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はてなキーワード: 漁民とは

2024-02-17

anond:20240217222905

ん?

ロシアからの輸入を制限したとして割を食うのはカニイクラを加工したりする業者でしょ?

計画に乱獲してる漁民とは別じゃね?

2023-09-26

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続きの続きの続き

農業の到来

平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。

農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所独自発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しか農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。

やがて、凶悪犯やいじめっ子集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃小作料、労働力雇用税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ

農民狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。

しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会搾取国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等可能になったのだという、この物語に立ち向かった。

フラナリーとマーカス

2012年考古学者のケント・フラナリージョイス・マーカスは『不平等創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。

しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業階級可能にしたが、多くの農民平等主義の社会暮らしていた。農業発明階級発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。

フラナリーとマーカスはまた、地元凶悪犯や領主権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリート考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上階級闘争は決して止まらないのである[5]。

ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学根本的に変えた1954年エドモンド・リーチの著書『ビルマ高地政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。

スコットは、平原王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国国家からの絶え間ない奴隷化軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。

技術

ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカス仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。

しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術環境と、他方では経済的政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。

フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジー環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業発明自動的階級格差国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである

階級関係階級闘争技術環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的ものとする段階論の粗雑な形式問題にしている。

この生態学思考に対するアレルギーが、彼らが人類進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。

これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術生計を立てる方法に対して、どのように社会適応を築いたか理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。

一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系技術について考えることは、彼らが望む選択革命不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである

これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。

ジェンダーの不在

グレーバーとウェングローが環境人間存在物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである

同じように、彼らは階級という概念や、階級関係階級闘争についての議論ほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級人間なのかを知っているが、階級関係社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。

これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダー社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプ散見する。

平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類性別による不平等起源についてほとんど何も語っていない。

男女関係進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的であるジャレド・ダイアモンドナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等暴力競争人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性進化によって他の男性競争するようにプログラムされているため、強い者が女性支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的感情部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。

偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。

非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性男性の間の差異本質化し、女性男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。

私たちが支持するのは第3の選択である歴史学人類学考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的政治的に平等社会暮らしていたほとんどの場合女性男性平等であった。また、経済的に不平等階級社会存在したところでは、そこでも男性女性支配していた。

私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?

グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ

複雑な採集

グレイバーとウェングローの説明重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等戦争さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。

レバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍平等主義的であったか暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]

典型的な例は、フランツボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダ西海岸コロンビア川フレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケ遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10ポンドサケを獲ることができた日もあった。

それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部河川全域にわたって、サケ資源豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。

事実上農民田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。

農民と同じように、環境的制約と新技術階級社会可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲ポトラッチ饗宴の民という、お決まり説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。

天然痘梅毒人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的茶番劇として語られている[8]。

西海岸漁民けが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さら考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。

複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術問題かもしれない。確かにカリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである

彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部カルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長戦士階級格差奴隷制度、高価な戦争カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業依存する漁民であった。

グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民もっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人アフリカ人捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイム戦士たちは働かずに生活することができた[10]。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143955

2023-09-19

人工衛星から魚を洗脳して日本領海外に出す国があるなら日本から漁民は消える

資源を動かし操ることができるならサウジ石油を欲しい日本の偉い人はいるだろう

2023-09-16

女だけではなく、日本人全体が自衛を求められる。主にサヨクに。

自衛を求められるのは女だけではない。日本人全体だ。

なにせ、今回の汚染水問題で「中国人日本人学校に石を投げつけた」っていう、完全無欠の中国人によるヘイトクライム事件ですら「最初から大した排斥行動は起きていない」「中国大人の国」とか擁護し、それに星をつけるなどして同調しまくるサヨクがいる。

(他の国の左翼なら、「中国人すべてを敵視てはいけない。しかヘイトクライム処罰せよ」と言うだろうが、ニッポンサヨクは「中国は大したことをしていない」と、加害者擁護し、事件矮小化してしまうのである

https://archive.md/KN0pz

https://b.hatena.ne.jp/entry/4742078134558720047/comment/xlc

日本社会を良くするためには、加害者擁護を優先することを是とするニッポンサヨク攻撃し、改心させる必要がある。さあ、君も協力してくれ。

anond:20230916123113

ちなみに、これは一般サヨクだけでなく、彼らが支持する政治家も似たようなもんだということは追記しておく。

2010年漁船衝突事件で、サヨク政権は、司法蔑ろにして、中国人漁民を罪に問うことな強制送還した。その理由は「APEC首脳会議胡錦涛が来なくなる」というものだったことが判明している。

