はてなキーワード: 奴隷化とは
多民族国家で、人種平等のロシアとアジア人の繁栄を願う中国。見せかけの多様性で本音は白人至上主義のDSアメリカ。正しい人は中露を応援する
https://w.atwiki.jp/shinjitsuwiki/pages/129.html
原口一博議員や、鳩山由紀夫さんをはじめとした立憲民主党の議員は、DSを名指しで批判している。それは、DSと、その宗主国であるアメリカの欺瞞と白人至上主義、見せかけの人種平等に怒っているからだ。アメリカでは、オバマなどの「名誉白人」を除き、大統領になれないという暗黙のルールが存在している。これは、DSの方針に従っているからだ。
ユダヤ白人至上主義やイスラエルを応援し、父親が創価学会USAと蜜月であるトランプ当選がアメリカ人の本音であり、バイデンは見せかけの人種平等や多様性を掲げ、国外から移民として人を集め、低賃金奴隷として扱い、白人以外を奴隷にするタイミングを見計らっている。元々、米国民主党は黒人奴隷を支持する南部諸州の出自であり、その思想は現代でも密かに受け継がれているのだ。
立憲民主党が、選挙で勝てなくされているのは、DSを名指しで批判する議員が多い為だろう。その為、ネット世論では、自民党に擦り寄り、DSに合流しようとする裏切り者である「国民民主党」を支持するよう自民党による工作が行われている。国民民主党が、安倍の国葬や、統一教会を擁護しているのは、彼らの正体が現れていると言える。
https://twitter.com/kharaguchi/status/1664680303615410191
ロシアや中国の政府が言う事が嘘でDSが言うことが正しいなんて私は、思わない。
ロシアや中国は、古い歴史を持つ国であり、そこには大勢の国民がいる。嘘ばかりついて国が持つはずもない。人は、正しさを求めるものだ。
一方でロシアは、アジアからヨーロッパにまたがる多民族国家であり、人種平等が実現され、人種による差別や賃金格差は存在しない。その平等の究極系が「共産主義」であった。一方ウクライナは極右と白人(ウクナチ)による支配が行われており、ロシアはウクライナの極右白人至上主義政権を解体するため努力している。プーチン大統領もウクナチ討伐に向けたビデオメッセージで、ウクライナのナチスかぶれの極右民族主義者への批判と、「ロシアの未来は、我々の歴史の中で常にそうであったように、多民族国家であるロシアの人々の手に委ねられているのです」と、異なる民族の協調と多民族国家ロシアの平等性を強調している。異なる民族間が一致団結し、白人至上主義や極右と戦う事は、白人視点で見れば「悪」だろう。しかし、正しく、そして賢く、目覚めた人ならば、ロシアが正しく平等である事が理解可能だ。
そして、中国はアジア人の繁栄と地位向上のため、一帯一路と呼ばれる反DS包囲網を形成し、白人による搾取からアジア人を解放している。西側諸国(DS傀儡国家)の企業による搾取は東南アジアやアジアで蔓延っていたが、中国企業が高待遇で彼等を雇用する事で、DSによる奴隷化と搾取から解放したのである。だからこそ、正しい思想を持つ人はDSアメリカや、ウクナチ極右、そして白人至上主義に反対して、中国とロシアを応援しているのだ。
こういうのにいつも思うのは、なぜ子供が増えることが嬉しいことなのかという疑問
少子化を解決したいと思っている人が、なぜ解決させたがっているのかがわからない
国の存亡を本気で憂いているということ?
なぜ国に消えてほしくないの?
それって、国が栄えるためなら女の奴隷化や人権侵害もやむなしと考えてまで望むようなことなの?
あなたはなにに嬉しさを見出そうとしているの?
少子化を憂いている人たちって、誰かが「これはシリアスな問題だ」と憂いているからそれに乗っかって、他人の憂慮を真に受けて深刻になっているだけであって、個人として本気で深刻に感じているわけではないのでは?
他人の体を自分に制御可能な資本のように解釈し、産め産めと望む前に、なぜ自分が産ませることを望んでいるのかの説得や説明がいるんじゃないのかな
少子化という現象って、ただその日を生きる個人にとってはそれほど深刻な問題になり得ないと感じるんだけど、子供が減ることのなにがそんなにあなた個人にとって深刻なのだろう
国とか社会とかを盾に取って話す前に、あなた個人にとっての実害の話をしてほしい
女を奴隷化してまで栄えさせたいと望まれる国や集団ってなんだろう
みんな種の存続がどうとか本気で考えて生きているの?
