はてなキーワード: 訳者とは
あなたは、典型的な美大卒のデザイナーなのだろうなと思いました。
いわゆる、自身の作ってきたものや作るのもに自信を持つ職人気質であるように読み取れました。
広告が金儲けの仕組みとして、正々堂々とした道徳的な業界・仕事であると認識されたのは、30年前ぐらいという認識でいます。(これは2020年版の「不道徳な経済学」(早川書房)、訳者あとがきに記されていたことを元にしていますが、自分は実際は40年位前じゃないかって考えてます。理由は90年代において、既に広告屋が不道徳でないという認識が広まっていたという個人的見解に基づく物です。不道徳な経済学の原本がウォルターブロックという方でアメリカでの話をしている点も個人的見解に影響をあたえています。)
それ以前は、「広告は付加価値を生まないから不要である」と考えられていたようです。
つまり、ここで言いたいのは、あなたが考える広告文化とは30年から40年間でやっと道徳的な仕事であると認識されるようになったという経緯を前提にして考えてみると、道徳的な仕事であるという認識が元から浅かったのではないでしょうか。
また、「広告があるから製品がある」(広告→製品)ではなく「製品があるから広告がある」(製品→広告)という根本的なところについてはどうお考えでしょうか。
私は、広告は製品(ないしサービス)の金儲けを手助けするためのものと考えています。
つまり、金儲けをお助けするのが根本にあると考えており、金儲け(ビジネス)なのですから、お金さえ儲かればどうでもいいのです。
元来、広告とはそのような成り立ちがあったと考えます。つまるところ、広告業界とは表面的な変化は時代に沿って変わってきているが、根本的なところは何一つとして変わっていないと考えています。
さてさて、そもそも「文化」とはとても高尚な表現に聞こえますが、よく悪しき文化としてあがる政治的主張を暴力で解決する戦争だって人間の文化です。(戦争は文化で美しい!という思想をもっていましたら、ちょっと伝わらないかもしれないのですが...。)
デザイナーにありがちな、自信の仕事を高尚なものであると考える誤解はほどほどになさった方がよいかと思いまして、コメントさせていただきました。
新潮社のトマス・ピンチョン全小説の『V.』を読み返していたら、ちょっと気になる箇所があって、これは原文ではどうなってんだろうと、図書館で原書を借りてきてみました。そしたら、あれ、もしかしてこれ、この翻訳ひどい?
というわけで、原文と翻訳を照らし合わせたうちで、これはいくらなんでもという箇所を以下で検証していきます。
この段落はニューヨークの下水道に巣食うワニを狩るパトロール隊として雇われているプロフェインという男が第五章で書かれたワニ狩りのことを回想しているというところです。訳文とそれに対応する原文を引用していきます。訳文の引用は『V.』上巻の217,218頁から。
フェアリング神父の教区を抜けてイースト・リヴァー近くまで、独りで追っていったワニのことを、プロフェインは振り返ってみた。
He thought back to the one he'd chased solo almost to the East River, through Fairing's Parish.
「抜けて」とありますが、第五章を読めばわかるようにプロフェインは教区を抜けていません。ここのthroughは「~の間を通って」の意でしょう。
ちなみにフェアリング神父は下水道でネズミにキリスト教を布教しようとしていた人物です。
そいつは、みずから歩をゆるめて追いつかせ、自分から求めるように撃たれていった。なにか取り決めでもあったのか。プロフェインが酔っぱらってか欲情してか、頭がポワンとしていたとき、ワニの足跡だらけの泥の上で、契約を交わしたのか?
It had lagged, let him catch up. Had been looking for it. It occurred to him that somewhere--when he was drunk, too horny to think straight, tired--he'd signed a contract above the paw-prints of what were now alligator ghosts.
「なにか取り決めでもあったのか」という訳文に対応する箇所がない。
これに対応するらしき原文はこのあと出てくるのですが、なぜここに置かれているのかわかりません。それ以外にも問題がありますが、それは後述。
It occurred to him thatが訳されていない。
tiredが訳されてない。
of what were now alligator ghostsが訳されていない。
この段落ではこのalligator ghostsなるものがどういう存在なのか、このあと縷々綴られていくので、これを落としてしまうのはちょっと。ここは訳すなら「今や幽霊であるワニたちが、かつてそうであった存在の」となるのでしょうか。あまり自信はないですが。
プロフェインはワニに死を与える、ワニは彼に職を与える、それでイーヴン、恨みっこなしと。
Almost as if there had been this agreement, a covenant, Profane giving death, the alligators giving him employment: tit for tat.
