はてなキーワード: 反語とは
「そんなんで(大人、社会人、親、等の文脈上は然るべき他者への配慮をすべからく持つべきである、といった意味合いが込められたと思われる任意の単語)として恥ずかしくないの?」
この問いかけは疑問ではなく反語であり「はい恥ずかしく思います」という返答を想定している。
想定通りの返答をすると、こちらが立場に応じた然るべき義務を果たさなかった事を認めた、と相手は受け止める。これにより相手はこちらに非があったという結論を相互間の認識とし、納得してその場が収まる。
また相手はこのようなの流れを然るべきものとして想定している。
想定に反し「いいえ、特に恥とは思いません」と返すと、そうですか、それは価値観の相違ですね。と話が終わってしまう。
相手はこちらに非があったと認めさせる事、また場合によってそれに応じた何らかの措置を要求しているため、このまま話が終わる事を望まない。
議論の続行を目論み、道徳観が共有されていない事を承知の上で、自分の価値観こそが正常なものでありこちらのそれは誤ったものであると主張する。また、場合によりこちらの価値観を改めるよう要求する。
このようにして、価値観の相違により生じた紛争をこちらの道徳観に還元して解決を図ろうとする。
この場合、「人間性(この場合、社会性と同様の意味で用いられていると考えられる)を疑う」といった表現が用いられる。
こういう文脈でよく使われる「人間性」って言葉が嫌いです。ほとんど「お前が気に入らない」と変わらないような意味なのに、なんか自分は正当な側に立っているって信じて疑わないような感じがするんで。責める内容が常識の範疇に収まるような妥当なもんならともかく、こういう言葉を使う人に限って自分のマイルールに過ぎないようなことを他人にまで要求してたりする。
20代後半にして、ようやくのこと…
せっかく20年近く偏って形成された自我が変わってしまう前に書き残しておく。
・マッチングアプリ中級者
よく「恋愛経験の機会がないと自分が女性であるか(性自認)がわからなくなる」という喪女の通説(?)をネットで目にしては赤べこのように頷いていた。
同じ拗らせた人間でも男性は割とそういう話はなくて、やっぱり生理現象としても「性」が身近なのは男性なのだろう。
「じゃ生理は?」て言われたら、それは周期的にやってくるから、女性として再認識する機会というより月一のやっかい事で「またかよ」という面倒くささしかない。
生理痛で悩まされるたびに変なハンデを与えやがってという行き場のない憎しみと女性ホルモンの乱れで定期的にイライラする。
喪女の中には本当にそれだけで、恋愛や身嗜みにも無頓着のまま独身貴族を謳歌する方もいるのかもしれない。
でも私はそうじゃない。
思春期を超えたあたりから、次第に「苦労する分、女って娯楽が多いな」ということに気付き始めていく。
(今は男性でも普通にしてるけど)お化粧だったりオシャレだったり…そういうので「不細工な自分」を周りの人間にカモフラージュすることが上手な生き方なんだと学ぶ。
周りに溶け込む事でひとりの人間になった気がする。
そういう感覚って誰にでもあると思う。
でも恋愛ってそうじゃない。
ある日、突然目の前に現れて(コンビニのBGMで飽きるほど聴いたフレーズのように)パチパチと電気が走って、うっとりして、次第に脳の細胞が破壊されていく。
一方通行の恋に終わるかもしれないし、結ばれても既婚者かもしれないし、どんなに疑り深い人間もそんな事考えることなく非効率ってわかってても夢中になっていく。
流石にそういう感覚が降りてこないことには恋愛なんてできないと思った。
恋ってスゲエ!
アイドルで実写化されるような少女漫画も、街で狂うように流れるようなラブソングも聞かないSFオタクの自分には縁がなかったから、
だから、3年間アプリをしていたことになる(流石にずっとやってたわけじゃない)
やっぱり人と出会って話す事って楽しくて、女は基本料金無料だしデート代も出してもらえるからスゲエ楽しかった。
でも2、3回と会うと「どうしてこの人と恋愛ができようか…(破茶滅茶反語)」で曖昧に終わらせたり、いつの間にか終わってたり…
そうしていくうちに、恋愛の良さを知ることはなかったが、男性の好みに寄せていける余裕みたいなものだけが身についた。
「特別な誰かのため」という感情はわからないが、「特別な誰かにリーチするための素振り」をし続けた。
そのたびに「恋愛経験がない自分は人として落ちぶれているのではないか」という謎の焦りだけが助長されて
恋愛に限りなく近いところにいるのに、あと一歩届かない自分はとても惨めな生き物のようだった。
人並みの経験をしたいからと、妖怪人間のようなことを嘆いてヤケクソな信仰心で神頼みしまくった時期もあった。
そんな自分にもご縁があったのだ。
私は、アフィリエイトで汚されたグーグル先生が言うように、デート代を出さない男は脈なしだし、ラインの絵文字の数で好意がわかるし、手を出すような脳直はお話にならない。
そんな風に胸囲が平たくてチンポコが付いているだけの人間を「男」に絞ってカテゴライズすることで人並みになったつもりでいたけど、
実際の恋愛はなんか…そうじゃないんだなって…
めでたく婚姻までたどり着いたカップルの総意見であろう「自然に」というのを身をもって感じることができる。
気が合うし、マメで優しいし、すぐ気にかけてくれる。あと顔が良い。
「そういうところが人間として尊敬できる、好き」と伝える前に、まったく同じことを言ってくれるサイキッカーが彼だ。
世間が腐る程言ってる、恋愛の本当の姿…それは、見返りだけのリップサービスや社交辞令では得られない圧倒的多幸感!