2023-09-11

漁民のほうが反社レベル高くて知恵もあるし

風力ゴロが負けるのは残当

2023-08-30

anond:20230829120819

原発関連で何十年も飯食ってた地元民は、漁民よりはるかに多いぞ

電力会社本体から転勤してくる人の地元消費でも地域はめちゃくちゃ潤う

漁民に対する保障は当然必要だけど、お金でケリをつける以外やりようがない

政府東電批判するのはいいけど、風評被害を煽るのは経済テロしかいいようがない

2023-08-19

anond:20230819092256

増田民の親世代大学進学率は14%あたり。

地方ではさらに低かったはず。

農民漁民大人兄弟で中卒集団就職マジョリティだったことを考えると元増田家は貴族だね。

2023-04-23

anond:20230423001539

こういう人が多いけど、竹島韓国に、そして尖閣中国に献上しようとしたのが民主党だったって事は忘れてるんだろうか?

2010年漁船衝突事件で、司法蔑ろにして、中国漁民を罪に問うことな強制送還した。その理由は「APEC首脳会議胡錦涛が来なくなる」というものだったことが判明している。

2023-03-21

anond:20230318232010

フェミは「女も社会進出すべし、そう言ってる自分ら偉い」と口先で言ってるだけで

現実に女を働かせる強制力なんか持ってない

現実に働いてる女性の多数がフェミ価値観のためだけに働いてると本気で思ってんの?

女性店員工場労働者圧倒的多数は目先の生活費家計のため働いてんの

あわよくば専業主婦に徹したくてもお金がないから仕方なく働いてる人を無視すんなよ!

そして企業の側が女を求人募集するから女性就労は成立してる

フェミを叩くだけでなくすべての企業女性求人募集を一切やめろと言うべき

そもそも高度経済成長期まで専業主婦にならんかったら

農家個人商店のおかみさんになって嫁も働いてた

近代以前はみんな会社員じゃなくて農家漁民みたいな家業だったんだから

人類歴史じゃ圧倒的にそっちのが多数

専業主婦なんて20世紀の一時期にだけメジャーになった人類史の特例ですよ

2023-03-03

anond:20230303144630

台湾領有権主張してるから台湾漁民補償金50年間出したら領有権譲るよって持ちかけようぜ。

2023-02-26

尖閣諸島中国台湾に譲った方が安上がりじゃない?

尖閣あたりで漁をしてる漁民には保障をして諦めてもらうとか。

2023-02-07

日本共産党綱領にみる変革主体についてのメモ

一、 戦前日本社会日本共産党

(中略)党は、この状況を打破して、まず平和民主的日本をつくりあげる民主主義革命を実現することを当面の任務とし、ついで社会主義革命に進むという方針のもとに活動した。

二、 現在日本社会特質

 (四)第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった。

(中略)第二は、日本政治制度における、天皇絶対専制政治から主権在民原則とする民主政治への変化である。この変化を代表したのは、一九四七年に施行された日本憲法である。この憲法は、主権在民戦争放棄国民基本的人権国権の最高機関としての国会地位地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された。

 この変化によって、日本政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった。

三、 二一世紀の世界

(中略)国民主権民主主義の流れは、世界の大多数の国ぐにで政治原則となり、世界政治の主流となりつつある。人権問題では、自由権とともに、社会権の豊かな発展のもとで、国際的人権保障基準がつくられてきた。人権擁護し発展させることは国際的課題となっている。

最初社会主義への道に踏み出したソ連では、(中略)レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界平和社会進歩運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。

(中略)

いかなる覇権主義にも反対し、平和国際秩序を守る闘争核兵器の廃絶をめざす闘争軍事同盟に反対する闘争諸民族自決権を徹底して尊重しその侵害を許さな闘争民主主義人権擁護し発展させる闘争、各国の経済主権尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争気候変動を抑制地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。

(中略)

(一一)この情勢のなかで、いかなる覇権主義にも反対し、平和国際秩序を守る闘争核兵器の廃絶をめざす闘争軍事同盟に反対する闘争諸民族自決権を徹底して尊重しその侵害を許さな闘争民主主義人権擁護し発展させる闘争、各国の経済主権尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争気候変動を抑制地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。

(中略)

日本共産党は、労働者階級をはじめ、独立平和民主主義社会進歩のためにたたか世界のすべての人民連帯し、人類進歩のための闘争を支持する。

四、 民主主義革命民主連合政府

一二現在日本社会必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属大企業財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治経済社会民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能民主的改革であるが、日本独占資本主義対米従属体制代表する勢力から日本国民利益代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立民主平和日本に道を開くものである

(一三)現在日本社会必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである

〔国の独立安全保障外交の分野で〕(中略)

憲法民主主義の分野で〕

1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和民主的条項の完全実施をめざす。

 2 国会名実ともに最高機関とする議会制民主主義体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権担当する政権交代制は、当然堅持する。