Almost as if there had been this agreement, a covenantが訳されていない。
上に出てきた「なにか取り決めでもあったのか」が訳文なのかもしれないけど、this agreement, a covenantとわざわざ言い直して二回言っているのを「取り決め」の一語にまとめるのはどうなんですか。しかもcovenantなんて「(神との)聖約」という強い意味の語なのに。そんな語がワニ相手に使われているというのがこの文のミソだと思うのですが。うーん。
プロフェインにワニは必要だが、ワニはなぜプロフェインが必要だったのか。その原始的な脳の回路に、記憶と理解が生じていたのか。子供のころ自分たちはただの消費財で、財布やハンドバッグになった両親や親戚のおじさん、おばさんたちと一緒に、世界中のデパートで、あらゆるガラクタと一緒に陳列されていたことを覚えていたのか。
He needed them and if they needed him at all it was because in some prehistoric circuit of the alligator brain they knew that as babies they'd been only another consumer-object, along with the wallets and pocketbooks of what might have been parents or kin, and all the junk of the world's Macy's.
息の長い原文を切って日本語として不自然じゃないようにしているのでしょうが、かえって意味のつながりが見えにくくなっているような。
おかげで分かりづらい。これでは「必要だったのか」「生じていたのか」「覚えていたのか」と三つの疑問文がただ並列されているように見える。せめて「生じていたのか」「覚えていたのか」を「生じていたからなのか」「覚えていたからなのか」にした方が良いのでは。
the world's Macy'sを「世界中のデパート」としているのは明らかに誤訳です。メイシーズは基本的にアメリカにしか展開していないようですし、なによりもこの挿話の元になった都市伝説はニューヨークのメイシーズで、ペット用に売られた赤ちゃんワニがトイレに流されて下水道で成長していたというものだったわけです。なのでthe world'sはここでは「ここらの界隈の」みたいな意味ではないでしょうか。
あと英語の仮定法を日本語の疑問文で訳すというのは翻訳のテクニックとしてアリなのでしょうか。いや、アリならアリで全然いいんですけど。ただの素人なのでよくわかりません。
トイレを通って、地下の世界に流れてきたのは緊張の中の束の間の平和に――いずれは子供の、見かけだけ動きのあるオモチャに戻っていくしかない、それまでの借り物の時間に――すぎなかったのだろうか?
And the soul's passage down the toilet and into the underworld was only a temporary peace-in-tension, borrowed time till they would have to return to being falsely animated kids' toys.
トイレにジャバーっと流されて下水道に流れ着くという事態を「魂の道行き」なんて大げさな言い方をしているのが、面白いところなのになんで訳されていないのか。あとダッシュをいれて「――いずれは子供の(中略)借り物の時間に――」と挿入するくらいなら原文の語順通りに訳したほうがわかりやすいように思えます。
もちろん自分から望んでのことではない。望みは、もとの自分たちの暮らしにある。それを叶える完璧な形は死ぬことだ。死んで、ネズミ職人の歯によってロココ様式の死骸になることしかない。そしてそのまま、教区の聖なる水に浸食され、あの日、あのワニの墓場を明るく満たした光のような燐光を発する、アンティークな骨細工になっていくしかない。
Of course they wouldn't like it. Would want to go back to what they'd been; and the most perfect shape of that was dead--what else?--to be gnawed into exquisite rococo by rat-artisans, eroded to an antique bone-finish by the holy water of the Parish, tinted to phosphorescence by whatever had made that one alligator's sepulchre so bright that night.
