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はてなキーワード: 歴史学とは

2023-11-23

anond:20231123212059

社会学世界だと善意で行うなら粛清でも良いことになるからそんなもん

歴史学とは考え方が違う

2023-11-20

anond:20231119130236

文系研究者のハシクレ(そろそろ若手じゃなくなりそう)として補足しておく。

今でも単位取得退学普通にある経歴

文系特に文系では博士論文執筆キッチリ3年で終わる人は少ないし、博士課程にいられる年限を使い果たしてしまう人も多い。しかし、東大をはじめとした多くの大学では「博士課程単位取得退学後3年間のうちに博士論文を出して防衛できたら、課程博士と見なす」という運用をしている。

したがって、最近よく見る経歴は、「◯◯大学大学博士課程単位取得退学博士(◯◯学)」というもの。これは単位取得退学したあとに博士号を取得した、という意味

今でも単位取得退学就職できる場合がある

実際に単位取得退学助教講師ポストをゲットした人は最近でもたまに見かける。増田の同年代で2~3人くらい(あくま増田観測範囲なので、実際はもっと多いだろう)。まあ、そういう人たちは和文論文だけじゃなくて、英語論文(分野によっては+英語以外の外国語論文)書いてたし、下手な博士より論文数多かったけどね……。博士号取得者を蹴落として任期付きポストをゲットした単位取得退学者も知ってる。純粋に業績が多ければたまに博士号取得者ではなく単位取得退学者が選ばれる場合があるということ。

このように、形式上単位取得退学でも応募できる公募は今でも多い。JREC-IN文系公募を見てみると、「博士号取得者、あるいは、博士学位を取得した者に相当する能力を有すると認められる者」っていう募集条件が書いてあることがあるけど、後者単位取得退学を指している。こういう条件の公募普通に東大でもまだ出てるからね。ただ、条件に書いてあるからといって選ばれるかというと、よっぽど卓越してない限り厳しいんじゃないかしら。

修士号しか持ってなくても業績が卓越してれば採用されるというのは、みんな大好きユーリィ・イズムィコa.k.a.小泉悠センセが示しているところだと思う。彼はそもそも博士課程に入ってないはずだけど、ロシア軍分析するアカデミックな著書を何冊も出してたら東大専任教員にまで上り詰めた)

とはいえ今はさすがに一部大学学振PDでは単位取得退学は不可

とはいえやはり、博士号持ってない人への風当たりは強まっている。一部の宮廷や有名どころの国立大学では、常勤ポスト募集にあたっては人文系であっても博士号を要求しているし、学振PD海外学振10年くらい前から文系でも博士必須になっていたはず(逆に言えば、40代以上の文系研究者の中には、博士号なしで学振PDやってた人が大勢いるってこと)。

エラいセンセの博士号の有無なんて誰も気にしてない

ただし、博士号持ってない人への風当たり、というのはあくまで若手の就職市場アカポス採用されるかどうかという話で、もう就職しちゃったセンセについては博士号の有無とかあんま気にしたことない……博士論文以降ロクに論文書いてない人より、単位取得退学面白い論文や著書いっぱい書いてる人の方がエラいじゃん? というのが文系感覚だと思うんだが、どうだろう。池内恵センセくらい業績があったら、博士号の有無なんてもう誤差でしょ誤差。

ただ、外国博士号獲った人についてはやっぱり一目置くかも。はてな界隈で有名な人だと北村紗衣センセとか。博士論文というのはだいたい1冊の本になるくらいの分量のものを書くということなので、それを外国語で書いてる時点ですごいよ。特にアメリカだと博士課程では厳しいコースワークがあるから、あれをくぐり抜けたってことだもんね。

文系と人文系って違うの?

最初に「文系特に文系」って書いたけど、「文系」と「人文系」は違う。「文系」は「人文系」と「社会科学系」に分かれていて、文学とか哲学とか歴史学とかは人文系社会学とか政治学とか経済学とかは社会科学系、ってことになってる(あくまでもこれは日本の話。国によって分類は違う。たとえば歴史学社会科学系に入れる国はヨーロッパはいくつもある)。「単位取得退学」はもともと文系全体でよくある経歴だったけど、今ではほぼ人文系に限られてる印象。上で書いた単位取得退学ポストをゲットした人たちも、観測範囲ではみんな人文系

ただ、法学政治学20年くらい前まで学士助手という制度があったので、学歴という点では人文系以上にガラパゴスだったりするのだが……学士しか持たずに教授になってらっしゃる人たちが何人もいる分野です。はてな界隈で有名な人だと木村草太センセとか大屋雄裕センセとかね!

外国で出された博士に相当する学位」って何だよ

ところで、公募条件に「外国で出された博士に相当する学位」という謎の文言があることがある。外国で出された博士、ならともかく、外国で出された博士に相当する学位って何だよ。

実はかつての日本同様に博士号は功成り名遂げた大物が書くものという文化がまだ残っている国があって、具体的にいうとロシアとかそのへんの旧ソ連諸国。あのあたりでは博士候補カンジダート・ナウク; кандидат наук; kandidat nauk)っていう学位があって、これがPh.D.に相当する。博士候補論文大学院に進んで数年かけて書くやつで、実質的博士論文博士候補号を持ってればロシアでは准教授になれる。ロシア留学して博士号獲った、って言ってる人のかなりの割合が、実は博士候補号の取得者だったりする。まあ、ロシアカンジダート号は他国Ph.D.と同等っていうのはよく知られてるから別に嘘じゃないんだけどね。

ところでウクライナでは2014年7月にこの博士候補制度Ph.D.に置き換える制度改正を始めて、2020年には全廃したらしい。うーん、ロシアとの縁を切って西欧共通制度に置き換えるなんて、2014年にいったい何があったんやろなぁ(棒読み)(時期的に完全な偶然というのもありそうだけど)。

ブコメへの応答

博士課程単位取得退学博士”これは課程博士と同じ扱いです。3年の課程を修了し学位論文間に合わずに退学した場合も、3年以内に学位論文が出れば課程博士となるのです。

厳密には、「◯◯大学大学博士課程単位取得退学博士(◯◯学)」のすべてが課程博士というわけではありません。単位取得退学から10年後に博士号取得したら論文博士ですし。なので、経歴を見るか(たとえば、2022年に単位取得退学して2023年に博士号獲ってればほぼ確実に課程博士)、あるいはCiNii博士論文検索するかしないとどちらかはわからないですね。

