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はてなキーワード: 疑似科学とは

2023-09-04

薬効成分を薄めて飲むことでかえって効果高まるって疑似科学あるじゃん

あれに則って言えば、核汚染水を薄めて放出することでかえって核汚染効果高まるってことにならんか。

やはり現代科学の敗北…。

2023-08-29

anond:20230829132639

ニューロセクシズムではなくトキシックマスキュリニティ問題ですので

科学やってから疑似科学語ってどうぞ

小学校笑いぐさ日記への反論

対象

https://filinion.hatenablog.com/entry/2023/08/28/183929

筆者の主張

要約、追記を抜いても11000字超えの長文な上、不正確な記述、横道にそらすだけの文がほとんどを占めるため、読むにしても冒頭の要約部分のみで十分と思う(自分は読んだ)。それでも原稿用紙2枚分以上あるので端的に要約する。

反論

※1 ちゃんと知っておきたい ALPS処理水のこと p3 海洋放出する理由は? https://www.fukko-pr.reconstruction.go.jp/2018/fukushimanoima/shiru/alps/

決めつけの域を出ない内容

 基準値を満たしてないものを、「海水で薄めたら基準値以下になったから海に捨ててオッケー!」 って、工場排水とかでやったら一発で操業停止になるやつだと思うんですが。

水質管理基準は「検出されないこと」を含め濃度の上限を意味する。海水で薄めて基準値以下にしたものは全体を薄めているのであれば問題ない。海水総量は変わらないので放出後に海ですぐに自然がすることを陸で人為的にやっているに過ぎないが。

 

ALPS処理水の長期的取扱いの検討」ともあります

 

 つまり本来計画では、今頃は汚染水の増加は抑えられ、残った処理水は低レベル放射性廃棄物として国内処分する予定だったわけです。

長期的取り扱いが未検討であることは、処理水が低レベル放射性廃棄物として国内処分する予定であることを意味しないデマである

 

それじゃあどうして今回海に流すことになったかと言えば、要は廃炉ロードマップ破綻たからです。

 汚染水ゼロどころか毎日何十トンも増え続け、ついには保管しきれなくなった処理水を海に流すことになってしまった……というのが現状です。

タンク短期的取り扱いでいわゆる時間稼ぎのための暫定措置既定路線。だからこそ、処理水の長期的取り扱いを別途検討している。

 

東京電力および我が政府の見通しの甘さ、我が国技術力の不足のために、世界に通じる海に処理水を垂れ流し、原発周辺地域ならびに近隣各国に不安を与える事態になってしまったのです。

水を流しているのと同じことに対し、「垂れ流し」といったネガティブ表現を用いて印象操作をすることが疑似科学である批判される一つの理由であることを理解されたい。

 

「最大限うまくいってプラスマイナスゼロですよ、何の見返りもありませんよ、失敗したら……いやあ、管理態勢は万全だから大丈夫ですよ」

 という話に反対されて、怒ったり疑似科学扱いしたりするの、ちょっとおかしいのでは?

批判が雑過ぎる。このような批判があったのかすら確認できない。見返りがないという批判に対して疑似科学扱いしている批判引用してほしい。

最後

文章は端的に短く書いて欲しい。「量の割に内容がない(薄い)」という印象はぬぐえない。

新しくエントリが上位にあがってきたのでそっちにリンクする

https://anond.hatelabo.jp/20230829120049

2023-08-28

anond:20230828111203

しかに世に出回ってる説を把握しきるには個人範疇を越えてるのは確かだけど、盲信するのはどうかはまたニュアンスが違う。

疑似科学も盲信するから起こるのであって「そもそもデータ実験が間違ってるんじゃないか」「その結果ならこういう仮説も有り得る」「これが正しいとするとこうなるはずだ」と懐疑的に見てたら騙される可能性も低くなる。

陰謀論人間関係政治的な話だからまた別だけど。

anond:20230828110857

といって「自分の頭で考える」ことでズブズブと疑似科学陰謀論にハマっていく人たちも多いからな。

もはや政治科学個人理解できる範疇を超えている。権威を盲信するしかない時代

2023-08-26

anond:20230826084602

欲って、お気持ちなんじゃ?

本能から仕方ない、と正当化するための疑似科学なんじゃね?

江戸しぐさと何が違うん?

欲ごとに違う、各欲望を司る臓器が脳の中にあるのか、いやない

欲ごとに異なる脳内ホルモンがあるわけでもなし

2023-08-24

親が水素水吸入にハマってるんだが、どうすれば辞めさせられる?

全く意味がないと思うので辞めさせたいが8割、まあ害のない疑似科学にハマる分には良いかとも思っているのが2割なんだが

どうやって辞めさせればいいんですかね?

2023-08-20

anond:20230819095520

マイナスイオン効果とかはプラセボ効果を経由して人体に作用する。

それは「マイナスイオン効果」という言葉を創らなければ存在しなかった作用だ。

また、科学リテラシーの向上とともに薄れていく。

一方でメディアがどれだけ効力を発揮するかという強力/限定効果論は直接人間社会作用する。

メディア多様化情報リテラシーの向上で強力/限定、どちらの方向にせよ変わっていく。

表現規制しろメディアの影響力にしろ、なくなることはない(直感)と思う。


以上まとめると

マイナスイオン」とかは個人作用する些末な疑似科学なので、例としては捨象するものが多すぎる。

そして、わかっているとは思うが貴方の求めているのは「マイナスイオンや水の伝言との違い」ではないよ。トークストレートで頼む。

水からの伝言」は道徳であって疑似科学とは別ジャンル

anond:20230819095520

ブコメを受けて

江本勝 - Wikipedia

江本 勝(えもと まさる、1943年7月22日 - 2014年10月17日[1])は、日本経営者株式会社I.H.M.代表取締役、I.H.M.総合研究所任意団体)所長、I.H.M.国際波動友の会任意団体代表。『水からの伝言』の著者として有名。



故・江本勝氏が代表取締役を務めていた株式会社I.H.Mに記載されている内容がこち

波動のパイオニア、株式会社I.H.M.

最近では最先端の水の科学者研究により、「水の情報記憶」が証明されつつあり、江本勝が「水からの伝言」の中で示唆していた事をサポートする研究も発表されています

『水からの伝言』とポラック博士の「第四の水の相」 | 株式会社 I.H.M.

