はてなキーワード: 呪縛とは
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
だから大学生になってゲーム禁止の呪縛から離れて初めてPlayStationでゲームした時の読み込み時間の長さにイライラした。
車の運転はマニュアルで取ったせいでオートマのアクセルのタイムラグもムカつく、ブレーキはラグなしなので安心してる。
で、最近ポケモン始めたんですけど、技が出るのが遅いんだよなああああ。
技選んだらAボタン押下と同時に攻撃アクションして欲しい。格ゲーくらいの速さで頼む。1ポケ4技だしフィールドに出した時点で全モーションの読み込みしておけるだろ。無駄なカメラワークとかいらんのよ、うるせぇ早く先に進めろやの気持ち。
ポケモン、GB時代からかなり進んで色々と快適になったのに、ポケモン図鑑とバトルの時間のかかりっぷりの改善はされないんか?
インターネット徘徊をしていたら偶然見つけた『母という呪縛娘という牢獄』を読んだ。最初から最後まで一気に読んだのだけれど、読解力以前に母親を殺した娘が反省していることが全く理解できなかった。演出なら理解ができるけれど、本心ならよくわからない。
娘は母親に洗脳に近い教育をされた上に、暴力や進路を勝手に決められることなどまあこんなことよくできるなってことを強いられていた。この時点で娘は母親を殺しても「まあそれだけされてればそうなるだろうな」と思っていた。旅行も行っていたというけれど、母親の好きなテーマパークだし、そんなのは押し付けでは? と思ってしまった。父親は別居、学校では教員に嫌われ唯一頼れる教員は娘を諭して家に帰らせる。
いやなんでみんなこぞって娘を助けないの!? 父親は娘が中学生のときには出ていったと書いてあったけれど、自分は母親(妻)のことが無理になり逃げだしたっていうのに娘を置き去りにして見殺しにしたわけでしょ!? そこで連れていけない理由があったとしても、児相に繋げることすらできないの? 娘がひどいことをされていたって知っていたのに無視するって本当に父親なの? 唯一頼れる教員も、娘が「担任と仲が悪いから相談できない」と言っていたのに「俺が繋ぐ」とも自分で通告することもせずになあなあにして帰したって、そもそも教員として生徒を守るってこともできないの? となってしまった。
そのうえ最後には娘が「母親に申し訳ないことをした」と言っていたと書いてあって、なんだかなと思ってしまった。「父親には感謝している」ともあったけれど、見てみぬふりをして逃げ出した父親に対して、母親を殺したら何かと世話を焼き始めたから感謝するということがよくわからなかった。一度娘を見捨てた父親がその罪を滅ぼそうとしているだけにしか読み取れない。娘になにかあったとしても、母親のしていたことは異常そのものだし、周りの大人が誰も手を差し伸べないということが全くわからなかった。なんで娘にここまでした母親は無罪の「被害者」になり、母親に数十年も虐待を受けていた娘は「加害者」になるんだろうか。殺人なのでそうなるとは思うけれど、こんなのほぼほぼ正当防衛になるのでは? と思ってしまった。これはこちらの性格が悪いのか?
映画が公開されてすぐの頃には賛否両論というより否定的な意見のほうが目立っていたように思う。
しかし、映画の評判、というか興行成績が伸びるに従って映画に対しての評価が定まってしまったように感じる。
映画作品「SLAM DUNK」は成功作であると認識されるようになってしまった。
ここからが言いたいことなのだが、作品の評価と興行成績というのは必ずしもイコールではないのに、
現代の経済ファーストの社会だと、なんでもかんでも「どれだけ売れたか」が作品評価の軸になってしまうのが残念だ。
例えば宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を評価するにあたって、
も興行成績によって変わってるくる部分が大きいと思う。
そういうのは納得がいかない。
売れたからって、いい作品とは限らない、というのは皆わかっていることだけれど、
売れたか売れなかったかの評価軸から外せないというのも事実だ。
これは俺も前から「具体的に何をどうすればいいの?」って気になってた。
ブコメで日傘の件が言われてるけど、俺が日傘を差さないのは「通勤は自転車で、屋内ワークだから仕事で日傘を差す機会がない」「多少の日焼けはしていた方が格好良い」「建物と建物の間の短時間の移動でいちいち傘出すのめんど」という理由がメイン。「男が日傘を差すなんて恥ずかしい……」という理由は特にない。え? みんな恥ずかしいから必要でも日傘差してなかったの? そんなにアホだらけなの?