逆になんでそんなに論文書いていて博士とらずに満期退学なの。そこがわからぬ。

色んな理由があるので一概には言えませんが、本人の博士論文の構想が壮大すぎる、とか、書き上げる前にポストゲットできたから退学しました、とか、そういう場合が多いんじゃないでしょうか。課程博士論文を書き上げた人の経歴はみな似通っていますが、博論を書き上げられなかった人はそれぞれの理由があるものです。

博士ももたず、論文数も多くなく、それでもマネージメントの良さで教授職とかいうのもあったりするわな

そんな人、少なくとも最近は聞いたことないですけど、いつの時代の話ですか? 何がしかの業績(必ずしも論文という形である必要はないです。たとえば安藤忠雄センセみたいな場合)がなければ大学ポストには就くことはできません。もちろん霞が関から官僚ゴリ押しされたりすることはあるかもしれませんが、それは業績なんも関係ないし……

この議論ならストレート論文博士東浩紀はそれだけで尊敬されても良さそうだけど学者からも石投げられてるし結局空気なのかな

東浩紀センセは、デリダ研究博士号を獲った俊英だから叩かれてるんじゃなくて、彼の政治的意見を気に食わない人が多いから叩かれてるんでしょ。博士号獲った人は尊敬に値するけど、それはそれ、これはこれですよ。海外博士号獲ってる人の意見同意できないとか、日常茶飯事だし。

ロシアカンジダートって名称カンジダとか漢字だとか、いろいろ混乱しそうな(しない)。

英語のcandidateにあたる単語です。

2023-11-05

anond:20231104225250

あんなの党派性断罪たかっただけやん

マルクス主義歴史学なんて言ってた奴ら(の末裔)に抗した奴に隙があったか見せしめにしたんだろ

人文額に左翼とか共産党系の人多すぎ問題やね

2023-11-01

anond:20231101131011

歴史学上の文物の由来と現代法の所有権問題は別で、裁判所後者判断をする場所ということだな。

武将△△が××氏を攻め滅ぼした時に宝を戦利品として奪い神仏に勝利感謝して寺社奉納した、という歴史的事実とされるエピソードがあったとして、××氏の子孫は寺社から宝を取り戻す権利があるのかという。

anond:20231101162902

社会実験的な根拠は、人類を生まれそばから隔離するとか人権侵害を許すことになってしまうのである種の類型以外に対しては不可能ですし、歴史学のような単一出来事に関する根拠というのも根拠ではなく類推証拠のようなものです

現状批判根拠必要という考え方は批判されています人類の未熟な科学が間違う(ナチとか)こともありますよね。根拠を揃えるには十数年かかることもザラですが、根拠がないからという理由で現状を放置するのは救済が間に合わないですよね

かなり細かいところを端折ったざっくり説明なので、鵜呑みにはしないでくださいね

ただ何となく雰囲気だけ掴めるかと思います


こんなことすら説明されないと分からないような人間が図々しく社会批判してることに驚きです

無知自覚を持って謙虚さを身につけたらどうですか?

2023-10-31

anond:20231031010518

社会学歴史学文学芸術学等の文系分野に数量解析の手法適用するのが海外では全盛

日本ではできる人が少ないのと、上にいる人が拒否反応起こすので出てこない

逆に、男性中心社会構造問題から科学合理主義から脱却しろ、って屁理屈こねる活動家はいるかもしれないけどね

出羽守スマソ

2023-10-16

anond:20231013144935

なんで学者ですらそのへんなるべく触れないようにしながら研究してるわけ?

 ← なるべく触れないようにしているわけじゃないさ。現に洪水伝説の事などは念頭に置いて考古学歴史学調査は行われているわけだし。 

ただ、学術研究をするためには史料や発掘物が無いことには始まらないので、アブラハム出エジプトも具体的な研究対象たる史料などが無ければ研究自体が始まらないというだけの話。

トロイバビロンの発掘の話は知っているだろ。

2023-10-15

anond:20231015092637

まずもってあの吊し上げがかなり異様だったからな。

あの事件ときに、日本歴史学協会(色んな歴史学会寄り合いみたいなやつ)が「日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディアSNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別ハラスメント行為」を糾弾する声明文出してたんだけど、俺にはめちゃくちゃ異様に感じられた。

http://www.nichirekikyo.com/statement/statement20210402.html

日歴協の声明って、過去のを見ればわかるけど、「学術会議問題政府批判する」とか「建国記念の日に反対する」とか「貴重な遺跡保全してくれ」とか「ロシアウクライナ侵略に反対」とか、そういう、何といえばいいかわからんけど「大きな問題」に対する声明が多かったんだよね。賛否別にして、こういった問題になら、学会寄り合いがわざわざ声明を出すのもわかる。

http://www.nichirekikyo.com/statement/statement.html

でも、呉座への糾弾だけ、公人ではない個人に対する攻撃で、なんだか異様なんだよな。呉座のやったことが良いかいかといえばそりゃ悪いけど、日歴協に日本学術会議とか建国記念の日とかウクライナ戦争とかと並んで声明出されるレベルで悪かったか? って言われると、そこまででもねーだろ、バランス失してないか? って思うよ。万引き犯に向けて発砲してるみたいなやりすぎ感がある。

考えてみてほしいんだけど、たしかに呉座は知名度もあって、大河ドラマの監修に抜擢されたりしてたけど、たかテニュアトラック助教やぞ? 終身雇用でも何でもない助教やらかしで、歴史学界全体がこうも右往左往する必要があったのかね。直接の雇用者である日文研右往左往したのはまあわかるけど、何であそこまでの蜂の巣をつつくような大騒ぎになったのかがまるでわからん

