はてなキーワード: 訳者とは
オリジナルの日本語版が出て時間が経ってからのリリースだから、流出避けのために資料を絞ってるわけではないだろうになぜこんなに誤訳が多い……
(引用はすべてスーパーダンガンロンパ2とdanganronpa2より)
"(前略)vigorously slammed the button more times than he needed to."
砂漠のオアシスのようなさわやかな誤訳。しかし日本一ソフトウェアが免罪されるわけではない。
「斬新なローションプレイだね!じゃ、脱いでおいたほうがいいかな?」
"Ooooh, fresh coconut lotion! Would it be better if I take off my clothes first?"
ココナッツの汁をローションとして使うことが斬新だと言ってるのに英語版ではココナッツ汁が新鮮ということになっている。
確かに採りたて新鮮だがそういうことを言ってるんじゃない。
「嫌な手だな…」
彼の言葉は手に対するものに見えるが実質は直前の相手の発言への呆れというかツッコミというかだろう。
しかし英語版ではその発言に同意or黙認していることになり意味が違ってくる。
「ほら、醜い顔だよね… 」
"Look, he has such a horrible expression on his face, don'tcha think...?"
心をぞわぞわさせるどぎつくて悪意あるセリフがごく普通の描写になっている。
直訳してくれてればよかったのに。
"Tch! Nosy bitch...!"
細かいヤロー呼ばわりされているのは彼の会話相手(男)でありbitch(女)ではない。
確かに女子の話題は出てくるが、このシーンで細かいといえるとしたら男の方である。
この二つによりこのbitchはほぼ間違いなく話題に出た女キャラを指すと思われているだろう。
ちなみにbitchは性的な意味を含まないことが多いのは知っている。というかこのゲーム内でのbitchはすべてただのクソ女か意味のない悪態として使われていた。
再追記終わり
"But...it's an academy that recruits only exceptional students from around the world, right?"
辞書を引かないのだろうか。
全体的に日本語がよくわかっていない訳が多い。
「おいっ、何をしているっ!」「やめろっ!!」
有能で状況を正しく把握していた彼だが英語版ではとろい間抜け。
「なんだよ…オメーもあの窓が気になんのか?」
なにをどうやったらこんな訳になってしまうのか見当もつかない。
「なんだぁ…使えない…」
"Aww...how useless..."
原文は話し相手を無能呼ばわりしているが、英語版ではそれ(物)は壊れているから使用できないという意味のようだ。
「このふとどき者っ!わたくしはそんなに膝の軽い女ではありません!」
"Imbecile! I am not some woman with flexible legs!"
「惜しい!もう少し上です。」
"O-O-Of course you're not! You're much classier than
「けど…速く走れそうだな。」
"With legs like those, I could prolly do the splits real easy."
英語版はflexible legsなるドンピシャな言い回しがありながら活用(ancleでもhipでもいいだろうに)しないでつまらない訳をあてた。
「目覚めたぞ!」
"I have awoken!"
クラスメイトの変態化を目撃した驚きが英語版では起床報告になっている。
本筋と関係ないのが救い。
「わからないんだったらいいよ…わからないまま終わればいいよ…」
"It's fine if you don't understand... You can just see the end without knowing."
危うく見逃すところだった。感じたモヤモヤに従って立ち止まってみてよかった。
日本語版では「謎が解けないまま終了」だが英語版では「終了することに気づかない」。
「ボクらは昔から、そういう風に教わってきたはずだよ。」
「直接的に言葉で言われなくたって、ボクらを取り巻く世界を見ればわかるよね。」
「テレビやネットや新聞から垂れ流される“希望溢れるメッセージ”がそう言ってるもん…」
「勝てない人間も…頑張らない人間も…頑張っても勝てない人間も…」
"For a long time, humans have been taught that if you try hard enough, you can accomplish anything."
"Even if we weren't told this directly, you'd know it just by looking at the world around us."
"The Internet, TV, and newspapers are overflowing with hopeful messages that say exactly that..."
"But people who can't win...people who don't try to win...people who try their best and still can't win..."
気づいた瞬間血の気が引いた、個人的に最低最悪の誤訳。機械翻訳にかけてもこうはならない。
元の文章にありもしない"if you try hard enough, you can accomplish anything"と"But"を入れようとした時点でおかしいと思わなかったのだろうか。
また英語版だと彼は"Internet, TV, and newspapers"に賛同していないことになるが、それなら"hopeful messages"と形容するのは不可解だと気づいてくれよ。
訳者は単純に読み違えたのか勝手に自分の主義主張を入れ込んだのか。
個人的には中間をとって、先入観に惑わされて誤読したのだろうと思っている。
確かに英語版は敵役とかちょっと厨二かひねくれものの主人公とかライバルが言いそうな、または苦い現実を地道に描くような物語によく出てきそうな言葉だ。
でも彼はそうじゃない。
彼を、ちょっと幼げで熱情的で小物っぽい狂信者を表したセリフをよくもこんな訳にしてくれたものだ。
"It's like the smug feeling you get when you explain something
同時通訳者の逸話で、どこかに招かれてスピーチした人が日本語に訳しにくいジョークを言ったときに
「この方は面白いジョークを言いました。みなさん笑ってください」と言って
その場を丸く収めたという話を思い出すが、ゲームの訳者は客に笑えと頼む仕事ではない。
確かに英語版もどことなく彼女がいいそうなセリフだが日本一ソフトウェアの罪が軽くなるわけではない。
「オメーがオレを殴んだよ。」
「だってお前…いつも俺を信じてなかったろ?」
良いシーンで誤訳。二つも誤訳。どうしてそうなるのか意味不明すぎて恐怖すら感じる誤訳。
詳細は伏せるが日本語版ではあるキャラの口調が一時変わる。それはいいけど英語版で微妙に追従してるのが困る。
英語に口調の違いなどほとんどないのに無駄に一部だけ変更してるから違和感しかない。誤字脱字だと思った人が多いだろうなあ、あれ。
ささいなことだとは思ったがここはあえて日本語版に背きその変更は削っていつもと同じ口調にしてもらった。
「そうか? 栄養ドリンクに見えなくもないけど…」
"Really? It looks like some kind of dietary supplement to me...Protein powder, maybe...?"
ぷっwwぷろていんwww
リアルで吹いた訳。その人がプロテインなんて持ってると思ったか?
