はてなキーワード: サケとは
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
恒心教徒
唐澤弁護士に対して殺害予告したり、唐澤弁護士を騙って犯罪予告や迷惑行為をする特徴を持つ。
唐澤弁護士
悪芋
「悪いものたち」の略
カラケー
アサケー
、~、~、
〜ないですか
私は恒心教徒、といっても犯罪行為をする悪芋では無いし、カラケーのメインスレを追うぐらいしかやってない。書き込みもほとんどしていない。
このあいだ、いまだに続く「恒心教」の連鎖:ロマン優光連載254 | 実話BUNKAオンラインという記事が話題になってたんだけど、いや、お前らがそれを言うか? という意味で、少しイラっとした。
私は、若いころから悪質なサブカルが好きで、村崎百郎とかラジオライフとかを楽しんでたんだけど、このロマン優光も、コアマガも、そういう悪質サブカルに繋がる連中じゃないですか。
コンビニトイレの汚物入れ漁ったり、コードレスホンや消防、救急無線を傍受してニヤニヤしたり、ピッキングの練習したり、樹海に死体探しに行ったり、あるいはそういうレポートを読んでニヤニヤしてたわけじゃないですか。
はてな村だってそうで、はまちちゃんがXSS仕掛けるのをバカ笑いしたり、Hagexが胡乱な人たちを小ばかにしたのを拍手喝采していたわけじゃないですか。
で、私は、いわゆる淫夢とかは面白いと思ってないし、暇空も仁藤が嫌いだから一定の支持はするけど、その言っていること(認知プロファイリングとかw)はアホくさいと思ってるので、そういうのと恒心教は少し違うと思ってる。
まず、恐らく、多くの恒心教徒は、自分たちのやっていることは、犯罪であり悪いことであるというのを認識している。唐澤弁護士を恨んでいないし、たぶん嫌いでもない。むしろ、好きかもしれない。
しかし、それ以上に、新しい技術に挑戦し、今まで考えもしなかったアイデアを実現し、社会の秩序をバカにして、エラソーな連中をうろたえさせるのに、面白くなり、胸が高鳴り、爽快な気分を感じるのだ。
そういえば、ロマン優光が記事で触れてたネトウヨ春のBAN祭りや、余命騒動なんかも面白かったし、はすみとしこが特定されたりしたのは面白かった。あと、安倍晋三が殺された時もゲラゲラ笑ってた。別に、安倍晋三は嫌いじゃないんだよ。でも、面白いじゃないですか。
あと、10年もやっているのか、まだやっているのか、という指摘が多いけど、最近の大きな流れとして、過去数年、外伝主人公(唐澤弁護士や元高校生と直接関係ないターゲット)を狙った動きが中心だったのが、また唐澤弁護士に回帰してきたというのがある。つまり、リバイバル的な流れがこの1年ぐらいで強くなってきた感じがある。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 ナイアガラ
・03 国枝慎吾 くにえだしんご
・04 8(月
・05 千(円銀貨幣
・07 [3問先取]ひらめ なまず きす くえ やまめ めばる たちうお あんこう
・09 『嵐が丘』
・15 河童(橋 かっぱ(ばし
・17 がまぐち
・19 [並び替え]BATTLE
・22 [3択]1 6(周
・26e [3択]スウェーデン
子供がかなりYouTube見てるけど私は良いことじゃないかと思ってて。好きな配信者さんがいるなら「再生数上げて応援してあげなよ」って言ってる。ファンとして相手を直接応援できるのは嬉しいことだよね。小学生だからスパチャとかはさせてないけど。
ねこくんがクスリで捕まった話とか、すとぷりのななもり。が間違った方向にかましちゃった話とかも子供とした。最近騎士Aも知ったようで、ググったらここもいろいろあるね。
「他のメンバー大変だろうね」「好きなら応援してあげなよ」とか子供と話した。「男子は10代〜20代くらいはモテたがるんだよね」とか話して。今の年齢でわかるような説明でいろいろ話した。
他にもイラスト描く人のチャンネル登録したら「SNSで私になりすまして個人情報聞き出す人がいるから気をつけて!」って動画を上げてくれてて、「悪いことする人がいるね」って話して親の私も勉強になった。「個人情報って何?」ってきくから、学校や年齢、友達の名前なんかも教えちゃダメだよとか、「写真撮って送って」は犯罪だよとかいろいろ話した。
生物系YouTuberも好きだから「交尾」って単語が出てきてこれもきくから、「赤ちゃんができるには精子と卵子が必要で」「サケの産卵の絵本見たことあるじゃん? あの白い液体に精子が入ってて、魚の場合は卵も精子も外に出すんだけど」「人間は男の子がおしっこするところがピンって上向きになって精子が出るんだよね。それを女の子の体内で出すわけ」って話をした。こっちが淡々と話したから、子供も「ふーん」って感じできいてた気がする。「お母さんとお父さんもやったの?!」「そうだよ」「人間もお尻とお尻をくっつけるの?」「人間は虫や動物と違って手が使えるから、まあいろいろ姿勢はあんのよ」とか言って、具体的なことは濁したけど。