to go back to what they'd beenが「もとの自分たちの暮らしにある」でいいんでしょうか。このあとに続く文に則して意味をとるなら「暮らし」では変では? それに原文はto go backなのに「帰る」という意味が訳文から感じとれないです。
さて、ここから先が問題です。ここは第六章の中で非常に重要な段落の中でも、さらに重要な一文だと思うのですが、まともに訳されていなくて頭をかかえました。
まず、ダッシュで囲まれたwhat else?が訳されていない。
「しかない」という形で間接的に訳されていると言えるかもしれませんが、それでもこれを落とす理由にはなりません。
exquisiteが訳されていない。
tinted toが訳されていない。
by whatever以後の節を「燐光」にかけて訳していますが、これは英文解釈的に無理なのではないでしょうか。また、そのせいなのか原文の語順がぐちゃぐちゃにされてしまっています。なぜeroded to an antique bone-finishとひとまとまりなっているのを千切って「浸食され」と「アンティークな骨細工」をかけ離れたところに置いているのでしょうか。
原文を素直に読めば、ワニは死後、gnawed-齧られてrococo-ロココ彫刻になって、そのロココ彫刻がeroded-浸食されてan antique bone-finish-骨仕上げのアンティークになり(bone-finishというのは妙な言い方ですが、matte finish-つや消し仕上げをもじったような表現だととりました)、そのアンティークがtinted-染められてphosphorescence-燐光になると読めます。
つまりワニの死後、時間の経過によってワニがどのように変貌していくかの推移を追うことができるように読めるわけです。しかし翻訳ではそのように読むことはほぼ不可能です。
さらにこの段落の一番最後に来るのは原文ではwhatever had made that one alligator's sepulchre so bright that nightなわけで、ここに意味上の大きな負荷がかかっていると思えるのですが翻訳では「燐光」の前に置かれて目立ちません。
これでは、4コママンガのコマの順序を入れ替えてしまったために、オチの意味がわからなくなっているようなものです。
ここのところをわたしなりに試しに訳してみたので、ここに置いておきます。
そして、その望みの最も完璧な形とは死ぬこと――他に何があろう?――であって、そうして工匠ネズミに齧られて精妙なるロココ彫刻とされ、教区の聖なる水に浸食されて骨仕上げのアンティークになり、何ものかに染められて澄んだ緑色の燐光と化すのであり、そしてその何ものかこそ、あの晩、あのワニの地下埋葬所をあんなにも輝かしく光らせていたのだ。
(phosphorescenceという単語を見ていたら、どうしても『宝石の国』のフォスフォフィライトの顔がチラついてしまったので「澄んだ緑色の燐光」としてしまいました)
とにかく第六章にはここ以外にも訳されていない語、節、文がたくさん出てきます。他にも誤訳、誤訳とは言いにくいけどおかしい訳もままあります。誤訳ではなくてもあまり使われない珍しい単語が使われていたり、凝った表現がされていたりするところが、平易な分かりやすい、いいかえれば、ありきたりでつまらない日本語になっていたりします。
いったいなんでこんなことになっているのでしょうか。ピンチョンが好きでこの『V.』も何度も繰り返し読んできたというのに、今まで読んできたものは何だったのかという気分で、ショックが大きいです。
共訳者の一人、佐藤氏は何十年もピンチョンの研究、翻訳をされてきた人で、こんな訳をするとは思えないのですが。それとも、このころ『重力の虹』の翻訳に集中していて実は『V.』にはあまり関わっていなかったとか? しかしもうひとりの小山氏もイギリスの大学院に留学して英語の著作もある人だそうですし。学生に下訳させて、ろくに直さずに出版したとか? まさか。
ただ原文を横において検討したのは第六章だけなので他の章はちゃんとしている可能性はあります。わたしの英語力では全文チェックするなんてとうてい無理なので、誰か英語を読むのが苦ではなくて、現代アメリカ文学に詳しい人に『V.』全編の翻訳をチェックしてみてほしいです。
なんて事をさ、「物語には全ての内容を入れておかなければならない」と主張する連中がよく持ち出すけどさ。それ、勘違いしてるぜw
洋文学がありのままを読ませるってのは、別に洋書が物語中で全ての内容を表現しているから行間を読む必要が無いからじゃなくて、むしろ説明が不足していて行間を読みようがなくて突っ込めばキリがないからありのままを受け入れるしかないってそういう意味なんだってw
ていうか日本語に訳されている本って、少なくとも相当なレベルで「意訳」されているものだし、さらに「超訳」で訳者が日本人に読ませるために原書に書かれていない事を追加して補うみたいな事をしている物もあるわけで。
ウォール街、「#MeToo」時代の新ルール-とにかく女性を避けよ - Bloomberg
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-12-03/PJ5GIH6JTSEL01
話題のこの記事、前半の抜粋部分しか日本語訳されてないので前半しか見てない人が多いと思うけど、
後半に『アフターパーティー(飲み会での打ち合わせなど)をなくす』とか『ドアが開いたままのボスとのプライベートミーティングをする』『ミーティングに第三者を呼ぶ』などの対策が挙げられていて、
最後にContext Capital Partnersのロン・ビスカルディ最高経営責任者(CEO)の
「ゲス野郎にならなければいい話。 それほど難しいことではない」