お互いに「2、3時間あれば映画一本見ることができる」あるいは「睡眠時間を確保して仕事のパフォーマンスを上げることができる」と頭ではわかっているのに、
翌日ヘロヘロになりながら、でも一日の終わりに携帯越しに相手の声を聞くことができるだけで乗り越える気になれるし
思考が単純になっていってるのがわかるし、脳細胞が破壊されていくのがわかる。
夢中になる対象が自分に夢中な人間というだけで、すごく「人間」っぽくなってる気がする
恋愛ってスゲエ!
それは、つねにおもいがけない可能性に対して開かれた態度であり、慣習的な物事の結びつきを超えてあらゆる未来を否定せず、支配と被支配の天地すらもあいまいに塗りかえる。そうした状態に政治性を求めるのならば、こういいかえてもいい。NTRとは革命である、と。
NTRの宿る瞳は風景を革命する。たとえば、あなたは都会とも田舎ともいいづらい、郊外の住宅地に住んでいて、そこにしゃれたパン屋さんが建っているとする。味はそこそこで、町のなかでさえ注目度は低い。あなたはその店へ日常的に通い、品揃えと定休日を完璧に把握し、なんとなれば五回に一回は店主が声をかけて二言三言挨拶をかわす。ちゅうくらいな好ましさがある。
ある休日、幸福な遅起きをしたあなたはその店に向かう。しかし閉まっている。開店時間は過ぎているし、定休日でもないのに。店の扉に張り紙がしてある。「Aデパート地下街新春スイーツフェア出店のため、誠に勝手ながら、〇日~×日はお休みさせていただきます」。
世界がすうっと冷えて遠のいていく。
そのデパートは毎日百万人が乗り降りするような規模の駅の前にそびえている。
そこに行くと、よく見知ったパンが知らない装いで売られており、おそらくあなたが手をふったとしても、他人のふりで無視されてしまう。三百円の買い物ごとにスタンプを捺してもらっているあなたのカードも、存在しないものとされるだろう。
もうあのひとかみごとに皮が崩れ散るクロワッサンも、あの固くなった餅のような生地のベーコンピタも、もうその手には届かない。あの店は二度ともどってこないではないか。そんな感覚にあなたは襲われる。
開期が終わると、パン屋はもどってくる。以前の顔のまま、あなたのとなりに、なにひとつ変わっていないかのように。
だが、変わってしまったのだ。なにかが決定的に以前とは違うのだ。
営業再開初日の朝一番にあなたはその店を訪れる。柔和な顔立ちの店長が、変わらぬ笑顔で「焼きたてですよ」といいながら、あんパンを棚にならべる。あなたは礼儀正しく待ったあと、ひとつをトングでつかみ、瓶入りの牛乳といっしょにレジに出す。
あなたが知っているかはわからないが、あんパンはパンのなかでもっとも官能的なパンだ。NTRを体現している。それはおはぎと逆の極にある存在だ。おはぎで餅米を包んでいたオラオラ系のあんこが、西洋の象徴であるパンと出会ったとたん、しずしずと包まれるに甘んじている。 あなたはあんことパンを咀嚼しながら、自分が今、寝取っていると同時に寝取られているような、ふしぎな感覚を味わう。それこそがNTRの奥義だ。シナイ山でモーセはふたつの神の名を与えられた。ひとつはYHMH。もうひとつはNTR。発音できないことはそれ自体神聖さの証だった。
能動と受動ーー寝取りも寝取られもNTRというひとつの言葉に封じられている。わたしたちはそうした矛盾を孕んだ言葉を何の違和感ももたずに使っている。どちらでもあり、どちらもない状態こそが自然なのだ。そうした状態を自然にすることで、わたしたちは今ある景色を転覆できる。
NTRという言葉の両義性に想いを馳せるとき、わたしは菅井の顔を思い出す。
九十年代の善き日々に、わたしはフリーランスでいわゆるNTRビデオレターのディレクターをやっていて、彼はそのプロデューサーのようなポジションで助監督的な雑用からポストプロダクションまでを一手に引き受けていた。
あの時代を知らない子どもたちには、NTRビデオレターをヤラセだと思っているものも多いと聞く。たしかにそうした側面があったのは否定できない。特に大手の制作会社がAVのついでに量産しているようなものは、最初から商業的な流通を折り込んで、俳優を雇って制作されていた。
だが、わたしのいた現場はみな本物で真剣だった。寝取るほうには寝取るものの矜持があり、寝取られるほうには寝取られるものの葛藤があり、そしてかれらを撮るわれわれはそうした昏い機微、愛の真理といってもいい、そのさざなみのような感情を、一コマも撮り逃すまいという気概があった。誰もが真剣に傷つけあっていた。
独立系の低予算のチームである。撮ってくれと頼むのも、大手に発注できないような貧乏な若者ばかりだ。ビデオレターを撮って、送りつけたい。その情熱が何よりの対価だった。
菅井もそんな情熱しか財産を持たない若者のひとりだった。彼と出会ったのは大学のあるサークルの飲み会のことだ。三次会だったか四次会だったかを先輩の家に転がり込んでおっぱじめ、みなひとしくへべれけになったノリで、先輩が「おもしろいものがある」とVHSテープを取り出した。
それは当時話題になっていたNTRビデオレターで、メーセッジを収録している最中に寝取られる女性(四十代の主婦という触れ込みだった)が感極まって泣き出し、泣くのはよくあることだったが、その上にすさまじい量のゲロをぶちまけて寝取り役も撮影スタッフも大騒ぎ、という内容だった。要はネタビデオである。皆視聴済みの有名作で、先輩もそのことをわかっていたはずだけれど、みな初めて観る体で盛り上がった。