ネット上で害悪垢を運営して、見ず知らずの他分野のテニュア持ち准教授誹謗中傷してました、なんて、見聞きしてきた中ではもっとやべーやついるしな、程度の感じ。同じ分野の若手研究者圧力かけて発表済みの論文修正させようとしたり単著剽窃やら出典捏造やらをやらかしたりした教授(ちなみに女性)はのうのうと逃げおおせて「あいヤバいんだよね」と陰口叩かれながらも世間ではそこそこ名の知れた研究者として通ってるし、そういうの見てると呉座へのオーバーキルますますわけわからなくなる。

2023-10-14

ゴールディン氏の主張を額面通り受け取っていいのか

ノーベル経済学賞受賞者の主張が日本のX界におけるいわゆる”アンチフェミ”の主張と整合であるということでアンチフェミ界隈が沸き立っているが、そもそもゴールディン氏の主張自体額面通り受け取っていいのかという問題がある。

そもそもゴールディン氏の主張は”アンチフェミ”的なのか?という点については、彼女の著書を普通に読めば、解釈に多少の幅はあれ概ねそのような内容であることは明らかだと思う。すなわち、同じ仕事や同じポジションに付く男女について差別に基づく賃金の差は既に存在せず、実現している男女の賃金格差家計における合理的キャリア選択の結果として現れているものであるという趣旨であり、労働条件における系統的女性差別存在を主張する人々の考え方とは対立する)

自分経済学学位を持っており、大半の人よりは経済学に詳しいという自負があるが、それ故に経済学的なもの見方限界について思うところがある。経済学とはそもそも定量的に観察された社会事象」を「人々の合理的意思決定を前提」として解釈する学問である。こうしたアプローチは、以下の様な点で、男女差別の様な問題を考える際に色々な問題があると思われる。

まず「人々の合理的意思決定を前提」とする考え方の問題点とは、そもそも差別とは経済的観点から基本的に非合理的なので、経済学理論で世の中を解釈するとそもそも差別など存在しないという結論に偏るバイアスがある。例えば以下は経済学的な考え方の例である。「もし男性と同じ能力を持つ女性に対して差別的に賃金を低く設定している企業存在しているなら、他の企業はその女性に対して今より少し高い賃金オファーして彼女を雇うことで男性と同等なのに少し安い労働力を確保できて得をする。これが女性男性と同じ賃金になるまで繰り返されて、男性女性賃金は同水準に収束する。もしそうなってないならば、何か別の経済的インセンティブが働いているはずである」この様に、経済学理論は首尾一貫して経済的合理性のみで物事説明することを試みるため、文化的要因や社会心理学的な要因が入り込む余地はない。差別という経済合理的事象は、そもそも経済学理論スコープから排されているのである

また、「定量的に観察された社会事象」のみを分析対象とする点も問題である。こうした経済学スタンスは、証言なども含めたテクストに対して丹念な分析を行う歴史学社会学・ジェンダー学といった人文科学アプローチとは対照的である。数量データに現れない出来事が世の中に存在しない訳ではないのである。例えばナチス政権下でのユダヤの人々の苦しみは、数字のみによって語られるべきではないのと同じである。彼らには統計的事実に現れない日常的苦しみも確実にあったわけで、それは例えばアンネ・フランク日記などの記録から定性的に読み取ることで明らかとなる。これはフェミニズムの文脈でも同様である現代日本において多くの女性が進路選択キャリア形成に際して有形・無形の差別存在を感じ、声を上げているということが事実として存在しているわけで(例えば進学に際して親から「あまり高学歴だと結婚できない」と言われるなど)、それが例え統計データとして現れないとしても、その苦しみが存在しないということにはならない。

ノーベル経済学賞というのはあくまでも経済学という学問世界の中での権威が認められたというだけの話である上記の様に、経済学のものが、社会事象の一側面を切り取って分析を行う学問である以上、経済学的なもの見方が男女格差という複合的な社会事象の全ての側面を明らかにした訳では全く無い。ゴールディン氏の分析結果は、もちろんそれはそれとして有益考察材料としつつ、あくまでこの問題を扱う本流である歴史学社会学・ジェンダー学の考え方と合わせて、この問題に関する理解を深めていくというのが正しい知的態度だろう。

2023-10-06

anond:20231006185042

「私が考えたインターネット不毛な争いをなくす最強の方法!」って内容の文章

これは先行研究があるから勝手独自理論言っても仕方ないってこと

日本みたいなインターネット大失敗ミソジニーだらけ言語の国の中で考えても参考になるような思想発想なんかないよ。反面教師サンプルの側

人権歴史学んではい

それを学んでるはずなのに法学部生に人権感覚ない奴いっぱいいるんだよね

大学によって内容違うだろうしよく分からんけど意味薄いんじゃないのか?

それ以外の知識必要

anond:20231006074939

そもそも社会科学ってあれ科学なんか?

理系寄りの人間としては再現性を重視しない、現実の観察に基づかない傾向を強く感じて、学問かもしれんが科学ではないやろと思うんだが。

法学とか歴史学とか再現性が求められない分野は別として、経済学とか社会学とかこいつら現実を扱ってる風だが全く現実を観察出来てなくて 学問としても終わっとるんちゃうか?と思うことがしばしばあるんだが。

まあ全部が全部ダメなわけじゃなくて実証主義に基づいたまともな研究もあるんだろうが。

2023-09-30

anond:20230930165013

通説だとほとんどいなかったという事なんだけど(イギリスでは初めて黒人イギリス本土の土を踏んだのは第二次世界大戦後みたいな通説もある)

後の歴史学で、もっと以前から黒人ヨーロッパにいたという話も出てきておりなんとも言えない

それでも、全部の新説を信じたとしても、中世末期に一つの国数十万~数百万人の人口中、多くて数百人いたかいないかの数

2023-09-29

anond:20230929094541

直近で今まで珍しかった戦後鎌倉時代平安時代を題材にしているでしょ?