 3 選挙制度行政機構司法制度などは、憲法主権在民平和精神にたって、改革を進める。

 4 地方政治では「住民主人公」を貫き、住民利益への奉仕を最優先の課題とする地方自治確立する。

 5 国民基本的人権制限・抑圧するあらゆる企てを排除し、社会経済的諸条件の変化に対応する人権の充実をはかる。労働基本権全面的擁護する。企業の内部を含め、社会生活の各分野で、思想信条の違いによる差別を一掃する。

 6 ジェンダー平等社会をつくる。男女の平等、同権をあらゆる分野で擁護し、保障する。女性独立した人格尊重し、女性社会的、法的な地位を高める。女性社会進出・貢献を妨げている障害を取り除く。性的指向性自認理由とする差別をなくす。

 7 教育では、憲法平和民主主義理念を生かした教育制度行政改革をおこない、各段階での教育諸条件の向上と教育内容の充実につとめる。

 8 文化各分野の積極的伝統を受けつぎ、科学技術文化芸術スポーツなどの多面的な発展をはかる。学問研究文化活動自由まもる

 9 信教の自由擁護し、政教分離原則の徹底をはかる。

 10 汚職・腐敗・利権政治を根絶するために、企業団体献金禁止する。

 11 天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇政治利用をはじめ、憲法条項精神からの逸脱を是正する。

(一四)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民中小企業家、知識人女性青年学生など、独立民主主義平和生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。


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2023-02-06

共産党民主主義理解について考えた。

日本共産党民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。

ソ連中国方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義確立を目指すという意味では、共産党憲法擁護者であったし、自由議会制民主主義擁護者としてふるまっていると思っていた。

そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。


そこで日本共産党綱領民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。

まとめると、以下の特徴が読み取れた。

民主主義的な変革(革命)は専制政治覇権主義との闘いであ

・変革(革命)の担い手労働者、勤労市民、農漁民中小企業家、知識人女性青年学生からなる統一戦線である

民主主義が達成されたのちは社会主義を目指す


民主主義設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動認識されている。その主体定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。

綱領最後に、現在日本社会必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立安全保障外交の分野から憲法民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。

この中には安保破棄といったおなじみのものからジェンダー平等など最近になって共産党自身認識を改めたものも含まれている。

経済的民主主義の分野においては、労働規制食糧安保などが強調されているが、自由主義経済擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。

憲法民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要メカニズムが全く記載されていないことだった。

それは言論表現の自由記載だ。

ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっと重要概念が抜け落ちてしまうのか。

共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギー進歩として達成されるべきもの認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。

民主主義革命に向かう運動理解され、この革命担い手主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。

というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。

広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済社会進歩は、特定イデオロギーによって達成されるのではなく、優れたもの自然選択されるという淘汰圧客観的社会ダイナミズムとして理解されている。

表現の自由についていえば、特定イデオロギーの正しさは、歴史自然に結果を出すものであって、教会政府が真理として押し付けものではない、というのがヨーロッパでもアメリカ政治体制でも共通の前提となっている。

そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会存在することを排除しないのが美徳となる。

差別的言論しかりであり、正しくないと思えるもの一定程度、社会蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会進歩するための副産物と考える。

したがって、雑にまとめれば、自由主義社会制度設計では、ブルジョアプロレタリアートといったイデオロギー的な主体覚醒必要とされないし、イデオロギー的な主体覚醒人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラルからみた共産主義問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体統一戦線)されることが変革のキーだと考えられている。

翻って、共産党綱領を拾い読みすると、文脈としては

民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。

そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。

これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手教育し、同じ価値観イデオロギーを共有させようとする契機がある。

これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。

綱領言論自由記載が一行も存在しないのも納得である言論自由もつ社会ダイナミズム理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。

というわけで、社会の変革にとって、イデオロギー共鳴する主体醸成を重視するか、

それとも自由ダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。

政治体制言論自由進歩史観プレイヤー
自由主義どちらかというと放置蓋然的客観的多様性重視
共産主義どちらかというと統制的必然的主体一体性重視

みたいなイメージになった。


しかし、共産党の皆さんに是非、戦後世界歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、

例えば、黒人差別撤廃をめぐるダイナミズム

言論表現の自由がもたらす社会不協和音暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。

この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激言論民主主義副産物とする社会プラットフォームがあることによって、運動価値昇華された。

暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者概念】とその暴力性は、革命概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。

異なる出自もつつの権利争議権言論自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。

他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩進化もない、という、それはやはり、進化プロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。

争議権というのは、学校が停止したり電車全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力一定コントロールに置いたうえで社会進歩を進めてきたといえる。

ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。

敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労新左翼けが残った。そして秩序を乱す奴イコールテロリスト、という空気蔓延した。