その「日焼けは格好良い」という価値観が「男らしさ」なんだ、ということかもしれないけど、俺が何をかっこいいと思うかについて他人から降りろと言われる筋合いはどこにもないしなぁ……好きで化粧してる女の人に向かって「女らしさから降りていいんだよ」って言ってるみたいなグロテスクさがある。もちろん化粧の強制は滅ぶべきだけど、好きで化粧する分には自由だし、他人からどうこう言われる筋合いないでしょ。それと同じだよ。
あとは、最近話題になったのだと「転勤」とか? あったよね、転勤を命じられた女性が次々に辞めるっていう増田(anond:20230807134943)。俺は正社員でい続けたいから転勤を呑むけど、それは男女関係ないよな。正社員の身分保障の手厚さを知ってしまうと、たかだか東京から離れたくない程度のことで正社員の地位を失うなんて考えられない、って思っちゃうけど、これも別に男らしさどうこうの話ではないし(もちろん「非正規の身分保障も正社員並に手厚くするよう要求する」という手法もあり、それを期待して共産党とかに入れてたんだけど、昨今の萌え絵叩きでまあ無理になりましたよね。お前の票なんか要らないよって堂々と言われてまだ入れ続けられるほどマゾヒストじゃないので……)。
過度な競争心をなくせ? いやいや、ぼーっとしてたら男女問わず優秀な奴らがどんどん業績を上げてポスト獲っていくのを見たら焦りもしますわ。後輩が素晴らしい業績上げてきたときの感情とかもうグチャグチャですよ。競争しないと生き残れない業界なので、競争せざるを得ないっす。これも男女関係ないけど、最近は採用で女性が優遇されるようになってるから(しかもお役所公認というね。アホかよ。性差別やめろ)、男の俺は女より多くの業績を上げないといけないわけで。「アファーマティヴ・アクションの一環として、業績が同等なら女の方を優先して雇う」と言われてる世界なんだから、男に生まれた以上は女以上に頑張らないといけない、というインセンティヴが生まれるよな。あたりまえ体操。
趣味は既に男らしくないしね。少年誌的なバトル漫画よりも可愛い女の子が出てきてワチャワチャする漫画を好む、というのは普通に「男らしさ」からは外れるし、キャラクターの掛け合いの妄想をネットに書き込んだりするのも男らしくないしなぁ(某掲示板では、キャラクターの掛け合いを妄想してネタにすることを「お人形遊び」と表現していたけど、すごい的確だと思う。オタクがキャラの会話を妄想するのはお人形遊びだよ)。むしろ女の人の方が熱心に少年漫画読んでる説ないですか? 知り合いの女性が『バクマン』にハマったかと思えば、別の女の人が『ハイキュー!』にハマっていて、俺より少年漫画読んでるじゃんw と思ったもん(ガルパン劇場版に通い詰めながら。要するに少年少女はプリキュアやライダーみたいな同性に憧れるけど、ヘテロセクシュアルの大人は魅力的な異性がいっぱい出てくるコンテンツを好む、ってことなんだろうね)。
パフェやケーキとか笑う。毎週どっかの喫茶店で甘いもん食ってるわ(そして毎回写真も撮ってる。はいふりカメラで)。スーパーで甘いもんよく買うわ。美味しいよねスイーツ。久しぶりに帰省したら親から「明らかにお前の横幅がデカくなっている。健康に悪いから改めろ」と言われたけど、それは男女関係ないし……。で、俺は甘いものが好きだから甘いもの食べてるけど、特に甘いもの好きじゃない、とか、喫茶店で食うくらいならスーパーで買うわ、っていう男も大勢いるわけで、彼らにわざわざ喫茶店でパフェやケーキを食べろというのもおかしな話だし……え? ひょっとして世間の女の人って「『男らしさ』の呪縛に囚われてスイーツも食えない男の人かわいそう……」って思ってるの? アホか。食わん奴は好きじゃないかカネがないか身体的な事情があるだけだよ(糖尿病予備軍とか、アスリートで体脂肪率を厳密に管理してるとかね)。
女子供を守るとか? そもそも彼女いないし、童貞だし、警察官や自衛官でもないから、必然的に守るべき女子供とかいないし……。まあそりゃ他人を助けることくらいはあるけど、これも別に男女関係ないよね。災害とか通り魔とかに遭ったら、友人やら家族やらはもちろんなるべく見捨てないようにしたいけど、他人を見捨てて我先にと逃げるのはまあ男女関係なく当然というか。避難するときの「おかし」は「おいてけ、かまうな、しかたない」の略だって義務教育で教わるよな?