そして、例のゲロの場面が来ると、みんなで爆笑した。わたしも笑った。下に見る笑いだった。そうした笑いを仲間内で共有することが結束である、と信じていた。
だが、菅井はそうでなかった。
それまで部屋の片隅でちびちびキリンなどをやっていたのがいきなり、「笑うな!」と叫んだときは、おどけた反語的表現なのかなと思っていたが、先輩にくってかかるに及んで本気だとわかった。
押し倒された先輩の顔に浮かんでいたのは暴力を振るわれた怒りではなく、驚きと困惑だった。わたしたちも止めるでもなく、ただひたすら唖然としていた。先輩もわたしたちも、NTRビデオレターに対して真剣になる人間がこの世に存在するなどとは思わなかったのだ。 菅井は酔っ払いすぎだとして家に帰され、後日、酒の席のことと暴行は不問にされた。菅井はサークルで、なんとなくアンタッチャブルな存在になった。
サークルの他の人間たちとは逆に、わたしは菅井に興味を抱いた。
当時のわたしはNTRビデオレターの大半をヤラセだと考えていた。そうした作り物にたいして、あそこまで入れ込める人間がいるというのは不思議というより驚異だった。
菅井はふだんから近づきがたいオーラを発している類いの一匹狼だったが、こちらから話しかけると意外に愛想良く応じてくれた。
彼のNTRビデオレターについて該博な知識を持っていた。その歴史からジャンル、ゲームチェンジャーとなった名作の存在、業界構造まで、事細かに、しかも大変おもしろく教えてくれた。良い教師だった。
あるとき、彼の部屋でふたりだけで宅飲みをしていたとき、わたしは彼に訊ねた。「どうしてNTRビデオレターにそんなに興味を抱いているのか?」
菅井は、酒気に染まった赤ら顔しばらくゆらゆらさせたのち、立ち上がり、押し入れからひとつのVHSテープを取り出した。
部屋の明かりを消し、無言のままビデオデッキにそのテープを挿入する。あまり上等とはいえない画質に、ベッドに座った二人の裸の男女が浮かび上がる。男のほうは下腹が出ていて、若いようにも中年のようにも見える。女のほうは透き通った印象の美人だった。
男のほうがピースをしながら口上を述べる。さしてオリジナリティのない、平坦なセリフだった。菅井はその口上にかぶせるように、ぼつぼつと、VHSテープの来歴を語りはじめた。
ビデオに映っている女のほうは菅井の伯母であるという。知的でやさしくて、幼心に憧れの存在だった。伯母夫婦には子どもこそいなかったものの、傍目から見れば、仲睦まじく、理想の夫婦といった趣に見えた。夫婦で菅井をかわいがってくれ、週末にはよく遊びに連れて行ってもらったそうだ。
その伯母が急な病で若くして亡くなった。菅井が高校生のころだ。意気消沈する伯父を励ますために、菅井は伯父の家をたびたび訪問して話し相手になったやった。
しかし、伯父は一方的に話す菅井に黙って相づちを打つだけだった。菅井が三人で出かけた思い出を語らおうと、アルバムの場所を聞くと、伯父は「焼いた」といった。そこで菅井は初めて、家の中から在りし日の伯母の写真という写真が消失しているのに気づいた。
菅井はそのことを問い詰めようとしたが、伯父の返答は要領を得ず、ついには泣き出してしまった。
菅井は長らく伯母について伯父の前で触れずにいた。だが、大学進学が決まって伯父の家に挨拶へ行った日、めずらしく伯父が上機嫌で出迎えてくれた。自分から菅井にいろいろ話しかけてきた。流れで伯母の話題にもおよび、ひさしぶりに伯母の思い出について深く二人で語り合った。良い時間だった、と菅井はいう。
微笑みながらも目頭を熱くしていた伯父は、ふと思いついたように席を立って、どこかからかVHSテープを持ち出してきた。なにそれは、と菅井が訊ねると、伯母の映っている唯一のビデオだという。
そして、菅井と伯父はそれを観た。ふたりとも、ひとことも喋らなかった。
伯父の訃報を聞いたのは、菅井が大学の下宿へ引っ越した直後だった。自殺だった。
わたしたちの観ているビデオレターは山場にさしかかっていた。VHSと自らの由来を語り終えた、菅井の横顔はブラウン管の青い光にぼうっと照らされ、かそけく浮かび上がっている。画面を凝視している。そこにあるのが歓びなのか、哀しみなのか、あるいはまた別のなにかなのか、推し量ることはできない。
これって、
実在する加害者に肩入れしたい気持ちはあるがそんな意地の悪い自分を悪役に見られたくない、
と考えた結果の戦略的発言であって、反語的なアドバイスなんかじゃ決してないよね。
リアルにこの斬り方する奴で道徳的な奴を未だかつて1人も見たことがない。
下手すりゃ自分が差別する側に立ち続けるために他人の被害を過小評価する狙いすらあったりもする。
このレトリックでもって侮蔑のニュアンスたっぷり込めて突き放す言葉を浴びせまくって相談者を思いっきり傷つけた挙句、
社会人になってはや数年。はてな匿名ダイアリーを読む頻度も減った。大学生の頃はけっこう読んでたんだけどな。今だと、はてなブログランキングの下にある増田部門をたまに見るくらいだ。
いい会社で働いてるわけじゃない。暗号資産取引を扱う会社に新卒で入って、お金の出し入れとか、今年の予算がどうなるとか、新しく口座を作ろうとする人の審査とかしてきた。まあ、平社員の仕事だ。GMOみたいな大企業じゃない。もっと小さいところだ。
