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はてなキーワード: 寝返りとは

2017-10-17

anond:20171017154522

子どもスペランカー並みの存在認識してないか

そんなことや風呂に水はったままにするとか平気なんだろ

寝返りで息出来なくなって勝手死ぬくらいクソ雑魚ナメクジなんだぞ子ども

2017-09-29

anond:20170929140119

睡眠中の寝息や寝返りの音を録音することにしてるよ。

audacityとかで音声データの波形確認してでかくなってるところが寝返り等で眠りが浅い状態判断できる。

これを活動量計と併せて利用してそれなりに精度の高いことを確認してる。

2017-09-03

木の上に猫

今朝、庭(といってもクソ狭いのだが)の植木に水やりしようと思ったら、植木の枝の上にギリギリバランスで猫が寝てた

今にもケツがずり落ちそうだがギリギリ落ちないくらいのバランス

寝返り打とうとしたらそのままケツからストンと落ちそうなレベル

寝てるの起こすのもアレだなとは思ったのだが、水やりの水がかかってひゃーってなったらかわいそうなので枝を小突いて退散して頂いた

なんでまたあんなところで寝てたんだろう

2017-08-31

映画関ヶ原感想

愛と野望とか言うから邦画っぽいねっちょりした感じなら嫌だな~と思ってたけど関ヶ原に至るまでの過程ダイジェストでまとめられててよかった

あと合戦も旗指物とか槍衾とか鳴物とか馬とかよかった

石田三成with島左近feat小早川秀秋って感じ

小早川西軍について高みの見物してたら家康側に鉄砲打ち込まれビビッて寝返り西軍敗北のきっかけとなった戦犯として有名

一番好意的に描かれてたのが横山光輝版で、第三極として動くニヒリスト金吾としてわりと魅力的なキャラしてる(結局鉄砲ビビッて裏切ってたが)

これも基本的にはひ弱で優柔不断な坊ちゃまだけど、三成とその部下(左近の息子)に心動かされて西軍側に付こうとするのはい意味でこっちが裏切られた、が結局家臣に押さえ込まれ小早川隊は西軍を裏切る形に

捕らえられた三成の前を逃げるように足早に去ったとか、覗き見してたら見つかって罵倒されたみたいな逸話が有名だけど、ちゃんと会話して和解してるし結構高感度上がった

吉川空弁土下座マンはへうげでも名前しか出てこなかったけどここでもほぼ名前だけ

三献の茶左近召抱えエピソードはあるけど、人面獣心とか干し柿カット、あと島津の退き口は突撃前だけだったのはガッカリ(入れても蛇足なのはわかるけど、勝ったつもりのところに本陣突撃食らって脱糞するの楽しみにしてたから少しがっかり

あと暗黒JKは割りと出てるのに小西行長がほぼ名前だけ、斬首前でも一番後ろでしょっとしか映ってないのはちょっと残念

毛屋武久の物見エピソード結構大事に描いてる。そのせいで長政の影がさらに薄くなってる感じも

石田方のハゲがチラチラ出てくるが、もしかしてこれ蒲生郷舎?

エンドロール明石全登が出てたが、どこに出てたかわからん

ひらパー兄さんの声がいい

七将がヤンキー丸出しでいい

同士よ→自爆は割と衝撃

2017-08-29

https://anond.hatelabo.jp/20170828091936

期間は短いけど、めちゃめちゃ産後鬱してた私の経験を書く。少なくとも私はこれで急速に改善したので少しでもヒントになればいいのだけど。

産後鬱については本やブログを読んで予習していたつもりだったけど、実際に産まれるとあまりにも物理的に大変なのと、「初対面のお客さんが常に自宅にいて、24時間対応を求めている」ような緊張感であっという間にやられた。生後すぐの赤ちゃんは笑わない(新生児微笑は反射行動なので楽しいわけではない)から、あるのは「泣く」というネガティブフィードバックばかり。ダメ出ししかしない上司みたいだった。

毎日、夫がでかけると、リビングの真ん中で授乳したまま寝入ったこどもを腕に抱えてじっと時計を見つめ、夫が帰るまであと◯時間…とカウントダウンしていた。テレビは消音かごく小さい音だから聞こえないし楽しくない。こども抱えたままスマホいじるくらいしか出来ることがなかった。当然、これもすごく楽しい訳ではない。こどもを置いて出かけられないから、夫がいてくれなければ、徒歩1分のコンビニすら行けないのだと思い込んでいた(今思えば全然そんな事ない。近距離なんだから普通に連れていけばいい)。昼も夜も、いつ泣き声が聞こえるかとビクビクして、空調の音を泣き声に空耳したりしていた。

から聞いたけど、夫はこのとき、私がそのうちマンションの窓からこどもを放り投げるんじゃないかと恐ろしく思っていたらしい。心配させてごめん。

この頃は、死にたいとは思わなかったが、消えてしまいたいとは思っていた。

産後1ヶ月過ぎの頃。うちの地域では初産の母親のところに市役所から派遣された保健師訪問することになっている。

この機会に飛び付いた。

ボロボロ泣きながら辛いと訴えると、定番の「辛いよね、みんなそうなんだよ」という相づちの後で、徒歩すぐの親子広場を紹介された。というかそのまま連れていってくれた。

聞けば市内にいくつかNPO運営で市公認無料の親子広場があって、私の最寄りのところは市の中心ということもあり平日は毎日開いている。低年齢のこどもがいる母親がこどもと訪れて、ただ時間を潰していくのだそうだ。

私はもともとお喋りなので、一番ヤバイのは1日誰とも話さず無言で過ごすことだとなんとなく理解していた。精神が死にそうだった。

とにかく、学校職場のように「毎日通う」ことを目標にしてとにかく通った。最終的に「あまり時間だと赤ちゃん負担になりますよ」と注意され1日あたりの時間は短くしたが、それでもほぼ毎日通っていた。

親子広場には、少し先の月齢~一歳半くらいの子達が遊んでいて、うちの子よりは表情豊かに、寝返りしたり、ハイハイしたり、駆け回ったりしていた。しかめっつらで泣くことしかしないこの子が、あんな風になるんだろうか、と不思議に思った。

ママさんたちはみんな、直近の子育ての悩みや愚痴を話し合い、少し先の先輩ママアドバイスを貰ったりしていた。

こどもが寝ているときは、隣に座って置いてある育児系の本やマンガを読んだ。

結果的に、2週間ほどで私のメンタルは劇的に回復した。毎日外に出て太陽の下を歩いて、十分におしゃべりをする。少し先の赤ちゃん達を見て、数ヶ月~半年先の見通しが具体的に持てる。育児経験の長いスタッフさんや、他のママさんの語りかけを参考にして、自分赤ちゃんとのやりとりを楽しめるようになる(赤ちゃんアテレコしながら会話するのは特によかった)。

育児本やネットでも学べたことだったけど、実例を目の当たりにするととても参考になるし、自分もああしようと思えた。

生後1ヶ月半で「この子可愛いのかもしれない」と思い始め、生後3ヶ月の頃には「可愛い」と確信半年の頃にようやく、「常に一緒にいる、私の家族」になり、ここから精神的な辛さはもうなかった。家にいるのはお客さんじゃなくなった。毎日一緒にいるのもお世話するのも当たり前になった。

