はてなキーワード: 民族集団とは
多くのアナリストや政治評論家は、ハリス陣営が労働者階級に冷淡で、経済政策が不明確であったため、消極的な不支持がトランプ大勝の要因となったとする。しかし、このような分析には疑問が残る。
実際、トランプ氏は労働者階級のみならず、あらゆる人種、階級、世代から幅広い支持を獲得しており、支持基盤は単なる経済政策に限られない。関税の導入や移民排除がインフレを引き起こす可能性が高いとされる中での支持には、米国民の合理的な判断力と知性が反映されていると見るべきである。トランプ再選は、米国民が理性的かつ知性的にトランプ氏を積極的に支持した結果であり、一時的な経済的期待のみに根差しているわけではない。
トランプ支持の核心は、「Make America Great Again」(MAGA)に代表されるアメリカ再建への信念にあると考えられる。特に、分断されたアメリカを再び統一し、トランプ主義を信望する者とその子孫からなる単一民族「トランピアン」が形成され、アメリカが国民国家として再建国されるというビジョンが支持層に共有されている。
したがって、仮にトランプ政権下でインフレが加速したとしても、それは単なる経済的失策とは見なされない。分断された社会でのインフレが国民の失望を招く一方、単一のアイデンティティを共有する民族集団「トランピアン」にとっては、共に負うべき苦痛と捉えられ、さらなる団結へと繋がる可能性が高い。むしろ、経済的困難に対する耐久力が強まる中で、支持が一層強化されると予測できる。
さらに、トランプの高齢は問題とならない。既に「トランピアン」という民族集団が結束しており、トランプは一個人の枠を超えた信仰と理念の象徴であり、日本の神話における伊弉諾尊のような建国神話の神としての地位を有する。仮にトランプが死亡したとしても、トランプ主義が失われることはなく、信念と価値観は継承され続ける。
トランプ再選は、アメリカの再定義と2億人を超える民族集団「トランピアン」の創生を示唆する。したがって、従来の経済分析に基づいた政権予測はトランプ再選の本質を捉えるには不十分である。今後のアメリカの動向を見極めるには、トランプが示した新たなアイデンティティ形成の動きを注視する必要がある。
私は30代前半だが、子供の頃と比べて、今は何もかもが変わったように感じる。特に目立つ変化は、外国人の比率だ。私は90年代を子供として過ごし、2000年代に学生時代を送ったが、当時は外国人は非常に珍しい存在だった。40人のクラスに、外国にルーツを持つ人が一人いるかどうかという状況で、街を歩けば日本人ばかり。外国人を見かけるのは、東京に行ったときぐらいだった。
それから約20年が経ち、この国は大きく変わった。特に、第2次安倍内閣では経済界からの要請を受け、東南アジアから技能実習生として多くの外国人を受け入れる政策が取られた。当時私は20代で、上の世代の「氷河期世代」が政府の失策により就職できない状況にあったのに、労働力が不足すれば低賃金で外国人を雇うという流れに、うんざりしたのを覚えている。
企業は利益を最優先にし、国の将来についての長期的な視点は考慮されず、短期的な合理性から外国人労働者を採用するようになったのだろう。
それから10年が経ち、外国人は街中で普通に見かける存在となった。2023年10月末には、外国人の比率が過去最高の2.5%を超えた。このままのペースで進めば、2067年には10人に1人が外国人となる時代が訪れると予想されている。
私は20代前半の頃、アメリカに住むことを夢見て、実際に2年半ほど留学した。その時に感じたのは、アメリカが多民族国家として、世界で最も早くその課題に直面している国だということだった。かつてアメリカは「人種のるつぼ」と言われていたが、実際は人種ごとに生活が分かれており、今では「人種のサラダボウル」と呼ばれることが多い。富裕層の白人やアジア人は、貧困層が立ち入れない「ゲーテッド・コミュニティ」に住み、黒人などの低所得者層は治安の悪い地域で暮らしている。
アメリカで私が考えたのは、「日本という国が多文化共生に耐えうるのだろうか?」という疑問だった。よく日本人は「日本は治安が良い、宗教がないからだ」と言うが、私から見ればそれは誤りだ。日本が平和である理由は、日本人という単一民族が、共有された価値観を持つ社会を形成しているからだ。日本人はこれまで、異なる価値観を持つ民族集団と対立し、それを解決する経験をほとんど積んできていない。
ネット上でも、中国人や韓国人といった比較的似た価値観を持つ集団に対してさえ、批判的な意見が多い。似通った集団に対してもこうであるならば、全く異なる慣習や宗教を持つ中東の人々を受け入れた場合、一体どうなるのだろうか。また、多くの日本人はまだ知らないが、ヨーロッパでは多くのイスラム教徒が現地のヨーロッパ人との間で文化的な摩擦が生まれている。日本人はそれを受け入れ、多文化共生することができるのだろうか。日々、そんなことを考えながら生活している。