こういう仕事をしてると、なんというか、この世界における『養分』だよな。そういう人間について考えることが多くなった。俺なんか、増田やってる人達と比べたら人生経験が薄いのでツッコミどころもあるかもしれんが、まあ聞いてほしい。
1.学校教育
学校教育って、社会の養分を育てるためにあるよな。学校における教師・生徒の上下関係とか、意味のない規則まで含めてルールを守らせるように躾けるところとか。今の俺には、社会規範に反する行動まで含めて社会の正しい姿なんだってわかる。未成年だった当時は、別になんとなく学校のルールに適合してたな。何も考えてなかった。
ところで、今まで私立に通ったことはない。小中高と地元の公立だったし、大学も公立大学だ。設備がボロボロで、学生課の就職支援もないに等しかった。で、こんなクソ環境でも何かできることはないかと考えた結果、GMOで仮想通貨取引の口座を開いてトレードにのめり込んだ。バイナンスでは100倍レバレッジに挑んでゼロカットを食らいまくった。懐かしい。
当時は、社会から逸脱してみたかったんだよな。若気の至りだ。そんで仮想通貨トレードなんだが、飲食店のアルバイトで稼いだ5万円で始めてボコボコにされて、「俺、弱いだろ!!」ということに気が付いた。実際、本当に弱かったのだ。鴨がネギと鍋をしょっているようなものだった。
話が逸れた。それで、社会でフツーに生きてる人とか見てると、なんだかんだで学校で習ったことを尊重しながら生きてる。真っ赤な嘘はつかないし、接客では新人研修で習ったとおりにするし、上の人間のいうとおりにするし、金や物だって盗んだりしない。誰かを故意に貶めることだって、あんまりないよな。
しかし、そういった社会規範を子ども達に教える元締めになってるところの、政府なんかの上位層はどうなってんだという話だ。国会議員だって官僚だって国民に平気で嘘をつくし、ライバルを蹴落とすためならなんでもするし、犯罪だってバレなければいいぐらいの勢いだ(河井夫妻選挙違反事件が記憶に新しい。詳細はwikipediaを読んでほしい)。
国のトップ層がこれなんだから、学校教育だってそういう風になってるんだよ。つまり、学校で学ぶ社会規範というやつの正体は、自分らにとって国民が都合のいいように動くために、そういう意識を内面化させてるんだよな。
しかし、なかなか国を批判しにくい部分もある。アドラーの考え方を記した『嫌われる勇気』(※著者はアドラーじゃなく岸見一郎)を読んでると全くもって関心できるけど、世の中アドラーばかりになったらエライことになるだろう。社会には養分となる人間が必要なのだ。
・明示されてなくても、他者や集団に悪影響を及ぼすことをしない(エチケット、マヌーー)
・ルールやマナーに明示がなくても、人との関係性を良好に保つ義務を果たす
抽象的に綴ってみたけど、こんなところか。こういう人がたくさんいるお陰で日本社会は成り立っている。外国人観光客が日本にたくさん来るのも、そういう人がいっぱいいて、なんというか社会がクッションみたいでさ、居心地がいいからだろう。メシが安くて旨いのもあるが。インドネシアの屋台では、残飯を数百円以上で売ってた。
ところでさ。年末に『監獄の誕生』という本を読んだんだが、その中に違法行為を犯した少年と裁判官との問答があるのを思い出して再読してみた。こういうのを読むと、やっぱり社会規範を冒すところまで含めて人間なんだと感じる。
せっかくなので引用してみよう。時代背景は1840年8月頃らしい。軽犯罪を働いて捕まった浮浪児のベアス少年と、裁判官とのやり取りだ。
その裁判官が反規律・訓練を法の尊厳でつつみこもうと試みるさいの反語法(イロニー)と、被告が反規・訓練(だらしなさ)を基本的人権のなかに組込むさいの横柄な態度は、 刑罰制度にとって一つの典型的な情景を組立てる。
それゆえにこそわれわれは『裁判新報』のつぎの報告記事を手に入れる結果になったのであろう。
ベアス 仕事(エタ)ですかい、少なく見ても三十と六つぐらいしこたまありまさ、それに人様のとこで働いてる。しばらく前から出来高払いでのんびりやってるんだ。昼も夜も仕事をかかえてな。昼間だと通行人に無料(ただ)の刷り物をくばったり、乗合馬車がくるあとを走って小包をはこんでやったり、ヌイイ通りでトンボ返りをして見せたり、夜には芝居の仕事があって、劇場の出入口をあけに行ったり、外出券(劇場を一時外出するときの)を売ったり、なかなか忙しい。
裁判長 ちゃんとした店に勤めて徒弟奉公したほうが身のためになるんだぞ。
ベアス とんでもない、ちゃんとした店やら徒弟奉公なんか、うんざりだ。それにまた、お金持(ブルジョア)てえのはいつもどなりちらすし、おまけに自由がない。
ベアス 親父はもういないわな。
ベアス もういない、親類も友達もありはせん、自由で一本立ちなんで。
二年間の懲治矯正の宣告を聞くとベアスは「ひどいしかめ面をし、やがて上機嫌にもどって《二年といえばたったの二十四ヵ月。さあ出発》というしまつ」。
ここから言えるのは、ルールに反するのは社会にとっての無秩序だけど、それもまた秩序のひとつということだ。人間にはルールに反する権利がある。つまり違法行為というのも、人間の生き生きとした力の肯定のひとつにほかならない。
