はてなキーワード: 戒律とは
このようなボット同士のやりとりがますます公になるにつれて、人々はこの現象に名前をつけ、「Dead Internet Theory 」に落ち着いた。この理論は主に2つの主張からなる:
2. 人間の行動を操作する目的で、影の「彼ら」がこのようなことを行っている。
理論の前半は真実のようだ。数段落前のボットの数字を見てほしい。インターネットは常にボット、あるいは少なくとも自動化された行動で溢れていた。ジェネレイティブAIの普及に伴い、私たちはボットがネット上で人間を置き去りにする新たな方法を見ざるを得なくなった。コメント欄は読むな、という何世紀も前の格言がある。コメント欄が自動返信やオマンコウイルスで溢れかえっているのは、私たちの思い上がりに対する罰なのだ。最初の戒律を破ったのは誰なのだろう?
う~ん、それは違うんじゃないかな。日本人ほど戒律が好きな民族(国民)は
いないと思うよ。西欧においては、国家の成立過程からして契約や法律などのルールに
敏感な一方で、人種や民族が混在していることから宗教の戒律においては柔軟性を持ち合わせて
いるよ。カトリックからプロテスタントが分派したことはまさしく
無教会主義の台頭による戒律の形骸化でしょ。
宗教ってなんで日本で流行んないんやろな、なんて話が上がっていたが、
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6161383.html
たとえば相撲の土俵に女性が上がってはいけないなどの掟は一種の戒律のようなものだけど、
厳格にそれを守ろうとするのはごく一部の人にすぎない。
年配者は気にするかもしれないが、時代と共にその感覚はどんどん薄れてきている。
戒律というよりも常識や習慣として根付いていて、それが宗教的な行いだとはもはや意識されない。
実際には多くの人が隠れて食べていたというし、明治になったらあっさりと覆った。
そんな大らかさなので、食の禁忌が戒律として厳格に決まっている宗教の理解が難しい。
日本でキリスト教がそこそこ受け入れられたのは、戒律が比較的緩いからという理由もあるだろう。
いろんな宗教の信者が混在している社会では、縄張り争いに勝てないと自分の生活を守れないので
信者同士が団結する必要があり、団結のためのルールとして戒律が生まれた。(のだろうと俺は理解している。)
中東のような縄張り争いが激しい土地ほど、戒律もより厳しくなる。
アメリカなんかでも、異なる宗教の信者が身近にいるからこそ、ある程度は団結する必要が出てくる。
いまの日本で宗教絡みの争いは、一部のカルトを除けば、生活に身近なレベルではほとんど見聞きしない。
戒律というのは団結のために必要なものであって、団結する必要がない日本に厳格な戒律は必要がないのだろう。
地球の各地でいまも繰り広げられている宗教のナワバリバトルは、まさに戒律の押し付け合いバトルだ。
一部の宗教にとって戒律とは押し付けるものであり、日本にはその必要がないのだ。
ただ、SNS上のコミュニティでやたら細かくルールが決まっているところがあったりするが、
それが特定の推しを崇めるコミュニティだったりすると、こうやって宗教というのは生まれるんだと思ったりする。
しかしその戒律は、外部の人間から見るとなんのこっちゃである。
戒律とはそういうものであり、戒律が必要ない社会は平和である。
何かで関わってちょっと親しくなった男性のうち30代付近の人、みんな酒の席で「最近10代の女とセックスした」話してくる。有り得ないだろ。
いや18だから高校生でも大丈夫ww みたいなの理解ができん。自分より圧倒的に幼い相手に手出して何が楽しいん?それで満たされるのは加害性だけだろ。
それを人に話すのもやばすぎる。おかしい事をしているという自覚がないのが終わっている。
ヤバくないですか?って言うといや大丈夫だからww法律には引っかからないようにしてるしwみたいな感じなのもやばい。法律が許すなら小学生にも手を出すんか?と思う。法律は最低限ラインの話であって個人に判断能力がある前提のルールだろうがよ……と思う。宗教による戒律とかってこういう時に必要なんだろうな。というかクリスチャンの人とかと宗教の必要性について話すと絶対法律以外の方法でルールを作ること、倫理観を育てることっていうのが出るからマジなんだろうな。
自分と同世代(20前半)の男性はそういうのを見聞きすると大抵怒る、最低でも自分は絶対しないなという反応なので、世代間の差がこんなに出るのかよと思う。(私がいるコミュニティは所謂英才教育を受けて育ったタイプかつ海外経験が長い人間しかいないため、世代間というよりはそこの差の可能性はある。)
女性の知り合いで20歳以上の人が10代相手に性的な欲求を抱いたり恋愛感情を抱いてるケースは見聞きしたことがないため、どうしても「男の人って……」という感想になってしまう。※当然世の中にはヤバい女性も存在するが、私が実生活で知る中では男性しか例がないという話
ご指摘の点について、いくつか重要な観点から考えてみましょう。
日本の仏教僧侶がユダヤ教のタルムードに関心を持つことは、宗教間対話の一例と見ることができます。異なる宗教的背景を持つ人々が互いの教えを学ぶことは、相互理解と尊重を深める上で価値があります。