ユダヤ人とかユダヤ系団体とか、そんなふうに呼ぶから自分はてっきりそういうなんかの人種的特徴をもつ民族集団があると思ってた
そうじゃなくて、ユダヤ教の信徒をユダヤ人とかユダヤ系とかみたいに呼んでいるのか……
スラブ系とかゲルマン系と並列で並ぶようなものだとてっきり……
ということはモンゴロイドの日本人かつユダヤ系というパターンも当然ありうるわけか
ややこしい、なんでユダヤ教徒と呼ばないのだろう
不思議だなあ
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ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている[10]。
※ハラーハーって何
ハラーハー、ハラハー(halakhah, הֲלָכָה hălākhāh)は、ヘブライ語の概念用語で、ユダヤ法(Jewish law)とも呼ばれる。次の意味で使用される。
3.ラビ文献において、アッガーダー(聖書の注解や格言を通して教訓的なものを引き出したり、聖書に書かれていない物語、様々な逸話などの類)との対象として用いる用語。
言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、ひとつの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている[12]。
内田樹は、英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語では単に「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」「〜民族」「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいるが、実際にはユダヤ人とほかの民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はないという[17]。
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
アフガニスタンみたいに、これからも今後も民族・宗派・部族の対立で内戦が続くだけの運命の国を見てると、日本があんな風に分断された社会じゃなくて良かったと心の底から思う。
そりゃあ大国に囲まれて介入され放題の内陸国と東の果ての島国じゃあ全然条件が違うけどさ、
欧米列強の支援を受けたキリシタン大名が江戸時代を通じて勢力を保ち、九州の人口のかなりの割合がキリスト教徒になってたり、
アメリカが琉球を薩摩と清による二重搾取から住民を「解放」するという口実で植民地化して、沖縄県民が英語が母語で日本本土と文化の共有が難しい民族集団になってたり、
ロシアが支援するアイヌや幕府残党の軍閥が北海道の一部を支配してたり、
そして現代に至るまで分離独立を求める少数派のテロが頻繁に東京で起きてて、
対抗上、多数派(「本州人」や「仏教徒」みたいなくくり?)による政府も武断的になるしかなくて、テロ組織の撲滅を強行して、それがまた少数派のテロを引き起こして、人権侵害だの民族浄化だのと欧米メディアから叩かれまくり、
開発の遅れた少数派地域では中国資本によるインフラ整備が着々と進み100年租借地で基地建設が始まって人民解放軍の駐留も時間の問題……
みたいな国になってたかも知れない。島国でもフィリピンやインドネシアのように宗教・民族少数派のテロに悩まされてる国もあるしね。
欧米列強がこの極東の列島を植民地としての価値なしと放置してくれたのは本当に運が良かったし、
ちょっと露悪的だけど、江戸幕府がキリシタンをほぼ絶滅させて、明治政府が不平士族を懐柔し琉球やアイヌを同化させて、それが許されてた時代に日本人の同質化を完了してくれたのは本当にありがたい。
当時の犠牲者にとっては悲劇だったにせよ、彼らの子孫にとっては、21世紀になってもアフガニスタンのように武装勢力の支配地域で貧しく抑圧的な生活をしたり食うために自らもテロリストになったりする分断された国よりも、
私は男だけど、女性専用車両には賛成。
痴漢被害が酷いというのは聞いているし(リアル知人とはそういう話をしたことはないけど、ネット上で上げられる声を聞いてると酷いというのがわかる)、トラウマになって女性専用車両しか利用できない状況に追い込まれる人がいるのも知ってる。
女性専用車両には今後も(気づかずに、あるいは忘れてうっかり乗っちゃった、とかはあるかもしれないけど、少なくとも意図的には)乗るつもりはないし、わざわざ乗り込んで反対運動やってる連中は頭おかしいんじゃねーのと思う。周りを威圧するとか、クズすぎでしょ。
痴漢という犯罪がなかなか撲滅されない現在において、女性専用車両という解決には一定の合理性があり、それで救われる人が大勢いるのなら、私はそれに反対しない。敢えて乗車して、トラウマ抱えてる人を怯えさせようとも思わない。
犯罪者の多くがその属性を持っていることを理由に、ある生得的な属性を持っている人の多くを公共の領域から締め出す行為は、差別だよね?