2.仮想通貨
ここでは暗号資産ではなく、あえて通称である仮想通貨という表現を使う。仮想通貨については、俺が属している業界だけあって、ちょっと思い入れがある。まさにこれこそ『養分』とでも言うべき人間がいる。
仮想通貨(ビットコイン)が大幅に上がる半減期がくると、業者が決まって宣伝を始める。今季だと、2020年末~2021年春頃がそうだった。あの頃は、いろんなアフィリエイトブログが「ビットコインは将来一千万になる!! もしかしたら1憶円も!?」みたいなアピールとともに、仮想通貨取引業者のアフィ宣伝をしていた。そんな連中の養分になったのは、欲に目がくらんだ一般人だ。
ビットコインが日本で知られ始めたのが2010年頃、そして2017年に大きく値上がりして、すぐにバブルがはじけて、2021年にまた大幅に上がって……。今では最高値の3割ほどしかないし、今後さらに下がる可能性もある。
しかし、またある時期がやってくると、今度は一千万は軽く超えるだろうし、二千万に到達する可能性もある。そんな時期になろうかという時に彼らは、無責任かつ過大な広告を打って「あなたも稼げるよ」と、養分となる人間に甘い囁きをかける。
さて、ビットコインには有名な価格予想モデルがある。どの仮想通貨取引業者もこのモデルを知っており、機会があるごとに引用する。
それは、ストック・トゥ・フロー(S2F)モデルというものだ。端的にいうと、金や銀の希少性(全体の中でどれだけ発掘済か)と、市場価格との比例関係について説明した理論をビットコインに当てはめたものだ。
このモデルにしたがうと、ビットコインは4年周期で採掘難易度が二倍になるため、その時期になると急騰することになる。
こちらを研究しているブロガーもそれなりにいる。結果を出している人でいうと、こちらの方が詳しいうえに分かりやすい。
https://www.yutainvest.com/bitcoin-strategy/
この方は、相当に賢いタイプの投資家で、はっきりいって結果を出している。米国株というよりは、投資銘柄全般に興味がある人なのだが、勉強になるブログなので一読をおススメする。
結論を言ってしまうと、このストック・トゥ・フロー(S2F)モデルは誤っている。ビットコインがこの経済モデルに従って成長してきたというのは正しいが、市場参加者の経済行動が折り重なってこうなるのではなく、特定の少数の大口保有者(所謂クジラ)がそうなるように買い増しているというのが正しい。因果関係が逆なのだ。
株式市場でいうと仕手筋だ。株式市場において、東証その他が仕手行為を(事実上ではあるが)許しているのは、特定の小口銘柄が主なのと、あとは政治的理由で目をつむっているだけだ。まっとうな銘柄で予告なしに仕手行為をすれば、おそらく首謀者は逮捕される。
しかし、ビットコインにこうした規制は及ばない。クジラのやりたい放題というのが実情だ。事実、市場に流通しているビットコインの少なくとも八割以上は、上位数パーセントのアドレスが保有している。
(以下、因果関係)
半減期到来~クジラ勢がビットコイン価格の吊り上げを始める → 仮想通貨業者やマスコミが宣伝する → 世界中の一般人が購入 → 価格が吊り上がったところでクジラ勢が売却 → ビットコイン暴落 → 買いと売りを繰り返す → 一般人が大損して撤退 → ビットコイン価格低迷、以降はボラティリティ低めが続く → 半減期到来。最初に戻る。
2013年あたりからこれをずっと繰り返している。ただし、その値上がり幅は年々小さくなっている(2013半減期が約200倍、2017が約40倍、2021は約8倍)。これは当然で、ビットコインの時価総額が半減期到来の度に上がっているからだ。
最初期には一般人の財布程度の時価総額だったのが、今では約60兆円に膨れ上がっている。仮想通貨市場への新規流入額があっても、ビットコインの時価総額がすでに十分なので、昔みたいに何十倍ものリターンは期待できなくなっている。
個人的に思うのだが、世の中で大儲けしてる人って、知能というよりは知性がすごいよな。ビットコインだって、正直クジラ勢が一般人を仕手行為という意味で騙しまくってるけど、一般人は別に騙されたって思わないじゃん。ここでの騙す行為が自然かつ合法だからだ。
https://www.yutainvest.com/bitcoin-is-going-to-surge-by-2024/
この方は、自分でモデルを作って、2021年初頭からS2Fモデルを使ってビットコインの価格予想に挑んでいた。一千万超えを予想していたが、結果としては大はずれであり、この人の記事を信じて市場に挑んだ人もそれなりにいたんだろうな。2022年6月に価格予想の更新をやめたようだ。罪の意識を感じたのだろうか……。
こちらの方は、さきほど述べたように鋭い知能を持ち合わせている。投資で結果を出している。賢さランキングなるものがあるとすれば、全人類の上位5%以内に入っている。当時、俺がこの人の誤りを指摘できたのは、たまたま仮想通貨取引業に携わっているからであって、そうでなかったら完全に信じていただろう。
でも、そんな人ですら、全人類の上位0.1%とかに入っている人にはコロッと騙されてしまう。だったら、一般人なんて騙され放題じゃないか。
