏造でなければすんなり理解できます普通に原本はあった、そしてドイツ連邦公文書館で整理保管・デジタル化されていた、それだけです。

 

しかし、「捏造」だとおかしなことになります。先ず時期が問題です。

 

戦後のその米軍将校タイピングした時点で原本捏造されていたと仮定すると、ではどうして裁判に提出されなかったのでしょう? タイプ版も結局は裁判に出ていません。それは別に良いのです、証言証拠は沢山あり、グリクシュ報告は特に必要ありません。しかし、捏造だとすると、他の文書タイプフォントが合っているということから、それらの他のタイプフォント形式を間違いなく再現するためには、例えば同じタイプライターを探し出してこなければなりません。そんなめんどくさいことするでしょうか? しかもです、そうやって非常に面倒な精巧な偽造をするのであれば、何故タイプコピー版が存在するのでしょうか? カーボンコピー用紙を使えば、カーボンコピー三枚分用意できます。その一枚を裁判で使えるように回せばいいだけです。「捏造」と仮定すると極めて不自然なのです。かなり精巧なのに(調べてもわからいくらい)、裁判に使われていない事自体が不自然です。なおかつ、そんな手間隙かけた捏造証明された文書資料などただの一つとして存在しません(そもそも戦後裁判資料捏造が疑われたヴァンゼー会議議事録ですらも、リビジョニスト捏造だと言い張っていただけです)。

 

あと、この原本1980年代イギリスの著名な歴史家デヴィッド・アーヴィング連邦公文書館で見たことがあると言っており(アーヴィングは異常なほどの資料収集家です)、2005年くらいのこの資料議論する会でそのインデックスを述べていて、そのインデックスナンバー原本発見時にほぼ合っていたのです。とすると、1980年代原本存在したことになります。では、タイプコピー版が1976年発見されて以降、アーヴィング連邦公文書館で見るまでの間に、何者かがグリクシュ報告の原本捏造し、連邦公文書館に潜ませた、なんてことはあり得るのでしょうか?

今の時代ならばPhotoshopもありデジタル化された資料など簡単捏造できるのかもしれませんが、1980年頃にそれが出来たとは到底考えられません。ネットすらないので、ハッキングファイルを混入させることも出来ません(1980年代頃にデジタル化があったとも思えない)。いろいろ考えても、1980年代頃の捏造というのはあまりにも荒唐無稽です。タイプ文字の形を合わせるために、その他の文書すらも探し出してくる必要すらあります。すると、どうやったって当時ならば、連邦公文書館物理的に侵入しなければなりません。あまりにもハイレベル過ぎます

はっきり言って、グリクシュ報告の価値は「否認論者が困る」だけのものであり、偽造された「ヒトラー日記」のように1円の価値があるわけでもなく、書かれた内容についてはなんら未発見内容はないので、通常の歴史家特に反応を示すわけではない資料です。普通歴史家ホロコーストガス室があったことなど一ミリだって疑いやしません。

 

というわけで、グリクシュ報告原本を「捏造」と仮定することは、どう考えても辻褄が合いません。というわけで、非常にグリクシュ報告原本発見否認論者にとって困ったものであるはずなのですが・・・

 

ところがアホな否認信者たち

ネット上の一般否認論者は、どうも意味が全くわかっていないようなのです。「そんなもん捏造だろ」と頭から決めつけてかかっているだけで、捏造仮定するとおかしなことになるとまで考えが及ばないようなのです。ていうか、そもそも証拠絶対にない」とすら思い込んでいるようです。信じ切っていると言っていい。ですからこちらがいくら言っても、否認論者は「捏造とすると辻褄が合わなくなる」ことまで考えは全く及びません。

 

聞きたいのは、私が変なのでしょうか? 私自身は「ホロコースト否認信者はアホばっかり」と思うようにはしてはいるのですが、だーれも理解しません。一体どうなっているのでしょうか?

