はてなキーワード: するめとは
まず「特殊相対性理論」からやけど、これは光の速さがどんな状況でも変わらんってことが基本やねん。
たとえば、電車が走っとる中で懐中電灯を前に向けて光らしても、外でじっとしてる人が見た光の速さも同じやねん。
でも光の速さだけは、どんなに速く動いても変わらんのや。
ほんで、この理論やと「時間」や「空間」も相対的に変わるっちゅうことになる。
速く動くほど時間が遅くなるんや。これを「時間の遅れ」っていうねん。
例えて言うたら、宇宙船でめっちゃ速く移動してる人は、地球におる人に比べてゆっくり年を取る、みたいな感じや。
次に「一般相対性理論」やけど、こっちは重力が関わってくるねん。
簡単に言うたら、重いもんが空間をぐにゃっと曲げるっちゅうことや。
たとえば、地球みたいなでっかいもんがあると、その周りの空間が曲がって、そこに他のもんが引っ張られるから「重力」が生まれるんや。
まあ、ざっくり言うたらこんな感じやけど、ほんまはもっと複雑なんやで。
(もう少し詳しく教えてください)
ほな、もうちょっと深くいこか。
まず、「特殊相対性理論」についてやけど、これを理解するには「光の速さが一定」っちゅうのがどんだけすごいことか、ちゃんとわかっとかなあかん。
普通の物体は、速く動けば動くほど、その速さは他のもんに足されるやろ?
例えば、車が時速50キロで走っとって、その車の上からボールを前に時速20キロで投げたら、ボールは時速70キロで進むことになる。
せやけど、光は違うんや。どんな状況でも、どんなに速く動いとっても、光の速さは毎回秒速約30万キロメートルで一定やねん。
ほんなら、何が変わるんや?って話やけど、答えは「時間」と「空間」や。
速く動けば動くほど、時間は遅く流れるし、移動してる方向の長さは縮んでしまう。
具体的な例を出すと、もし君が光の速さにめっちゃ近いスピードで宇宙船に乗って1年旅したとしようや。
地球におる人らからしたら、その1年が例えば10年にも20年にも感じられるかもしれん。
つまり、君は歳をとらんけど、地球では時間がめっちゃ進んどるわけや。これが「時間の遅れ」や。
ほんで、次は「一般相対性理論」やけど、これはもうちょっと難しい話やねん。
特殊相対性理論は光とかスピードに注目してたけど、こっちは「重力」に焦点を当てとるんや。
重力っちゅうのは、普通に考えたら物体が引っ張り合う力やと思うやろ?でもアインシュタインはそれを「空間と時間が曲がるせい」やって言うたんや。
地球みたいな大きな質量を持っとるもんは、その周りの空間をぐにゃっと曲げるんや。これを「時空の歪み」っちゅうねん。
で、その歪んだ空間に沿って、他の物体が動くことで、まるで引っ張られてるように見えるっちゅうわけや。これが「重力」の正体や。
ゴムシートの上に重いボールを置いたら、シートがへこんで周りにくぼみができるやろ?そのくぼみに他の小さいボールを置くと、転がって重いボールに引き寄せられる。これが重力のイメージや。
太陽とか地球みたいなでっかいもんが周りの時空をへこませて、そこに他の天体が引っ張られるわけやな。
重力が強い場所ほど時間はゆっくり流れる、これを「重力による時間の遅れ」っちゅうねん。
例えば、地球の表面におる人と宇宙の遠くにおる人では、地球の表面のほうが重力が強いから、時間がわずかに遅く流れるんや。
これらの理論がなんで重要かっちゅうと、GPSとか人工衛星みたいなもんは、めっちゃ速いスピードで地球の周りを回っとるやろ?