また、『There’s a danger, too, for companies that fail to squash the isolating backlash and don’t take steps to have top managers be open about the issue and make it safe for everyone to discuss it, said Stephen Zweig, an employment attorney with FordHarrison.』とあるので、
me tooを恐れて女性を仕事から遠ざけてしまうことで、セクハラ訴訟から性差別訴訟に発展するだろうと書いてある。
単純に『Avoid Women at All Cost』ではコスト回避にならないという結論だ。
どうして前半しか訳されてないのか。
城の床板にこっそり、大工が書いた19世紀フランス農村の赤裸々な秘密
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44412442
この記事は今朝から話題になっているが、日本語版記事に重大な誤訳がある。
チェッカーもこれを見逃しているとは、BBCの翻訳品質管理はかなりひどい。
日記の作者Joachim Martinを「ジョアキム・マルタン」としているが、これはフランス語では間違いだ。
フランス語でのこの名前の正しい発音は「ジョアシャン・マルタン」だ。
これほど基本的なことをだれも指摘していないというのは、本当に驚くべきことだ。
バゲット(baguette)をバケット(bucket)と発音して憚らない、どっちでもいいじゃん、とうそぶくのと、おなじ知的レベルなので、納得いくといえばいくだろう。
性犯罪を形容する言葉として「魂の殺人」というものが用いられているのをよく見る。
数年前に私が初めてその言葉を見たときもその用法で使われていた。
#Metoo運動もまだなく、ジェンダーについての議論もそれほど活発ではなかった頃。その時私は、この言葉は虐待を形容するのにもドンピシャだなと思った。
自分の中のごちゃごちゃとした気持ちが正しく簡潔に表されるというのは気持ちがいいもので、こんなに的確な言葉を使うことができて羨ましいと思った。
その「魂の殺人」が元々児童虐待を表す言葉だったと知ったのは最近のこと。
アリス・ミラーというスイスの心理学者の著書だ。彼女は児童虐待について研究していたらしく、この本もそのことについて書かれているらしい。
らしい、という言葉遣いからお察しの通り、私はこの本を読んでいない。読んだらものすごくスッキリするか、ものすごくしんどくなるかのどっちかだろうなと予想できるからだ。こういう予想ができるだけに、それが大外れして何も変化がなかった時の落胆も酷そうだから今は読みたくない。
閑話休題。
「魂の殺人」というのは邦題で、原題は"For Your Own Good" 英語は得意ではないから自信はないけれど、さしずめ「あなたの幸福のために」といったところだろうか。
原題とかなり違うので気になって文中検索をかけたところ、確かにアリス・ミラーは"murder the child's soul","psychic murder","Soul Murder"という言葉を使っていた。さらに、彼女よりも先にモートン・シャッツマンという人が"Soul Murder"というタイトルで教育熱心な親による子供への迫害について綴った本を出版していたことも分かった。こちらの本も「魂の殺害者」という邦題で「魂の殺人」よりも後に日本で出版されている。
「魂の殺人」の訳者は「あなたの幸福のために」よりも「魂の殺人」(≒"Soul Murder")のほうがよりインパクトがあり、より虐待について書いたことが分かりやすいと判断し、そちらを邦題に選んだのだろう。
「魂の殺人」という言葉は、この本が出版された1983年、虐待を意味する言葉として使われたのだ。
元は幼児虐待を形容するための言葉だったと知って、深く納得するとともに、自分の道具を取り上げられたみたいな気持ちになった。
私は性犯罪被害で苦しんだことはないから分からないが、私が最初にその言葉を見た時みたいに、性犯罪被害者の人もドンピシャだと感じて使うようになったのかもしれない。自分の魂はソレによって殺された、と。
もちろん、偶然という可能性もある。1983年よりも先に別の人が性犯罪を形容するために使っていた可能性だってある。
私が今後虐待を形容する言葉として「魂の虐待」を使用しても何ら問題ないし、使うなとまだ誰かに言われたわけでもないから「取り上げられたみたいだ」という気持ちは完全な被害妄想だ。けれどもう既に私の中では「魂の殺人=性犯罪」というイメージがついていたから、私と同じくそういうイメージを持った人に何か言われるんじゃないかと思ってしまうし、とても使いにくい。
「被虐待児のための言葉だ」とか「(だから)使うな」言う気は毛頭ない。言う権利もない。けど、やっぱり使われている場を見ると少しモヤモヤしてしまうようになった。
かねてより、ジェンダーについての議論が活発になされている場を見るたび、虐待についてももっと世間の目が行けばいいのになと思っていた。その羨ましさと、この「魂の殺人」という言葉をめぐっての私の色んな気持ちが混ざってゴチャゴチャしている。
とりあえず、
『ある心理学者は、幼児虐待を"Soul Murder"と形容することにし、
ご無沙汰しております。昨年、「憲法第二条改正論」というエントリーを書いた増田です。
今日は憲法記念日なので、憲法第二条改正論について、あらためて書いておきたいと思います。
まずは、昨年と同様、日本国憲法第二条の引用から始めましょう。
昨年のエントリーで指摘しておいたように、皇位を世襲のものとすることには、二つの点で問題があります。一つは、皇嗣として生まれてきた者や、彼の配偶者にさせられた女性に対して人権侵害を引き起こすということ、そしてもう一つは、天皇にふさわしい資質を持たない者が天皇になる危険性を孕んでいるということです。