「ユーチューバーって大変だよね」「撮影、編集、SNS運用なんかもしてて偉いね」「若い子が毎日のように頑張ってて、ちゃんと寝てるか心配」とか、親としての気持ちも話してる。娘だから高学年くらいからまともにきいてくれないかもなーと思ってて、どんなことでも今分かる範囲で教えてる。私の親は何も教えてくれない人で、いろいろ苦労したので。ためになってるのか迷惑なのかは、娘にきいてみないとわからんね。
初の前年割れで、同人漫画家・イラストレーターの活動において、パトロン系サイトの比重が高まったことを感じます。
昨今【推し活】【推しのいる生活】などという言葉をよく聞くようになった。
推しがいることで日々の生活をより楽しめるようになる、といった気持ちはオタクとしては非常によく分かる。
数年前の話になるが、いまだに思い出しては複雑な気持ちになるのでこの場を借りて綴っていく。
なお特定を防ぐために商品やジャンル、会社などの具体的な情報は伏せておく。
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数年前SNSで『オーダーメイドで推しの概念グッズが作れる!』というツイートが爆発的にバズっていた。
無論私のTLにも流れてきて、元ツイやリプ欄には手ごろな価格でオーダーメイド、実用的、複数購入なら推しカプも作れるということで、称賛の嵐であった。
特段欲しいと思わなくても、数々の称賛ツイートを見ていると次第にその気にもなってきてしまう。
すると数日後、そのツイートを見たであろう友人から早速お誘いの声がかかった。ミーハーな私は二つ返事でOKした。
HPで確認してみると、SNSの影響のためか全時間完全指定の整理券制となっていた。当日向かってみると整理券をもらうために早朝からたくさんの人だかりができていた。
その多くが女性客であり、無論オタクであった。並んでいると彼女たちの推しの話やジャンルの話などが聞こえて、どんな風にグッズを作ってもらおうか、などの声が聞こえてきてとても面白かった。
中には短時間でより深く理解してもらうためにプレゼン資料まで作りこんできた猛者もいた。こういうオタクたちの推しへの情熱は聞いていてとても楽しい。さながらコミケの待機列のようだった。
私もどんな風につくってもらおうかとワクワクしながら何とか整理券をもらうことができた。
時間がくるまで友人と街をぶらぶらしながら、推しの話やジャンルの話をしつつ自分の中で解析度を高めていった。
そしてとうとう私たちの番がきた。整理券を渡して受付に通されると、個別のカウンターが並んでいた。店舗はあまり広くはなかったので、自らの推しの魅力を初対面の店舗スタッフさんに熱心にプレゼンする女性たちの姿も丸見えであった。あれが数分後の自分の姿かと思うと正直かなり恥ずかしかったが、せっかくここまで来たのだ!!私は覚悟を決めた。
私は友人と二人での来店だったので、順番にまず私から対応してもらうことになった。
事前の情報で、推しの画像やら写真があると分かりやすいと聞いていたので、さっそく用意していた画像をスタッフの女性に見せた。
「あっ!この子知ってますよ~!」と朗らかに笑う女性スタッフ。(先方が作品名を知らなかったらどうしよう…)と思っていたので自分の推しが認知されていて正直ホッとした。
一瞬、向こうが何を言ったのか本当に理解できなかった。
………ナサケナイ…ナサケナイって何……?知らない日本語だ………
聞き間違いかと思って、恐る恐る愛想笑いをしながらもう一度確認してみると元気よく盛大に大きな声で返された。
正直、私の推しは世間的にはやや知られているキャラクターではあるが、アンチも多い賛否両論のキャラクターである。実際、今までも彼が推しであることを伝える人種は信頼できるオタクのみに限られていた。まあ確かに、多少、ほんの少し、万が一は『あるかもしれない』とは思っていたが、まさかお金を払ってまで推しのグッズを作りに来たこの場で言われるとは思ってもみなかった。
あまりの想定外ぶりに半分脳が死んでいたが、目の前で推しを侮辱されるのは我慢ならず、愛想笑いをしつつも「いやいや!そんなことないですよ~!頑張り屋でカッコいい子ですよ~!」と返してみるものの、向こうは「情けない」「ダメなやつ」「ヘタレ」のなどの一点張り。
今になって思い返してみると、その女性スタッフは私が【そのダメンズぶりが好きな人】だと思っていたのかもしれない。だから彼のダメンズぶりを何度も主張してきて最終的に私に「その駄目ぶりが好きなんです~」と言わせたかったのかもしれない。
しかし何とか彼の良さを分かってもらわねば…!そうしないとグッズを作ってもらえない…!私は彼の良さを分かってもらえるように必死にプレゼンしてみたが、向こうは私の必死ぶりが面白かったのかただケラケラ笑うのみであった。自分の言葉が相手に一切伝わらない。頭の中が真っ白になって、私はとうとう何も言えなくなってしまった。
隣のカウンターの女性たちの推しへのプレゼン話が聞こえてくる。あーでもない、こーでもないと言いながらも、みんな本当に楽しそうであった。