近年の大河ドラマは正に戦国幕末偏重からの脱却を測ってる訳で、

未だにこんなポストをする人はそもそも大河見た事ないしこれからも見ない層だと思う

あと飛鳥奈良はまだしも古墳時代より前は歴史学じゃなくて考古学領域だろう

そんな題材で1年50話のドラマ本気で見るつもりがあるんだろうか?多分特番ですら見ないだろう

ちなみに本当に古代史のドラマに関心がある人にはNHKの「聖徳太子」「大仏開眼」「大化改新」をオススメしておく

2023-09-26

万物黎明』は人類歴史を誤解している・続きの続きの続き

農業の到来

平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。

農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所独自発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しか農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。

やがて、凶悪犯やいじめっ子集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃小作料、労働力雇用税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ

農民狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。

しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会搾取国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等可能になったのだという、この物語に立ち向かった。

フラナリーとマーカス

2012年考古学者のケント・フラナリージョイス・マーカスは『不平等創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。

しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業階級可能にしたが、多くの農民平等主義の社会暮らしていた。農業発明階級発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。

フラナリーとマーカスはまた、地元凶悪犯や領主権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリート考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上階級闘争は決して止まらないのである[5]。

ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学根本的に変えた1954年エドモンド・リーチの著書『ビルマ高地政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。

スコットは、平原王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国国家からの絶え間ない奴隷化軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。

技術

ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカス仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。

しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術環境と、他方では経済的政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。

フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジー環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業発明自動的階級格差国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである

階級関係階級闘争技術環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的ものとする段階論の粗雑な形式問題にしている。

この生態学思考に対するアレルギーが、彼らが人類進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。

これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術生計を立てる方法に対して、どのように社会適応を築いたか理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。

一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系技術について考えることは、彼らが望む選択革命不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである

これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。

ジェンダーの不在

グレーバーとウェングローが環境人間存在物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである

同じように、彼らは階級という概念や、階級関係階級闘争についての議論ほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級人間なのかを知っているが、階級関係社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。

これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダー社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプ散見する。

平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類性別による不平等起源についてほとんど何も語っていない。

男女関係進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的であるジャレド・ダイアモンドナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等暴力競争人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性進化によって他の男性競争するようにプログラムされているため、強い者が女性支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的感情部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。

偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。

非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性男性の間の差異本質化し、女性男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。

私たちが支持するのは第3の選択である歴史学人類学考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的政治的に平等社会暮らしていたほとんどの場合女性男性平等であった。また、経済的に不平等階級社会存在したところでは、そこでも男性女性支配していた。

私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?

グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ

複雑な採集

グレイバーとウェングローの説明重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等戦争さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。

レバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍平等主義的であったか暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]

典型的な例は、フランツボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダ西海岸コロンビア川フレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケ遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10ポンドサケを獲ることができた日もあった。

それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部河川全域にわたって、サケ資源豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。

事実上農民田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。

農民と同じように、環境的制約と新技術階級社会可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲ポトラッチ饗宴の民という、お決まり説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。

天然痘梅毒人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的茶番劇として語られている[8]。

西海岸漁民けが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さら考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。

複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術問題かもしれない。確かにカリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである

彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部カルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長戦士階級格差奴隷制度、高価な戦争カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業依存する漁民であった。

グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民もっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人アフリカ人捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイム戦士たちは働かずに生活することができた[10]。

続き→https://anond.hatelabo.jp/20230926143955

2023-09-19

ホロコースト研究法律禁止されてる?

ユダヤ人虐殺、早期に把握か ローマ教皇「黙認」で新資料:時事ドットコム

に付けられたブコメの一つにこういうのがあった。

id:odenboy ホロコースト、それは本当にあった疑問視されてる。そんでそのあたりの研究をすると法律で罰するように各国に法令作りを推し進めさせたのがユダヤ人団体人類歴史を正しく知るための調査研究ができない異常性。

日本にも、ホロコースト否定派は多い。プロレベルの著名なホロコーストに関する歴史修正主義者は少ないかもしれない(西岡昌紀木村愛二加藤一郎の三人くらい)が、ネット上では割と普通に観測される。だからはてなー否定派がいたって特に不思議はない。ここ、増田だってそこそこ生息しているだろう。

 

Xだと、陰謀論系のフォロワーの多い人が、「アンネの日記捏造だ」と情報を流すと、何十ものリプライやリポストがあることも割と普通だったりする。ちなみにアンネの日記贋作だとする非難1950年から延々続いていたが、1985年オランダ戦時資料研究所が、その贋作説の細かい論拠を全部否定しており、入念な筆跡鑑定なども行なって、間違いなくアンネ・フランクが書いた日記であることが証明されており決着済みである。その解説書もちゃんと外部に発行されており、日本では文藝春秋からアンネの日記 研究版』として出版されている(現在絶版)。もちろん、陰謀論系の人たちはそんなこと調べたりもしないし、贋作ネタ以外の知識はない。

 

ホロコースト否定もそれと同じで、100%、「ネットde真実」の世界の話だと思っていい。2023年現在では、相当レベルの高いホロコースト普通に学べる情報知識ネットから得ようと思えば割と得られる時代にはなっているが、陰謀論系の人たちはそもそもそんなの見ないし、見たところで信じもしないだろう。それらの人たちは、分かりやすく飛びつきやすい「これが本当の真実だ!=ホロコーストウソ」の方に、まるで虫が蛍光灯に引き寄せられるかのように飛びつくので、どうしようもなかったりする。

 

てなわけで、否定論をいちいち反論否定したってそれらの人たちにとっては特に意味はないのだが、一応上のブックマークコメント反論しておく。

 

ホロコースト、それは本当にあった疑問視されてる。」は本当か?

一応、これは先ずは本当と見なすことはできる。正確に言えば、「ホロコースト疑問視する人たちは存在する」からであるが、福島第一原発の処理水の海洋放出を反対する人たちも存在するし、いまだに一部ジャニオタには「アレは金目だ」という人が存在するのと似たようなものである

圧倒的多数ホロコースト本当にあったことだと思っているわけだが、しかし、時代の流れとは恐ろしいもの戦後80年近くも経つと、あのアンネ・フランクの隠れ家のあったオランダ若者たちの4分の1がホロコースト懐疑的らしいので、否定派(懐疑派)を無視することはできない。

ホロコーストは「作り話」 オランダ若者の4人に1人―調査:時事ドットコム

もちろん、それらの人たちはホロコースト自体にあまり興味がなく、知識ほとんどないからだと思われるが、オランダホロコースト教育をしていないとは考えられないから、その否定派の割合には驚かざるを得ないものがある。

 