ここで出てくるのは茶色で小さめの瓶。彼にはオロナミンcやデカビタのようなものに見えたのだろう。
しかし他の人に尋ねたところ、海外にはそのような容器に入ったエナドリはないらしいからプロテインにされてても仕方がない。
ちなみにこの訳の違いによる実害はない。
田中のセリフはなぜか軒並み高品質だった。ソニアのほとんどのネタが再現されていないのと鮮やかなコントラストを成していた。
左右田の口癖は「メンドクセー」というものだが、残念なことに英語版ではこれが毎回違う単語で訳されており口癖になっていない。
彼が手間や時間がかかる作業についてそう表現したことは一度(あいまいなのを含めれば二度)しかない。
あとは全て、怖い・不安という気持ちのときにのみメンドクセーと言っている。
臆病だったり地味に泥臭くこつこつ努力したりする左右田が恐怖を面倒という言葉に変えることでのんきで軽薄なパリピを装っている描写だと思っている。
ちなみに、一度だけの純粋に手間がかかることをメンドクセーと呼ぶシーンは
みんなの手間を省こうと努力して成功したがそれでも手間が残ってしまったときの
「メンドクセーけどヨロシク(意訳)」だからむしろ上の思いを強化している。
友達と仲間はそこそこ区別して使われているが英語版では全てfriendになっている。
なんとかしようと思ったが仲間をうまく表せる言葉は英語にはないようだ。
他の人に聞いたところそこの言語には仲間にあたる言葉があるようで一度は喜んだ……が
実際のところとあるきっかけからその言葉は廃れて今ではほぼ皮肉にしか使われないと言われ不意に
その人はゴッド・オブ・ウォーに戻しておいたそうだ。
それを英語版では円をそのままドルだったり"you don't speak English"だったりして違和感しかない。
ありがたいことに他の人はこれもyenに直したり"Don't you understand in human terms?"という意味の訳文にしたりしてくれた。
「差別だ!」
被害者が日本人かどうかは関係ない。とにかく人種差別を許してはいけない。
senbuu 2021/07/04 08:15
https://b.hatena.ne.jp/entry/4704941543717371106/comment/senbuu
“デンベレとグリーズマンが日本人を侮辱か…「醜い顔」「後進国の言葉」「技術的に進んでいないのか」(ゲキサカ) - Yahoo!ニュース”という記事は、どうやら誤訳に基づくデマらしい。ネトウヨ必読(義務)。
senbuu 2021/07/04 09:22
https://b.hatena.ne.jp/entry/4704956080578706466/comment/senbuu
「正確な情報と冷静な分析に最も近づけた者が差別かそうでないかの判断ができる!」
それは誰かというと、裁判長が判決を下すのと同じで、正確な情報と冷静な分析に最も近づけた者です。後半の問いは、もちろん差別。
senbuu 2021/07/04 12:36
eternal_reflectionさん がスターを付けました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4704974519419672802/comment/senbuu
「侮辱ではあっても差別ではない!差別でないものを差別というのはネトウヨを利するデマ!」
よく読もう。侮辱ではあっても差別ではない。君の誤解の出発点がここ。両者は異なる概念。差別でないものを差別と喧伝してしまったら、それは紛れもなくデマだ。そしてこのデマはネトウヨを利するものだ。
これで非表示
senbuu 2021/07/04 14:08
eternal_reflectionさん がスターを付けました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4704977483485453858/comment/senbuu
「やっぱ差別だって!でも差別だと最初から決めつけたネトウヨも間違い!」
差別でなく侮辱との記事があったが、二転してやはり差別らしいと。フランス語を母語とする方の意見なら、それが真実かな。が、偏見や誤読で初めから差別と決めつけていたウヨたち、その態度もまた間違いだ。
senbuu 2021/07/06 00:59
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705036800233664610/comment/senbuu
「言い訳せず差別だったと認めて真摯に謝罪すべき!そうすれば許してもらえる!」
これは半端。差別かどうかに加害者の意図も被害者の心情も関係ないんだ。差別は必ずしも悪人だけがするわけではない。だから下手に言い訳せず、素直に差別だったと認めるべき。真摯な謝罪なら世間は許してくれるよ。
senbuu 2021/07/06 01:26
araikacangさん がスターを付けました。
wkoichiさん がスターを付けました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705044709956244674/comment/senbuu
「差別じゃないと言った辻仁成も差別だと決めつけたネトウヨも両方間違い!」
誤訳した辻氏は論理的な意味で、結果的に正解でも情報不足の初期段階で偏見を広めたウヨは倫理的な意味で問題。
senbuu 2021/07/06 09:40
https://b.hatena.ne.jp/entry/4705061632135173154/comment/senbuu
出てきた情報にすぐ飛びついて「差別だ!」「やっぱデマだ!」って逐次断定を繰り返してる人のどこに正確な情報と冷静な分析があるのか、
ネトウヨに向かってシャドーボクシングする前にまず鏡で自分見た方がいいだろ、「これはひどい」って自虐なん?って感じだけど、
senbuuさんほどの御方が言うならやっぱりこれは正確な情報と冷静な分析に基づく思慮深い判断であり辻とネトウヨに間違っているという判決を下す資格があるんだろうなぁ……。
一連の出来事から学ぶべきことは、ネイティブでない言語の情報は訳者のバイアスがかかる(ネイティブ言語の情報だって発信者のバイアスがかかるけど)のだから、
すぐ飛びついて脊髄反射でなんか言うんじゃなく色々精査した上で「確からしい」というところまで持ってかなきゃなんない
(今回で言えばプロの翻訳家とか、ネイティブの仏人の反応とか、現地の報道とか、少なくともただ仏に住んでるだけの日本人の作家よりも信頼性が高そうな発信元にあたるなどして、もちろんそれが正しいという保証もまたないのだから過信してはならない)
っていうことであって、
あいつの差別が悪いとかネトウヨが悪いとか辻が悪いとかいつもの自分以外のあいつらが悪いゲームをやる前に教訓とするべきことはあるんじゃあないかと思うんですけどね……。
【イスラム教めぐる佐賀県内の不適切模試 教徒が受験 衝撃受ける】
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210204/k10012849051000.html
>「衝撃的でがっかり。イスラム教はテロを勧める宗教ではない」
いや、なにいってるの・・・普通にイスラームってテロを推奨してますからね(イスラム原理主義ではなくイスラム教自体の話)
「イスラム恐怖症」って単語があり、日本人はイスラム教徒を誤解している!みたいな言説が多いですけど、普通に誤解じゃないでしょ。
ここ読めば分かりますけど、「イスラム最高指導者が直々に暗殺を命令して」「謝罪も撤回もせず」「支援財団は数億円の懸賞金を立てて煽り立てる」って宗教なのに何が誤解なの???っていうね。
肯定的に思ってほしいなら少なくともこの件に謝罪してからの話ですけど、戒律からして不可能だから「誤解」が解けることは絶対にないです。
(1)はこちら。anond:20210212080317
好き。ただし、当時の人にしかわからないパロディやジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生」シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年・文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代の読書サークルは楽しかったなあ。