夫はこの期間、とてもよくしてくれたのだけど、やはりたまに「どうしてお皿洗いも掃除洗濯もしてないの?(俺は仕事してるのに家事もするの?)」的なやりとりはあった。夫からみれば「俺は遅くまで仕事してるのに、家事もしてる。お前は1日中家にいるのに」、私は「昼も夜も土日もなくこどもを見て家事をしているのに、なんであなたには毎日休憩時間と土日休みがあるの?私だって月に1日でもいいか休みたい!」って感じ。

これ、たぶんお互いにやってみなければ分からないのだろうけど、子育て専業主婦になると「プライベート」という感覚が消え失せるのが衝撃、かつ辛かった。「24時間呼び出し待機、休日なし」って感じで、寝てる間も気が休まらない。正直、この辺の感覚は未だに理解してらえてないと思う。

なので、夫の上記の理解に苦しむ部分はあったから、他のママさんに「夫に理解してもらえない」と吐き出す場がなければもう少し辛かったと思う。

長くなったけど、言いたいのは、夫の理解や周囲の物理的なサポートもとても大事だけど、私の場合公共の「子育てネットワーク」と、そこで出会った「子育て同志、先輩」たちにとても助けられた、ということ。

公共の親子広場NPO生協など、専業主婦向けの平日の集まり結構いから探してみてほしい。市役所の子育て課にはそういう情報が集まってるし、市報とかにも載ってる。

奥さんが元気ないみたいだから、一人で行かせるより、土曜開催のものか、なければ平日休みを取って一緒に行ってみたらどうかな? だいたいどこも旦那さん歓迎だ。

行って、奥さんと他の人が話せるようにしてあげてみたらいいんじゃないかな。話すのが苦手なら、他の人の苦労話を聞くだけでも「みんなそんなもん」的に少し楽になるかも。

※注意点として。行ってみて、もし子育ての仕方や、なぜか人間関係についてやたら批判的なこと言われるようなら逃げ帰ろう。NPO隠れ蓑にした宗教勧誘みたいのが実際にある。まともな所のスタッフはたいてい同情的で適切なアドバイスもくれるけど、「こどもが泣くのは両親を大事にしないから」とか「夫を大事にしないから。家事育児させずに下にも置かない扱いをするべき」とか言われたら割とヤバい

2017-08-27

生後2カ月の赤ちゃん炎天下で連れまわすバカ親がこの家にいます

> 生まれて2~3か月の赤ちゃんなんてものは親がまだかなり気を使っている時期であり、炎天下の中何時間も連れまわす事など考えにくい。そんな奴見た事ない。いるとすれば相当なバカ親なんだろうけど絶対数で言うとそんなにいないはずである

話題のこのブログ読んでて恥ずかしくなった…。そう、まさに相当なバカ親がうちの旦那である。。

自分散歩好きで、赤ちゃんもこれまで体調を崩していないのをいいことに毎日外に何時間も連れまわす。赤ちゃん爆睡してる今も赤ちゃんのためだとクラシック音楽を流し続ける。首も座ってないのに、寝返り返りの練習毎日する。

子供が産まれて、予想以上に子供を可愛がるのは嬉しい悲鳴だが、どう考えても可愛がるベクトルがズレている。

本人を傷つけることなく、わかってもらうためにはどうしたら良いか教えてください。泣

2017-08-25

https://anond.hatelabo.jp/20170825083911

増田はBattle Chessを知らないのかな?

駒が擬人化されているレトロゲーのチェスなんだけど、チェックメイトをかけると最後に動かした駒がキングを殺すアニメーションが入って終了するんだ

まして将棋場合、他の駒はすべて寝返る可能性があるけど、王の寝返りルール上設定されていないという点にも末路が示唆されているよね

まり盤上では表現されないだけでちゃんと刺されてる。角度とかつけて。

2017-08-05

猫箱

猫が箱の中で寝返りをうってガサゴソいってる

幸せそう

2017-07-18

父の遺書を見つけました。

動揺しすぎて手が震えてる。

父は色々あって職を失って鬱病です。心筋梗塞経験あり。どちらも服薬中。

母は美容師身体障害者二級(確か)。

私はアルバイトしながら通信高校に通ってます

妹がいますが県外の高校で寮暮らしです。

タイトルにもあります通り、父の遺書を見つけてしまいました。

パソコンにてCDインポート中に下部にあったWordを覗くと、

遺書

これ以上周囲に迷惑をかけられません。

生きているだけで迷惑をかけてしまます

〜中略〜

(私の名前)、(妹の名前)、お母さん、本当に本当にごめんなさい。

平成29年6月17日

(父の名前)

とありました。7/18 22:43現在では父の自室から足が見え(寝ているようです)、偶に寝返りの音が聞こえます

今日は通院の日だったようですが、持病の方なのか鬱の方なのか分かりません。

母にはまだ伝えられていません。伝えた方が良いのでしょうか?これ以上母へ迷惑をかけられません。明日も朝早くから仕事なので。

普段父は私と母が仕事の間(11時ごろ〜19時半ごろ)は家で一人きりです。

どうすればいいですか?父の心療内科(で合っていますか?)へ連絡をした方が良いのでしょうか、母へ伝えた方が良いのでしょうか。

すみません、頼れる大人が知り合いにいないもので、助けてください。

訂正:私が見つけた日付は7/18、遺書の日付は6/17でした。ややこしくてすみません自分自身混乱していたもので…。

追記:今朝、出勤前の母に報告しました。母曰く「黙っていたけど、数週間前に一度自殺未遂をしていた。ナイフで胸や首を刺し、血まみれで倒れていたのを見つけてすぐ病院へ行った。」とのこと。今生きているところを見ると無事だったみたいです。

父が職を失ったため、私は進路を進学から就職に切り替えることになりました。ちなみに高校三年生です。

それ以来悔しくて腹が立って一言も会話を交わしていません。母からは「行ってきます」「ただいま」と声を掛け、ご飯を一緒に食べるだけで良いと言われました。

正直な話、父を許せていません。死ぬのが嫌なのは、妹を養う人がいなくなるからです。自宅で死なれても困るし。昨晩うつ病について調べてみたところ、メンヘラかよ…という内容ばかりで父を気遣う気は起きませんでした。