水からの伝言』では、水にさまざまな処理を加えた後で、その水を凍結し、形成される氷の結晶の形を観察する実験を積み重ねることによって、「水はさまざまな情報記憶する可能性がある」ということを示唆してきています

……

ラック博士提唱している『第四の水の相』という新しい水の姿を考慮すると、「水には情報記憶する可能性がある」ということが、極めて科学的に推測されるのです。



はい




「水からの伝言」は科学を自称していないから疑似科学ではない? - NATROMのブログ

2023-08-14

小説君たちはどう生きるか」を読んだ

これが売れている理由は分かる。

世の中には、YouTube広告ダイエットサプリとか、金運が上がる方法とか、そういうのに金を落とす連中がいる。

そういう浅薄低能な連中ほど、こういう本を好むものだ。

この本の内容は、古今の自己啓発書に書いてあることの、ほんの表面だけをさらったようなもので、何の新規性も無い。

で、そういう誰でも書けそうな薄っぺらい内容を、全く無関係学説史実権威付けしている、ソーカル論文みたいな本である

腰を据えて勉強はしたくないが、雑学をひけらかしたい連中とか

適切なデータを示さずに学説の奇抜さを競ってる社会学系の学者評論家とか

疑似科学でも何でもいいか児童自分たちの思う道徳押し付けたい教育業界の人など

特に好みそうな本である

正直、こういう本を良いと思う人は、根本的に学問ひいては知識労働に向いていない。

もし、大学を出てそれなりの賃金の職に就きたいなら、知識を得ること・学を修めることに関して、態度を改める必要がある。

2023-08-12

anond:20230811163950

私は既に結婚して子供もいるけど、もし自分独身増田婚活するとしたら、条件を考えてみたので挙げておく。人の好みは多種多様だ。

自分スペック

33

162cm 53kgが標準だが、49〜59kgまでは減量増量可

どちらかといえば薄顔 吉高由里子一般人にしたような顔

髪はサラサラストレート

Eカップ(C〜Gカップまでは減量増量可)

骨格ウェーブタイプ

国立大卒 年収450万 地方在住

タバコは吸わない、酒は飲めるが普段は飲まない、相手に合わせる

相手への希望条件

【外見など】

28〜38歳ぐらいまで希望、と言いつつタイプなら24〜55歳ぐらいまでいける気がする

180cm以下(背が高い人は苦手)

ガリガリ絶対NG、度を越したデブNG

中肉中背〜ぽっちゃりタイプ

健康そうなデブ(健康デブ)は最高にタイプ

短髪もしくは巻き毛がタイプ(自分にないものを求めてる感)

ハゲOKチビOKデブレベルによりOK

面食いではないが顔がタイプかどうかは重要

薄すぎず濃すぎない顔がタイプ

顔が大きい人が好き(大物感が出る)

メガネ好き

内面

増田が体力がないので、体力がある方を希望

年収学歴不問だが、ブラックな働き方をしていてそれを嫌に思ってるにもかかわらず現状を変えようとしない人は嫌かな…

好奇心旺盛で勉強好きな増田を良いと思ってくれて尊重してくれる人がいい

子供はどちらでも

転勤移住は状況次第で可

俗っぽい人は苦手

人生に対して前向きな人がいいけど、ポジティブすぎても疲れるかも

ブラックユーモア好きな人がいい、はてなーなら満たしてそう

アウトドア苦手なのでインドア派がいい

乗り物が好きなので車でドライブバイクツーリングは大歓迎

外食好きなのでB級グルメからオシャレなレストランまで?一緒に外食楽しめる人がいい

集団の中で中心になってるような人はタイプではない、集団の中では寡黙な人が好き 二人だといっぱい話したい

ミニマリストでなくてもいいけど、物は少なめがいい。収集癖のある人はちょっと

苦手なもの

スピリチュアル全般占い疑似科学BBQ、ウェイ系、チャラ男

追記希望頻度週1回 内容→普通

追記2→キリッとした怖い顔より、柔和な可愛い顔がタイプ。大きい顔がタイプとは言いつつ、夫は小顔(好みの顔ではあった)。ex.片寄涼太さんは一般的にとてもイケメンだと思うけど、私にとっては小顔すぎる

ちなみに大きい顔が好きというのは自分で全く気付いてなかったのだが、友達に指摘されて初めて気付いた。

外見タイプから想像つくとは思うけど、ラグビーならスクラムハーフ野球ならキャッチャーを好きになることが多い!!

ドンピシャタイプ芸能人は思い浮かばないけど、好きなタイプ可愛い健康デブ(デブじゃなくても何となく可愛くて丸っこい人を含む)の例としては、ケンコバサンド伊達鬼越トマホークちゃん月亭方正ザキヤマ中尾彬、とかかな?ブラマヨ小杉健康度が足りない。惜しい。

(以下女性は共感してくれるだろうが男性はよく分からいかも)サイズ上はEカップだけど筋肉少なめ骨格ウェーブタイプの平胴なので、下着取って裸見たら女体に詳しくない男性想像するC〜Dカップぐらいの見た目だと思う。全然巨乳ではない!温泉なんか行くと、骨格ストレートCカップぐらいの丸胴の子のほうが断然巨乳に見えるよね〜!

追記3→投稿した理由は、(特に身長男性に)人間の好みの多様性を知ってほしかったので 他のブクマカにも人によって異なる不思議な好みのポイントがあれば是非教えてほしい

追記4→今確認してみたら、夫は上記希望条件のうち2つを除いて全て満たしていた。特に夫のことを想定せずに書き殴ったのに、びっくり!

希望条件と違ったのは、大顔ではなく小顔だった点と、健康デブではなく細マッチョ(骨太ではあるが)だった点。しか結婚後数年かけてぽっちゃりしてきたのでヨシ!

出会い社会人になって数年後の合コン(死語)でした。

追記5→減量増量は元々割と大食いなのでそれをコントロールするだけで、食べる量に比例して体重も胸も増減できるってだけです。胸は増えた脇肉を寄せ集めるだけ。49kgCカップや59kgGカップにはなれるけど、49kgGカップや59kgCカップにはなれない。期待した人ごめんなさい。

2023-07-23

棘まとめ見てたら疑似科学?ビジネス広告が堂々と出てきてうわってなった

最近病気検索してたからこういうの出てきたの?それとも関係ないの?

かに日本語だし実物の写真もあるんだけど何を紹介してるのか、売ってるものがなんなのか全然からない

知らない世界すぎる

他に見た人いるか

2023-07-18

anond:20230718125200

そうなんだよな。たとえば、Web3 なんて出版しているやつは疑似科学っぽい手法をつかってくるせいか勉強すればあるラインまでは破綻しない嘘で、勉強すれば詐欺じゃないと間違っちゃうのよね。だってテキストが嘘だからテキストに書いてあるのか正しいので詐欺じゃないと信じちゃうのよな。

2023-07-13

anond:20230713232626

アレルギーっていうか血糖値が急激に上がって具合悪くなってるんじゃね?

ワイは液体の糖分と果物とるとそうなって具合悪くなってまうから避けとる

まあそういう疑似科学的な発想もなくもないだろうしどんな感じになるのか詳しく話聞いてみるとええで

ワイはクラクラしてボーっとしてくる

そのあと急に血糖値下がるから寒くなるで

糖尿やないんやけどこういう体質もあるやで

2023-07-08

anond:20230708203018

科学専門用語詐称することが、群衆ポストモダニズムの言説に引き込む主要な手段である一方で、真の科学ポストモダニストたちから軽蔑の目で扱われているという皮肉について考えるのは興味深い。物理学薬理学のような真の科学が猜疑の対象である一方で、多くのヒューマニスト知識人が、ラカンのような人物証拠のない不透明疑似科学の虜になるというのは、なんと倒錯的なことだろう。あるいは、科学が相対化される一方で、イリガライのような素人脳内科学をこじらせたものは、疑問の余地なく受け入れられるべき真理として扱われる。ここには、ポストモダンの理論家たちの事実に対する態度と類似点がある。事実など存在せず、あるのは言説的共同体とその解釈だけだと言われる。だからポストモダニストたちは、歴史の流れや社会本質、あるいは自己政治性についての巨大な経験的主張を支持するために動員する事実(たいていは間違っている)だけを支持するよう私たちに求めるのだ。

