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はてなキーワード: 思想家とは

2024-03-06

ボードゲーム光源氏

私はゲームが好きだ。

だが今は、自分の遊びだけでなく、1歳の子供に色々なことを教えている。

目的は将来、私とボードゲームゲームで遊んでもらうことだ。

これは、「教育熱心」「子どもの将来のために」なんて温かみのある話ではなく、

私が遊び相手を得るためのピュア独善的活動である

ゲームプレイヤーにとって競争相手は強ければ強いほど好ましいものだと思う。

遠回しなことをせず、友人や市井相手を探せよと言いたくなるかも知れない。

しかし、長い時間オフライン活動を共有でき、十分なリテラシーと社交性と競争心をもった

盟友を探すことは、大人にとっては、それほど簡単なことではない。

そこで私は、我が子を理想プレイヤーとして育てる壮大な計画を実行することに決めたのだ。

さて理想プレイヤーの条件とは、どのようなものだろうか?

ゲームに強くなるためには先ずは地頭を良くすることが必要だろう。

記憶力は高いほどよいし、論理パズル、数理パズルはできればできる程よい。

ボードゲームの複雑なルールに親しむためには、色々な遊びを偏りなく経験することも糧になるだろう。

ゲームを背景まで深く楽しむには科学経済歴史地理芸術音楽あらゆる文化についての教養が身についていればいるほど良い。

ボードゲームの中でも重ゲーをやるためには長時間プレイに耐えるために、体力づくりだって必要だ。

紳士的なプレイのためには社会的協調性も持っているべきで、広い友人関係も築いてもらう必要がある。

このように学ぶべきことは無数にあるが、子供詰め込み教育押し付け教育を嫌う。

どんなに大人が急ぎたくとも、子供がそのペースに進んで付いてきてくれるわけではない。

からあくまで遊びの中で、褒めておだてて、根気強く各種のスキルを身に着けさせていくことが必要となる。

フラッシュカードメモリーゲームジグソーパズルのような基礎的なゲームから初め、

音楽体操など、五感を使ったあらゆる遊びの中で楽しみを与え、無意識のうちに少しずつ染めていく。

この計画は、今のところ功を奏しており、月齢にしては極めて順調に言葉と知恵を獲得しているように見えている。

だがしかし、実行してみるとよく分かるが、光源氏計画には思っていた以上に気の遠くなるほど長い時間熱量がかかる。

光源氏とはかくも偉大な思想家だったのか。

確実に一歩ずつ進んでいることには間違いないが、困った話だ。

しかし、理想ライバルを一生得ることができると思ったら、やる気も続くというものだろう。

そうは思わないか

2024-02-27

anond:20240227150016

http://fuseji.net/○○ン○○ン○

カウンセング元増田と重複
ブランディングブランド価値を高めるための施策
チャンピオンゲームドラゴンクエストチャンピオンズ、欧州サッカー大会UEFAチャンピオンズリーグテレビ東京系列BSジャパン放送されたTVチャンピオンの後続バラエティ番組、 魚乃目三太による週刊少年チャンピオン歴代編集長取材マンガ
コメンスメント本来は始まりの意だが米国では卒業式をさす。また日本の同名ファッションブランド
アイン・ランドロシア系アメリカ人小説家思想家映画脚本家リバタリアンアメリカ保守主義に大きな影響を与えた
バインディングbinding:結びつける、縛り付けること。またラグビースノボITなどで用語化している
フロントエンドWebサービスWebアプリケーションで直接ユーザーの目に触れる部分
コリンチャンスブラジルサンパウロ本拠とするサッカークラブ
オレンジレンジ日本男性5人組ロックバンド
ポインティングpointing:指し示すこと。また彫刻ITなどで用語化している

http://fuseji.net/○○ん○○ん○

にさんかたんそ元増田と重複
こてんこてんこ上野あつこによる日本漫画作品
にほんのぶんか日本の文化
かうんせりんぐ上と重複
いでんしけんさ遺伝子検査
ぶりんこうんこ辻希美加護亜依による非公式ユニット
ぶらんでぃんぐ上と重複
ゃんちゃんこ元増田と重複
おてんとさん社童謡雑誌『おてんとさん』の発行と児童文化運動のための結社
しゃんしゃん火天火の異称日本各地に伝わる怪火の一種

http://fuseji.net/○○ん○○ン○

こてんぐテン丸かぶと虫太郎による日本漫画作品
たらんたランタ槙ようこによる日本漫画作品
ぺぺんがペンゴセガメガドライブゲームソフト。Wiiバーチャルコンソールでも配信

http://fuseji.net/○○ン○○ん○

ブリンぶりん家2004年TBS系列から放送されたアニメバラエティ番組

2024-02-26

井原西鶴文学フランス書院文学ではないという違いのわからなさ

百科事典井原西鶴作品解決を見ると、封建制に対する人間性回復を主張した文学だみたいにもっともらしく書いてあるけどさ。

封建制はともかく「人間性回復」だから文学っていうならフランス書院だってジュブナイルポルノ(ノクターンとか)だって別に文学でよくね?

ようはエロいこと書きゃ全部野生への回帰であり人間性回復っていえるでしょ。そこにいえるとかいえないとかいうのは恣意的で、自分のひいきするジャンルの箔を上げたりするための策略としか思えない。

俺はむしろ自分が娯楽に読んでるエロの箔ををあげたいとか思ってなくて、そんなのは性欲ドリブンでしかないのわかってるわけで、むしろ今まで文学扱いされてるのに対して「そんな箔つける必要ある?」ともっと整理した方がいいんじゃないのかなと思える。

ひと、いやふた昔前の「思想家なる」学力的な意味での賢い人間やその言が偉く権威のある主張とされてた構造と近いものを感じるよ。勉強した人の言の「勉強した事実」だけで箔をつけるのやめてほしいわ。

2024-02-22

anond:20240222184143

千万人よれば文殊の知恵みたいな?文殊からみればそいつらが相対的堕落した存在しか見えなくなるみたいな?

山は裾野が大きいほど高いとも言うしね。今巨大になった山のの頂点にあるお気持ち思想には一人の思想家では太刀打ちできんのだろう。

思想家って言葉概念ごと死後になりつつあると言ってた人がいた。

吉本隆明東浩紀はこき下ろしてた。もう思想家時代じゃないって。

でも、ツイッターはてな村のようなネット言論が今の言論全体の主戦場って思えばよくね?と思った。

しろ昔よりよっぽど言論の風通しよくて侃侃諤諤にみんなが自分意見を言ってるって方がいいんじゃないの?