 

追記

id:anmin7相手の人がどうなったら増田は満足なの? 賢さを讃えてほしいの? ただ考えを改めたらいいの? 土下座して許しを乞うならいいの? 愚かさを恥じて以後増田奴隷になるべきなの?

違う違うそうじゃないのです。私一人で考えているだけなので、単に自信がないだけなのです。日本人ホロコースト否認論に反論しようなんて物好きな人はなかなかいません。これで合ってるかどうか、感想でもいいから聞きたいのです。日本人否認論の集まるところへ行くとほとんど孤軍奮闘になってしまうのです。私以外の反否認論側の人がいてもただ、「ホロコースト否認するなんておかしい」みたいにいう人がいる程度です。ほとんどの人は知識がないのです。

 

id:rmntc55211精巧捏造したけど使わなかった、その後、捏造したそれが何かの手違いで文書保管されてしまったなんてありそうだけどね。何もかもが自然にはできていない

そんなこと言い始めたら、あらゆる文書資料は全て捏造になりますよ。本当にそう言ったホロ否認はいましたが、あまりに非現実的です。グリクシュ報告の一致性は、タイプライターフォントの欠損が4文字も当時の同時期の文書と一致する、という時点で、捏造なら度を超えて精巧すぎます。むしろ、この欠損フォント捏造が発覚すべきです。それを捏造でやろうとすると、当時ならば虫眼鏡必須です。今の時代なら、パソコン画像拡大すれば簡単かもですが(というか、単に画像から同じフォントを使えばいい)、当時はそういうわけにはいきません。また仮に同一のタイプライターを探し当ててきたとしても、戦後ですから、同時期の文書とは2年も差があります。すると、その2年間にタイプライターの他のフォントまで劣化している可能性があります。あるいはその比較された他の文書資料も含めて偽造した、……などと言い出したら結局、ナチスから押収された文書は全て偽造とまで言いええしまい、暴論としか言えなくなるでしょう。何れにせよ、捏造証明された文書など一枚たりとて存在しませんので、妄想という他はないでしょう。

2020-08-11

『誰が為に鐘は鳴る』1943年

バーグマンが浮いてるのでイマイチ

2020-04-26

anond:20200426123722

1979年

機動戦士ガンダムドラえもん(1979~2005年版) 、ルパン三世 カリオストロの城ベルサイユのばら赤毛のアン銀河鉄道999(映画版)、がんばれ!!タブチくん!!ゼンダマンサイボーグ009アニメーション紀行 マルコ・ポーロ冒険

1978年

未来少年コナン銀河鉄道999ルパン三世 ルパンVS複製人間宝島ペリーヌ物語無敵鋼人ダイターン3闘将ダイモス宇宙海賊キャプテンハーロックはいからさんが通る宇宙戦艦ヤマト2

1977年

ヤッターマン無敵超人ザンボット3新ルパン三世超電磁マシーン ボルテスVあらいぐまラスカル家なき子バーバパパくまのプーさん 完全保存版 、氷河戦士ガイスラッガー野球狂の詩

1976年

ドカベン超電磁ロボ コン・バトラーV母をたずねて三千里キャンディキャンディ、まんが世界昔ばなし、ポールのミラクル大作戦大空魔竜ガイキング 、グレンダイザー ゲッターロボGグレートマジンガー 決戦!大海獣 、ろぼっ子ビートンブロッカー軍団IV マシーンブラスター

1975年

まんが日本昔ばなしガンバの冒険一休さんタイムボカン勇者ライディーンUFOロボ グレンダイザーアンデス少年 ペペロ冒険ゲッターロボG鋼鉄ジーグラ・セーヌの星

1974年

宇宙戦艦ヤマトアルプスの少女ハイジゲッターロボ破裏拳ポリマー魔女っ子メグちゃんはじめ人間ギャートルズマジンガーZ対暗黒大将軍ジムボタン 、小さなバイキング・ビッケ 、グレートマジンガー