とは言え、歴史専門家たちの99%は疑問視してなどいないと断言していいと思う。少なくとも日本歴史学者ホロコースト否定派だったのは、すでに亡くなってはいるが、文教大学教育学部教授だった加藤一郎以外には聞いたことがない。日本だと、その他分野の学者・在野の歴史家全員見渡しても、加藤以外にはいないと思う。

欧米には歴史修正主義者はそれなりに存在するし、学者にもいるようだが、歴史学者となると、修正主義的な考え方の人はいても、がっつり否定派の人は知らない。これは、後で解説するホロコースト否定禁止法のない、修正第1条で言論の自由を厳格に保障している、怪しい学者なんていっぱいいる米国でさえも、である

まりホロコースト疑問視することは、歴史学会的にはあり得ないのが現実だと言える。その意味では「本当にあった疑問視されてる」はウソだと言えよう。

 

その理由簡単であるホロコースト学術的に探求したら、あまりにも証拠だらけであることははっきり認識できるからであり、ホロコーストがなかっただなんて解釈しようがないからだ。逆に、ホロコースト疑問視できるような根拠は何もない。たとえば、冒頭の記事の中にある絶滅収容所であるベウジェツの跡地を2000年ごろにボーリング調査したら、きっちり遺骨や遺灰、あるいは遺体まで地中に埋まっていることが判明したりしている。他の絶滅収容所でも同様だったらしく、つまりは、ホロコースト説には何の矛盾もなかったことになる。

 

一方で、修正主義者側の現地調査員は嘘ばかりついている。ロイヒターは徹底的に暴かれて、彼は米国死刑ガス室を一つも作ったことがなかったこと、詐欺的な商売をしていたことなどがわかっている。ロイヒターの報告書に書かれた専門的内容に関する参照文献名は一つも書かれていなかったし、同僚に当たる別の化学専門家修正主義者がその内容の多くの誤りを指摘せざるを得ないほどだった。また、リチャード・クレゲなる地質調査員は、トレブリン絶滅収容所の跡地の地中探査レーダーによる調査を行い「地中には何もなかった!」と主張したにも関わらず、その報告書を遂に出さなかった。しかし、クレゲが公表していた地中断面解析図を見た地中探査レーダー専門家は、地中が掘り返されている可能性が高いことを見抜いてしまった。これは大量埋葬墓を示すものだ。

 

以上のように、実際に疑問視されなければならないのは修正主義者による否定論の方なのである。私は個人的にその嘘や誤りを無数に知っているが、あまりにも多すぎて書き出したら終わらないのでやめておく。

 

「そんでそのあたりの研究をすると法律で罰する」は本当か?

これは、欧州の半数程度の国に存在するいわゆる「ホロコースト否定禁止法」のことだが、研究をするだけで罰すると書いた法律の条文は存在しない。たとえば、ドイツ刑法第130条の「憎悪扇動」の規定では、

(3)国際刑事法法典第6条(1)に示される種類の国家社会主義支配下で行われた行為を、公共平穏を乱すことができる方法で、公に又は集会において承認否定又は軽視した者は、5年以下の懲役又は罰金に処せられる。

と書かれている。国際刑事法法典第6条とは、いわゆるジェノサイドのことである。いずれにしても、ホロコースト否定の主張を公に行うことを禁止しているのであって、研究禁止しているわけではない。

 

要は、修正主義者たちが「我々のやっていることは単なる歴史検証だ! 歴史検証法律禁止するなど言語道断だ!」などという詭弁をぬけぬけと抜かしていたかである。嘘をつきまくることのどこが歴史検証なのだろうか? こうした詭弁が風説として広まって「検証禁止されている」などのデマに変容しただけのことなのだ。いずれにしても否定派は嘘ばっかり言っているのである

 

「各国に法令作りを推し進めさせたのがユダヤ人団体」は本当か?

そんな証拠はない。世界初のホロコースト否定禁止法はフランスのいわゆるゲソ法であるが、きっかけは反ユダヤ主義者によってユダヤ人墓地が荒らされたことに始まる。欧州の半数程度の国でホロコースト否定禁止法が制定されていったのは、基本的には反ユダヤ主義人種差別に厳しく対応しているかであるドイツ民衆扇動罪規定は、ナチズムの復活を絶対に許さない考えからのものである

 

結局は、ホロコースト否定はいもの通り、単に嘘をついているだけなのだった。

2023-09-04

「言語遺伝子がないと言語は話せません」 (+) : https://ja.wikipedia.org/wiki/FOXP2 (+)

発現制御の話に見えるし、せいぜい100倍差に見える。生物学のエエカゲンさに歴史学ディシプリンで対抗しているように見えますが……。

2023-09-02

検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』を読んでの感想・疑問

検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』を読んだ。ナチスの行った行為についての<事実>や<解釈>については自分が誤解していたこともいくつかあり、とても面白く読めた。一方で、著者らの<意見>は、タイトルの問いに対する十分な回答ではないというのが正直な感想である

検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』というタイトルを読んで私がまず考えたことは、著者らは「良いこと」をどう定義しているのだろうかということである

事象Aは善い」と判断するためには

事象AはXである事実および解釈

②Xは善い(価値判断

③したがって事象Aは善い(意見

三段論法を経る必要がある。

①については著者らの言う通りナチス実施した行為について歴史学方法事実とその解釈検討することは重要であろうし、素人の考えが誤っていることは多々あるだろうこともよく理解できる。素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ない。

一方で、②については、"「~であるから「~べき」は導かれない"というヒューム法則が端的に表すように、事実解釈とは独立した善悪についての価値判断である。①についてお互い同意していたとしても、②が異なれば善悪意見真逆になることは十分あり得る。

もちろん、何を善いとするかは自由に決められるわけではない。「ナチスは良いこともした。なぜなら ②ナチスのしたことは善い からである。」という主張は(そう言うのは自由だが)多くの人を説得できないだろう。

そこで普遍可能性という基準が出てくる。普遍とは簡単に言えば、固有名詞を含まない、という意味合いである。例えば、「金を返さないのは悪いことだ」という価値判断採用するのであれば、誰であろうと金を返さない人は悪人である判断しなければならない。