そのなかからいいもの拾いだせばいいだけなんだし。

2024-02-19

anond:20240219192657

わかる

中学生くらいの頃、痛い中学生の俺は三島由紀夫にどハマりして思想に被れたりしたんだけど、高校生になってから文章死ぬほど上手いだけで言ってる内容は(旧)Twitter論客と大して変わんねぇな」って思うようになった

石原慎太郎思想ごっこしてるだけみたいに言われてたのも当たってると思うし

2024-02-12

anond:20240212204721

この言葉は、平賀源内(へいがげんない)という江戸時代文化人が考案したとされる、遊び心のある言葉遊びです。平賀源内は、江戸時代活躍した思想家文人発明家として知られています

「ヒョッヒョッヒョ!エレキテルじゃ!」という部分は、源内が「ヒョッヒョッヒョ」という笑い声をあげつつ、「エレキテルじゃ」と言っているような言葉遊びです。これは、当時の新しい技術である電気表現したものとされています

一方、「平賀源き内「電気じゃ」」は、同じく平賀源内言葉遊びをもじったもので、日本語の「電気」を「源き内」と読み替えています。これは、源内の名前を遊び心で使ったものであり、平賀源内自身が「電気」という新しい技術に興味を持っていたことを示唆しています

平賀源内のような人物が、その時代最先端技術文化に興味を持ち、その中で遊び心を発揮したことは、彼の独特な個性知識の広さを示すものとして注目されています

2024-02-07

anond:20240207111841

言うて儲かるぞ

天誅でやってる感を徹底的に押し出していけば、上手くいけばもはや違法行為せんとも支援者の金で食える思想家のような存在にまでなれる

2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

金光翔 『<佐藤優現象批判

インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載

目次

1.はじめに

2.佐藤優右派メディアでの主張

 (1)歴史認識について

 (2)対北朝鮮外交について

 (3)朝鮮総連への政治弾圧について

3.佐藤優による主張の使い分け

4.佐藤優へ傾倒する護憲派ジャーナリズム

5.なぜ護憲派ジャーナリズム佐藤を重用するのか?

 (1)ナショナリズム

 (2)ポピュリズム

 (3) 格差社会

 (4)「硬直した左右の二項対立図式を打破」―〈左〉の忌避

6.「人民戦線」という罠

 (1)「ファシズム政権樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤擁護する

 (2)「論壇」での生き残りを図るために、佐藤擁護する

7.「国民戦線」としての「人民戦線

8.改憲問題と〈佐藤優現象

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

10.おわりに

1.はじめに

 このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。

 だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディア排外主義のものの主張を撒き散らしている。奇妙なのはリベラル左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。

 佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場記述検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。

 「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動共鳴する特定編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチ共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社カラーや論壇の左右を超えて小さなリスク共同体が生まれ編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞社会面を中心に、従来型の検察官邸主導ではない記者独自調査報道が始まる。」「この四者(注・権力民衆メディア学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論公共圏形成していく。」

 馬場見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点であるある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義体制下の護憲派が、イスラエルリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。

 以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮武力行使在日朝鮮人団体への弾圧必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的ものである。「戦後民主主義」が、侵略植民地支配過去とまともに向き合わず在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象しか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。

 私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤右派メディアで主張する排外主義を、リベラル左派容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在ジャーナリズム内の護憲派問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。

 馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である佐藤自身は自ら国家主義であることを誇っており、小谷野敦言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本右翼なんか一人もいない」。

 佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店朝日新聞出版物では、排外主義ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?

 この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。

2.佐藤優右派メディアでの主張

 まず、佐藤排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。

(1)歴史認識について

 佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本ロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立日清戦争日露戦争引き起こした。もし、日本ロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮にらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージ金正日に送るのだ」。朝鮮植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのもの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢反論することは当然のことだ。」と述べている。

 特に大川周明テクスト佐藤解説から成る日米開戦真実大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本近現代史に関する自己歴史認識開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である

 「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国アメリカイギリスによる植民地支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種棲み分け理論である日本人はアジア諸民族との共存共栄真摯に追求した。強いて言えば、現在EUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカ日本妥協を繰り返せば、結局、日本アメリカ保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民活動家の眼には、日本列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリスアメリカはつけ込んだ。日本こそが中国植民地化と奴隷支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。

 右翼たる佐藤面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。

(2)対北朝鮮外交について

 佐藤は、「拉致問題解決」を日朝交渉大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエル国権侵害でもある。人権国権侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在北朝鮮ミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義選択肢には戦争問題解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題解決」においても、戦争視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。

 さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮米ドル札偽造問題が、アメリカ自作自演だった可能性が高いという欧米メディア報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカ情報源情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証根拠も示さずに(反証必要性を封じた上で)、「北朝鮮情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤現在右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。

(3)朝鮮総連への政治弾圧について

 佐藤は、「在日団体への法適用拉致問題動く」として、「日本政府朝鮮総連経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネス利益を得ている勢力牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。

 漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件摘発拉致問題解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮日本交渉する気にさせるのが警察庁仕事。そのためには北朝鮮資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関民族学校などへの強制捜索に理論根拠提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。

3.佐藤優による主張の使い分け

 排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。

 佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。

 一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループサイト上での連載である地球を斬る〉では、「慰安婦問題をめぐるアメリカ報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的立場から日本政府謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題 Permalink | 記事への反応(1) | 18:32

anond:20240126020048

周辺情報も含めてもう少し俺自身咀嚼する必要があると思った

あとで調べるためのコメント

以下自分メモ(☆は自分が書いたもの)

AIによる学習を阻害する技術に対する法的措置可能

GalzeやNightShade で機械学習邪魔する人は、刑事告訴されちゃうかもね。ウフフフフ

☆これのことか?