昨年のエントリーでは、皇嗣の配偶者に対する人権侵害については少ししか触れませんでしたので、今日は、その点について、もう少し踏み込んで論じておこうと思います。
まず、もしもあなたが、天皇制に関心があるにもかかわらず、Ben Hillsさんが書いたPrincess Masako Prisoner of the Chrysanthemum Throne: The Tragic True Story of Japan's Crown Princessという本をまだお読みではないならば、ご一読を強くお奨めします。藤田真利子さんが訳した『プリンセス・マサコ:菊の玉座の囚われ人』という日本語版も、第三書館から出版されています。
藤田さんも「訳者あとがき」の中で述べているように、Ben Hillsさんのこの本は、さまざまな読み方ができると思います。しかし、どんな読み方をしたとしても、この本を読んだ者は、原書のサブタイトルで謳われているとおり、the tragic true story(悲劇的な真実の物語)をそこに見出すでしょう。多くの国民は、小和田雅子さんという一人の女性を襲った悲劇について、あまりにも無関心すぎると私は思っています。
雅子さんを襲った悲劇は、皇位の世襲制と無関係ではありません。もしも皇位が世襲のものではなかったならば、雅子さんも、これほどの苦痛を味わうことはなかったでしょう。雅子さんを襲った悲劇について単純に語ることはできませんが、強いて論点を一つに絞れば、それは、人格を否定されて「産む機械」たることを期待されたという点に集約されるでしょう。
雅子さんが愛子さんを出産した3年後の2004年(この時点では悠仁さんはまだ誕生していない)に、雅子さんの配偶者が記者会見で語った言葉を覚えておられる方も多いでしょう。
誕生日の会見の折にもお話しましたが,雅子にはこの10年,自分を一生懸命,皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが,私が見るところ,そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや,そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です。
徳仁さんは、「人格を否定するような動き」が具体的に何を意味しているのかを明らかにしていませんが、おそらく、「やはりもう一人ほしい」という湯浅利夫宮内庁長官(当時)の発言が念頭にあったものと思われます。
おそらく皆さんは、2007年に、「女性は産む機械」だと柳澤伯夫厚生労働大臣(当時)が発言して、激しいバッシングが起きた事件を覚えておられることでしょう。湯浅さんの発言も、柳澤さんの発言と軌を一にしているにもかかわらず、バッシングが起きなかったのはどうしてでしょうか。国民の多くも、雅子さんを「産む機械」としか見ていないからではないでしょうか。私たち国民は、もう少し、雅子さんに対する加害者意識を持ったほうがいいのではないでしょうか。
「やはりもう一人ほしい」と湯浅さんが発言した背景にあるのは、皇位の世襲制です。現行の天皇制を維持するためには、皇族に嫁いだ女性の誰かが男子を出産するということが不可欠です。したがって、湯浅さんという個人を非難することはできません。非難しなければならないのは、憲法第二条です。そして、その条項を放置している私たち国民です。
(皇室典範第一条を改正して女性天皇と女系天皇を認めれば、皇嗣の配偶者に対するプレッシャーを緩和することができる、という反論も予想されますが、それは根本的な解決ではないと申し上げておきましょう)
今日のエントリーでは、天皇ではなく、皇嗣の配偶者の人権について述べたわけですが、天皇が日本国の象徴であるならば、彼の家族たちも、日本国の象徴に近い地位にあると考えていいでしょう。したがって、日本という国家は、人権侵害の被害者によって象徴されているということになります(なんだか、むしろそのほうが正しいような気がしないでもありませんが)。
憲法第二条が現行のままだとすると、雅子さんを襲った悲劇は、悠仁さんの配偶者となるであろう女性にも襲いかかるでしょうし、さらに未来の男性皇族たちの配偶者についても同様でしょう。
小説を読むと、巻末に、解説という名の「他人の感想文」が載っていることがある。
私はこれがとにかく嫌いで、解説があるだけで購入をためらうほどだ。
時代背景や著者などについて、しっかり説明をしてくれる「解説」はあまりに少ない。(私の読む範囲では)
「解説」と銘打ちながら役割を果たそうとせず、あらすじをなぞる程度だったり、どうでもいい感想を述べている。
それを書いているのは著者の知人だとか、オファーによる内輪的なノリだから、内容も自然と媚びるようで、はたから見ていて寒いのだ。
訳者あとがきは大丈夫かと思えば、他作品をこき下ろす人もいて油断ならない。
(確かローワンだったか。「ハリポタが流行っているけど訳者はこちらの方が面白いと思う」等と書いていた。
どちらを面白いと思うかは読者が決めることで内輪の人間が主張することではない。
著者でもない人間が本自体の印象を下げる行為は慎んでもらいたい)
では解説というタイトルでなかったら良いのかというと、それは違う。
あんなに私的な文章を、作品と同じ媒体に含めてしまうことが理解できないし、納得もできない。
他人の「特別に載っている」感想で、作品の余韻が消し飛んでしまう。
製本されている以上、カバーから奥付まで全て含めて本だから、割り切るのは難しい。
例えるなら、映画のエンドロールで突然ワイプが出てきて知らない奴が感想を喋り出す。
または、絵を見に行ったら他人の感想が作品に直接糊付けされていた…という感じ?
