はてなキーワード: 反革命とは
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
元増田です。ブコメで「お金貰えるなら多少の思想の違いは許容する」「なぁなぁにネゴってるメンバーがいるんじゃないの」とか言われてる点について補足。
あのですね、そんなことして党員や支持者になんて言い訳するつもりだと思ってるのですかね?
対立している「反革命」党派と裏でコソコソ手を結んでたなんてことは絶対に許されないですよ。もしそんなことをやってると知った内部の党員はただちにこれはどうなんだという意見書を全党回覧に出したり、内部告発的に暴露するでしょうね。関係する党員みんな抱き込むなんてこともよっぽど小さい党派でないと不可能でしょう。
現代では新左翼なんて化石扱いされてるので仕方ない面はあるにせよ、彼らを舐めすぎですね。新左翼党派の中でトップクラスに排他性が強い革マル派ですらそういうところはちゃんとしてますよ。最近も革マル派(探究派)なる分派ができて活発に情報発信してますね(しかもはてなで https://tankyuka.hatenablog.com/ )。それぐらい正しさにこだわりが強い界隈だということです。ブコメで言われているような金のための謀略なんてできません。
暇空茜
@himasoraakane
ナニカはブントとか日本革命的共産主義者同盟(第4インターナショナルの資金源みたいですね
公安ーーーーーーーーーーーー!
こーーーーーあーーーーーーーーーーん!!!
https://twitter.com/himasoraakane/status/1603049340142227456
↑これの話
まずそもそも論として、代々木(日本共産党のこと)と新左翼はめちゃくちゃ仲が悪く、お互いに反革命ということにしているんですよ。常識だけど。
で、暇空氏曰く「共産党と強いつながりがある」colaboを中心とした「ナニカ」グループが新左翼の資金源になっていると。
うん、まあこの時点でおかしいんだけどさ…… もうちょっと深堀りします。
まずブントと一口に言ってもたくさんあるんだが、例えば現代まで生き残っているブント諸派のうち統一委員会と戦旗派を例にあげると、彼らは三里塚闘争(成田空港問題)では中核派と解放派(現代社グループ)と一緒になって空港反対同盟の北原派を支持しているんだけど、その北原派と対立している反対同盟(旧)熱田派を支持しているのが第四インターなんですね。
で、この北原派と熱田派の対立っていうのはけっこう激しくて、分裂当初には中核派が第四インターを襲撃したりしてるので、お互いに手を取るとかはありえないわけです。
なのにブントと第四インターが一緒になって「共産党と強いつながりがある」colaboを中心とした「ナニカ」グループを資金源にしてるって?冗談言っちゃいけませんよ。三里塚闘争は新左翼のアイデンティティにも関わるくらいの一大マターであって、そこで対立してるのに他所では仲良くしてるなんてことは絶対にありえない。
いちおう書いておくと、代々木と新左翼が同じ「行動」に参加してるくらいのことはあるわけです。総がかり行動とかね。もっと言えば現場の活動家同士が顔見知りくらいのことはあるでしょう。だけど、資金源を一緒にするレベルで連帯して行動するなんてのはないですよ。
もし代々木とブント(どこの?)と第四インターが一緒になってcolaboとつるんで資金源にしてるなんてことが本当にあるとしたら、仁藤氏がとんでもないバケモノで歴史に残るレベルの革命家なんでしょうね。まあその場合彼らはもっと表立って連帯して活動するはず(革マル派以外の党派は影で手を結ぶような陰謀的な行動を好みません)なので、どっちにしろありえないですがね。
こんなこと言ってるようじゃ「暇アノン」呼ばわりされても仕方ないですね。
## 追記
ブントの戦旗派について荒派と西田派が逆になってたので修正しました。すいません。指摘していただいた方ありがとうございました。
空港反対同盟熱田派に第四インターと一緒になってついたのは荒派で、こう書くと第四インターとブントにも矛盾のない繋がりがあるじゃないかと思われるかもしれませんが、荒派はずいぶん前からブントであることをやめており「アクティオ・ネットワーク」なる組織になっています。もっと言えば暇空氏が↓でツイッターに出してるのは統一委員会のHPですから、つまりは北原派についているブントの話なわけで、結局ありえないということですね。