差別だとみんなが合意してるなら何も言うことはない。現状、男性が社会的に権力を持っている以上、この程度の差別は甘受すべきだという理屈もわかる。別の差別を漸減するためにより小さな差別は容認されるべきという主張もわかる。上で書いたように、私にはその差別に反対するつもりは特にない。
でも、「差別じゃない!」という主張が執拗に繰り返されるのはまったく意味がわからない。なんでそこを否定しようとするのか。差別だが必要悪である、でいいじゃん。多くの人(私も含む)はそれで納得するよ。なんでそこにこだわるの。上の「ある生得的な属性」に別の属性を代入してごらんよ。大問題でしょうが。男性が社会的には強者であるからこの程度は仕方ない、ってだけで、本質的には差別でしかないでしょ。
「差別である」という前提を共有できないなら、それは差別であると主張し差別解消のために強硬手段を採る運動にも一定の正義はあると見做さざるを得ない。
murasakizaru 事故が頻発してる道路をやむなく私有地にはみ出して通る人に「不法侵入ではあるよね?私は刑法犯ですって認めろよ、言えよ犯罪者」と迫る意味は?意図は?痴漢の利益の為に惜しみ無く情熱を注ぐ連中。
そもそも住居侵入だと思ってない人が大勢いるみたいだから、それが形式上は住居侵入にあたるよね、という指摘は必要では。
underd 「間違いなくその属性自体に起因する問題があるケース」は差別って呼称が妥当なのか議論の余地があると思う。そしてその状況では強硬手段に正義ありと見做さざるを得ない、とは思わない
痴漢って男性という属性に起因する問題なのか。知らなかった。痴漢を排除することはまったく問題にしておらず、痴漢をしていない多くの男性を排除することを差別的な扱いだと主張しているんだけどな。そして、その差別を是認するとも書いているよね。この差別には正当な理由があるから是認する、と言っているのに、差別じゃない! と言われるのは本当に困惑する。そう言われたらこっちも「これは差別ですよね」と言い続けるほかないわな。
shima2tiger だから何?女たちは男性を差別した上で安全な場所を得ているんだから、申し訳ないと思えってこと?性犯罪から身を守るためにそこまで卑屈にならなきゃいけないの?
差別は絶対悪であり、その構造の受益者はすまなそうにしているべきだという前提に立つなら、申し訳ないと思うべきなのでは。差別は時に必要であり、その受益者も堂々としていて良い、と思うなら堂々としていればいいんじゃないの。私は差別だとは言ったけど申し訳なく思えなんて言ってないよ。
nennoyuraku “ある生得的な属性を持っている人の多くを公共の領域から締め出す←シェルターとして女性車両を用意することがこれだとは到底考えられない。事業者が妥当な目的のため女性向けとした場所は公共の領域じゃないでしょ
すごい! 公共交通機関がその一部を「○○限定」にすれば公共の領域じゃなくなるんだ! その調子で日本人専用車両とかも作っていこうな。
sand_land 専用車は優遇=男性差別って認識なら少しズレてる。専用車=空いてて快適とは限らん。性犯罪被害遭遇率が下がる以外はほぼ普通車両と同じ。更にその性犯罪は尻に触る程度じゃない。下着やそれ以上弄るとか普通よ。
私は「性別を根拠にして犯罪者と同じ性別に属することを根拠として公共の空間への立ち入りが制限されるのは差別である」と主張しているのであって、「女性専用車両は女性優遇のVIP車両! ずるいずるい!」なんて言ってないし、性犯罪の深刻さも否定してないよね? そういう主張をする反対派がいることは事実だけど、少なくとも私はそんな主張をしていない。