AIの発展を邪魔するAI犯罪政府認定! 『TIME』誌が選ぶ最優秀発明Glaze Nightshade

https://togetter.com/li/2275902

第4回AI時代知的財産権検討会の資料が公開。我々が送った意見は「資料5」にまとまっている。自分意見ちゃんと載っているか確認を。……まあ載っていたとしても結局会議内容に反映されてないっぽいのが最悪なんだが。30条4に対して未だにコレだよ

https://twitter.com/numatakeja/status/1734490907410571461

AI時代知的財産権検討会(第4回)議事次第

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/ai_kentoukai/gijisidai/dai4/index.html

資料AI時代知的財産権検討会 論点整理

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/ai_kentoukai/gijisidai/dai4/siryou4.pdf (P.18)

☆現状の記述。下線が引かれていないので要検討項目とは見なされていない

AIイラスト規制を求める団体理事不祥事について

「木目百ニ」の事件

AIイラスト規制を求める団体理事「木目百二」氏が二次創作ガイドライン違反支援サイト作品全消し、謝罪に追い込まれ

https://togetter.com/li/2135111

会の理事である木目百二氏が成人向け二次創作収益を得ていることが発覚

木目百二氏が二次創作作品を削除、謝罪

https://twitter.com/mokumemomoji/status/1651958062482337792 (☆2024/1/27現在アカウントが凍結されているため見ることができない)

一次創作物の二次利用に関するガイドラインの一例と、二次創作による収入について

ブルアカ公式が定めてる「継続的創作活動のための、原材料費光熱費諸経費、ツール類など制作にかかった費用程度の対価・利益を得る」を明らかに超過した売り方をして、

多くの人々がそれを買って毎日ブルーアーカイブ過酷オナニーをしてる

☆過剰な収入があったとする根拠は見つけることができなかった

ブルーアーカイブ公式二次創作ガイドライン

https://bluearchive.jp/fankit/guidelines

二次創作を行う者について★

個人または法人格のない団体は、後述するような当社が定義する「非営利目的」の場合に限り、「ブルーアーカイブ」を題材とした二次創作物(同人誌同人グッズ・デジタル作品など…)の制作・配布・頒布自由に行っていただいて問題ありません。

非営利/営利目的とみなす判断基準

個人または法人格のない団体は、非営利目的かつ日本国内での発表・流通場合に限り、自由二次創作物を制作していただいて問題ありません。

また、趣味範囲で利用し、継続的創作活動のための、原材料費光熱費諸経費、ツール類など制作にかかった費用程度の対価・利益を得る場合においても非営利目的範囲内とします。

そのほか

散々著作権を軽視して無法地帯になったイラスト界隈を自分たちが作ったのに、なに「思想家ぶって人に説教してるわけ?

端的に言えば「一般人を見下した態度を取るべきではなかった」これに尽きる

一般人に頭を下げずに、偉そうに「倫理」だの「道徳」だの「著作権」だの適当なことを吹聴してAIイラストへの攻撃を支持した

著作権に触れてる」と怒鳴ってAIイラストを捨てさせて、その次の日に自分二次創作同人宣伝をした

政府見解曲解して吹聴して、それを信じたファン達は盛大に恥をかい

☆どこかにAI絵師視点意見が整理されているところがあればいいのだが、見つけられなかった

事実関係については検証可能情報がほしいところ

一人のAI規制派(ようは反AI)として、SNS思想家気取りの反AI勢に思う事

前書き「害悪しかいかマジでやめろ」

俺は所謂AI思想だ、ラッダイト的と批判されても「そうだ」と言い返す。それぐらいに反AI

だがSNSやらnoteでワイワイ反AI論じてる奴らに頭に来てる、はっきり言って害悪

本当に害悪だ、誰のためにもなってない、いい加減にしろと思う

具体的には「自分のことを倫理的にも、法律認識も、そしてクリエイターに対する道徳性一般人よりは優れてる」と思ってるプロイラストレーターたち

こいつらがどうしようもない無謀な発言を繰り返し、そして「プロ」だから盲目的な信者たちが沸いて・・・あぁクソが、思い出すだけで冷静じゃなくなる

これは苦情だ

自分の事を「一般人よりは、イラストについて一家言持ってる」と傲慢思い込み

愚かな風説をまき散らし、自分ファンたちを先導し、結果今の状況を招いた「バカプロたち」への苦情だ

noteしょうもない幼稚な反AI論書いてたやつら、全員読んで反省してくれ

1.今どういう状況なのか

2.反AI勢力は何に失敗したのか

3.「プロイラストレータ」と「クリエイター的な道徳倫理観知識の高さ」が相間しない理由。あるいは一般人未満の遵法意識しか持たないわけ

4.どうあるべきだったか、どう祈るべきだったか


という構成でいく。長くなるから好きなところだけ読んでくれていい

(注意:以降「イラストレータ」という単語はこの文章では、「同人コンテンツお金を稼いでる+SNS積極的活動してるイラストレータ」のみを指します。そうじゃないイラストレータはこの文章対象じゃないです)


1.今(2024/1/25)どういう状況なのか

端的に言えば「反AI勢の負け」だ

ただの負けじゃない、だれも想定してなかっただろう最悪の「負け」だ

どんなに異常な「AIイラスト大好き、人力イラストレータを憎んでるぜ!!!」な人でも、

まさか政府が「GalzeやNightShade で機械学習邪魔する人は、刑事告訴されちゃうかもね。ウフフフフ」なんて気色悪い文章を出すとは思ってなかったはずだ

赤松議員は「ただ、有名漫画家で明確に反対だと言っている人もあまり見かけないですね」なんて、「反AIって弱小漫画家しないよね(笑)」みたいな対立煽りをして、

日本政府」という枠組みが反AI冷笑しようとしてる、最悪でしかない

AIは苦境に立たされてるし、事実上撤退戦の状況にある

この前提で話をする。この前提に納得できない人は、こんな文章を読むのをやめてパブコメを書きに行こう。俺も書いたよ

2.反AI勢力は何に失敗したのか

正直この説明いるか?って思ってるのだが、

一部のバカプロイラストレータが本気で理解できてないので書く、

普通の人は理解できてる・・・っていうか知ってると思うので飛ばしてよい

端的に言えば「著作権意匠権で戦おうとしたこと」に尽きる

そしてこれが何故ダメなのかは・・・それは「木目百ニ」の事件が簡潔に表現してみせてる、

からマジでわざわざ俺が説明する必要がない、木目百ニでググってくれ

でもまだ理解できてないプロイラストレータがいるので説明するが、

ようは日本には「イラストレータの大半が、著作権を重んじなかった」という歴史があるという話

勝手に人のキャラクターを脱がせてそれにセクハラをするイラストを描くし、

しかもそれを、イラストサイトの有料コンテンツとして登録して月額課金を稼いだり、ダウンロードサイト登録して販売する

ブルアカ公式が定めてる「継続的創作活動のための、原材料費光熱費諸経費、ツール類など制作にかかった費用程度の対価・利益を得る」を明らかに超過した売り方をして、

多くの人々がそれを買って毎日ブルーアーカイブ過酷オナニーをしてる。そういう歴史のある国

別にそれが悪いとは言わない、でもその歴史を作ったのは先人と今のイラストレータ達なわけだ

今日も多くのイラストレータ達が二次創作経済を廻してる

人のキャラクター勝手に陥没乳首にしたり、勝手オッサンの子供を身ごもらせたりして、人の著作物お金を稼いでいる

で、そんな状況で「著作権を重んじよう、創作者に敬意を払おう」ということに、どれだけの意味がある?