ドストエフスキーの小説は基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身がギャンブル依存症でユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。
登場人物は基本的に自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライドが無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。
ぜひとも増田をロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜」からがおすすめ。ロシア文学はいいぞ。
ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛と自己嫌悪の衝突を必死にプライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。
こっちはスマートなほうのロシア文学。一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞いに金貨を上げちゃう、現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ。
実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ。
未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。
誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないからなのだが、実は無職のマザコンが自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。
しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件をネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。
ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。
不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説にチャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫の短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。
読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げのビジネスマン。想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ。
最高のダメ人間小説。精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人の意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。
ちなみに自分はダメな人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。
さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子のスカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。
これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランドの空気を活写している。それだけではなく小説の様々な実験的手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体を歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石や芥川の文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。
上記の説明でドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。
結核療養サナトリウム小説。北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公の運命やいかに! 「ノルウェイの森」で主人公が京都山中の精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。
ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ。
はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。
洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピアの概念が現実の社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。
未読。長すぎる。
未読。
文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部の人種差別主義者が自分の帝国を作るために理想の女性と結婚するが、その女性に黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性と結婚することから始まる、二つの家系の因縁話なのだが、時系列がしっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。
未読。
読んだがよくわからなかった。うつ状態のときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫のサルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結に還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。
未読。
短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストのアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生も結構意味不明だよね、みたいな感じか。
未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。
どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。
レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術の描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星の描写は古びない。
SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものまであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから。
最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。
初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。
慣れてきたら、これが不条理としか言いようのない南米の歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガス=リョサに、ドノソに出会うことができた。
一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしか出さない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。
インド独立の瞬間に生まれた子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。