モテを求めるのが男らしさとか意味わからんわ。異性愛者なんだから異性からの愛情が欲しいと思うのは当然だろ。オスもメスもあるかよ。こないだ喫茶店でケーキ食って茶飲みながら読書してたら「あー早く彼氏作りたーい」とか話してる若い女がいたぞ。一部の男女論に熱中してるジェンダーオタク以外はそういう温度感なんだよ。男に男らしさから降りろどうこう言うならまずは「早く彼氏作りたい」とか言ってるそのへんの若い女捕まえて「女らしさから降りろ」って説教してこいよ……って思ったんだけど、ラディカルなフェミニストの人たちは割とやってるなそれ。うん、男女平等でよろしい。
見た目に気を使う? 知らんわ……髪型やファッションは全部「自分にとって快適か」で決めてる。毎日シャワー浴びるのも自分がそれで快適だからだし、登山用Tシャツで職場に行くのも快適さを追求してのことです(服装規定が緩い職場でよかった)。ファッションに興味を示さないのは男らしさの証だから降りろ、とか言われてもマジでどうでもいいから困る。服装選びとか最短で済ませたいんだわ。モンベルとユニクロで全部揃うのに何軒も店回りたくねーよ。興味ないことを延々とやらされるのは普通に苦痛だよ。電車や恐竜に興味を示さないのは女らしさの証だからもっと女らしさから降りてお人形よりも電車や恐竜に興味を持て、って男が言ってまわったら狂人扱いで終わりだと思うんだけど、なんで似たようなことを女が言うのは咎められないんだろうな。
(もちろん本気でモテたいと思うなら服装の改善は当然だろうけど、大抵の服がダサい男の言うモテたいは初詣で世界平和をお願いするようなもんだから)
ともかく、抽象論で言われてもわけわかんないんで、もっと具体的で、かつ、俺がQOLを上げられるような指針をくれませんかね、って思う。「男らしさ」から降りて、それで俺のQOLが下がるならそれにはなんの意味もないんだわ。日傘とかスイーツとかそういう的外れなやつじゃなくてさ。興味ない分野に興味を持てという圧力かけるのでもなくてさ。
https://twitter.com/shihori94/status/1692458973687886303
まあ「人として無理やろ」っていうワードが余計だったよね
なんかお友達のアニメ監督みたいなやつがそれは弱さじゃなくて卑怯だとか言ってたけどhttps://twitter.com/minamiGIGA/status/1692573323639865482、卑怯の話はしてないんだからここではヤンキーに絡まれて一人だけ逃げるという行動は弱さの発露でしかないんだよね
むしろ弱いからこそ卑怯なふるまいをしてしまうと考えた方がいい。
で、結局おまえらは弱さを受け入れないんじゃんって話。別にパートナーとして選べとまでは言わんけどさ、弱くて卑怯な人間を「人として無理」とか言って排斥するんじゃんって話なんだよね
あとそもそもこのケースの最適解が「二人で頑張って逃げる」しかないのがおかしいんだよね。強い女が弱い男をリードして逃げるという答えが出てこないあたりが男らしさ、女らしさの呪縛にとらわれているんだよ
男は常に頑張りを要求されていてそこから降りることは許されないんだよね。男が女をリードして逃げた場合に関しては別に女は何も頑張っちゃいないわけだけど。
ある人間に「死にたさ」が上がってきたときに、それを打ち払う便利な思想を自分の人生経験から編み出したので、それを紹介したいと思う。
これは自分はリアルでたくさん言っているのだがなかなか言うべき機会も少なく、普及しないので増田にも書いておく。
いってみよう!
「仮に10億円あってもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
「死にたさ」が上がっているときは「そんな夢みたいな荒唐無稽な話を聞かせてくれるな」などと言い出す人が多いが、それはすなわち「それが叶うなら生きてもいい」という証である。
ほとんどの問題はこれに帰着する。金があっても死のうとする場合は衝動的なものか、金持ちの道楽のようなものである。
「もし10億円あるなら死なない」という答えになった場合、そこから「5億あったら死なないか?」「1億あったら死なないか?」「2000万あったら死なないか?」などのように逆算する。
ここでたとえば「200万あったら死なない」のような結論が出た場合、死にたさの答えは明らかである。金がないことが問題であり、その金を稼げないこと、どのようにして稼げばいいのかを知らないことが問題である。
金があるなら仕事を辞めることもできるし、一時的に1年休むだとか、転職活動をすることもできるし、広い家にも住めて生活にゆとりとハリが出て、喧嘩も減り、やりたいことにも挑戦できる。
以上によって、死にたさの問題は金に帰着した。あとは這いずり回って稼げばよい。守銭奴のように金を求めれば救われる。
生死の問題だと思っていた人に「あなたの問題は200万円の問題ですよ」と示したとき、衝撃を受けたその人の顔を見るのはなんとも痛快である。
「死にたい」という思考が出てきたとき、通常は「望んで死にたい!!!!!!!」という朗らかポジティブるんるん思考ではないはずだ。
「自分は生きることは全然余裕綽々なんだけれども、でも、自分は絶対に死ななきゃならないんだ!!!!!自分は死ぬために生まれてきたんだから!!!!!死にたい!!!!!!!!!今すぐに死にたい!!!!!!!高らかに!!!」