どうして「なんだコイツ・・・」って不信の目を向けられないと思ったのか

3.「プロイラストレータ」と「クリエイター的な道徳倫理観知識の高さ」が相関しない理由。あるいは一般人未満の遵法意識しか持たないわけ

一つ上の章を読み飛ばさなかった人はもう察しがついてると思うが、

SNSの"大抵"のイラストレータよりも、一般人のほうが実は創作に対して真摯姿勢を持ってるし、

もっと言えば著作権への理解もしっかりしてる

だって一般人は「無許可で人のキャラエロ本を書いて、しかもそれを売って金儲けしたりしない」から

せいぜいファンアートレベルだ、500円の月額課金コースに設定したりなんて「一般人」はしない

しかし、イラストレーター達はそれをやる

それを悪とは言わない、版元も喜んでるケースもあるだろう

しかし「著作権」を軽視した態度であることは事実だ、遵法意識という観点で見れば黒だ

私が特に問題視してるのはこの点だ

SNSやらnoteで反AI論だの、中立ぶって建設的な議論」だとか「理性的倫理観」を掲げるイラストレータ達はこの視点が抜けてる

散々著作権を軽視して無法地帯になったイラスト界隈を自分たちが作ったのに、なに「思想家」ぶって人に説教してるわけ?

お前たちイラストレータが、ちゃん著作権や「クリエイターへのリスペクト」について布教啓蒙してればこうはなってない、みんな生成イラストを焼き捨ててただろう

でもそうしなかった、「オリジナルから許可を得てない、エッチイラストお金儲けすること」これを良い事だとした

その結果が今だ

その現実から目をそらして、人を批難するのはやめろ

普通イラストを描かない人も、AIイラストを描いて楽しんでる人も、全員お前らより「著作権」に向き合ってる

お前が一番非建設的で、非理性的で、愚かだ

そしてそんなお前らが築き上げた帝国がこのクールジャパンだよ

AI規制海外判例なんて取り出すな、役に立たねーよ。お前たちがこの国を特別にしたんだろ

4.どうあるべきだったか、どう祈るべきだったか

AI勢が本当にすべきだったこと、

端的に言えば「一般人を見下した態度を取るべきではなかった」これに尽きる

偉そうに著作権を語ったり、クリエイターの存続がどうのと言うべきではなかった

AIイラストを楽しんでる庶民に「まぁ、リスペクトはしっかりもって、常識範囲内でね(笑)」みたいなポーズを取るべきじゃなかった

私は今でも反AIAI規制論はもっと広く受け入れられる「はずだった」と考えている

もっと広く支持される意見になったはずだと思っている

AIイラストなんかが流行ると、若手のイラストレータが食えなくなる」

「集中的にLoraされて、似た絵を量産されると、画風が売りの人は苦しい」

「私の絵は私の物なので、学習されない権利も持てるはずだ」

このあたりは、多くの人々に受け入れてもらえる「はずだった」と思ってる

かなり筋の通った意見だし、何よりも「クリエイター」を尊敬してる一般人は本当に多い

SNSオタクはみんなクリエイターのことが大好きだ

でもイラストレータ達はそうしなかった

一般人に頭を下げずに、偉そうに「倫理」だの「道徳」だの「著作権」だの適当なことを吹聴してAIイラストへの攻撃を支持した

著作権に触れてる」と怒鳴ってAIイラストを捨てさせて、その次の日に自分二次創作同人宣伝をした

政府見解曲解して吹聴して、それを信じたファン達は盛大に恥をかい

その結果は?

「反AI」という不名誉レッテルを張られ、日本政府からは煙たがられ、過激派でひとくくりにされてしまってはいいか

文化庁パブコメの締め切りは2月12日

もう手遅れかもしれないけど、ひょっとしたらまだ何かを変えられるかもしれない

少なくとも私は、変えられると信じてる

あなたたちも変わるべきだ

追記自分語り、読まなくてもいいです」

余計で、人のツイート誤読を含んだ、不適切攻撃的な悪文が書かれていたので削除

2023-12-29

ジャニーズ吉本興行宝塚は、玄洋社系列芸能団体商工省総務省経団連法曹会に支援されて設立に至ったと見られる。

極右思想家岩田愛之助読売の田邊宗英らが設立した玄洋社指導団体である愛国社との繋がりが深い。

日本報道機関への足かせの資本として機能しており、2000年代以降も影響力を維持している。

2023年ごろから不祥事糾弾されるようになった。

という文脈最近事件理解しないと意味からないよね

 

2023-12-10

白いピンポン玉を求めて:純粋な娯楽への回帰

僕は弱者男性プログラマーだ。コードを書いて金をもらっている。

そんな僕が、社会学政治に興味を持つ人が多いこのような場で物申すというのはちょっと変だと思うかもしれない。

実際、社会学なんて僕の専門じゃない。

僕はコンテンツ収集するクローラを書いたり、それを検索できるようにインデクシングしたり、あるいはコンテンツクリック履歴に基づいておすすめを表示させたりするプログラムを書いている。

このようなプログラムにも、社会的側面というのは存在する。利用者が何らかの目的によってその検索ツールを利用し、調べたいものにたどり着く。コンテンツプロバイダー、ユーザーシステムという3つのアクター社会形成されている。

社会学者がコンピュータについて語ることがあるぐらいだからプログラマー社会について語ってもいいだろう。

僕が常々思うのは、人々の目的だ。

まり「この検索ツールを使う人は、一体なにがしたいんだ」「コンテンツ提供する側は何が目的なのか」ってこと。

もっと状況を限定するために、「ブログ検索」というツールについて考えてみよう。君がクエリを投げてブログを調べようと思うのは一体どういうときなのか。あるいはブログを書こうと思う人たちの動機は?