日本国労新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命政府転覆させるぜくらいの勢いで。

ともあれ、自由主義社会社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。

絵画トマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパニュース上ではResistantと表現されてもテロリスト表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ

なんなら、「LGBTしかり、なのだ共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。

https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/

LGBT存在に気が付き、こうした修正可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論放置できる社会からだ。そのくせ日本共産党LGBTをあたか自分たち応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。

結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体のもの議論決定論的なものになってしまい、議論されにくい。

その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾はらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムジレンマだ。自由主義社会ダークヒーロードラマ映画プロット西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。

でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。

その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループ統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。

変革主体の変遷は、共産党自画像の変遷でもある。

であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。


今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。

一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり寄り合い】だ。

なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本労働運動が労使間の秩序模索堕落した一因であるし、日本組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本農村漁村調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセス共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトロー存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。

民主主義という視点に戻ると、言論価値、そして、争議という変革の手法組織どころか社会迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。

そうであれば、組織内の問題に対しても、規範からの逸脱に対する寛容度はかわってくるのではないかな。

以上が、今回の件を機に、日本共産党綱領を読み直した感想だ。

2022-10-17

大河ドラマの平某、卑しい身分から平姓をもらって出世しがち

北条時宗 アサシンの八郎 → 平頼綱

平清盛 漁民の鱸丸 → 平盛国

鎌倉殿の13人 孤児鶴丸平盛綱 New!

史実では平盛綱の孫が平頼綱

平盛綱平資盛の子という説があるので(鎌倉殿ではそうではない)平家物語も見ておくとさらに楽しめる。

2022-07-20

https://s.japanese.joins.com/jarticle/293384

消息筋によると、当時国連軍指令部は文在寅政権漁民送還に向けた開門要請を受けると「送還理由は何か」と尋ねたが、文政権はまともに説明せずに開門と協力を要求した。国連軍指令部は「できない。開門の理由になるか検討できるよう資料でも出してほしい」と要求したが、文政権は拒否したという。消息筋は「これに対し韓国政府国連軍指令部を飛び超え韓国軍に開門を指示して漁民送還させ、このため国連軍指令部は漁民が目隠しをされ縄に縛られたまま護送されたことも最初はわからなかった。国連軍指令部では文政権の露骨国連軍指令部軽視に憤怒し、エイブラムス司令官も報告を受けて憤慨した」と伝えた。

大まかな事の経緯

2019年脱北者北朝鮮強制送還される出来事があった

当時の韓国政府は「当人に脱北の意志はなかったので送り返した」と発表

しかし数日前に送還の様子を撮影した映像が突如公開される

そこには板門店必死抵抗する脱北者38度線の向こうへ引きずっていく当局関係者の姿が

板門店では人や物の出入りには国連軍司令部許可必要で、もちろん脱北者送還には強硬に反対していた

しか韓国政府司令部の反対を無視して送還を強行、と

すげえよ韓国…マジパネェわ…

2022-05-18

機雷威力ってやべえな

こんなもん地上で爆発したらどうなるねん

https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y

 昭和17年1942年5月日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要局面を迎えていました。

 しかし、戦時中とは言え普段ほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。

 ニシンの豊・不漁はその年の村民生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに気づきます

 そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体発見します。

 そして、素人から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。

 思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。

 数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者市街地にある派出所へと向かいました。

 ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつ機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。

 ”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。

 実は北海道特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります

 その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。

 こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理地元警防団警察消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。

 しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。

 ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。

 また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。

 そこで、この機雷爆破処理作業一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察威信を確固たるものにするべく画策していたのです。

 かくして、村役場などを介し回覧口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます

 さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落警防団員約150名が事前集結していました。

 二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります

 通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます

 というのも、海中での爆破は一帯の魚介類死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。

 彼らにしてみれば死活問題だけに警察からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。

 粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。

 こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。

 発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。

 それぞれ多忙仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初最後では大きく異なっていました。

 初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体ロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います

 しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海発見された機雷が、軟らかいから馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。

 今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。

 そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像はるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートル渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。

 爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場凄惨を極めたそうです。

 現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。

 そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています

 この大惨事により現場居合わせ警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。

 「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。

https://touch55.hatenablog.com/entry/2019/06/09/181743

合掌

2022-04-24

anond:20220424103402

そもそもロシア関連で行くなら、北方領土まわりで漁民が連れてかれるなんて山ほどあるわけでわざわざ陰謀仕掛けるまでもないんよね

2021-09-24

ジョニーデップ主演『MINAMATA-ミナマタ-』を観てきた

テーマは深刻なんだけど、ジョニーデップの持ち味の出た、面白い映画だった。


どうでもいいことだけど、昔からなぜか、

ジョニー・デップのことをしょっちゅうジョニーディップと言い間違えてきた。

これは、バングラデシュのことを、バングラディッシュと言い間違えるより恥ずかしいことだと思っている。

そのジョニーデップが写真家ユージン・スミスを演じる?というのが、

パイレーツオブカリビアンイメージがこびり付いた身には全く想像がつかない。

興味本位で観に行ったら、本人としか思えないユージン・スミスぶりに、おお、と感動してしまった(あったことはないけど)。

ユージン・スミスのことは、というと

この映画を見るまでほとんど何も知らなかったので、どういう背景があって、あの写真が生まれたのか、垣間見られてちょっと感銘を受けたりもした。

映画で描かれているユージン・スミスは、アル中で薬中。過去のいろいろで、メンタルをやられて写真家としてのモチベーションどん底にあった頃のユージン・スミスだ。

一方、フォトジャーナリズムを標ぼうしたものの、売上が上がらず、次第に、魂を売るかのような大衆迎合的な記事広告を載せ始めた、落ち目写真「ライフ」が背景として描かれている。

ピューリッツァ賞を夢見て起死回生を図るべく、次の目標に選んだテーマが、当時、世界のあちこち問題化し始めた公害だった。

当時、すでにMINAMATAの名は世界でも、

日本辺境の地で奇病だの猫踊り病だのと言われ、長い間、対応がなされず蓋をされ続けてきた公害として知られていた。

この映画は、写真家として再起を図るユージン・スミスと逆転ホームランを狙う写真誌が、水俣病に目を付けるところから始まる。

いやー、こういう不純な動機、構図。なかなか良いと思う。

水俣の記録ドキュメンタリは、これまでも土本典昭NHK、いくつかみたことがあったけれども、この目線はいままでなかった。

外国人制作するとこうなのか。

この映画の見どころはなんといっても、ユージン・スミス写真家として、親としての葛藤を描くジョニーデップの演技。

日本にきたものの、途中でやる気をなくして投げ出してしまい、大切なはずのカメラまで現地の少年にあげてしまうシーンとか。

ジョニーデップは、本当にクズっぽいシーンがよく似合う。

ただ、残念でならないのは、ロケ地

違和感があったのでググったら、なんと日本ではない。観終わったあとに読んだ町山智浩コメントによると、セルビア・モンテネグロなのだという。

どうりで、海のシーンが逆光でぼんやりしているものが多かったわけだ。

漁民も、漁民たちが扱う魚も、明らかに違和感ありまくりで、端的に貧相だった。違うだろ。。もっと豊かな海を描いてほしかった。

あと、土本作品へのリスペクト、というのもひそかに注目していたのだけど、

まあ特にないのかな、という印象だった。

映画のなかで、アコーディオン少年が出てきた。

過去記録映画を観ていれば、モデルが誰なのか、すぐにピンとくる。

ここはやはり、あれだろう、船頭小唄だろう、と思ったのだけど

アコーディオン少年交流するシーンはなかった。

そのかわり、ユージン・スミスなついて、カメラに興味を示し、撮って遊ぶ天真爛漫な少年が描かれている。

しかし、考えてみれば、船頭小唄なんぞ奏でようものなら、そのメッセージ性が強烈すぎて、

物語邪魔してしまうだろうから日本の観客向けにはむしろないほうがいい、ということかもしれない。






映画クライマックスは、水俣病歴史で欠かすことのできない、大きな事件であるチッソ株主総会

そこからの流れはとてもテンポがよく、裁判によりチッソ補償を決定するまでの激動の動きが、

ユージン・スミスもっとも有名な写真である、「入浴する智子と母」の撮影シーンを織り込んで進んでゆく。

國村隼演じるチッソ社長人間味があって、いい味を出していた。土本作品など過去のドキュメンタリ映画ではなかなか見ることのできなかった加害者視点被害者と向き合い補償決断するチッソ社長の描かれ方は映画ならではであり、圧巻と言わざるを得ない。