のような気分ではなく、たいていは「死にたい…………(絶望)」のような気分になっているものだ。
重要なことは「本当は生きたいのだけれど、なんかうまくいかなくてめちゃくちゃ苦しくてもう無理……せや!! 生きるよりも死ぬことの方がマシなのでは????」という消極的な選択をしているという事実を認識することである。
「叶うことなら、本当はハッピーにしあわせに生きていきたいのだ」という自分の心を解放すると、周りの環境から「お前はハッピーでいてはいけない」「苦しみに耐えればいつか幸せになれるよ」などと教化されて、いつしか「苦しむことこそが自分の幸せなのだ!」という信念が強固になってゆく。
冷静に考えてみると何かおかしくないだろうか。
「なぜこの俺様がこんなに我慢を強いられているのか???俺様をお前らは殺そうとしているのではないか。鞭を打てて、かつ虐げることができる生贄として、ギリギリ生かされているだけなのではないか?」などという外に向ける凶暴で凶悪な怒りが実はあるはずなのだ。
死にたいのではなく、「周りの環境からの抑圧によって殺されつつある」という自覚がただひたすらに重要である。
ただ弱い、ただ無力、ただザコなのである。弱いから死にたいという気持ちがあがってくる。無力だから虐げられる。ザコだから一方的に攻撃される。
「仮に健康的で体力があって自分が笑顔でるんるんでもまだ死にたいか?」と自らに問うてみて、直感的に出てきたその答えについて分析する手法だ。
そのような気分にはなれないかもしれない。いや、そのような気分に、なりたくないのである。
なぜならそのような気分になっていた場合、周りから不審な目を向けられるからだ。
「お前には人の心というものが無いのか」「悲しまなければならないときになぜお前は悲しんでいないのか?」「絶望すべきときに、なぜ絶望しない?」「お前は人間ではなく、化け物だ」と扱われることの甚大なる恐怖によって、お前の感情は規定されている。
さて、通常、肉体が健康的な状態になっているならば死のうという気持ちが起こることはない。
つまり死にたさがあがったとき、そのような肉体を保持していることに原因がある。これは運動・睡眠・食事などの、肉体的なもので解決する問題である。したがって頭でこねくり回しても無意味である。
つまり外に出れば良い。
また、外見によって人は態度を大幅に変える。病的な人間には人は苛烈に対応する。とてもか弱い歯向かってこないひよわな人間に、人は優しくなどしないものだ。一見味方のフリをして、本当は支配したい人間も寄ってくる。支配したいのに「あなたの味方ですよ」という顔をするからたちが悪い。
所詮、手のひらの上で転がされているだけなのだ。飛び立とうとしてみろ。奴らは足を引っ張り出す。いつまで籠の中の鳥の気分でいるつもりだ。お前はインコか。
人生は不公平なものであり、なかなか思うようにうまくいかないものだ。どんなに言葉を取り繕ったとて、自分より明らかに楽をしていい思いをしている人々が多くいる。
自分は苦しい思いをしていて、呪縛され、どうにもならない、人生とはそんなものだという無力感を持っている。
「こんなにやったのに」「こんなに頑張ったのに」「でも自分はだめな人間だ」「もうどうしようもない」という自責の念・罪悪感を持っている。
「だから自分など、苦しんだほうがよいのだ」というふうに考えているのだ。仏教的、儒教的、アジア的、日本的な価値観である。
これは苦しんでいるようでいて、実は楽をしており、快楽を得ている。「苦しめばおっけ〜!」という甘いスイーツに酔いしれているのだ。
お前は簡単に苦しんではならない。もっと、より、高度に苦しまなければならない。お前の苦しみなど苦しみではない。せいぜい最大でも1人分の苦しみだ。
より苦しめば楽になるのである。
にもかかわらず、楽になろうとすると恐怖が湧く。見えている苦しみ、どうせ人生はトータルでいうとこれぐらいの苦しみだろうという予測以上の苦しみを得ることに恐怖を感じているから、現状の苦しみで安定する。
「自分が苦しみさえすればいいんでしょ?」「自分が全部悪いんだよね」という攻撃性をうまく覆い隠して、悲劇のヒロインを演じている。男も女も変わらない。お前はシンデレラか。
より苦しむべきである。
この世に期待などするな。それでももし諦めたくないのであれば、自分がその希望になる他ない。お前が無条件に他者に愛を注げ。
お前が他者に愛を注ぐような利他で無私の心で、その一部を証明せよ。愛はお前が与えなければこの世に存在しない。
だいたい、他人も生きていて、他人もその人の人生で手一杯である。どうしてお前を救えようか。
死にたいなどと思っているうちは、お前は利己的で自己中心的でわがままなのである。死にたい人間に生を与えろ。誰かの希死念慮を打ち払え。
人の価値を金銭で考えるべきではないといううぶな考え方を抱いている人が多いが、人命は金と交換可能である。
建前上、人命は金に変えられない高価なものだとされている。もちろん、この精神自体は素晴らしいものだ。理想として、そうあるべきだ。
しかし、現実はそうなっていない。200万円が無いことで死にたさが湧いて、そして実際死んでしまうというのは、命の値段が200万円であるということだ。
金を誰かがくれるわけではない。なぜ俺が赤の他人の、しかも俺に攻撃を仕掛けてくるような精神性の持ち主に金をやらねばならないのか?