「神仏」という言葉は、日本の宗教的文脈において一般的に使用される表現です。これは日本の宗教的伝統における神道と仏教の融合を反映しています。しかし、ご指摘の通り、この表現は一神教の観点からは問題があるかもしれません。
仏教における「仏」の概念は、必ずしも西洋的な意味での偶像崇拝とは一致しません。仏像は悟りの象徴や瞑想の対象として扱われることが多く、それ自体を神格化するわけではありません。
同様に、日本の「神」の概念も、西洋の一神教における神の概念とは異なります。日本の多神教的な世界観は、自然や祖先への畏敬の念を表現する方法の一つと見ることができます。
ノアの七つの法則(ノアの子孫のための七つの戒律)は確かに、非ユダヤ人が守るべき倫理的指針とされています。偶像崇拝の禁止はその一つですが、これを文字通り適用することは、異なる文化的背景を持つ人々にとっては難しい場合があります。
宗教間の対話と学びは重要ですが、それぞれの宗教や文化の文脈を理解し尊重することも同様に大切です。一方の宗教の教えを他方に直接適用しようとするのではなく、互いの違いを認識しつつ、共通の倫理的価値観を見出すことが重要かもしれません。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
「じゃあビッグバンは神様が起こしたことにすればいいんじゃないの?」
って言う人がいるかも知れないけど、2000年後は違う説が主流になってるかもしれないから駄目。
「無から有を生み、森羅万象を創造した」くらいのふわっとした話ならあってもいいかもしれない。
でも「無なんて存在しないよ」みたいなこと言われたら困るな。
とにかく神様は創造主なのです。それだけ。あまり深く考えるな。
お酒飲めないとかお肉が食べられないとか私自身辛いし絶対人気出ない。
人として守るべきルールに関しては現代では法律があるのでその道のプロに任せよう。
日曜はダラダラしたいし、貴重な休日を半日も持ってかれるのはキツイ。
でもそれっぽい催し物があったほうが盛り上がるし、信徒に義務付けないという条件付きでやってもいい。
基本ネットで一文書き込むくらいでも成立するくらいがいいけど、雰囲気作りのために凝ってもいいと思う。
「神様が何とかしてくれる」なんて期待しながら祈って、何も起こらなかったら裏切られたと思う人が出てきそうだから。
まぁ祈ってもいいけど、基本何も起こらないし、何か起こったら儲けものくらいでやってみてほしい。
・神様は人にそれなりに関心を持ってる、くらいでいい
「神は人を愛している」はちょっと重すぎる。程よい距離感を保ってほしい。
神様は人に(当然これを読んでるあなたにも)それなりに関心を持ってるよ。あくまでそれなりにだけど。
このくらいの関係性なので、祈りは神様に、自発的に何かを伝える、くらいの意味合いになる。
そんなもんでいいと思う。
なぜフランスでは「創価、幸福の科学、統一教会」がカルト扱いされているのか…フランスがカルトを規制する上で注視する「10の基準」とは | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け
はてなー共は読んでないだろうなぁ。
・身体に対する加害
・反社会的な言説
・公序に対する脅威
・訴訟を多く抱えている
・公権力への浸透の企て
要するに「現状の社会規範から積極的に遊離、逸脱、変革しよう」としている宗教的な組織を「カルト」と認定してるわけよ。
だからイスラム教は「カルト」的であろうよ。特にフランスにおいては。
この項目に楯突く文句は1つもない。確かにこれは「カルトの要件」だ。
バカなジャップ諸君には宗教成立の3つの要素も付け加えておこう。
・教理
・倫理
・実践
・教義
・戒律
・礼拝
あと書かれている3つの要素は、どれも「反対すること、疑念を持つことが可能」なものだけれど、宗教は「そんなの私(=神)がゆるさない」だからさ。
オマエラが感覚的に「宗教を忌避している」っていうのは、実はこの3つの要素の方だよ、と言いたいわけ。
どうかな? 当たったかな? もう少し意識を進ませりゃ「宗教はまぁいいけど、カルトの10要素はダメだ!」になりそうだが、コミュニティに抵触するものも多いので、単にフランスが「個人に鑑賞する不自由で不快な国!」ってなるわけで。
https://anond.hatelabo.jp/20240505030127
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、この区別もできないガチのバカがいるのに驚愕したのでいちおう書いておく
この程度は分かっているよ馬鹿ッ、と言いたげな増田の多数派の智者には申し訳ない。 一番最初に書いておくが、この区別がつかない奴はさすがにバカすぎるので反省したほうがいいぞ。 まず最初に出てきたのがユダヤ教で、これは旧約聖書を聖典としています。 主役はノアの箱舟で有名なノア。 ノアが神様から十戒の石板として戒律を与えられ、それを元にユダヤ人を導き、約束の地エルサレムに到達するお話。 これは民族主教としての色合いが濃く、ユダヤ人以外はだいたいクズとして扱っています。 神様が愛したのは敬虔なノアとそれに繋がるユダヤ人だけ。 それ以外は異教徒なんで適当に地獄ぶち込みコースです。 基本的には、ノアが授かった戒律を重視する宗教なんですね。 アダムとイブから始まる「原罪」を人間は背負っているから、その罪の意識と共に戒律を守って生きましょう、という宗教。 当然、いろいろ制限が多い。 それに対するカウンターと
