はてなキーワード: レバーとは
当方25歳女。
経血に紛れて排出される、所謂レバー状の塊を洗って目を凝らすと結構血管が見えるんだよね。くらげとか、ミトコンドリアとか、なんかあんな感じ。着床を夢見て子宮内膜に張り巡らされたシステムの残渣だよ。まあ排出された時点で死んでるんだけどさ。
精子を顕微鏡で眺めるのとは訳が違う、流れ出した自分自身の組織構造。精液は自分で生成はしたものの別個の存在だけど、子宮内膜は内臓の一部だから数週間は共に過ごした同士でもある。
そんな、自らの組織構造がシステムによって無情にも排出されていく、そのたびに自分は動物なんだって再確認できて不思議な気持ちになる。
ちなみに自分の子宮内膜食べてみたこともある。全体的には、血の味じゃなくて、なんか独特の女の子の匂いがするんだよね、あれ。経血って、体液に数%の血液が混ざって赤色を呈してるだけで、ほとんど女の子の分泌液だとわたしは思ってるんだよ。わたしは香りの強い系生理用品とか使ってるわけじゃないから(一通り試して海綿に落ち着いた)、たぶんあのいい香りは女の子特有の煮詰めたフェロモンだと思う。母乳とか赤ちゃんの薫りにも似たような、優しい匂い。でも、よく洗って味わうと苦い。普通に生のレバーみたいな苦味がある。精液の尖った苦さじゃなくて、分子量重めの苦さ。伝わるかな。
とにかく、性別に関わらず、一回見て見れるなら見てみるといいよ、経血。
おまえがレバーになる日もそう遠くない
先日、初めて妊娠した。
前日に血が混じったようなおりものが出てくるようになり、翌日朝イチで病院へ行った。
先週より胎嚢も子宮は大きくなっているが、わたしは子宮内膜が薄いらしく、もしかしたら今回は生理として体外に排出されてしまうかもしれないと告げられた。
朝イチから病院へ行くのは心身疲れるもので、帰宅後、4時間ほど寝てしまった。
目が覚めるといつもの生理のようなお腹の芯からの痛み、抉られるような痛さがあり起き上がることが困難だった。座るのも苦痛なくらい。
トイレへ行くと血液の量が増えており、最早生理レベルのサラサラとした血や赤黒い粘度のある物体が排出されるようになった。
そして用を足して、トイレットペーパーで拭いていた時。
ピチャ、と4cmほどの赤黒いレバーのような塊が便器に落ちた。
先生はすぐに来てくださいと言い、超音波で中を見てもらうと午前中まではあった胎嚢の影が無くなっていた。
ああ、さっき出ていってしまったのか。と現実を突きつけられた。
体調が急変したのは、ストレスの影響もあるのかなと思う。
妊娠してから頻尿、排尿痛、肌荒れといった、今まで経験したことのない体の変化に悩み、今後の心配もたくさんしていた。
そんな矢先の流産。
批判されるかもしれないが、いなくなってしまった実感があまりないのもありそれほどショックを受けなかった。
流産する確率は30%ほどだと思っていたので、まさか自分はないだろうなと思っていたが(どこからくる自信なのかは自分でもはっきりと分からない)、そのまさかだった。
妊娠以外のことでも悩みがあったのもあり、
今後数年は妊娠することはないと思う。
だけど、今回起きたことはいずれまた命を授かった時に活かせたらいいな。
少しの間だけだったけど、世の中の母親、
妊婦さんはすごいなと思った。
妊娠初期の体の変化だけで体とメンタル、どちらもかなりへとへと。
とりあえず、元の体に戻るまで暫く休もう。
百貨店のエスカレーターに乗ったら前に男と女が乗っていて前にいた男がわざわざ女の後ろに行き俺の前で両サイドのベルトに手をかけ立ち始めてイラッとした
俺を不審者扱いして女を庇う動作をして紳士的に振る舞ったつもりだろうがまず男が先にエスカレーターに乗ったから順番が
男
女
俺
になったんだろうが
その姿にイラっとした
もし俺に理性が無ければ背中を向けた無防備な姿にレバー打ちをして手を極めながらエスカレーターから投げ落とせていたけどそこの対抗策は考えてたんだろうか
正解は一段女を前に進めて入れ替わりでいいだろうに
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2100273
以前にもあったが、トロッコ問題が話題になると雑な難癖付けたり知った顔で無知なコメントつける輩が多すぎる。
ブクマカにまともな意見を求めるのがおかしいといえばそれまでだが。
ちなみに手術の話は近い状況が現実に起きていて、
「治療すれば助かる、健康な臓器を持つ新規入院患者」と「臓器の移植を待つ、すぐに臓器移植すれば生きられる複数の患者」がいて、
「新規入院患者の治療を失敗したことにして見殺しにすれば移植をして5人を助けられるし、失敗したことについて書類等をそろえて責任を問われない状況にすることも現実的に可能」な場合に、
「職業倫理上意図的に患者を治療しないことは許されないが、とはいえ1人を活かすことは臓器移植で生きられる患者を見殺しにしていることになるのではないか」と悩んだ医師は実際に存在するし、
「仮定の問題」とか「そういう判断を迫ること自体がおかしい」というような人は、たまたまそういう状況に直面せずに生きられているか、そういう状況に気づかず無意識に選択して生きているに過ぎない。
その無意識の部分を考えるための「思考実験」という言葉の意味を理解できていない。
「家族」とか「それぞれの余命」とかっていう条件を出してくる人も思考実験という言葉の意味を理解できてない。
「その時、その場にいたらどうするか?」という状況で、じゃあそれぞれの家族構成の資料を確認して……ってならんやろ。
tomiyai トロッコ問題に例えるなら1人の臓器奪われる方もほっときゃすぐ死ぬ前提とか5人を犠牲にすれば生きられる前提とか必要やね。
まさにそこが手術の話のキモで、トロッコ問題は「自分の手を下さない」という逃げ道が用意されているが、「行動するかしないかで結果が変わる」という点は同じなのに「自分が問題に積極的に関わる」という状況になると答えが変わるという話をしているんだよ。
トロッコの話でも手術の話でも、どちらの選択をした場合でも5人と1人のどちらかは死ぬ状況。
であるのにもかかわらず手術の場合は「とばっちりだから」って発想になるのが「違う答え」になるということ。
gomisute44 「多数を生かしたい」のではなくて、「自分で意思決定したくない」だけでしょ。多数のために健康な一人をバラして……なんて決断するくらいならそのまま自然に5人に死んでもらった方が精神的にはるかに楽
hisa_ino 俺はそもそも元のトロッコ問題でも別に多数を生かすべきなんて思わないし「俺は何もしない。無関係」って回答だからこれも当然「そんなの駄目に決まってるだろアホか」で終了。
個人の考えだからそう思うこと自体は否定しないけど、中二病こじらせてるなって感想で、「目の前の問題から目を背けることが正しい」って堂々と言ってて恥ずかしくないのかなと思う。
その人たちが知り合いだったらどうか、親兄弟や親友でも同じように言えるんだよね?言えない?命に順位をつけても構わないの?