お前の人生だろう。俺の人生ではない。なぜ俺だけがお前を一方的に助けなければならない?お前だけが生きているのではない。
誰も無償で助けてはくれないのだ。お前が助けてくれとヘルプを出さなければ誰も助けることはできないし、ヘルプを出したからといって必ず助けてもらえるとは限らない。
自分で自分を助けるしかない。他人に縋るな。絶望が足りない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
世の中は不平等だ。それを改善しようとする動きもあるが、全然追いついていない。
なぜそれを待つのか。待って待って待って、待って耐えれば満足か?そんな日は来ない。だからシンデレラ思考だと言っているのだ。
優しくがんばれがんばれと言われたらそれで満足か?それがお前の人生か?そいつはお前の人生に責任など持たないぞ。
まずは自分で自分を鼓舞しろ。なぜ他人に身をまかせるのか。「どうにかしてくれ」ではない。お前がお前でどうにかしろ。
お前は死にたいのではない。生きたいのだから生きればいい。努力してもしても無理だったんだろうが、まだまだ絶対的に足りないのである。全く足りない。やってないのだ。
俺がお前のことを何もわかってないことが憎いか?殺したいか?怒りがこみあげたか?万能薬でないことに絶望したか?
逆にお前は俺の何を知ってるんだ?
クソザコに生きる術を伝えてるんだ。お前の無知の範疇で理解した気になるな。ちゃんと全部読めてんのか?眺めてるだけでは何一つとして読めんぞ。これはそういう文章だ。ありがたく精読して頂戴しろカス。
大したこと言わないよ。
大昔だ。ブラウザがNetScapeでWindows2000からXPに移行し始めたみたいな頃。
MS SQLにMS AccessをUIにしたクラサバシステム。それなりに需要があったんだ。
んで、データベースが何なのかすらわからない新卒の自分が参考書どおりに作って言われたことが
DoCmdは使うな!
最初なんで?と思ったが、確かにこれはある意味正しかったと思う。
全ての処理をVBAで組むことになるので、VBでも同じような処理を書けるようになった。
レコードセットとかカーソルとか、DoCmd使っていたら理解できなかっただろう。
後々ASP(.netじゃないほう)での開発やら、OracleDBの…なんだっけ?oo4oか、とかの操作がイケたのもそのおかげだろう。
その後の勉強不足で、VBの呪縛から抜けられないまま現状に至るわけだが。
なのでもし、仮に、万万が一Accessで恒久的に使うかもしれない何かを作ることを迫られたら断れ!