カレ、カノ、カレラの乱用。翻訳者は代名詞が何を指しているのか全くわからずに訳している。さらに、学校英語かと思うかのような訳で、とりあえず辞書の一番上の意味を当てはめておけば問題ないかとはいうようなセンス。難解ではない一般向けの本だというのに、一文一文、まるで数学書を読むように行間を考え、意味を理解するために紙にメモを取る。話の内容の難しさからこの作業が必要ならば良いが、日本語が下手すぎるところからこの作業が強いられることにイライラが募った。
こんなんが翻訳家を名乗っているのもすごいと思うが、もっとすごいのは高評価をする読者である。
アマゾンのレビューに翻訳の酷さを指摘するコメントはなく、星も4を超えている。読み易いなんていうコメントもあるが、その人に理解できているのかを問いたい。なんとなく雰囲気だけを読み、理解した気になっているのではないのか。意味が通っていない誤訳が多々あるのに理解できるとは、どういった超能力を持っているのか、是非ご教授願いたいものだ。
付け加えてムカついたのは、ちゃっかり訳者あとがきを書いてきたところで、文化の相互理解の助けになることを願うと書いている。しかし、理解の助けにならない、むしろ誤解を与えているから、早く訳を直すべき。
それは精神科医が科学的観察の名の下に他者を対象化し、批評し、自分だけはあなたたちと違うのですよという、いわば安全圏に自分を隔離しておいて、医者ー患者という権力関係あるいは上下関係を押し付けてくるからだ。
医者がどれほど自分を貶めて留保しようとも、自然科学の客観性を装って行われるそのようなマウンティングがもはや無邪気といってよいほど無自覚に行われているのを、読者は敏感に察知して、よけいに苛立つことになる。
この関係性とその欺瞞性については、ミシェル・フーコーが『精神医学の権力』という講義で、19世紀の精神医学を例に詳しく分析して批判しているので、興味のある向きは参照してほしい。
「精神医学の権力」講義は、そのタイトルから推測されるとおり、自らを科学と称する精神医学が実は権力のテクノロジーによって徹底して貫かれているということ、そして精神医学的な知が科学的な知とは全く無縁のものであるということを告発しようとするものである。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/pdf%20files/le%20pouvoir%20psychiatrique.pdf
この「医者ー患者」という権力関係が、「社会批評家―批評の対象としての世代グループ」の関係に無邪気に重ね合わされるとき、読者の反応が「何様のつもりだ」というものになるのは、無理もないことと思う。
ダーリンインザフランキス4話目のキャプ(公式か非公式かわからないけどほぼタイムラグなしで英語字幕つきのものがネットに上がっている)で、02の台詞の「ボクに乗りたいの?」が「You wana ride me, huh?」になってた。
また、02は「ボクに乗りたいの?」とは言うが「ボクに乗りたいのか?」とは言わない。一人称がボクであること以外は女の子の喋り方だ。もし「ボクに乗りたいのか?」だったら喋り方全体がより少年っぽく堅い、ひいては自己決定として少年的なそれの持ち主だということになる。「か」の有無だけでガラリと変わるこういうニュアンスも英語では伝わらない。
02のような自信満々で攻撃的で実力のある女は英語圏では大人気なので02は大ヒットしているが、未だにボクっこだと気付いてない人が大勢いる(日本語音声で観てても結構聴き分けられないらしい)。もっといえば15のようなキャラのニュアンスはもっとわからないのかもしれない。「謝らないで」と「謝るな」と「謝んな」はどれも全く違う。その一言だけでどんな類型のキャラかとか16とどんな関係性かとか情報が大量に入っている。そういうのが英語で翻訳するのが不可能だ。
どうも英語の会話を見ていると、そういうニュアンス表現力の乏しさは声の抑揚や顔の表情で補ってるような気がする。だから日本人だと芸能のクロウト以外はかなり一本調子の抑揚でしゃべるのに対して、英語話者は一般人でも声がかなり乱高下するし顔のジェスチャーが多い。
へび、おろち、だ、み、じゃ、だいじゃ、すねーく、ぼあ、ばいぱー、くちなわ、どくへび、ながむし
英語も蛇は色々あるけど、フィクションで使うには日本語の方がいろんなキャラや技や伝承を表現しやすいと思う
というか英単語をとっくにとりこんじゃってるのはずるい。ずるいけどちからだ。
「くじゃのへびひめことぼあ・はんこっく」とかいうキャラが平然と出てくる。
うーん
これについては最初に「少年のような話し方」と「女の子の喋り方だけど一人称だけボク」の、繊細だけど大きなニュアンスの違いについてをあらかじめ書いたんだけどなあ ゼロツーの台詞の文章を全体的に少年ぽくしても「女の子の喋り方だけど一人称だけボク」なニュアンスは表現されないよねっていう