そもそもトロッコ問題自体が功利主義と実際の感情とのジレンマについて考える問題であって、そういう文脈を理解していない人がいるのは仕方がないが、
それをノータイムで否定して俺かしけーで終わらせる姿勢は正直どうかと思う。
blueboy トロッコ問題の正解は「死者の多少で決めてはいけない。法律を遵守せよ」だ。 https://x.gd/KFAR5 その正解に従えば、今回も同様のことが成立するので、1人を殺さずに 5人を放置するのが正解だ。何ら疑問点は生じない。
この回答は個人的に最も醜悪だと思っていて、要するに「自分は決めたくないので他の人に決めてもらう。その決め方の正当性については特に検討しない」という宣言だよね?
「犠牲がやむを得ない場合、なるべく多数を生かす努力をすべき」という法律を敷いた国であれば5人を助けるほうが正しいということ?
そのせいで本を読んでも内容が頭に入らない。
だがボーっと釣り糸を垂れるような人生の使い方をするのは流石に勿体ないと感じてしまう。
美術館を巡って目玉の展示とやたら長い時間睨み合ったりするというのを思いついて実行に移したが、感受性も落ち着いてしまったのか第一印象以上の何かを見いだせたかさえ疑問に終わった。
こうもまともに生きれなくなってくると今度は「老人なりに自分の体を労ること」が趣味になってくる。
温泉に行くとかグルコサミンサプリをいくつも試すとかそういったことで「身体が改善されていると錯覚すること」が本当に楽しいので辛い。
学ぶ・観る・遊ぶといったことで得られなかった達成感が健康に関してだけは得られる。
年寄りの冷や水でジム通いをして救急車を呼ばせる迷惑な老人が産まれるのも納得の楽しさだ。
「ウンチ」は奥が深い。
主成分は食物繊維と腸内細菌であり、食事を減らして飲料中心の生活をしても細菌分のウンチは出てくる。
だがその量は通常よりも明らかに少ない。
では逆に食物繊維を取るとどうなるかというと、「取った食物繊維の分×(1+便の水分量)」が出てくる。
ウンチは水分含有率が高いので、大体5倍ぐらいになって出てくると思えば良い。
CMでたまにある食物繊維スティックで言えば、1本飲めば5本分ウンチが増えることになる。
1日3本飲めば15本分であり、スティックシュガー15本分ともなるとかなりのモリモリであることがわかる。
水溶性食物繊維だけをひたすら取りまくると、極めて危険なドロドロウンチを生み出すことが出来る。
少し力むだけでニュルニュル出てくるので、透かしっ屁をしようとしたときに直腸にあったら間違いなくアウトだ。
ただこれはその危険性が楽しいだけでウンチを出した時にメキメキと尻穴が広がりこの世界に新たな何かが飛び出していくあの感覚は味わえない。
やはり理想の「ウンチ」は「ちょっと硬めのごん太ウンチを漫画に出てくる💩の形が作れそうな一本勝負で出すこと」に他ならない。
尻穴を通っていつまでもいつまでもウンチが出続ける時の無限感に勝るものはない。
出し終わったあとの内蔵が一つゴッソリ抜けたような腹の物足りなさはサウダージさえ感じさせる。
これだけ大量に老廃物を出したのだから俺の体はどれほど綺麗になったのだろうかという達成感、これが今の渡しにとって人生最大のコンテンツだ。
今の私はある意味でウンコ製造機としての生を過ごしているのだろう。
それを少しでも納得の行く形にしてひり出すことが人生の価値となっている。
だが考えても見て欲しい。
誰に頼まれたわけでもなく、ただこの世界を汚すだけの存在として暮らし、むしろ自分が如何に世界に爪痕を残せたかを誇ってきたのが人類史ではないのか?
そこにようやく生まれた恥じらいが、子孫の世代に持続可能性を残すという立つ鳥跡を濁さずの精神なのだろう。