動機基本的needとwantによって分類されると考えて良い。need場合、例えば確定申告書の書き方について調べていて、適切な情報を知りたいと言ったケースがそうだ。

wantというのは社会的本能に結びついている場合もあるし、退屈しのぎということもある。承認欲求基本的社会的欲求だし、ハッカー自分の知見を公開するのはちょっとした挑戦だろう。

リーナス法則というのを聞いたことがあるだろうか。マズロー欲求解創設と似たようなもので、「生存」「社会」「娯楽」という3つが人の行動原理だとリーナス・トーバルズは言っている。

ブログを書くのが「生存目的という人はどういう人だろうか。きっとそれ以外に職がなく、必死アフィリエイトで稼ぎを得ている人だろう。

ブログを書くのが「社会的目的」という人は、すごいことをして認められようとか、専門家とつながりたいと考えているかもしれない。

しかし「娯楽目的」というのはもっと崇高なものに思えてくる。ブログ文章を書くのが単純に「楽しい」といった人たちのことだ。

生存社会、娯楽という3つの階段によって、コンテンツの質というもの判断できるのではないかと、僕はそういう仮設を持っている。

アフィリエイト生存目的の発信をしている人たちのコンテンツは、お世辞にも良いとは言えない。クリックベイトであったり、感情を煽ったり、SEOクラックしたり、初心者的だったりする。

社会的目的の人たちはもう少しマシで、認められようとして努力をする姿勢がある。でも、「たくさんの人と繋がりたい」という目的場合ちょっと注意が要る。結局、そういう人は手当たりしだいにアクセスを増やそうとするからコンテンツの質は下がってしまう。

文章を書くのが楽しいけど、人に評価されることはどうでもいい」という人たちのコンテンツを探すことは難しいが、こういう人たちのコンテンツは奥深いことが多く、表面をなぞったようなアフィカスブログとは一線を画している。

しかしこれはコンテンツ提供する人の観点である。これらのコンテンツクロールし、検索できるように整備している「システム」の観点から見ると、どうしても「広告利益」のようなもの重要視されやすい。

Googleであれば、Google広告利益に貢献するようなコンテンツ検索結果で優先表示するかもしれない。そしてそれはまさに生存欲求のためのアフィカスを優先しているのと同じことなのだ。

インターネットがつまらなくなったと言う人たちがいる。僕は次の喩えでこれを説明しようと思う。

昔のインターネットというのは、水の上に白いピンポン玉が浮いていた。この白いピンポン玉は良いもので、楽しいものだ。

ところが徐々に黒いピンポン玉を投下する人たちが増えてくる。黒いピンポン玉は悪いものだ。手を使って沈めようとしないと、白いピンポン玉が見つからない。

そして今のインターネットは黒いピンポン玉が一番上に浮かんでいて、白いピンポン玉はその下で見えなくなっている。

白いピンポン玉は純粋な娯楽精神を持ったコンテンツのことで、黒いピンポン玉は「アクセス数を増やしたい」がために鬱陶しいことをしているコンテンツのこと。

まりインターネットでは年々白いピンポン玉を見つけるためにエネルギーを使う必要が出てきてしまっていて、疲れているとき必然的に黒いピンポン玉を見るしかなくなっているということだ。

リーナスは「文明は、生存社会、娯楽という段階に進んでいく」と言っていたが、インターネットは「娯楽、社会生存」という逆の階段を降りている形になっているように思える。

現段階では、アテンションの総和が一定であるために、ネット人口が飽和し、広告企業利益は落ち込んでいる。純粋な娯楽ではなく、企業の生き残りをかけた戦争突入してしまっているのだ。

僕は今のインターネット社会では、意識的面白いコンテンツを見つけるためにエネルギーをかけることがかなり重要だと思っている。ダラダラとやっていたらアフィカスとバズ目的しか目につかない。

例えば人間が一日に読める文章量なんて限られているから、本当に面白い人を見つけたらRSS購読しておいたほうがいいと思う。

うるさいハエがクソに群がっている。「クソを美味しくないと思うなら、お前がつまらない奴だからだ」と左翼思想家が指摘するかもしれない。

僕はクソよりもステーキが好きだ。あなたのようなハエではなく、人間からだ。

2023-12-09

中国思想家って名前似すぎだろ…

たまに、というかしょっちゅう老子孔子荘子が混合してよく分からなくなる。

っていうかなんでみんな名前似てんの?

当時の思想家は「名前で韻踏もうぜ!」みたいな風潮あったの?

ああ、もうっ!!

分かり難いんじゃぁあああああ!!!

2023-11-22

anond:20231122200324

Rubyをよく宣伝していたのはThe Pragmatic bookshelfAndy Huntさんだが、彼も時代の潮流には敏感なのでいつまでもruby rubyと言っているわけではなかった

一部の日本右翼思想家が、日本人が作ったというその一点でのみrubyを高評価していたが、ruby活躍したライブラリはせいぜいruby on railsぐらいで、近年の機械学習統計科学流行にはついていけてない

統計科学的なライブラリを使わない場合も、サーバー対応関係phpが好まれるという以前からの根強い傾向があるので、rubyにこだわる必要性がない

2023-10-29

リベパヨ思想家さんの記事を読んで

あいう人が「今の世の中には大人がいない」と嘆いても

そこでいう大人って「一生懸命パヨってる自分をヨシヨシしてくれる偉い人」くらいの意味なので

鼻ホジしながらおならプーする程度の反応で可

2023-10-18

21世紀を数十年生きた人間の話と21世紀にわたる時の試練を経た歴史上の思想家とどちらが勉強になるかな

2023-09-26

(ほとんど)すべてについて間違っている――デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロー著『万物黎明書評

万物黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的冒険的で実験的なものであり、自由平等呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつ体制から抜け出せなくなっており、その理由理解しようと努めなければならない。

これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たち人間性を規定する政治的本能社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。

彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせ虐待支配実験しただろうと主張しているようだ。

G&Wは、私たち革命過程社会的道徳的人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間言語意識親族関係道徳は漸進的な進化過程進化し、それが巨大な社会的政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間本来利己的で競争的だから社会主義不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的偏見に挑戦することであった。

はいつもこう答えていた。そう、私たち類人猿一種である。そう、私たち霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的本能を持っている。しかし、それが私たち成功の原因ではない。優秀な母親父親になる能力自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力道徳的ルール確立する能力他人自分を見ているように自分も見ている能力音楽ダンス言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命産物であり、成功した革命なのだ

クリストファーボーム人間革命

この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファーボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスジェンダー力学についての言及を一切省くことで、政治的観点から安全策を講じた理論バージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスバージョンなのである

ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下から集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たち祖先チンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観コミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである

G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑羞恥、遠ざけ......他の霊長類類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術進化過程人間の本性を形成する上で重要役割を果たしたという考えである

ボーム説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類基本的平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)

唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉引用に値する:

ひとたびどこかのバンド平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)

これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類基本的平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつ特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである

万物ティータイム

かなり不当なことに、『万物黎明』は現代進化論を社会進化論混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀物語であるダーウィニズム科学である私たちは語り聞かされるが、実際は純粋神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類起源に関する視点を、読者が真剣検討することを期待している。

この著者たちが認める唯一の科学は「考古学科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治社会生活については、古代人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。

このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端ダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学儀式の実行パターン性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.