SとBが『知的迷信』を書いたのは、何よりもポストモダン理論が、その破壊レトリックや、多くの議論を呼んだ疎外された人々、疎外された人々、抑圧された人々への支援にもかかわらず、純粋進歩的思想を損なっていると感じたかであるソーカルは『ホアックス』を振り返って、自分の主な関心事は「リト・クリティックの野蛮な大群から科学を守ること」(p.249)ではなく、「現在流行しているポストモダニズムポスト構造主義社会構成主義の言説、より一般的には主観主義を好む言説と闘うこと」(p.249)であり、それは左翼価値観未来にとって不都合ものだと私は信じている、と強調している。社会正義を求める人々に必要なのは、イリガライ、ボードリヤールドゥルーズらのような作家の反科学的、反経験的、相対化的、蒙昧主義である人間の言説の外にある事実に基づく科学的真理という概念を捨て去り、「経験的真理」という概念嘲笑するならば、少なくとも特定事実否定することが極めて都合のよい権力者の手に乗ることになる:E=MC2性差別的な方程式である」と主張し、それは男性支配関係があり、自然のものとは関係がないと主張することから、「湾岸戦争は起こらなかった」(それはメディアによる表現総体に過ぎない)というボードリヤールの主張、東ティモールでの虐殺ホロコースト現実否定することまで、その道は短くまっすぐである

言うまでもないが、SとBはこのことを指摘することによって、広範な怒りを引き起こした。カリフォルニア大学サンタクルーズ校で最近開催された会議の告知(196-7頁を引用)では、「米国知的生活に取り憑いている亡霊、それは左翼保守主義の亡霊である」と語られた。SとBとその他の人々は、「反基礎主義的な理論作業」に反対し、「現実概念に基づく合意形成の試み」を批判した。SとBは、「フェミニストゲイ人種正義政治を疎外しようとする社会的に保守的マルクス主義者であり、アメリカ右翼コメンテーターラッシュ・リンボー価値観を共有するものである」とされた。

社会正義に関心を持ちながらも、ポストモダニズム理論の混乱と不正直さを嫌う人々の難しい立場は、ウェンデルハリスがジョン・エリスの『失われた文学』の最近書評で簡潔に表現している:

初歩的な社会良心を持つアメリカ人であれば、アメリカ経済文化社会システム、そして西洋文化全般複数の悪を見出すことは容易である人種的不平等性的差別継続貧富の差の拡大、適切な医療を受けられない何百万もの人々の存在弁護士を雇うことの巧拙よりも正義とは無縁の裁判制度などを認識できないのは、故意盲目だけである現在大学人文科学課程を支配している文化批評家たちから聞こえてくる非難の大合唱は、現実の悪を指摘することができるため、こうした批評家たちの同様に現実的な混乱や行き過ぎに異議を唱えることを難しくしている。平等を達成しようとするあらゆる試みに対して、「ポリティカル・コレクトネス政治的正しさ)によって踏みにじられる自由」と叫ぶ政治的・宗教的保守派大勢いるため、効果的な対応は二重に難しくなっている。(多文化主義文化戦争」『哲学文学1998年、22:497-515)。

それほど複雑ではない区別--たとえば、抑圧への反対と、不誠実で効果のない抑圧への反対を伝え、維持することの難しさは、それ自体ポストモダン理論学問議論堕落させ、粗雑にし、混乱させ、腐敗させた度合いを示すものである

このことが何よりも、『知的詐欺』の出版人文科学において最も重要出来事である理由である。それはまた、イーグルトンの言う「ポストモダニズム産業の重役たち」が、独自の条件、あるいは実際、いかなる条件においても、この本との関わりを避けようとしていることの理由でもある。当然のことながら、クリステヴァはこの本を「知的にも政治的にも取るに足らない行為」と断じた。まあ、彼女ならそう言うだろう?CMTPを基盤に30年間輝かしいキャリアを積んできた彼女が、勝利の方程式を破って知的透明性を育み始めることはないだろう。しかし、彼女は知らず知らずのうちに控えめすぎるほど控えめになっている。クリステヴァ著作が最も重要なのは、(もう明らかだろうが)本質的な利点があるからではなく(そんなものはない)、それが注目され、彼女のグノミック思考を読み、リサイクルし、崇拝し、引用し、引用し、解説することに費やされた男女の時間(実に何世紀にもわたる)のためである。そしてまた、彼女と他の一握りの人たちが、殺人罪から逃れられるだけでなく、根拠のある批判は単に無視することでやり過ごすことができるということを示した、絶大な影響力を持つ悪い見本でもある。

デリダは、(繰り返し指摘されているように)常に批判無視しているが、SとBに対しては、「Le pauvre Sokal」という特徴的な高慢嘲笑反論した。これに対してジョン・スターロックは、知的誠実さは過剰に興奮するようなものではなく、事実の真偽を気にするのは軽蔑すべき衒学であることを明らかにした、のんびりとした批評(「哀れなソーカル」、『ロンドンレビュー・オブ・ブックス』1998年7月16日号、8-9頁)を書いている。スターロックは、「偽者たち[クリステヴァラカンら]は、証拠と呼べるほど十分な知識もない概念を乱用している」ことは認めるが、驚くべきことに、(イリガライを擁護するために)こう主張している!しかし、驚くべきことに、(イリガライを擁護するために!)「関係する諸科学に対する彼女の主張は、いかがわしいというよりひどい」かもしれないが、それでも、「彼女機能している知的世界リバタリアン領域では、ソーカルブリクモンが不適切要求するような茫洋とした厳密さよりも、この種の荒唐無稽で論争的な論文の方がはるかにましなのだ」と論じている。言い換えれば、SとBが公言するような厳密な科学よりも、無知な人々を興奮させ、理解しかたかのように錯覚させるような、歯止めのきかない不透明なでたらめの方がいいということだ(ちなみに科学は、厳密なだけでなく、美しく、想像力に富み、刺激的で、おまけに多くの場合、真理にかなり近く、その結果、テキストの外の世界でも役に立つのである)。

スターロックのような影響力のある文芸ジャーナリストの態度は、『知的詐欺』の重要性を強調するだけであるしかし、その影響力をいかに鈍らせるかも示している。本書は「重役」を通り越し、学生たちに手を差し伸べるべきものである。従って、スキャンダルによって矮小化されてはならない。ポストモダニズムへの批判を、単にアカデミズム内の小さな戦争、つまり島国アングロサクソン」と「最新の外国人詐欺師」のあいまいなつばぜり合いの一部として片付けるべきではない。(だからこそ、SとBの本がなぜ重要なのか、もう少し詳しく説明する価値がある。