1973年

エースをねらえ!侍ジャイアンツバビル2世新造人間キャシャーンキューティーハニー空手バカ一代ドロロンえん魔くんジャングル黒べえ 、山ねずみ ロッキーチャックゼロテスター

1972年

マジンガーZデビルマン科学忍者隊ガッチャマン海のトリトンど根性ガエルパンダコパンダ正義を愛する者 月光仮面赤胴鈴之助樫の木モックムーミン

1971年

ルパン三世天才バカボンふしぎなメルモアニメンタリー決断アパッチ野球軍ゲゲゲの鬼太郎、新オバケのQ太郎カバトットさすらいの太陽 、原始少年リュウ

1970年

あしたのジョーチキチキマシン猛レースキックの鬼、ばくはつ五郎魔法マコちゃんスカイキッドブラック魔王、海底3万マイルいじわるばあさんのらくろクレオパトラ

1969年

ムーミンアタックNo.1タイガーマスクハクション大魔王どろろひみつのアッコちゃん忍風カムイ外伝ビートルズ / イエローサブマリン長靴をはいた猫もーれつア太郎

1968年

ゲゲゲの鬼太郎妖怪人間ベム巨人の星佐武と市捕物控太陽の王子 ホルスの大冒険サイボーグ009ゲゲゲの鬼太郎サスケアンデルセン物語わんぱく探偵

1967年

パーマンリボンの騎士黄金バット悟空の大冒険大魔王シャザーン、マッハGoGoGo宇宙忍者ゴームズ、ピュンピュン丸、サイボーグ009 怪獣戦争ミトン

1966年

おそ松くん魔法使いサリー、ロボタンハリスの旋風、スーパースリー、展覧会の絵、遊星仮面レインボー戦隊ロビン、新ジャングル大帝 進めレオ! 、おそ松くん

1965年

オバケのQ太郎ジャングル大帝スヌーピー宇宙少年ソラン

未来からきた少年 スーパージェッター少年シンドバッドの冒険、手 、オバケのQ太郎(1965年版) 、W3、戦え!オスパー

1964年

トムとジェリービッグX、0戦はやと、少年忍者風のフジ丸 、王様の剣

1963年

エイトマン狼少年ケン鉄腕アトムわんぱく王子の大蛇退治 、鉄人28号 、わんわん忠臣蔵宇宙家族ジェットソン 、ドラ猫大将仙人部落

1962年

ある街角物語101匹わんちゃんアラビアンナイトシンドバッドの冒険

1961年

ルーニー・テューンズ安寿と厨子王丸ウッディー・ウッドペッカー(1940年版)

1960年

眠れる森の美女、原始家族リントストーン、西遊記

1959年

ポパイ真夏の夜の夢少年猿飛佐助

1958年

白蛇伝 、もぐらのアバンチュール

1957年

ねこのらくがき、ラテンアメリカの旅 、マイティマウス

1956年

わんわん物語

1955年

ファンタジアピーター・パン

1954年

ダンボ

1953年

ふしぎの国のアリス 

1952年

ピノキオシンデレラ

1951年

バンビ

1950年

白雪姫

1947年

すて猫トラちゃん

1945年

桃太郎 海の神兵

1943年

くもとちゅうりっぷ 、ドルーピー

1941年

スーパーマン、アリチャン

1940年

あひる陸戦隊

1939年

べんけい対ウシワカ

1936年

新説カチカチ山

1935年

 一寸法師 ちび助物語、 のらくろ二等兵

1934年

のらくろ伍長 、お猿の三吉 突撃隊

1933年

動絵狐狸達引

1931年

茶目子の1日、黒ニャゴ

1928年

蒸気船ウィリー

1917年

なまくら刀

詐欺捏造・偽作

台湾誌(1704年

ジョルジュ・サルマナザールはフランスまれ白人だったが、ウィリアムイネスという牧師の協力を得て「キリスト教改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメ風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾ことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあい台湾専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。

ベリンガー事件(1726年)

数学教授デリック図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルミミズ化石彗星太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれ化石などを作り出し、ベリンガー化石採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかし化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。