とか文字でモリモリと凄みとか中二分とか盛っていくこともアルファベットオンリーだと出来ないし
「ボク」と「ぼく」と「僕」で全部人格やイントネーションや示唆するものが違ってくる~なんていう使い分けも出来ないし
アニメくらいでしかみかけない珍妙な一人称や語尾のキャラクターを取り上げてフィクションのくくりで言語の優位性を語ってしまうキモオタ…これが若さか
・アニメの喋りでのニュアンス表現力の話をしてるのに「アニメくらいでしか見かけない!」って
・ボクっこを例に取ったけど珍妙な語尾のキャラの話なんて出てきてない気がする
例えばふつーの社会人男性キャラの一人称について、ワタシかワタクシかボクかオレかだけでも
人格やニュアンスにグラデーションが出るしハイコンテクストデータベースへの接続も開かれる
珍妙な一人称や語尾に限った話をしてる訳ではないし、読み取る能力がある他の人は既にそれは理解してると思う
この人もそうなんだけど、
一応こちらとしては広く適用できる具体的な用法・長所を述べているのだから
反論も具体的な英語の長所や日本語の短所の提示でなければ反論たり得ないのでは
具体論に対して具体的な反論なく「ネイティブだからそう思うだけ!」とか「キモオタ!」では
読む価値が無い
正直言うと、
こういう乱暴なエントリを書けば英語に造詣の深い人が具体的な反論でビシバシとしばいてきて英語についての勉強が出来ると思ったんだけど、どうも自分(英語苦手です)と同程度までの英語力の人しかいないっぽいな
以下は最近グーグル社員が社内でダイバーシティに反する差別的?文書を開示したという理由で解雇された騒動において、問題となった文書「Google’s Ideological Echo Chamber」の日本語訳です。底本は米ニュースサイトMOTHERBORDが入手したPDFを利用しています。この案件ははてなでも注目されたようですが、その反応をみるにほとんどの人が原文を読まずにコメントしているようなので参考のため翻訳してみました。訳者は別に英語を仕事にする人でも特段英語能力の高い人でもないので、この日本語訳自体を引用して何か言及するのは恥をかく可能性があるので薦めません。また誤訳の指摘は歓迎です。なお、参考リンクについてはグーグルの内部ネットワークに繋がるもの以外は全て記載しましたが、ウィキペディアにリンクしている部分は参照している記載が削除されてしまっていたりするので、この文書が作成された7月あたりの版を読む必要があります。
バイアスが多様性と社会的包摂についての私たちの考えをどのように曇らせるか
私は多様性と社会的包摂に価値を置くし、性差別の存在についても否定しない。ステレオタイプを利用することも認めない。私たちが集団における登用ギャップを解消しようとする時、必要なのは集団レベルにおける分布の違いに注目することだ。もし、このことについて誠実な議論ができないのであれば、私たちは真に問題を解決することなどできない。
心理的安全性は相互尊重と受容によってつくられるが、不幸にも私たちの恥ずべき文化と欺瞞は残響室の外にいる人間を尊重しないし、受け入れもしない。
そのような公的反応にもかかわらず、私はこれらのとても重要な問題提起に対してグーグルの同僚たちから多くの個人的賛辞をもらった。彼らはこの問題提起には同意するが私たちの恥ずべき文化と解雇の可能性のために声をあげることも擁護することもできない。このような状況は変革されるべきだ。
人は一般に善良な意図を持っている。しかし、私たちは皆自覚のないバイアスを持っている。感謝すべきことに、物事を鵜呑みにしない人々による開かれた誠実な議論は私たちに見えていない物事を照らし出し、私たちが成長するのを助けてくれる。それが私がこの文書を書いた理由だ[2]。グーグルにはいくつかのバイアスがあり、このバイアスに関する誠実な議論は支配的イデオロギーによって沈黙させられている。ここからの記述は完璧なストーリーではないが、グーグルで是が非でも語られるべき視点だ。
グーグルにおいて、私たちは人種やジェンダーに由来する無意識のバイアスについてとても多くのことを語る。しかし道徳的バイアスについて議論することはまれだ。政治的指向は実際には深層の道徳的選好の結果であって、すなわちバイアスなのだ。社会科学とメディア、それからグーグルの圧倒的多数が左派寄りであることを考慮して、私たちはこれらの偏見を批判的に吟味すべきだ。
左派バイアス | 右派バイアス |
---|---|
弱者への共感 | 強さ/権威の尊重 |
不平等は不正のせいである | 不平等は自然であり正しい |