あなたが私に金を返さないことは悪いことだ」とするならば、「私があなたに金を返さないこともまた悪いことである」としなければならない。ナチス行為を何らかの理由で善い/悪いこととするならば、他の〇〇国がした同じようなことについても、別扱いをする普遍的な理由を挙げなければ、同様に善い/悪いこととしなければならない。

ナチス政策Aが良くないことならば、同様(に見える)〇〇国の政策Bも良くないことですよね?という問いはWhataboutism論法ではなく、価値判断普遍可能性についての確認である。同様に良くないことだと言うならそれでいいし、違うならその理由説明すればいい。

検証 ナチスは「良いこと」もしたのか』は歴史学の本であり倫理学の本ではないから、ナチス政策についての事実解釈説明がメインなのは当然であるしかしながら、「良いこと」もしたのかというタイトルにするならば、著者らの価値判断普遍可能であるかについてもある程度の紙幅を割くべきだったろう。

さて、本では素人が考えがちなXとして、A:オリジナル政策、B:目的が善い政策、C:結果が良い政策 の3つを挙げ、「素人考えでは政策AはXに見えるが歴史学手法解釈するとAはXではない。よってナチスは良いことをしていない。」とする方式説明が進む。

A:オリジナルは善い について。

まず、著者らがオリジナル定義をかなり狭いものとしているのが気になる。まったくのゼロから何かを考え出すこと以外にもオリジナルさを見出すことは特段おかしな考えではないはずだ。

私はメーカー勤務の研究者であるニーズ先行の商品開発は、(i)市場調査部が計画を立て、(ii)R&Dがラボ試験をして、(iii)工場大量生産化するという流れで進む。ここで、市場調査計画したことをただ実験して、ただ大量生産しただけなので、研究者工場技術者オリジナルなことはしていないと言われたら、ちょっと待てよとなる。

また、実はコピー製品安定的製造するのはかなり難しい。同じ会社の別工場品質がぜんぜん違うことは珍しくないし、他社製品コピーするのに数年以上かかることも珍しくない。

私は政策計画・実行したことはないが、計画を実際の法案として成立させることや他国制度法律文化経済も違う自国で同じように実施することには何らかのオリジナリティ必要であろうことは想像できる。

これについては、著者らも書いている通り、オリジナルであることと良いことは何も関係がない(もちろん、オリジナルでないからといって良くないとも言えない)ことを説明するのが適切だったのではないか

「確かに狭い意味ではオリジナルでないことは同意する。しかし広い意味ではオリジナルであったし、A:オリジナルは善い という価値判断の元、ナチスは良いこともしたという意見は変わらない」と言われるだけのように思う。

B:目的が善い政策は善い について。

著者らはナチス政策の真の目的戦争のための「民族共同体」の構築であるとして、それは良くない目的である価値判断をする。これは(i)戦争のためという目的は良くない、(ii)「民族共同体の構築」という目的は良くない という2つに分解できる。

(i)戦争のためという目的が良くないとすると、例えば福祉政策戦争のために発達したことは多くの指摘があるが、福祉政策は良くないことと言えるのかという疑問がでてくる。またインターネットロケットなど戦争のために生まれ発展した技術は良くないことと言えるのかという疑問もでてくる。

先に書いた通り、これらを良くないとするなら(同意を得られるかは別として)普遍可能性についてはクリアしている。しかし、これらを良いとするならば説明必要だろう。

また(ii)「民族共同体」の構築が良くないとすると、例えば「国家共同体」の構築のために移民特に既存国民にとって良くない影響を及ぼす可能性が高い移民)を排除することは良くないことなのかという疑問がでてくる。

私はリバタリアンとして個人自由尊重する立場から国家移民制限することは良くないことだと考えるが、日本はもちろんヨーロッパアメリカの現状を見るに、世界全体で受け入れる人は少ないと思われる。

民族共同体」の構築という目的問題ないが、その方法としての搾取・断種・敵対者排除問題であるという主張も考えられる。私もそれらの方法について全く支持しない。

しかし、目的問題ないとするならば、②目的が善い政策は善い の反論としては不適である

また、占領地・植民地から搾取障害者の断種、反政府思想弾圧などは同時期の他の国でもあったことであり、それらと比べてナチス政策はと同程度に悪いのか、それともより悪いと言えるのかという疑問もでてくる。

C:結果が善い政策は善い について

先に書いた通り、①事実解釈について素人の私が専門家の整理に対してとやかく言うつもりは(あんまり)ないが、気になる点をいくつか挙げる。

(i)失業者600万人に対して雇用創出政策では50万人程度であるから効果限定的というのは乗数効果を全く考慮にしていない。私個人としては政府雇用創出政策効果懐疑的ではあるが、ケインジアンはこの<解釈>に文句があるだろう。

(ii)「膨張する国家支出と巨額の負債国家財政を圧迫し、やがて財政破綻の危機インフレ圧力に直面することになった」について、例えば日本社会保障政策も同様という論者は多いが、良くない政策だと言えるか?(なお、私は良くない政策だと考える)

(iii)「「軍備の奇跡」なるものも結局のところ戦争の集結を引き延ばし、多数の人命を犠牲にするだけに終わった」は枢軸国側が負けることを知っている前提の意見ではないか。(現在はともかく)露宇戦争開始当初はウクライナが人命の犠牲を避けて早く降伏すべきという意見はそれなりの数あり、またそれに対する批判も多くあった。

(iv)例えば医療分野の発展はその大部分を動物搾取を前提としているが、動物愛護思想の人が「医療は"何も"良いことをしていない」と主張することを認めるか?もし動物愛護思想を認めた上で医療分野は「良いこと」もしたと言うならその理由はなにか。

(v)タバコについて、一方では「最終的には自己責任であった」と強制がなかったことを問題としているが、もう一方では特に女性について「家父長的干渉主義」という強制があったことを問題としている。これはダブルスタンダードではないか

ナチス政策行為の"総和"として大きくマイナスであることは多くの人が認めるだろう。

しかし、"個々が全て"マイナスであったというのはかなり強い主張になる。

ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互確認し合うことが社会の「歯止め」として機能している」ことが正しいとしても、それは"総和"で達成できるのではないだろうか。

