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はてなキーワード: 集団的とは

2020-06-01

HPVワクチン推進について思うこと

HPVワクチンの話では

報道されてる人たち全員が“ワクチンの”重い副作用が起こってるのではない。

HPVワクチン副作用だと言われてる人たち全員が本当にHPVワクチン副作用を患ってるわけではない

は言えても

HPVワクチン副作用が起こった人数は地球ゼロ人です

とは言えないはずだと私は考えている。

極限的に考えて、副作用が出てない集団と比べてほとんど0%の割合だとしてもそれは、統計的マクロ視点の話であって、個々人に視点を当てたミクロ視点の話ではない。つまり副作用ゼロ人ということとは結びつかない。

科学的に証明されてることというのは、

HPVワクチン副作用が起こった人数は地球ゼロ人という個を指したものではなくて、母集団から統計して、副作用はそれほど起こっていないはず

ということであると考える。

科学証明されなかったらその時点ではなかったこととするという体制をとっている。アイデア無限にそこらへんに転がってるからだ。於保方さん事件がわかりやすいが、発明の案を出した人ではなく、発明証明までできた人が評価される仕組みを現代科学界ではとっている。

まり、今科学証明されていることというのは、「HPVワクチン特有副作用がある」ことが証明できなかったという事実から副作用は(ほとんど)ないはず」という事実を導いたことであって、「副作用がなかった」証明をしたわけではない。背理法的な導き方だ。

言葉の揚げ足取るようで悪いが「HPVワクチン副作用が起こることはない」とまで完全に言い切ってしまっているのは非科学であると思う。

科学を盾にしてるのだから、様々な背景や前提を取っ払って必要な修飾まで捨てた文章を使わないで欲しい。とてもデリケート話題であるということを胸に刻んで言葉の端々まで気を使っていただきたい。

あと、副作用証明というのはわかりやすバイオマーカーがあるわけではなく、患者ワクチンを打った前後の状況(社会的背景も含めて)、ワクチンを打った時の反応などを総合的に加味して診断されているものであり、副作用と診断する体系的な指針があったとしてもかなり不確かさを含んでしまものであると言えよう。

100%それが正しいなんて言える段階まで医学進歩していないと思う。

ここまで何が言いたいのかというと、

マクロ視点的にHPVワクチンほとんどないと科学的に締められたのは間違ってるとは言えないだろう

・ただ、それはマクロな話であって、ミクロゼロ人だと言ってるわけではないか病院に行った全員が副作用被害者可能性はないとしても、目の前の患者個人100%副作用がないとまで断言できるものではないはずだ。

100%副作用がないと断言できない、つまり100%副作用があるとは誰も一患者に対して断言できないということは、万一副作用が(本当に)起こってしまっている人は極めて不利な立場に立たされてしまうのだけど、このことを認識してない推進派が多いと感じる。

まり、本当に副作用を受けた人は完全ゼロとは言えないはずなのに、副作用集団的にほとんどないという方針が打ち出されると、副作用を受けた人が副作用被害だと認定されて補償される可能性はゼロに近くなる。

そもそも、その方針が打ち出されなかったとしても補償を受けられるほどの証拠証明するのが難しいが、逆に証明を求めている側も補償が受けられない証明をしているわけではなく背理法的に導いているだけだ。

からワクチン補償ってかなり不確定だし、制度として現行あっても信用できるものじゃない。だから安心して受けられるっていうものじゃない。

もし、HPVワクチン接種を推し進めるなら、この完全に片側が不利な状況をきちんと把握した上で、自身の行動がマイノリティ無視しているがマジョリティにとっては利益になるものだという現実をきちんと認識して、活動してほしいと思う。

わたしは、この非対称性についてはどうしようもないと思っており、ただどうしようもないからといってそれを完全に無視されるのには怒りを覚える。

どうしようもないけど、統計的にはこっちの方が多くの人を救えるからということでワクチン摂取推し進めるのに反対はしないが、そのどうしようもなさと向き合おうとせず認識すらしないのはどうかと思う。(もしかして認識しながら公共の福祉のために黙ってる?それはある意味肝座ってるわ…)

被害者一言どうしようもないだけでは終わらせられないか自分たちのことを主張するのは当然だ。

わたしは思うのだが、HPVワクチン副作用だと言われてる人たちが副作用が原因でないというなら、その本当の原因をつきとめ症状を治してあげたら良いと思う。

その症状が、副作用副作用じゃないかに関わらず治療は適切にされるべきだ。ただ、これを適切にできる医者は、ほとんどいないだろう。これも副作用被害者が大きく声をあげる一因になっていると思う。

こういった人たちをきちんと救う方向へはま動かず、ワクチン推進を推し進めてたら副作用被害者(だと思っている)の人たちはそりゃ反対する。ガン無視と同じだものね。副作用被害ないっていうなら困ってる人たちが副作用被害でないならないなりに治療を受けられるような活動も並行しないと正直都合いいなと思う。

副作用被害者の一部の集団に新種の自己免疫疾患かもしれない結果が出ている。

まだまだ、医学進歩途中であり、すべてがわかっているわけではないはずだ。それをきちんと認識してほしい。(だからもちろんこの新種の自己免疫副作用由来かどうかも本当に体に悪影響を及ぼしてるかもなにもかもまだ断言できるものではないという前提である)

過去有名な自己免疫疾患である多発性硬化症や今は認められているその他の病気ヒステリー扱いされていた歴史があったことなどを踏まえて、今一度自分の行動を振り返ってほしい。

自分のわからないことを患者が悪いとしてなすりつけるのではなく、己の限界認識し、わからないことはわからないときちんと言ってほしい。

自分のわからないことを心因性などとさも原因が分かったように言うのではなく、現在自分のところでできる検査では原因が見つかりませんでしたとただ起こった事実だけを言えばいい。

科学基準と照らし合わせて患者心因性って診断つけてる人っているの?原因が見つからなかった→心因性っていう自分世界の全てをわかってます的飛躍的論理医者それなりにいない??

科学を盾にするのはいいが、盾にするならするなりに論理を通してください。大事な前提や修飾を省いたバズりやす文章で人を惹きつけるようなことはしないでください。









あとこれは個人的な意見だけどワクチンって体質的ワクチン無理な人除いて全員に受けさせることによって集団を守るってものだと思うから個人選択責任をそこにそんなに問わず、起こったリスクコストのうちだと精算できるくらいの仕組みでいてほしいと思います個人個人治療選択に関しては患者に多少の責任があっても、できるだけ多くの人が打った方が効果が出て更に進学や渡航の際に聞かれる類のもの個人責じゃないっしょー

医薬品のPL適用範囲難しいと思うけど

2020-05-28

anond:20200528111442

男全員に女を宛がうのが目的の男の為のシステムであり、かつ遺伝多様性を保つためのシステムでもあると思う

女全員が一握りの優秀なイケメンに集中して子作りすると多様性が失われて偏った集団になり、集団的な環境の変化への対応力が失われる可能性がある

女には特に利益がないというのはまあ同意

2020-04-25

集団的無意識に殺されるっていうのはゲームネタだが

コロナに殺されるのかもな。

俺が死んだらコロナのせいってことにしといてくれ

集団的無意識に殺されるっていうのはゲームネタだが

コロナに殺されるのかもな。

俺が死んだらコロナのせいってことにしといてくれ

2020-04-20

劇場からコロナウイルス感染者は出ませんでした を読んで

第一声がそんなことはないだった。

3月上旬、いや中旬までの誰がどこでどんなルートで執念深く終えた時期ならばともかく今このような状況でできているとも思えない。

タクシー運転手屋形船で……そんな道筋を執念深く追っている状況ではなくなったからだ。

正直なところ劇場から感染者が出ていないと私は思えない。出ているかもしれない。出ていてもおかしくない。もはや誰にもわからないのではないかと思う。

検査キットが足りない、保健所電話がつながらない、そんなニュースを見る中で劇場での感染者は報告されていません。これは断言していい事なのだろうか。

毎日流れてくる情報には今や人数しかない。今日は何人。50人で多いと思っていた日から、もう3桁が当たり前になってしまった。男女比も年齢層も感染ルートも明記されていない。クラスターと呼ばれる集団的感染があると、特集の様に報道される。このクラスター劇場で発生したというニュースは確かに見ていない。ただ、それだけだ。

正直なところ、この後に及んで感染した人の行動経路の中に劇場が含まれてた人が0なはずがないと思ってしまう。が、そこで感染したとしても劇場だと断言する術はない。

ニュースでは専門家っぽい人が結果から逆算した推論を話す。あの時こうしていれば、この対策をしたおかげで、これは結果論だ。そしてあの記事結果論のまとめだと思う。

その上でわたし3月は全公演中止でもよかったのではないか結果論綴りたい。

劇場側は対策をした、しかし1番の安全策は公演を行わない事、である

密を避ける。ソーシャルディスタンス。そんなことを守るにはそもそも劇場を開けなければいいと思ってしまう。

舞台が好きだ。エンターテイメントが好きだ。だからこそ、保守的に走ってもよかったと思ってしまう。

楽しみにしていた舞台があった。チケット代は既に支払っており、遠征に備え宿だけは抑えていた。足は詳しい予定が決まってから、まだ用意はしていなかった。そしてその舞台は幕が開かなかった。

まず最初初日とされていた日が延期になった。初日チケットは抑えていて、シフト有給を取っていた。突然何もない休みとなってしま友達ご飯を食べに行って残念だと話し込んだ。そして次の初日になりそうな日のチケットを慌てて探し、宿も取り直した。職場で新たな初日となった日に有給申請した。この時、職場では全員マスクをしていて、遠征中気をつけてと何度も言われた。

そして、また公演延期が伸びた。慌てて有給を次の初日になる日に伸ばした。別のもう一つ行きたかった舞台と被りそうで、どっちに行こうなんて思いながら変更を申請した。

そして、また公演延期が伸びた。友達から初日どうするという連絡で毎日明け暮れた。宿はキャンセルが相次いでいるかギリギリでも取れると思い、取り直さなかった。

そして、また公演延期が伸びた。再開の目処が3日後とか。本当に小刻みに初日となる日がズレていった。チケットを探すのも、シフト申請を出すのにも疲れていていた。職場には休日も遠出を避ける旨のメールがきて、有給申請の際目を瞑るからと言われた。

そして、また公演延期が伸びた。再開する。様々な対策を取る予定だと書かれたHPを見たその半日後には延期のニュースがあがる。

やるの?と何度も聞かれた。やるなら行きたいそう思っていた執念にも近い想いだけでずっと動いた。

初日絶対観る!初日明けの平日も観たい!新人公演もある!中日前までには何回観ておきたい!

予定していた観劇がどんどんずれて、それでも初日は観たいと自分の予定もぐちゃぐちゃだった。

この頃、世間賛否両論で他にもその日のうちに再開と中止が二転したり、公演当日の○時間前に中止が発表されたり、様々な舞台がいろんな対応をしていた。

それを見ながら、普段から舞台を観ない人もたくさんの意見が飛び交っていて、保守的な私は間違った対応をしないで欲しいと、これ以上叩かれたくない、そればかり考えていた。

その公演は今、幕が開かないまま延期となっている。

次もしも初日の日がまた決まったとして、確実に行きたいか、あの執念はもうないかもしれない。

エンターテイメントを好きになった上で、それ以外のことでエンターテイメントを嫌いなることが1番怖かった。

他人感想で、隣の席の人の態度で、劇場であったこんなことで、チケットトラブルで、そういうことを極力避けてエンターテイメントをまっすぐ観れるようにしてきた。

でもこの事態ではそうも行かず、様々なことをみた。

いろんな事をした。そして、疲れてしまった。

つの記事でこんなブログを2000字も書くほどには疲れてしまっている。

ある役者の方の記事を読んだ際、稽古に集中する事でどこか現実的に捉えていなかった、とあった。

わたし舞台を観にいくに付随することに必死現実的に捉えていなかった。でも、結果として舞台は行われなくてよかった、と思う。

全ては結果論であり、今は劇場確認できるほどの集団感染が起きなくてよかったと思う。

それしかない。様々な対策を取って幕を開けようとしてくれた劇場は素晴らしいと思うが、出なかったことは不幸中の幸いであり、行わなかった英断が最も素晴らしいと思う。

あの時、正解の対応はわからない。未曾有の事態に対し、逆算の推論で褒めちぎらなくともエンターテイメントは素晴らしい。そう思っている。

からこそ、こんな事で勝手に疲れてしまった私はとても悲しい。

2020-04-10

ツイッター群体(思い込み駄文

絵が綺麗だなと思って何となく見ると、比喩もなく何にもかかってない平凡な心情の垂れ流しをみんなが褒めていた。

この感じどこかで、と思ったら十年以上前にもなる携帯小説ブームのノリに近いのかもしれないという感覚に到達した。

読者も読者で、かつてドスト批評に「感動しました!」とか頓珍漢な感想を書いていた層に比肩する連中だ。

多分彼らは本音批評なんてする気もなく、適当に褒めとけばいい程度で感想を書いているんだろう。

これはたしかコミックスが売れない。実際金を払ってまでは皆ほしいと思わないらしい。

建前の裏側がコミックの先細りに直結している。漫画という果実は熟して今まさに腐り落ちようとしている。

別段玄人受けすればよいのではなく、最先端なら最先端なりに尖ったものや、極まったもの必要だと思う。

それがまるでない。

好きでもない友人を戦略的に増やしつつ、有名無実になることを専一に考えるのだから完成度は二の次になるのも無理はない。

本題。

思えばツイッター代表する文化なんてあっただろうか。ウィヒッヒー?

思い出せるものがほぼなにもない。

ツイッターには流動的な群体があるのみで、2chニコニコ固形物の保守的世界とはかけ離れている。

あんなに血が濃い集団はいまやニコニコはてなくらいになってしまった。無論それがいいとも思わない。

けれども群体として「名無し」であるツイッターはかつて殷盛を誇った名無しの集団よりも名無しになってしまった。

それこそ集団流行病のようだ。ニコニコでバズれば歌い手デビューするのか、という思いが巡る。

はてなでバズれば面白いアプリケーション開発者が出てきたのかと想像を巡らせる。あるいは村の闘争か。

ツイッターにおいては芸人か何かが一時的に有名になったのか程度しか思い浮かばない。

このあいまいさの問題ツイッターという母体が様々な形容内包しているからだろう。

EU的な集合体ツイッターなのではないか。けしてアメリカ的とは言えない。

多くのアメリカ人はアメリカを誇りにし、とき嫌悪批判するが、ツイッター民に自国意識はおそらくない。

明日使えるメディアが登場すればあっさり裏切ってそちらに向かうだろう。

そこにはマスとクラスタがあるだけでつながりといえば共通話題ユーロ)だけだ。

時々カタルーニャイギリス独立宣言するが、それをやる人物はせいぜいは5chで叫ぶ程度だ。

大利益を享受できるツイッターを彼らは捨てることはできない。

一致団結できない群れが国家形成すれば、それこそEU中国のようなまとまりのない中身になる。

システムがそうなのだからやがてツイッターはほころぶのではないか

国家になぞらえるのは無理があるか。

まあ、駄文。頭の中の妄言をそのまま推敲しないとこうなる。

2020-03-02

なんでお前らは論理を手にしたのにエヴィデンスにしがみついてんの?

普段事実がどうであるかについて検証するにはエビダンスしている写真を探すほうは確かに信ぴょう性は高いけど、現時点で揃えられないエビデンスがあるのに「エビデンスがないと確定には至らない」って態度だったら黒い羊めっけた時に「あれは黒いので羊ではない」「黒い羊が存在するというエビデンスはない」とかいって羊差別することになっちゃうじゃん。

違うだろ。今は「断片的な情報整合性を合わせて行って」「仮説」をひねり出して「仮説検証」をしつつ真実にたどり着かなきゃいけないフェーズじゃん。

小学校休校することにより新型コロナウイルス感染症が防げるというエビデンスはない」って当たり前じゃん。誰もやったことないんだから

そんなんよりも「集団的隔離すると集団的感染する」って一般的事実とかから「各家庭でEテレ見せておけば感染しない」って仮説のほうが容易に導き出せるやろ。

さすがにお前ら人に科学思考できていないとか言いながら自分科学思考できてなくねーか。

お気持ち駆動なのはお前ら自身じゃねーの?

2020-01-22

イカロスは地に墜ちる

Twitterで数千件単位アカウント凍結が発生している。

調べてみると、特定思想を持つ集団を一部の愉快犯たちが集団的に通報しているのが原因のようである

ハッシュタグや専用のホームページ対象アカウント情報掲載し、情報を共有することで計画的に凍結作業を進める。

機械的に処理するTwitterはそんなことがあっているなどと知る由もなく、次々とアカウントが凍結されてゆく。

彼らは一部の人間を排除することで、健全でかつ多様性に満ちた世界を作れると謳う。

しかし、その先に果たして肝心の多様性存在するのだろうか。

気に入らない人間集団的に排斥粛清することで多様性担保されるというなら、ナチス・ドイツソ連は今も地図にその名が刻まれていることだろう。

正義対義語は悪ではなく正義である

自らの価値観思想を過信するとどのような結果を招くのか、もう一度考え直す必要があると感じる。

2019-12-22

個人情報保護委員会も、公取委に言ってくれ……これ位。

公取委個人情報保護委員会とは別にオンラインサービス規制提案して、「サービスの対価として自らに関連するデータ提供する消費者」とか言い出してるけど、EUでも似たようなことが起きてたらしい。

欧州委員会オンラインサービス規制のための新しい指令を起草して、そこで「消費者サービスの対価を個人データで支払う……」とか書いてしまった。これに対し、欧州データ保護監督機関が「何すんじゃワレェ!」したのが以下の見解である

EDPS Opinion 4/2017

https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/17-03-14_opinion_digital_content_en.pdf

EDPSはデータ駆動経済について、EUの成長のために重要であること、デジタル単一市場戦略として唱道されるデジタル環境において抜きんでていることを認めております消費者法とデータ保護法とが共同し相補しあう関係にあることは私たちが一貫して論じてきたところであります。ですから、「デジタル商品」の提供を受ける条件としてデータ差し出すことを要求される消費者保護を強化するために、デジタルコンテンツ供給にかかる契約に関する特有の側面にかかる2015年12月の委員会指令プロポーザル意図しているところを、私たちは支持しております

しかしながら、この指令のある側面は問題はらものです。というのも、これが適用可能なのはデジタルコンテンツのために価額が支払われる場合だけではなく、デジタルコンテンツ金銭以外の個人データその他何らかのデータの形での反対給付と引き換えに供給される場合にも適用可能からです。EDPSは、人々が金銭を支払うのと同じように自分達のデータを支払えるという考え方を導入するような規定を新たに定めることのないよう警告いたします。個人データ保護を受ける権利のような基本権は、単なる消費者利益に縮められるものではありませんし、単なるお値打ち品のように個人データを捉えることはできません。

最近採択されたデータ保護フレームワーク(以下「GDPR」といいます)は、未だ完全には適用可能でなく、新しい e-Privacy 制度は今も審議中でございます。ですからEUとしては、立法者が協議されている入念なバランスをひっくり返すようなプロポーザルは、何であれ避けるべきものです。イニシアティブの重複は、デジタル単一市場統一性意図せずとも損ない、規制断片化と法的不確実性をもたらすことになりかねません。デジタル経済における個人データ使用規制する措置として、EUGDPR適用することをEDPSは推奨いたします。

「反対給付としてのデータ」という概念……このプロポーザルでは未定義のままです……は、所与のトランザクションにおけるデータの正しい機能について混乱を引き起こす恐れがございます。この点で供給から明瞭な情報がないため、さらに難しいことになるでしょう。それゆえ私たちは、この問題解決する一助として、EU競争法におけるサービス定義を一考することをお勧めしますが、その地域範囲定義するうえでGDPRの用いている規定が役立つかもしれません。

見解では、このプロポーザルGDPRとどのように影響し合うことになりうるか検証いたします。

第一に、データ保護制度に基づく「個人データ」の定義が広範であるため、その効果により、この提案指令の対象となるデータが全て GDPRに基づく「個人データ」とみなされることは十分にありえます

第二に、(個人データの)取扱いが発生する厳密な条件はGDPR指定済みであり、この提案指令に基づく修正や追加を必要としておりません。このプロポーザルは反対給付としてデータを用いることを正当とみなしているようですが、GDPRでは、例えば、(本人の)同意有効性を検査し、デジタル取引文脈において(同意が)自由意思に基づくとみなしうるか決定するための、新たな条件を一式用意してございます

最後に、消費者に与えるものとして提案されている契約終了時に供給からデータを取得する権利供給者がデータ使用を控える義務は、GDPRに基づくアクセス及びポータビリティ権やデータコントローラデータ使用を控える義務オーバーラップしている可能性があります。このことで、適用する制度について意図しない混乱をもたらすことになりえます

EDPS Opinion 8/2018

https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/18-10-05_opinion_consumer_law_en.pdf

見解は、EU消費者保護規則のより良い執行近代化に関する指令のプロポーザルと、消費者集団的利益保護のための代表訴訟に関する指令のプロポーザルからなる「消費者のための新しい取引」と題する立法パッケージに関するEDPSの立ち位置を概説しています

EDPSは、目標において最近近代化されたデータ保護フレームワークと密接した領域で、既存規則近代化しようという同委員会意図を歓迎します。EDPSは、個人データの大規模な収集収益化、およびターゲットコンテンツを介した人々の注意の操作依存するデジタルサービスの主要なビジネスモデルが提す課題対応するために、現在消費者法におけるギャップを埋める必要性を認識しています。 これは、消費者法を改善して、個人デジタル市場の強力な企業との間で拡大している不均衡と不公平是正する、またとない機会です。

特にEDPSは、指令2011/83 / EU範囲を拡大して、金銭的な価格にて提供されないサービスを受ける消費者が、同指令が提供する保護フレームワーク恩恵を受けることができるようにする意図を支持いたしますが、それはこのようなサービス今日経済的な現実ニーズを反映しているからです。

このプロポーザルでは、EDPS Opinion 4/2017の推奨事項を考慮して、「反対給付」という用語使用や、消費者によるデジタルコンテンツサプライヤーへのデータ提供が「積極的」か「受動的」か区別することを控えています。ただしEDPSは、プロポーザルで想定されている新しい定義により、消費者お金で支払うのではなく、個人データで「支払う」ことができるデジタルコンテンツまたはデジタルサービス提供に関する契約概念が導入されることに懸念を示しています。この新しいアプローチは、「反対給付」という用語使用したり、個人データ提供価格の支払いを類推したりすることで生ずる問題解決していません。特に、このアプローチは、個人データを単なる経済資産とみなしているために、データ保護の基本権としての性格を十分に考慮していないものとなっています

GDPRでは既に、デジタル環境にて個人データの処理が行われ得る状況に関するバランスを既に定めています。 このプロポーザルで、GDPRで定める個人データを完全に保護するとのEUコミットメント矛盾するやり方で解釈される可能性のあるアプローチを促すようなことは避けるべきです。データ保護法の原則を損なう危険を冒すことなく幅広い消費者保護提供するために、電子商取引指令における「サービス」の広範な定義や、GDPR地域範囲定義する規定、もしくデジタルコンテンツプロポーザルに関する理事会一般アプローチの第3条(1)などに基づくアプローチ代替することが考えられます

したがいまして、EDPSは、「有形媒体では提供されないデジタルコンテンツ供給に関する契約」や「デジタルサービス契約」の定義にて個人データを参照することを何であれ控えていただくことを推奨し、その代わりとして、次のような契約の考え方に依拠することを提案します。 それは、「消費者への支払いが必要かどうかに関係なく」特定デジタルコンテンツまたはデジタルサービスを売り手が消費者提供または提供することを約束するというものです。

その後

きちんと追えていないが、「EU消費者保護規則のより良い執行近代化に関する指令」は、昨月末に採択されたようで、前文に「digital services provided in exchange for personal data」という表現が残ったものの、個人データについては「GDPRに従う」とのことで落ち着いた様である

https://eur-lex.europa.eu/eli/dir/2019/2161/oj

2019-11-28

反社会的勢力定義って何だろう

では薬物汚染一般人よりもひどい芸能界構成員はどうなんでしょうね。

オリンピック選手を当たり前のように桜を観る会に呼んでいるけど、スポーツ業界体育会系パワハラモラハラ暴力プロ集団だと思う。

暴対法によると、反社会的勢力とは「その団体構成員(その団体構成団体構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」と書いてある。

芸能界スポーツ業界反社会的勢力指定すれば?

2019-10-18

表現行為をやめろというのは批判範疇を逸脱しているのか?

赤十字宇崎ちゃん案件と、三浦義隆氏のツイートを見てモヤモヤしてる。

三浦氏のツイートは以下。

https://twitter.com/lawkus/status/1184609284975284224

ystk@lawkus

こんなツイートが何千RTもされてるの本当にどうかしてる。被災して苦しんでてもタワマン民なら嘲笑していいという風潮よくない。あとエレベーターはともかく火災リスクはタワマンしろ低いでしょ。一室で火が出ても延焼しにくい造りになってるはず。

こんなツイートとはこれのこと

https://twitter.com/rikorikosanyade/status/1184247071957585920

りこりこさん(離婚離婚さん)@rikorikosanyade

武蔵小杉のタワマンの件を見てると、私が子供の頃母親がタワマン広告だかを見て「バカと煙は高い所に行くって覚えておきなさい。停電してエレベーターが止まったらどうなると思う?火事が起きたらどうやって逃げるの?アンタはそういう所まで想像できる大人になりなさい」って言ったの思い出す。

https://twitter.com/lawkus/status/1184612137462718464 以下、本題の関連ツイート

ところで俺は要するにタワマン被災者を嘲笑する言動をすべきでない、やめろと言ってるわけだが、これは表現の自由侵害なのかな?んなわけないよね?

このように、「批判はよいけど表現をやめろと主張するのは表現の自由侵害」というたまに見かける主張は明らかに無理筋なんですよ。

国家権力による表現規制は原則的にすべきでない」

国家権力によるものでなくても言論暴力で対抗することは表現の自由に対する脅威であり許されない」

批判OK

以上は概ね合意が取れるはずなので、問題批判暴力境界線付近行為なんすよ。集団的電凸とかね。

それを「表現行為をやめろというのは批判範疇を逸脱している」とか、明らかに一般的妥当性のない雑な議論ちゃう人がいるのは嘆かわしいことだと思う。

ところで俺の用いた「一般的妥当性」という言葉は、日常語的用法だと「世間一般妥当と認められる」みたいな意味に誤解されそうなので補足。ここにいう一般的妥当性は、要するに「あなたが言ってる主張は、他の事例に押し広げても本当に当てはまる?というテストに耐え得る性質」のことですよ。



一方で、自由主義者増田氏の800ブクマ以上ついたエントリ(https://anond.hatelabo.jp/20191016163058)での記述で言えば、「タワマン被災者を嘲笑する言動」は消極的自由なので、個人責任に置いてなんら妨げられるものではなく、三浦氏に「タワマン被災者を嘲笑する言動をするな」という資格は無いという事になるの?

法律にも自由主義にも詳しくないからよくわからんのだが、個人的には三浦氏のいうことのほうに筋が通ってると思う。三浦氏は弁護士であるだけで、公権力は持っていないので。少なくとも自由主義者増田エントリを見ていて、自由主義原則世界が丸く回るようにはとても思えない。明確な原理原則に従って物事判断して行動するというのは個人的に苦手な事であり、またあこがれるところでもあるので、そういう意味自由主義者増田尊敬もするのだが。

発端の太田弁護士がやったことは、以下三つ。(ざっとリプを除く表示で該当ツイートまでさかのぼってみたけども、見つかったのは上2つ。RTは大量にあったが)

  1. 赤十字の宇崎ちゃんポスターについてセクハラしてるようなもんだと発言
  2. 日本赤十字社のお問い合わせ に意見を送りましたと発言
  3. (公共的な団体掲示する内容ではないですね。内部で異議や懸念を述べる人が誰もいなかったのだろうかという人に対して)類似の事例で批判を受けて撤回するような騒動は近年いくつもあったのに、どうして学ばないのでしょうね、と発言

3つ目からして宇崎ちゃんポスター撤回させたい(表現行為をやめさせたい)という意思はあるように見える。アカウントをみるとフォロワ数は3万弱。多いけどめちゃくちゃ多いという程でもない。赤十字電話して長時間文句つけたり、それをフォロワに促すような発言もしていなさそう。赤十字という準公共機関(正確な表現じゃないかもだけど)が、公共の場に張るポスターがセクシズムだ、やめてくれと意見を送る行為問題があるとは、俺には思えない。批判範疇だとおもうから

自由主義者増田も、https://anond.hatelabo.jp/20191017201230 で、以下のように書いている

場合によっては、比較衡量のうえで、大きな積極的自由を獲得するためにささやか消極的自由犠牲にすることもありえるだろう

場合によっては、比較衡量」にあたるかという議論をしているだけじゃないの?議論余地もないほど、積極的自由が小さいのが自明なのかな?TPOが本件語る上で論外だと考えてるみたいだけど、理由がよくわからないので解説してほしい。

あと、一部ブクマカが太田氏をサンドバッグ扱いしてるのも解せない。

2019-10-10

anond:20191010122807

一般には「集団自決」と言われているが、実態は親が子を殺し、子が老いた親を殺し、兄が弟妹を殺し、夫が妻を殺すといった親族殺しあい集団虐殺の場面であった。

これは皇軍の圧倒的な力の押しつけと誘導がなければおきる事柄ではない。

自決」というのは自ら決意して「責めを負うて命を絶つ」ことである

自決」という言葉は死を選ぶ人の「任意性・自発性」を前提として使われる。

乳幼児自決をすることはできないし、肉親を喜んで殺す者もいない。これは牛島司令官皇軍の「自決」とは全く別の次元事柄である

 「強制され」あるいは「追いつめられた」人びとの死を集団自決と言うことは出来ない。

この住民集団的な死は、自発的意志によるものではないかである

この実態集団自決表現する事は不適切であり、真相を正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くものである

2019-10-09

表現の自由戦士として言う。不自由展は引き続き開催されるべきだ

はっきり言ってヘドが出るほど低俗ものだとは思うが、表現の自由とはまさに『ヘドが出るほど低俗な』表現を守るためのものである

(はっきり言うならば、津田大介自分対立者にもこの原則をきちんと守っているとは到底思えないが……。)

そして、誰かの権利を直接的に侵害するような表現脅迫名誉毀損業務妨害)は認められるべきではないが、件の不自由展の展示作品は、誰の権利侵害していない。よって開催は引き続きされるべきだと考える。

こう書くと、「福島原発事故被災者侮辱するようなアートも含まれており、それによって福島原発事故被災者である俺を侮辱した」と言うかもしれない。だが、そのような主張は認められない。なぜならば、敢えてはっきり言わせてもらうが、『福島原発事故被災者』に人権は無いからだ。

何もこれは、「放射能汚染された福島在住者は遺伝子が変化して人ではない別の存在になってしまたか人権は認められない」などのように言っているのではない。

単に、『被災者個人』には当然として人権があるが、『被災者』という抽象的な集団には人権がないと主張しているだけだ。

表現の自由擁護活動をしている山口貴士弁護士集団的人権は認められないという点について解説しているし、あるいは弁護士ドットコムでネットで流行る「修羅の国・福岡」の書き込み 「福岡県民」は削除を要求できるか?という記事において福岡県出身の中島繁弁護士も『削除を要求はできない』と明言している。表現不自由展も同様で、『福島原発事故被災者という抽象集団』『日本人という抽象集団』には人権が無い以上、少なくとも法的に止めさせるべきではない。

無論、被災者日本人だけでなく、『在日朝鮮人という抽象集団』『同性愛者という抽象集団』『女性という抽象集団』にも人権はない。

津田大介の親の顔写真を踏んだり焼いたりする行為犯罪か、というとこれは難しい。『津田大介の親』が生きているならば当然にその親に対する侮辱罪が認められるだろうが、故人であるならば微妙だ。

そのような行為を繰り返して津田大介精神疾患になった場合はもしかしたら傷害罪になるかもしれない(※特定個人無言電話をかけ続けて相手不眠症にした行為傷害罪として成立するという判例実在する)が、不自由展を開催する程度には面の皮が厚い津田大介がそれで精神疾患になるのか。この場合未遂暴行罪(※字面とは異なり暴力犯罪では最も軽い罪であり、主に『暴力は振るったが怪我はさせなかった』場合に成立する)と扱えるかというのはおそらく判例がない(前述の『無言電話をかけ続けた』例も、相手が発病しなかったらどうなるかは不明)。がともかく、『抽象集団に対する侮辱』と『個人に対する侮辱』は厳然として区別されるべきだ。

繰り返すが、これは津田大介への賛同意味しない。

https://anond.hatelabo.jp/20191009091749

2019-08-27

anond:20190827153346

このとおり、こいつはネットに書かれてる女の痴漢被害の大半をでっち上げだと考えてる。

女が男を貶めるために集団的に嘘をついていると確信している。

こんな妄想男は相手にするだけ無駄

この通り、男性差別主義者は何の根拠提示できていない。

ただ、「女が嘘を吐くはずない」という謎の前提を振りかざすだけ。

まさに妄想

そもそも金銭目的でっち上げをする輩がいるほど痴漢冤罪は儲かる

「ない」と思い込める理由が知りたいね

さら女性痴漢の件で男叩きや男性差別はするものの、

痴漢をなくすための最もシンプルかつ最善の道「通報する」ということはしない。なぜか、しない

この言行不一致も極めて不自然

anond:20190827152307

このとおり、こいつはネットに書かれてる女の痴漢被害の大半をでっち上げだと考えてる。

女が男を貶めるために集団的に嘘をついていると確信している。

こんな妄想男は相手にするだけ無駄

2019-08-26

anond:20190826161946

まあ個人的他人容姿晒しあげて物笑いの種にしてる奴が痛い目にあったら俺が嬉しいってだけだけど

集団的継続的に行われてるんならいじめと同じだし、最近大学はその辺のハラスメントに敏感な所も結構多くなってる(全てではないが……)

相談してみる価値はあるんじゃない

いいね稼ぎってどんどん過激になっていくかもしれないし

2019-08-25

私がフェミニストから離れた理由

私がフェミニズムから距離を置く理由

https://togetter.com/li/1369547

フェミニストであることに疲れた

http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348

この辺読んでいて、そういえば自分はツイフェミだった時期があったなと思い反省文を。

フェミニズムに接近したきっか

自分フェミニズムに興味を持ったきっかけというか要因は、人権問題に関心のあるリベラル学生だったからだろう。私は当時ネット上で左派的な言説の多くを観測しており、その流れでフェミニストたちのアカウントフォローするようになっていった。

彼らは現代においてなお残っている実に多くの女性差別を暴き、実に多くの不正義を告発している、ように見えた。彼らの主張はおおむね正しいように見えたし、差別によって苦しみ、不利益を被っている女性がいるのなら、この状況は是正されなければならないと思った。また自身(男性である)が無意識女性差別的な行動を取ってしまっていないか、という点にも大いに過敏になった。

身近に思いっきセクハラ被害に遭っている女性がいたので尚更こういう話題に関心が出たのかもしれない。フェミニストたちの行動の裡に潜む暗い衝動存在に私が気付くのは、ずっと先のことである

といっても、私もフェミニズムに首までどっぷりとは行かなかった。あの界隈には単に男性嫌悪を拗らせただけと見える人も多くいたし、彼らのいくつかの主張(例えば「権力勾配」「まなざし」など)については本当に正しいのか確信が持てなかったので判断を保留していた。

とはいえ各論においてはともかく、総論においては同意していたのは事実だ。

疑問

で、私がフェミニズムという運動のものに疑問を持ったきっかけだが、それは例の「女だけの街」騒動だった。

あの騒ぎ自体はよくあるしょうもない炎上騒ぎなので、わざわざ論じる価値はない。ネット上でよくある異性叩きコンテンツのいち類型にすぎず、個別に論じる事自体時間無駄だと思っている。

ただあの炎上は私にとってひとつ大きな収穫があって、それはフェミニストたちのある姿勢が露わになったことだった。

事の経緯としては、最初とある女性が書いた「女だけの街があったら夜道で怖い思いをしなくて済むのに」といったようなツイートが発端だったと理解している。これ自体はまあ、政治的に正しいかどうかはともかく、単なる愚痴にすぎないだろう。なのでこれ自体を正しいとか正しくないとか言うつもりはない。人間はたまには正しくない愚痴を吐きたくなるものである

が、人権という原則に照らし合わせてこの発言が色々とまずいのも事実だ。ヒトラーだって同じことを言っていただろう。「アーリア民族だけの国があったら良いのに」と。「〇〇だけの街(国)」というアイデア古今東西多くの虐殺引き起こしてきたのだ。

それなのに、フェミニストたちはこれを「素朴な心情の吐露にすぎない」と擁護していた。

なるほど確かに「素朴な心情の吐露」ではあるかもしれない。だが「素朴な心情の吐露」なら何を言っても良いのだろうか?件の発言が「日本人だけの街」だとしても彼らは同じように擁護しただろうか?「女は男に比べて頭が悪い」と素朴に信じている人間自身の考えを披露するのもOKだということになるのだろうか?そもそも、そういう「素朴さ」の裏に張り付いた偏見認知の歪みを告発してきたのがフェミニストではなかっただろうか?

本当なら、フェミニストたちはこの発言擁護するべきではなかったのだ。

政治的に正しくないから袋叩きにするべきだとは思わない。

繰り返すが、人間は時に政治的に正しくない愚痴を吐くものだ。だが炎上してひとつ論点として浮上してしまった以上、擁護するべきではなかった。せめて「気持ちは分かるけどその言い方はまずいよ」と諌めるくらいのことはするべきだった。

なのに彼らはそれをやらなかった。

その時の様子を見て私は愕然としたのを覚えている。単に男性嫌悪をこじらせた似非フェミニストばかりではない。ある程度誠実に、論理的ものを言っている(ように見えた)フェミニストたちも、揃って件の発言擁護し、食ってかかる人間罵倒を浴びせていた。彼らはお定まりお題目ーー男性社会犠牲者ーーを大声で唱えた。私たち被害者だ、奴らが悪いのだ、と。

なんということはない。彼らの行動原理正義などではなく、結局のところつまらない党派性と暗い攻撃衝動にすぎなかったのだ。ニーチェの言うことろの奴隷道徳というやつだ。

彼らの言葉の底が見えた瞬間だった。

日本人だけの街」がアウトで「女だけの街」がセーフだと主張するには、おそらく根拠として例の「権力勾配」という概念を持ってくるしかないだろう。

権力勾配」の扱いは長らく自分のなかで答えが出せていない問題だった。例えば人種隔離政策実施されていた時代アメリカで、黒人白人を殴ることと白人黒人を殴ることを同列に扱うことはできない、なぜなら黒人被差別階級からだ、という主張は、必ずしも狂ったものだとは言えないだろう。

ただ、私としては最終的に、これは否である判断するに至った。理由は大きく分けてふたつある。

第一に、この主張は結局のところ、「人権の内実はその個人属性によって変化する」と主張しているに等しいことがある。

人権というのはつまるところ社会フィクションにすぎないのだが、ここを切り崩すことを許してしまうのはどう考えても悪手だ。女性差別問題にできるのも、つまるところ「万人が等しく人権を持つ(べきである)」という原則があるからだ。その原則がなければ、性別民族性的指向政治志向、その他あらゆる属性によって、恣意的個人権利制限することができるようになってしまう。これは到底受け入れいることができない。「権力勾配」という概念人権という原則に照らし合わせて筋が悪いばかりか、フェミニズムが拠って立つ基盤を自分で切り崩していることにもなる。

第二に、目的手段正当化するか?という問題がある。

女性差別撤廃という正しい目的を達するために、正しくない手段を用いることは正当化できるだろうか。

これは難しいところだ。政治的目的を達するため不正手段を用いることが、一時的戦略として必要であるという考えは理解できる。が、例えば共産主義革命という「正しい」目的を達するためにいかに多くの人が殺されてきたか、ということを考えると、やはり首を縦に振ることはできないだろう、という結論暫定的にだが出すことになった。

例えばアファーマティブアクション(これは自分否定的なのだが)なんかは、マクロな不均衡を是正するためにミクロ差別を導入する、という政策だろう。他にも、件の医大入試における女性差別問題なんかでも、一概に「差別から悪だ」とは言い切れない事情があるのは理解できる。

社会というもの原則どおりには動いてはくれず、難しいものだなと常々思う。

まとめ

ともかく、あれ以来、フェミニストたちの言説がどういうものだったのかが、なんとなく見えてきた。彼らのやり口はネット右翼よりは洗練されているかもしれないが、その本質においては何も変わるところがないことが分かってきた。

敵を作ることで味方を定義し、団結させる。それは人生に不満を抱えた人間たちを動員する効率の良い手段だ。日曜革命家効率的に票田を獲得し、鉄砲玉を生産するための手段。こういうメソッド社会に遍く見られるもので、今日もどこかで誰かが動員されているのだな、とネットで怒っている人を見るたびに思う。

今更気づいたのか、と言われれば返す言葉もないが、当時の私はちょっとばかり難しい本を読んだだけで社会については全く無知学生だったのだ。ちょっと首を突っ込んだだけの段階でフェミニズムおかしさに気づき、取り返しがつかなくなる前に抜け出せたのは僥倖だったのではないかとも思う。

昨今、TERF関連でまたフェミニズム面白いことになっており、トランスジェンダーに対するフェミニストたちの態度を見ていて、あの時フェミニズムから離れた自分判断が正しかたことを再確認している。そのことにはなんの喜びもないが、少なくとも自分がもう彼らの一員でないことは嬉しく思うし、あの集団的狂気から一人でも多くが目覚めてくれれば良いと思う。

教訓があるとしたら、人々の情動喚起して動員する手口を直に学べたことと、原理原則において一貫性を保つことの重要さだろうか。社会運動自体不要だとは思わないが、少なくとも自分は、正義を叫ぶ人間言葉を、以前よりずっと注意深く観察するようになった。それとリベラルが必ずしも味方だとは限らないということも学んだ。

以上。駆け足で書いたので日本語が若干こなれていない感じはするが、推敲も面倒なのでこれで。

2019-08-13

集団的高校デビュー悲劇

もう10年前くらいになる、俺が高校一年の時の話だ。

高校に入ると皆、多かれ少なかれ、高校デビューというものをする。それが「理想高校生活」というイメージと混ざりあい最初の3ヶ月は妙に皆テンションが高く、性格おかしくなる。

俺はこれを俗に集団的高校デビューと呼んでいる。そして俺はこの集団的高校デビューというものに、根本的にトラウマを持ってしまった。

まず初めにいうと、俺の高校デビューは初っ端から失敗した。中学からの顔見知りが俺の事を話しのネタに使い、「こいつは下ネタ好きの変態インキャ」って事をバラされた。まぁこ自体は大した話じゃない。下らない笑い話だ。

当時は斜に構えた腐った15歳だったから、高校デビューしてテンションが高い友人を薄ら笑いして見つめていた。

最悪だったのは、いや、最悪の始まりだったのは、集団的高校デビューした輩を統率する奴が居たことだった。

そいつは力が強く、常に偉そうで、周りにちょっかいをかけて声が大きくオラついてる。漂流ネットカフェ寺沢そっくりだった。

普通だったら」避けられるが、集団的高校デビューしている輩は一種催眠状態なので、そう言うのに簡単についていってしまう。皆そいつが何か言えば機嫌をとり、無理して笑う。そいつに認められる為に媚び諂う。特に中学の頃からの顔見知りで俺を売った奴は、そいつスネ夫ポジにいた。

俺はそう言うのが嫌でそいつにプチ反抗した結果、ボコされてカーストから外れた。

ピエロになった。

中学からの顔見知りや、その他取り巻きも俺の事をゴミみたいに扱った。

俺はそもそも斜に構えてたし、同じように寺沢っぽいやつを嫌って俺と交流する奴が居たから、つまらなくは無かった。寺沢はそんな俺にちょっかいを出し続けたが、正直どうでも良かった。寺沢にもまぁ憎めない所があったし。

ここからが俺にとって耐えきれなく、トラウマになった部分だ。

端的に言うと、「集団的高校デビュー」の呪いが解けた。

高校生活への理想がなくなり、みんな省エネで目の前にある勉強部活を楽しむ方向にシフトしていった。

そこに寺沢みたい奴の居場所はない。うるさくて、煩わしいリーダーを気取る奴は要らないのだ。

結果、皆そいつの事を無視し始めた。中学の顔見知りも最終的にそいつ無視し始めた。

寺沢天辺形成されたカースト上下にひっくり返り、相対的に俺と寺沢が一番仲が良いと言う状況になった。

寺沢と一緒に俺にちょっかい出してた奴が、寺沢無視する、その何というか変わり身の速さというか非情さというか

人間の凄く醜い姿を見てしまった気がした。

寺沢は、悪い奴では無かった。ただ俺とは相容れなかっただけだったはずなのに、その取り巻きは完全に、悪い奴だった。

結果的寺沢を利用し、切り捨てた。権力に縋り、権力でなくなったら捨てた。

寺沢はその後いじめあい、同年高校中退した。

そいつの事を思い出すたびに、寺沢に対する少しのムカつきと、同情、その取り巻き寺沢に対する仕打ち人間のあり方に絶望する。このモヤモヤはずっと消えない

2019-08-08

あいちトリエンナーレについて

話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。

クソ長い。

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表現不自由展・その後」について

最初に断っておくと、今話題になっている「表現不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。

と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃん理由もある。

他の人は知らないが、個人的には「表現不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄デスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ

話が変わるが我々ボランティア研修で何をやっているかと言うと、作品知識を蓄えるのではなく、自身感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義微妙に違うのだが)と呼ばれているもの実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て

「すごく煌びやかで綺麗、幸せカップルの絵に見える」

「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局予兆しているのでは?」

関係ないけど雲の形が昨日食べたたこ焼きに似てる」

などとそれぞれの感性経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。

だがそういった観点から見ると、「表現不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。

そんなわけで「表現不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレ第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。

慰安婦像インパクトコンテクスト

さて「表現不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的インパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。

表現不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像なのだ

ソウル日本大使館前慰安婦像が設置されたときメディアはこぞって大使館慰安婦像が一緒に映った映像放送したと思うが、あの報道に対して「不快から映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合制作サイドの意図別にあるのだが)。

今回の展示ではそこのコンテクストおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報事態が拡大してしまった感がある。

また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的コンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。

そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。

しかし、詳細については諸説あるが、そういうもの存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。

負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑モニュメントがある、ドイツカンボジアには国内虐殺記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。

場所によって反応も変わる、オバマ広島原爆資料館に行ったが、アメリカスミソニアンエノラ・ゲイ展示をやろうとしたとき退役軍人たちからバッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史意味に影響を与え得るのか、得ないのか。

そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性日本女性慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。

話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかたかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ

勿論コンテクストには政治だってまれる。慰安婦像純粋歴史的モニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あん一触即発もの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。

ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディア報道を見ていると日韓政治的同意が得られれば慰安婦像撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋プロパガンダだったって言っているようなものからやめろ。

像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である

批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。

それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。

アメリカコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。

個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場モニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。

まり慰安婦像撤去したいのなら何らかの方法歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。

トリエンナーレ側の対応について

トリエンナーレ運営が「表現不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。

第一に展示施設自体問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本災害が多いだけあって美術館博物館といった文化施設安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策防火設備さらには盗難破壊防止のための監視員監視カメラが多くの施設で導入されている。

しかテロ大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。

第二に運営側の問題最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。

かに税金から拠出予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティスト100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度ルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。

よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。

これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。

最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。

運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営作家が一体となって特定テーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。

表現不自由展・その後」だって別に運営企画した訳ではなく、かつて行われた「表現不自由展」を招待しただけだ。

展示施設職員に至ってはそれを公務員業務として受け入れているだけである

よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ施設や関連団体スタッフさら作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNS関係者に絡んで「トリエンナーレ見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。

そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。

それらを踏まえてトリエンナーレ運営対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。

表現自由について

先述の通り、施設組織問題テロ脅迫対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。

しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手総本山とかか?結構大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。

暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。

最初特定されたら困るから匿名意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体おかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。

また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。

抗議の電話でまず事務局回線パンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員罵声を浴びせられる、しか公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂電突」と呼ばれるものだ。

ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。

かに組織には説明責任がある、取材報道自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。

誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。

表現自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。

話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいか物理的な暴力を伴わず決められたルール範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明指標なのだと思う。

抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアート作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名デモでも良い。そして表現自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権著作権憲法に定められた公共の福祉概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。

pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人意見から忘れてくれ。

じゃあこの場合どうしたらいいのか。

少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。

何故ならあくまコンビニ民間営利団体からだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。

抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。

コンビニ18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性ネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界Permalink | 記事への反応(15) | 22:16

2019-07-18

anond:20190718020246

集団的自衛機構であるNATOが作られたヨーロッパと違い、アジアにおけるアメリカの対ソ連戦略日米同盟米韓同盟代表される多数の二国間同盟によって実施された。これをハブアンドスポークという。

そのハブアンドスポークモデルを脱してNATO存在するヨーロッパに近い状態を実現するための戦略が日米韓防衛協力であり最終的には日米韓同盟を目指していたのだが、日本韓国それぞれの国内での民族主義者による反発やアメリカファースト標榜するトランプによってしっちゃかめっちゃかになっているのが今。

ASEAN南シナ海での中国活動に反対する声明も出せない状態だし頼りにできない。

インドUS-2を買うふりをしたりして日本から最大限色々と引き出そうとしているが中国と完全に対立するつもりもないし信用出来る国ではない。

日米豪の三カ国連携現実味があるが、日本捕鯨オーストラリア世論の反発を日本人が思っている以上に買っている。

2019-06-17

意識高い系妊婦

 娘と激安イタリアンブッフェランチに行った。

 未就学児が無料ブッフェなので、以前から赤ちゃん連れの母親ランチ会などが積極的に行われていて、そんなに子連れ妊婦を見ても不思議ではない。

 そして店では30分に1回「おひとり様1つ限り」と札のたつ特別メニューが出てくる。

 早いもの順で私が並びに行った時は既に最後の方で、目の前から妊婦がきて私の目の前に並んだ。

 まぁ、軽く横入りなんだが、気にはしていなかった。

 なにせ昔のコントに出てきそうなご立派な臨月腹の30代女性だったので「臨月ブッフェとは、健康で良いですなぁ~」と冷めた目で見ていた。

 しかし、その妊婦サーブされる番になって「あそこに、(私の)子供がいるんですけどぉ~もじもじ・・・・(二人分貰っちゃぁ)ダメですかぁ~くねくね(鼻にかけた声で、謎の上目づかいで首をくねくねする)」と言い出して驚いた。

 横入りして会釈すらもなく、さらにコレかよ。若いのにこの面の厚さは立派なオバはんだよっ!!きっしょいよ!!。

 くねくね気持ち悪く動きつつ、お腹を落としそうに抱えている妊婦。見ていてただただ不愉快だった。

 そしてサーブしている若い男性スタッフ困惑して、最後までの人数を数えて、ケーキの数を数えて、仕方なく2人分渡していたのに言いようのない怒りが沸いた

 唯一の救いは、このクネクネくれくれコールが、全く若い男性スタッフには効いていなくて滑稽だったことか。

 妊婦なのに・・と言う訳ではないが、二人目妊娠している時点でもう女の子特権は使えないという事実に気が付いてほしい。

 オバはんが鼻にかかった声で年下男性に「どぅあめ(ダメ)ですかぁ~??」って多人数アイドル集団的おバカくねくねポーズをされても、吐き気を覚えるだけ。

 食事時なんですよ?今・・。

 この人、若い時にこういう風に自分の思いを通してきたんだなぁ~と思うと、可哀想すぎてその浅ましさに目頭が何かの汁で熱くなるわ(笑)と娘に話すと、

 娘がその妊婦達を観察していて、どうやら妊婦のみの集団ランチ会らしいこと、全員がかっわゆぅぅぅい花柄ワンピを着ていることなどを教えてくれた。

 そして、「私、こんなことしなきゃならないなら、イタすぎるので妊婦になりたくない」と言いだした。

 いや、こいつらただの意識高い系妊婦から。恐らく妊婦でもオシャレランチしたいとかSNSで繋がってるだけだから

 妊婦になってまで、こんなことでしか女を支えられない人達とは、一生かかわらなくても良いか安心して妊婦になりなさいと言っておいた。

 本当にいい年して気持ち悪い。

2019-05-30

1000年おきの未来

BC3000頃 文明の起こり。人間集団的知的活動を始める

BC2000頃 カースト制が形成。明確な階級が生まれ

BC1000頃 枢軸時代人間精神覚醒され学問の基礎が起こる

紀元帝国時代世界が大きな帝国によって統治される

AD1000頃 文明産業の発達、それに伴い世界大戦へと繋がっていく

AD2000頃 世界大戦が人類共通の負の歴史になり、以降は世界大戦が起きなくなる

AD3000頃 資本主義共産主義止揚され、優秀でなくても幸せになれる社会が成立する

AD4000頃 技術進歩した結果、物理法則ハッキング可能になる。エネルギー保存則などから逸脱してドラえもんの道具が実現するようになる

AD5000頃 願望が即実現される社会になり人間全体の精神性が未発達になる。全ての人間が個々の並行世界で生きることで争いを回避するようになる

AD6000頃 精神世界の解明が進み、人間より高位の存在確認される。なぜこの世が存在するのか、なぜ生物存在進化するのかについての理由が判明する

2019-05-28

anond:20190528125147

しろ平成処女集団とかそういうのって厄介ストーカー集団的な人たちじゃないの?

今は航空会社の内部にファンがいてチケット買うとそこから情報漏れるらしいね

赤の他人名前で買うとかできないんだろうか

2019-05-05

「"我々"は反省しなければならない」は責任逃れ

インターネッツを観ているとそのような風潮にあると思う。

からなのか今からなのかはわからないので置いておく。


どうもいろいろなネットバトル政治的課題におけるやり取りなどを観ていると

ある問題課題が発生した際に

反省改善していこう」

という旨の文章を書いたとする。

そしてそれを他者に見てもらった場合、"我々"のような集団的ワードを使って反省を促すのはやめたほうがよいということだ。

まりまず、"私"が反省をしなければ世間に受け入れてもらえないという風潮がある。

しばしば政治的勢力


A「"我々"は反省しなければならない」

B「反省していないではないか。」

A「いや、しただろ」

B「いや、していない」


というやりとりはこれに単を発する。

まり


A「私は反省する」

B「よくいった」or 「さまーみろ!」

A「みんな、改善していこう!」


こうしろということだ。

"我々"という集団概念責任を放り投げて、自らは逃れているように見えるのかもしれない。

2019-02-14

連座の是非

連座とは?

連座 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%BA%A7

連座(れんざ、連坐とも)とは刑罰一種で、罪を犯した本人だけでなく、その家族などに刑罰を及ぼすことである

なお、江戸時代までは家族などの親族に対する連座は縁座(えんざ、縁坐)と呼称され、主従関係やその他特殊関係にある者に適用される一般連座とは区別して扱われていた。

 

英語の"Collective Punishment"の訳語として、「集団罰(しゅうだんばつ)」「集団懲罰(しゅうだんちょうばつ)」「集団懲罰(しゅうだんてきちょうばつ)」などの語も使われる。

民族国民全体など、非常に広範囲への連座をも指す用語になっている。

国際法における制限

ジュネーヴ諸条約の第4条約戦時における文民保護に関する1949年8月12日ジュネーヴ条約Geneva Convention relative to the Protection of Civilian Persons in Time of War of August 12, 1949)第三十三条では、紛争当事者被保護者当事国占領国の国民以外。すなわち他国地域占領下にある人間)に対して集団罰を科すことを禁じている。

 

 

歴史を振り返ると、過去には日本でも連座時代も確かにありました。

しかし、近代法律では、連座否定されています

 

個人的には、心情として連座を望む気持ちも分かるが、実務としては連座採用するのは反対の立場です。

しかし、現代日本は、江戸時代を見習って、連座を復活させた方が良いのでしょうか?

ある日いきなり、自分連座刑罰を与えられることになったら、他人のケツ拭いなら納得できないので困りますね。

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