主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供が復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。
インドとパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインドの歴史をちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。
ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスのポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。
独自の神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?
未読。
卒業旅行でパリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全圏から眺めていただけだったが。
同じく卒業旅行でパリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスのサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーやフレンチカンカンは見に行っていない。
未読。
未読。
ドストエフスキーの作品がカーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常の価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキーの作品は爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。
ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。
未読。
疲れたので続編をやるかは不明。日本文学や哲学・思想は海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。
「イリアス」は捕虜の奴隷女の配分をめぐった交渉がこじれた結果、勇者が拗ねて戦場に出ず、味方がどんどん死ぬところからスタートするので、昨今の倫理観からは問題があり、神話初心者にはこっちをお勧めしたい。「オデュッセイア」も家で待っている妻を忘れてよその女のところで数年過ごすが、まあ魔法をかけられていたということでこっちのほうがマシだ。舞台もあちこち移動するから飽きないし。
ユニークなのは、劇中劇的にオデュッセウスが時間をさかのぼって事件の進展を語る箇所があることで、ホメロスの時代にはすでに出来事が起きた通りに語る手法が飽きられ始めていたのかな、と想像できる。
実は「ラーマーヤナ」とある共通点があるが読んでみてのお楽しみ。
聖書はなんせ二千年前以上の宗教書だから、原典に当たる前に基本的な出来事の流れと時代背景や当時の常識を理解していないと読解が難しい。当時のユダヤ民族の偏見も混じっているし。加えて、ところどころ立法全書的に当時の習慣や禁忌を延々述べる箇所があり、通読はさすがにできてない。新約聖書だけは何とか意地で読破した。
ところで、どうして「創世記」だけを取り上げたのだろう。たとえば物語として盛り上がるのは「十戒」の「出エジプト記」だ。「ハムナプトラ」とかでエジプトが悪役になるのは大体これのせい。いきなりこれにチャレンジするのなら、手塚治虫の聖書物語のほうがいいかもしれない。
犯人探しが不幸を呼ぶことから嫌ミス的な要素もあるし、ギリシア神話の「不幸な運命を避けるために必死になって行動した結果、結局その運命を呼び寄せてしまう」というアイロニーが大好きな自分としては、その典型例なので好物だ(予言を鵜呑みにした結果ドツボにはまる「マクベス」も好き)。
これが面白かったら、アイスキュロスの「オレステイア三部作」もおすすめしたい。何世代にもわたる恨みの念が恵みの女神として祀られることで鎮められるというモチーフは、異国のものとは思えない。
一般教養で唐詩の授業を取ったので岩波文庫でぱらぱらとめくった覚えがある。なにぶん昔のことなので記憶は曖昧なのだが、はっきり覚えているのが王梵志の「我昔未生時」で、天帝に生まれる前の時代の安らぎを返してくれるように願う詩だ。当時は反出生主義が哲学・思想界隈でここまでホットなトピックになるとは予想してはいなかった。
酔っ払いの詩。酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーという内容。著者は文学者であっただけでなく天文学者・数学者としても知られるが(三次方程式を解いた実績がある)、ここで展開されている詩はひたすら現世の美しさとはかなさをうたったもので、酔っ払いは世の東西を問わず、というところか。イスラム世界の厳格なイメージをひっくり返してくれるので面白い。ガラン版のアラビアンナイトや高野秀行の「イスラム飲酒紀行」とあわせてどうぞ。
フィレンツェを追放されたダンテが苦しみの中生み出したキリスト教最高峰の文学のはずだけれど、とにかく気に食わない政敵を地獄でめちゃくちゃな責め苦に合わせているところを面白がる下世話な楽しみ方ができる。地獄にいる人物は聖書やギリシア神話、歴史上の人物も多く、ヨーロッパの歴史や文学をざっくり知っているとダンテがどれだけやりたい放題やったかがわかるので愉快。
ただし、地獄編の続きの煉獄編・天国編はキリスト教哲学をかじっていないと結構しんどく、しかも風景が山あり谷ありの地獄と比べてひたすら恵みの光が明るくなっていくだけなので、絵的に面白いのは地獄のほうだ。
ついでに、ヒロインがかつて片思いをしていたベアトリーチェという女性なので、ベアトリーチェの美しさを歌う箇所も下世話な目線で楽しめる。妻帯者の癖に未練たらたら。
未読。後述のラテンアメリカ文学とかジョイスとかは読んだんだが、そこに出てくる過剰なものや糞尿譚も結構楽しんだので、いつかは読みたいと思っている。
四大悲劇と「ロミオとジュリエット」はざっくりと読んでおくと、いまにも受け継がれているネタが結構あることがわかって楽しいし、意外と下ネタのオンパレードなので当時のイギリス人に親しみを持つことができる。ついでに上記のうち二作は黒澤明の映画の元ネタでもある。
興味深いのは、劇中劇というかメタフィクションが必然性を持って登場することだ(父を殺した叔父の目の前で、その殺人の場面そっくりの劇を演じて動揺させるシーン)。すごく先進的だ。かっこいいぞシェイクスピア。
基本的には正気を失ったおじさんが繰り広げるドタバタ劇で、下巻では著名になったドン・キホーテをからかう公爵夫妻までも出てくる。これだけだと精神を病んだ人をおちょくる悪趣味な書物だとしか思えないのだが(というか最初は時代遅れの騎士道精神を批判するために書かれた)、昨今はドン・キホーテに同情的な解釈が主流。最近テリー・ギリアムが映画化した。
自分が道を踏み外した元凶。誰だこんな子供を人間嫌いにする本を児童書の棚に並べたのは。クレヨンしんちゃんを夕方アニメにするレベルの蛮勇だ。四部作だが、最後の馬の国では人間という存在の醜悪さをこれでもかと暴き立てており、おかげさまですっかり自分は人間嫌いで偏屈な人になってしまった。作者の女嫌いの影響を受けなくて本当に良かった。
とはいえ、当時のアイルランド支配はこれほどまでの告発の書を書かせるほどひどかった、ということは知っておきたい。
夏目漱石「吾輩は猫である」に出てくる。基本的にはふざけた話であり、著者が自分の誕生から一生を語り起こそうとするがなかなか著者自身が誕生せず、しかも物語の進捗が遅いせいで半年ごとに本を出す約束なのにこのままでは永遠に現在の自分に追いつかない、みたいな語りで笑わせてくる。挙句の果てに著者が途中でフランス旅行に出かけてしまう。英文学というジャンルがまだ黎明期なのに、こんな愉快なのが出てくる懐の深さよ。
だが、これだけふざけているのに、登場人物の一人がうっとうしい蝿を「この世の中にはおれとおまえと両方を入れる余地はあるはずだ」といって逃がしてやるシーンはいい。
未読。「毛皮を着たヴィーナス」と「眼球譚」は読んだんだが。バタイユどんだけおしっこフェチなんだよ。自分もお尻とかブルマーとか競泳水着が好きだから笑わないけどさ。