俳優兼インフルエンサー、技術者、消防士、スタントマン、トラック運転手、
様々な業種の人が猫とのふれあいで癒され、生きる糧と語られている。
猫の愛らしさにほのぼのしていると、冒頭のインタビューで「猫を飼う男性は変わっていると思われがちだ」と語られまず驚く。
その後も「友だちに猫を飼おうと思うんだ」と相談すると「ありえない!」と言われ
「猫が好きっていうことも、人に話すことはなかった」と語る人、
あるカップルは猫好きが高じてパートナーになったが女性が語ったのは
「猫が好きで一緒でもいいという男性を見つけるのは難しい」ということだった。
この映画は猫を飼い始めてから夫が猫を愛し、より柔らかく、思いやりのある人に変わったのをみて
同じようにポジティブな変化をした人の記録を残したいというところから始まったそうな。
猫は犬のように懐かない、という固定観念から猫の多様性を知り、
弱音を吐いては「男らしくない」という呪縛から解かれた人たちのストーリーだった。
というカルチャーショックを感じつつも、観ている方も猫に癒される良い映画だった。
映画の軸になっている路上生活者デヴィッドとラッキーという猫が波乱万丈で
彼の支援者から、こういう人が居ると連絡があったが既に撮影に入っており迷っていたが
映画では2022年までの情報しか得られず、その後がどうなっているのか気になる形で終わっているのだけど
監督は度々連絡を取っているらしく、2週間前に連絡した今も元気でやっているということもきけました。
良かった。
直接聞けて面白かった話がもう一つ。
ゴロゴロ音に並々ならぬこだわりを感じる……と思っていたら、録音・編集担当もした監督の夫が
「撮影中はやっぱり難しかったので、うちの猫のゴロゴロを録って編集をね、しました」って
流暢な日本語で話してて笑ってしまった。その話して大丈夫なのか?と思っていたが
些細な感想でもRTしていた公式アカウントが、この内容を含めた感想ツイートには
いいねだけしていたので、やっぱりあんまり言っちゃいけない事だったのかもしれない。
それにしても、「猫が好き」も言えないレベルだったとはなあ。
私はアメリカ在住のハーフなのだが、この前書いた日記を書いた時に「日本人的な感覚がある自覚があるなら日本に行きゃあ良いじゃないか」と指摘されたり、ついでに「弱者男性だな」とか言われたりしたので、自分なりに何故そんな奴が日本に行かないのか書いてみる。
ただ、結構色々な気持ちが混ざり合った故の結論なので、かなり自分語りをさせてもらう。
まず、私は大学に入るまで家庭的に日本に行ける様な環境ではなくて、それが変わった大学入学当時はアメリカ社会に馴染めず結構病んでて自分は英語のコミュ力がないと勝手に思い込んでいた。
今思うと、周りに日本人がいない状態でアメリカのテレビやゲームに全く興味を示さずにただひたすら日本のメディアを堪能していたわけだから、他人と趣味が全く被らずこうなるのは必然だった気もするが、当時は日本ツイッターのオタク文化に感化されて自分の好きなものに正直に向き合うのが正義というメンタリティーだったのである。
このオタクの方向性が深夜アニメとかだったらまだWeeb(日本かぶれ)と話が合うのに、私の場合は藤子不二雄とか主に任天堂系のレトロゲームという日本でも同世代じゃ結構珍しい趣味をしていたので、この方向に突き進めば突き進むほどアメリカ人と何の話をすればいいか分からなくなっていった。
別に趣味が合わなくても話術で話を合わせる事は全然可能なのに、当時の自分はそれがわかっておらず、勝手に遠慮して勝手に世間から孤立していた。
高校時代の私の陰キャっぷりの凄い簡単な例をあげると、ある時ウメ星デンカの文庫版(おすすめです)を授業の自由時間に読んでいたら、向かいの女子に
「それなんの漫画なの?」と聞かれ、私はこんな英訳もされてないクソマイナーな漫画をどう紹介すればいいんだとテンパり、あと読むの邪魔すんなって感じで
ちょっと不機嫌気味に「50年前の漫画だ」と言ってそこで会話が終わった(笑)。我ながらこんな奴と絡んでしまった彼女が気の毒である。
今なら「これは凄い昔の漫画なんだけど、今読んでも結構面白いんだ。君も漫画とか読むの?」という感じで、上手くはなくても最低限のコミュ力と礼儀は取れるが(まず前提として公の場でウメ星デンカなんて読まないが)、この当時の私は本当に自分から周りを突き放すダメダメな奴だったのである。
そんな感じで生活していると当たり前だが友達もあまりできず、自分は既存の日系人の友人数人としか自然に話せないコミュ障なのだと思っていた。
そして、その少ない友人等を失うのが怖くてどこか遠い場所に行く留学に対する勇気も夢も抱けず、実家から車で20分程の距離にある州大へ入学した。
こんな感じの入学経緯だったので、学業自体は真面目にはやっていたが、コロナ禍もあり大学デビューのチャンスもなく、ただ無気力に生活していた。