第一に、SとBは、クリステヴァらの科学専門用語の使い方を検証したことが、彼らの他の著作を「判断を保留する」ことを無効にしていると主張することを控えめに拒否しているが、SとBが明らかにした不誠実さが、ポストモダン理論におけるより広範な詐術文化の一部であることを示す、多くの独立した証拠がある。SとBが「はじめに」で列挙しているさまざまな習慣--(a)「せいぜいぼんやりしか考えていない理論について長々と語ること」、(b)「概念的・実証的な正当性を少しも示すことなく、自然科学概念人文科学社会科学に輸入すること」;(c)「全く関係のない文脈専門用語を恥ずかしげもなく乱発し、表面的な博識を誇示する」、(d)「実際には無意味言い回し文章を操る」--これらは、ペテン師の昔からの悪癖であるしかし、これほど蔓延し、これほど潤沢な資金があり、これほど報われたことはない。

これらの悪徳は、いわゆる「学際的」研究の台頭とともに栄え、人文科学における知的水準--厳格さと誠実さ--の破滅的な低下を助長してきた。もちろん、真に学際的なものではない。クリステヴァ集合論理解して文芸批評家の聴衆に感銘を与えたり、ラカン数学的・医学的に無知な聴衆に高度な位相幾何学精神医学について語ったりするとき、彼らが頼りにしているのは、その専門用語つまみ食いした学問分野の専門家--偽物の宝石と本物を見分けることのできる人々--の不在である。たとえ聴衆の中にそのような人がいたとしても、少数派であり、大ポストモダニストとその何千人もの弟子たちを取り巻く熱気と党派的な雰囲気の中では、この詐欺師の評判を落とすことはできないだろう。ジョン・ベイリーが「学際的研究」を、狡猾日和見主義的な学者に「二つの大便の間に立つチャンス」を与えるものだと評したのは、決して無意味なことではない。

私は最近、私が出席した2つしかない非医学学会のうちの1つで、このプロセスを実際に目にした。その講演者は、20世紀ミクロ物理学は、物質よりもむしろエネルギーに重点を置き、主に無からなる原子という概念を持ち、女性自分身体とより女性的な関係を築くことを可能にするはずだと、イリガライに倣って主張していた。私は質問時間を利用して、(a)この「女性的な」物理学は圧倒的に男性(マクシーン・プランクではなくマックスアルベルト・アインシュタインではなくアルベルト)によって創られたこと、(b)新しい物理学女性身体だけでなく男性身体にも適用されること、そして小石、サソリ嘔吐物、犬の糞にも適用されることを指摘した;(c)スーザン・ステビングは、ミクロ物理学発見概念を肉眼で見える巨視的な世界物体フィードバックすることの誤りを、ずっと以前に明らかにしていた--彼女ターゲットはアーサー・エディントン卿だった。(原子ビリヤードボール世界はもはや存在しないが、ビリヤードボール世界は確かに存在する)。発言者はこの質問をうまく処理しなかったが、私は議長に、(彼女検閲のように言ったが)他にも発言したい人がいるのだからと、それ以上発言者質問することを阻止された。この他の人たちは、「豊かな貢献」と刺激的なプレゼンテーション賞賛し、スピーカーに脇の下でボーリングをしていた。その後、講演者(超一流大学終身雇用学者)が私のところに来て、聴衆の中に専門家がいることを知っていたら、もっと慎重に議論しただろう、と言った!私は専門家ではない。Aレベル物理学と、ある種の惑わされない常識しか持ち合わせていない。この返答には、少なくとも正直さと羞恥心さえ感じられた。

真実に対する侮蔑相関関係は、聴衆に対する侮蔑である。その最も直接的な表現が、多くのメートル・ア・ペンサーによる悪名高い講義時間であるデリダが数時間も話し続けることは珍しくない。そしてラカンは、前述のように、週末を丸々使って話し続けた。(このような嫌がらせは、カストロ太陽の下で汗だくになりながら、臆病になった民衆を4時間にわたって説教したことや、ブレジネフや毛沢東がそれぞれの党大会演説したことに不気味なほど似ている。ポストモダニズムの大思想家とその代表者たちは、聴衆や読者に譲歩することはない。たとえSとBが引用したクリステヴァやイリガライなどの文章科学的にナンセンスだと判明しなかったとしても、それらがコミュニケーション行為として意図されたものでないことは明らかであろう。老年期のラカン痴呆的で失語症的なつぶやきが、苦悩する弟子たちから尊敬畏敬の念をもって聴かれていたのが本物のコミュニケーション行為ではなかったのと同じであるコミュニケーションには、自分が何を言いたいかを知っていることだけでなく、聴衆がどこにいて、どうすれば彼らに届くかを考えていることも必要であるクリステヴァ目的コミュニケーションではなく、見せびらかすこと、感動させること、恐怖を与えることであり、聴衆は自分押し付けている似非数学ゴミ理解できないことをよく知っていた。

よく言えば証明されていない、悪く言えば意味のない、莫大な範囲の主張に敬意を持って耳を傾けようとする学者たちの聴衆という概念は、ポストモダニズム理論現代人文科学を支える制度に与える影響について、深く憂慮すべき疑問を投げかけるものである私たちは長い間、ひとたび "maitre à penser "の地位に就いた者は難攻不落であり、その見解に異議を唱えることはできないということを知ってきた。しかし、この免罪符は今や、より多くの教師たち、つまりメイトルの言うことを鸚鵡返しに聞いたり、世界を包括するような主張をしたりする何千人もの教師たちすべてに適用されなければならない。このことは、学生卒業生ポスドク講師、読者、教授など、膨大な数の有権者が、冗長な散文で語られるドグマを黙認していることを意味する。ラカンのようなカリスマに魅了された少数の熱狂的なグルーピーのことを言っているのではない。私が言っているのは、人文主義的な知識人社会の公平な一部である。私が言っているのは群れ行動のことであり、巨大な群れのことである

科学用語やその他の専門用語を、理解されることを望まず意図もしない個人が欺くように使うことは、それが一握りの弟子たちに向けて行われる場合には十分に悪いことである。それが義務教育カリキュラムの一部として押しつけられ、記憶する時間はおろか、それについて批判的に考える時間ほとんどないティーンエイジャーの心に注がれるとき、信頼の乱用はより深刻なもの、すなわち教化へと陰を落とす。ほとんどの若者抽象的な考えに無関心であり、試験で失敗する以外に制裁がないため、通常は失敗に終わる。ポストモダンの理論家たちが常に反乱、反逆、破壊を口にするのと並行して、既成の権力構造転覆させるというレトリックが、メイトルの頭に浮かんだ不透明発言を無批判子供のように受け入れることと結びついていることを思うと、なおさらである

SとBの素晴らしく、深く情熱的で、真に博学な本書の深い意義は、ポストモダニズム代表的理論家たちの偽物の宝石に本物の光を当てることで、クリステヴァのような知的 Permalink | 記事への反応(1) | 20:31

anond:20230708201822

例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語構成するものは何かについての彼女調査--を考えてみよう:

私たちにとって詩的言語とは、他の言語包含するコードではなく、言語コード無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎である主語-述語構文の規則によって制限される)、この制限のために、関数phi(x1...xn)の形態論を偽装している。(SとB41ページより引用)

そして、これはほんの始まりに過ぎない。彼女のページの多くには、次のような公理選択公理)が散りばめられている:

(EA) {Un(A) . (x) [~Em(x) . -> . (Ey) [y e x . < yx > e A]]}

集合論を学んだ数学者には馴染み深いが、(私を含む)彼女の読者の大部分には全く不透明ものである。この公式は、「私たち宇宙plのEに適用できる」と彼女は主張した(SとB p. 42)。(SとB p. 42)