個人的にはとても好き。人生できっと何かを成し遂げられるはずという万能感ある思春期に読みたい。主人公の行為は決して褒められたものではない。様々な悪事を働き、幼い少女を妊娠させたうえ捨ててしまう。このシーンのせいで、もしかしたら二十一世紀には読み継がれない古典になってしまうかもしれない。しかし、主人公が最後にたどり着いた境地の尊さの価値は失われることはないと信じている。現世で最も美しい瞬間とは何か、あらゆる物質的な快楽を手に入れた主人公が見つけた答えを読んでほしい。後半はギリシア神話を知らないとつらいかもしれないが、そのためにギリシア神話入門を読む値打ちはある。
未読。同著者の「赤と黒」は貧乏な青年がひたすらのしあがろうとする話で、あまりピンとこなかったのだが、文学サークルの友人から最近来たメールに「訳者を変えて再読したら面白かった」と書いてあった。
さえないかわいそうなおじさんが好きなので好き。ロシア文学というものは、名前がややこしいうえに同じ人物が様々に呼ばれるので敬遠されがちなのだが(イワンが何の説明もなくワーニャと呼ばれるなど)、登場人物をメモしたり、ロシア人名の愛称の一覧を頼りにしたりして飛び込んでほしい。このハードルさえ超えれば最高の読書体験が待っていることは保証する。ロシア文学はいいぞ。
ポーは大好きなんだけどどうしてこれを代表作に選んだのかはよくわからない。個人的には王道の「黒猫」とか「アッシャー家の崩壊」とかを最初に読むのがいいと思う。中学生の頃、狂気や暗鬱さにどっぷり浸っていた頃に読んだのだが楽しかったし、作中の詩が今でも世界で一番好きな詩のひとつだ。ちなみに、東京創元社のポー全集には、ポーのユーモア作品もいくつか収録されており、意外な顔を知ることができる。もっとも、今読んで面白いジョークかどうかまでは保証しないが、こじらせ文学少年・文学少女としては必読か。
最高の昼ドラにして非モテ文学。俺は愛されずに育った、俺は永遠に誰からも愛されない、だから他人の幸福を破壊してもいい、的な気分に一度もでもなった人は何としても読んでほしい。
映画「マチルダ」の中で児童書に飽きた天才少女がこれを読もうとする場面があるんだけど、これ小学生が読む本じゃないだろ。単純に難しいのではなく、とにかく話が脱線しまくる。まともにストーリーが進まずに、著者自身のクジラに関するうんちくが延々と続く箇所もある。雑学隙の自分は楽しく読んだが。
敵のクジラを殺してやろうとするエイハブ船長の狂気についていけるかどうか。
自分が人妻萌えを発症した元凶の一つであり、世界文学初のカーセックスシーンがあることでも知られている(自動車ではなく馬車でだが)。ストーリーは夢見がちな女性が夫に幻滅して若い男やチャラ男と浮気し、サラ金から借金を重ねて自殺するという「闇金ウシジマくん」的なノリ。妻の浮気を知ったさえないボヴァリー氏の哀れな反応は必見。自分が寝とられ文学が好きになってしまった元凶の一つ。
なわとび:401回
ボクシング:99kcal/26歳
徒歩:270.0kcal/8575歩
8月から少しずつ読んでた『戦争は女の顔をしていない』をやっとの思いで読了した
解説読むと訳者の人がガンになっても標準治療を拒絶して代替医療を選択してそのまま死んでしまったっぽくて二重の意味で残念
左派的な人(フェミニズムの人も一部その傾向がありそうな気もするけど)は権威や権力に対してどうしても対決姿勢を取らざるを得なくなることが多いので、そういった行動様式が「すでに確立されたもの」に対して疑いを抱きやすい思考につながったりするのかなあと思ったりした(立憲民主党に群がる有象無象のことなども考えつつ)
「ルカシェンコ大統領はわたしたちなんかより、野党の知識人なんかより庶民との対話がずっと上手」っていうのは日本でもあるあるなので同意のし過ぎで首がもげた
ベラルーシという土地柄もあるのだろうけれど、パルチザンの話が多くて、これがひたすらつらい
そしてこれだけ辛いことのオンパレードでもまだまだ語られない、語ることのできないことがたくさんあるのだということが巻末の方で示唆されていて、そりゃそうだとは思うけどよけいにつらい
だけど同時に独ソ戦を戦った女性たちという存在にどことなくロマンを感じてしまうのも確かで、地上の地獄ともいうべきこのような惨劇にロマンを感じてしまう自分のどうしようもなさに対して呆れたりもする
この本を読む前に予習として岩波新書の『独ソ戦』を読んでおいたんだけど、ドイツ国内にまで侵攻したソ連人たちのドイツの豊かさに対する戸惑いをみると、そりゃそう思うよなって感じがした
もっとも重要な事は、カナダでは誰もお金が無いために医者に診てもらえないという事がなく、カナダ人は家計を破綻させる医療費の請求書を受け取る心配をせずにコロナウィルスの検査や治療を受けられるという事だ。これは間違いなく、カナダのcovid-19の死亡率が我々よりもずっと低い理由の一つだ。アメリカにおいては、とんでもない請求額が我々の健康医療制度の特徴の一つだ。トランプ大統領や議会メンバーからのcovid-19の患者は検査や処置を請求されないという保証にもかかわらず、多くの報道によると彼らは多額の請求によって苦しめられている。
カナダではこんな事はない。カバーされる医療サービスについてco-paysだの、deductiblesだのcoinsuranceだの(訳者注」全部、自己負担の事)はない。医療はサービス提供時点では無料だ。そしてカナダでは失業者が健康保険を失うことを心配することもない。合衆国では対照的に、このパンデミックで4000万人以上が職を失ったが、そのうちの数百万は、そして家族もまた、保険もまた失った(訳者注:アメリカでは健康保険を会社が購入して従業員に提供している事が多い。そのため、失業すると健康保険を失うとか、健康保険の為に会社を辞めれないとか、更には健康保険が家族への提供される場合、変更保険の為に結婚するとかいう事がある。)
そしてケアの質のこともある。数多くの尺度でみて、カナダの方が優れている。いくつか例をだそう:カナダは合衆国よりも予防可能な原因による入院の比率がずっと低い。糖尿病では我らの国はほぼ2倍も多いし、高血圧では8倍以上も多い。そしてカナダはヘルスケアに一人あたりでみて我々の半分以下しか使っていないが、彼らの平均寿命は82歳であり、対して合衆国では78.6歳である。
パンデミックが北米にやってきた時、毎年global budgets (運営費用を賄うために州や地域レベルで通常一定の額が支払われている)のもとで運営されているカナダの病院は多くのアメリカの病院よりも患者の増加により良く準備できていた。そしてカナダは各個人を守る備品の生産増加も我々よりはるかに速かった。
生活の為にかつてやっていた事についての多くの後悔のなかで、その最大のうちの一つはカナダの健康医療制度への中傷だ。もし合衆国が2009年に(あるいはそれ以降のいつかに)違う改革を実行出来ていたら(訳者注:2009年の改革がACA、オバマケアの事。上述の通り、これは民間保険会社へ頼った制度改革だった。)、保険の支払いを制限する事へのインセンティブで一杯の民間保険会社に頼らない改革が出来ていたなら、我々は今日、より健康な国であっただろう。保険なしで生きる事は、避けえた死を迎える確率を劇的に上昇させる。過去13年間にわたって、何万ものアメリカ人がおそらく早すぎる死を迎えただろう。我らの北の隣人たちと違って、彼らは保険を持っていなかったり、あるいはあまりに不十分な保険だったりして、必要な医療を受けられなかったために。私はその事の恐ろしさと、その中の自分の役割とともに生きている。毎日。
にもかかわらず、業界のスポークスマンとしてその年、業界に20年いた最後の年であったその年の大半を、ジャーナリストや議員達へAHIPの「情報」を広めること)に費やした。我々の健康医療制度はカナダのそれより優れているという印象を作るために。我々は人々にカナダの制度が崩壊の寸前にあると信じさせようとしていたのだが、このキャンペーンは上手く行った。カナダのシステムを悪く描くストーリーが報道に流れ始めたのだ。そして民主党がのちにAffordable Care Actとなるものを書き出し始めた2009年の初めには、彼らもカナダのような公的負担のシステムを真剣に考慮することはなかった。我々がそういったアイデアは過激なものであるとするのにあまりに成功したので、上院財政委員会の委員長であるMax Baucus上院議員(民主党、モンタナ州選出)はシングルペイヤー(訳者注:政府が保険を提供するシステム)の支持者たちを公聴会から追い出すほどだった。