残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間本能心理形成における集団的育児重要役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別神話を「重要もの」と表現している。そして、「エデンの園存在せず、一人のイヴ存在しなかったのだから、このような洞察部分的ものしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディ画期的研究が、私たち共通ミトコンドリアDNA祖先年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実無視すること--は、明らかに人類起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。

石器時代新石器時代考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽言語に対する生得能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!

タイトルは深刻な誤解を招く。『万物黎明』? 『万物ティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期フランススペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。

さな狩猟採集民のバンド

G&Wにとって、狩猟採集民の祖先アフリカもっと早くから平等主義的なライフスタイル確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。

まり狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間文化的知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。

ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的抵抗狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型である結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベル政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいか危険かを理解する知性があると彼は説明した。

富の不平等は許されない

しかしG&Wによれば、富の不平等問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀ヨーロッパの「文明」を批判したファーストアメリカンカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初アメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。

G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:

こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?

どんな未来アフリカ狩猟採集からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。

はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。

(続く……)

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続き

彼らの政治プロジェクト理論

私たち時代における2つの重要問題は、次のとおりである

現在世界社会正義革命を起こすにはどうすればいいのか?

そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たち私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?

このような問いは、歴史を通じて真剣思想家活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:

なぜ人間社会はこれほどまでに不平等になったのか?

意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等起源についての本ではないのか」と。

この本の中心的な主張のひとつは、不平等ヒエラルキー暴力は、あらゆる人間社会組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。

奇妙なスピン

これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類祖先や初期の人類平等であることによって見出し適応、つまり生態学ニッチについて説明する新しい注目すべき学問無視している。つまり、かつて人類平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的無政府主義者マルクス主義者の見解無視しているのだ。

保守派の主張は、農耕や都市生活経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。

彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義奴隷制階級差別人種差別性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。

グレーバーとウェングローが主張する政治論点は、太古の昔から、人は常に支配自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。

彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである

この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。

彼らの主張 - Step By Step

グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。

さら重要なのは19世紀社会ダーウィニズムや、より最近スターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンドナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要対象であり、私たちはその両方を共有している。

社会ダーウィニズム歴史の段階説。ハーバート・スペンサールイスヘンリーモーガン19世紀社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的知的進歩シグナである理解されている。

しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代人種差別主義新植民地主義を支え続けている。

左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。

そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスエンゲルス仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論説明も暗黙のうちに否定しているのだ。

これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族起源 私有財産国家』において最も顕著であるエンゲルスはそこで、人間平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。

しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。

アーリア人セム民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコプエブロインディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。

エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。

フランツボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたか自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツボアスは、太平洋西海岸クワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。

フランツボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年ヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命指導者の一人であったソフィーメイヤーの息子である1851年までに、彼女読書グループマルクスエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。

ボース人類学者になった。カナダではバフィン島イヌイット族やバンクーバー島クワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークコロンビア大学教授となった[2]。

1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造であると主張した。1913年当時、ボース母親政治否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民党派として、人種差別を憎んでいた。

ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクトマーガレットミードゾラニールハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類文化進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。

しかし、私たちはもはや1913年時代ではない。1982年エリックウルフ皮肉タイトルの『ヨーロッパ歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史真摯に受け止める人類学の波を起こした。

人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗宗教伝統現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しか悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民大量虐殺アフリカ奴隷貿易白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争正当化するために展開され続けている。

新しい進化論人間適応

人類学者や考古学者たちは、現在人類の不平等起源について、まったく妥当説明を構築している。ケント・フラナリージョイス・マーカスジェームズ・C・スコットがその中心人物である

残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろかにしてしまうことである

グレーバーとウェングローは、かつて人類狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境人間存在物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会必然的平等であったことを否定している。

彼らの主張の第一歩は、人類進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。

過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。

化学的微量分析DNAサンプリング、放射性炭素年代測定質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちヒーローの中には、読み応えのあるクリストファーボームフランズ・デ・ワール、R・ブライアンファーガソン、サラ・フルディ、マーティンジョーンズ、ローラライヴァルの広範な出版物がある。

このような研究は、人類進化人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たち平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察であるしかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である

人間適応についての簡単なまとめ

現在、さまざまな類人猿サル対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係子育て攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類進化理解するための私たち方法でもある。

時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143645

万物黎明』は人類歴史を誤解している

はじめに

急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物黎明』は例外であるわずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞雑誌の多くから賞賛を受けている。

著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的投稿者たちからも、好意的コメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。

しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠無視しており、その政治的主張観念論的で自発主義であると論じている。どちらの書評特に女性抑圧の原因を考察していないことに批判である

クリスナイトはユニヴァーシティカレッジロンドン人類学上級研究員で、アフリカにおける人類起源研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Education掲載された。

ナンシーリンディスファーンジョナサンニールはともに人類学者として訓練を受け、人類進化階級社会性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』であるジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評エコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。

どちらの書評も著者のご好意により再掲載されている。

根本的に支離滅裂で間違っている byクリスナイト

本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパ洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較最近先史時代について学びたいのであれば、必読の書であるしかし、人類最初に笑い、歌い、話し、芸術儀式政治創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。

この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物黎明』? 『お茶時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。

欠点はあるが、この本は広報勝利であるフリードリヒ・エンゲルスが『家族私有財産国家起源』を出版して以来、左翼知識人活動家人類社会的起源先史時代過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。

短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治メッセージ露骨だ。平等主義狩猟採集民が生活の中で共産主義実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類のものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威行使してきたこから国家権力の原理人間の条件の不動の特徴であると主張している。

よりによってアナーキスト国家必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつ世界可能である」という革命スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。

著者たちはダーウィン自然淘汰理論違和感を抱いており、現代進化論を「社会進化論」と混同している。現代進化論は科学であると主張するが、実際は純粋神話であるグレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類起源についての視点を、読者が真剣検討することを期待しているのだ。

彼らが認める唯一の科学応用科学であり、この場合は「考古学科学である。彼らは、政治社会生活については、古代人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物黎明」の年代わずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸である

彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能心理形成する上で集団的育児重要役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園存在せず、一人のイヴ存在しなかったのだから、そのような洞察部分的ものしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディ研究が "アフリカイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実無視すること--は、明らかに人類起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。

グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑羞恥心敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たち人間性規定する本能能力平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?