私はなにか間違ったのだろうか。どうして私は、今日何のためにここまで来たのだろう。
何のために朝早起きして、わざわざあれだけ並んでまで整理券までもらったのだろう。
余談だが、私がこの日を迎えるまでの精神状態は最悪であった。転職活動がうまくいかず、二日前には圧迫面接を受け、面接官には人格否定までされた。だからこそ今日は推しのグッズを作ってテンションを上げて気分転換してまた頑張ろう!そう思っていた矢先の出来事であった。
そうまでしてやっとのことで迎えた今日が、なぜ今こんなことになっているのだろう……
様々な思いが走馬灯のように思い浮かび、目頭が熱くなってしまった。「……あれ?」っと思ってみると涙がポロポロとこぼれてしまっていた。まずい。これは非常にまずい。めんどくさいオタクだと思われる。いい年して恥ずかしい。みっともない。消えてしまいたい……。
そんな私の様子を見て、周囲も異変に気付いたようで他のスタッフや周りの女性たちも怪訝な顔をしてこちらを見ていた。そんな様子を見てさすがにまずいと思ったのか女性スタッフが必死に見え透いたお世辞を言ってくる。さっきまで散々情けないだのヘタレだの言っていた私の推しを、急にカッコいいだの可愛いだの持ち上げてきた。そんな様子を見て、また別の意味で泣きたくなった。
他のお客さんにも友人にも申し訳ないので、その時間は友人に譲って、私はそそくさと席を外した。正直、二度とこの場には帰りたくなかった。あんな醜態をさらしてどの面下げてまたあの場に戻れるというのだろう。もう今すぐにでも帰りたいが、友人を置いて帰るわけにもいかない。それこそ本当の自分勝手だ。どうしようかと思っていると私の様子が落ち着いたのを見計らって別の女性スタッフさんが対応してくれた。
正直、あんなことがあったというのにこの店で商品を購入するのは気が引けたが、今度の女性スタッフさんがとても良い人だったのでお詫びの意味で購入することにした。
帰り際、件の女性スタッフから謝罪があったが、私はすぐに帰りたかったので迷惑をかけたお詫びだけ言ってすぐにその場を去った。なお友人にも謝罪したが、「あんなことで取り乱すなんて情けない。一緒にいて恥ずかしかった。今日のことがあったせいでこのグッズ見るたびに思い出すじゃん」と吐き捨てるように言われた。ショックだった。
確かにせっかくの推しグッズを台無しにしたのは申し訳ないし、その怒りをぶつけたくなるのも分かる。でもあれは私だけが悪かったのだろうか、自分にもグッズを作りたいほどの推しがいるのに、なぜ私に「あんなことぐらい」なんて言葉が言えるのだろう、という想いもどうしても拭い去ることができなかった。この日を機に友人とはしばらく距離をおいた。
結局このとき作ってもらったグッズも、その後一度も使うことはなかった。友人が言った通り、【思い出す】からだ。買ったときの状態でそのままクローゼットに仕舞い込んだ。正直もう見たくもなかったし、手に取りたくもなかった。
この件を経てから、私は昨今のオタクビジネスについて思うことが多くなった。推しという夢から覚めて現実を客観視できるようになった。
今回の店も表面上はオーダーメイドとうたっているが、実際は指定された枠組みのなかで組み合わせを楽しむだけの商品である。それを私たちオタクが【自分の推し】に見立てて、勝手に盛り上がっているだけなのだ。同じ商品でも見るオタクが変われば、それはそのオタクの推しの概念グッズになるのだ。彼女たちが熱心にプレゼンしたところで、指定された枠が増えるわけでもない。スタッフはオタクたちの夢を壊さないようにただ話を合わせてくれているだけなのだ。
実際メルカリを見れば同じ商品が概念グッズでもなんでもなく、ただの普通の商品として売られていた。どんなにオタクが盛り上がっていても一般人からみれば、所詮そんなものなのだ。
一年ほどしてようやく気持ちの整理ができ、手に取ることができたので、メルカリで売却した。
企業にしてみれば、オタクほど金になる木はない。良いと思ったサービスはSNS拡散してくれて、それにつられて同じようなオタクが集まってくる。巷では、作品名やキャラクターを変えただけの似たような企画のコラボカフェ、グッズが溢れかえっている。もちろんそれて経済が潤い、ジャンルが盛り上がり、喜ぶファンがいるのだからそれ自体はとても良いことだとは思う。
しかし、それらはあくまで「ビジネスとして」ということも忘れてはいけないのだと思った。ビジネスなので、サービスの提供側は作品の理解が高いわけでも、オタクの気持ちがわかるわけでもない。当たり前だが、相手にこちらと同じ熱量、もしくは理解を期待してはいけないのだ。企業はただ売れる商品を作り、オタクの夢を壊さないようにするだけである。何故ならこの夢が壊れたとき、オタクは金を落とさなくなるからだ。そんなことを私は悟った。
苦い経験ではあったが、この件のおかげでSNSで盛り上がってるからといって深く考えもせずに突撃するようなことはしなくなった。周りではなく、純粋に自分が欲しいものだけを買うようになった。
あれから友人との付き合い方も見直した。なお転職先は無事決まったので、そこんところも大丈夫である。