今日、コロナウィルスパンデミックへのカナダと合衆国それぞれの結果が、私が広めるのを手助けした考えがどれほど間違っていたのかを証明している。人口比でみて合衆国のコロナウィルス感染は3倍以上であり、死亡率はカナダの2倍になっている。そして今では人口比で我々の方がより多くの人を検査するようになってはいるが、我らの北の隣人は検査でより早期に成功を収めており、これがパンデミックにおいての違いを生み出すのを助けた。
我々が広めたうちでもっとも効果的な神話、大きな改革が提案されると業界が引っ張り出す神話は、カナダ人や他のシングルペイヤー諸国の人々は必要な医療の為に長く待つことを余儀なくされているというものだ。去年もまた、The Medicare for All Act of 2019(訳者注:Medicareはアメリカの高齢者向けの政府による公的健康保険で、Medicare for allというのはこれを全国民に適用しようというもの。勿論、民間保険会社は反対。)についての議会委員会の公聴会へ提出された声明において、AHIPはシングルペイヤーシステムにおいては「患者はより多く支払い、より長く待って、より酷いケアを受ける事になる」と主張している。
カナダ人が時折、選択可能な処置(人工膝関節置換術がよくあげられている)の為に数週間なり数ヶ月なり待つことになるのは事実だが、大部分の医療サービスについては彼らは全く待つ必要がないというのが真実だ。そして、私が売り歩いていた別の神話、カナダの医者たちは合衆国へ大挙してやってきているという神話(訳者注:政府に規制されたカナダから自由なアメリカ市場へカナダの医者が逃げきているという嘘。)とは異なり、1000人あたりでみてこの国よりもカナダの方が医者が多い。カナダ人はその医者達に平均して年に6.8回診てもらっているが、比較してこの国ではたった4回である。
ワシントン・ポストにThe Health Care Scare ヘルスケアの恐怖:私はアメリカ人にカナダの医学についての嘘を売り、いま我々はその対価を払っている、というコラムが載っていて、興味深かったので訳しました。アメリカの健康保険が高すぎて、保険に入れない人が多くおり、これがアメリカの嫌儲問題の一因となっていた事は有名だと思います。この問題をなんとかする為に、2009年にオバマケアとも呼ばれるAffordable Care Act (ACA)が成立したわけですが、このACAは民間保険会社に大きく依存した制度でした。なぜ他の多くの国がやっているような(勿論、各国ごとのバリエーションは大きいわけですが)政府による保険の提供が行われず、できる限り民間市場に頼った制度になったのか?色々理由はあるわけですが、その一つが保険会社によるプロパガンダであり、そ担当者だった保険会社の重役が書いた懺悔がこのコラムです。
なんか長すぎたようなので、2つに分割してあります。
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保険会社重役という私の以前の人生において、私の仕事はアメリカ人に自分たちの医療について騙すことだった。利益を守る為に人々を欺いていたのだ。実際、企業のプロパガンダ担当としての私の主要な目的の一つは、自分の役割を果たすことで「株主価値を高める」ことだった。この仕事は保険を受ける人たちを減らす環境作りに直接つながったが、これがコロナウィルス)という誰もが医療を受ける事を求めそして受けられる事によってのみ立ち向かえる状況に対する我らの国の苦難を生み出してしまった。私のようなスポークスマン達がアメリカとカナダの健康医療制度の違いについての重要な真実を誤魔化す事に給料が払われていなければ、このパンデミックの期間に亡くなった何万ものアメリカ人はまだ生きていたかもしれない。
2007年、私はCignaの広報担当(Corporate communications)の副社長として働いていた。その夏、マイケル・ムーアは彼の最新ドキュメンタリー”Sicko”をリリースする準備をしていた。アメリカの医療を他の豊かな国々のそれと比べるものだ(当然ながら、我々は酷いものに映っていた)。私は他の大手保険会社の同じ役割の人間たちとその映画を叩く為の秘密裏の会議に何ヶ月も費やしていた。この映画には重要な医療処置への保険適用を認められなかった患者たちの多くの逸話が含まれていた。例えば3歳のAnnette Noeだ。彼女が聴こえるようになる為の2つ人工内耳の移植の支払いを彼女の両親がCignaに求めてきた時、我々はただ1つしか認めなかった。
明らかに、私と仲間たちは強固なディフェンスを必要としていた。業界の最大の事業者団体、America’s Health Insurance Plans (AHIP)の為のタスクフォースにおいて、我々はいかにしてカナダ、フランス、英国、そしてはてはキューバの健康医療制度を我々のもの同様の酷いものに見せるかについて話し合った。我々は大手のPR会社であるAPCOワールドワイドを雇い、そこのエージェントたちがAHIPと共に私のような企業の宣伝屋がニュースリリースや記者向けの声明で使える宣伝文句のバインダーをまとめ上げた。
次はそのバインダーの中のAHIPの広報資料からの例だ:「2004年5月の世論調査によるとカナダのビジネスリーダの87%がもし緊急で医療が必要になれば政府のシステムの外側の医療機関を探すとしている」。これのソースは業界が支援しているPacific Research Instituteの社長であるSally Pipesによる2004年の、「ミラクルケア:アメリカのヘルスケア危機をいかに解決するか、そしてなぜカナダは答えではないのか」というタイトルの本だ。同じ本からの他の主張は、カナダの放射線技師の協会のCEOが「カナダの放射線技術の設備はあまりに酷すぎて、『早急の対応がなければ放射線技師は検査の信頼性と品質について保証することはできなくなるだろう』」という言葉を引用している。
こういったもののほとんどは、多くのアメリカ人、特に必要な医薬品を手に入れる為にカナダの安い薬価に頼っている数百万の人たちの経験に反している(訳者注:アメリカの薬はバカ高いのでカナダ国境近くのアメリカ人はカナダへ薬の買い出しツアーをしていたりした、コロナ以前は)。しかし、こういう主張を疑うよりはっきりとした理由があった。たとえば、この2004年の調査を行ったのは誰なのか我々は知らなかったし、そのサンプルサイズや調査方法についても何も知らなかった。「ビジネスリーダー」として認められる基準についてすら、だ。画像装置についての発言は信頼できるデータに基づいているのか、ただの個人の意見なのかも知らなかった。そしてアメリカの病院での時代遅れの設備についての同様な文句は簡単に見つけられる。
(ワシントン・ポストからの応答の要請に対して、AHIPのスポークスマンはこれらの考えは「ACA以前の過去のものであり、我々はいまはフューチャーフォーカスドであって、上手くいくものを進め、いかないものを修正しています」と返答し、当団体は「誰もが購入可能で質の高い適用と医療を受けとってしかるべきであると信じています。健康状態、所得、病歴に関わらず」と付け加えた。APCOワールドワイドのスポークスパーソンはポストに、会社は「ヘルスケアシステムの進化に対応する顧客の支援に関わってきた。やってきた仕事は誇りである」と伝えた。Cignaは応答の要請に答えなかった。)
モンティ・パイソンのギャグのひとつに、ローマ皇帝が友人の名前として”Biggus Dickus”というのを挙げて、思わず吹き出した側近たちに怒るというのがある。
Big dick、デカチンを雑にラテン語っぽくした一見して悪ふざけと分かる名前をクソ真面目な顔で口にする皇帝の姿におかしみがあるんだと思う。
このBiggus Dickus、日本語で分かりやすく訳すならどうなるだろう。
ネットフリックスの日本語字幕では「デカ・チン」としてたんだけど、これは意味は分かるんだけどラテン語っぽさは消えてしまっている点が残念だと思う。まあラテン語なんてやってる人はあんまりいないし(俺も知らん)、頑張って訳したところで仕方がないといえば仕方がないんだけど、どうも勿体ない気がするのだ。
デカウス・チンコイウスとか、チンコス・デカスギウスみたいな訳のほうがまだいいんじゃないか?と俺は愚考する。でもこんなん訳者の人もすぐ思いつくだろうし、普通に考えてデカ・チンのほうが面白いんだろうなあ。
悔しいぜ。
訳者のひとりに島田裕巳.原著は1975年にヒット,訳本は1984年,改訂版は1990年.
