「出版」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 出版とは

2023-10-22

BUNKAタブーなんで今さら反暇空に鞍替えしてんの?

https://www.youtube.com/watch?v=2CqnaONH9J0&t=2580s

暇空のこのライブ動画発言に対して

https://imgur.com/HQuKcBp.jpeg

実話BUNKAタブー編集部@BUNKA_taboo

漫画とかアニメとかの創作物で「救われた」とか言ってる人たち、それらに触れただけで救われたんなら、大してどん底だったわけじゃなく、絶対ぬるま湯生活を送ってましたよね

実話BUNKAタブー編集部アカウントがこんな腐しをしていた

あのさ、みんな忘れてるか忘れたフリしてるんだと思うけど、

BUNKAタブーって以前、暇空本人に執筆依頼してまでcolaboを攻撃する記事載せてたよな。

なんで今さら編集部ごと暇空サイド弾劾する流れにシレっと変えてんだよ

手下のロマン優光にこんな事まで言わせてるし

暇空氏に便乗して無分別デマをばらまいたり、誹謗中傷をおこないにっちもさっちもならないとこまできてしまたこういった人たちは愚かだが、ある意味正直者だともいえる。

自分ではそういった発言をしないが、お気に入りRTアンチフェミニズム的なものでいっぱいな人。海乱鬼はRTしないが、もへもへはRTする人。 そういうタイプの人(高学歴高収入、家庭にも恵まれているような人もいる)が、初期に暇空氏をRTしながらも自分では発言はせず、便乗組が暴走したりして雲行きが怪しくなると、まるで最初から関係がなかったかのようにサッと立ち去るという見事な立ち振舞いをしていたわけで、ある部分では今回Colaboと和解したような人たちよりもタチが悪いと私は思っている。


もう一度言うけどBUNKAタブーは 暇 空 茜 に 記 事 書 か せ て ま し た よ ね ?

暇  空  茜  に  c  o  l  a  b  o  バ  ッ  シ  ン  グ  記  事

書   か   せ   て   掲   載   し   て   ま   し   た   よ   ね   ?   ?   ?

何   無   か   っ   た   こ   と   に   し   よ   う   と   し   て   る   ん   で   す か   ?   ?   ?   ?


「BUNKAタブーはそういうゲススタンス雑誌から、わかってやってるからw」「怒る方がバカww」って擁護にならない擁護沸いてきそうだから言うけどな

何事にも  限  度  つーもんがあると思うんだよ。

食い物やら流行りもんやらでそういうゲス記事やんのは別にいいけどさ、社会派ジャーナリズム気取ってそういう事をやられるのは幾らなんでも限度を超えてんだろ

はっきりと害悪だよ

テレビ局が今ジャニーズ忖度自己批判しているように

BUNKAタブーのみなさんも暇空に忖度してた事を自己批判なさったらいかがですか

ねえ?編集長保坂健太さん?

追記

https://anond.hatelabo.jp/20231022080329

BUKKAタブーに正しい倫理観を求めてる奴初めてみたわ 金払ってみるチラシの裏だぞ

から限度があるだろって話だろ

「BUNKAタブーはこういう雑誌なのでw」って開き直ってれば何したって許されるの?BUNKAタブーなら人殺しても許されるの?

関係ないですけどあのバッキー事件実行犯の一人がBUNKAタブー出版してるコアマガジン編集者だったって事ありましたよね。

https://seesaawiki.jp/w/kobalos/d/%A5%D0%A5%C3%A5%AD%A1%BC%A5%E1%A5%F3%A5%D0%A1%BC

2023-10-20

同人作家様は偉いね

出張編集部の件燃えてるけどあそこまで編集者悪しざまに言う必要ある?

特に件の編集者だけじゃなくて出版業界編集全体に言及して叩いてるやつ

そういう人間ほどフォロワー3桁4桁でhtr漫画ばっか描いてて「そういうとこだぞ」って気持ち

オナニー漫画否定されたからって駄々こねんなよ

2023-10-18

anond:20231018140654

村上春樹海外で売れるまでの経緯は彼の職業観執筆スタイルについて書かれたエッセイ職業としての小説家」についてよく書かれている。

ちなみにこのエッセイビジネス書としての評価が高く、文学村上作品に全く興味のない人でもまあまあ面白く読めると思う。

それによると、バブル期日本(「金が余ってるので予算制限適当旅行エッセイでも書いてくれませんか?」と出版社から言われたり、どこへ行っても「いくら稼いだか」と金の話しかされない)に嫌気がさし、一時期アイルランドスコットランドなど当時の日本人があまり訪れていないスポットに逃げて執筆活動をしていたらしい。その中で講談社アメリカオフィスに訪れるようになり、アメリカ作家と同様自ら翻訳者エージェントを探して出版するようになったらしい。

最初イマイチだった反応が何かの権威ある文学雑誌評価されて以来注目されるようになり、一気に人気になったというよりは徐々に火がついていったとのこと。

2023-10-17

高学歴漏れ宅建試験に落ちたそうです

日曜日宅建試験でしたね。

受験した皆様、お疲れ様でした。自己採点の結果はいかがでしょうか。

今年は例年より優しかったみたいですね。

さて、本題。

毎年この時期になると私にとって嫌な思い出がよみがえる時期でもあります

宅建受験体験記って、学歴はあまりないけど、頑張って合格しました!

とか、こうやって3ヵ月独学で合格しました!みたいな内容が多いと思うので、私のような例はある意味珍しいんじゃないかと思います

まぁ失敗談なんてわざわざ残そうと思わないってのがあるでしょうけど何かの参考になれば。

私が宅建試験を受けたのは〇年前、理由は当時、自宅の購入の話を進めており、営業と打ち合わせをする機会が多かったから。

なので、自分勉強して知識があった方が何かといいんじゃないか、っていう軽い理由からだった。

確か、その時が春先ぐらいだったので、言っても試験までは半年あるし、それなりの学校都の西北方面)出ていた自負もあった。

メジャー資格で、独学用の教材も充実してるから有名な参考書を買って勉強すれば、なんとかなるだろうっていう気軽な感じだったように思う。

合格した暁には営業さんに実は私宅建取りましてね。とか言って驚かせてやろう、みたいなことも当時内心思っていた。今思い返すと恥ずかしくて穴があったら入りたい・・・

で、早速本屋に行き大手予備校出版している参考書問題集を購入。

ただ、会社勤めもしているので試験勉強と言っても、平日は寝る前にテキスト読んだりっていうレベルのことしかしてなかった。

それでもほぼ毎日勉強するようにして、ゴールデンウイークも明けたころには、テキスト理解できたわけじゃないが問題集も取り掛かった。

が、勿論最初は9割以上解けない。

でもめげずに何周かして夏の終わりごろには8割は解けるようになって、それなりにいけんじゃね?ってなっていった。

このころには久しぶりに自主的勉強することの楽しさや充実感、みたいなものも味わっていたように思う。

順調かと思われた秋口に過去問に手を付け始めたところで一気に奈落の底に落ちることになる。

問題集過去問準拠なんだから問題集解ければ過去問もいけるはず、と思って臨んだ過去問がさっぱり解けない。

問うてる本質問題集と同じなのかもしれないが、聞き方を少し捻られただけでさっぱり解答できないのだ。

まりそれは問題集を暗記していただけで理解していなかった、ということなんだろうと今にして思う。

が、もう時間も残されてない。かなり焦ったが過去問10年分を5回はやって40点ぐらいはとれるようにはなった。

あとは当日の問題の相性でなんとかならんかな、と運を天に任せて試験日に突入

終って家で自己採点してから後の事はあんまり覚えてない。あまりにショックを受けすぎて。

・・・というのが一連の顛末。翌日教材一式は処分したことは覚えている。それから一度も受験はしていない。

このことで皆さんに伝えたかたことは2つ。

1.本気で勉強しないと合格しない

宅建とき一ヶ月で、とか一週間で受かるとか言う人がいますが、本当であるならその人は相当秀才です。

ですが、宅建試験ちゃん努力すれば合格する試験で、才能はいらないと聞く。

なので落ちたのは私の本気の努力が足りなかったから。

また、忙しかった、も言い訳にならないと思っている。

受験生は働きながら受ける人ばかりだと思いますし、当然スタートラインは皆が平等ではない。

それでも受かる人は受かっている。

2.受験するなら合格するまでやれ!