ロラン・バルト彼女作品を「まったく新しく、正確なもの」と称賛した。そして最近の論者(John Lechte, Julia Kristeva, 1990)は次のように主張している。

クリステヴァ仕事で最も印象的なのは......それを提示する能力、それを追求する強烈な一途さ、そして最後に、その複雑な厳密さである既存論理理論が引き合いに出され、量子力学が登場することもある(p.109)。

それ以外の人たちは、若干の懸念を抱いているかもしれない。用語妥当性をチェックする知識もなく、議論に組み込む知識もなく、謙虚さと傲慢さの間のようなものから、CMTP(タウリン由来の大腸材料)に分類することをためらったのである私たち直感が正しかったと言えるのは今だけである

というのも、SとBは非常に驚くべき2人なのだ。彼らは理論物理学者であり、集合論行列代数位相幾何学、そしてそれらの量子力学非線形系への応用が日常的な労働の基盤となっているだけでなく、より広い文化的哲学的問題についても深い理解を持っている。今回初めて、クリステヴァの主張を判断するのに必要資格を持つ学者たち--言語文学自己などに関する世界的な主張を裏付けるために、高度な数学など(あるいはその外面)を動員する彼女のような人々--が、彼女の書いたものに注目した。-- 彼女が書いたものを見て、その中で科学数学がどのように使われているのか、あるいはどのように使われているのかを詳細に検証した。そして彼らが発見したのは、彼女概念投下(cf 名前投下)はまったく不適切であり、彼らにとっては初歩的な混乱と誤解を裏付けているということである

SとBは、クリステヴァの`pl'の説明は、彼らが長々と引用分析した他の多くの箇所と同様に、厳密に無意味であることを示した。例えば、「選択公理」の使用言語学とは何の関連性もなく、詩的言語の解明には役立たない。数学集合論にこの公理が導入されたのは、無限集合、あるいは集合の無限の集まり研究するためである

詩のどこにそのような集合があるだろうか?選択公理が「すべての配列が本のメッセージをどのように含んでいるかを正確にする」と言うのはおかしなことである。(p. 42)

SとBの多くの長所ひとつは、引用の長さと数であるさらに彼らの批判は、誤用されている用語--少なくとも超限集合論や数理論理学のより基本的概念--について、光り輝くほど明快な説明と結びついている。SとBの解説知的饗宴であり、本物の数学者と一緒にいることに飢えを覚える。

SとBがクリステヴァテキストで暴いている数多くの(そして彼らにとっては初歩的な)誤りの中には、(a)ゲーデルがその有名な定理で実際に主張したことと反対のことを主張していると彼女が思い込んでいること、(b)選択公理構成可能性の概念を含意しているという彼女の誤解、(c)関数C0(R3)の集合の定義誤訳がある。私やPNRの読者のように、高度な数学の訓練を受けていない聴衆のほとんどは、彼女の言ったことを一言理解できなかっただろうし、彼女議論と詩的言語との関連性(たとえば、「私の車に触れたら、頭をぶち割ってやる」と対照的な「夏の日になぞらえようか」の特徴的な性格)を信用するしかなかっただろう。とはいえ、このようなクズのような彼女パリ第7大学言語学の椅子を得たのは、「新しく正確な」仕事パリ(全権を握っていたロラン・バルトを含む)を驚かせた8年後のことだった。信頼を裏切るというのは、椅子に座るにはひどい仕打ちのように思えるが、あちらでは順序が違うのだ。彼女の任命委員会に誰がいて、彼らが集合論数学論理学をどれだけ理解していたかを知るのは興味深いことだ。これはすべて昔のことで、クリステヴァ教授は他のことに移ってしまった、という弁明はもちろん通用しない。もし私が、自分臨床医学の分野では不正行為とみなされるようなことを根拠にして現在椅子にたどり着いたと示されたら、その仕事が何年前に行われたものであれ、辞任せざるを得ないと思うだろう。その上、クリステヴァは、自分ブランドの準数学詩学から、あからさまな詐欺師であるジャック・ラカン仕事を受け入れるようになった。

象徴、イマジナリーリアルに関する根拠のない教義を、クリステヴァがこの20年間、無批判情熱をもって提唱してきたラカンは、クリステヴァと同様に、自分には本当の知識理解もない学問領域から概念用語を借りてきた。ラカンは亡くなるまでの10年以上、ある位相幾何学的な図形が精神疾患人間の心に光を投げかけるかもしれないという考えに取り憑かれていた。例えば、彼はトーラスが「まさに神経症構造であると信じていた。(「まさに」というおかし表現は、巨大な範囲ほとんどゼロに近い理解可能性を持つ直感に反する概念が、論証も事実説明もなしに主張されるときに、強化語が使われることを見事に例証している)。したがって、彼の弟子たちもトーラスを信じていた--信じることが理解をもたらすかもしれないという、おそらくは常に先延ばしにされる希望の中で。(Credo ut intelligam)。いずれにせよ、彼らはボロメの結び目などに関する彼の一日がかりのセミナー畏敬の念を抱いて耳を傾け、何度も脳卒中を起こした結果、失語症言葉不自由になり、認知機能がやや断続的になった哀れな晩年でさえ、そうし続けた。それまでは、失語症失行症に移行し、彼の心が空っぽになるにつれて、彼の沈黙でさえも注目され、惜しみなく敬意のこもった解釈がなされた。

ラカン数学の使い方のどこが問題だったのか。それは空虚な輝きであるだけでなく、内面的な欠陥でもある。ラカン著作は、悪い精神医学、あるいは狂気精神医学であるだけでなく、悪い数学でもある。SとBが示すように、ラカンは高度な誤りを犯している--トポロジーに由来する特定用語(「コンパクトさ」など)の非常に特殊技術意味混同している、など。しかし、彼は初歩的な間違いも犯す。例えば、無理数虚数普遍量化子と実存量化子を混同するような場合だ。

擬似数学の助けを借りて、ラカンは何時間もしゃべり続け、弟子たちは黙ってそれを聞いていた:

私はここで「コンパクトさ」という言葉提唱する。断層ほどコンパクトものはない。そこに閉じているすべてのものの交点が、無限の数の集合にわたって存在すると仮定すれば、交点はこの無限の数を意味することになる。それこそがコンパクトさの定義なのだ

SとBが指摘したように、コンパクト性という位相幾何学的な概念と、位相幾何学の内外にある他の概念との混同は、数学勉強をしていない聴衆にはまったく気づかれなかっただろう。このような話を何時間も聞きながら、彼らは何を思ったのだろうか。おそらく、ゴールドスミスの詩に出てくる村人たちのように、ただ畏敬の念を抱いたのだろう: それでも彼らは見つめ、それでもなお驚きを募らせた。彼のセミナーに参加した精神分析医や準医療関係者の中に、その頭が晩年は進行性の痴呆に悩まされていたという、あまりにも明白で悲劇的な事実を指摘する者がいれば、その驚きはさらに大きくなっていただろう。