親戚が集まった(たぶん曾祖父の33?回忌)時におじさんが読んでいた本,『本は10冊同時に読め!』(成毛誠,2008年)で絶賛されたていた.『タオ自然学』は東洋思想と現代物理学の類似性を指摘した本で,高度な物理学が発展すればするほど,それが人間の存在なくしては存在し得ないことを説明している.
結局,ほとんど読めずに捨てた本である.端的に私には難しかった.
古紙置き場で拾った本.たぶん言語学か文学のテキスト,参考書だろう.ヒエログリフ,アルファベット,漢字を中心に紹介されている図説である.漢字の章だけ読んだ.
日本語における同音異義語の多さと漢字を利用することによるそれらの区別というメリットなどが紹介されていた.
さよなら.
『動的平衡』や『生物と無生物のあいだ』は生物学を面白く紹介した本だった.
しかし,著者はトンデモ疑似科学のオーソモレキュラー(分子栄養学とも)のセミナーで講演し,傾倒もしているようだ.
分子生物学者としては確かにメカニズム中心のオーソには親和性が高い.
しかし,実際に疫学的根拠のないオーソとは距離をとってほしかったのである.
さよなら.
この本には罪はないけど.
あなたは、典型的な美大卒のデザイナーなのだろうなと思いました。
いわゆる、自身の作ってきたものや作るのもに自信を持つ職人気質であるように読み取れました。
広告が金儲けの仕組みとして、正々堂々とした道徳的な業界・仕事であると認識されたのは、30年前ぐらいという認識でいます。(これは2020年版の「不道徳な経済学」(早川書房)、訳者あとがきに記されていたことを元にしていますが、自分は実際は40年位前じゃないかって考えてます。理由は90年代において、既に広告屋が不道徳でないという認識が広まっていたという個人的見解に基づく物です。不道徳な経済学の原本がウォルターブロックという方でアメリカでの話をしている点も個人的見解に影響をあたえています。)
それ以前は、「広告は付加価値を生まないから不要である」と考えられていたようです。
つまり、ここで言いたいのは、あなたが考える広告文化とは30年から40年間でやっと道徳的な仕事であると認識されるようになったという経緯を前提にして考えてみると、道徳的な仕事であるという認識が元から浅かったのではないでしょうか。
また、「広告があるから製品がある」(広告→製品)ではなく「製品があるから広告がある」(製品→広告)という根本的なところについてはどうお考えでしょうか。
私は、広告は製品(ないしサービス)の金儲けを手助けするためのものと考えています。
つまり、金儲けをお助けするのが根本にあると考えており、金儲け(ビジネス)なのですから、お金さえ儲かればどうでもいいのです。
元来、広告とはそのような成り立ちがあったと考えます。つまるところ、広告業界とは表面的な変化は時代に沿って変わってきているが、根本的なところは何一つとして変わっていないと考えています。
さてさて、そもそも「文化」とはとても高尚な表現に聞こえますが、よく悪しき文化としてあがる政治的主張を暴力で解決する戦争だって人間の文化です。(戦争は文化で美しい!という思想をもっていましたら、ちょっと伝わらないかもしれないのですが...。)
デザイナーにありがちな、自信の仕事を高尚なものであると考える誤解はほどほどになさった方がよいかと思いまして、コメントさせていただきました。
新潮社のトマス・ピンチョン全小説の『V.』を読み返していたら、ちょっと気になる箇所があって、これは原文ではどうなってんだろうと、図書館で原書を借りてきてみました。そしたら、あれ、もしかしてこれ、この翻訳ひどい?
というわけで、原文と翻訳を照らし合わせたうちで、これはいくらなんでもという箇所を以下で検証していきます。
この段落はニューヨークの下水道に巣食うワニを狩るパトロール隊として雇われているプロフェインという男が第五章で書かれたワニ狩りのことを回想しているというところです。訳文とそれに対応する原文を引用していきます。訳文の引用は『V.』上巻の217,218頁から。
フェアリング神父の教区を抜けてイースト・リヴァー近くまで、独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。
He thought back to the one he'd chased solo almost to the East River, through Fairing's Parish.
「抜けて」とありますが、第五章を読めばわかるようにプロフェインは教区を抜けていません。ここのthroughは「~の間を通って」の意でしょう。
ちなみにフェアリング神父は下水道でネズミにキリスト教を布教しようとしていた人物です。
そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。プロフェインが酔っぱらってか欲情してか、頭がポワンとしていたとき、ワニの足跡だらけの泥の上で、契約を交わしたのか?
It had lagged, let him catch up. Had been looking for it. It occurred to him that somewhere--when he was drunk, too horny to think straight, tired--he'd signed a contract above the paw-prints of what were now alligator ghosts.
「なにか取り決めでもあったのか」という訳文に対応する箇所がない。
これに対応するらしき原文はこのあと出てくるのですが、なぜここに置かれているのかわかりません。それ以外にも問題がありますが、それは後述。
It occurred to him thatが訳されていない。
tiredが訳されてない。
of what were now alligator ghostsが訳されていない。
この段落ではこのalligator ghostsなるものがどういう存在なのか、このあと縷々綴られていくので、これを落としてしまうのはちょっと。ここは訳すなら「今や幽霊であるワニたちが、かつてそうであった存在の」となるのでしょうか。あまり自信はないですが。
プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える、それでイーヴン、恨みっこなしと。
Almost as if there had been this agreement, a covenant, Profane giving death, the alligators giving him employment: tit for tat.
Almost as if there had been this agreement, a covenantが訳されていない。
上に出てきた「なにか取り決めでもあったのか」が訳文なのかもしれないけど、this agreement, a covenantとわざわざ言い直して二回言っているのを「取り決め」の一語にまとめるのはどうなんですか。しかもcovenantなんて「(神との)聖約」という強い意味の語なのに。そんな語がワニ相手に使われているというのがこの文のミソだと思うのですが。うーん。
プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを覚えていたのか。
He needed them and if they needed him at all it was because in some prehistoric circuit of the alligator brain they knew that as babies they'd been only another consumer-object, along with the wallets and pocketbooks of what might have been parents or kin, and all the junk of the world's Macy's.