見事な演出だと思う。

NHKアーカイブスでも視聴できる有名なチッソ株主総会は、1970年

スミス乱闘に巻き込まれて負傷した事件は翌年の東京本社での事件なので史実とはちょっと違うが、

そのようなリミックスにさして大きな違和感はなかった。


映画は、1973年チッソ補償決断し、川本輝夫映画では真田広之演じるミツオ)が裁判での勝訴をかみしめるところで終わる。

その後の水俣病の動きはわずかにエンドロールで触れられているに過ぎない。


この映画は、ベースの設定が雑誌ライフの復活とユージン・スミスの再起というテーマを背負っていたため、

チッソ責任を認め、補償に応じる、という、ここで終わりになるのは、それはそれでエンタメ的な収まりどころ、なのかもしれない。


しかし、現実水俣病歴史は、ある意味、まさにこの裁判勝訴と、それに続くチッソ補償協定とを契機に、

チッソVS被害者団体という構図から経済優先で被害を黙認する行政VS被害者という構図に大きく変化してゆく。

この映画が第2幕の終わりだとすれば、第3幕はスーパーヒーロー不在の、果てしなき国との闘いだ。

チッソ社長が除去された水をコップで飲んで見せたことで有名な、有機水銀除去サーキュレーター

効果がないのを知りつつ黙認してきた通産省を筆頭に、高度経済成長を錦の御旗に被害に蓋をし続けてきた行政悪業が明らかにされてゆく。

最終的に国の規制権限行使しなかった責任最高裁で認められたのは、それから四半世紀後の2004年


さらに一方で、1973年被害者の勝訴判決は、チッソ患者への補償の契機となったものの、その補償協定のものが、地域社会の新たな分断の出発点ともなった。

補償をするためには、患者が症状によって定義される必要があるのは自明の理だが、補償協定の1600万円を受け取るに値する症状という形で定義・整理されてしまったのだ。

当然、要件を満たない被害者足切りが始まるわけだ。

そして、さらに、さらに、さら問題は複雑化する。

そこに絡んでくるのが厚生省と当時の環境庁だ。国の定める、公健法上の患者認定基準が、チッソ患者団体との補償協定要件に連動してしまったのだ。

どういうことかというと、国は広範囲患者認定を推進するため、公害健康被害補償法により水俣病被害者認定制度を創設したが、

そこで認定された被害者は、73年に本来は一部の患者団体と締結した補償協定適用を受けることが認められ、1600万円を受け取ることができるようになる、という仕組みだった。

しかし、1600万という高額の補償が、結果的に、チッソ補償能力を超え、被害者認定の足かせとなってしまう。取りこぼされた多くの被害者今日に至るまで苦しんでいる、というのが、

映画のその後の世界なのだ2004年最高裁被害者要件を国の認定基準より緩く認定した、にもかかわらず、だ。

そして国の重要産業である化学工業、そしてチッソ賠償破産を食い止めるため国や県が金融支援をし続ける、という構図がこの映画の後に待ち構えている世界だ。

国は当然、実態調査疫学調査消極的で、というか一度もなされたことがない。

その意味では、映画エンディングシーンである勝訴判決は、実は新たな闘いの出発点ともいえるのが水俣病歴史だ。


そのことを思い返しながら、映画の話に戻ると、この映画の残念なところは、以下の点。

風景日本でない、不知火海が見えない、漁民がいまひとつリアリティがない

写真家出版社、一部の被害者闘争リーダーという限られた構図で、実態解明に尽力した熊大や問題放置した行政が出てこない

・だから、なぜ原因企業が折れて補償に応じたのに問題解決しないかみえてこない→多分世界中の公害類似のことが起きているだろう。

エンドロールで見せている世界公害リアリティを与えるためにはやはり行政視点をどこかに織り込まなければならなかったのでは。

ただ、だからといってつまらない映画では決してなかったし、満足感は高かった。みようによっては、セルビア・モンテネグロにしちゃあ頑張って日本漁村を描いた、ともいえる。

ジョニーデップのクズっぽいキャラは最高に楽しめたし、撮影に至るまでの信頼関係の醸成など背景がみえたのは、この映画の見どころだ。

(追記

https://anond.hatelabo.jp/20210929124437

2021-07-16

anond:20210716225351

上野の言にどっかの社長が言ってた「アフリカ漁民たち見ても、この貧乏人が!って思わないでしょ?もはや別(の生き物)なんだもん」が完全にカブ

2021-05-02

コロナ対応改憲必要」57%、一理あるかもしれない

コロナ対応改憲必要」57% 共同通信世論調査

https://news.yahoo.co.jp/articles/7ec1d495b848a971128aff7c5fc0dedf1a2c92ee

共同通信社は30日、憲法記念日5月3日を前に憲法に関する郵送方式世論調査結果をまとめた。新型コロナウイルスなどの感染症や大規模災害対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%だった。内閣権限強化や私権制限が想定される緊急事態条項新設を容認する声が反対意見を上回った。長引くコロナ禍が影響したとみられる。