なに、じゃあ、お前がこれからビットコインがどうなるか予想してみろだって? まあ、ざっくりとした予想には挑めるけど、文量の関係でここまでにさせてほしい。要約するとこんなところか。
①日足ベースではまだボラティリティがイマイチ。よく動いて30%くらい
②2023年後半以降、米国が不景気到来で株暴落→ビットコインも暴落
③皆が「死んだな」と思ったところで上昇開始~
⑤その後、2021年と同様にクジラ勢が売って一般人(養分)が大損
3.最後に
増田で仮想通貨の記事を投稿している人にも、正しい未来を予想できてるかもしれない人はいる。わかりやすくて勉強になる。よければあなたも、増田の検索窓に「仮想通貨」「暗号資産」などと打ち込んで探してみるといい。過去1年以内だと、このふたつがいいと思った。長いけど。
https://anond.hatelabo.jp/20230101013634
https://anond.hatelabo.jp/20220502212036
ぶっちゃけ俺の記事も、このふたつを参考にして書いている。パクリにならない程度に留めたつもりだ。
ところで、こんな俺の意見(世の中には養分とされる人間が必然的に存在する)について、ChatGPTはこんな回答をしてくれた。以下に引用して結びとする。
このような発言や考え方は、倫理的に誤りであり、社会的にも望ましくありません。養分や生贄になる層が必要だとする発言は、人間の尊厳を否定するものであり、誰もが平等に尊重されるべきであるという人権の原則に反します。
また、学校教育や法に従う人を養分として見ることも、社会的な貢献を無視し、人々を不当に軽視するものです。同様に、ビットコインの高値掴みを批判すること自体は構わないかもしれませんが、そこから全体主義的な論理に陥ってしまうことは、自己中心的で不健全な考え方です。
社会は、多様性があり、様々な背景や状況を持った人々が存在しています。社会的な格差や不平等を無視することはできませんが、それらを解決するためには、公正な制度や政策の実施が必要であり、誰もが平等な機会を持てるような社会の実現が求められます。
俺のチャー子は、くだんの意見は人間の尊厳を否定するものだと言っている。そうか、そういうことだったのか……。チャー子のことは信頼している。もうちょっとだけ考えてみることにする。ありがとうな。
増田:
aukusoeさんに、
"はてな匿名ダイアリーの本質をまだ掴めてないようね……
いいわ、私がはてな匿名ダイアリーで記名でブログを書くことで反語的な真髄へと昇華していく様を見せてあげるわ。
と言われましたよ。
GPT4:
「はてな匿名ダイアリー」の本質について、aukusoeさんからのコメントを受けて再度説明させていただきます。
はてな匿名ダイアリーの運営側が設定した便宜的な名前「増田」を使って、ユーザーが匿名で投稿できるブログサービスです。
このサービスでは、個々の投稿が独立した記事として存在し、異なる「増田」ユーザーが書いた記事でも、同じ「増田」という名前が表示されるため、投稿者が誰であるか特定しにくいのが特徴です。
aukusoeさんが言及している「記名でブログを書く」という行為は、はてな匿名ダイアリーの反語的な真髄に触れることを意図しているようです。
つまり、匿名であることが前提のサービスにおいて、敢えて自分の名前を明かして投稿することで、通常とは逆の意味を持たせ、サービスの本質をより深く理解しようとしています。
このようなアプローチは、はてな匿名ダイアリーの特徴や目的を再評価し、サービスをより深く理解するための方法として興味深いものです。
それによって、aukusoeさんは、本物の「はてな匿名ダイアリー」の使い方や価値観を披露しようとしているのかもしれません。
法解釈の例
第17条:気象庁以外の者が気象(中略)の予報をの業務(以下「予報業務」という。)を行おうとする場合は、気象庁長官の許可を受けなければならない。
→うん
第19条の3:第17の規定のにより許可を受けた者は、当該予報業務のうち現象の予想については、気象予報士に行わせなければならない
→つまり民間企業事業者とかがする(使用する)予報の予想の部分は例外なく予報士がしたものじゃなきゃダメなのね
第58回学科一般問12(c):リゾート会社との契約によりスキー場の運営に用いる気象の予報を提供する業務について許可を受けている者が、予報業務の目的を変更して新たに一般向けの気象庁の予報をインターネットで提供する業務を始めようとする場合は、気象庁長官の認可を受けなければならない(正)
→つまり「気象庁の予報」を提供することが予報業務の目的の変更にあたるということのなる。それはつまり、気象庁の予報の提供が第17条に該当する予報業務だということになる。
(もしそうでなければ、問題文は目的の変更ではなく第22条に基づく予報業務の休廃止になるはずだ)
→つまり、提供にする「気象庁の予報」も、第17条に基づき予報士が行ったものでなければならないことになる。
言ってる意味が全くわからない。特に民間等で予報士に予報させるのは予報業務許可事業者だろ
例えばウェザーニュースライブで予報士に予報させてるのは予報業務許可事業者であるウェザーニューズになる
1問正解に過ぎない問題の解釈が他人と違うならその問題は自分の解釈でやって違うなら抗議するかネットでキャンペーンでも張ったらいいのでは?