私たちは皆、社会的政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせ虐待支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学クリストファー・ボームが描く、反権威主義抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類さりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。

グレーバーとウェングローの基本的論点は、政治選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学古典であるエスキモー伝統的な生活説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキー形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつシステムに縛られることはなかったということだ。

この歴史対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性であるグレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性儀式は、基本的に月によって予定されている。

著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義概念に触れている。彼女は、コンゴ熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。

なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。

太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバル伝統である庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。

残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカ物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係説明することができない。

すべての条件が同じだとすると byナンシーリンディスファーンジョナサンニール

グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たち問題を提起している。

デヴィッド・グレーバーわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動社会正義運動リーダーとしてのデイヴィッド・グレーバー活動は異例であり、模範的であった。LSE人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。

しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物黎明』が、今後長い間、不平等起源に関する理解の枠組みとなってしま危険性がある。

本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニットパンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキーロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちから賞賛言葉掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。

この本は最近マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛一般的見方になったら残念である

人類進化歴史における不平等起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要であるしかし、グレイバーとウェングローは平等階級に目を向けることなく変化を求め、環境生態系説明を敵視している。これらの欠点保守的意味合いを持つ。

では、ここから。これは膨大な本の、乱暴部分的書評である私たちは、グレバー知的議論の切り口を愛し、得意としていたという知識自分自身を慰める。

ジレンマ

この本の最後段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たち立場を明確に示している。彼らはこう書いている、

例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質基本的に善か悪かであり、不平等政治意識存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証仮定から始まる場合

私たちは今、神話を目の前にしている」

まり神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等政治意識が生まれる前の時代存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間自由制限することはないこと、参加型民主主義都市国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。

このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。

第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身政治プロジェクト対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143527

初めてガンダムアニメたか感想聞いて欲しいの〜

【前知識

ガンダムって何と戦ってるんだろ?

え、緑のガンダムって敵のガンダムなの?ザク??

「父さんにも殴られたことないのに!」だっけ?言う人が主人公なんだよね?

あとシャア専用だっけ、なんか赤い仮面被った敵っぽい人いるんじゃなかったっけ?

【観たアニメ

ジオリジン1話

思想家の息子で11歳くらいのキャスパ少年物語

アマプラにあるしオリジンって書いてあるからからガンダムならして見やすくした感じかな?と思い観ることにした。

感想

戦隊モノチックな戦うアニメかと思ったら人間関係アニメだった!

最初戦闘

ガンダムだなー

攻撃かっこいい!

・キャスパ

パズーだ!なんか絵と相まって世界名作劇場みたいだな…

懐かしいな…

お金持ちで頭が良くてプライドも高くてそこそこ性格もキツくて良いキャラだなあ

初めてなのに射撃ますワロタ

ちゃんストッパーになってダークサイドには落ちなそう

・妹ちゃん

お父さんに抱っこされた感じ3歳くらいかと思ったらめっちゃ喋るなー7歳くらいか

・キャスパルのお母さん

あんな小さい子と一生会えないかもしれないとか辛すぎ

地球に一緒に逃げれば良かったのでは??

正妻にいろいろ言われるのはまぁ仕方ないよね…

正妻若いから思想家に惚れ込んでお金時間も使ったのに子どもできないし浮気相手子どもできたからそっちと暮らすわーってなったの可哀想

酒場峰不二子的なお姉さん

なんでもできるなぁ!不二子ちゃんじゃーん

・ザビ家

みんな見るからに悪いなあ笑

ゴリラっぽい人がコメディリリーフなんだろうな、マッチョで単純な性格キャラ大好き!生き残って欲しい

オンライン囲碁ゲームしてる長男なんなん笑なんだこの声

ちゃん暴走しそう〜やだ〜かわいそうなことになりそう〜

1番下の子キャスパルと同い年かー

ザビ家の子としてはちょっと悪さが足りない感じよなー

葬式でキャスパルと目が合う描写あったなー

ザビ家のプライドと努力好青年に成長→キャスパルに上手いこと利用されるみたいな展開ありそう〜。

ザビ家のお母さんってどんな人なんだろ?

あのお父さんの感じからして腹違い兄弟なのか??

・おじいちゃん

武器用意して立てこもりから地球行き聞いた時の喜び方、これフラグでは?

今後このおじいちゃん狂ってやらかしそうー

上手くいきかけたのにおじいちゃん暴走して失敗、おじいちゃん死亡、みたいな

・街の人

治安悪いなー。貧乏そうなのにキャスパルの家はなんであんお金持ちそうなの?

どっからお金が湧く仕組みなの?

お父さん悪いことしてたの?

2023-09-13

anond:20230913101934

中国思想家である老子が著した「老子道徳経」によれば、

一見、役に立たないと思われるものが、実は大きな役割果たしている。

とのことです。

https://manapedia.jp/text/3877

2023-08-30

anond:20230830172330

でもさー 子供産んだ女で、さら現場で働いてたり警備員とかトラックドライバーやってるガテンおばちゃん普通に実在するわけよ。

社会を語りたいならそこは統計的に見ようよ。

そういうおばちゃんは居ないか居るかなら「居る」。

でもキツくて危険仕事は圧倒的に男性に偏っている。これは事実

女性はやりたがらないからね。

 

職業って選択の結果だし、男に生まれたらある日徴用されて現場に放り込まれるわけじゃないでしょ。

俺は思想家じゃないか別にどっちの論法でもいいんだよ。

その「お前の自由意志ですよね」「お前の選択ですよね」ってスタンスを取るなら取るで結構

 

その場合そのスタンスは男だけでなく女にも採用されるから

ネットフェミニスト達の主張「私たちは〇〇させられた」は却下されるよね。

女の人生社会のせいにするのやめよう、人のせいにするのやめよう、男のせいにするのやめよう。終わり。

 