コック・レーンの幽霊(1762年)

コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアムケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分ケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しか調査の結果、パーソンズ自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。

トルコ人(1770年

ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けチェスを指し、しかほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ケンペレンの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。

首飾り事件(1785年

宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人仲介を依頼した。伯爵夫人は、ルイ・ド・ロアン枢機卿を巧みに騙して首飾りの代理購入をさせ、王妃に渡すと言って受け取った首飾りをばらばらにして売りさばいてしまった。その後、事件が発覚して伯爵夫人逮捕された。かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。また「王妃はラ・モット伯爵夫人同性愛関係にあった」「この事件王妃陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。

ヴォーティガンとロウィーナ(1796年

19歳のウィリアムヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピア手紙文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアム戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアム父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。

プリンセス・カラブー(1817年)

イギリスで異国の言葉を話す身元不明女性保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女インド洋島国王女ラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画新聞掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女メアリー・ベイカーという家政婦で、架空言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。

ポヤイス国(1822年)

イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地役職通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーフランス高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。

ピトケアン島の独裁者1831年

アメリカ冒険家だったジョシュアヒルは、ハワイ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分イギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。

ティッチボーン事件1865年

イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリア肉屋を営む男が「自分ロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリス庶民からも大いに人気を集めた。しか未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。

カーディフ巨人1869年

ジョージハル進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人実在について口論となり、それがきっかけで巨人化石捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見たかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラーバーナムが同様に巨人化石見世物にしはじめたことで、ハルバーナムを訴えるが、その裁判取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハル観念して偽造を認めてしまった。

ケーペニックの大尉1906年

ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい新聞記者から取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。

ピルトダウン人(1909年

イギリスピルトダウンでチャールズドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しか1949年フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石捏造されたものだと断定された。捏造犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイル真犯人だという説まである

エチオピア皇帝事件1910年

後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピア皇帝艦隊見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざい変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語ギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当ものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。

アルバニア王オットー1世1913年

ドイツ曲芸オットー・ヴィッテは、アルバニア公国独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットー証言は疑わしいものとされていたが、オットードイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。

コティングリー妖精事件1916年

コティングリー村に住む少女フランシスグリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家アーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。

アーン・マレー(1943年

オーストラリア現代詩誌『アングリーペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるセルから送られてきた。『アングリーペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派詩人であるジェームズマコリーハロルドスチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメものだった。この事件によりオーストラリア現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品シュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。

タサダイ族(1971年

フィリピンミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界から多額の寄付が集まり居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピン環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。

ソーカル事件1994年

評論雑誌ソーシャルテキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論特集に、アランソーカルから寄せられた『境界侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダン哲学者たちが科学用語濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。

2018-09-23

自閉症スペクトラム障害研究史

 レオ・カナーが自閉症を報告したのは1943年それから67年が経過した。そう考えてみると生涯を通じて研究された自閉症者というのはまだ1~2世代くらいしかいないのではないか

 そういや意外に誤解されているんだけれど、「自閉症母原病」というのは「偏見」の類ではなく、自閉症発見された当初は精神科医もそう考えていたという「時代遅れ学説」なんですね。

 上野千鶴子が「自閉症マザコンが原因」と言って問題になったという話がある。上野千鶴子世代なら自閉症母子関係に起因する精神障害であると習っていてもおかしくない。

 時期的に言うと、上野千鶴子は、日本で「自閉症は先天性のもの」ということを普及させるキャンペーンが行われた際に著名人として生贄にさせられたと言える。

 ちなみにローナ・ウィングがアスペルガー症候群を紹介したのは1981年。僕が生まれる2年前のことである酒鬼薔薇聖斗が生まれたのは1982年。そう考えてみると僕は生涯に亘ってアスペとして研究されうる第一世代に属するのではないか。(ただし僕自身は診断がないので研究対象とはなっていない)

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