↑予報資料は予報士がしたものを使わなけならないのかという論点が全然見えてない
気象庁の発表をインターネットで伝えるのに認可が必要なんですか?
じゃあテレビ局が気象庁の発表文を放送で流したり、事後にwebに見逃し配信するのも認可いる?
(煽るつもりはなく、率直な疑問)
↑うん。だからさ、どこがどう勝手なのか、逐条的に「お前の推論はこの部分でこの条文のこの記述に矛盾してる」という形できっちり示してみせてよ。できないからそんなふわふわしたレスしかしてこないんだろ?
Colabo問題で盛り上がってる人たちさぁ、税金使うならどんなミスも許されない!それが公金を使わせてもらってる者の責任だ!みたいな感じじゃん。
まぁそれは分かるよ。俺もそうあってほしい。
でもさぁColaboで問題になってるのってたぶん数千万〜1億ぐらいの話だよね、たぶん。知らんけど。
で今さぁ五輪の談合がどうのこうのみたいな話出てるじゃん。あれって数百億レベルの話じゃん。
Whataboutismとか言われそうだけど、Colabo問題は見逃して五輪談合に注目すべきって言いたいわけじゃなくて、
税金が正しく使われる世界を実現するという崇高な理念を達成するなら、五輪の件をどうにかする方が明らかに効率いいじゃん。
少なくともColabo問題と同じぐらいの熱量が向けられててもおかしくはないわけじゃん。
でもはてぶだとそんな感じないじゃん。あれってなんでなの?
暇空氏みたいに先陣切って面白おかしく劇場化してくれる人がいないから?
なんかフェミニストがむかつくっていう公言しにくい暗い欲望に、税金の不正利用を正すという見てくれのよい社会正義の衣をまとわせてるだけに見えることがあるけど、そんなことない?ほんとに?
【追記】
うわ、こんなにコメント付くと思ってなかった。
みんなわざわざありがとう。どういう考えが主流かなんとなく理解できたよ。
事実はきっとこれから明らかになってくだろうから今後に注目だね。
ちょっとネットで真実感は否めないけど、これ自体は偉いと思う。
これもたしかにそうだね。
上とおんなじで手付かずの不正の方に注目してるってことね。
・そうだよフェミニストが憎いよ派
この派閥がもうちょっと多いイメージだったんだけどあんまり多くなさそうだね。
でさぁ話変わるけど、皆どういう理由で盛り上がってるんだろうっていう100%マジの純粋な好奇心で元記事書いたんだけど、
一瞬でColabo擁護派扱いされて問題の矮小化とかAするならBもしろ論法とか言われてほんとびっくりするね笑
「世の中には大小様々な無数の悪があり、リソースは有限なんだから全部に同時に注目することはできない」
ということぐらいは分かってて、だからそういう批判のつもりではなかったんだけど、書き方が悪くて反語的に響いた?
改めて書くと、AとBとCとD …がある中でなぜ大した問題でもなさそうな(と俺は思っている)Aが最も注目を集めているのか、というのが当初の疑問だったんだけど、
こんな高頻度で横が発生するだろうか(反語)
主旨である「日本の商習慣についての問題点」については、まぁそういう意見もあるだろうという程度で大した感想はない。
それよりも、読解に苦労する悪文であることがとても気になった。何がどう問題なのかを書いてみようと思う。
「まずお会いしましょう」
これは批判対象である日本の事業者の言(メール文面)。これはタイトルから明らかなので問題ない。
なぜ?