2023-09-01

anond:20230901120202

ジェンダーって性の社会的意味づけの話で、政治学歴史学法学社会学系の近縁学問なんで、

生物学進化学やってもジェンダー学とは遠いよ

生物学者がいきなりジェンダー学を理解できるかは微妙

教養ないくせに喋んなカス

2023-08-14

anond:20230814163704

文系に行ったら行ったで分野極められるけどな

言語学シャンポリオンみたいにヒエログリフ解読したり、歴史学知識も使ってアジア古代文字を解読した日本の凄い天才もいる

ジェンダー学では署名を集めて、超有名企業CMの取り下げに成功した例や、差別的職員を追い出した例がある

2023-08-07

anond:20230805105359

災害防災歴史学、みたいなのはできるのかも。「以前津波がここまで来た」とか「川が氾濫してここまで水に浸かった」とか。

株式歴史学みたいなのもあるかも。「リーマンショックとき、上手に災害を避けた人の行動はこうだった」とか。

2023-08-05

検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』への雑ブコメ一覧

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR8443X7R7XUCVL037.html

id:paracletus それより「連合軍も悪いことをした」について、そろそろ語られるべきかなあと思う。

id:CocoA ただしぃ~、原爆による無差別大量殺人肯定はいいで~す

id:technocutzero 欧州全体でロマ排斥殺害してたことも教えないとダメだワン ソ連ホロコーストも全く語られないしな WW2後の世界が枢軸を悪とすることで成立させてる世界観だからそうなってるだけで純粋歴史の話じゃない

id:toratsugumi むきになってナチを完全否定する勢力は、国家社会主義ドイツ労働者党ショッカー区別がついてないんじゃないのか。ソビエト連邦共産党カンプチア共産党朝鮮労働党だって、内政面で良いことも少しはしてるぞ?

id:mutinomuti 誰に対して?(´・_・`)欧米優越的地位確立植民地奴隷制度による搾取によって加速されたわけだけど、そういう話?

id:eotitg 未だにナチスのユダヤ虐殺ばかり言うのが健常主義で、ユダヤ以前に障害者ガス室送りにしたのがT4作戦。T4作戦を都合が悪そうに沈黙してきたユダヤ障害者差別と、白人だって差別と強調のユダヤ批判されるべきでは

はいドーン。また新しいアホがあぶりだされましたね。同書内で言及されてるwhataboutismそのまんまです。そういう無駄な相対化で本題を誤魔化そうとする阿呆な態度を取ることの弊害が散々言及されてます文章を読めないアホに限ってこういう無駄メタを気取ってアホをさらしてしまうわけですね。いいサンプルです。

id:nt46 ナチスは何も良いことはしなかった、とは書けないか分析に走るのでは。

id:mr_yamada 「良いこともした」論者がアホなのはわかるが、学者研究対象に「肯定できるところはない」としてしまうとスタンスとしては、同じレベルに落ちてしまますよ。ナチスを雑に全否定することの危うさこそ心配

はいアホー。「何も良いことはしなかった」なんてこの本では書いてませんし全否定本でもありませーん。

id:flowing_chocolate 良い悪いではなく、何をやったかで語ってほしい。

はいアホー。何をやったかを書いてる本です。この本では歴史学における検証方法を「事実」「解釈」「意見」の3段階にわけることを検証してます。それが歴史学的にメジャー方法かはしりません。そもそも歴史学において「なにをやったか」を語ることは極めて不十分、そもそも客観的歴史など存在しないことを示してます間抜け。雑にマウント取ろうとするアホの見本。

mazmot 「良い」とか「悪い」という定義不能価値観歴史研究に持ち込むことの危うさをもうちょっと強調したほうがええんちゃうやろか。

id:by-king まずそもそも『良いこと』って定義はなんなんだろうね。そんな簡単一義的に決まるものなの?単なる誰かの価値観しかなくないか

はい出た出た「歴史研究善悪を持ち込むな」派。お前歴史研究まともに触れたことないだろ? historystory語源は同じstoriaって高校世界史の最初の授業で教えられることじゃない? そもそも歴史において価値判断を持ち込まないなんてことはありえないんですよ。

id:lochtext 無料部分では『善悪を持ち込まないのは不可能』って言ってるだけで、積極的に持ち込むのはやっぱり不適切なのでは?

これもおもしろ視点のように見えますが、率直に質問します。「ナチドイツユダヤ人を500万人殺しました」という歴史事実に対して「善し悪し」を持ち込むのは不適切だと思いますか? そもそも社会科学人文科学において「主観を含まない客観的判断」なんてもの存在しないんですよ。社会科学人文科学を学ぶ上でそんなことは初歩の初歩の初歩です。いわゆる理系ありがちな誤謬ですね。

id:tpircs 良くわからんけど悪いことだけするのが人類に難しそう。

これは悪くない視点ですね。物事って「良いこと」「悪いこと」以外に「良いとも悪いとも言いがたい領域」ってたくさんあるんですよね。

この本の中で散々言われてることは「良いことと主張されることが『悪いこと』と結びついている場合、それは『良いこと』と言っていいのか?」という問題意識です。一例を挙げます。困窮した国民政府が住居を提供しました。ヤッター!良いことのように見えますね? でも実はその住居はそこに住んでた在日コリアンを無理やり追い出して北海道強制移住させたことで獲得されたものです。さて、それは「良いこと」ですか?