人間は生来協力的である | 人間は生来競争的である |
変革は良い(不安定) | 変革は危険だ(安定) |
開放的 | 閉鎖的 |
理想主義的 | 実利的 |
どちらの側も100%正しくはないし、どちらの視点も機能する社会、この場合は会社に必要なものだ。極端に右派的な会社は反応が鈍いかもしれないし、あまりに階層的かもしれないし、外部を信用しないかしれない。対照的に極端に左派的な会社は継続的に変化するだろうし(愛されているサービスを非難する)、あまりに関心を多様化させるし(コアビジネスを無視するか、恥ずべきことと思う)、あまりに従業員と競争相手を信用しすぎる。
事実と理性だけがこれらのバイアスに光を当てられる。しかし、多様性と社会的包摂の話になると、グーグルの左派バイアスは恥によって反対者を沈黙に追い込むことによって固定化される政治的正しさの単一文化を作り出す。この沈黙は侵食する過激派と権威主義的ポリシーに対するあらゆる歯止めを除去する。この文章の残りで、私は社会的成果の違いは差別的取り扱いと平等な登用を作り出すために実際上の逆差別を義務付けられる権威主義的要素によるものだという極端な立場に焦点を合わせる。
グーグルにおいて、私たちはいつも黙示(無意識の)、明示のバイアスが女性を技術職と管理職から疎外していると語られる。もちろん、男性と女性はバイアスや技術や職場を異なった形で経験するし、それを私たちは認識すべきだ。しかし、それだけで全ては説明できない。
平均して、男性と女性は多くの点で生物学的に異なっている。これらの違いは社会的に構築されたものだけではない。
なぜなら:
注意:私は全ての男性が全ての女性と以下のように異なっているとは言っていないし、違いが”正しい”とも言っていない。私は単に男女の選好と能力の分布がある程度生物学的な理由により異なっており、これらの違いは技術職と管理職において平等な女性登用が見られない理由を説明するかもしれないと言っている。これらの違いの多くは小さいし、重要なことに、そこには男性と女性とで重なり合う部分がある。そうであるから、これら集団レベルでの分布から男女個人について言えることは何もない。
(チャート画像)(https://video-images.vice.com/_uncategorized/1502146696203-Screen-Shot-2017-08-07-at-65310-PM.png)
下段:人々を集団的アイデンティティに単純化し、平均が代表だと仮定することはこの重なり合いを無視する(これは悪いことであり、私はそれを認めない)
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長すぎたのか投稿できなかったので分割。
夕方、NHKの野球中継で解説者が「左打者のあの打球はラインドライブがかかっているからファールになりがち」みたいな話をしていた。
日本の野球用語で「ラインドライブ」と言えばファウルライン方向に打たれた打球に、スライス回転というか、シュート回転というか、体の反対方向に曲がるようなスピンがかかっている事を指しているような気がする。
メジャーリーグでも「ラインドライブ」という用語は使われるのだが、こちらは日本語でいうところの「ライナー」を指す。いや「ライナー」は英語としてもちゃんと通じるらしいが、「ラインドライブ」はゴロでなく、山なりでもない、まっすぐ飛んでいく打球の事を指す。センター方向に飛んでもライナーなら「ラインドライブ」だ。イチローはそういう打球をよく打つから「ラインドライブヒッター」だ。回転のことは関係ない。
■「モチベーション 3.0」 https://anond.hatelabo.jp/20170729215932
このダニエル・ピンクの著作の原題は「ドライブ」である。訳者の大前研一がこれでは日本で意味が通じないと「モチベーション3.0」に変更した。
どうして日本では「ドライブ」を「回転」のことだと刷り込まれてしまったのか?。これはキャプテン翼のせいではなかろうか。
翼君の必殺シュートは「ドライブシュート」である。強烈な回転がかかっていてすごく曲がり、落ちる。ディフェンダーの届かない頭の上を越えてからゴールに向かっていくので誰も防げない。これでドライブ=回転のイメージが広まってしまったのではないか。
ライバルの日向君の必殺シュートはタイガーショットである。こちらはただ強烈なボールが直進してゆく。バックスピンがかかってるのかもしれないがそんな説明はなかった気がする。これこそ「ラインドライブ」そのものである。高橋陽一はこっちの方に「ドライブシュート」の名前を付けるべきだったのかもしれない。そうすれば「モチベーション3.0」は「ドライブ」のまま出版できたはずである。