その時は「あらゆる差別は悪であり即時廃絶すべきだ」派と闘えばいいのでは。私はこういう事情があるならこの差別は現状しゃーないな、って思うけど、どんな理由があっても差別を許せないひとというのは一定数いるので、頑強な反対派ってのは出てくるかもしれない。でもそれを防ごうとして「これは差別じゃない」と主張するなら、こちらも「いやこれは差別ですよね」と言わざるを得ないわけで。
kutabirehateko 日本での性暴力発生率は通勤通学時の交通公共機関が群を抜いて多い。避難所を利用しなければ通学も通勤もできない女性のハンディを無視することこそ差別だ。
「性暴力からの避難車両」なら差別じゃないんじゃない? 男女を問わず、性暴力に遭うことを恐れるひとであれば誰でも乗れる。結果として乗客が女性だらけになったとしても、当然それは差別ではない。仮にこういう運用がなされるなら私は差別だとは主張しないよ。もちろんその場合、過去に痴漢された経験のある男性も乗れるわけだけど、これは制度の趣旨からいって当たり前だよね。
それじゃ嘘をついて乗ってくる男性がいるかもしれないという懸念もあるかもしれないけど、痴漢されやすい外見などというものはなく、性暴力被害者を服装や外見で見分けることはできないのだから、それは仕方ないんじゃないの。
shin2rou アファーマティブアクションは差別ではないでしょう。どうしてそこのこだわるのかマジ意味不明。
アファーマティヴ・アクションはマイノリティを大学入学や昇進などの審査において「優遇」するという施策なんで、女性専用車両はアファーマティヴ・アクションだから差別じゃないって言ってるひとたちは「女性専用車両は、女性を優遇する車両である」と主張しているってことになるけど、本当にそれでいいんですかね。
ところでもちろんアファーマティヴ・アクションもやりようによっては違法な差別になりえるわけだが。カリフォルニア大学評議会対バッキ事件(Regents of the University of California v. Bakke)では、アファーマティヴ・アクションのせいで入学できなかったと訴えた白人学生が勝訴して入学してる。アファーマティヴ・アクションだから差別ではない、って、お前アファーマティヴ・アクションって言いたいだけやろ。
mionosuke 「区別」じゃね? 性的な嫌がらせを行いうる人達という区別が、男性か女性かで分けられたのだから。「差別」だとすると、差別をされたという被害者意識が生じる。
被害経験の有無とか性犯罪歴の有無とかで区切るなら(人権問題ではあるかもしれないけど)差別じゃないけど、一律に性別で区切ったらそれは差別に決まってるじゃん……。確かにいちばん多いのは男性→女性への性犯罪で、最も対策にリソース割くべきなのはそれだけど、男性→男性,女性→男性,女性→女性の性犯罪だってあるわけで。
kincity 巷に溢れる女性差別に対しては「他人の人権が毀損されても興味ありません」が「自分が差別されるのは実害なくとも1ミリも許せません」という人権意識の人らとは差別の定義が違うのだろうで、そこ争って何になるの?
この増田では書いてないだけで、私は選択的夫婦別姓賛成、女性の再婚禁止期間反対、婚姻適齢の18歳への統一賛成、プロチョイス、性犯罪の厳罰化賛成派ですが何か。
zyzy その理屈だと「黒人が白人追い出して独立国家作ったアフリカの国々も差別」って話になる。これ書くと「くにはさべつとかいったきちがいがぁ」ってのが沸くけど、それなら女性専用車両を差別というのもきちがいなだけ
ジンバブエのムガベ大統領が白人農場主の土地を没収した時は非難轟々で経済制裁までされたじゃないですか! やだー!
