はてなキーワード: 一橋とは
いや、枕営業てのは生保レディだけじゃないよ。もちろん客とのパワーバランスだけどね。
向いてないタイプだったけど、けっこうイイ体してたので(w)、おれも下心あって
かなり注文だしてやってたのよ。つうか営業成績の半分くらいは俺の注文だったと思う。
だから誘ったら断れないだろうと自信があったw。だって野○は成績わるいとすぐアレだからね。
旅館にチェックインして、「とうぜん分かってるよね?」と聞いたら、うつむいて「はい」と答えたので
とりあえず一緒に風呂に入ることにした。脱衣場ですでにビンビンに勃起してもうた。
だって服ぬいだら想像してた以上にナイスボディだったし、緊張してる顔が妙に色っぽいんだもんw
でフェラしてもらったのだが、あんまり男に慣れてなかったんだろうな。
すげー下手くそで全然気持ちよくない。一生懸命さは伝わってきたんだけどね。
で、「もういいよ」て言ったら、「すみません」てちょっと涙目になってて
それは勝負強さ。
東大合格者数ランキング全国トップ10に入るような超難関進学校だと、中1~高3夏まで遊び尽くして一切の勉強を放棄したせいで、気づけば同世代間で下位レベルの学力にまで落ちぶれた(共通テスト主要3教科で7割弱とか)ような奴でも
みたい客観性皆無のエリート意識で受験本番を迎えて、マジで早稲田社学とか所沢とか慶応文とかSFCとか、たった1個だけ都合よく引っかかる奴が多い。
こういう自己暗示で大番狂わせ起こせる奴が難関進学校底辺層には多すぎる。
東大数人以下の自称進学校だと早慶A判定連発で全滅して立教行きの子とかめちゃくちゃ多いのに。勝負弱い。
で、都合良く行かなかった難関進学校の底辺層は当然浪人するわけだけど、恐ろしいことに彼らはチンタラとサボりながら1年過ごしても一橋とか早稲田政経とか慶應経済とかに受かる。
彼らは6年間ですっかり落ちこぼれたくせに自分が勉強できると思い込んでるから、
基礎スっ飛ばして何も知らないような状態からいきなり問題集を解きまくるという自惚れムーブをしがちだ。
当然、めっちゃ賢い中学1年生がいきなり難関大の過去問演習しているようなもんなので結果は伴わない。模試の判定はほぼE。
でもこいつらは受かる。
他によく見られる特徴としては
・共通テスト本番で都合良く自己最高点を叩き出す(マーク模試や過去問演習で7科目73%が自己最高だったのに本番は86%とか)
・1回もC判定以上出したことがない東工大や東大にギリッギリで受かる(ちなみに東大は数学0完で受かる例が多い)。
高校1年から東大を意識して基礎を大事にコツコツ勉強を積み重ね、
高校3年時や浪人期に猛勉強、模試の結果もB判定安定とかだったのに遂に東大に受かれなかった
みたいな子がとにかく多い自称進学校でよくある例とどうしても比べてしまう。
「受かったけどぶっちゃけちゃんと理解してない。酸化還元反応分かってないもん」
と言っていた。
問題を見て正解答案を作ることはできるけど、現象自体は全く理解してないらしい。
昔は名門大卒が1人として入るような会社じゃ全然なくて地方Fラン私大とか東京の武闘派五流私大卒ばっかりだったけど、
やがて業界再編を経て超大手企業の資本に入り社名も変わり、気づけば早慶卒だって珍しくなく一橋卒すら毎年入るように……
エリートがいなかった時代に入社したモラル皆無のえせチンピラみたいな古参が課長~部長の椅子に座って権力持つようになり、
同時に会社の毛並みが良くなった影響で昔とは考えられない細やかでハイレベルな水準の仕事を当然に要求されるようになり……といういびつな状態になっているから。
結果的に新卒は、古参の粗野でエグい上司に抑圧されながら、昔じゃ考えられないくらい負担の大きい仕事をデフォでいきなりこなしていかなければならないというハードモードからスタートするはめになる。(こういう会社って超有名なオフィビルに本社構えるはど図体でかくなって、コンプラ推進室とかいかにも大手らしい部署もちゃんと存在するのに、
野良犬みたいな社員ばっかりだった時代のパワハラチンピラ風土は普通に残ってるんだよな。なぜか黙認されてんの)
古参連中なんて若手時代は二日酔いで寝坊したり、上司に対してガキ丸出しのワガママ言ってキレまくったり、先輩とゴルフ練習場で昼までサボってから働き始めてたりしてたくせにな。