今まで虐待紛いの事を私たちにしてきた父のことです。許せません。でも死んでほしくない。でも生きていてほしくない。

やはりこのまま無視でいようと思います。幼い頃から父の葬式には出ないと決めていました。結婚式に両親は呼ばない、とも。

みなさんご心配ありがとうございました。父が死んだら報告します。

2017-06-20

伝わりにくい我が家の子育て用語

死に場所を探す

子どもが眠たくてソファやクッションに体当たりをし始める現象

再起動

子どもが泣いている理由がわからない時に、一旦裸にしてオムツを履く、服を着る、水を飲むというところから全部やり直すこと。

核融合

子ども複数おり同じベッドで寝ている場合に、なぜか必ず寝返りをうって近づいていき、最終的にぶつかって二人とも泣いてしま現象

シュレティンガーのうんち

オムツはい子どものうんちを確認するには観測するしかないのだが、夫婦のうち観測した人にオムツ交換タスク義務が発生する我が家ルールのこと。

観測しなければオムツは交換しなくていいのに・・・という気持ちになる。

永遠の謎

子どもが4歳にごろになると一人でうんちに行くようになる。

たまにトイレに入ってからまりにも早く出てくるので

「うんち出た?」

と聞くが、子ども

「出たよ」

と言うだけで確認する方法がなく、永遠の謎が自宅でいとも簡単に生まれ現象

ロミオとジュリエット(あるいは神風

子どもを寝かせる際に自分が先に寝て誘眠させる技法

親側も起きれないリスク、起きても二度寝してしまリスクが高い技である

点呼

昼寝の際に、なぜか1時間に一回ぐらい薄眼を開けて親の存在確認する現象

点呼に失敗すると昼寝が終了してしまう。

2017-06-11

まさか私が…」突然の発覚から3年、絶望から這い上がった私の乳癌

40歳の節目。私は乳がんになった。

素朴だけど優しく私を愛してくれる夫と2児に恵まれ、幸せな人生を手に入れてそれなりに満足感のある日々だった。

幸せな日常を一瞬にして真っ暗な絶望に追いやった乳がんの発覚。

乳がんは罹る人も多い病気負担はあるけど、治療なんてさほど難しくないと思っていた。

でも全然カンタンではなかった。

家族、友人、そして自分自身多くの人を深く傷つけ、心身共に疲れ果て全てを失う寸前まで追い込まれた。

判断ミスもあり、軽度とは言えない状態までいってしまった私だが、良き出会い、周りの人の支えに助けられたことは幸運だった。

手術、抗がん剤治療を行い私は今、再発の不安は抱えながらも元の幸せな生活を取り戻すことができた。

今思えば、「知らないこと」が理由で失ったものが沢山あった。

もっと早く気づくことができれば・・・
「あの時あの治療選択していれば・・・
「友人家族もっと接するべきだった・・・

いろんな後悔が今も心に残っている。

こんな思いをする人を一人でも減らせたら。そう思って私の体験を伝えてみたくなった。

興味があったら読んでみて下さい。

ピンク東京タワー、突然の不安

ほんの些細なこと。

10月1日、夫と食事に出かけた帰りに見かけたピンク色にライトアップされた東京タワーだった。

私:「綺麗だねー。今日はなんでピンクなんだろうねー」

携帯検索をする夫。

夫:「今日ピンクリボンデーらしいよ。乳がん認知を上げる目的だって
私:「乳がんねー。」

その時は何も思わなかったが、少しだけ「乳がん」という言葉が頭をよぎった。

それから1ヶ月が経った頃、

朝、着替えの時に左の胸に固い感触を感じた。

???

違和感を感じ指でふれた。コロコロとした1cm程度の小さなしこりを感じた。

まさか。。。乳がん?」

ピンク色の東京タワーピンクリボン、その記憶が私にそう思わせたのかもしれない。

ただし、その日は家事に忙しいこともあり、夜にはしこりのことは忘れていた。

夜の入浴時にもう一度触ってみた。朝のしこりはもちろん、あと2個程度小さなしこりを指先に感じた。

大きな病気をしたことが無い私は些細なことでもすぐ心配になるタイプだった。不安かられ、髪も乾かさずインターネットで幾つかのサイトを調べた。

しこりがある=乳がんというわけではない。40歳未満の場合は良性のしこりの方が多いらしく乳腺線維腺腫の可能性が高いと書いてあった。

人間不安ときは都合のいい方の考えに飛びついてしまものだ。

私は、

「なんだ大丈夫だ。良かったー」

と勝手に安心し、「こんなものはそのうち消えてなくなる」なんて、根拠もない解釈をしながら、眠りについた。

翌朝、しこりは消えていない。やはり気になる。「もしかしたら」が再び頭をよぎる。

考えないように過ごそうと思ったが、家事が何も手につかない。

今まで感じたことの無いものが私の胸に存在している。その事実から目をそむけることができなくなっていた。

一刻も早く安心したい。その一心で私は病院を探し始めた。乳がん検査してくれるのはどこか?今まで考えたこともなかったか検討がつかない。

よくわからないが、とにかく近くの産婦人科に行ってみることにした。

サイズも小さいし、しこりも動くから問題はないと思いますよ」

そういって若い女性医師は近所の外科への紹介状を書いてくれた。

その翌日は外科の診断へ。私は一日がかりで色々な検診が行われることを想像したが、触診だけだった。

診断は

「乳腺線維腺腫」

違和感があった日に確認した見解と一致していたため、その診断を疑うこともせず飛びついてしまった私がいた。

乳腺線維腺腫は放っておけば3ヶ月程度でしこりはなくなってくるとのことだった。私は安心して、日常生活に戻った。

大丈夫でしょう」という自分安易判断と、夫に相談せず自分で納得してしまったことがあんなことを引き起こすなんてこのときは思いもしなかった。

大いなる油断、取り返しのつかないミス

それから2年、私はしこりことなどすっかり忘れて平穏な生活を続けていた。

日々の家事、娘息子の世話、当たり前のことを当たり前にこなす。傍からみれば退屈かもしれないけど、愛のある満たされた毎日

その日もいつもと何一つ変わらない一日だった。

しかし、その夜、全てが一変する出来事が起こった。

夫と同じベッドで寝ていると、寝返りをうった夫の手が私の胸に当たった。すると夫が「え?硬っ!」驚いた様子で声を上げた。

暫く自分の胸に意識が向いていなかった私は自分の胸を触り、全身から血の気が引き、突然得も言われぬ恐怖感が襲ってきた。

しこりが大きくなっている。。。」

私がもらした一言を聞いた夫の青ざめた顔が今でも印象に残っている。

夫はすぐに「明日会社を休むから、一緒に病院に行こう」と言ってくれた。

とにかく早くということもあったが、2年前にいった病院は割けるため、隣町の女性クリニックへ診断に行った。すると「確かにしこりがありますね。技師が3日後に来るのでエコー取りましょうか」

との回答。

しかし、今すぐにどうなっているか知りたい。不安が募りの募った私達夫婦は待つことができなかった。

乳がん専門医でなくてはわからないのでは?」と夫の意見採用し、インターネットで調べ最も近くにあった乳腺外科のある病院へ行った。

大学病院では当日は難しいため個人病院だった。

まずは触診。先生の無表情さが不安掻き立てる。その後針生検へ。これは正直かなりの痛みがあり、辛かった。

終了後、先生は「結果は一週間ほどで出ます検査結果によっては大きい病院を紹介する形になります。」と。

もはや1週間を待てる心理状態ではなかった。一刻もはやく白黒を知りたい。先生にお願いをして大学病院への紹介をすぐにもらった。

幸いにも大学病院ではすぐに乳腺外科の診断ができた。

視触診
マンモグラフィー
乳腺エコー
CT
血液検査
マントーム生検

これらの検査を一気に検査を行うことができた。これで自分乳がんなのかそうではないのか、ハッキリと分かる安心感はあった。

「これらの検査結果は来週に」と先生。

この一週間は今まで感じたことのない長さだった。

死への恐怖心
来ることが当たり前に思っていた未来が来ないかもしれない喪失感
気を使わせてしまっている夫、子どもたちへの罪悪感
不安なく健康暮らしている人たちへ理不尽嫉妬心
色々な感情が目まぐるしく移り変わり心身ともに疲弊していた。