そのために時間が遅くなってるし、地球の重力も影響を与えとるんや。
せやから、相対性理論を使ってそのズレを計算して補正せんと、正確な位置情報は得られへんねん。
ほんなわけで、相対性理論っちゅうのは、宇宙全体の「時間」や「空間」、そして「重力」がどう動くかを説明するめっちゃすごい理論なんや。
(では最後に、相対性理論と超ひも理論の関係を教えてください)
まず、相対性理論っていうのは、さっきも話した通り、重力を扱う理論やね。
特に「一般相対性理論」やと、重いもんが時空を曲げることで重力が発生する、っちゅうふうに説明しとるわけやな。
これは大きなスケール、例えば星とか銀河、宇宙全体を説明するのにめっちゃ強力な理論や。
けどな、宇宙には重力だけやなくて、他にも4つの基本的な力があんねん。
重力に加えて、電磁気力、強い核力、弱い核力っちゅうもんがあるんや。
相対性理論は重力には強いんやけど、他の力、特に小さいスケールの話になってくると話がちゃうねん。
原子とか素粒子みたいなめっちゃ小さいもんを扱うのは量子力学っちゅう別の理論が必要になる。
ここが問題なんや。相対性理論と量子力学っちゅうのは、どっちもめっちゃ成功してる理論やけど、整合性が取れへんねん。
大きいスケールやと相対性理論、小さいスケールやと量子力学、って分かれとるわけや。
でも宇宙全体を一つの理論で説明したいなら、両方をつなげる必要がある。
これを統一理論とか万物の理論っちゅうんやけど、これがまだうまくいってへんねん。
そこで出てくるんが超ひも理論や。
超ひも理論っていうのは、宇宙にある全ての物質や力が、ひも状のものからできてるっちゅう考え方やねん。
普通、素粒子は点みたいなもんやと思われとるやろ?でも超ひも理論では、実はそれがめっちゃ小さい「ひも」やっていうんや。
このひもが振動することで、違う性質の粒子になったり、力を生み出したりするっちゅう考え方や。
なんでこれがすごいんかっていうと、この理論は重力と量子力学を一緒に扱えるんや!
つまり、相対性理論で扱ってた重力も、量子力学で扱ってる小さいスケールの現象も、ひもの振動っていう一つの仕組みで説明できるようになるかもしれんって話や。
相対性理論と量子力学の一番の問題は、重力を量子化できひんってことや。
量子力学は確率的な世界やけど、相対性理論は連続した空間を扱う理論やから、この2つが衝突してしまうんや。
特に問題になるんが、ブラックホールとかビッグバンみたいなめっちゃ極端な状況や。
そこでは重力もめっちゃ強くなるし、量子効果も無視できへん。せやけど、これらを同時に説明できる理論がまだないんや。
そこで超ひも理論が登場するんやけど、ひもがめっちゃ小さいスケールでは、重力の量子化も可能になるっちゅうわけや。
つまり、相対性理論が扱ってる「大きなスケールでの重力」と、量子力学が扱う「めっちゃ小さいスケールの力」を同時に説明できるっちゅうことや。
ただしやな、超ひも理論はまだ理論段階で、実験で直接確認されたわけやないんや。
それに、超ひも理論が正しいと仮定すると、宇宙には我々が感じ取れん11次元も存在するっちゅう話になる。
今のところ、わしらが日常的に感じるのは3次元の空間と1次元の時間だけやけど、残りの次元はめっちゃ小さく「巻き込まれて」るから見えへんらしい。これが正しいかどうかもまだわからんのや。
まとめると
•相対性理論は重力を説明する強力な理論やけど、量子の世界では問題がある。
•超ひも理論は、相対性理論と量子力学を一つの理論でまとめようとするもんで、ひもの振動で全てを説明できるかもしれん。
•ただ、超ひも理論はまだ理論の段階で、実験的には確かめられてへんし、11次元の宇宙とか、ちょっと奇抜な要素も含まれとる。
超ひも理論がほんまに正しいんかどうか、まだまだ謎が多いねんけど、もし解けたら宇宙の全てが一つの理論で説明できるようになるかもしれんって、めっちゃ壮大な話やな!