SとBは、ミックスマスターの散文(あらゆる種類の華やかな用語が鍋に注がれ、500 r.p.m.で回転している)に気を取られることなく、個々の用語がどのような特定用途に使われているのかに気を配っている。だからラカンが次のように主張するとき

構造とは、言語アーティキュレーションに隠された非球面である

意味に関する限り、この副文--擬似様態語--の「それを持っている」ことは、動詞としてその文法的主語に包まれている対象のものから反響しているのであり、主語効果が非球面(中略)の渦巻きを作るか、この効果主体がそこからそれ自身を「反射」させるかによって、意味の偽の効果トポロジーによって誘発される想像共鳴があることは明らかである引用p.20)。

SとBは、ラカン構造とは何を意味するのかを明確にしていないことを指摘するだけである。この用語が厳密な数学用法限定されると仮定しても、位相幾何学構造解釈の一つにすぎない。秩序構造ベクトル空間構造多様体構造などであるラカンはどのような意味での「構造」を指しているのか明らかにしていないため、彼の議論空虚である

クリステヴァについての議論の中で、SとBは「彼女は、言語学、文学批評政治哲学精神分析といった、彼女研究しようとしている分野と数学概念の関連性を正当化する努力をまったくしていない」と指摘している。そして、誇示された博識の関連性の欠如は、『知的詐欺』において常に見られることであるメタファー文字通りの真理であるかのように扱うことで、関連性があるかのように見せることもある。これは特にルーチェ・イリガライの著作に顕著である

リガライは、クリステヴァラカンと同様、彼女著作で利用する科学について徹底的な誤解を抱いている。彼女流体力学特別な関心を示し、「積層面」、「ソレノイド運動」、「スプリングポイント」といった専門用語を好んで使う。しかし、SとBの主な関心事は、彼女流体力学を利用して、性的政治女性の抑圧され疎外された状況について、かなり大げさな主張をしていることである彼女結論は、控えめに言っても、彼女が引き合いに出した科学によって決定されたものではない。

リガライは有名なように、科学性差別であると主張している。例えば、E=Mc2は「性差別された方程式である彼女がそう考える理由は並大抵のものではない。方程式は:

我々にとって極めて必要な他の速度よりも光速優遇している。この方程式性癖を示すと思われるのは、核兵器による直接的な使用ではなく、むしろ最も速く進むもの特権化していることである......(p.100より引用)。

ここでの泥沼は非常に濃密であり、おそらくそれを解き明かす価値はないだろう。SとBが言うように、アインシュタイン方程式は高い精度で検証されている。イリガライが「我々にとって極めて必要な他の速度」よりも光速優遇することについてどう感じようと、光速(c)が他の速度--例えば、スーパーマーケットで逃げ惑う幼児を追いかけて走る女性の速度--に置き換えられたら、この方程式は成り立たないだろう。別の言い方をすれば、もしこの方程式性差別的であれば、自然も同じである。もし科学者がこの方程式に関して性差別であるとすれば、それは物質性差別的だからである。そして、物質性差別であるならば、物質でできている女性もまた性差別的なのである(このことについては、後述するようにもっと言うべきことがある)。

科学性差別は、流体力学が固体力学ほど発達していない理由説明するとイリガライは主張する。男性優位の)科学が乱流を扱えないのは、流動性女性性と結びつけているかである男性には突出して硬くなる性器があるのに対し、女性には月経血や膣液が漏れる開口部がある。したがって、男性科学流体力学対応できない。これは、男性女性と同じように90%が水分であること、女性と同じように5.5リットル血液が体内を循環していること、女性と同じように出血し、唾液を分泌し、そう、小便をすることを見落としているように思える。こうした初歩的な観察にもかかわらず、これはイリガライの説明であり、なぜ女性男性から排除され、体液が科学から排除されるのかについての説明である

もちろん、流体力学や乱流に関する膨大な文献がある。ここ数十年、カオス理論から派生した新しい解析ツールを使って研究されてきた重要な分野のひとつである。流れが乱流になる条件についての完全な定義は、科学者たちにはまだ見つかっていないが、固体力学物理学全体においても、未解決問題がある。

事実誤認、専門用語誤用(イリガライは流体力学よりも数理論理学が苦手だ)、狂気じみた比喩使用は、知識人が払うべき高い代償だと思うだろう。どのような目的がこのような絶望的な手段正当化するのか知りたくなる。驚くべきことに、イリガライの目的は、男性優位主義者の豚が寝言で叫ぶような結論を支持することなのだ:

しかし、(女性の性経済の)発展のどの段階にも、それなりの時間性があり、それはおそらく周期的で、宇宙リズムと結びついている。ケモビル事故によって女性たちがこれほどひどい脅威を感じたとすれば、それは女性たちの肉体が宇宙と不可分の関係にあるからである。(113-4ページより引用

これは田舎者特有エピソードではない。イリガライは、合理性客観性男性性と結びつけ、感情主観性女性性と結びつけている。女性セクシュアリティ月経周期やリズム宇宙的なものであろうとなかろうと)に還元する」ことは、SとBが指摘するように、「フェミニズム運動がこの30年間闘ってきたことすべてを攻撃すること」であるシモーヌ・ド・ボーヴォワールは墓の中で眠っているに違いない」。美学的な目的のために、多くの神秘化と知的不誠実さを展開し、ただ田舎者との思いがけない共通点発見するというのは、苦い皮肉であるルーチェ・イリガライが普通の抑圧された女性たちの怒りを惹かなかった理由は、彼女国際的な名声をもたらした著作が、アカデミズムの間では曖昧に包まれいるかである

興味深いことに、ポストモダン思想における科学俗物的な誤用は、科学のものへの敵意と隣り合わせにある。SとBは、科学徹頭徹尾社会的ものだと主張するブルーノ・ラトゥールのような認識論的相対化論者を特に効果的に扱っている。科学が正確な予測をすること、科学機能する技術を生み出すこと、そして科学ブラックバーンでもソウェトでも同じように効果であること、つまりブラックバーンに住む重病の老人に対する抗生物質が、ソウェトに住む重病の若い女性に対する抗生物質と同じように効くということである

科学専門用語詐称

子供の頃、私は数軒隣に住む若者と仲良くしていた。一緒に自転車に乗ったり、荒れ地で銃撃戦をしたり、火をつけたり、スクラッチクリケットをしたりしたものだ。しかし、互いの興味が異なる方向に発展したため、別れることになった。恨みはなかったし、実際、多くの善意が残っていた。ロジャー(彼の家族のために伏せておくが、これは彼の本名ではない)は、私自身の発展途上の知的興味をまったく共有しなかったし、私は彼のヨットに対する愛情をまったく感じなかった。ある晩、母が『リバプールエコー』紙に掲載されたロジャーインタビュー記事で、彼が本当に情熱を注いでいるのは「サイバネティクス」だと語っているのを目にしたとき、私は驚いた。私は彼を誤解していたのだと思い、結局のところ、私たちは思っていた以上に共通点があるのだろうかと思った。次にロジャーに会ったとき、私は彼にサイバネティックスへの関心について尋ねた。私の無知思い込みではなく、本物だった。恥ずかしながら、ロジャーサイバネティクス本質について無知であることがわかった。彼にとっては、サイバネティクスは単なる言葉だった。サイバネティクス科学技術未来関係するもので、当時は華やかで話題になっていた。明らかに地方紙の読者を感心させるためのものだった。私はそのことを追及せず、その後、ほとんど会うことはなかった。最後に聞いたのは、彼が不動産業者としてうまくやっているということだった。かわいそうなロジャーは、自分の「サイバーティックス」についてのコメントが、『リバプールエコー』紙の読者に取り上げられる(「尋問される」、「問題視される」)とは思ってもみなかっただろう。これは不運だった。さらに不運なことに、彼はサイバネティクスへの言及理由人文科学テニュアトラックポストを与えられることもなく、パリ大学思想システムの講座も与えられなかった。