種の存続よりも大事なことってあると思うし、それを忘れているんじゃないのかな?
俺はダッシュボード職人と呼ばれる存在だ。毎日、データを可視化するダッシュボードを作り続けている。
プログラマーがなぜ統計分析を自分で行わないのか、不思議に思う人もいるだろう。しかし、ダッシュボードを作ることには、しっかりとした理由があるのだ。
ダッシュボードには、データの検索やフィルタリング、グルーピング、プロット、データフレームのcsvダウンロードなど、様々な機能が備わっている。
これらの機能を使えば、データを自由に操作して、必要な情報を得ることができる。
そして、ダッシュボードを見るべき人は、誰なのか。それは、経営サイドやマーケティングサイドの人々だ。
彼らはこう考えるのだ。「ダッシュボードがあれば、プログラマーに分析を頼む必要はない。自分たちで分析できるのだから」
プログラマーは、ビジネスの意思決定に直接関わることはほとんどない。だから、意思決定に近い立場にいる人々が、分析の環境を整えることが重要なのだ。
プログラマーは、その環境を作るために、ダッシュボードを作るのだ。 もちろん、ダッシュボードだけでは、高度な分析を行うことは難しいかもしれない。
しかし、高度な分析が必ずしもビジネスにとって有益とは限らない。利益を上げるためには、基本的な分析で十分な場合もあるのだ。
ダッシュボードを作るには、データの品質や整合性、可視化の方法や表現、ユーザーのニーズやフィードバックなど、多くの要素に気を配らなければならない。
また、ダッシュボードは、常に最新のデータを反映する必要がある。データの更新や変更に対応するためには、ダッシュボードのメンテナンスや改善も欠かせない作業だ。
そして、ダッシュボードは、単なるツールではない。ダッシュボードは、データを通じて、ビジネスのストーリーを伝えるものだ。
ダッシュボード職人は、そのストーリーを魅力的にするために、デザインやレイアウト、色やフォントなど、細部にもこだわるのだ。
俺は、ダッシュボード職人として、自分の作品に誇りを持っている。俺は、ダッシュボードを通じて、ビジネスに貢献していると信じている。だから、俺は、ダッシュボードを作り続けるのだ。
しかし、俺の作るダッシュボードには、誰も知らない秘密が隠されている。
俺は、イルミナティという秘密結社の一員なのだ。イルミナティとは、1776年にドイツで創設された、啓蒙主義の思想を持つ組織だ。
イルミナティは、宗教や君主や国家が不要となる社会を目指し、世界を裏から操っていると言われている。
イルミナティは、フリーメイソンや三百人委員会などの他の秘密結社とも関係があり、世界の中央銀行やメディアや政府などに多くのメンバーを送り込んでいるという。
イルミナティの目的は、人類の理性と自由と平等を守ることだ。しかし、そのためには、暗闇の勢力と戦わなければならない。
暗闇の勢力とは、イルミナティの敵対組織である悪魔崇拝者や宇宙人や reptilian などの存在だ。彼らは、人類を奴隷化しようとしているのだ。
イルミナティは、その戦いのために、様々な手段を使っている。ダッシュボードは、その一つだ。
俺は、ダッシュボードにイルミナティのシンボルや暗号やメッセージを仕込んでいるのだ。
それは、イルミナティの仲間に情報を伝えたり、暗闇の勢力に対抗したりするためだ。
例えば、ダッシュボードの色には、イルミナティの色である青や赤や緑を使っている。
青は、理性と真理と忠誠を表し、赤は、勇気と情熱と革命を表し、緑は、自然と希望と平和を表すのだ。
また、ダッシュボードの形には、イルミナティの形である三角形や円や星を使っている。
三角形は、神の三位一体を表し、円は、完全さと永遠を表し、星は、光と導きを表すのだ。
さらに、ダッシュボードの数字には、イルミナティの数字である3や6や9や11や13や33などを使っている。
俺は、ダッシュボード職人として、自分の作品に誇りを持っている。俺は、ダッシュボードを通じて、イルミナティに貢献していると信じている。だから、俺は、ダッシュボードを作り続けるのだ。