石田勇治『ヒトラーナチドイツ』において示されてること、それは「ナチスとはヒトラー意向を実現する為の国家機関である」「ヒトラーユダヤを本気で絶滅させようとしていた」という事実です。ナチドイツ国民共同体を至上とした結果ユダヤ人500万人を殺害したという事実は、ナチドイツの様々な政策と綿密に結びついてしまますナチスの福祉政策ユダヤ人や性的マイノリティ排除していました。「ドイツ人」とみなされない人間人間扱いされないんですね。「ドイツ国内に住んでる人はユダヤ人も性的マイノリティも全員まとめて面倒みたるわい!」みたいな福祉政策ではなかったんですね。さて、それは「良いこと」ですか?

id:gui1 ナチ絶対悪なのは前提ですが。政権国民生活の向上の施策うつのが通常です。どんな政権でもそうです。悪のナチスでもそうです。国民いじめ抜いた悪夢民主党政権のような特異例は少ないです(´・ω・`)

なのでこの意見も同様に否定されるわけです、「国民生活を向上します、そのためにユダヤ排除しますしなんなら絶滅させます」。そのような施策は「良いこと」ですか?

id:colonoe わざわざ買って読む気はないので、環境保護禁煙政策を「良いこと」ではないと書いてるのかどうか教えてほしい

こういうアホは目次すら調べようとしない知的怠惰人間です。環境保護保護範囲限定的だったし戦争進むにつれて疎かになったって言ってます禁煙政策女性を除いて効果がなかったよねということを示してます

その上でこれへの返答を最後に持ってきたのは、実はこれは「良いことかもしれない事実」に結びついてるからです。本書の中で唯一「良いこと」の可能性が示されてるのがこの「禁煙政策女性の癌患者を減らした」というところです。そもそも「良いことが全くなかった」ということを示してる本ではないんですよナチドイツ政策学術的に検証してきた歴史学の積み重ねの中で、ナチドイツ政策で褒められるところがなかったっていう研究結果が出ているという話。これは田尾大輔や小野寺拓也がそう主張してるわけじゃない。他の研究者たちが積み重ねてきた、巨人肩に乗った結果の「歴史学的に一般的結論」が「良いこと」とされることをほぼ否定している。田野大輔・小野寺拓也だけが主張してるのではなく、先行研究効果の有無を実証していることをただまとめただけ。そういうことを知らずに雑語りしてるお前らはマージでね、お前ら全員アホ。アホが雁首揃えてアホを晒してるので爆笑です。

なお、その「女性の癌患者が減った」という政策には家父長制的な「女性は家庭で子供を産め」という思想根底にあったという指摘がある。女性子供を産むことが推奨されていて、その結果としての健康政策なわけだ。そういった価値観のもとでおこなわれた政策は「良いこと」なのか? という問いを本書では投げかけてますよ。

余談

それはそうと、この本は完全無欠な本だとは思ってない。この本を批判する素地は1つだけあると思ってる。それは「ナチ研究ナチス/ヒトラー過小評価しようとするバイアスが全体的に存在する」という批判だ。ただ、これまでナチドイツに真面目に向き合ってきた何百人もの学者が積み重ねてきた智の結晶バイアスとして切り捨てるのは相当ハイレベル研究必要かと思うので、増田はそう主張するつもりはない。

anond:20230805104142

政治社会経済文化がどのように動くのか、については、分析一般論の体系は数学物理学レベルではまだ存在しないと思う。

個別事象帰納分析をやっているレベル

「〇〇政府クーデターを起こす前提条件は、▢▢の定理の前提条件をみたすよう「メディア掌握率が90%以上」「将軍カリスマ性がレベル4以上」「米国中国ロシアとの関係性が4以上」みたいなゲーム的な数値化可視化もないし、前提条件を満たせば必ずそうなるという因果性も低い。

でも解析的な歴史学というのはシミュレーションデータ分析手法の進んだ今日では可能性はあると思うし、マーケティングなどにも活かせる可能性はあるかもしれないな。

2023-07-01

ナチスは良いことをしていない」と証明しても意味が無い

これはツイッターでは定期的に見る議論なんだけど、

ナチスは確かに悪いけど、○○という良いこともした。それを否定することは出来ない(○○には「高速道路」「社会保障」とかが入る)」ということを言いたがる人は結構いる。


で、これに対して専門家が、ナチスは良いことをしていない。ナチスの功績とされることは実はナチスの功績ではない」否定する・・・と主張するのが定番の流れになっている。

今度それをまとめた本も出るそうだ。

https://www.amazon.co.jp/%E6%A4%9C%E8%A8%BC-%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%81%AF%E3%80%8C%E8%89%AF%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%8D%E3%82%82%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-1080-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA/dp/4002710807


田野先生をはじめとした真摯研究者の皆さんのこういった仕事に対して、俺は敬意を払いたいと思う。

でも、個人的には「ナチスは良いこともした」と言いたがる人に対して、実際にナチスのやったことを検証して見せても意味が無いと思う。彼らには響かないと思う。


というのも、彼らの中にある疑問は「どこかでデカ犯罪ミスを犯したら他の功績も否定されるの?」というところにあるからだ。

もっと大雑把に言えば、「何かを絶対悪として認定し完全否定すること」自体に対する反感のようなものだろう。


ツイッターなどの言論空間では「正義の反対は別の正義」見たいな相対主義が非常に有り難がられる傾向にあり、たとえナチスであろうと「全否定」という行為のもの拒否感を覚え、

それに反抗することが知的だと考える人一定存在する。


から彼らに対して「ナチスは実際に良いことをしていないんですよ」と言っても、「じゃあ今後、ナチスみたいな連中が現れて、そいつらが本当に良いこともしていたらどうするの?」と思うだけだろう。

から必要になるのはそこの議論、「仮にナチスが本当に良いことをしていたらどう評価すべきなのか」なんじゃないだろうか。これは歴史学というよりは倫理学問題かも知れないけども。

2023-06-09

anond:20230609153447

もっと文学部ぽく書かないとダメだよ。以下手本。

 文学部を選ぶことは薦められぬ。止むを得よ。何故ならば文学部の授業においては、熱意を持てば自ら調べ、書物を読むことによって身に付けることが基本とされるからである特に国文学歴史学の分野においては、新たな事実が滅多に加わらず、既に整理された知識を、その科目の愛好者である教授が楽しげにお話ししてくれるのみである。言い換えれば、博識なることはできるが、生計を立てる能力は授業だけでは身に付かぬかと思われた。


もしくはこんなふうにもっと古典的に。

 よもや文学部というものは汝に勧めざるべし。此を断念せよ。何が故かと申さんか。文学部の授業において聴くことは、いかなる場合も熱心さによって調査したり書物を読んだりすることにより得られるものなればなり。特に国文学歴史学なるものは、新たなる事実の追加はほとんどなく、既に構築せられた学問の体系を、其の科科目の熱狂的なる教授が楽しげに饒舌するばかりなり。要するに識者となることは許されんとも、食物を得るための能力は授業のみによって身に付くものとは思わず候。

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