アラン・ソーカルとジャン・ブリクモン(以後SとB)の『知的詐欺』を読んで、私はロジャーを思い出した。ロジェと同じように、ジュリア・クリステヴァジャック・ラカンジャン・ボードリヤールジル・ドゥルーズは、感受性豊かな人々に感銘を与えるために、微塵も理解していない用語を使う癖がある。ロジャーとは違って、彼らはそこから抜け出せず、またロジャーとは違って、無名ではなく、国際的な名声と世界中一見知的学者たちからの憧れで報われた。

長い間、ラカンデリダクリステヴァらは、自分たちの思想学問の名声、実に全知全能の名声を支え るために彼らが収奪した知識領域について、読者がほんのわずしか知らないと確信して、殺人を犯して 逃れてきたのであるミシェル・フーコーの風変わりな時代考証に注目する真の歴史家は、いたとしてもほとん どいなかった。分析哲学者たちは、たった一人の例外を除いて、デリダをJ.L.オースティンと言 語行為論の現代的意義について議論を交わすべき人物だとは考えなかった。

やがてポストモダンの理論家たちは、彼らが迷い込んだ分野の専門家たちの注目を集めるようになった。言語学者たちは彼らの言語学を見て、初歩的な誤りが散見されることに気づいた。例えば、デリダ記号全体とシニフィエを繰り返し混同し、何十万人もの従順弟子たちもそうであった。この誤りは、デリダ研究の根幹のひとつである。他の言語学者たちは、デリディアンたちがソシュール以外の言語学について無知であることを面白がっていた。歴史学者たちは、フーコー思想史に関するひどいバージョン検証し、彼の広範な理論の土台となっている極小かつ風変わりな経験的基盤でさえ、文献的証拠と大きく食い違っていることを発見した。彼の時代区分--西洋史と「最近発明」としての人間についての彼のビジョンにとって極めて重要--は、ほんの一例を挙げれば、正しいエピステーメーに適合させるためには、デカルトが死んだ後のある時期に生きていたことを要求することになる。実際、フーコーエピステーメーとそれを隔てるいわゆるエピステーモロギーの断絶--彼に国際的な名声をもたらした本(『言葉と物』)の中心的な概念--が、いかなる歴史的現実にも対応していないことを示すのに、大した学者である必要はない。彼の時代の一つに当てはまるはずの名前が、他の時代ではぎこちなく活躍し、彼の時代を超越した学問領域は、彼が考えていた以上に数多く存在することが判明した。(彼が生きている間に、このことを指摘しようとした人は一人か二人いたが、コレージュ・ド・フランス思想教授に何を言っても無駄だろう)。おそらくフーコーは、言説を「われわれが物事に加える暴力」と表現したとき自伝的に語っていたのだろう。いずれにせよ、ポストモダニズムの理論家たちが、その理論偶発的に事実汚染されたときいかに頻繁に事実を取り違えているかが印象的である(このことは、「経験的なもの」に対する党派的な侮蔑では説明しきれないほど頻繁に起こっているのだが、事実理論に合わせて曲げようとする断固とした努力の結果であるに違いない)。(事実蔑視証拠捏造の傾向と密接に関係しているのは興味深い。おそらく、真実--そして真実という概念のもの--を憎むことと、誤りを愛することを結びつけることには、ある種の一貫性があるのだろう)。ポストモダンの理論家たちによる哲学思想哲学思想史の誤った表現については、最も詳細な批判検証が行われている。プラトンデカルトフッサールパイスといった主要な人物について、ポストモダニストたちが自説を支持するために述べていることを検証してみると、主要な人物孤立したコメントが「西洋思想」の巨大な塊を意味するように仕立て上げられていることが少なくない。

それなら、このゲームはとっくに終わっているはずだ。これは、テリーイーグルトンによって示唆されている。最近ポストモダニズム理論敵対心を抱いたこから判断するに、彼は、巧妙な資金が動いていること、そして今こそ、仲間との旅行や協力から抵抗に切り替える時かもしれないことを察知したのだろう。(とはいえ、無批判だが儲かる『文学論』から手を引いたわけではない)。ポストモダニズムの「思想」を支える哲学的前提のいくつかに対するM.J.デヴァニーの壊滅的な批評(Since at least Plato ... and other Postmodernist Myths)に対する好意的批評の中で、彼は批評家たちが何も知らない分野に「飛び込む」ことの危険性について皮肉交じりにコメントしている。批評家が「哲学に立ち入る」場合、次のようなことがある、と彼は指摘した。

パーティー死海写本についてのちょっとした知識披露して相手を感心させようとしても、後でその人が新約聖書学者であることが判明するようなものである。(タイムズリテラリーサプリメント1998年1月2日号2頁)

そして、M.J.デヴィーニーについて、「彼女ポストモダン思想の側面に、ポストモダニズムに対する哲学史の知識という著しく不公平な利点をもたらしている」と付け加えている。ポストモダン理論で(経済的にもそうでなくても)大成功を収めた人物に、労を惜しまない皮肉は似合わない。いずれにせよ、『リバプールエコー』紙の読者からサイバネティクスとは何か」と尋ねられたり、「サイバネティクスについて語る資格があるのか」と訝しがられたりするリスクが常にあるのは事実である

では、勝負はついたのだろうか?ポストモダンの理論家たちの無能ぶりが暴露されても、主要人物や業界のものにはほとんどダメージがない、というのが恐ろしい現実だ。イーグルトン自身が言っているように、ポストモダニズム産業には精神的・物質資本が投下されているため、その重役たちは耳を傾ける余裕がないのであるリベラルアーツ学生理論出会わない者はほとんどいないだろうし、文学を学ぶ学生などその多くは、理論カリキュラム全体を覆い隠している。どうしてこんなことが可能なのだろうか?