BMI18を下回ると鬱っぽくなったり体力が衰えたり生活に支障がでるらしいと聞く。
自分は生まれてこの方ずーっと記憶にある限りBMI18未満。ここ数年は17未満を維持している。
別にダイエットしてるとかではないんだが、食欲よりめんどくささが勝つタイプなので普通に生活してるとこんな感じになる。食べること自体は嫌いじゃないんだけどいかんせん食べ物を用意するめんどくささと食べ物にお金を使う抵抗感に勝てない。なので、BMI18以上の時代という比較対象がなく、自分が今生活に支障が出ているのかよくわからない。
というわけで、このお盆休みを使って太ってみることにした。毎日ステーキ、うなぎ、寿司、ポテチ、ケーキなどなど、おいしそうなものをめんどくさがらずおなかいっぱい食べてみた。
結果、一度は体重が増えたものの、一昨日あたりから胃が重く、ついに本日はお粥しか食べられなかった。体重は一瞬で逆戻りした。うーん…。これならまだ普段のほうが健康に動けてるぞ…。
銀髪イケメンチュパカブラに恋する運動万能女子高生のボーイミーツガールの0話
「お隠れした人間を詮索するのはやめなさい」
人がお隠れすると、人ならざるものになるという
でも、久しぶりに会ったお姉ちゃんが、なんか変…?
昔のボードゲーム人気ボードゲーム「大将軍するめ」の話題をふる少女
誘ったのは大浴場、そこで少女は寝湯と断頭台を合わせたような場所にうつ伏せになる
という夢を見た
なかなか設定が奥深そうで面白かったが続きは見れなそう
他の要素をできるだけ書くと
チュパカブラっつーか蚊にお隠れしてた
「そのキスの仕方やめてほしい」(チュパカブラの長い舌で舌だけを吸うキス)
あと蚊がいっぱいいる湿地帯で超人テニスワールドカップとかもあったけど、その辺の話の筋は分からなかったので断念
お姉さんは元々嫌なやつ、ほんでお隠れする前の銀髪イケメンチュパカブラに憧れてた
でも久々にあったら雰囲気がだいぶ違ってたんだよな
よく覚えてないけど女子高生はあるラッパーにそのことを詳しく聞くってところで話は切れた
供養
元気だった頃は人間関係の揉め事を対処したり悩み相談に深夜まで付き合ったりしてた。
上部からの仕事の依頼もおかしい所があれば抗議したり直せるところは許可を貰って修正したりしていた。残業もやった。会社の為にとあれこれやったり提案してもみた。
でもそれらをやっても給料は上がらないし評価も反抗するめんどくせー女みたいな感じばかりだった。同じ仕事を男性がやると褒められるのに女がやると貶されるのワケワカンネ。まあ時代ですね。
しゃーねーので上司の言うことハイハイ聞いて給料レベルの働きしかしなくなった。人間関係も悩み相談もメンディから自分らで対処してねにした。
以前よりギスってるけど正直なところ馴れ馴れしい前の雰囲気より仕事しやすい。定時で帰れるし業績は変わらないので給料も減ることはない。
若者からはあのBBAぐうたらしてんなクソがって思われてるだろうけどそれでいいやって気持ちをやっと持つことが出来た。前は気にしてたから些細な雑用かってでたりしたけどそれもやめた。給料上がらないし。体力も減ってるし。何より媚び売ってもキモいし。
勤務20年で昭和のドラマで見かけるやる気ねーBBAお局になってんなーと思う。あれはなるべくしてなる存在なのかもしれない。
お陰様でキラキラ輝く主人公にはなれなかったので隅でせんべい食ってるモブキャラ頑張ろうと思います。まあこれも悪くないよ。きっと。
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
土日を境に返事無視 → 数十回
マッチングアプリにおいてはそれ以上返信しない、ブロックするのがお断りの意思表示。これは男女ともにそう
そういう文化なので不誠実だなんだと憤ってもしょうがない。スワイプ一つでマッチングが成立する気軽さとのトレードオフだと思え
会う約束を取り付けた後に候補日を挙げた瞬間放置→「やっぱり怖いのでキャンセル/電話からでお願いします!」からのその後無視 → 2回
「行きましょう」→「いいですね!」の時点ではまだ会う約束は成立したとは言わないぞ
ただの相槌だと思え
会って数日後に「お付き合いする人ができたのでもう会えません」 → 2回
ちゃんと断りをくれる時点でマッチングアプリでは奇跡的な誠実でいい相手だぞ
これはちょっとかわいそう
なんとなくOKしたけどダメな日を提示されて予定を詰めるやり取りをするめんどくささを思ってやっぱナシでってブロックしたんだろう
まあしゃーない