加えて、2年前、なぜしこりが気になった時点でもっと詳しく調べなかったのか、夫に相談しなかったのか、激しい後悔にも襲われた。

神さまはいないのか・・・

疲れ切った私たちにやってきた結果は優しいものではなかった。

「左胸に3cmの悪性腫瘍。99%の確率乳がん

診断結果を聞かされた瞬間、私は頭が真っ白になった。

先生が言っている言葉は聞こえるが頭に入ってこない。隣の夫も呆然としていた。同じ状態だったのだろう。

何も考えられない、何も声発せない状態が3分は続いただろうか。

我を取り戻した私は、

「どうすれば治りますか」と先生に聞いていた。

結論は手術。

私は家族と一日でも長く幸せにくらしたい。その思いが人生の最優先だと強く認識した。

女性として葛藤もなかったと言えば嘘になるが、全摘選択した。

その日から長い闘病生活が始まった。

入院の前に待っているもの

医師から告知を受けると今度は身内や親しい人に話をする必要が出てくる。

まずは娘と息子に12歳の娘、10歳の息子。

ともに私が大変な状況にあることは理解してくれたようで、神妙な顔つきをしていた。こんな状況だが「泣いたり喚いたりせず立派だな」と成長を感じ少し嬉しい気持ちもあった。

次に両親へ説明をした。福岡に住んでいるのでまずは電話で話をした。母が出た。

母とは昔から何でも話し合える仲だ。あまり回りくどく説明しても仕方がないと思い、率直に「乳がんになった。手術をする」と伝えた。

母は言葉を失い、暫く無言が続いたあと母自身を責めた。

「ごめんね・・・、ごめんね・・・、ごめんね・・・

と私に声をつまらせながら何度も何度も謝った。

親の前ではやはり自分子供に還るのだろうか、今まで必死に堪えていた恐怖心や悔しさ、絶望感があふれ、私も涙が止まらなくなった。

でも悲しみのスパイラルに入るわけにはいかない。

絶対に治すから

できるだけ不安を与えないように力を込めてシンプルに伝えた。

友人関係の難しさ、心無い一言、ひび割れ関係

仲の良い友人にも伝えておく必要があると私は考えた。

私のこの考えは安易だったのだろう、結果闘病前に友人関係で心のダメージを負うことになった。

仲が良いと思っていた主婦仲間、ママ友に告知をすると

「大変ね~、大丈夫??本当に心配だわ」

という反応。

「え?それだけ?」

特に親身になって欲しいとかそういうわけじゃない。何が欲しいのかもわからないけど、何か嫌だ。そんなダダっ子みたいな自分も嫌になった。

更に追い打ちを掛けたのは「親友」だった。

中学校からの友人、由美とは今でも週に一度は会う仲で、何でも話せる間柄。

私と由美はまるで姉妹のように、同じような進路を辿り、同じようなレベル男性結婚し、同じように幸せな家庭を育んでいった。

から進路の話、異性の話、結婚してからはお互いの家庭の話、旦那愚痴家族ぐるみでも付き合える最高の友人だった。

由美になら何でも話せる。親兄弟よりも私の気持ちをわかって親身に寄り添ってくれるそんな勝手な期待をしてしまったのだろう。

由美にも率直に

乳がんになった。これから長い治療に入る。手術は正直こわいけど頑張る」

と伝えた。

ただ、由美にだけは同じ女性、同世代ゆえに全摘によって片胸が失われることに関しての悲しさがあるという話をした。

するとA子は

「なにも腕や足がなくなるわけじゃないんだから胸くらい良いじゃない。」

と言い放った。

彼女は明るい性格だ。彼女なりに私を励まそうとしたのかもしれない。

死を意識する日々、あまりに多くのものを失っていく毎日、私があらゆるものに敏感になりすぎていたのかもしれない。

ただ、この一言はどうしても受け入れることができなかった。

私が置かれていた状況は私の平常心を奪っていたんだろう。滅多に感情的になることがなかった私が怒りを抑えきれず、由美に対して激しい言葉をぶつけてしまった。

これまで長年にわたり育んできた暖かな友情に大きなヒビが入ってしまった。乳がんはまた一つ私から大切なものを奪ってしまった。

遂に手術

家族不安、両親の涙、友人との離別、多くのネガティブ感情を抱えながら私は手術に挑む。

スケジュールが出た。

手術は診断結果が出た日から20日後に決定。全摘選択したために術前の化学療法はなし。

手術2日前から入院となった。前日から食事も取れない。当日は朝から各種検査を行い以異常がなければ全身麻酔をして手術開始。目を覚ませば手術が終わっている。

手術は予定よりも2時間遅れて終了。遅れた理由リンパ節への転移が見られたから。麻酔が切れて朦朧とした中で、病室で夫がずっと手を握ってくれていたことは記憶の中にうっすらと残っている。

乳がんが発覚し自分の信じていた世界が全て崩れてしまったと思っていた。

でも夫だけはどんな状態の私も暖かく包んでくれていた。こんな時だからこそ夫の愛情を強く感じることができた。手術が終わった安堵感と、愛を感じられたことによる充足感か、そのまま深い眠りに就いた。

翌朝の目覚めは心地よかった。起きたら包帯でぐるぐる巻きだ。まあ夢ではない。現実だ。左のおっぱいないよなー。と思って触ってみるとやはり・・・ない。

わかっていたけど、現実を突きつけられると涙がこぼれた。

術後に体内にたまるリンパ液や血液を出すためのドレーン管が二本入ってたが。ここから液がでなくなれば退院だ。

7日後、遂に退院が出来た。退院時の値段は50万円だった。私はがん保険には入っていなかったので正直この金額は厳しいものがあった。備えあれば憂い無し。

そんな言葉が頭をよぎったが、今は無事に退院ができたことの喜びの方が勝っていた。

抗がん剤治療・・・これから始まる本当の治療

左の胸がなくなってしまったことへの喪失感はあった。お風呂に入るときなど自分身体から目を背けたくなる時期もあった。

でも、疑似おっぱいの性能が以外と良く、服の上からでは見た目にわからない状態になった。そこからはだいぶ気分が楽になった。

気分は元に戻ってきたが、治療はまだ終わりではない、手術から30日経過した時点で今度は抗癌剤治療が始まった。

期間は3週間を1クールとして、8クール複数抗がん剤を組み合わせての実施

抗癌剤治療と言えば、ドラマでも度々その様子が描かれる。そのためわずかに恐怖心があった。でも生きるため。

ここでも家族存在が私の心を強く支えてくれた。

抗がん剤治療想像していたよりはキツくはなかった。最初の一週間は特に異変もなかったけど、8日目辺りから吐き気貧血が出始めた。割りと調子が良くなってきた17日後に遂に髪の毛は完全に抜けてしまった。「あー、やっぱこうなるのねー」と思った。