私は一回で受けることをやめてしまった結果、「高学歴なのに宅建に落ちた人」になってしまいました。

家族しか受験のことを言ってなかったのが不幸中の幸いでしたが、もし職場に言っていたら、あいつ○○大卒なのに宅建落ちたのか、っていう評価絶対なっていたはずです。

これは宅建受けたことない人、宅建を良く知らない人もそう言うと思われます

まり世間的には宅建はそれぐらいの難易度と思われてるっていうことです。

いやいや、落ちたとしても勉強したこと財産だよ、っていう意見ももちろんですが、期待値が大きかった人にとってはあてはまりません。落ちたっていう事実けが残ります

これを解消するには再度受けて合格するしかないわけですが、残念ながら私は気力が持ちませんでした。

そして何年たってもずっとこのことを自分の中で引きずってます

どんなに社内で仕事のことで難しいことを言っても、頭の中で「でも宅建は落ちたんでしょ」っていう囁きが聞こえます。もう病気ですね。

こうなってしまうぐらいなら一回も受けない方がマシすらあります

今なぜ数年経って振り替えろうと思ったか

それは会社のよく知る後輩が受験して合格の見込みっていうのを聞いたから。

後輩は決して高学歴ではない。

でも、仕事一生懸命努力が出来る、周りからの信頼も篤い好人物だ。

きっと仕事と同じようにコツコツと宅建知識も積み上げたのでしょう。

なぜだかわからないが、その一報を聞いて、私も来年やってみようかな、とふと思い、その気持ちを忘れないうちにここに記すことにした次第。

> だいぶ前ですが私も、自分SAO原作者であると主張される方から連絡を頂いて、しかも先方は怒っているわけではなく、「どうして自作勝手出版されているんだろう」と困惑している感じで、こちらもどう対応していいのか解らなかったということがありましたね…

https://twitter.com/kunori/status/1713904293592568124

???「俺がキリトモデルからwwww」

2023-10-15

anond:20231015224036

お菓子洋菓子に和要素を足したり、逆に舶来ものっぽさを出したりするという意図があるから定着した

創作タイトルにおいては、なんとなくふんわりとした雰囲気を出すだけだったし、

出版業界特にライト層向けの分野は、タイトルGOサインを出すのが大手編集部というごく限られた人間

彼らが「ひらがな表記タイトルはもう流行りじゃないよなぁ」と思ったら一気に消える

anond:20231015151001

国会図書館サイトなんかでSFの有名本が日本でいつ出版されたかとか、出版社のSFレーベルがいつ作られたかとかも調べて表にしてみれば?

2023-10-13

漫画出版業界音楽と同じ轍を踏んでいるのか?

https://togetter.com/li/2240451

少し前はこんなの

https://togetter.com/li/2229705

こちらの話題。残念だが少なくともデータ上は一切そんな傾向はない。日本企業漫画ビジネス電子化真剣に取り組み、大成功している。

集英社、直近も増収

https://www.shinbunka.co.jp/archives/5822

漫画出版大手三社は近年増収傾向

https://gyokai-search.com/3-hon.htm

何故出版業界成功しているか

利益ではなく売上が単純に増えており、どこかで食いあっているというよりは、業界全体が好景気と言ってよい。

成功理由と考えられるのは以下3つか。

1.漫画村取り締まり成功

2019年運営逮捕の後、わかりやすく売上が増えている。違法アップロードコンテンツは相当な悪影響があったと言える。

2.スマホアプリによる雑誌Web

近年紙媒体特に月刊、週間雑誌が純減。

https://shuppankagaku.com/statistics/mook/

その穴をアプリウェブカバーできているのは大きい。自社内広告との相性がよいのも相乗効果を産んでそうだ。

3.アプリでのロングテール集客

売上が増えているということは、本がもっと売れていることを意味するだろう。これは普通に考えれば新規顧客を掴めている。紙から電子への単純置き換えだけではこの動きは考えにくい。そこで思い当たるのが、ジャンププラス等のチャレンジングな作品群が客の誘引に一役買っている可能性だ。紙媒体ではトップクラス作品しか掲載できないところをウェブでは比較的敷居を低く展開できていて、そこに今までは来なかった客層が集まっているのではないだろうか。

さて、それをふまえて。

音楽業界の轍とは?

音楽業界そもそもどんな失敗をしたのか?

1.不正対策

この件は悪名高いCCCDがまずは浮かぶだろう。ただ、不正対策を何らかしないといけないのは、寧ろ漫画村が良い例として示されており、この後メジャーとなる個人リッピング用途への阻害要因となったのでやり方自体あかんかったとしても、防ぐ行為自体を悪手とは言い切れないだろう。

あと、そもそも漫画出版コピーへの対策がほぼ取れないので、同じ轍も何も違うアプローチを取らざるを得ないという背景もあるね。

2.電子化電子提供

日本音楽業界CDという物販以外を検討した経緯はある。例えばレコチョクLismoといったサービスである音楽業界は元々が電子機器再生前提なので、寧ろ電子化への対応はかなり早いほうだ。音楽業界は寧ろよい轍(?)。

ただ、このサービスCDの売上を食ったというデータはない。そして、より一般的CDmp3アップルミュージック含めたダウンロードコンテンツに置き換わった事実は残念ながら存在しない。

https://www.economist.com/graphic-detail/2019/10/18/the-strange-revival-of-vinyl-records

なんと、CDから電子販売の置換え以上に、両方合わせて音楽コンテンツとして売れなくなってしまっている。そして、その理由電子への置換えと仮定しようとしても、CDの減少のタイミングがあってない。これは、音楽コンテンツのものシュリンクである。従来有名ミュージシャンが歌えばミリオン、みたいな世界だったが、そんな事例が急減したことからもわかるだろう。カラオケ隆盛を越えた、レンタルで十分になった、少子化、他の嗜好コンテンツに客を取られた等言われてるが明確に一元的理由は探しきれない。

その傾向は元々出てきていたが、止めとなったのはストリーミングサービスシンプル音楽を買うという文化が低下していったと言ってよい。

ここから言えるのは売り物がCDmp3かは関係ないし、日本業界がうまく電子化商売(notストリーミング)出来たとしても残念ながら太刀打ちは難しかった、時代の大きな流れだろう。

日本iPodに負けたという言論があったりするが、そういう意味ではオーディオメーカーともかく、音楽業界は特段問題なかった。当時はまだまだダウンロード購入志向には早く(結局はCD市場には程遠い結果でもある)、リッピング元は結局はほとんどCDだったはずだ。それよりは、やはりストリーミングの影響がえげつない

3.ウェブ対応

日本音楽業界は多分ここが一番マズッたところ。今のミュージシャン音楽コンテンツのものの売上は期待できないため、YouTube公開したり、spotify登録して利益を上げてたりする。ショバ代をみすみす支払って。ここが日本企業としてはレーベルの垣根を越えてでも、独自サービスを作ってでも入るべき領域だっただろう。

そして、コンテンツ売上が下がった時に音楽業界が取った手段は、ライブイベントによるマネタイズ。それはコロナ禍で大打撃を受け、逆に出版業界には追い風に。可哀想なところも無くはないが、音楽の売り方に向かい合わなかったツケが回ってきたとも言えそうだ。

まとめ

以上を考えると、出版業界は同じ轍は踏むまいとプラットフォームビジネスを展開し、成功しているとわたしは思うのである。いやよくやってるよ。

あと、出版業界は版元と卸(≒閲覧サイト)とでクロス売り出来てるのも強みかと。コンテンツホルダーがkindleに限らずコミックウォーカー、自社アプリ、その他諸々に併売しているのでPF同士の競争にもなり場代を吸い取られにくくなってるし、逆にお店、つまり販売する機会が多く作れている。これは音楽レーベルは多分できてないよね。