更に↓のツイートについて補足すると遠藤良子氏の名前が出ているのは「闘う人士、闘う仲間からの年頭アピール」ということで、これはブントの党員というわけではなく組織的に仲のいい団体のメンバーくらいのことでしょうね。
暇空茜
@himasoraakane
もう一つの推薦団体くにたち夢ファームJikka代表の遠藤良子は共産主義者同盟に所属
http://bund21.org/message/message2008/message2008-1.html
https://twitter.com/himasoraakane/status/1595409880370024449
## 追記2
ブコメなどを見ると三里塚闘争が昔の話かのように思われている方がけっこういらっしゃるということで、これは現代まで続いてる話なんですよというのをひとつ。
http://www.zenshin.org/zh/f-kiji/2022/12/f32730103.html
これは中核派の機関紙「前進」のHPの直近の記事ですが、三里塚現地で無農薬で農業をやっている市東さんという方のところに強制執行が来そうだということで、反対同盟北原派と支援党派は臨戦態勢なんですね。
@kambara7
娘の付き合いで「ワンピース」なる映画を初めて観たが、「民衆が平和を望むと逆の結果になる」という、右翼の大好きな反革命思想に満ちた映画であった。
ボディビルダーみたいな男性がわんさと出てきて、ひたすら暴力を振るうだけのストーリー。作者はアンチフェミニズム、アンチ民主主義なんでしょう
映画の冒頭に戦火に苦しむ民衆の姿が描かれても、結局なんの解決も示されない。この映画に思想らしき思想があるとすれば、せいぜい任侠道であり、つまり暴力団員の思想ではないか。
反革命思想と任侠道、アンチフェミニズムと反民主主義。こんなアニメに人気が集まる日本社会は、本当に絶望的だ。
ディズニーは子ども向きでも大人の鑑賞に耐える作品が沢山あるのに、日本のアニメは本当にダメ。作り手の価値観が昭和で止まっているからだろう。
国が衰退する過程では、思想や価値観のレベルでも後退し腐敗するんだろう。
数が多くて切りが無いし、私も知識が無いのと途中で疲れてきたのでごく一部しか挙げられません。こんなのもあるよって方は教えてくれるとありがたいです。今はこんな感じですが、気が向いたら付け足します
フランス革命期における山岳派による独裁政治。王侯貴族のみならず、農民、革命家すら処刑され合計4万人以上の命が失われた。
革命政府に監禁されたルイ17世は激しい虐待に晒されわずか10才で死去した。
ボリシェビキの秘密警察チェーカーによる弾圧。反革命派・貴族・聖職者など最大130万人が殺害された。
皇帝・皇后とその5人の子どもが虐殺された。末っ子のアレクセイはわずか13才であった。
赤軍パルチザンが尼港を襲撃、6000人以上の住人を虐殺した。
スターリンの命令によりウクライナ人から家畜・土地が奪われ1000万人が餓死した。
スターリンの命令により反体制派と疑われた国民が多数処刑された。犠牲者は1000万人にも上るとされる。
ソ連がポーランドに侵攻したにも関わらず、西側諸国はそれを黙認した。ソ連の占領下で50万人が投獄され、10万人が強姦され、15万人が死亡した。
樺太の郵便電信局職員がソ連軍接近の方を知り、9人が自殺した。加えてソ連軍の虐殺により10人が死亡した。
ソ連兵に強姦され続けた日満パルプの女性職員とその家族23人が自殺。さらにソ連軍に物資が奪われたため、冬になると87人が死亡した。
ソ連軍の攻撃で緊急疎開船3隻が爆破され、1700人以上が死亡した。
ポツダム宣言受諾後、ソ連軍が樺太に侵攻。民間人も犠牲になり3500人以上が死亡した。
日本軍の捕虜57万人がシベリアに連行され、過酷な強制労働に従事させられ、5万人が死亡した。
連合国によるドイツの戦争裁判。事後法によりドイツの政治家や軍人を裁き、連合国の残虐行為を無視したリンチ
ハンガリーが非スターリン化を進めると、ソ連軍は武力でこれを弾圧。1万人以上が死亡し、首相のナジ・イムレは処刑された。
ソ連がアフガンに侵攻したが、戦局は泥沼化し、アフガンの政治情勢を混乱に陥れた。
ソ連がアゼルバイジャンの首都バグーへ侵攻し、1満員以上の死者が出た
大躍進政策により失脚した毛沢東が大衆を動員して、政権を転覆させた。全国で1000万人以上が犠牲となった。