ちょっと長めになってしまったので、はじめに要約すると、

改憲なくとも法を生かせば緊急時行政権限をフル活用できるはず、と思ってきたが、過去公害の教訓を思い起こしてみると立法行政不作為が目立つ。

憲法の制約で権限がないのではなく、あっても使わないのが問題だった。そこにメスを入れるには、行政立法指導する上位の規律必要で、「今まさに緊急時シフトチェンジしろ

行政立法に促す仕組みが必要なのでは。それはひょっとすると憲法役割なのかもしれない。

という趣旨


+++++++

改憲の是非でいえば、基本的スタンスはノーだ。

内閣権限強化」、これは橋本行革の結果、小泉政権内閣官房の強化の恩恵を受け、その後、安倍がめちゃくちゃにした経緯から

これ以上の内閣官房の強化などナンセンスだと思うし、

現行の制度運用できないのか?と言われれば、

公害立法歴史を振り返っても、現行の規制権限は決して弱くはない。立法余地もある。

実際60年代から70年代にかけて、深刻化した公害に山ほど立法を制定、70年はとりわけ公害国会などと呼ばれた時代もあった。

そうやって公害を克服しようとしてきた歴史の教訓をみても、現在感染症コントロール問題が、憲法改正でしか解決しえないとは思えない。

から問題はできることをしない、立法不作為行政権限の不行使のほうで、それを改憲論議にすり替えるのはおかしい、という意見も納得できる。

しかし。

それこそ公害の教訓を振り返れば、という話なのだが、

改憲世論が盛り上がるのは、だからこそ逆に、一理あるのかもしれない、とも思う。

もちろん、行政立法性善説に立てば。。という留保はつくが。

というのも、水俣病を例にとって、公害被害を振り返ってみると。

なぜ今日に至るまで長年、放置されてきたか。長年の放置もさることながら、振り返ると、初期の対応のまずさが際立つ。

チッソ工場への排水をやめさせる権限のある水質二法の適用

漁業法による禁止措置漁民への補償食品安全法による有機水銀汚染された可能性のある魚類販売禁止

すべて見送られた。つまりすでに対応可能な法的ツールがあったにも関わらず、被害が拡大した。

こうした行政権限の不行使が最終的に裁判で争われ、最終的に結審したのは2004年

国は高度経済成長をとめたくないがゆえに、規制権限行使しなかった、というのが結論

これは初期の対応が間違っていたことを指摘したものだ。

1970年代公害社会問題の深刻化を受けて山のように公害立法が制定されたが、それ以前の問題として

そもそも1950年代、すでにある水質二法等で権限行使できただろが、という。

法の不備ではなく、繰り返すが、すでにある法を使いこなせなかった行政責任が厳しく断罪されたわけだ。

ここから導き出される本当の教訓というのは、規制権限があったにもかかわらず

なぜ初期の対応がこれほどまでに、被害者をないがしろにしたものになったか、という問題

それは経済を優先した政治意思決定メカニズムだ。

そこには、何か異常な事態が発生したときに、立ち止まって物事を考え直す、

シフトチェンジの仕組みが欠落していたともいえるのではないか

かつて辺見庸は、地下鉄サリン事件の際に、丸ノ内線駅構内で、人々がバタバタと倒れているなか、

通勤している乗客枕木でもまたぐかのように出口へ向かった光景について

日常的なことを目の前にしても、脳が適切に処理できず、

惰性で日常論理で動こうとする「慣性イナーシャ)」が働いているといったが、

ここ一年を振り返ってみると、そういう政治的な意思決定がかなりよくみられた気がする。

この問題解決されない限り、改憲による緊急事態条項検討など、全く意味をなさない。

日本は、意思決定の仕方、会議の仕方を根本から見直したほうがいい。


いや、だけど一方で、

緊急事態条項のようなシフトチェンジトリガーがないからこそ、漫然と経済優先で動いてしまうのか?という疑問も頭をもたげる。

どっちなのだろう。

そんなことを思い出したのは、さっき、尾身会長インタビュー記事を目にしたからだ。

尾身茂氏が語った「マスクを外せる日」「3回目の緊急事態宣言なんて聞く気になれねぇ」への意見 | 文春オンライン

――東京都墨田区長野県松本医療圏など、基幹病院支援に回る地域病院医師連携が回っている地域の取り組みも報じられているが、厚労省は、こうした体制づくりのため各地の医師民間病院に強い指示が出せないものか。

尾身 医師病院に対して国が強い指導力を発揮する英国のような仕組みとは違い、日本厚労省というのは公立民間などさまざまなステークホルダー意向尊重する必要があって、上から目線はいわない。平時はそれも大切ですが、危機局面ではどうなのか。この機会に考えてみる必要はあります

――医療提供体制の拡充やワクチン接種準備で、国民が納得するだけの結果を示せないことに国民は苛立ちを感じている。強権的なイメージが強い菅義偉首相だが、結果を示せない理由は?