息の長い原文を切って日本語として不自然じゃないようにしているのでしょうが、かえって意味のつながりが見えにくくなっているような。
おかげで分かりづらい。これでは「必要だったのか」「生じていたのか」「覚えていたのか」と三つの疑問文がただ並列されているように見える。せめて「生じていたのか」「覚えていたのか」を「生じていたからなのか」「覚えていたからなのか」にした方が良いのでは。
the world's Macy'sを「世界中のデパート」としているのは明らかに誤訳です。メイシーズは基本的にアメリカにしか展開していないようですし、なによりもこの挿話の元になった都市伝説はニューヨークのメイシーズで、ペット用に売られた赤ちゃんワニがトイレに流されて下水道で成長していたというものだったわけです。なのでthe world'sはここでは「ここらの界隈の」みたいな意味ではないでしょうか。
あと英語の仮定法を日本語の疑問文で訳すというのは翻訳のテクニックとしてアリなのでしょうか。いや、アリならアリで全然いいんですけど。ただの素人なのでよくわかりません。
トイレを通って、地下の世界に流れてきたのは緊張の中の束の間の平和に――いずれは子供の、見かけだけ動きのあるオモチャに戻っていくしかない、それまでの借り物の時間に――すぎなかったのだろうか?
And the soul's passage down the toilet and into the underworld was only a temporary peace-in-tension, borrowed time till they would have to return to being falsely animated kids' toys.
トイレにジャバーっと流されて下水道に流れ着くという事態を「魂の道行き」なんて大げさな言い方をしているのが、面白いところなのになんで訳されていないのか。あとダッシュをいれて「――いずれは子供の(中略)借り物の時間に――」と挿入するくらいなら原文の語順通りに訳したほうがわかりやすいように思えます。
もちろん自分から望んでのことではない。望みは、もとの自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。そしてそのまま、教区の聖なる水に浸食され、あの日、あのワニの墓場を明るく満たした光のような燐光を発する、アンティークな骨細工になっていくしかない。
Of course they wouldn't like it. Would want to go back to what they'd been; and the most perfect shape of that was dead--what else?--to be gnawed into exquisite rococo by rat-artisans, eroded to an antique bone-finish by the holy water of the Parish, tinted to phosphorescence by whatever had made that one alligator's sepulchre so bright that night.
to go back to what they'd beenが「もとの自分たちの暮らしにある」でいいんでしょうか。このあとに続く文に則して意味をとるなら「暮らし」では変では? それに原文はto go backなのに「帰る」という意味が訳文から感じとれないです。
さて、ここから先が問題です。ここは第六章の中で非常に重要な段落の中でも、さらに重要な一文だと思うのですが、まともに訳されていなくて頭をかかえました。
まず、ダッシュで囲まれたwhat else?が訳されていない。
「しかない」という形で間接的に訳されていると言えるかもしれませんが、それでもこれを落とす理由にはなりません。
exquisiteが訳されていない。
tinted toが訳されていない。
by whatever以後の節を「燐光」にかけて訳していますが、これは英文解釈的に無理なのではないでしょうか。また、そのせいなのか原文の語順がぐちゃぐちゃにされてしまっています。なぜeroded to an antique bone-finishとひとまとまりなっているのを千切って「浸食され」と「アンティークな骨細工」をかけ離れたところに置いているのでしょうか。
原文を素直に読めば、ワニは死後、gnawed-齧られてrococo-ロココ彫刻になって、そのロココ彫刻がeroded-浸食されてan antique bone-finish-骨仕上げのアンティークになり(bone-finishというのは妙な言い方ですが、matte finish-つや消し仕上げをもじったような表現だととりました)、そのアンティークがtinted-染められてphosphorescence-燐光になると読めます。
つまりワニの死後、時間の経過によってワニがどのように変貌していくかの推移を追うことができるように読めるわけです。しかし翻訳ではそのように読むことはほぼ不可能です。
さらにこの段落の一番最後に来るのは原文ではwhatever had made that one alligator's sepulchre so bright that nightなわけで、ここに意味上の大きな負荷がかかっていると思えるのですが翻訳では「燐光」の前に置かれて目立ちません。
これでは、4コママンガのコマの順序を入れ替えてしまったために、オチの意味がわからなくなっているようなものです。
ここのところをわたしなりに試しに訳してみたので、ここに置いておきます。
そして、その望みの最も完璧な形とは死ぬこと――他に何があろう?――であって、そうして工匠ネズミに齧られて精妙なるロココ彫刻とされ、教区の聖なる水に浸食されて骨仕上げのアンティークになり、何ものかに染められて澄んだ緑色の燐光と化すのであり、そしてその何ものかこそ、あの晩、あのワニの地下埋葬所をあんなにも輝かしく光らせていたのだ。
(phosphorescenceという単語を見ていたら、どうしても『宝石の国』のフォスフォフィライトの顔がチラついてしまったので「澄んだ緑色の燐光」としてしまいました)
とにかく第六章にはここ以外にも訳されていない語、節、文がたくさん出てきます。他にも誤訳、誤訳とは言いにくいけどおかしい訳もままあります。誤訳ではなくてもあまり使われない珍しい単語が使われていたり、凝った表現がされていたりするところが、平易な分かりやすい、いいかえれば、ありきたりでつまらない日本語になっていたりします。
いったいなんでこんなことになっているのでしょうか。ピンチョンが好きでこの『V.』も何度も繰り返し読んできたというのに、今まで読んできたものは何だったのかという気分で、ショックが大きいです。
共訳者の一人、佐藤氏は何十年もピンチョンの研究、翻訳をされてきた人で、こんな訳をするとは思えないのですが。それとも、このころ『重力の虹』の翻訳に集中していて実は『V.』にはあまり関わっていなかったとか? しかしもうひとりの小山氏もイギリスの大学院に留学して英語の著作もある人だそうですし。学生に下訳させて、ろくに直さずに出版したとか? まさか。
ただ原文を横において検討したのは第六章だけなので他の章はちゃんとしている可能性はあります。わたしの英語力では全文チェックするなんてとうてい無理なので、誰か英語を読むのが苦ではなくて、現代アメリカ文学に詳しい人に『V.』全編の翻訳をチェックしてみてほしいです。