覚悟は出来ていたので、思っていたよりはショックは少なかった。

クール目は特に問題なく過ごすことができた。まあ抗がん剤の点滴の際は気が重いくらいかな。

クール目に入る前にはかなり抜け落ちてきた髪が目立つので、ウィッグを買いに行った。季節をまたいでの治療なので冬用と夏用を両方買った。

それにしてもケアグッズも高い。

まり大きな声で言う人はいないと思うが、乳がん治療以外にかかる金銭負担も大きい。

クール目に差し掛かる頃には髪の毛は全て抜け落ちた。髪だけでなくまつげ、眉毛、体毛全てが抜け落ちた。顔色も悪く自分を鏡で見るのがちょっときつくなった。

いつも看病してくれる。夫も私の姿をみてどう思っているのかな。。。と少し気になる時期だった。

こうして、長かった化学療法も遂に8週で無事に終わりを迎えることができた。もう吐き気に悩まされることもないと思うとかなり気が楽になった。

楽しい時期は2ヶ月なんてあっという間だが、治療となると1年間のような長さに感じる。

抜け落ちた髪も徐々に生えてきて、昔に戻れるのかな-と淡い期待を抱かせてくれた。

化学療法を無事に終えた私は最後治療放射線治療に入ることになる。

永遠に続くと思われた治療・・・遂に・・・

放射線治療は、全部で30回。毎日通院が必要で、一ヶ月半ほど平日は病院通いが必要になった。経済的負担も引き続き大きかったが、仕事の調整をして一緒に通院してくれた夫に負担をかけているという罪悪感も多くあった。

放射線治療にも副作用がある。軽い火傷のような症状だ。熱い、かゆい、痛い。放射線を当てている患部は赤黒くなってしまい、見るからに痛々しい感じだ。

ただ化学療法と違い体外的な副作用しかなかったので、辛さで言えば全然問題なかった。

手術をしてから半年が過ぎて、ようやく私の乳がん治療は全て終了した。

毎日毎日通った病院乳がん発見してもらった病院にそのままお世話になって本当に良かったと思う。

検査ときは無表情で怖かった先生も病に真剣に向き合って時には優しく、時にはハッキリと私が不安にならないように、また過剰な期待を抱かないように上手に説明をしてくれた。

この先生に出会えたことは私の幸運だったと思う。

お陰で私は現実と向き合い、治療目的を正確に理解しながら集中して治療を受けることができた。先生本当にありがとう

「これでがんは完治」

そう言えればどれだけ幸せだろうか。

がんとの戦いはここからが始まりといってもいいかもしれない。

一般的ながんは5年再発しなければ完治と呼ばれるが、乳がんは10年後20年後も再発の恐れがあるために、ほぼ一生に渡って再発の恐怖との戦いになる。

「一生がんに怯えて生きていく」

こんな人生を送ることはまっぴらごめんだ。

「がんをうまく扱って生きていく。」

家族献身的な支え。そして我慢我慢を重ねた闘病生活

そのなかで私の心は強くなっていた。がんを再発させないように生活改善していけばいいじゃないか。そうポジティブに捉えることができるようになっていた。

最初からこの心があればなぁと今では思うけど、

乳がんによって手に入れられたこともあるのかなと思うと、最悪なことばかりではないかと思った。

がんで失ったものを取り戻す旅

手術が終わって一年が経った。本当に激動の一年だった。

今の私の生活はどうなっているか

幸いといっていいかな。見た目以外は正直、乳がんが発覚する前とあまり変わらない状態だ。

リンパ節を取った左手は、日常生活にはなにも支障はない。

抗がん剤副作用だった爪の異常や関節の痛みも治まった。

ただ髪の毛はやはりなかなか生えてこずまだ5cmほどしかない。出かける時、来客のとき帽子を被るようにしている。

左胸がないことにはさすがにもう慣れてしまった。残念に思うのは大好きだった温泉に行きたくなくなっちゃったことかな。

胸のコンプレックスが薄くなった今なら親友言葉も笑った受け流すことができたのになーと思うと少し心が痛む。

変わった事と言えば、食生活生活習慣が改善したこと。

以前は特にお肉が大好きでカロリーは紀にしながらも好きなものを食べていたけれど、今は野菜を中心とした食事抗酸化作用の高い食品をメインにしている。

そのおかげもあってか、再発は今のところなく、検査結果も良好。適度な通院も生活リズムを整える意味で意外と気に入っている。

家族との結束は乳がんによって以前より固まった気がする。長女は14歳になったが私の身体を察してか、家事積極的に手伝ってくれるし、反抗期の気配もない。12歳になった長男もだいぶ私を労って自分のことを自分でやるようになった。時々一緒にお風呂に入るが胸のことには触れてこない。なかなか優しいやつだ。モテる男になるかも。

夫は病気の前から優しい人ではあったが以前に比べて、私を心の底からいたわってくれている。先週末、酔って帰ってきた時に話していたが、乳がん告知の際、私を失うかもしれないと思った時に本当の愛が溢れてきたそうだ。

先日からかったら、覚えていないと本人は言うが、どうだかは知らない。

親友との関係は残念ながらまだ修復には至っていない。先日スーパーで顔を合わせたが会釈程度で終わってしまった。今の精神状態なら素直に私から謝ることができる。彼女との関係修復は今の私の一番の課題だ。

こんな感じで意外と悪くない日常を過ごすことができている。

「私から全てを奪った乳がん

手術前後治療中は頭の中にはこの考えしかなかった。

でも、今こうして、振り返ると悪くないことも多いなと思うに至った。

あなたには絶対に「この後悔」はしてほしくない

どうしても後悔はある。それが今回私が体験談を語ろうと思った理由。いまでも本当に後悔していることは一つ。

乳がん発覚の2年前、最初に気になった時点で乳がん早期発見の機会を逃したこと。

もしここで、私の治療をしてくれた大学病院までたどり着くことができていたら・・・

早期発見というくくりの治療となり切除も再発のリスク存在しない状態治療が終わっていたと思う。

親友との離別も家族への過度な負担。これらも起こることはなかっただろう。

私の弱さゆえの判断ミス。これに尽きる。

10月1日ピンク色に染まった東京タワーを見た時にもっと深く乳がん自分ごととして考えられていればな-なんてことまで思ってしまう。

乳がん女性の12人に1人がなる病気と言われている。確率は高い。あなたもなる可能性が十分にある。正直発生自体を防ぐことは生活習慣などにもよるし、生活習慣を気をつけていても病気はいつ襲ってくるかわからない。

2017-05-25

あれは親が離婚する前だから3歳くらいのときだろうか

父と一緒に寝ていた

自分は父の方を向いて横になっていたのだけど、寝返りを打ちたくなった

でも父に背を向けたら、嫌っていると思われて悲しませてしまうんじゃないか心配で、ずっと我慢していた

 

父は温厚で、決して子供に対して理不尽な怒り方をしたりはしない

から怒られるのが怖かったわけではない

なのに何であんなことを思って、しなくてもいい我慢をしていたのか、今でもよく分からない

2017-05-23

どうしても寝られない夜には

横で爆睡している配偶者スケッチしている。(豆電球は点けて寝る派)

普段視線が気になるようであまりスケッチモデルにはなってくれないのだが、意識がないので思う損分観察して描ける。

適度に寝返りをうってポーズ変更もされる。

まつげが長いなぁ、大胆なポーズだなあ、この虫さされはどうしたのかな、なんてしているうちに気持ちも落ち着き眠りにつける。

今日ありがとうございます

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

2017-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20170515093305

ちなみにお年はいくつですか?