だから就活する大学生はマジでこういう会社から逃げれるよう気をつけたほうがいい。
社員が千人以上いようが、売上一千億あろうが、保養所が立派だろうが、年収高くて福利厚生良かろうが、内実はチンピラ文化やデタラメがまかり通ってる
柞刈湯葉(いすかり・ゆば)@yubais
学部三大誤解
3. 経済学部は儲かる
https://twitter.com/yubais/status/1493145912666771457
このツイートに対して、
小説家になることを目指して文学部に行って小説家になってベストセラー連発しているヤツは確実にいるし、
東大京大一橋阪大レベルの法学部だと、1年生の前半は、みんな司法試験を意識しているよね。
お前は私大文系だから、早慶やMARCHの学部をかたっぱしから受けて、合格したところに進学して、
文系の勉強は将来の仕事とは関係ないとか言い訳して、大学での学習もあんまりせずに、
世の中には、将来の職業を見据えて、学部選びをしている高校生は大勢いるし、
大学で学んだことを活かした専門職に就いている人間も大勢いるわけ。
で、お前みたいな学習性無気力の私大文系営業マンよりも、遥かに高所得で社会的も高いわけよ。
お前らは大学で勉強してきた人間をTwitterでバカにするかしかない私大文系営業マン脳なわけ。
かわいそ~~~
文学者・文芸者としては超一流だった。都知事の会見での回答なども文学者っぽかった。
そういう点では宮崎駿監督も同じ匂いを感じる。絵描き・映像監督と政治家で違うけども、根本は文学者だと思う。
文学や新聞がメディアの中心でなくなった以上、こういう人はもう現れないだろうなあ。
石原慎太郎氏、自作を語る『わが人生の時の時』、死の影と生の充実
「こんなにいろいろ体験した物書きはいない。ある意味、ぜいたくな人生だと思うよ」と話す石原慎太郎さん(酒巻俊介撮影)
DSC_3468『わが人生の時の時』
政界を引退して4年余りが過ぎた石原慎太郎さん(86)はサッカーにヨットにダイビングに、とさまざまなスポーツに熱中してきた。そんな“肉体派”作家の身体と感性が鮮やかに結晶したのが、平成が始まって間もなく刊行された自伝的掌編集『わが人生の時の時』(平成2年)。かけがえのない時の断片を乾いた筆致でつづった40の掌編は死と隣り合わせにある生の輝きを静かにうたいあげる。(聞き手 海老沢類)
この本は不思議なきっかけでね、大江健三郎のおかげなんですよ。テレビ局の依頼で反核運動が盛んだった西ドイツ(当時)に取材に行ったら、同じ目的で来ていた大江と会った。ベルリンの壁の前で僕は覚えたてのスキューバダイビングの話を彼にしたんです。この本に書いたオキノエラブウナギという猛毒をもった不思議なウミヘビと遭遇した体験を語って「海の底は全然違う宇宙で、いろんな発見があるんだ」と。大江はやけに感心して「石原さん、そういう話、絶対書きとめておいた方がいいですよ」と言う。
思えば、僕は他の作家にはない体験をしてきたし、いろんな人と出会って面白い話も聞いてきた。人生を記録として残そうとしたんです。書きながら人生を感じ直したよね、強烈に。
《収録された40編の多くが海での体験談。知人の遭難や自身の大けが、巨大な生物との遭遇などが回想される。弟の俳優・裕次郎さんとの別れや霊の存在を示唆するような不思議な出来事、戦時の日常も描かれる》
僕は肉体派だからね。肉体を使った行為というのはその裏側に必ず死の影がある。スキューバダイビングでも随分怖い目に遭ったし、遭難にも立ち合った。避けようもない落雷をヨットの甲板上で目にする「落雷」という一編があるけれど、あのときはコンパスがクルクル回るのが気持ち悪かったね。
ただ僕はね、恐怖は人間が味わう一番の感動だと思う。恐怖が通り過ぎた後には安息があるし、たった今過ぎていった凝縮された時間の充実をも感じる。死とのコントラストの中での生の味わいは深いですよ。死は人間にとって最後の未知だから興味がある。この掌編群はいわば、いつ死ぬのかな、という緊張の中でとらえた生と死のフラグメント(断片)なんです。