2023-10-10

anond:20231010065155

書店自体ガンガン潰れてるよ。出版斜陽なのは変わらないし。

目的外の本とか、付箋の利便性ももちろんだけど、特典が目的本棚コレクションしたい、人に贈りたい(その人が電子いかもしれない)、紙やインク匂いが好き、紙でしか刊行されてない、書き込むのに紙のが都合がいい、電子で読むには向いてない書式だから、と色々あるね。

2023-10-05

出版業界迷信

最近マンガとかラノベタイトルは長くないとダメだって迷信がある。

なんでも、タイトルが短いと売れないらしい。作家編集ダメ出しするそうだ。

なろうの長文タイトル効果なのは、表紙イラストや帯コメントみたいなものがないからわかる。

でもそれは説明的な帯が必要なのであって、仮にネット書店での露出対策としてもサブタイトルを付ければいい話だろう。

(この戦略は例えば芳文社の「ほうかご再テンセイ!」がやってる戦略でもある)

しかし、なんでもかんでもダメという編集ばかりに出版社がなってしまっているのだと、もう出版社ダメのではと思ってしまう。

編集者が余計な仕事をして本を売れなくするのなら編集不要論も加速していくに違いない。

ラノベではマンガ化にあたってネットでの発表時の短い元のタイトルに戻すケースもちょっとづつ出てきた。

わかりやすい例では「偽聖女クソオブザイヤー」がある。

これはネットでの発表時のタイトルが「偽聖女クソオブザイヤー」だったのが、

書籍化した際に「理想聖女?残念、偽聖女でした!〜クソオブザイヤーと呼ばれた悪役に転生したんだが〜」と改題された。

それがマンガになるにあたって、「偽聖女クソオブザイヤー~理想聖女? 残念、偽聖女でした!~」という間を取ったようなタイトルになったのである

別の例として「フシノカミ」もある。

同じく、発表時のタイトルは「フシノカミ」で、書籍化で「フシノカミ ~辺境から始める文明再生記~」と改題された。

これだと普通「フシノカミ」の方が大きく表紙に書かれるのが常識的だと思うのだが、何をとち狂ったのか「辺境から始める文明再生記」のほうを大きく書く、主従が逆転したデザインになっていた。

しかし、コミック版になってクソデカサブタイトルが表紙から駆逐され、サブタイトルフォントサイズが同じになって平たく表示されることになった。

この2つに共通していえることは、短くてキャッチーで覚えやすタイトルの方がマンガでは支持されていたであろうところだ。

この粗製乱造時代差別化のために説明的なタイトル必要なことはわかるが、それ以上に選んでもらった後のことを考える必要があると思う。

タイトル付けのセンスがない編集が読者に支持されていないのは明確に明らかであろう。

編集者は一度タイトルの付け方についてしっかり考え直してほしい。

特にスニーカー文庫編集あなた!!!

(「魔王令嬢の仰せのままに」を「魔王令嬢の執行者 ~魔王国に追放された無能勇者、隠された天与スキル無双する~」に改題したせいで気づけなかったの許してないからな!)

二度名前を消されかけた馬鹿な私の話

これは仕事で疲れ切っていた若くて馬鹿な私が、云年越しの真実に打ちのめされる話かもしれない。

どこか嘘かもしれないし全部本当かもしれない。ただただやりきれない気持ちだけで書く。

この日記を一行でまとめると下記の通りだ。

業務時間外に書いた云十万字の小説権利が、一切自身になかったことを知った話、である

* * *

学校卒業後に就職したのは小さなさな編集プロダクションだった。執筆編集者がやるタイプ編プロだった。

ニッチな界隈の本を細々と出していた会社で、今はもう存在しない。

好みの分野を扱うことが多かったので仕事自体は楽しく、担当していた界隈がにわかに盛り上がったときは激務に次ぐ激務だったがかなりのやりがいを感じていた。

編集者のいいところは、自分の関わった商品本屋という身近な場所に陳列されて、しかも奥付に自分名前が載ることだと思う。

「私はこれを作ったんだ」という実感は激務を忘れさせるほどの麻薬だった。

会社はいろんなタイプオタクがいて、コミケサークル参加するような同人作家も在籍していた。

スタッフ創作であることは仕事に生かされ、それが会社の強みにもなっていた。

私もそんな創作者のひとりだった。小学生のころから二次創作小説を書いていたような、生粋創作する側のオタクだ。もちろんコミケサークル参加したことがある。会社でも小説を書くことは隠していなかった。

前述したとおりいろんなオタクが集まっているのはこの会社の強みであり、取引から面白がられていたので、何かとそれは話題にあがった。「あなたは何のオタクなの?」という感じの雑談から、私が小説を書くオタクであることは取引先にも知られていた。

ある日、上司に呼ばれて席まで行くと、「小説を書いてみないか」と言われた。

とある人の半生が面白いので、脚色を加えて小説にする企画があるのだが、書き手ライター)が見つからない。

そういえば御社小説を書く人がいたよね? ――と、取引からお声がかかったらしい。

素人の思い出話を物語として成立させるには、筆力のほかに構成力も必要になってくる。

小説が書けて、編集者視点も持っている人にお願いしたい、というのが私が選ばれた大まかな理由だ。

人生何が起きるかわかんねぇな」と思いつつ、正直先方の正気を疑ったが、特に断る理由もないので「自分でよければ」と答えた。

そして、企画が動き出した。

当時私は中堅の社員で、後輩の教育も任されており、わりと大きな継続企画も抱えていたので、まあそこそこ忙しかった。

そこそこ忙しくはあったが、後輩に任せられることは任せ、溜まりに溜まっていた有休を無理くり使い、執筆作業に当てた。

徹夜もよくしたし、午前中にネカフェ執筆して午後から出社、終電後まで働くみたいなことも多かった。

執筆はすべて業務時間外にしていた。これは単に会社にいると仕事が降って来るので落ち着いて書けないし、原稿料をもらうからには切り分けねばと思ったからだ。

会社を空けることが多くなり、雑用確認作業が頼みにくいと上司からはよく嫌味を言われた。

通常の仕事に加え、睡眠時間を削りながらの執筆、「自分で書くのだから」と資料作成・装画周りにも関わり、とんでもなく忙しくはあったがやりがいも楽しさも感じていた。

初稿が上がり、大勢の人の目が入り、製作も大詰めというときだった。

上司が、軽い調子でこう言ったのだ。「著名は原案者だけにするかも」と。

反射で「私の名前が載らないってことですか?」と尋ねると、「そういう案も出ている」と言われた。

忙しくて頭の回っていなかった私は、ただただ「そんな話が出ているのか」とショックで、会話はそれで終わりになったと記憶している。

デスクに座ったまま、ぽろっと言われたくらいのノリだったように思う)

その日の夜になってようやくだった、「いや、私の名前が載らないのはおかしくないか?」と怒りが湧いてきたのは。

前述したとおりこの本は、とある人物の半生を脚色して小説化するというものだ。

当然、この「脚色」は私の創作である些細な話題を膨らませてドラマチックにしたり、つなぎになるエピソード創作して物語を盛り上げた。

たとえば登場人物の紹介をするのに、設定にある特徴から勝手エピソードを作ったりした。

こうした追加エピソードについては、原案からも「まるで本人を知っているかのような描写で驚いた」とお褒めの言葉をいただいている。設定から妄想を広げるのは二次創作同人屋の得意分野だ。