あなたの症状は老いと言えなくもないのだけど、

就寝中に肩から背中にかけて、ずっと圧迫された状態になっているせいで血行不良を起こして

動けなくなっている可能性があります

から、少しずつ身体を揺らしたりしているうちに血流が回復して動けるようになるのです。

全身の筋力トレーニングや、寝具を少し固めのものに変えて寝返りを打ちやすくする等してみては如何でしょう?

2017-05-12

悪堕ちヒロイン寝返りヒロインの違い

元の人格を保っている後者のほうが好き

悪堕ちステレオタイプな悪役になるのはね あの この人 別人じゃないですか って言いたくなる

2017-04-06

片づけられない女だけど

今日代休が取れたので、頑張ってベッドの上を片づけた。

いうても、積みあがった本をどうにか端っこに全部寄せただけだけど……。

とりあえずここ数週間悩ましかった、寝返り打てなくて身体が痛い問題がなんとかなった! ウォー!

明日は早めに帰れるよう頑張って、なんとかベッドに掃除機をかけよう。がんばる。

2017-03-31

暗君東西対抗

単純な失政や暴政よりはエピソード重視。

だいたい次代の奴が自己正当化のために悪く書いただけで、実際はそこまで馬鹿じゃないという話もあるので、話半分に読みましょう。

?-前771姫宮西周の第12代の王・幽王。無口無表情系の美女・褒姒の機嫌をとるために、用もないのに何度も緊急の烽火をあげ、集まってくる諸侯の軍を見ては、褒姒と一緒に笑っていた。ついに反乱が起きた時、幽王はあわてて烽火をあげたが、もはや集まる軍はなかった。これにより西周は滅んで東周が興り、そして春秋時代へと突入していく。
259-307司馬衷西晋の第2代皇帝・恵帝。先帝の御前で家臣が「あいつには玉座がもったいない」と言い放ったほどの暗愚だった。飢饉ときに「米が無いなら肉粥を食べればよいではないか」と言い放ち、かの有名な台詞を1500年くらい先取りした。その無能さ故に、代わって政治の主導権を握ろうとする皇族たちが争い「八王の乱」が起きたが、その無能さ故に殺されることはなく、48歳のときに食あたりで死んだ。
335-357苻生前秦の第2代皇帝・厲王。生まれつき隻眼だったために祖父から忌み嫌われ、たびたび鞭打たれるなど、虐待まがいに育てられた。武勇に優れていたが、残虐で酒を好んだ。宴のときには酒を飲まない者を殺したため、諸官は懸命に泥酔せねばならなかった。また隻眼のコンプレックスから「少」「無」「残」「偏」などの文字を使うだけで誅殺した。従弟たちが起こしたクーデターにより23歳で殺害された。死ぬ間際にも泥酔していたという。
463-477劉昱劉宋の第7代皇帝後廃帝。「天性好殺」と評されたシリアルキラー。従者に凶器を持たせて街を練り歩き、気に入らない者を自ら殺して回った。贈り物が好みでなかったというだけで皇太后を毒殺しようとしたが「喪に服しているあいだは街へ出られませんよ」と諌められて諦めた。一日に誰も殺さないと不機嫌になったという。有力な将軍クーデターにより14歳若さ殺害された。
502-549蕭衍南梁の初代皇帝武帝。当初は名君の誉れ高かったが、次第に仏教に傾倒していき、莫大な寄付金国庫を傾けた。なまじ優秀だったために諫言を聞かず、勝手出家してはそのたびに寺院から連れ戻された。周囲の反対を押し切って、隣国を追われた武将を受け入れたところ、即座に反逆され、凄惨な籠城戦の末に捕縛幽閉された。息子たちの誰も救援に来ない中で、惨めなうちに病死した。
1122-1161完顔亮金の皇帝。「天下の美女を妻に得たい」と嘯き、親族、家臣の妻、母娘、幼女、あらゆる美人後宮に入れ、宮殿のいたるところで乱交した。幼い姪を強姦して殺し、従弟の妻を奪おうとして死に追いやった。南宋に対して大規模な遠征を行ったところ本国で別の皇帝擁立され、それでも遠征を続けようとして部下に殺された。死後、皇帝どころか王とすら見做されず、「海陵庶人」と記録された。
1563-1620朱翊鈞明の第14代皇帝万暦帝。幼い頃から聡明で知られ「朕は5歳で字が読めた」とよく自慢していた。宰相張居正の手腕により、統治の初期は成功を収めたが、その後は外征・内乱が相次ぎ、自身酒色に溺れて堕落した。明で最も在位期間の長い皇帝だが、30年にわたって後宮引きこもり上奏があっても何の返答もしなかったため、国政は機能不全に陥った。ただし徴税だけは熱心だったという。