戦時の体験も書きました。横須賀から出航する前、家族と最後の別れをする将校の姿とかね。僕らをかわいがって膝の上に乗せて頭をなでてくれた青年将校が死んでいく。その妻が葬式で何も入っていない骨壺を抱いている…。戦争の不条理や残酷さは僕の中に鬱積して、国家への愛着、そしてアメリカに対する反発となった。盛田昭夫さん(ソニー元会長)との共著『「NO」と言える日本』(元年)もそういうものが潜在意識にあって書いたんです。
《26年、衆議院議員を最後に政界を引退。精力的に執筆を続け、田中角栄元首相の生涯を一人称でつづった『天才』(28年)は大ベストセラーに。現在も文芸誌に小説を連載する》
随分危ないこともやってきたと思うけれど、僕はそれはそれでとてもエンジョイしてきた。自分をつき動かすのは結局、人生に対する好奇心なんだよね。
ライフワークが一つあってね。仏教徒だから法華経を現代語に訳そうと思っている。法華経は非常に哲学的で、存在や時間について深く考えさせる。今は道半ばだけれど死ぬまでに完成したい。
やっぱり小説が一番面白いよ。政治家同士のだまし合いなんか、最も薄っぺらいね。僕は作家だしヨットマンですよ、ずっと。でも時化(しけ)たレースではさすがにもう乗れないな。
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『わが人生の時の時』 文芸誌「新潮」の平成元年10、11月号に掲載。翌2年に新潮社から単行本が刊行され、後に文庫化された。『石原愼太郎の文学』(全10巻、文芸春秋)の第8巻に、エッセー『わが人生の時の会話』とともに収められている。
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〈いしはら・しんたろう〉昭和7年、神戸市生まれ。一橋大在学中の30年に「太陽の季節」でデビューし、翌年に同作で芥川賞。『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、『生還』で平林たい子文学賞。43年に参議院議員に当選。後に衆議院に移り環境庁長官、運輸相などを歴任。平成11年から24年まで東京都知事を務めた。
まだこの世の中にサークルクラッシャーという言葉がなかった21世紀のはじめごろ
その女子大では「一橋男子にあらずんば彼氏にあらず」という風潮があったので、
女子大生は、マウンティングしたくて東大のサークルに入りました
まだそのころ、マウンティングなどという言葉はありませんでした
男子高卒が多いので女子とまともにコミュニケーションできる人は多くありません
そのくせ、お勉強ができるというだけの理由で女子はなびくと思っています
でも中がちらっと見えるゆるめの服を着て、
官僚君は遊び慣れてたな。上手でした
なのに、サークルの人間関係とかあるし絶対しゃべっちゃだめだよ恥ずかしいって言ってたのに、
よりによって夏合宿中に同級生の経済学部のバカが童貞喪失の自慢話をしたら
体の特徴とかで私のことだとバレてしまい男性同士が本当に殴り合いのけんかを始め、
付き合ってた男の子は「君がそんな子だなんて知らなかった」って言って去って行って
このことはすごく反省して、やっぱりいかにモテようとも男の子がちょろくとも、
一つのグループの中で複数の男性と付き合うと男性は壊れちゃうんだなってわかったので、
就職して男女混合のグループに入ってからも、職場では付き合う男性は一人にしなきゃねって思って
たくさんの男性にモテると自分の価値が上がったような気がするけど、
それで就職したら社内では絶対に複数の男性とは付き合うまいって心に決めて
で、就職してすぐに付き合ったのは、最初に配属された部の部長でしたw
ちょろい東大生DNAはしっかり受け継いでいて、難なく落ちました
新入社員はだいたい周りの男性からいろいろな誘いがあるようで、
私のところにもいろいろあったんだけど、
部長にその話をすると、次の人事で私に近づいてきた男性はみんな飛ばされてました
そういうことで不満を持った若手が結束して人事部に恣意的な人事を訴えて、
結局人事部にヒアリングされて5年にわたる不倫関係がばれて、部長(役員になってたけど)失脚
なんでこうなっちゃうんでしょうね
で、私はそのあと、大学の同級生の紹介で某総合商社に勤める一橋の男と結婚して、それなりに幸せな専業主婦してます
思い出したからちょっと誰にも知られないところで思い出話を書いてみました
子供の中受の手伝いに疲れちゃったのよね
ただの自慢話