そう、この小説は相当私の「創作」が含まれているのだ。それなのに何故、ゴーストライターにされてしまうのか。

怒りのまま、とはいえギリギリビジネス文章に落とし込んだ形で、私は上司出版社担当者にメールを書いた。

個人アドレスから送ってやろうかと思ったがそれはやめた。不審メールとしてはじかれたら元も子もないかである

要は「私の名を出さないのなら、創作部分をすべてカットする」という内容だ。原案者が著者なら創作部分は生まれなかったはずだから、という理論だ。

私のガチギレぶりにめんどくささを感じたのだろう。私のペンネーム原案者と併記されることになった。

ガチギレメールについて上司から小言をくらったが知ったことではない。私のやることなすこと気に食わない上司文句などすでに聞き飽きていた。

今思えば原案/著で記載されるべきだったのだろうが、この後の出来事を考えるとこの時からすでに事は動いていたのかもしれない。

その後無事本は出版されたが、ろくな広報はされなかった。

発売後、今度は社長に呼び出された。社長と総務の前へ、何事だろうと寝不足の頭で棒立ちになっていた。

印税についての話である

個人出版社契約でなく、会社出版社契約を結び、入金された印税の中から褒賞として私に支払う形にする、という通達だった。

当時二十代半ばの私は、この言葉意味をよく理解しないまま、印税がもらえるならいいかと了承してしまった。

ここがすべての間違いであったのだが、そんなことは当時の私が知る由もない。

その後、若い私にとってはそこそこの額の執筆料をもらったが、当然のことながら重版などかからなかった。

なんやかんやあってその数年後、いろいろ限界を感じた私は逃げるように辞職した。このままでは飼い殺される、という危機感が一番強かった。

同じ家に暮らす家族から最近顔を見ていないけど元気?」とメールが来るような日々だったのだ。

それなりに「できる社員」として取引先にも認められていたので、おかげで再就職比較スムーズに進んだ。

* * *

それから結構時間が過ぎたころ、なんと前述の本のメディアミックスが決まった。

私がそれを知ったのはネットニュースでだった。

起き抜けのTwitterTL巡回中、見覚えのあるタイトルが目に入って一気に目が覚めた。それは結構な規模のメディアミックスで、有名な人も参加するプロジェクトだった。

何事かと思って公式サイトに飛んで、さらに驚いた。

スタッフクレジットの「原作」欄には、原案者の名前しか書かれていなかったのだ。

とはいえ、今も同人活動をしている身としてはあまり名が売れてほしくない思いもあり(商業活動をしているわけでもない)、それについてはそこまで怒りも湧かなかった。

何よりかにより私が衝撃を受けたのは、原作欄に掲載された書影から私の名が消されていたことだった。

ぱっと見た瞬間、変だと思った。画像の一部に雑な加工の跡があったからだ。何故加工されているのか、よく見たら名前が消えている。そういう順番での認識だった。

なんだかんだ長く出版界隈に居座っているので、画像加工については見慣れている。本職デザイナーの手にかかれば、あたかも初めから存在していなかったような「画」を作れることも嫌というほど知っていた。

その書影の加工は、どこから見ても素人仕事で、スタンプツール連打したんだろうなって感じのものだった。私でももっとましに作れる。

加工者が誰であれ、私の名は意図的にその画像から消されたという事実に変わりはなかった。

少し前に好奇心から知財の本を読んでいた私の頭には、人格権翻訳権、氏名表示権などなどいろいろな言葉が浮かんでいた。名を消されたことに関する影響も危惧していた。

それと同時に、ずぅっと謎だったけれど、見ないふりをしていた疑問も浮かんでいた。

私の印税ってどうなっているんだろう。

前述したとおりこの本はほとんど広告が行われていなかったため、重版など夢のまた夢だと思っていた。だから、それまで考えないようにしていた。

メディアミックスされるとなると話は別だ。

この時私は打算的にものを考えていて、名前を消した理由を尋ねるところから入り、この本に関する私の権利について確認を取ろうと思っていた。

正しくない書影掲載したという非が向こうにはあるので、多少強気でかかって話を引き出せると思ったのだ。

微々たる額でも印税がもらえたら御の字だなと考えていたのだ。なんたって印税契約をしていた会社はすでに倒産していた。

小狡い私はこの問い合わせを、出版社ライツ部に送った。

担当部署に直で聞くのが手っ取り早いが、権利に関する問題であるし、内々で片付けられても困る。よそを巻き込んで大事にしてやろうと思ったのだ。

結果、私は惨敗することになる。

なんと、当時の担当者がライツ部に異動になっていたのだ。こんな偶然があるのだろうか。

午前の早い時間に送ったメールは、午後には返事が来ていた。

お久しぶりです!」の文字にくらくらした。

この本が出たのはもうずいぶん昔の出来事で、だから、当時を知る人がもう社内におらず、だから、私と連絡が取れず、だから書影から名を消していたのだろうと、そう思っていた。

問い合わせのメールには、連絡が取れないか名前を消したのだろうか、だとしてもこんな雑な方法で消すのはどうなのか。何故名前を消したのか理由を知りたい。権利にかかわる問題はらんでいる恐れがあるためライツ部に連絡をした。製作時も記名に関してひと悶着あったというのに残念だ。そんなようなことを書いた。

当時を知る人がいない前提の文面だ。

だというのにどうだ。その担当者は私が転職したあとも仕事のやり取りがあり、だから、私の連絡先は知っていた。なんなら携帯番号も知っている。

連絡しようと思えばいつでもできたはずだった。

返信には、非常に軽い調子でこう書かれていた。

「先方に間違った画像を送ってしまった(入稿のものだったのかも?)。今正しいものを送ったので即時修正されるはずだ。今後の重版に関しても名前が消されていることはないので安心してほしい」

あのずさんな加工画像を、製作過程画像だと言い切った。

製作に関わっていた私が、そんな画像存在しないことくらい知っているだろうに、そう、本当に軽い調子で書いていた。

誤魔化すつもりなのだ公式サイトに私の名を記載しないが故、書影との差異を出さないように雑に消したのだろう。バレないとでも思っていたのだろう。これだけ対応が早いということは、この人が本件に関する責任者なのだろう。

まり、あの時私の名を本から消そうとしていた担当者が、私の名を表紙から消したのだ。

大事にしたかったのにならなかった。この時点でもう打つ手はないなと感じつつ、「当時を知る人がいるとは心強い!」とよいしょしながら、本書の権利について尋ねた。

念のため最初からメール署名から電話番号を消していた。電話では余計なことを口走ってしま可能性があるし、丸めまれる恐れがあるからだ。諸々のことを文章として残しておきたかったのもある。

この時点ですでに、職務著作という言葉が頭をよぎっていた。簡単に言うと、業務制作した著作物の著作権は会社帰属するというものだ。

わざわざ業務時間外に小説を書いていたが、契約会社に委ねてしまった時点で私は著作権を放棄したことになっているのだろうなとほぼ確信していた。

とはいえ契約である会社はすでに倒産しているわけだし、そこはどうなっているのだろう。この際だからという気持ちでいろいろ疑問をぶつけてみた。

会社在籍中は印税の一部は会社から支払われることになっていると聞いたが、という話も伝えていた。

(誤魔化そうとしているのは明白だったので、雑な加工については「画像の送付間違い」ということで流した。一応修正前の魚拓は保存している)

結果、分かったことは以下のとおり。

著作権は原案者のみが所持、会社とは業務委託の契約しか結んでいない。

印税契約は元社長が持っている別会社が引き継いでいる。

はあ、つまりだ。

職務著作どころでなく、はじめっから私の権利は知らんところで放棄されていたのである

ずいぶん話が戻るが原案/著表記にしなかったのは、こうすると私が著作者として確立してしまうからだったのでは?みたいな気持ちもある。

こんなめんどくさい人間を絡めるといろいろやりにくいと思われたのだろう。事実暴れてしまった前例もある。

そしてこの本がいくら売れようと、印税が入るのは案件ノータッチの元社長の懐だ。

結局、知識のある人間が得をするのだ。悪いのは無知な私だ。目の前の仕事で目を回していて、いったん持ち帰るということができなかった、仕事に疲れ切っていた若くて馬鹿な私なのだ

いろいろ教えてくれたことに感謝はしつつ、とはいえ雑に私の名を消した恨みは募っていたので、最後っ屁のつもりでやり取りの最後はこう締めた。

本来書影に書かれている名が意図的に消されていると、『この消された人物は何者なのか』と無為な詮索にさらされる危険性がある。それが一番の懸念だった。もう二度とこのようなことが起こらないよう留意してほしい」

シンプル名前が消された怒りもあるが、この危惧もあった。メディアミックスに際して名を消された著者。もし、私がこのペンネーム商業活動をしていたとしたらどう思われるだろうか。

消されるだけのことをしでかしたのではないかと思われる危険性は高い。これは信用問題になってくる。

それに、今のネットの「面白そうなおもちゃ」に対する残虐性は認識しているつもりだ。自分が掘り出した“真実”を喧伝し、当事者炎上させる。何かあったら嫌だ、と身構えるのは致し方ないと思われたい。