西

161-192コンモドゥス17ローマ皇帝暗殺未遂や側近の裏切りなどから政治への興味を失い、剣闘にのめりこんでいった。「ヘラクレス化身」を自称して狼の毛皮をまとい、実際に剣闘士としてコロッセウムで戦った。その武勇は素晴らしいものだったが、「皇帝奴隷の真似事を」とローマ市民を嘆かせた。あるとき重臣たちの粛清を図ったが、逆に毒薬を飲まされ、朦朧としたところを襲われて殺された。31歳だった。
203-222ヘリオガバルス23ローマ皇帝ローマ最高神故郷シリアの土着神に挿げ替えてその神官となり、処女を守るべきローマ巫女結婚して神の子を産もうとした。その後は離婚結婚を繰り返し、最後には女装をして男性奴隷の「妻」として振る舞った。さら宮殿の中に売春宿を作り、自ら男妾となって通りがかる男性を誘い込んだ。マゾヒストの気もあったという。近衛兵の反乱により18歳の若さで殺され、死体は切り刻まれて川に捨てられた。
937-964ヨハネ12ローマ教皇カール大帝の子孫という家柄であり、わずか18歳で教皇となった。無謀にも教皇領の拡大に乗り出して大敗を喫し、それを助けた東フランク王国オットー1世ローマ皇帝の冠を与えた。これにより神聖ローマ帝国誕生したが、教皇権威は低下することとなった。不道徳人間で、ラテラノ宮殿売春宿のようにしており、最期人妻と寝ていたところをその夫に見つかって殺されたという。27歳だった。
1012-1056ベネディクトゥス9世ローマ教皇父親の後押しにより20歳にもならないうちに教皇となる。賄賂などはもちろん、殺人もいとわず姦淫にふけり、同性愛も行っていた。従妹と結婚するために教皇位を金で売りとばしたが、すぐに後悔して復位を主張し、混乱を招いた。結果として三度も教皇に就位することになり、最後には新たな教皇により破門されてしまった。四度目の復位を画策していたときに43歳で亡くなったと言われる。
1199–1216ジョンイングランド王。幼い頃から父・ヘンリー2世に可愛がられていたが、父と争っていた兄・リチャードが優勢になると寝返りヘンリー2世失望のあまりに亡くなった。さらにリチャードが亡くなって王に即位すると、フランスフィリップ2世敵対して惨敗フランスにあった広大なイングランド領を全て喪失し、その体たらくイングランド諸侯の不満が爆発したため、やむなくマグナカルタを認めて王権制限を受け入れた。
1835-1909レオポルド2世ベルギー国王アフリカコンゴ私領とし、私財のほとんどを投じて近代化を推進したが、やがて「天然ゴム採取ノルマに達しなければ手首を切り落とす」といった残虐な労働を強いるようになった。さすがの欧州諸国もドン引きして強烈なバッシングを浴びせ、最終的にコンゴ統治ベルギー政府移管された。国民からの信頼は地に堕ち、晩年王妃や娘にまで白い目で見られたという。
1845-1886ルートヴィヒ2世バイエルン王。「狂王」とも「白鳥王」とも呼ばれる。政治への興味は薄く、戦争に負けたばかりで多額の賠償金を抱えていたにもかかわらず、借金までして自身メルヘン趣味に耽溺し、中世風の美麗な城を各地に残した。夜中にソリ遊びを始めるなど、奇行に走る王を家臣たちは危ぶみ、精神病だという理由で退位させた。その翌日、40歳で謎めいた死を遂げた。

2017-03-12

壁に肘鉄

ごめんね。さっき寝返り打った時、壁に肘ぶつけてドカン!とやっちゃった。隣の部屋の人ビックリしたよね。ごめんごめん。

2017-02-25

自分痕跡を残したがらない夫

たとえば風呂に入るとき、夫は椅子シャワーナイロンタオルといった配置を元の位置に戻していく

そこが片付いていた場合は片付いた状態に、散らかっていたら散らかっていた状態に「戻して」その場を立ち去るクセが、夫にはある

いつぞやの地震バスチェアの上に置いてあった洗面器が転がり落ちたことがあったのだが(落下音が浴室からリビングへと響いてきたので分かった)、その後に入浴した夫は、わざわざ洗面器を浴室の隅の床に伏せた状態にして風呂からあがっていた

長年のそういった習慣のせいなのかは不明だが、夫の体臭は皆無と言ってよいほど薄く、寝息も殆ど聞こえないくらいに小さい

そのため、夫が隣に寝ているのにも関わらず、一人暮らしだった頃と錯覚して思わぬ独り言を呟いたり、「のび」や寝返りで夫にチョップやエルボーを食らわせてしまう事がある(それに関して夫は、単に私の寝相が悪いだけだと考えているようだ)

生活する上では「勝手に散らかされる、勝手に物を動かされる、相談もせず高価な物を買ってくる」という事はないのだが、その代わり「気を利かせて何かをしてくれる」といった事も一切無いので、プラスマイナスゼロか、割り切ってしまいさえすれば若干プラスくらいだと思っている

2017-01-30

耳の穴の毛ってどうやって処理してるん?

ごろごろ寝返りしたら耳穴がゴワゴワして痒くてイライラして何なんだと思ったんだけど

これ、毛が原因だよね(これは耳毛??)


鼻毛鼻毛カッターがあるし、手でだって抜けるけどさ

耳の穴の中の毛なんてどうすればいいんだ

途方に暮れる

2016-11-27

http://anond.hatelabo.jp/20161127080307

夢において時間はさほど重要ではない。夢は自分が行動することによって時間が進行する。歩く、話す、瞬きする、呼吸する(のを知覚する)、など。

夢はレム睡眠っていう浅い眠りの時に起きるんだが、これは基本的睡眠の入り始めの10-20分と、起きる直前の10-20分に発生する。

夢では、現実世界で起きている現象を脳が混乱しないように整理しているんだ。その整理の方法が我々が一般普通だとは思っていない脈略が掴めない方法から増田のように変な疑いを持ったりするが、夢から冷めた時の現実世界での自分を見るとある程度夢のストーリーの辻褄合わせはできるよ。

夢での体験現実世界での体験フィードバックされる。特に手や足などの先端部分の感覚増長した上で夢に反映される。

今の時期、寒い寝返りなどをうって体の一部分が冷えていれば、体温調節のために早く起きて欲しいから興奮させるために恐怖体験を伴う悪夢としてフィードバックされる。

また、外で笑い声が聞こえた場合はそれも恐怖体験の題材にするため悲鳴に変換される。で、増田潜在的に恐怖している死というもの連想させるために虎が召喚されたと。

現実世界のように素早く殺さないのは、増田が何も行動しなかったからだと思う。見るだけで、逃げたりもしないし、ただ棒立ちしている。ただ、自分が虎を見ている、ということを認識すると時間は動き出すので、それが物語の進行にタイムラグを発生させたのではないかと。

これらの恐怖体験目的は単純で、目を覚まさせるため。興奮すると覚醒やすくなるからな。布団ちゃんと被って暖かくして寝たら悪い夢は見ないよ。起きた時、布団の状況がどうだったかを思い出せばある程度夢の辻褄合わせはできると思う。

2016-09-22

メスイキっていうけどさ

最近、「メスイキ」って単語をよく見る。

ツイッターとか、2ちゃんねるとか。

調べてみると、どうやら、「男が、アナル乳首などで女のように逝き狂う」ことをこう呼んでいるらしい。

は?

女の体なめてんの? そんなチャチなものじゃねーぞ、女の感じる快感は。

「まーたサブカル女馬鹿なこと言ってるよ」とかお思いの増田も多いでしょう。

いや、俺、男ですよ。

でも、男のいわゆる「メスイキ」も、本物の、女のメスイキも両方経験してる。

から、男の「メスイキ」では、どうしても最後最後で脳のリミッターが外せないことも、女のメスイキがマジでヤバいことも、みーんな知ってる。

俺ね。昼間に嫁さんとディープキスしておいて、寝ると、入れ替わってるの。朝起きると。

嫁と、意識だけ入れ替わって、体が逆になってるの。俺の体が、女の体になってるの。

この説明でピンと来ない方は、大林宣彦監督の『転校生』を観るか、山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』を読めば、一発でイメージをつかめると思います

最近だと嫁も男の体にハマってるっぽくてね。毎週のように入れ替わってる。

土曜日は朝起きるや否やキスしてくるの。避けられねーよ。

そんでもって、日曜日朝起きるじゃん? おっぱいがついてるんだよ。体に。そして股間の相棒がいなくなってて、筋肉が減って体重も軽くなってるから、男の体の嫁にのしかかられると身動き取れなくなっちゃうし、簡単お姫様抱っこされて運ばれちゃったりする。

そして、これは俺の嫁の体の感度がいいだけかもしれないけど、抱きしめられて、耳元で「たきくん……かわいい……」って、自分の声で囁かれるだけでもう幸せなんだよね。

キスするだけでも気持ちいいし、後ろから囁かれながら乳首こりこりされちゃったら、全身をいじってほしくなって、ショーツはびしょびしょ。

嫁も自分の体をいじるわけだから、弱点も、感じるポイントも全部わかって責めてきて、こっちはすぐに「すき」と「だいすき」と「きもちいい」しか言えなくなっちゃう。

最後には「みつはああああ」って叫びながら、きもちよさで頭が真っ白になって、全身がガクガクして、何もわからない状態で、子宮に精液をたっぷり注ぎ込まれ感触すら愛おしくて、幸せ幸せで涙が出てきちゃうくらいまで、トロトロにされちゃうの。

ね?やばいでしょ?