セオリーとその系列校の網の目のように張り巡らされた、セオリー批判から守るためのプロテクトは実に厚い。何十万人もの英語科の1年生が、教師からロゴセントリック」な西洋哲学の概説を聞かされても、ほとんどの場合プラトンデカルトハイデガーも1ページも読んだことはないだろう。また、彼らの教師や彼らを教えた教師が、プラトンデカルトハイデガーを読んだことがないことも少なくない。ポストモダニズムの哲学史を支持するために出される書誌は、プラトンデカルトハイデガー著作を除外していることが多い。デリダラカンフーコーなど、あるいは、デリダラカンフーコーなどの大衆化、そして彼らの知的子孫の著作リストアップされるのである。言い換えれば、教師テキストも、ポストモダニスト世界的な理解体系に取り込まれ思想家たちの思考を、生徒たちが信頼して受け入れなければならないような、その思想家たちとの関わりや知識考察から、数段離れたところにいることになる。プラトンを読んだ学生一人につき一万人が、デリダが「西洋哲学のすべてを支配するパターン」としての論理中心主義についての有名な理論を打ち立てた『パイドロス』についての、間違いにまみれた説明を受けていることになる。

ポストモダン理論事実誤認、経験的不備、論理的矛盾、説明の失敗を実証すれば、カード城を瓦解させるのに十分だろうと想像していた人々(私もその中に含まれる)は、理論家たちがこのように何重にも絶縁していることを考慮していなかった。われわれは、ソンムの戦いの前にハイ将軍が、1週間にわたる砲撃100万発の砲弾を浴びせ続けた後、ドイツ軍イギリス兵に戦線の上を歩くことだけを許すだろうと予想したときと同じ過ちを犯した。そして、ヘイグの歩兵と同じように、私たち無人の地で、60ポンド荷物事実議論など役に立たないものを満載し、10フィートの高さの有刺鉄線の絡まり合いの向こうで、無傷の機関銃に向かってライフルを振っていた。ドイツ軍ソンムの戦いの前に2年間しか塹壕を掘っていなかったが、ポストモダンの理論家たちは30年も前から塹壕トンネルや地下壕を造っていたのだ。また、沈黙というもうひとつ戦術も想定していなかった。反論必要宣伝拒否することで、有効な反対意見の影響を最小限に抑えることができる。あるいは、第三の戦術として、他の者が欄干の上から頭を出すのを躊躇させるような獰猛反論もある。セオリー批判する者は、診断され、分類され、ステレオタイプ化され、嘲笑され、傷のなめあいに追いやられた。デリダジョン・サール侮蔑的に扱ったのは、デリダ軽率な火術の核心がいかオースティンの単純な誤読にあったかを示すものであった。彼はサールの名前に注目し、「サール」と嘲笑することで、人格攻撃論法さらに一歩進めた。この闘争的なアプローチの利点は、議論スキャンダル煙幕に覆われて見えなくなってしまうことだった。続く暗闇の中では、良い議論も悪い議論もすべて同じように見え、革命派と保守派、あるいは老いぼれたトルコ人若いトルコ人の殴り合いとして全体を見せることができた。デリダソシュールを使うことに疑問を呈する本1冊につき、何百冊もの本がそれを当然視し、学年末テストで生き残るためには流暢なテオローア語を話せるようにならなければならない学生にとって重要であることを説いている。デリダ1000ものカリキュラムに載っているが、彼の作品に対する批判的な試問はほんの一握りにも及ばない。セオリーを教える者は、セオリーに対する批評に注意を向けるほど愚かではない。真に批判的な思考と真理の無関心な追求に熱心な学者(このカテゴリは超高齢カテゴリである)だけが、反対意見に注意を向けることで自らの足を撃つような愚かなことをするのである

これらの理由から、『Intellectual Impostures』の出版は、人文科学未来にとって第一重要出来事である。その本質的な利点が非常に大きいことは別として、『ソーカル・ハックス』という素晴らしい著作出版されたことで、学術界内外で大きな反響を呼んでいる。さらに、SとBはポストモダン理論批評に新たな基準を打ち立て、「不真実の城」がついに攻め落とされるかもしれないという新たな希望をもたらしている。知的失政の領主(と淑女)たちに対する批判が、これほど徹底的に、これほど堂々と行われたことはかつてなかった。SとBは冒頭で、ポストモダン理論全体を貶めるふりをしているわけではないこと、あるいはその創始者たちの全作品否定しているわけではないことを注意深く述べている。しかし、彼らの忍耐強く、静かな考察は、その具体的な使命をはるかに超えた意味を持ち、またその影響をもたらすだろう。学生たちが、理論に屈服した教師たちのドグマから外れた言説の世界をようやく認識し、反対意見にも公平な耳を傾けるようになり、本当の意味勝負がつくようになるかもしれないのだ。

SとBは、ポストモダニズムを「啓蒙主義合理主義伝統の多かれ少なかれ明白な拒絶、いかなる経験検証からも切り離された理論的言説、そして科学を「物語」「神話」「社会的構築物」以外の何ものでもないとみなす認知的・文化的相対主義によって特徴づけられる知的潮流」と定義している。SとBは、ラカン、イリガライ、クリステヴァ、ラトゥール、ボードリヤールドゥルーズガタリヴィリリオなどが数学物理科学テクノロジーについて語ったこと、とりわけ彼らが言語文学人間精神フェミニズム現代文化などについての著作の中で数学物理科学から借用した概念を用いたことについて、細心の注意を払って調査している。SとBは、これらの著名人が男女を問わずロジャーであることを発見した。彼らの著作には、彼らが微塵も理解していない用語概念散見され、彼らの主張の見かけ上の力強さは、それに大きく依存している。彼らの読者は『リバプールエコー』紙の読者よりも若干洗練されている(騙されやすさは変わらないが)ので、彼らが借りる用語は「サイバーティックス」よりももっとリッチものでなければならない。クリステヴァは数理論理学集合論からラカンは数理論理学位相幾何学から、イリガライは固体力学流体力学からドゥルーズガタリ微分積分学量子力学からボードリヤールユークリッド幾何学非ユークリッド幾何学から、といった具合だ。しかし、博識に見えるのはまったくの欺瞞である

例えば、ジュリア・クリステヴァの名声を確立したプロジェクト--詩的言語構成するものは何かについての彼女調査--を考えてみよう:

私たちにとって詩的言語とは、他の言語包含するコードではなく、言語コード無限性を表す関数phi(x1...xn)と同じ力を持つクラスAであり(存在定理参照、p.189参照)、すべての「他の言語」(「通常の」言語、「メタ言語」など)は、より限定された範囲におけるAの商である(たとえば、形式論理学の基礎である主語-述語構文の規則によって限定される)。例えば、形式論理の基礎 Permalink | 記事への反応(2) | 20:18

2023-06-19

anond:20230619170217

女子の骨格なんちゃらブーム」って疑似科学だろ

血液型性格分類パーソナルカラー診断と変わらん

男はそんなものに騙されない

anond:20230619145919

これもまさにって感じだな。疑似科学的な理屈を捏ねくり回していったん正当化を図る。

2023-06-14

anond:20230614161608

スキンケアって疑似科学ばっかりじゃん。皮膚科の冊子に書いてあること以外やらなくてよくね

2023-06-11

男女の性差の誤りがどんどん明らかになっていく・・・

男と女はもとから役割が違うって俗説があったが調べるほど誤りがどんどん明らかになっていきますね。

ジェンダー平等メリットの前に、自然なことだったんですね。

古代女性は家を守り、男性が狩りに出ていた → 女性ハンター痕跡が見つかる。

自然界でもオスが狩りに行き、メスが育児をする → これに当てはまらない動物いるけど。

女性には母性が、男性には父性がある → そもそも俗語なので見つかっていない。

男性女性は脳が違う(男性脳と女性脳) → もとから科学的根拠の薄い疑似科学でした。

同性愛動物として異常 → 自然界で同性愛は見つかっている。

ここまでくると固定的性別役割分担ってただのトンデモでは?

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