でも、日本においては所詮好きでやってんだしなーってのはあるよね。

子供産む女も強制されて産んでるわけでもなく、男も選択余地なく危険業務をさせられるということもなく、所詮机上の空論で揉めてるだけじゃん。

どっちでもいいと思うよ。

俺がここで言いたいのは「ネットで暴れてるフェミニストの論立ては浅はかなのでどっちに行っても詰むやんけ」と言う指摘だけ。

(実際ネットのアンフェの連中も主体的な主張があるというよりフェミニストの幼稚な論理に「それはこうおかしい」ってレスしてるだけに見える。)

 

決定的なのは、アンフェの多くは現場で働かずに、涼しい部屋でパソコンポポチしてるだけでしょ。ほんとに現場できつい仕事やってるおっちゃんや兄ちゃんはそこにいないんだよ。

昨日だか、そういう思い込みで男に向けて対戦希望表明したおばちゃんがおって

「私はステージで暴れて歌っている!ジムでコアマッスル鍛えている!」っていう人だったんだけど

その相手がまたよりによって林業おっさんで盛大な赤っ恥になってたよ。

 

まあよりにもよって林業だったのは不運だけど、

おばちゃんの口振りって君と同じで、「何故か相手ホワイトワーカーだと確信してた」んだよね。

いやブルーワーカーなんかどこにでも全然おるからさ。 

 

おばちゃんも君もどういう人生送ってるんだ?

男の勝ち組エリートでもなかなか君等みたいな不思議な感じにはならんので、

やっぱりなんか、お父さんとか夫とかに都度都度守られて汚いものを視界や意識に入れずに来た女の子なのかな、って感じはする。

 

何故か顔も知らないネット相手ホワイトワーカーである確信して決め付けてしまう。

それは普段からブルーワーカーなんてもの意識からも外して生きることが出来てるからなわけでしょ。自分と関わる人間ブルーワーカーおらんという変な思い込みネットレスバにまで出てきてしまう。

御令嬢と言うか、お姫様と言うか、いややっぱ一番しっくりくる表現は「女の子」だよね。

 

 

 

まあ俺はその手の話はそんな熱心ではないんだけど

しろ「コアマッスル」がムカついたわ。

体幹とかコアマッスルとか言うやつら全員さあ。

筋肉鍛えるってのは「死ぬのかな?」ってくらいのキツさでデッドリフトを床から引くことなんだよバカどもが。

自重で変なヨガピラティスをちんたらやるだけでトレーニングだと思ってるアホはデッドリフトやらせれば一回で泣く。

別にふにゃふにゃに緩い世界で生きるのは勝手だが、そんなやつがなんでハードコア自称して素性もわからん相手に対戦表明するのかわからん

2023-08-23

極端から極端にしか走れない人類絶望した

もう歴史証明してるやん。

「やり過ぎは毒だ」って。

 

「大は小を兼ねる」 「材大なれば用を為し難し」

これどっちも真実でしょ?

極端すぎるもの適用範囲を超えるけど、範囲内なら兼ねることができる。

まり丁度いい範囲が最も優れてるってことだろ。

風呂温度にしても10度だと冷えすぎだけど、熱くしようとして100度だったら茹でガエルだろ。

ちょうどいい40度前後個人差でも選べることができるベストだろうが。

結局世の中の真理はいつも中庸にあってブッダ2000年上前結論出した答えにいつまでもたどり着けないのが人類絶望した。

無味な人生を送れって言ってるんじゃなくて丁度いいお風呂温度を探求すれば?って話。

別にたまには熱い風呂に入るのも刺激があっていいよ。

でも「熱い風呂健康に悪い!これからは水風呂だ!」もどうなんだよ。そのあと、どうせ「これからは熱い風呂だ!」の揺れ戻しだろ。

極端と極端は完全な中庸を探索するためのツールとして使われるものであるべきなのに、完全に流行を作り出すためのツールに成り下がってる。

人間の一生がたかだか80年程度でクソ雑魚のせいなのもあるけど、歴史からみて人類は同じことの繰り返しが多すぎだろ。

少しずつ前進してるにしてもいい加減、無意味な極端から極端といムーブメント卒業してほしいんだわ。

個人社会か?の話にしたってどっちか偏ったら結局全体の幸福度は下がるに決まってんだろ。

インフラ崩壊したら個人自由が保たれても幸せなのか?財産持つことが許されないけど子供が沢山いりゃ幸せなのか?

違うだろーが。両方だろ目指すべきは。

そのために限られた時間金労力人をどう最高の配分するかが悩みどころなんじゃねーか。

なんでお前ら大半の思想家政治家や凡人どもは極端なゴールしか設定できねーんだよ。

1日8時間+αで週5働いて、土日は友達遊んだ夫婦子供たちとサザエさん観ながらチャンコ鍋をつつく。

その程度が結局人間の追いかけられる幸せ限界だろうが。

大半の凡人で才能のなく努力もできず環境も味方してくれないのが人間だろ。

大金持ちになりたいとかスターになりたいとか好きなことして生きていくなんて、9割の人間が無理なんだよ。

今の個人主義に偏りすぎた西洋社会では多くの人間が不幸になるし、

かといって東側のように個人自由がなさすぎても文化的につまらない社会しか作れない。

結局のところ西側は拡大しすぎた個人主義にどこにボーダーを設けるのか、開きすぎた格差をどう解消するのかがゴールであって、

それを語らない思想家政治家も全部まがい物にすぎない。一部の弱者だけを救済したところで解決にならない。

ポリコレハラスメント問題にしても何でも極端から極端に走ろうとすんのはやめてほしい。

どうせそのあと30年や50年もすればまた元のファッションに戻っていくんだから。実につまらないよ。ダサい。なんの進化もない。

日本もどうせ人口ピラミッドが解消されはじめた前後でまた家長制度復権に近いようなことが必ず起きる。

どれだけ否定したところで社会が揺れ戻しを起こすことで回復を狙うから「あり得ない」とか言っても現実として起きる。

あり得なくても隕石地球に落ちてくるし、人間がどれだけ嘘を信じようとしたところで現実に発生するんだからどうしようもない。

極端から極端に映る過程もロスだし、毎回同じことを繰り返して大して進歩してない反省を得るのも本当につまらない。

大多数のバカのために聖書が作られておとぎ話が作られたはずなのに改変やら差別やら生み出してまた極端から極端の世界にいく。

本当に人生無駄どころか人類史の無駄

極端から極端に走るな、完全な中庸を目指せ。

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