終わった後はベッドから立ち上がるどころか、寝返り打つことすらダルいくらい全身が快感に犯されてるし、たいていの場合スイッチが切れちゃって一旦寝ちゃう

まあ、すぐに嫁にいたずらされて、気持ちよさで起こされちゃうんだけど。

そもそもね、人類歴史というか文化的背景からして、男が真のオーガズムに達せるわけないの。

男は女に比べて運動能力に優れているんだから、外敵が来た時に女子どもを守って戦わなきゃならない。戦う義務がある。

そんな男が、非常時にヨガり狂って足腰立たない状態だったら、やばいでしょ。

から、男の脳には、賢者モードがあるし、いくらドライ」で絶頂したとしても、快感のリミッターを完全には外せない構造になってるの。

まりね。

真のメスイキを味わいたかったら、女の体に意識を移して、女の脳で、味わうしかない。これが結論で、真実

しかったら、これ読んでるそこの君も、嫁さんと入れ替わってみればいいよ。

2016-09-05

人間尊厳には差があると認めろ

私は病人だ。

特定を避けるため詳しくは言わないが、他人の手を借りる程ではないものの、比較健康生活を維持するので精一杯で、働くことが出来ない程度の病気だ。

さてここで、相模原障害者施設殺傷事件について思い返したい。

私は犯人思想賛同はできない。しかし、そういう考えに至る点については理解できる。

例えば、認知症意識がなく寝たきりで、寝返りも排泄も他人に頼り、胃ろうによってただ生かされて続けている老人をみてどう思う?その老人は生きているといえるか?

少しスケールを下げてみる。

自己認識もあり、排泄食事その他も自分で行うことができるが、病気によって脅かされる生命維持の対処に一日の時間がほぼ費やされ、働く程の体力もなく、ただ日々「生命維持の為に努力し、生きる為に生きている」人間は、生きているといえるだろうか?(これはつまり私自身のことだ)

意識の有無の違いはあれど両者ともに、生きてはいる。しかし、生命の維持、つまり「日々息をし、食事をし、排泄し、眠る」以外の行動はほぼできていない。そして当然だが、「日々息をし、食事をし、排泄し、眠る」だけでは人は生活できない。当人以外の誰かが、食費や光熱費や住む場所為のお金を払っている。

私の疑問はシンプルだ。

人間尊厳とは、何だと思う?

生きることは無料ではない。寝たきり老人は誰かが世話をする必要があるし、生きる以外の事が出来ない病人生活費は誰かが稼がなければならず、施設の中で介助を受けながらただ生き続けるだけの障害者もまた同じだ。

人はひとりでは生きていけない。助けあって生きていく。どんな命も尊い。そういった考えは美しい。だが、そんなもの現実的な病苦や伴う苦労に対して何もしてくれない。

ベットの上で意識もなく生かされ続ける人に尊厳はあるか?苦痛中日々を生き延びるだけの人間尊厳はあるか?他者尊厳どころか自分尊厳さえ認識できない人間尊厳はあるのか?

本人の意思努力社会他者から認知支援では補えず、その排除永遠に叶わない「尊厳への攻撃」は、老いや病苦や障害存在のものなんだ。

「生きているだけで素晴らしい」というのは、「生きている限り少なくとも何かできる可能性がある」という前提がある時に響く言葉なんだ。

生きているだけで苦しむ人間に、生きる為だけに普通以上のコストを払う必要がある人間に、何かできる可能性すら持てない人間に、「それは素晴らしいことだ」と言えるか?

からすればそれは、永遠に排除が叶わない「尊厳への攻撃」を受け続けなくてもいい人間傲慢だ。

こんな、苦痛と、屈辱と、惨めさと、無力と無為にまみれた毎日のどこが素晴らしいんだ。想像力のない馬鹿の戯れ言だ。私が生きていることが「素晴らしい」ってんなら、いつでも変わってやるから変わってくれよ素晴らしいんだろ?

生への手放しの賞賛なんて、「生きているだけで尊厳への攻撃を受けている状況」へ対する否定無視なんだよ。

生きていることは素晴らしいから、家族からまれいるから、どんな人間であれ個人として尊重されるべきだから。わかる。理屈はわかる。正しい。

しかし、私の尊厳私自身で決めたい。勝手に決められたくない。生きていることは素晴らしいなんて思想押し付けないでくれ。「ひとりで生きていけなくても、同じ人間人権尊厳があるんだから生きるべき」とか、勝手に決めるな。

生きていることが望ましく善であると思えるのは、今いる場所マイナスじゃないからだ。生きているだけで尊厳への攻撃を受けている人間がいることを知ってくれ。苦しみながら、もしくはその苦しさを自覚する事すらできないまま、”ただ生き続けるだけ”しかできない人間まで「素晴らしい」なんて言うな。そうやって何の区別もせず生の賞賛をするから、建前と現実ギャップに耐えられない人間が「障害者(等の弱者)は人に迷惑をかける存在から死ぬべき」なんて思ってしまうんだ。

老いや病気障害というどうしようもない理不尽と不幸と差異を、いい加減真正から受け入れるべきだ。健康人間とそうじゃない人間は、どうしようもなく違うんだ。

死にたいわけじゃない。差別されたいわけじゃない。人権を捨てたいわけじゃない。必要や不必要の話ではない。尊厳の話なんだ。

私の尊厳は、私自身や誰かが何をしようと、いつだって病気によって脅かされているんだとわかってくれ。

「辛くても無為でも他者迷惑をかけても生きろ」というエゴ傲慢を、せめて認めてくれ。

「生きることは素晴らしく、意味がある」なんて思考停止した理想を掲げるのは、もうやめてくれ。

ただでさえ病気で苦しいんだ。自分尊厳なんてあるのかわからない。それでも、自分自分で維持できる最低限の尊厳とはなんだろうかと悩んでいるんだ。これ以上、教科書に書いてあるような「人間尊厳」を掲げて追い詰めるのはやめてくれ。私はそんなところまで上がる事ができないんだ。

綺麗で完璧人間尊厳という言葉で覆い隠して、逃れられない理不尽を受けている存在から目を逸らすのはもうやめてくれ。

病気理不尽に奪われてカスしか残ってない尊厳でも、それが自分の上限だって認めて必死でそのカスを維持しながら生きてる存在を、認めてくれよ。

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