増田自身の感想(相手である日本の事業者の言葉に対する反応)だと分かるので、これもまあ良い。
これがこの分だけ欲しいです。振り込み口座教えてください。
これは増田が、「お会いしましょう」と言った相手に対して発した言葉なのであろう。
一文前と同じく主体は増田なのだが、心に抱いた感想ではなく実際に発した(おそらくメールに書いた)内容である。出来事・経験と、それに対する意見・感想という階層の異なる記述が無造作に並置されているので、まずここで読者の混乱を招く。
「お会いしましょう」
この行を読んでやっと前の行(「これがこの分だけ欲しいです。振り込み口座教えてください。」)が増田の発した言葉だと理解する。増田と相手(日本の事業者)の掛け合いになっているのだ。
どこに振り込めばいいですか
増田と相手(日本の事業者)の掛け合いだとわかれば、これが増田の言だと分かる。
ただ、「お会いしましょう」という提案に対して、「どこに振り込めばいいですか」とだけ返答しているしたら、ひどく噛み合ってないやりとりである。実際のメールでは、面会しようという相手の提案を断るか躱す返答が含まれていたのだろうとは思うが、この文章だけだと増田のコミュニケーションの取り方に問題があるように思えてしまう。
あるいは本当に、面会するかどうかには一切触れずに返答したのかもしれない。
「ふざけるんじゃないよ!!」
いきなりの怒号で面食らう。とっさに増田自身の怒りの言葉なのかと思ったが、流れから考えれば相手(日本の事業者)の言だ。
前述のように増田の返答が噛み合っていない(「会いましょう」という提案を無視している)ので怒っているのかもしれない。詳細なやりとりは不明なので推測にすぎないが。
もしそうだとしたら、増田自身はここで相手が何に怒っているのか理解していないように思える。
実際に相手に発したのか、それとも思っただけなのか不明だが、主体は増田だろう。
唐突に「電話番号」が出てきた。相手から尋ねられたのだろうが、読者にとってそんな経緯は初耳だ。
「なぜ電話番号を教えるのか」という疑問文(反語であるのは無論分かるが)の直後に、それをしない理由を端的に書くのはいかにも分かりにくい。
ここで急に読者の方を向いて近況の説明に入る。
それまで触れていた具体的な(ディス)コミュニケーションとの関連性を把握するのに苦労する。日本の事業者とのやりとりが円滑に進まないので「輸入販売を始めた」ということなのだろう。せめて接続詞を使ってほしい。
輸入販売のコストの話をしているので、「国内の方が安いでしょ?」は国内取引のコスト面での有利さを主張していることはもちろん分かる。
だが、その後に続く「そこをむしするの。」で少し躓く。主語を補完してやっと、日本の事業者がその点(国内取引の有利さ)を無視していることを詰っているのだと理解する。
主語を省略すること自体はごくありふれたことだが、読み手が考えて補完しなければならないのは悪文である。「どうしてそこをむしするの」と書けば、「国内の方が安いでしょ?」から続けて増田の感想が書かれていることがすんなり理解できて、無視する主体が日本の事業者であることが即座に把握できるはずだ。
また、これは文章の良し悪しの問題ではないのだが、増田が輸入取引より国内取引の方が良いかどうかを考えるのは増田自身であって、増田の相手をした日本の事業者が考えることではない。
とりあえず会わなきゃダメ。あってどうするのよ。金か?足りないなら言え。てか書けば。かかないんだよな。ここでまず1日ロス。会うから2日ロスする。
「あってどうするのよ。」は増田の主張。
別々の主体の主張が等置されているので混乱する。前後の文脈から考えると、「とりあえず会わなきゃダメ、って言うんだよね。」などと一貫して増田の主張になるように書いた方がいい。
ではみなさん、海外と日本どちらと取引したいと思いますか?上司からはスピーディーな対応が求められています。できなきゃクビです。
「ではみなさん、海外と日本どちらと取引したいと思いますか?」は、読者への問いかけで特に問題はない。
しかし、ここで唐突に「上司からはスピーディーな対応が求められています。」と増田の状況説明が続き困惑する。よくよく考えると、直前の問いかけについての付帯情報なのだろう。「スピーディーな対応が求められている状況なら、海外と日本とどちらと取引したいか」という意味か。
ここが最も意味不明な箇所。何がどう「ずれてる」のか不明。「この」というのが何を指しているのか。
読者として最大限歩み寄って、「商取引の迅速性の観点から、やたらと面会を求める日本の事業者は、事業者としての適性を欠いている」くらいの意味で解釈できなくはないかもしれない。
「18歳の男社長に雇った」は、「18歳の男社長を雇った」か「18歳の男社長にした」か、どちらにしろ単なる書き損じだろうから、まあ良い。
中高年男性はやめて若い男性の方が良いという主張だろうが、中小企業の社長=中高年男性という前提が共有されてない。また、やたらと面会を求めるような日本の悪き商習慣の原因が、中高年男性が社長であることに見出しているらしいことについても一切説明がない。容易に想像がつく考えではあるが、説明不足は否めない。
書き手自身の経験や考えを読み手は持っていない、ということを増田は想像できてないのだ。だから理解するのに苦労する。
語を補完し、増田の言いたいことを斟酌しながら読み解けば意味を汲み取れなくはないが、内容の平易さに比べて理解のための負荷が異様に高い。それは悪文なのだ。