というか真面目な話、独立する時に白人を追い出したアフリカの国ってどれぐらいあるの? 私はアフリカ史には詳しくないんで教えてほしい。確かボツワナのセレツェ・カーマは白人との共存政策掲げてたし、ローデシアがジンバブエに変わった時も白人は追い出されてないし、南アフリカでアパルトヘイトが終わった後も白人は追放されてないよな。
そもそも、ある民族の独立国家を作るに際して特定の民族集団を追い出す行為は「民族浄化(ethnic cleansing)」という人道に対する罪なんだが。旧支配者層だから追い出していいってどこの国際法に書いてあるんですかね。コソボ建国に際して旧支配者層であるセルビア人への迫害を行ったアルバニア人指揮官は普通に戦犯法廷に訴追されてるし、ツチ族が植民地時代は優遇されてたっていう理由はフツ族による迫害の免罪符にはならんよな。女性の権利を重視する人がまさか民族浄化を肯定するとは思わなかった……
totoronoki この問題ってどこに着地したくて声を上げてるのかわからない人ばかりなんだよな。相手の論理的矛盾を指摘するのが楽しいだけなの? 男性専用車両が設置されれば差別問題は解消するよね?
「差別であることを否定するな」っていう着地点、そんなにわかりにくい? 「差別だけど必要悪だよね」が多数意見ならいちいち「これは差別だ!」なんて言わないよ。「差別じゃない」って強弁するひとがいるから「差別です」って言ってるだけ。あと男性専用車両も差別だよ……
sdtrd 差別だから廃止しろって強硬な主張と行動を行ってる集団が実際にいる状況で差別だと認めろって言われてもな。認めたら廃止しろって迫るんだろって思う程度にはネット上の男を信用してない。
運動上の都合で差別か差別じゃないかが決まるんだ……(困惑)。運動の都合で差別の定義を変えていたら、お前らの主張する「差別」なんてどうせ都合のいい定義なんだろそんなん信用できるかって思われても仕方ないのでは。どういう連中がいようが差別は差別、そのうえで容認できる差別かそうでないかを論ずるべきでしょうに。
tikani_nemuru_M 増田も結論部で「不当な差別」と「許容せざるを得ない差別」を分けている。ならば、前者を「差別」後者を「差別ではない」と言ったほうがシンプルで、子供にも説明しやすいだろう。よって増田の主張は不適当。
でも、それだとその2つが連続的な、同質な行為だということが理解できなくならない? 私は、子供に「男性の痴漢が多いから男性の入れない女性専用車両がある。これは差別ではない」と、「○○人の犯罪者が多いからといって○○人を排斥しようとするのは、不当な差別だ」ってどう違うの? って聞かれたら答えに詰まると思う。だってどっちも、一握りの犯罪者をもとにある集団を推し量る、っていう同じ行為じゃない。だったら、どちらも差別と認めた上で、差別を漸減させていくために何が必要かって話にした方がいいんじゃないの?
それに、2つを別々の言葉で扱うことは、片方を「あって当然で、解消しなくていいものだ」と捉えることにもなる。そうじゃない。痴漢が撲滅され、女性が何の不安も感じずに電車に乗る日が来るなら、女性専用車両なんて必要ない。それはあくまで、日常的な性暴力の脅威に対抗するために、やむを得ず認められている差別にすぎないんだ。それは差別と認識されるべきだ。いつかその存在が正当化されなくなる日が、目標にされるべきだ。私はそう思う。
というか、「自衛隊は暴力装置」発言が炎上したときは、「自衛隊の振るう力とヤクザの振るう力に根源的な違いはなく、また暴力装置であると指摘することは自衛隊員での侮辱ではなく、暴力装置と認めた上でどう統制するかが重要」というのが良識派の意見ってことになってたよね……? その見解を支持するリベラル派としては、何で同じ理屈が認められないのか本当に理解に苦しむ。
hyoutenka20 女性専用車両まで「差別」という範囲を広げるなら、今後一貫してその主張を通してもらい、ネットにあふれる民族差別や女性差別的発言にも是非戦ってもらいたい その前提の上なら「差別」とする人の考え方は理解する
増田だからなんの証拠も出せないけど、戦ってきたよ。民族差別にも女性差別にもセクマイ差別にも(はてブやはてダで)NOと言ってきたよ。その上で言うよ。これは(罪が無いかあるいは軽いだけで)差別だって。
keytracker こんな相手を不快にさせる事してたら、さらに溝が深まるだけだろ。こんな屁理屈捏ねるなら法で縛るようになるだけ。差別だと思うなら、信用されるように行動すべきじゃないのか?日系人はそうやって信用勝ち取った
日系人がどれだけ怠惰で鼻持ちならない連中であったとしても日系人排斥や日系人強制収容や排日移民法は差別でしょ……まさか女性の権利を主張する人が差別される側に努力を求めることを肯定するとは思わなかった。
ueno_neco これまで「差別」という言葉は部落差別とか黒人差別のように使われてきたわけで、それらと並列の表現をするのに違和感あって当然でしょ…。女性専用車設置理由は痴漢であって、女性による男性差別じゃないでしょ…。
でもやってることは同じだよね、というのが指摘の趣旨だよ。「○○出身者は犯罪率も高くて危ないから○○出身者は(犯罪歴の有無にかかわらず)入社させないようにしよう」が差別なら、「痴漢の多くは男性なのだから男性を(痴漢だろうがそうでなかろうが)特定の車両に乗せないようにしよう」も差別でしょ。
もちろん、これは「○○出身者はなんか汚らわしいから嫌い」「○○人は劣った民族だから排斥すべき」とは違った行為だ。そういった偏見のみを「差別」と呼ぶのなら、確かに女性専用車両は差別ではない。ただしその場合、「女性は中途退社する割合が有意に男性よりも高いので、女性を管理職候補にはしません」も差別ではない、ということになってしまうが、本当にそれでいいのか。私はそれは不当な差別だと思うし、それを差別ではないとする主張は詭弁だと判断するが。
ところで、私は「女性による男性差別」とは一言も言ってないような。当然この場合、差別の主体は鉄道会社であって、女性客ではないよね。
痴漢被害に遭遇したことのない女性あるいは傍観者だった女性(あくまで仮定上の存在ね)が入れて、痴漢被害者の男性が入れないのは、被害への措置として不適当だよね。上で書いたけど、被害に遭った/遭うことを恐れるひとなら性別を問わず誰でも乗れる、そのかわり女性でもそんな恐怖を感じていなければ乗れない、なら差別と言うつもりはない。
あと、救済措置であることと差別であることは矛盾しないよね。救済という大義のための必要悪として差別を許容するという趣旨の文にそんなブクマされても……
「犯罪率が高い集団の成員をまとめて排除するのは差別じゃない」という論理は、たとえば歴史的に差別されてきた結果として犯罪に手を染めることが他の地域の人よりも多くなってしまった地域の人を差別することにつながる。「私企業なんだから別に勝手に『女性専用』を設定していいだろ」という理屈は、私企業が「日本人専用」や「○○人お断り」をすることを許容してしまう。「これは差別ではない、区別だ!」という言い方は、女性が不利益を受けたときに「でもこれは区別だから」で済ませる余地を与えてしまう。
(※地下猫さんの指摘を受けて訂正。この部分は、あくまで「犯罪者の多くがその属性を持っていることを理由に、ある生得的な属性を持っている人の多くを公共の領域から締め出す行為」であることを前提に、それは私企業の行為だからとか区別だとかいう反論が来ることを想定して、その理屈はだめでしょ、と言ったつもりだった。言葉足らずで申し訳ない。ここは誤解されてもやむなし)
それらは不当な差別だ。でも、不当な差別と現今の環境下では許容せざるを得ない差別は、外形上区別できない。だったら、変な理屈をこねて後者を「差別じゃない!」と言い繕うべきじゃない。それは前者をも免罪してしまう。
加えて、差別が差別であると認識されていない状況はそれ自体が不正義であるから、というのもある。「○○は単なる区別だから、差別じゃないよね~」という言辞に、どれだけの被差別者が苦しめられてきたか。そんな言い分を許さないことは、正義への一里塚だよ。
グローバリゼーションは売国奴に見える、のではなく実態としてガチで売国奴なんだよ。
現代のあらゆる国の政治は、19世紀の重商主義vs.自由貿易の論争のように
国家やら民族集団の利益のみを考えるか、あるいは個々の経済プレイヤーの利益のみを考えるか、
の二択に収斂してしまっていて、レイシストvs.売国奴の殴り合いという残念な世界になっている。
米国のトランプ、フランスのルペン、イギリスのボリス・ジョンソン、日本の安倍首相などなど
先進各国の首脳やリーダー格の人々が国粋的ないし差別主義的な色彩が強いのも、
グローバリゼーションへの反発・抵抗という側面が強いからなんだ。