共産党がチベットを武力で制圧。その後現代に至るまで文化的・政治的弾圧を加えている
共産党がウイグル人に対して行っている虐殺、洗脳、不妊などの弾圧。死者は100万人も上る。現在も行われている。
共産党が党大会を強行したため、世界各地にコロナウイルスの感染が拡大。死者は400万人にも上る
共産主義者難波大助による裕仁親王(後の昭和天皇)暗殺未遂事件。侍従長が負傷
朝鮮学校閉鎖に反発した共産党と在日朝鮮人が各地で暴動を起こした
共産党が平警察署を襲撃。職員に暴行を働き、留置所に監禁した。
日本共産党が山や農村を拠点とした武力活動を企むも、支持が得られず、警察の取り締まりにとり挫折。
共産党軍事組織中核自衛隊のメンバーが警部を射殺。その後共産党の幇助により国外逃亡した。
共産党員及び在日朝鮮人が無関係の一般市民の家を襲撃、放火した
吹田駅・吹田操車場で学生・朝鮮人らが暴動を起こし、一般の乗客にも負傷者が出た。
共産党員および在日朝鮮人が警察署を襲撃、警官70人、消防士1人、一般人4人が負傷した
共産党員が地主と妻・家政婦・小学生3人を暴行、重傷を負わせ、金品を強奪した。
共産主義者が日本航空のよど号をハイジャックし、北朝鮮に亡命した。
沖縄でゼノストの警備に当たっていた警官が新左翼による暴行の末火炎瓶を投げつけられ死亡した
連合赤軍が山中のアジトで同志に対してリンチを行い、12人が死亡した内ゲバ事件
大阪城公園内で起きた新左翼の内ゲバによるリンチ殺人。1人が死亡した
東アジア反日武装戦線による爆破事件8人が死亡、376人が負傷した
岡山大学北津寮を拠点にしよと目論む新左翼が寮を襲撃、1人が死亡、多数の負傷者が出た
新左翼が大坂第二合同法務庁舎に大量の火炎瓶を投擲したが、幸運にも1本しか着火せず人的被害はなかった。
不良少年のグループが女子高生を誘拐、1ヶ月以上にわたり監禁と暴行を加えた末に殺害。主犯者の両親は共産党員であり、自宅で事件が行われていたにもかかわらず見逃していた。
新左翼が新しい歴史教科書を作る会の事務所があるビルに放火した。発見が遅れていれば大惨事に繋がっていた。
共産党支持者がマンションに侵入し、共産党のビラを配布、住居侵入罪で逮捕された。
厚生労働省職員が新聞あかはたを配布し、国家公務員法違反に問われた
男組組長が反差別ワークショップを開催した際、初対面の助成に執拗な痴漢・セクハラを行った
カンボジア国内でクメール=ルージュにより200万人近い知識人らが虐殺された
文化人類学者たちの報告によれば、現代においても、アマゾンとまではいかなくても、女性上位の社会はいくつか存在するようである。しかし、地球上の大部分の社会では、我々の社会のように、男性上位になっている。これに不満をいだく一部の女性たちが、最近、ウーマン・リブとやらいう運動をはじめて話題を呼んでいる。ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。
だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372.9グラム、女1242.8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。
女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、解放されたいと願う女性がいないからだ。
ウーマン・リブの指導者にはくやしいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。
ある日、男らしくない男たちが大同団結して、男らしさが、侵略と反革命を支える。男らしさの返上。男らしさの基準で男の優劣をきめる社会に怒りをたたきっける」とわめいてデモりだしたとしたらどうだろうか。あるいは、突然豚に知恵がついて、豚らしさの返上。豚らしさの基準で豚の優劣を決める社会に怒りをたたきつける」と、ブーブーいいだしたらどうだろうか。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。
現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。
歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの王統派と同じくらいアナクロである。
ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第二は、女性が生理的にも心理的にも、抱くよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。
心理的には、女性心理学の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。しかし、不幸なことには、ごく一部の女性は、正常な女性心理の発達を阻害されて、抱かれることより、抱くことを望むようになる。
マリー・ボナパルトは、正常な女性は膣型であるのに対し、この種の精神的不具の女性は陰核型であるという。陰核は発生学的にいって未発達のペニスである。彼女たちは、膣という素晴しい道具を持っていることを知らずに、陰核がペニスなみでないという点に欲求不満を持ちつづける。その結果は、真のオルガスムスをついに味わえないという結果になる。
ウーマン・リブは、一夫一婦制を、女の性欲求の封じ込めと非難するが、これは彼女たちが精神的不具者であることを公表しているようなものだ。正常な女性の性心理からは、女性が自ら一夫一婦を望むものであることは、あらゆる心理学上のデータが証明している。
多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスムス不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといっても過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ。そしてそのとき、オルガスムスを味わうためには、女は抱くことより、抱かれることが必要なのだということを忘れないことだ。
●知の巨人・立花隆先生による井田真木子著「プロレス少女伝説」評
「プロレス少女」はどうでもいいことを巧みに書いた典型のような作品である。
私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである。
主張や伝えたいことそれ自体は色褪せていないとは思うが、
テレビに監視装置とか日記つけたらダメとか少し古さを感じるし、洗脳したあと殺すという極めて非効率な展開は理解できなかった。
【追記】
サイコパス面白かったなあ。不幸を減らす営みが別の不幸や矛盾を生み出すのは興味深いと思った(こなみ)
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自分たちの現実の方が上回っているという指摘は確かになあと思う。中国の信用スコアとか最たるものだよね。
ブラックミラーのランク社会とかに似てると思う。現実的で真に迫る描写がよかった(こなみ)
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すまん。やっぱ監視社会だけでなく、絶望を感じさせる未来的なSF作品が見たい、という趣旨に鞍替えしたい。
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華氏451度は懐かしい。読んだなあ。でも今思うと本を強制的に読ませないとか国力衰退に直結するからどうも現実感に乏しいような気がする。
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俺もケストラーの真昼の暗黒は大好きだ。まさかこんなマイナーな作品を知っている人に巡り会えるとは思わなかった。
ルバショフの心情の変化が非常に丁寧に書かれていて、そのほかの人物たち(リチャード、小男ローウィ、秘書アルロヴァ、イワノフなど)との回想の中で
革命家としての冷徹さと反革命と見なされうるヒューマニズムの拮抗と挫折が心を打った。あれは名作だ。
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あれは社会の安定を第一に考えた世界の末路とその問題点とも言えるし、みんなソーマで幸せなのになぜ読んだ人に絶望を抱かせるのかという点においても難しくて考えさせる物語だと思う。酸素供給不足によって故意に障害を起こしたり、本嫌いにさせる洗脳を施したりすることで、一定数の人たちの本来の可能性を奪ったうえで安定させた社会には何の価値があるのか、と考えてしまう。
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。