とはいえ、これを読んでいるような人なら理解してくれるだろうが、出版社のこの手の人間には理解されないだろう。

それでも、もう二度とこんな雑に人の存在を消さないでほしい、という訴えは届いてほしかった。

* * *

若人よ、契約書を作れ。契約書を読め。

この件に関して、私は別に詐欺にあったわけでも、法を犯されたわけでもない。ただただ無知で、己の権利に鈍感だっただけだ。

手痛い授業料だと思っている。このエントリーは半ば逆恨みだし、書いてすっきりして忘れたかったのかもしれない。炎上させたいわけではない。

自分無知で痛い目にあった私ができるのは、二度と同じ過ちを犯さぬよう、そして後進たちが同じ轍を踏まぬよう努めることだけだ。

提案は一度持ち帰って調べろ、即決するな。とくに寝不足とき危険だ。

教訓として、とりあえずこの一連についてはいたるところで語っていきたい。

なんせ、私と出版社は(ついでに元社長も)、なんの契約も交わしていないのだから

ほんの少しだけよかった話をする。なんと印税をもらえたのだ。

印税契約譲渡した元社長の現会社から連絡があり、お小遣い程度の収入を得た。夢にまで見た不労所得である

連絡をくれたのが元総務の人だったので(元の会社上層部がそのまま現会社に移っていた)少し話をしたのだが、出版社担当者の話題は一切出てこなかった。私とその人がやり取りしたことは知らないようだった。出版社から入金があったので粛々と対応した、という感じだった。

献本は送られてこなかったので自分で買った。初版と第二版の年月日を見比べると渇いた笑いが漏れた。ずいぶん長い時間がかかったものだ。

メディアミックスについてはとくに興味も湧かず、とはいえ周囲から話題を聞くこともないので、爆死も盛況もしていないのだろう。

もう一回ぐらい重版からいかな、と思っているが難しそうだ。

2023-10-02

渡邊裕子さん発言

・クオモがニューヨーク知事であることに感謝する日々。人間ブルドーザーのような機動力、機転の速さ、逆境でも負けずに戦い続けるスタミナ、明晰な説明力、人間味。

 

アメリカ社会暗黙のルールとして、人の外見に対するネガティブコメント基本的に全部アウト。それで笑いをとるのはもってのほかテレビでもやらない。

 

ジャニーズ問題で露呈した「子どもへの性犯罪」に甘い日本萌え絵カジュアルに消費される異常さ

 

プロフィール

ニューヨーク在住。1993年早稲田大学法学部卒業後、渡米。マサチューセッツ州立大学アムハースト校大学院にて政治学修士取得後、ニューヨークジャパンソサエティーに勤務。各種シンポジウム、国際会議文化講演会リーダーシップ交流プログラム企画立案運営に携わる。2006年ハーバード大学ケネディスクール大学院修士課程を修了、地政学リスク分析の分野での先駆者として知られる米コンサルティング会社ユーラシアグループに、日本スタッフ第1号として入社日本顧客担当チームの初代ディレクターとして、日本市場における顧客開拓と維持、メディアブランデング戦略商品開発、出版事業などの責任者を勤める。2017年7月ユーラシアグループを退社、11月まで同社のアドバイザーを務め、2018年約1年間の自主休業(サバティカル)を経て、2019年中東北アフリカ諸国政治情勢がビジネスに与える影響の分析を専門とするコンサルティング会社 HSWジャパン (http://hswjapan.com/index-jp.html) を2人の共同経営者と共にニューヨーク設立複数企業日本戦略アドバイザー執筆活動も行う。株式会社サイボウズ社外取締役

https://www.businessinsider.jp/author/Yuko_Watanabe/

2023-09-29

インボイスジャニーズ報道について

インボイスがとても面倒だと思う会社員です。

既に、チェーンのコーヒーショップレシートインボイス対応されていて、それを持ってきた社員がいて話題になった。

「これからは、取引先と入る店も、事前に『ここインボイス対応?』って聞かなならんのか」

「そこが駄目だったら他に回るんも変やしなあ」

しかし、うちの会社規定ではそうしないといけないらしい。経理が面倒だから

ところで、明々後日にジャニーズ事務所事務所名を変えるかどうかの会見をするらしい。

NHKニュースでやっていた。

性加害、人権問題大事であろうが、メインの加害者はもう故人なので、個別粛々と補償を進めればいい。

事務所名の変更よりも、もっと重要ニュースがありそうなものだが。

しかし、十分な時間が割かれていた。

この問題の起きた最初の頃に、被害者青年メディアに向けて言っていた。

メディアが、ジャニーズ事務所はそういう噂のある事務所であることを報道していたら、僕は事務所に入らなかったし、親も入れなかっただろう」と。

これには少し驚いた。

はいくつか出版された暴露本存在を知っていたし、ジャニー喜多川セクハラ裁判で負けたことも知っていたからだ。

セクハラの度合いはともかくとして、少年愛的な傾向のある人物なのだろうと認識していた。

だが、言われてみたらTVで大々的に報道された記憶はない。

裁判があった当時に、今やっているくらいの報道があったら、まだ子供だった本人はともかく、少なくとも彼の親は見たのではないか

でも、なかった。

インボイスの件も、似たような忖度を感じる。

施行する段階になって、今更騒ぐのはおかしい、政策立案時に反対すべき、と言われているが、その時期に十分な量の報道はあっただろうか。

クリエイターだけではなく、農業従事者や工業従事者など多くのフリーランスが困る、普通会社員にも影響がある、とわかりやす報道していただろうか。

見た覚えがない。多少はあっただろうが、今、ジャニーズ話題をやっているほどの量はやっていない。

国民関係のある問題だったのに。

おかしくないかな。

ちなみに、ジャニーズ事務所名変更の半分以下の時間インボイス関係話題もやっていた。

総理必要支援対応を指示しています」って、10月から始まるのに、今そんな状態なことに対して、なにか意見はないのか。

ジャニーズの件で「我々にも反省点が~」と言っても、その反省が行かされたようにはとても見えないが。

ちなみに『今更言ったって~』『決まっちゃったもの無駄だよ』について。

からどうこうできるものではないのだろうが、やらないよりはやったほうがマシ、だと思う。

何もやらないのは賛成と同じ。

「みんな賛成だから何も言ってないんですよ」と言われるくらいなら、とりあえずNOを表明しておこう。

少し前に西武百貨店ストライキがあった。

あの時も、やったって無駄だよという意見を聞いた。

でも、ストライキは行われ、報道されて、会社でも話題になっていた。

売却後、建物に入る予定のヨドバシカメラは、ちょっとだけでもやりにくくなっただろう。

ヨドバシになるのが延期になったら、個人としてその間に転職出来たりする人もいるだろうし、話題になったことで、リストラされる人の交渉もいい方に働くかもしれない。

まったくの無駄というわけではない。

インボイス粛々と実施されるだろうけど、反対意見が大きければ大きいほど、『次』はやりにくくなったはずだ。

そして、我々の側も学びを得た。

次に増税検討される時は、法案の段階で大規模に反対をするべきであることとか。

そして、とりあえずTVはあてにならない。

2023-09-26

税務官僚だった頃の思い出 Part1/3


 国税庁の最終面接のことを思い出している。大学四年生の頃だ。今までの面接は、無機質な長机とパイプ椅子のものだった。だがその時は、四角いどっかりとした檜机と、ふかふかの椅子だった。それでいて圧迫感のある面接であり、最後に「私達と一緒に働けますか?」と言われたのを憶えている。

 「はい。私でよければ宜しくお願いします」といったことを告げると、その場で最終合格が遠回しな言い方で告げられた。内定通知は賃貸アパートに届いた。

 こんなところに書くほどだから予想はつくだろうが、結構前に官僚を辞めている。仕事は大変キツかった(きっつー、というやつ)が、やりがいはあった。いつかは挑戦してみたい仕事もあった。