尾身 それは政治のことだから、私にはわかりません。ただ、総理大臣は、いろいろなことを今、四方のことを考えなければいけない立場にあるんでしょう。そう思います



平時から非常時へのシフトチェンジ

これが明確な意思決定メカニズムとして組み込まれていないことが、水俣病の初期対応問題もつながっているように思えた。

それを可能にするのは、規制権限の強化と行使、という既存立法行政機構のあり方の、もうひとつ上段の制度として構築する必要があるのかもしれないといえなくもない。

改憲への渇望というのは、案外、そういった視点で考えることも可能ではないかとふと思った。

しかし、憲法踏み込むのではなく、

危機対応専門の省庁を創設する、というのもひとつ方法。非常時のガバナンス体制を整備する。

米国FEMAアメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)、CDCアメリカ疾病予防管理センター)のように。

現在のように、菅、西村田村河野小池、、、、、みたいに

船頭多くして船、山に登る、という問題への処方箋となろう。

そうすれば、現在河野太郎のような感染症素人新型コロナウイルスワクチン接種推進担当大臣として奮闘する、といった話もなくなるはず。

彼はおそらく、急に任命されて困っただろうが、実質やれることを模索した結果、

ロジ担当となり下がってしまっているように見受けられる。住民心配に答えるのは基礎自治体役割だ。

大臣仕事じゃない。本当の危機管理はそういうことではない。

危機管理のプラットフォームができれば、アメリカのファウチ博士のように、

集団免疫獲得に向けた仮説を立て、何%の接種があればOKで、ワクチン効果が切れる前の接種完了を逆算してスケジューリングする。

目的ロードマップ国民に示したうえで協力を仰ぐという、専門家による意思決定ベースとなったリーダーシップ重要だ。

今は「高齢者の接種」そればっか。もっと全体の話をすべき。

ガバナンスの基本は、法、規則基準科学的な予測を明示した意思決定を行うことだ。

これは世界銀行の借用だが、世銀では途上国行政改革支援の際に、ガバナンスを以下の4要素で因数分解して

能力評価している。

説明責任財政リソース)、予測可能性(法的枠組み)、透明性(情報公開)、参加(連携)の4つ。

テーマ出しした瞬間、近年の日本がどの分野でもガタガタになっていることがわかる。

いずれにしても、緊急時ガバナンスの訓練を積んでゆくことが大切で、こうした組織を立ち上げることには意義があるだろう。

現在菅政権は、こうしたガバナンスの観点から落第点であり、

首相が何を考えているかからず、結局、リーダーの一挙手一投足に注目が集まる意思決定となっている。

急に決心して、緊急事態宣言を発出したりやめたりする。このように国民から予測可能性を奪うやり方は国民から自由を奪うのも同然だ。


国民からすれば、知らず知らずに国のリーダーシップ注視せざるを得なくなり、いつの間にかリーダーシップ問題錯覚してしまうが

本当は危機管理はリーダーシップの欠如の問題ではなくて、ガバナンス問題だ。リーダーが誰であれ、ある程度、やるべきこと、基準が決まっていて

どのように対応するかが決まっていること、この予測可能性が確保されることが大切。

国民にとって予測可能でなければ、国民自身計画を立てられず、急に決断されても、ついていけいけない。

水木しげる漫画で、上官が急に玉砕を決心したので部下の大半が付いていけず、結果として敗残兵として生き残った兵士に、すでに全員立派に玉砕したことになっているのだ、として、ラバウル本部が改めて玉砕を命じる、という話がある。日本人のリーダーシップ象徴する話だと思う。)

しかし、一方、リーダーシップ問題は残る。

緊急時へのシフトというのは、なにかしらリーダーとして発動するトリガー必要なのではないか

憲法、というのも、民主的意思決定の根源として、

そこに非常時へのシフトチェンジ記載されることにも意義があるのかもしれない、という考えに傾いてゆく、そういう世論の動きもわかる。

もちろん、そんな非常時に平和ボケして判断の鈍いおっさん首相だったらなんの意味もなさないが、誰かがシフトチェンジを発動しなければならない、

それが立法危機管理のプラットフォームづくりだけでうまく機能しないのであれば、ある意味大統領的な権限を期待する傾向が出てくるのは自然なことのように思う。大統領権限というと、合衆国建国当時まで振り返ると、当時の議論のなかで、リーダー聡明さ(アリストクラシー)というのは、欠かせない条件だったように思う。

日本政治社会にそんなことを期待できるのか、と考え始めた瞬間、改憲には激しく首を横に振らざるを得ないのだが。

そんなことをインタビューの印象として持った。

2021-04-17

anond:20210417195115

なんかあの、午前だけ働いて午後はのんびり遊ぶ漁民

もっと日中死ぬほど働いて漁獲量増やして金持ちになるべき

金持ちになったらのんびり遊んで暮らせるんですよ!

て力説するやつ思い出した

2021-04-13

anond:20210413160322

タンク増設すればいいだろ

何で漁民迷惑をかけるんだ

日本放射能汚染された水をまき散らして太平洋を汚すと外国にも迷惑かかる

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