まぁ宗教ってのは人類史と共にあるようなもんだから宗教を否定するのは人類を否定するに等しい愚行
宗教を良い悪いの問題で語れると思ってる時点でお前らみんなバカで黙った方が良い。
ちゃんと歴史と社会を学んでれば、宗教は「社会規範を作る」ことそのものに意味があるとわかる。
規範となる様式を「良い」とか「悪い」と評価する以前に、そもそも「規範を作って守らせること」自体、宗教がなければ難しいという想像力がない奴は常識がない。
歴史を学べばわかる話だが、宗教がなければそもそも0から国は作れない。国家から宗教色が薄れるのは国自体が長い年月を経て既成事実化した結果だ。
宗教が「戒律」を持つというのはそういうこと。規範を作ってコミュニティを均一化すること自体が宗教の機能なんだ。
それくらいわかれ。
私も元増田に負けず劣らず無知だけど、アブラハムの宗教について言及してるのに、冒頭の以下については、ノアの7戒とモーセの10戒とを混同している模様で、間のアブラハムのことも無視していてひどいと思う
※消えてるから元記事のアーカイブ→https://web.archive.org/web/20240505110254/https://anond.hatelabo.jp/20240505030127
アブラハムの宗教について語るなら、「賢者ナータン」の「三つの指輪の譬喩」についても言及しておきたい。
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1158
https://mie-u.repo.nii.ac.jp/records/1187
元増田の個々の記述についてはレスであれこれついてるからいいけど、ムハンマドとイスラムについては特にもっとよく知りたい
イスラム教がキリストをどう捉えているのかなどの教義的なことはさておき、ムハンマドがガブリエルから啓示を受けて預言者となり、地域の多神教コミュニティと衝突を始めたって辺りの経緯というか動機が良く分からない。
キリストの場合は当時のユダヤ教の教義とコミュニティに対する宗教改革者としての位置づけが明確だと思うんだけど。
キリスト教の信仰の中心地から離れたところでキリスト教を説いて回ってるうちに地域の多神教コミュニティと衝突し、追い出されてメディナで一派を作って体制と規則を固めていってるうちに元のキリスト教とはだいぶ変質して宗教として確立した、みたいなものなんだろうか。
ここにぶら下げようかな。
なので、それを都合良く利用してきた部分はあるけれど、聖職者は特別なのでそれなりの厳しさも求められる。
他方、一般信徒からすると「坊さんから文句を言われなけりゃ、まあええやろ」の精神にもなる。
プロテスタントはそうした聖職者の特別性を批判してきた流れから、一般信者にも自覚的な行動を求める。
時系列めちゃくちゃじゃねーか
イスラム教の成立は7世紀。だから中世に十字軍をやってたんだよ。そしてイスラムの成立・発展の理由はキリスト教の腐敗ではない。その時期はキリスト教がそれまでの国教化と勢力拡大に伴う解釈の分岐を統合する教義論争が盛んで、三位一体説などの複雑怪奇な教義が正統として定められていった。異端審問・魔女狩りの時期はもう少し先だが、それに向かっていく厳格化の時期だ。だからこそ、教義が単純明快なイスラムが広まったんだよ。
プロテスタントは16世紀だ。そしてプロテスタントが自由だ退廃的だなんてのは真逆で、プロテスタントの方が戒律に厳しく、腐敗していたのがカトリックだ。だいたい免罪符を引っ張ってくるならそれを批判するプロテスタントが自由で気楽で退廃的なわけがないと分かるだろう。単純な知識だけでなく論理的な思考すら欠けてるぞ。
2500年ほど前に生まれた宗教。「生きることは苦しみであり、その苦しみから逃れるにはどうすればよいか」という問題に、開祖は「思索を深めて悟りを開くことで苦しみから解脱する」ことを説いた。僧侶となり厳しい戒律を守ることで悟りを開くことができるとする派閥と、過去に悟りを開いた人たちが神のような存在となって僧侶でない人でも助けてくれるとする派閥がある。
2000年ほど前に生まれた宗教。神と開祖は同一の存在であるとする。世界が終わるときに神による裁判が行われるが、開祖が全ての人の罪を背負って死んだので、開祖の言うことを信じて生きれば救われる、と説く。当初から国家によって保護されたので、キリスト教の指導者と世俗の君主との棲み分けがなされ、そのため倫理・道徳としての側面が強くなった。
1500年ほど前に生まれた宗教。神と開祖は異なる存在であり、人ならざる神の気持ちを推し量ることはできないので、ただひたすら神が命じたとおりに行動するしかない、と説く。また、開祖自身が国を打ち立てた指導者だったことから、イスラム教は国家・政治と一体化しており、その教義がそのまま法律として運用されている。