 思えば、大学3年生の春からコツコツコツコツと勉強を重ねて、やっと第一志望のひとつだった官庁合格できて、「やったー!」と無邪気に思っていた。案外こんなものだ。

 国家公務員課税部門)としての経験20数年しかないが、せっかくのシルバーウィークだ。ちょっと語ってみたい。今は税務コンサルタントとして働いているが、夏前に大きな仕事が片付いた。今は仕事を少なくしてもらっている。

 仕事のことを、はてな匿名ダイアリーに書いてる人を稀に見る。今回、私もやってみようと思った次第だ。企業との課税交渉協議録とか、個人法人の税額とかを載せない限りは大丈夫だろう。何かあったら責任は取るつもりだ。

 高橋洋一山口真由が自著で話している内容に比べれば、当日記はベジタブルのようなものだ。あの内容を出版して捕まらないなら、ここで書く内容など余裕でセーフだ。

 なお、私ははてなユーザーの中では年寄り(フミコフミオさんと同い年)である。古い表現があってもお許し願いたい。

 先に言っておくが、「霞が関に来なければ体験できなかったことは人生財産」とか、「国のために働いている自負があった」とか、「苦しかったけどいい仕事ができて国民のためになった~」といったことはあまり書かない。

 そんなに夢や理想のある官僚じゃなかった。僅かばかりはあったが。むしろ組織に負のイメージがあって、若い頃に限った語彙だと「こいつらクソ野郎だな」という感情を抱いていた。それで、40代になって数年後に転職した。再就職規制に引っかかる危険はあったが、グレーな方法突破した。

 当日記は、数パートに分かれている。できるだけ簡潔にまとめたい。以下、思い出を何点か挙げて回想する。



思い出① 税金とは何か?という問い

 中学生の頃から、「税ってそもそも何ぞや?」という疑問があった。大学に入ってからは、税理士資格を取るために勉強していたが、どれだけ勉強しても税への理解イマイチだったし、全科目に合格した後も結局わからなかった。

東大とか一橋大とか慶應とか早稲田とか、そういうい大学を出てるわけじゃない。偏差値50ちょっと大学だ。たまたま会計学講義を取ってみたら面白く、勉強にハマった。

 税とは、一般的説明だと、国や地方自治体国家の維持や発展をめざして、民間では供給されにくい公共的なサービス提供するにあたっての資金として「税金」を徴収している――ということになっている。

 だが、おかしいと思っていた。だって、国はお金自由に発行できる。地方自治体が言うのならわかる。あと、大昔だったら年貢を物納で納めてもらわないと国が維持できなかったはずだ。

 だが、現代社会国家がそんなことを言っても説得力イマイチだ。税金をとらなくても、別にお金を刷ったらそれでいい。金本位制時代を通り抜けて、今では発行された紙幣のものに信用がある時代なのだお金というのは、それがお金であるがゆえにお金だ、というトートロジーである

 増田民の人も、わかってる人はわかってるだろう。税とは何かが。ここで答えは書かない。気になる人は、Yahoo!知恵袋とか、Quoraで求めれば賢い人が教えてくれる。

 私が納得いかなかったのは、一応は国家公務員一種試験(昔だったら上級甲種試験)を通ってきたはずの人達が、入庁一年目だった私の質問に答えられなかったことだ。「そんな当たり前のことを聞くな」という人もいたし、「ここではちょっと…」と口を濁す人もいたし、「知らん。自分で調べろ」という人もいた。

 税を納めるのは当たり前のこと、ただ、その原理と言うか……そう、原理大事だろう。何も考えずに常識を信じていいのは中級者までだ。上をめざすのであれば、身も蓋もない本質を疑う必要がある。

 こういうことを私が言っても説得力がないので、ちょっと引用させていただく。

それぞれの原理を、その自然本性のかぎりで探求しようとしなければならないし、きちんと定義されるよう腐心しなければならない。というのも、原理はそのあとに続く事柄にとって、大きな影響をもっているかである。実際、原理は全体の半分以上であり、探求されているものの多くは、原理を経由することで明確になると思われるのである。 ニコマコ倫理学(上) P.62


 なぜ国民から税金を取るのか、という新人職員の問いに答えられる職員10人に1人ほどしかいなかった。思えば、この時からはいつかここをやめようと思っていたのかもしれない。

 実際、徴税国民みんなから集めたお金公共サービスに充てるため、というのはお題目だ。わかりやす国民を納得させるための。本来目的はほかにある。それに比べると、上の『お題目』はビックリマンチョコのおまけに近い。ウエハースだ。



思い出② 課税処分の難しさ

 トラブルになりかけた事例になる。詳細は端折って書く。専門用語は補足するか、日常的な言葉に言い換えている。

 キャリア官僚現場体験しないイメージがあるかもしれないが、別にそんなことはない。入庁二年目から普通に現場だったし、30才を過ぎて地方支局で働いてる人もいる。

 当時は、北海道某所にある国税局に勤務していた。一応は税理士必要な科目は残りふたつというところまで取っていたが、それでも実務は難しかった。勉強しないといけないことは山ほどあるし、一年目は税務の学校で学ばせてもらったが、実務に必要知識の何割も身に付いていない。税務の世界は広いのだ。

 最初の頃はひたすら、簡単事務とか雑用とか、先輩が受けた税務相談の回答案作りとか、上位機関から調査ものとか、庶務全般文書収受会議日程調整~飲み会手配まで含む)に、兎に角いろいろやった。

 すべて勉強になるとは思ったが、正直これは臨時職員がやった方がいいのでは……と感じるものもあった。まあ、とにかく新人らしく何でもやった。

 赴任して半年だった。とある先輩を経由して、それなりの事業規模の法人の税務申告を最初から最後までやらせてもらえることになった。同じ年代職員(※省庁キャリア)の中では遅い方だった。資本金結構ある機械メーカーだったかな。これまで当業務では、先輩方を手伝う立場として動いていたから、割とすんなりいくように思えた。

 申告内容は当然精査するのだが、日本課税制度は一応性善説でいっている。国民法人含む)が嘘をついたりごまかしたりしない、ということを前提にしている。その企業も、過去に税務に関して更正処分(支払う税額が誤っていると判断した場合に○円払いなさい、という措置関係トラブルを起こしたことはない。

 一応は提出書類を三周ほどしたところ、申告書類も、帳簿も、領収書請求書契約書(請書)も、通帳関係問題なし……それで、さあ決裁だといった具合に伺いをスタートした。

 先輩方の場合は、スルッと起案が通るようだったが、自分場合はそうはいかなかった。新人に厳重なチェックが入るのは当然だった。

不動産の項目がおかしい。取得した不動産価格常軌を逸して安い。税をごまかそうとしているのでは?」

 という、先輩及び直属の上司からツッコミがあった。上司を納得させないと、次に進むことができない。思えば、あの先輩は、このことがわかっていて私に振ったのかもしれない。

 当時の私の実力を超えた課題だった。頭を抱えたのを憶えている。あの時の思考過程を追っていこう。

 かくして・・・

 探求の旅は はじまった

 まず何をすればいいかというと、不動産価格がしっかりしたものかを調べればいい。正当な根拠のある価格であればいいし、不適当価格であれば……面倒なことになる。

 不動産売買にかかる課税額は、比較シンプルだ。普通法人税と同じで基本は定率である(税額表を見ればいい)。ちょっと賢い中学生でも実務ができるだろう。

 印紙税も、登録免許税も、不動産取得税(県税)も、固定資産税(市税)もそんな具合だ。不動産本体価格については難しい計算必要だが、焦る必要はない。市区町村にある固定資産税台帳には、固定資産税評価額が載っている。それを見れば、登録免許税の目安となる不動産価格がわかる。※固定資産税の納付書にも書いてある。

 それを根拠に……と思ったが、そんなに単純な話ではない。ならば先輩も上司ツッコミを入れたりしない。イレギュラーなケースなのだ

 その物件は、なんと固定資産税台帳に載っていなかった。そういう土地だった。登記簿を見たところ、字名がとんでもないことになっていた。奥地にあって、大昔は栄えていたのかもしれないが、今では地域まるごと誰も手入れをしていない。そんな土地だった。しかし、幅4.0m以上の道路は通っている。江戸時代の人が整備したと思われる。