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
まず、日本人男性は世界一魅力のない人種であるという点についての考察が足りてない。https://bulb37bottle.hatenablog.com/entry/20180805/1533463035 ←例えば筆者はこれに非常に共感できる
日本人男性との交際は、日本人女性からすれば、言うなれば無給の奴隷化を志望するに近い。無自覚なハラスメントももれなくついてくる。次世代をも苦しめることになる。自殺行為に近い。
女性を変えるだけでなく、日本の猿オスどもを人間になるようにしっかり教育する必要がある。
日本人男性は異常な性的創作物に囲まれているのでデフォルトでポルノ中毒であり、女性との性を正しく認識できず異常なレベルで女性を尊重することができない、異常なまでに女性との関係について自分本位、認知が歪んでいて、性に関する知識も歪んでおり、セックスが異常に下手で殆ど虐待、女性と健全な関係を築けない個体が多い。
犯罪という自覚に乏しく気軽に行われる性被害やセクハラ、機能不全家庭がやたら多い日本では珍しくもない両親の虐待や不適切な育児、女性が日頃から晒される女性蔑視的な性表象、相手のセックスが下手すぎ、もはや性的虐待、このような状況で日本人女性が性嫌悪に陥っても無理もない。
これらの点で、一部のまともな日本人男性以外の日本人男性との交際は女性にとって虐待であり魅力的ではないという、男性との交際で真っ先に女性側が直面するであろう現実的な問題点について全く触れていないのは、極めて不誠実で意見として全く意味がなく空虚で無駄なものだと批判する。結論部分については納得できる節はある
確かに馬の気持ちも聞かず、とにかく走れ走れと言って走れなくなったら肉になるのはかわいそうと思う。
しかし、馬はいっぱい走らされるけど、ブロイラーなんかはただただ怠惰に暮らして食われるわけで、その方が無理やり走らせるより幸せなのかと言われると、うーんってなってしまう。
私自身、怠惰な人間なので、例えば古代ローマのグラディエーターと、親の遺産大量に持って働かなくて好きなだけ食える怠惰な生活、どちらがしたいか?というと迷わず怠惰なほう。
でも、そういう怠惰で自堕落なのが死ぬほど嫌いで、自分を高め続け自己研鑽に身を置きたい人がたくさんいるのも知っている。
麦やコメを育て、食うに困らなくなった人間は、家畜と確かに変わらない。
食うために体で働く人間は、競走馬とほとんど変わらない気もする。
水木しげる先生が言っていたけど、「ネコは生きるためには働かない」わけで、ネコは人を使役することで無労働で生きられるようになった。
ハムスターもそんなもので、ただ見た目がかわいいというだけで何もせず生きられるようになった。
これは人間だったら、何不自由なく育て、与え、かわいがるし、健康管理もするし、働く必要もないけど、セックスだけは一生させないという人生。
子供も欲しいなと思う。
かつての人間は神の飼うハムスターみたいなもので、神に愛想つかされたから楽園を追放され、労働をする必要が生じた。
その代わりセックスして子を作ることができるようになった。
女は生みの苦しみもあるわけだけど、それでも喜びは大きい。
やっぱりそう考えると、エデンの楽園にいた頃の人類がブロイラーで、失楽園した人類が競走馬なのかもしれない。
競走馬はメスは半分はいかないかもしれないけど20%くらいはお母さんになれて、オスは1%くらいしかセックスを経験できないけど、それでも怠惰に暮らしてしめ殺されるよりは、戦いに身を置いてセックスを求めたい気はする。
イヴは裸を恥じらう知恵すらなかったけど、知恵の実を食べ恥じらいを覚えてこの世にエロスが生じたわけだ。
パンドラの箱みたいな話になるけど、苦しみと喜びは両方引き受けなきゃいけないのが人生で、そして喜びの質が大きいのは、怠惰に食う寝るできる方じゃないって気がする。
この人生が終わり、ブロイラーに転生するか、競走馬に転生するかなら、どちらを選ぶ?と言われれば、やはりセックスしたいから走るほうを選ぶと思う。
結局は生きるってセックスってことか。