が、去年の春にコロナ禍授業が終わり、冬に日系人サークルが自分の大学にできて私の大学生活は大きく変わった。
このサークルの人とあっという間に仲良くなれた事で自分は日本語ならマジで誰とでも喋れるって事がわかり、そこから皆と頻繁に飲みに行ったり、春休みに男女グループで旅行したりと普通の大学生に少し近づけた。
後に、出会った時はそういう目で見てなかった女子に気づいたら初恋を抱いたりしていて、最終的には(告白したら本人如く半年後に日本に引っ越すという理由で)振られたけども一緒にデートも何回か行ったりした事で無気力が結構改善されて、人生もっと頑張ってみようとか思えた。
大した事ないかも知れないが、この学期の前学期に「おお、俺女子と普通に喋れてるよ」と思ってたレベルのヤバイ奴だったので、そう考えるとこれでも大躍進なのである。
それ以外にもちょくちょく日本に行っては普通にリアルな日本人とかと知り合って楽しんだりしているので、今の自分なら日本に留学したり一人暮らしする勇気は全然あるしその方が楽しい気もすると思うんだけど、決定的に今の自分に日本はまだ早いと思える出来事があった。
それは、この前彼女を含んだ大きなグループで英語を話すことになって、その時に全く参加できないのはカッコ悪いなって理由で自然と話す勇気が出て、その時に自分は英語ができないという思い込みの呪縛から抜けられたのだ。
そして、その時に私はこのまま日本に行ったらそれは英語ができないダメな奴のままな自分から逃げる事になると解釈し、ここで終わっては勿体無いと思えたのだ。
こういう理由から今の私は日本には行かずに、呪縛も解けたしで、アメリカでもう少し頑張ってみようって感じなのである。オール英語のバイトでも周りとカジュアル面である程度馴染めているし、大学は今夏休みなので何もないが、過去の自分にはできなかった、「大学が楽しみ」という感情まである。
それに、留学するなら日本という慣れている所ではなく、中国とか韓国とかに行って語学留学した方が辛かろうがよっぽどタメになりそうだ。
最近の趣味は語学勉強と読書で、過去の趣味はまだ普通に好きだが実質卒業したと言っていいくらい触れてない。
そして、これはあくまでも個人なりの解釈だが、私はもうオタクではない。
本当のオタクは趣味の分野が取り上げられたり禁止になったら死ぬ程抵抗するという認識だが、私は必要ならば趣味を切り捨てられる。
娯楽は自分のアイデンティティ自体では無いし、それよりも私の心を動かすものがある事を知れたからだ。
最後に、世間一般から見れば私は所謂弱者男性に該当するのだろうが、私としてはだったら強くなれば良いという考え方だし(そもそも今の私は強者とはいかずとも自分を弱者だとは思っていない)、無気力ながらこれまで真面目にやってきたおかげで積み上げる為の土台はしっかりしている。それに、世間からそう思われているからという考えを言い訳にして行動を躊躇していたら何もできない。
初期のTwitterは収益化なんて到底無理なサービスで人気を博した。
そりゃそうだ。余計な広告を挟まず、基本的には知り合いと交流しつつそれ以外の広い世界とも自分の意思で関われる。素晴らしいサービスだった。
投資家の投じた金を食い潰しながらここまで生き残ったのは奇跡と言えるほどのサービスだ。
でも規模拡大するにつれ収益化出来ないことが呪縛になっていった。
最終的にはユーザーの反発を受けながら広告を捻じ込んだりしたものの根本的な解決には至らないまま、迂闊に手を出したイーロンマスクに全ての責任を押しつけて旧経営陣は逃亡した。
そりゃそうだ。このままどれだけ頑張っても真っ当に収益化出来る目処なんか立たないんだから。
しかしながら、一度初期のTwitterを味わった人達はその甘美さを忘れられない。
イーロンマスクにTwitterがグチャグチャにされても、模倣サービスがいくら立ち上がっても、「あの頃の甘美なTwitter界隈」を求めて愚痴を吐き続けるし、漸減するTwitter界隈にとどまり続けるだろう。
そして、彼らの吐く愚痴に汚染されて模倣サービスは悉く腐っていくだろう。
今後のショートテキストSNS業界の展望としては、規模の小さなTwitterフォロワーが乱立する中、Twitter改めXが腐りながら最大規模を維持し続け、業界全体としては萎んでいくんじゃないかと思う。
某社会学者が「男らしさから降りろ」「男らしさの呪縛から自由に」という「正論」をぶっていてまた嫌な気分になった。はっきり言って腹が立った。
あのね、「男らしさ」って別に俺たちの中にあるんじゃないんだよ。社会や世間の中にあるんだよ。決して自分で自分を縛っているじゃなくて、世間が縛ってくるんだよ。社会学者も「ジェンダー」という言葉でそういう話をしていたんじゃないの?