 国税庁においても、外部公表している不動産価格の調べ方みたいなものはある(いわゆる路線価だが、当然奥地には路線価がない)。国でも地方自治体でも、不動産価格を求めるための要綱要領は具えているが、今回は通用しないのではないか。そういう案件だった。

 若かりし日の私は思案しつつ、先輩にも相談して上司に2つの案を出したはずだ。懐かしい。

 1. 比準価格(みなし計算のようなもの)を使って不動産価格を弾くと、今の数倍以上の価格になる

   メリット…適正と思われる税を徴収できる

   デメリット…上申や裁判等になった時に勝てる保証がない

       県や市町村にも情報共有や協議意見聞取が必要

 2. 今回は大した金額ではないため、相手方の税額を受け入れる

   メリット…百万にも満たない税額差であり、費用対効果を考えるべき

   デメリット相手方が悪質だった場合前例を作ることになる

 結局、2.の案が採用された。それで、起案はあっさり通った。協議相談をしたのは直属の上司までであり、決裁の責任者には上司が一声かけたくらいだ。それで新人職員の一件目である課税処分は通ってしまった。

 思えば、先輩や上司からすれば、最初から2.一択だったのだ。今の私の判断もそうだ。課税額の差として百万円にも満たない金額のために、そこまでの手間はかけられない。もっとかに日本の税務行政のためにやらないといけないことが山ほどある。

 一応弁護しておくと、現場で働く公務員には、「法適用裁量」と「エネルギー振り分けの裁量」がある。現場的な要素が強い職種だと、上司の指揮監督を受けるのが望ましくない場合がある。極端な例だが、警察官凶悪犯をパトカーで追っている最中に、スピード違反信号無視をしている者を放っておくのはやむを得ない、といった観点だ。

 余談になるが、国税局職員県税や市税の脱税を見つけた場合も、人や状況によって対応が変わる。情報提供する場合もあれば、見なかったことにする場合もある。

 それこそ昔の話だが、飲み会とある話を聞いた。ある個人納税者から地方税務署相談があったという。要約すると「1年前に出した赤字決算の申告書だが、実は黒字で、税金を納めないといけないことがわかった。どうすればいいか」ということだった。追加で納付すべき税額は、約30円のようだ。このままでは脱税者になってしまうと焦っていたらしい。

 その相談を受けた税務署員はこう答えたという。「実は、ボールペンとか消しゴムとか、事務用品を買っていたのを申告書に書いてないんじゃないですか? だったら、納付すべき税額はやはり赤字では? 問題ないですよ」と。※以後の話は不明

 課税処分はもちろん、どのような行政処分であっても費用対効果という観点が重視される。税収1万円増のために2~3万円をかけるのは議論余地があるにしても、20~30万円をかけるのは明らかに不合理だろう。

 テレビネットメディアはてなブログでは、公務員は何も考えずに税金支出しているイメージがあるかもしれないが、ちゃんと考えている人が多数派である。そこは信じてほしい。

 数年後、私は北海道から霞が関に戻ることになった。それから退職するまで、ずっと法人課税部門にいた。



 Part2/3

 https://anond.hatelabo.jp/20230926201302

anond:20230926155744

まりは......私有財産

G&Wは、私有財産宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:

このような神聖ものは、多くの場合存在する唯一の重要かつ排他的財産形態である......神聖文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的財産も同様である。このような社会では、私有財産概念と聖なるもの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除構造なのである。(p. 159)

ここで「絶対的もの」が「私的もの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。

この混同は、著者が宗教私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的定義を持ち出している:

デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たち絶対的私有財産について語るとき、その根底にある論理社会効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。

そして著者は、アマゾン原住民仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在神聖所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋私有財産概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。

G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである現代私的所有権を、超自然存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理社会効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?

先住民活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖ものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。

デュルケムの洞察の中で最も強力なものひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるもの神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。

デュルケムが実際に主張したこと

デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブー起源説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性隔離する力は血の力であり、聖なるもの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。

デュルケムにとって、「分離」という原初的概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女親族は、彼女所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり彼女男性との付き合いからも世間から隔離した。彼女隔離は、特別儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女身体神聖ものであり、それに関する彼女選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団行為と関連して、人間意識言語文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。

もしG&Wが現代進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム洞察が、血のように赤い黄土色が、男性女性の肉体が神聖ものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代考古学説明を、いかに先取りしていたか認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)

季節的か、月的か?

さて、『万物黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたかである

人類学を学んだことのある人なら、エスキモーアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルヨーロッパ後期旧石器時代氷河期文化適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。

この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期天才政治家たちは、革命で得たもの永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである

私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類グループ狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカ進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。

権力振り子

G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要儀式は、女性月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。

コンゴ熱帯雨林では、女性たちは男性勇気潜在的支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:

単一パターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実のものと、その結果としてのさまざまな社会可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである

もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。

この最後質問は実に深いものであるしかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的認識を深めてからでなければならない。私たち先史時代祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?

結婚が恒久的なものになったとき

中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代比喩Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶもの確立している。このような社会における親族関係居住パターンは、月経排卵兄弟恋人親族関係結婚共同体連帯セックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。

このようなパターン古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロック説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係パターン結婚後の住居の多様性理解することも重要である--これも決定的に重要トピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。

非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンはるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカ狩猟採集民の女性は、母親キャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係結婚生活の間を交互に行き来する。

母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫から圧力で住居を変え、夫とその親族永住せざるを得なくなることもある。このような場合子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。

人類はいかにして「行き詰まった」のか

これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケア強制的コントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀ヨーロッパ北米のウェンダットにおける処刑拷問光景描写している。国王臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長義務モデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダット囚人に長時間拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。

そうしてG&Wは、ケア支配区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明見出したのである

私たちは、ケア支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身自由に再創造する能力私たちいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり私たちいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要ことなのだ...。

狩猟採集民の研究ジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人軍事指導者拷問者、ヨーロッパ君主経験限定し、これらの人々の心理的葛藤想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的支配することを混同してしまたからだと示唆しているようだ。

これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉提示されているだけなのだ

外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たち事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?

この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。

(続く……)

(ほとんど)すべてについて間違っている――デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロー著『万物黎明書評

万物黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的冒険的で実験的なものであり、自由平等呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつ体制から抜け出せなくなっており、その理由理解しようと努めなければならない。

これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たち人間性を規定する政治的本能社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。

彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせ虐待支配実験しただろうと主張しているようだ。

G&Wは、私たち革命過程社会的道徳的人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間言語意識親族関係道徳は漸進的な進化過程進化し、それが巨大な社会的政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間本来利己的で競争的だから社会主義不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的偏見に挑戦することであった。

はいつもこう答えていた。そう、私たち類人猿一種である。そう、私たち霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的本能を持っている。しかし、それが私たち成功の原因ではない。優秀な母親父親になる能力自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力道徳的ルール確立する能力他人自分を見ているように自分も見ている能力音楽ダンス言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命産物であり、成功した革命なのだ

クリストファーボーム人間革命

この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファーボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスジェンダー力学についての言及を一切省くことで、政治的観点から安全策を講じた理論バージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスバージョンなのである

ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下から集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たち祖先チンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観コミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである

G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑羞恥、遠ざけ......他の霊長類類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術進化過程人間の本性を形成する上で重要役割を果たしたという考えである

ボーム説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類基本的平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)

唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉引用に値する:

ひとたびどこかのバンド平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)

これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類基本的平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつ特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである

万物ティータイム

かなり不当なことに、『万物黎明』は現代進化論を社会進化論混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀物語であるダーウィニズム科学である私たちは語り聞かされるが、実際は純粋神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類起源に関する視点を、読者が真剣検討することを期待している。

この著者たちが認める唯一の科学は「考古学科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治社会生活については、古代人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。

このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端ダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学儀式の実行パターン性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.

残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間本能心理形成における集団的育児重要役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別神話を「重要もの」と表現している。そして、「エデンの園存在せず、一人のイヴ存在しなかったのだから、このような洞察部分的ものしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディ画期的研究が、私たち共通ミトコンドリアDNA祖先年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実無視すること--は、明らかに人類起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。

石器時代新石器時代考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽言語に対する生得能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!

