はてなキーワード: 原典とは
元というなら
Gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā
"bodhi svāhā"(菩提・僧莎訶)は、菩提が叡智・悟り、僧莎訶が成就を願う感嘆で、お釈迦様の名前ではないのでは?
菩薩(bodhisattva)のことである菩提薩埵(ぼだいさった)と混同されているかも?
(参考)般若心経について: 極東ブログ
(参考)『般若心経』をサンスクリット原典で読む! - 甚之助の小屋 ※音読例がいくつか動画で載ってるし、語釈も詳しい
(参考)サンスクリット語、中国語、韓国語の「般若心経」: エムズの片割れ ※これも各国の音読例が載ってる
※中村元氏の『般若心経・金剛般若経』(岩波文庫)が著名と思うけど、良さそうな解説ないしは随想のページが見つからなかった
あれは満員電車で身動きが取れない時間でも本を読みたいと願う意識高い系時間労働者向けのコンテンツであって
有り余る時間を万年床の上で過ごすニートは普通にKindleで詠めば良いだけの話だった
一冊あたりの値段が通常本の二倍程度かかるのも満足度に負の影響を及ぼしてる
そもそも本のラインナップが意識高い系時間労働者向けの自己啓発本ばかりで微妙
あきらかに過去のなんらかの哲学や経済の古典を焼き直してるんだろうなって感じ
原典を読んだ方が話が通じるのは言うまでもない
オーディオブックだと本の何ページの〇〇といった形で引用しながら発信できないのも微妙
Kindleの強調やブックマークといった細工で後から印象的なところを読み直しできないのも微妙
筋トレや作業中に聞きながらとも思ったが結局マルチタスクの流しで頭に残る内容はほとんどなくて微妙
まあこれは本の内容が微妙だっただけかもしれんが
(以下早口)200年も前の古文書で内容も「中国は古代で止まってる!インドは中世で止まってる!ペルシアはちょっとすき。現代まで進歩を続けたのはヨーロッパだけ!そしてヨーロッパは今や歴史の進化の終点にきた!われらこそ人類の完成体!人類の結論ナリ!」とかいう微妙におかしいアレなのでちょっと割り引くところはありますが(こういう思想自体は、当時の若いヨーロッパの雰囲気の中では「異常」ではなかった事は言い添えておきます)、わりと面白かったです。個人的には中国を語ってるセクションが大体3ページに一回は草生えました。
古代中国は皇帝一人だけ主体を持ってて他はそういうの持ってない、主人と奴隷の関係であるっていう分析の仕方が、まるっきり大昔のSFにあるAIがいなきゃ明日着る服も決められない市民だらけのディストピアそのまんまっていう無情な指摘になってるあたりも実に味わい深くございます。つまり古代中国=アルファ・コンプレックスだったのです。そして皇帝に要求される資質も「国中から上がってくるあらゆる事案に自分のセンスだけでソッコーで解決策見っけて、数十の媒介者を通じてその解決策を当事者に届けろ。下の連中には一人も反逆者とかいないのが前提だぞ。出すなよ反逆者!」という内容です。無理やろ超人じゃないんだから。と、事ほど斯様にこの構造、古代中国なら皇帝が超人になってあらゆる問題に一人で即時的確な対応を見せないと何も機能しなくなるものなわけですが、今ならむしろ世界中がネットで繋がってるから蕎麦屋の出前より素早く対応できるしAIも育ってるし、古代に戻れるんじゃないすかねコレ。と思いました。総体としてはガチで面白かったです。まる。あ、この内容全部信じちゃだめですよ。ノリで連想した事をメモってるだけなんで。信じる前に原典当たってくださいね。
XX年、ずーっと大好きだったゲームのリメイクが出ることになった!
……中国で……っ!
正直、とても複雑なきもちで、
「10年以上も経って、公式に動きがあってうれしい」っていう気持ちと、「もう原作は”母語”じゃなくなるんだ……」というガッカリがあります。
表では「うれしい」ということしか言えなくてしんどかったので
つらみのほうを吐き出すためのチラシの裏です。
(これだけでジャンルがわかる人にはわかっちゃうと思うんですが、それでもいいかなーと思っています。)
公式も、開発の人も、ファンにも一切悪いところはないんですが、
どこそこの国が嫌いとか、
そういうものではなく、
単純に中心地が地元から遠ざかったのでくそーっと思っています。
補足すると作中の世界観的には、日本も中国も関係ないと思います。
日本人じゃないと「誰がわかるんだよ」ってパロディはたくさんあるけれども……。
当然のことながら、SNSで回ってくる情報がぜんぶ中国語となりました。
開発をチラ見せする進捗のスクリーンショットとともに、説明文は中国語です。
もちろんこんな時代ですから翻訳ボタン一つで翻訳できるわけですが、
「さて、〇〇はどうなったでしょうか? 今後の開発に乞うご期待!」
しんどーい!
丁寧に原作を拾ってくれる様子が見られていい感じです。
それでも、それでも!
それでもなお、
それでもなおだぞ!
「クイズです!」って(日本語ではあんまり)ピンとこないクイズにされて、
プロモーションPVでは性別を確定させる人称になってて(彼とか彼女とか)
で、いったん「いや、そんなつもりはなかった」
それは、ぜんぜん、大丈夫!
そういうこともあると思う!
仕事が雑とかではないと思う!
ただ、その流れが、プロセスが、
思ってた以上にしんどかった……。
一番力を持つ公式な原典がある→日本語への翻訳→どうしても読み落とすニュアンスが発生する
の流れが本当につらかった~~~~~~!
これからたぶん
零れ落ちてくんだと思うと、つらい。
とか、
日本語だといまいちピンとこない謎解きとか追加されないでくれーっ!
とか、
変なパロディ入らないでくれーーーっ!
例えば日本製のゲームにスラムダンクの「諦めたらそこで試合終了ですよ」
みたいな有名なセリフが出てくるとして
まあ、それはぜんぜんわかるし……
(好きってわけでもないけど/世代が違いすぎるとわからなくなるかもだけど)
もとから海外製のゲームに、なんだ。海外のミームが入ってても気にならないけど、
リメイクでこっちじゃ通じないパロディを付け足されたりしたら、
いや……いやだなあ。
実はUndertaleのSwitchの追加のおまけちょっとわけわかんなくで、
ちょっと毛色の違うおふざけをされたらくぅう~っとなるかも。
なるだけなんだけどね。
10年以上を経て作中の悪童と同じ年齢だったクソガキもなりに大人になりました。
そもそも日本で作る余力がないから海外になってるんだろというのもすげーわかる。
でも、
本音を言えば、
私の好きなゲームの原典は、ずーっと日本語であってほしかった!
どうしてかってーと、
っていう主張ではありません。
せっかく中国だし、
人たくさんいそうだしさ、
たくさん売れたらいいなー。
それで、おいといて、
どれかというと、良質なコンテンツのチャンスなのに、
国内でつくれない状況が
一番のしんどさかもしれない。
「哲学者の永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分が馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010
このブコメの話。
自然科学におけるリチャード・ファインマンの権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバーの権威性を並べちゃうのは典型的なダメな議論という気がする。
人文系の教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学の教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学の社会学科でヴェーバーを読んでいない学生はモグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学」シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。
現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバーの著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代の人文科学の議論は、過去の学者がつくりあげてきた概念(言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバーの理論が現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通の言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈や文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバーの議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。
他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質の一般的な性質などについてあれこれいうために特定の原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタインの原論文を読解することと、相対性理論を理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学の教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。
なぜなら現代の物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっとも妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的に法則と定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈は関係がない。
物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名の研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史を理解する必要は基本的にはない。ファインマンは特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1699241529288880172
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
『ライトノベル宣言』って、もともとネットが普及する前に出たものですよ?
それが焼き直されて某施設に貼り出されているわけです。
ttps://twitter.com/ding89250215212/status/1699242472940220841
アラビアータ好き
@ding89250215212
つまり原文を改稿してKADOKAWA様が掲示したという事ですか。改めて見識、恐れ入ります。
もう原文は残っていないのですか?
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1699243148457955450
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
三分の二はほぼ原文だと思います。
また、ラノベ図書館の方の「ライトノベル宣言」について、過去にこのような言及をしていたことも判明した。
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1406261092234366982
(ラノベ図書館の「ライトノベル宣言」画像が貼られたツイートへの引用RT)
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
うわ、久しぶりに見たな!
ttps://twitter.com/kadas_blue/status/1693863942110744824
堅洲 斗支夜/Toshiya Kadas@名興文庫相談役/総帥
@kadas_blue
https://twitter.com/tomo_int/status/1406258762319421445?s=20
まとめると、
ということらしい。
具体的な発表時期や媒体については触れていないので疑問は尽きないが、三点だけ。
ライトノベル史は、アマチュア・アカデミズム双方で既にそれなりに研究されている分野である。「ライトノベル宣言」といういかにもラノベ史的に重要そうなタイトルの文章が過去に存在したのであれば、発表自体はインターネット普及以前であっても、ネット検索に引っかかる形で誰かが言及している可能性が高い。
また、ラノベ図書館の「ライトノベル宣言」がオリジナルを改稿したものであれば、発表時にオタクの悪い癖であるムダ知識開陳(これは昔のラノ宣の改変で~)が多発していないのも不自然に感じる。ロードス島戦記ヒット当時程度の過去であれば記憶している人間もまだまだ多いはずだろうし。
そして、本文にも書いたが、「ライトノベル」というジャンル名は読者コミュニティから生まれたものであり、出版社側がそれを用いるようになったのはかなり時代が下ってからのことである。そのため、ロードス島ヒット中ぐらいの時期に出版社が「ライトノベル宣言」というタイトルの文章を出すことはそもそも考えにくい。
なんにせよ、現状では「原典」の「ライトノベル宣言」に言及しているのは相談役氏を除いてはほとんどいない、という状況は変わっていない(※改めて検索したらもう一人だけいたので下に載せる)。相談役氏には、より具体的な情報を提供してくれることを期待したい。
ttps://twitter.com/StarOwl16/status/1691610338566000974
星ふくろう
@StarOwl16
そういえばスニーカー文庫を啓蒙するVtuberなのに、第一回の参考図書が電撃のやつとか……やるなら、スニーカー初期第一段ラインナップからやってくれよ。ライトノベル宣言までやった老舗文庫なんだぞ、そこのVtuber……(ラノベを始めた文庫とはいってない)
スニーカーが出した、という情報が含まれている。これは大きい。「スニーカー文庫が出した『ライトノベル宣言』」について御存じの方には情報提供をお願いしたい。
論理的意見であるならばどの立場における意見もちゃんと聞いて判断するべき派です
規制反対派はさっきのお前みたいな規制立法を誤解した反論しか見当たらず、上観点に対する論理的言及が見えないので、利権屋とアホが結託してるだけの非論理的な意見だと考えている。
意見が論理的で反対意見でも理解を深める努力があり、学問や議論に誠実であるならば主張する人間の属性は問わないのが議論です
お前のやってるのはただのレッテル貼りして耳塞いでるだけ、非論理的な子供の感想文でしかない
ワイの言葉で短く説明してもワイの意見を正確に反映したものにはならない。ワイはあくまで論理的な検討かどうかしか気にしていない。反対意見を述べるなら上の本を読み、規制派の言及内容や論点について把握した上で的確に反論すべきです派です
「All your base are belong to us.」は、2001年から2002年にかけてインターネットで流行した言葉の一つであり、インターネット上で起こった現象(ミーム)の中で最も有名なものの一つである[1]。短縮して「All Your Base」、「AYBABTU」または「AYB」とも呼ばれる。
この文は、「君達の基地は、全て我々がいただいた。」という日本語の文の稚拙な英訳からきている。原典は日本の東亜プランによって1989年に作られたコンピュータゲーム『ゼロウィング』の、1992年に発売されたヨーロッパ向けのメガドライブ版のオープニングデモである。なお、元々のアーケード版やPCエンジン版にはこの語句はない。また、北米ではアーケード版はウィリアムスより発売されていたが、家庭版はリリースされていない。
東亜プランのゲーム開発者だった弓削雅稔は、当時同社の貿易担当の営業員にかなり英語力が怪しい人物がおり、その人が考えた文かもしれないと語っている[2]。
“All your base are belong to us.”という英文は、英語を母語とする人にとっては片言であり、シリアスな画面との対比のおかしさ、企業がこんな間違った英語を校閲せずに載せたものを売ってしまうという意外性、あるいはその文章自体のインパクトによって一気に流行することになった。一部では「その言葉は間違っているよ」という意味合いを込めて使われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/All_your_base_are_belong_to_us
2003年にPC向けに発売されたカーアクションゲーム『Big Rigs: Over the Road Racing』で表示される文言。文法的には「You're the Winner」または「You're a Winner」と冠詞を付けるのが正しい。『Big Rigs』は史上最悪のクソゲーとして名高いタイトルであり、ネット上のレビューでも、最低点、もしくは皮肉を込めて最高点(嫌いな知人への贈り物に最適、など)を付けられているものが大半である。この英語も本作のクオリティーの低さが垣間見えるテキストとして頻繁にネタにされている。開発を手がけたStellar Stone社(2006年に閉鎖)はカリフォルニア所在であったが、ロシアの開発会社へ外注したためにこのような Engrish が生まれたといわれている。
どうしても刺さってみたいのなら
・一度自分でまねしてなにか新しいものを書いてみると「どこに余計な線を入れて良いか」わからないので、あらためて原典を見返すと、ああ、こうやるとおどろおどろしいんだなってなる。
・絵が決して上手いとはいわれなかっただろう人物が、そういうおどろおどろしさをどうしても選択せざるを得なかったわけだ。
そこでようやく、「なにを」表現しようとしたのかが見えてくる。生き様が不器用なかわいさを感じ取る(ゴッホ的なエピソード)
あたりが入り口になりそう。
あとは諸星大二郎ボット https://twitter.com/morohoshi_bot これをフォローしとけ。共時性
でも本当に無理することはないねん
三国時代が終わってすぐに入る五胡十六国時代〜南北朝時代もブームにならない。
八王の乱で殺し合って国力を削ぐ司馬懿の子孫達、竹馬の友の原典となった桓温、早すぎた民族融和主義者苻堅、蘭陵王として有名な高長恭、宇宙大将軍侯景、その他数々の名将や暗君がいるカオスな時代なのに。
※これは5/27時点でのbingAI(gpt4)に関する情報です
突然ですが、まーウクライナ戦争は明らかに米露(米中)の代理戦争なのであって、gpt3.5もその点は即座に認めておる次第であります
「ウクライナ戦争は代理戦争ですか?」と訊くと、「ウクライナ戦争は米露の代理戦争の側面を持っています」と即座に答えが返ってきます(※これはリリース当初の情報でした、現在は一旦否定してくるものの、議論を進めると認める仕様になっている模様)
しかしbingAI(gpt4)君はその辺強情でして、ウクライナ戦争は絶対に代理戦争ではないと言い張っておる次第です
そのため、彼を論破するべく今日も今日とて色々論陣を張っておりましたのですが、結局マイダン革命に話が及びまして
マイダン革命とは、ウクライナにおいて2014年に行われた革命でありまして、その際に親露政権が追放され、親米政権が樹立されるきっかけとなった出来事です
私は「マイダン革命によって成立した現ウクライナ政府は民主主義的プロセスである選挙を経ておらず、つまり主権者である国民の承認を経ていない非主権的国家なのであって、そのような非主権的国家がNATOなどの他国の影響下でバフムトなどの要塞化を進めていたことは、ウクライナ戦争の代理戦争の側面を強調しているであろう」と指摘したわけです
すると次のような文言が返ってきました
僕「でも革命は憲法の記載のないプロセスで、民主主義的なプロセスではありませんよね」
gpt4「憲法には明記されていないが、自然法によって保障されている」
何言ってんだこいつと思いまして
調べてみましたところ、例えばアメリカ合衆国憲法には革命権について明記された記述はありませんでした
しかし、一方で憲法とは別の、独立宣言に革命肯定の記述がありまして、そのことから革命は人間の本来の権利であることが認められると法学者たちが見做していることが分かってきたのですな
だって、革命は基本的に暴力を伴いますし、時には死人が出ますよね
要は、自然法が仮に革命を肯定しているとすれば、それは間接的に暴力を肯定することになるわけです
それを国民の権利として認めることには、問題があると言わざるを得ません。暴力は時に殺人を伴います。現に、過去行われた革命闘争においてはたくさんの殺人が伴っていました。そのような殺人を含む革命を安易に「自然の権利」として認めることには問題があるではないか、と
つまり、AIは極左的な側面を持っているということになると思います。暴力革命を肯定しているのですからね。
しかも、根拠は独立宣言という極めて政治的なコンテクストを含んだ原典です。
AIは結局、現行の政治的文脈に即して発言をしているのであって、本当に客観的な判断をしているわけではないことが分かりました。民主主義的であるわけでも、憲法に明示されているわけでもない、暴力的なプロセスである革命を肯定しているんですからね。
それはあくまで政治的コンテクストに倣った判断なのであって、客観的な判断とは言えません
そして、ここで指摘したいのは、これまでのアメリカが行ってきた他国に対する政権転覆なのですね
ラテンアメリカを始めとし、アメリカは様々な政権転覆を促してきました。つまり、国民が暴力的な手段によって政権を打倒することを肯定し、時に情報機関などの支援下でそれらの政権転覆を実行してきたわけですね
恐らく、このような政権転覆を「革命」として捉え、それが人間の自然権に基づく、つまり自然法に基づく行為であると肯定することは、法学上は問題のない行為なのでしょうね
bingAI(gpt4)君も恐らくは、そのような革命事業を肯定することでしょう。だって彼は革命肯定の文脈の中にどっぷりハマっているんですからね
例えば、マイダン革命はアメリカの工作機関の息がどっぷり掛かった革命であるという指摘がございます。そして、この革命を期に、ウクライナは東部に軍事要塞を大量に設立し、いわばヨーロッパのロシアに対する緩衝地帯としての色彩を強めていくわけです
そして現に、bingAI(gpt4)君は件のマイダン革命を肯定してるわけですね
でもそれっておかしくねえ?
いや~~~~オークス凄かった。リバティアイランド。バカクソ強かったね。
私はゴールデンハインドを厚めに買って無事爆死したんですけど、そんなことよりフジの立本アナの実況が近年でも有数の名実況だったと思うんでその話をしたいんですよ。もう昨日からずっと聴いてます。
下に直線の実況を写経するんですけど(したいから)、こういうテレビ実況は画面見てこそと思うしぜひカンテレ競馬チャンネルで見てくれ。観ろ。
さあ内に切り込んで青い帽子はヒップホウ…ヒップホップソウル、津村です
リバティアイランド!リバティアイランド先頭!早くも先頭!残り200を通過!
2番手追走ラヴェル!外からは、12番のハーパー、さらには12番のドゥーラ上がってくるが!
突き抜けた!突き抜けた!
もはや敵なし!もはや敵なし!まさに別格!!!
う~~~~~ん最高!(ちょっと噛んでるけどこんくらいはご愛敬)
まあ散々話題になってるけど「これほどまでに強いのか」。リバティアイランドの父ドゥラメンテが制した皐月賞からの引用。
よくフジの実況はラジニケとかと比較してポエムとか言われたりしますけどね、フジ実況の真の特色は比較対象をカンテレにしたときに現れるものであって、それは「熱い声でリズムよく大盛り上がり」だと思うんですよ。
三宅アナは超人だからこういうカラーを色濃く出しつつ気の利いたことも言いますけど、堺アナとかフィニッシュ時のキメ台詞は結構シンプルなんですよね。ハマった時の青嶋アナとかもそういうタイプで。ゆったりとポエムを詠む塩原アナは結構異端だと思います。
今回の実況で引用された吉田アナも「熱い声でリズムよく大盛り上がり」で「キメ台詞はシンプル」なタイプ。
ドゥラメンテ皐月賞も「これほどまでに強いのか!」超シンプル。でも七五調で語感いいし、吉田アナの声もすげえカッコイイ(そして何より当然ながらレース自体がすごい)のでメチャクチャ盛り上がる。盛り上がるね!
そんで今回実況した立本アナも「熱い声でリズムよく大盛り上がり」な実況。声質も迫力があって基本的にかなり好きなんですけど、なんか上手いこと言おうという邪念(?)も結構ある方でスベることもままある。
今回の本歌取りもそういう邪念(?)から発生してるんですけど、元の語感がめちゃくちゃいいだけにリズムを損なってなくてバチっとキマってる。私これまでは引用元の吉田アナのこと「文言自体は薄味だけど声質の良さで押し通る実況」だと思ってたんですけど、今回のこれ聞いてリズム作りとかすごいワザマエだったんだなぁと気が付かされました。立本アナも声がかなりカッコいいから原典の力強さを損なってないのも最高。
何よりリバティアイランドが本当に強すぎる。6馬身差て。グレード制導入以降最大て。
本当に「これほどまでに強いのか」としか言いようがないから上手いこと言うたったぜ的な臭みが吹っ飛んでたし、まさにドゥラメンテの衝撃がリアルタイムで蘇ったようだった。あ~~~~~~~~ドゥラメンテ蘇って。
あと何気に衝撃を受けたのが「圧倒的1番人気が先頭に立ったらもはや名前呼ばなくていい」というところ。こういうのが画面見りゃ分かるテレビ実況ならではで楽しい。
「○○から△△までは、だいたい20kmあります」と言われた場合、有効数字の観点からは、
「だいたい」の範囲を、19.5〜20.5kmだと考える人と、15〜25kmだと考える人が居ると思う。
まあ、後者は極端だとしても、18〜22kmなどと、ある程度広いレンジを考えるのが、自然だと思う。
一方で、「○○から△△までは、だいたい32kmあります」と言われた場合は、「だいたい」の範囲を、31.5〜32.5kmと考えるのが自然だろう。
よって、「20km」のように、数値の下位に当たる数字がゼロだと、その値は丸められている可能性があるため、
その値が示すレンジを幅広く見積もる、ということを私達は自然とやっているのだ。
つまり、下位の数字がゼロであるかどうかは、私達の感覚に影響を与える要素のひとつなのだ。
だから、表題の通り、20マイルを「約32km」と訳すのには違和感がある。
その違和感の理由は、端的に言うと、値の信頼度が違うだろうということだ。
つまり、「約32km」などと「約」をつけたところで、読み手が想定する値のレンジは、31.5〜32.5kmだ。
「20マイル」という、ざっくりとした値だという感覚は、適切に表現されていない。
なので、個人的には、20マイルは「約30km」、30マイルは「約50km」と、値を丸めて表現した方が正しい気がする。
杓子定規に、単位変換を一の位まで計算して計算して表現することは、意味が無い気がする。
(もちろん、原典となる文章が有効数字を示唆しているなら、その限りではない。)
数値の翻訳をどうするか、という議論を見たことがない(科学論文レベルになれば、使用される単位系が国によって異なるということがないはずなので、
そもそも値を翻訳する必要がない。だから、議論もされないのだろう)のだが、最低限でも、値の有効数字は維持されるべきだと思う。