たとえば「30代非正規」という場合、女性と男性で受ける印象は大きく違う。全然違わない、と言っているやつは嘘だからね。男性の場合、その人に侮蔑感が湧き起こってくるのは、日本社会で生きている場合は当たり前のこと。たとえば企業で採用する側だった場合、同じ35歳でそれまで非正規の仕事しか経験のないという人が来たとして、女性の場合は特になんとも思われないけど、男性の場合は「この年まで何やってたんだ?絶対やばいやつだろ」ってなるでしょ。
「男らしさから降りろ」ではなく、「私たち」(もちろん男女関係なく)が男性に「男らしさ」を要求するのをやめようとか、中年男性が無職や非正規だと知った場合に無自覚に見下さないように気をつけよう、という話をするならわかる。しかし「男らしさから降りろ」は精神論と自己責任論による説教でしかない。社会学者は説教する前に分析してくれよ。
数学の定理って多分数学者が驚きまくっている間に確定していくと思いますがっていうかそうでないのもあるかもしれませんが、谷水が指摘するようにクソ過ぎて理解できないので、
仮にクソでも理解できないと思いますが。確かにそれがどのようなクソかといったときにおよそ日本人が従うとは思えないようなクソだと思いますが、クソでもクソでなくても理解できないのではないか。
私は犯罪について、脅迫罪、偽計業務妨害、軽犯罪、窃盗で捕まったことがありますが、いずれの行為も、結局は、エレガントにクソなことをすると該当していた。
そして日本国民はそのタテマエというクソの呪縛から逃げられない。安倍寛はそれを、社会にはルールがある、といってそのルールのことを言っているがそのルールは判例などをみると要するに完成
している。
リトルマーメイドは人魚が女だから受け入れられたんだ!ポリコレというなら歌が上手くて天然で世間知らずの半裸の人魚王子と人間の王女のラブストーリーを描いてみろ!
……って言ってる人を見掛けたけれど、
でも、そういうのって寧ろ日本のコンテンツではとっくにやってる気がするんだよなあ
例えば「きみはペット」とか、女性の方がしっかりしてて男性の方が可愛げある役割だったし
女性向けの恋愛ものコンテンツだと社会的地位はないけど可愛げがあって癒されるイケメンってそんなに珍しくないと思う
人魚姫をそのまま性別逆転したラブストーリーって、日本でだったら普通に出てくるし多分受け入れられると思う
鳥羽さんならともかく広末さんの仕事まで奪われるのは、日本社会特有の「母だから」という呪縛があるからだとしか思えない。
キャンドルさんの会見にほだされた人はよく考えて。
ドイツでは子どもの片親が違うのも普通だし、子どもの父親が全員違う女優さんだって受け入れられてるよ。
誰も可哀想だなんて言わない。
父親はみんな近くに住んでいるというから、徒歩距離内で顔を合わせることだってあるかもしれない。
でも、それが当たり前のこと。
たとえばドイツで人気のテレビドラマに数多くの出演歴のある女優ムリエル・バウマイスター(Muriel Baumeister)さんには3人の子供がいて、全員父親が違いますが、同氏は「子供たちの父親は3人とも育児を積極的にしている。手伝うだけではなく本当の意味で子育ての役に立っている。3人と良い関係が築けていることを幸せに思う」と語っています。
彼女は子供たちの父親と同居していませんが、子供たちがいつでも父親に会えるように全員が近場に住むようにしているといいます。子供たちの父親は全員ドイツの芸能関係者ですが、ドイツのメディアはそのことを特に批判的に取り上げてはいません。世間から「子供がかわいそう」という声も聞こえてきません。
一方で、表面だけ見て批判してくれるなよとも思うのよね
それに伴う社会の価値観の転換とハイティーン〜就活の時期がかち合ってしまったんだよな
氷河期世代の親って団塊世代でバブル初期の上昇気流の影響モロに受けてるからさ
俺らはその価値観の中で育ったわけ
「男は受験勉強死ぬ気で頑張れ、そして大企業に入れれば終身雇用で一生安泰」
「そのうちお嫁さん貰って家事育児はやってもらって、より一層仕事に注力してお金を稼ぎましょう」
簡単に言うと「上手にレールに乗れよ、脇道にそれるなよ」って強く言われて育ったのが俺たちの多数派
それで社会に出る直前まで育ってきたのに、
社会が急に「レールに頼るな、自分の頭で考えて自分の足で歩け」
って言い出すわけ
道はぬかるんでて水たまりだと思ったら底なし沼だったりするんだけど、俺たちはその見分け方を習ってない
一度足を踏み外して沈んだら一生沼の底でもがかなきゃいけなくて、そうなったらそれは自己責任だという
誤解を恐れずに言うと、俺たちは心の準備ができてなかったわけ
「ウソだろ…」ってポカーンとしたままトコロテン方式で背中を押されて沼地に放り出されたわけ
でも大多数が幼少期からの教育の呪縛を逃れて現実を見られるようになったのは、
俺らの学生時代なんてmixiが一般公開するかどうかって時期だからな
人生設計を考えるなら上の世代を参考にするしかなかったのだが、それが突然何の参考にもならなくなったわけ
だからやっぱり嫌いだわ
沼の底を覗き込んで虫けらが勝手にもがいてるみたいに嘲笑ったり
お前らみたいなやつらのことは