タイトルは深刻な誤解を招く。『万物黎明』? 『万物ティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期フランススペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。

さな狩猟採集民のバンド

G&Wにとって、狩猟採集民の祖先アフリカもっと早くから平等主義的なライフスタイル確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。

まり狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間文化的知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。

ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的抵抗狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型である結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベル政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいか危険かを理解する知性があると彼は説明した。

富の不平等は許されない

しかしG&Wによれば、富の不平等問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀ヨーロッパの「文明」を批判したファーストアメリカンカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初アメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。

G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:

こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?

どんな未来アフリカ狩猟採集からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。

はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。

(続く……)

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続きの続きの続き

農業の到来

平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。

農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所独自発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しか農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。

やがて、凶悪犯やいじめっ子集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃小作料、労働力雇用税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ

農民狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。

しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会搾取国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等可能になったのだという、この物語に立ち向かった。

フラナリーとマーカス

2012年考古学者のケント・フラナリージョイス・マーカスは『不平等創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。

しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業階級可能にしたが、多くの農民平等主義の社会暮らしていた。農業発明階級発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。

フラナリーとマーカスはまた、地元凶悪犯や領主権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリート考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上階級闘争は決して止まらないのである[5]。

ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学根本的に変えた1954年エドモンド・リーチの著書『ビルマ高地政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。

スコットは、平原王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国国家からの絶え間ない奴隷化軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。

技術

ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカス仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。

しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術環境と、他方では経済的政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。

フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジー環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業発明自動的階級格差国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである

階級関係階級闘争技術環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的ものとする段階論の粗雑な形式問題にしている。

この生態学思考に対するアレルギーが、彼らが人類進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。

これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術生計を立てる方法に対して、どのように社会適応を築いたか理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。

一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系技術について考えることは、彼らが望む選択革命不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである

これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。

ジェンダーの不在

グレーバーとウェングローが環境人間存在物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである

同じように、彼らは階級という概念や、階級関係階級闘争についての議論ほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級人間なのかを知っているが、階級関係社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。

これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダー社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプ散見する。

平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類性別による不平等起源についてほとんど何も語っていない。

男女関係進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的であるジャレド・ダイアモンドナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等暴力競争人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性進化によって他の男性競争するようにプログラムされているため、強い者が女性支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的感情部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。

偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。

非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性男性の間の差異本質化し、女性男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。

私たちが支持するのは第3の選択である歴史学人類学考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的政治的に平等社会暮らしていたほとんどの場合女性男性平等であった。また、経済的に不平等階級社会存在したところでは、そこでも男性女性支配していた。

私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?

グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ

複雑な採集

グレイバーとウェングローの説明重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等戦争さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。

レバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍平等主義的であったか暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]

典型的な例は、フランツボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダ西海岸コロンビア川フレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケ遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10ポンドサケを獲ることができた日もあった。

それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部河川全域にわたって、サケ資源豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。

事実上農民田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。

農民と同じように、環境的制約と新技術階級社会可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲ポトラッチ饗宴の民という、お決まり説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。

天然痘梅毒人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的茶番劇として語られている[8]。

西海岸漁民けが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さら考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。

複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術問題かもしれない。確かにカリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである

彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部カルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長戦士階級格差奴隷制度、高価な戦争カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業依存する漁民であった。

グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民もっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人アフリカ人捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイム戦士たちは働かずに生活することができた[10]。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143955

万物黎明』は人類歴史を誤解している

はじめに

急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物黎明』は例外であるわずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞雑誌の多くから賞賛を受けている。

著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的投稿者たちからも、好意的コメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。

しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠無視しており、その政治的主張観念論的で自発主義であると論じている。どちらの書評特に女性抑圧の原因を考察していないことに批判である

クリスナイトはユニヴァーシティカレッジロンドン人類学上級研究員で、アフリカにおける人類起源研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Education掲載された。

ナンシーリンディスファーンジョナサンニールはともに人類学者として訓練を受け、人類進化階級社会性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』であるジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評エコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。

どちらの書評も著者のご好意により再掲載されている。

根本的に支離滅裂で間違っている byクリスナイト

本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパ洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較最近先史時代について学びたいのであれば、必読の書であるしかし、人類最初に笑い、歌い、話し、芸術儀式政治創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。

この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物黎明』? 『お茶時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。

欠点はあるが、この本は広報勝利であるフリードリヒ・エンゲルスが『家族私有財産国家起源』を出版して以来、左翼知識人活動家人類社会的起源先史時代過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。

短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治メッセージ露骨だ。平等主義狩猟採集民が生活の中で共産主義実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類のものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威行使してきたこから国家権力の原理人間の条件の不動の特徴であると主張している。

よりによってアナーキスト国家必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつ世界可能である」という革命スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。

著者たちはダーウィン自然淘汰理論違和感を抱いており、現代進化論を「社会進化論」と混同している。現代進化論は科学であると主張するが、実際は純粋神話であるグレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類起源についての視点を、読者が真剣検討することを期待しているのだ。

彼らが認める唯一の科学応用科学であり、この場合は「考古学科学である。彼らは、政治社会生活については、古代人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物黎明」の年代わずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸である

彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能心理形成する上で集団的育児重要役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園存在せず、一人のイヴ存在しなかったのだから、そのような洞察部分的ものしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディ研究が "アフリカイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実無視すること--は、明らかに人類起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。

グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑羞恥心敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たち人間性規定する本能能力平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?

私たちは皆、社会的政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせ虐待支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学クリストファー・ボームが描く、反権威主義抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類さりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。

グレーバーとウェングローの基本的論点は、政治選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学古典であるエスキモー伝統的な生活説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキー形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつシステムに縛られることはなかったということだ。

この歴史対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性であるグレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性儀式は、基本的に月によって予定されている。

著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義概念に触れている。彼女は、コンゴ熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。

なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。

太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバル伝統である庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。

残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカ物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係説明することができない。

すべての条件が同じだとすると byナンシーリンディスファーンジョナサンニール

グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たち問題を提起している。

デヴィッド・グレーバーわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動社会正義運動リーダーとしてのデイヴィッド・グレーバー活動は異例であり、模範的であった。LSE人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。

しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物黎明』が、今後長い間、不平等起源に関する理解の枠組みとなってしま危険性がある。

本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニットパンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキーロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちから賞賛言葉掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。

この本は最近マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛一般的見方になったら残念である

人類進化歴史における不平等起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要であるしかし、グレイバーとウェングローは平等階級に目を向けることなく変化を求め、環境生態系説明を敵視している。これらの欠点保守的意味合いを持つ。

では、ここから。これは膨大な本の、乱暴部分的書評である私たちは、グレバー知的議論の切り口を愛し、得意としていたという知識自分自身を慰める。

ジレンマ

この本の最後段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たち立場を明確に示している。彼らはこう書いている、

例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質基本的に善か悪かであり、不平等政治意識存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証仮定から始まる場合

私たちは今、神話を目の前にしている」

まり神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等政治意識が生まれる前の時代存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間自由制限することはないこと、参加型民主主義都市国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。

このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。

第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身政治プロジェクト対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143527

2023-09-21

anond:20230921121935

無職ニート思考は転生して20年経っても全く変わらない、という流れをキープしてたならタイトリ通りだけどたぶん売れなかったと思うし出版されたかも怪しい

anond:20230921093950

たぶんジャニー喜多川人格形成犯行歴については、後に詳細な調査を基にしたノンフィクションとして出版されたりするだろうし、そこから見えてくるのは戦後日本の歪みのようなものだろうな。

2023-09-20

今青葉の小説出版すりゃベストセラー間違いなしだよナ

俺も読みたいし

2023-09-19

anond:20230919174218

新聞出版境界線か。裏垢でジャニーズ萌え語りしてもそりゃご自由にだよな。

そこもわざわざ掘り出して素性特定して職業フェミと分かれば鬼の首採ったように叩くんだとしたらそれはそいつおかしいしストーカー予備軍だよね

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん