はてなキーワード: 集団的とは
過去、いじめやハラスメント等が明らかになり世間を賑わせた界隈をパッと浮かび上がる分だけ書くと、
相撲界
歌舞伎界
野球界
そして宝塚
あと界隈ではなく部分的な集団だと日大事件、直近だと某男子剣道部で集団的ないじめが発覚し問題視された。
見てわかる通り、共通するものは「体育会系」そして宝塚以外は見事に男の園ばかりだ。
だが唯一の女の園(上層部は男ばかりのようだが)宝塚の体制が問題になった途端、報道も一部世間の反応も性別という単なる属性がまるで「要因」かのように語るものが散見される。それはおかしい。
他のいじめやパワハラ問題で中身のヤバさが露見しても「男ばかりだから」と性別を強調されることはない。整合性をとるなら、宝塚で起きたことも「女ばかりだから」を口にすべきではないだろう。口にしたくなったのならそれは自身が抱える問題であり、自覚するべき醜さ、陰湿性だ。
まず、日本語になっていない。
デタラメです。
ゴミ以下ですね。
もとから間違っているんだよ。あほが。なんも知らんのはお前のようないきったくずなわけ。
みんな日本ナルシズムさんと呼んで笑ってあげてください。
そうやって馬鹿にバカといわないから、まともじゃなくなるんですよ。
堀の履歴。
1972(昭和47)年東京都生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。大学病院勤務を経て、2012年から福島県南相馬市で精神医療に携わる。現在、ほりメンタルクリニック院長。うつ病や自殺などについて精神分析学や社会病理から考察する論文を発表。『日本的ナルシシズムの罪』が初の著書。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1120848329254900864
まあ論文は書いているけど、大したことはないね。日本的ナルシシズムとか医学的な表現ではない。これで論文とか言っているのはドン引き。それ論文としての価値はないですね。タイトルでわかるんよ。
こういう定義もへったくれもないバカげた単語を作って遊ぶのがマジで公金チューチュースキームの左翼の似非科学なんですわ。
内省傾性(過剰な自己省察)の形成機序 : 「状況意味失認-自己危急-実感障害」仮説による内省型単純型統合失調症の病態理解
統合失調症およびその類縁疾患と抗NMDA受容体脳炎の精神症状の違い
患者のファントム身体は治療者の空想身体の上にどのように現れるか
こんな感じの論文を書いてないね。まあ精神科が論文を書くのは難しいからね。病気の定義や境界にどうしてもあいまいな部分があるから。
米国精神医学における「統合失調症」概念(Bleuler, E.)の盛衰
こういうのとかね。さらにこれ。
安田菜津紀 Dialogue for People
@NatsukiYasuda
「日本」という大きな主語と自分自身を一体化させてしまい、「日本政府」や「日本人」を批判されると、「自分」を批判されたかのように感じがちな状態を、心理学の世界ではそう呼ぶのだそうです。
https://twitter.com/NatsukiYasuda/status/1333223235253456896
言っているから正しいわけないでしょあほか。それが正しいなら安田とか公金チューチュースキーム反差別ナルシズムだろ。
反差別とかいう大きな主語に自分自身を一体化させている安田はまさにそれでしょ。
安田はマジでヤバいよ。インチキな反差別集団である解同の朝田理論を平気で書いているから。でたらめなのに。
だからこいつの書くことは一切意味がないし、マスコミで取り上げるとか抗議していいレベルなの。
https://note.com/natsukiyasuda/n/n5abed3f39ea2
そしてこのように引用されるということは、臨床心理士、精神科とかイデオロギーに染まってでたらめなことを言うやつが多いから、信頼度がないわけ。性犯罪分野は全く信用できない。
実証的なエビデンスが得られなかったために注目されることが減りましたが、以前の精神医学ではうつ病の病前性格論が盛んで、「執着気質」とか「メランコリー親和型」などのうつ病になりやすい性格が論じられ、それらの詳細を必死に勉強したのが私の精神科医としての初期教育でした。
全く意味不明な文章でくそ笑う。それ注目じゃなくてほぼ否定されているんですわ。なぜかって言ったら性格自体が客観的なものではないからです。
うんうん、医者って患者がすべてだからよくこんなことを言っちゃうんだよね。
これでは読む意味ないですね。ソースがハフィントンポストという時点でもアウト。インチキカスメディアです。
以上の前提を踏まえると日本ナルシズムとかいって常識とか言っているやつが、いかに自分が意識が高い偉いぼくちゃんだと勘違いしているやつはモノホンのばかなわけです。
左翼思想に染まったバカ、文化的マルクス主義に染まった意識高い勘違いバカは無能になります。恐ろしいことです。これらのカルトとしか言いようがないイデオロギーが、人間を無責任で幼稚でただただ傲慢なだけの使い物にならなくしている例ですね。
なんで、はてなブックマークって、他人がつけたスターを削除したり、他人からスターをつけられることを拒否できないの?
だってさ、嫌いなやつや、こいつ馬鹿だなと思ってるやつにつけられても嫌じゃない?できれば予め拒否しておきたいじゃない?
万が一「注目コメント」入りなんかしちゃったら、恥ずかしかったり、晒し者にされてる気分になるじゃない?
残念、お前のその「特別なお気持ち」とやらは、俺にとっては嫌がらせに過ぎない、という場合だってありうるわけじゃない?
まあ、俺のこうした考えは措くにしても、なんで、好意?(スターとやらが好意とは俺は別に思ってないが)の押し付けは当然許されてるわけ?
ツイッターだかXだかは、他人から閲覧されること自体ブロックできるわけじゃん。なんではてなにはそれができないの?技術力がないの?
実質に嫌がらせする自由は認めるくせに、なんで、他人からの嫌がらせや目立ったりすること、集団的ないじめ(というと古参ユーザーは何かを想像してしまうかもしれないが俺は新参なので詳しくは知らん。)を予め回避する自由はないわけ?
お互いの時間、感情とエネルギーを節約するために予め言っておくが、
「ここはお前の日記帳じゃねえ!」、「批判を受けない自由はない!」、「教えて君死ね!」、「いや、運営にメールしろや!」とか
訳知り顔で偉そうに説教してくるのはやめてくれ。
そういう説教はお前らの得意技かもしれんが、この際、俺にとっては何の役にもたたない。
俺は好きに日記を書きます。名前を隠して楽しく日記を書きます(この記事については別に楽しくもないが)。
あと、俺は批判を受けたくないと言ってるんじゃない。
むしろそれが合理的な根拠に基づくと認められるものならばバンバン受けます。
(しかし、例えば侮辱的だったり、明らかに不快になるようなものは、この限りではないが。)
スターをいらない、他人様の好意とやらの押しつけは謝絶したい、というのが趣旨であるから、
正攻法で運営にメール送ったところで、あいつらからまともに回答が返ってくるとは思えないから
ここでこうして問いかけてるわけだ。
まあ、運営じゃなくても良い。何か気の利いた回答や説得的・合理的な回答でもあれば、それで俺の心は慰められるかもしれない。
(例えば、スター機能が現行のままであることによって、はてなにおける特殊な世界観や価値観が維持・助長等されることを説得的に説明してくれるものとか。)
真面目に、誰か教えてくれると助かる。
(但し、侮辱的だったり、明らかに不快になるような内容は勘弁してくれ。あと、特定のユーザーに言及するものも勘弁な。)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231008/k10014219371000.html
✎「嗚呼いう願望からすべて間違え続けてきたのではないか⁇。東京のことだ。なにからなにまで甘えというか、手前勝手な自分の御目鑑通りに、予定調和どおりに、有利であって欲しい……。東スラブ事変も、周辺諸国、我がU.S.でも願望から出発する。一方的な好悪、一方的な偏愛、一方的否定。ロシア元首の対日発言にも飛びついている。これも願望。ロシア元首の『エゴイズムとうぬぼれは行き詰まりをもたらすだけだ』の部分など願望の前に飛ばし読みをする。しかもロシア元首の対日発言は、安心した冗談であることも無視し、さも元首が対日関係改善に意欲があるかのように前のめりの願望で飛びついては確証バイアスの入れ子に入れる。国家元首が外交問題で語るとき、当該国について冗談を交えるとき、況や当該国が自国に対し敵対的であるとき、冗談を交えるというのは、敵対関係が緩和なり解消されないことが動かないことを識っているからであろう。日本についてのみ冗談を交えたのは、バイデンとそのPOIGsの命令指示以外には動けぬことを前提に、軽蔑しているということなのだ。これが常識で、あの願望の柳に飛びつく市井心理の土層の上では、それは独自外交などできはしない。外務当局のようにバイデンとそのPOIGsにくっついていた方が危険がないとの判断は尤もかも察れない」 -0-
✎「願望パブロフの犬、願望の狗になっては生き残ることはできない。作家小松左京氏が田所を通して話したあの一節だ。『日本人は外でなにかがあってもこの島に逃げ込めば守ってくれる。ここに逃げ込めばそれで済んだ。だがこれからは戻るべきそれらがなくなる。海千山千の世界の中で戻るべき場所を持たず生きていかねばなりません。そんなよちよち歩きの日本人が生きていけるかどうか……』。あらましそう語らせている。それぐらいの気構え。通塞を領る者が多くならないと、彼らは生きては行けなくなる」 -0-
➤彼らはすんなりと退場するだろうか?
⚡︎「社会が瓦解し消失する由を註解するたったひとつの真実がある。それは空想、妄想への転落である。hysteron proteronへの志願囚人であり、その集団的な否定的現象が存亡の危機について議論する事さへ妨げる。これによって社会は機能不全となり、瓦解し消失する」 -0-
⚡︎「東スラブ事変勃発後日本の国家議会議員が訪ロした。西側、敵対国からの訪ロだ。私、私たちはこの出来事を評価する立場にはない。ただ日本議員の訪ロを受けて或る日本に関するロシア側の態度が表明された。一つは、フクシマ核能発電廠事故の放射能汚染水海洋放出を巡る意見だ。本電文で、科学的見地と分析評価に立ってロ態度を決定する旨のロシア側の姿勢を打電したが、ロシア側は提供されたデータと独自に収集された情報を分析したうえで、この放出そのものの当否には触れず、海流関係からロシアの人びとが過剰に反応する必要がないことを指摘した。また日本が高度に発達した技術を持つ国であることはひろく報られていると指摘した。またソーシャル・メディアでこの問題が突出して現れていることに注視するとし、それは群集心理現象の一つであり、『ソーシャル・ネットワークは常に極端から極端の意見に揺れ動き、極端な意見が圧倒されるよう設計されているビジネスモデルであり、恐怖と敵意を生み出す人類的土壌になっている。対立があるところに、ユーザーが向かい積極的に加担する場であることを抜きにしてこの問題を考察しないわけにはいかない。汚染水の海流はロシアの海岸から遠くに存り、ロシアの漁労は自国の魚介類に重点を置いてい、この問題について態度を現す必要がない』と指摘。 中国の反応について、『中国は伝統的に魚介に占める日本産の割合が多く、その反応は理解している』と述べた。日本議員訪ロに対する反応だろうだが、これは国家院関係者の語ったことであり、ロシア政府が同じ立場を採るかどうかは、ロシア政府が表明するだろう」 -0-
⚡︎「国家院筋は日本についてこう語った。『日本の組織的な戦争準備は、現実的な危険になりつつある。これが私たちの評価だ。この動かぬ事実に周辺諸国と協議し協力するのは当然のことだ』。燕京、ピョンヤンとの会合ではこれが主要な対応議題となる。漢語では、『一挙足的時間内即可等也。言極短之時』と曰う。日本では『玉葉』にあるように、『天下の災い、ことに足を挙げて待つべし』とある。だがその意は異なる。現実的危険について彼らは異なっており、こうした齟齬が誤訳されていることが、諸災の根源だと惟う」 -0-
鈴木宗男を切るということは日本はロシアに先制攻撃する意図があることになる。
死にたくなければ処分するな。なぜ日本のためにロシアと交渉できる人間を切るのか。ありえない。それだけの能力がある人間はいない。交渉しないだけのカネ、ヒト、武器、資源、技術は日本にはない。
それでもやるなら日本人がいかにバカで狂っているのか。そういう意味にしかならない。
一方で「私の発言が問題というのはもってのほかで、議員の認識をもって党が処分することが果たしていいことなのか。馬場代表は共産党について『無くなったらいい政党だ』と発言したが、処分されていない。自分に優しく人に厳しいというのはなじまない」と指摘しました
その通り。
🎙🇷🇺軍事安全保障および軍備管理に関する交渉(ウィーン)でのロシア連邦代表団ガヴリロフ団長:
❗️褐色のペスト(ファシズム)は阻止しなければならない。ロシア軍が特別軍事作戦の一環として行っているのはまさにこれだ。
☝🏼対露戦略の失敗にも関わらず、「集団的西側」に代表される世界的マイノリティは引き続きウクライナを我慢比べの消耗戦に導き、事実上の自滅へとこの国を追い込んでいる。
👉🏼先にウクライナ軍側で戦うべく到着した外国人傭兵らがすでに戦場における八方塞がりの現状を認識し、次々と脱出していることは重要である。
❌🇬🇧🇫🇷英仏製Storm Shadowミサイル供与の場合と同様、🇺🇸米製ATACMSと🇩🇪独製Taurusが「銀弾(特効薬)」になることはなく、戦場のパワーバランスに変化はないが、 V.ゼレンスキーの一味にとっては「アスペンの杭(とどめの一撃)」に変わるだろう。
「自滅へ追い込んでいる」というのは当然ながらロシアが勝っているからです。
そして勝ってます。
日本人は自滅するまで戦争する狂った毛虫のような連中で、人間としての知能はないので違和感はないのでしょうけど。
@user-cf5et7kq6s
3 時間前
フタ・ピェニャツカの虐殺
Zbrodnia w Hucie Pieniackiej – Wikipedia, wolna encyklopedia
https://pl.wikipedia.org/wiki/Zbrodnia_w_Hucie_Pieniackiej
人口1000人ほどのポーランド人が住むフタ・ピェニャツカ村で、ドイツ軍から命令を受けたウクライナ人親衛隊が、周辺から避難してきた市民を含めて500人~1500人を虐殺した事件。
各国の思惑から被害調査がされずにいたが、2000年代にポーランドとウクライナがそれぞれ調査報告書を出し第14SSによる虐殺と認められた。(両国間で被害人数に差がある)
日本語版には項目が単独では無い。(第14SS武装擲弾兵師団の項目に小見出しで解説されている)
だからカナダ議会が元ナチスでこの部隊にいたウクライナ移民のカナダ人を称えた件について、ポーランドが激怒した。ポーランドの教育大臣は旧ツイッターで「彼をポーランドに引き渡すことをカナダに要求する」と投稿した。
「非常に傷ついた」:ポーランド大使、ナチス退役軍人のカナダ議会への招待を非難
Polish envoy condemns Nazi veteran invite to Canada's Parliament | CTV News
「カナダ議会において、ゼレンスキー大統領も同席のもと、ナチスの犯罪組織SSガリツィエンのメンバーを称えるというスキャンダラスな出来事があったことから、私はこの人物のポーランドへの引き渡しの可能性に向けた措置を講じた。」
Wobec skandalicznych wydarzeń w kanadyjskim parlamencie polegających na uhonorowaniu w obecności także prezydenta Zełenskiego członka zbrodniczej, hitlerowskiej formacji SS Galizien, podjąłem kroki w kierunku ewentualnej ekstradycji tego człowieka do Polski.… https://t.co/92qK1voktN pic.twitter.com/5J4lljH5JX— Przemysław Czarnek (@CzarnekP) September 26, 2023
この問題は何もロシア侵攻が起きたから騒ぎになっているわけではない。ウクライナ系移民を多く抱えるカナダの「戦争犯罪問題」としてずっと前から議論されていたことだ。
October 30, 2020
Whitewashing The SS: The Attempt to Re-Write the History of Hitler’s Collaborators — espritdecorps
カナダでは1985年にWW2の戦争犯罪人に対する調査をした。この報告書が現在も「カナダの歴史問題」に影響を及ぼしている。
Deschênes Commission - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Desch%C3%AAnes_Commission
第14SS武装擲弾兵師団の集団的戦争犯罪を無罪とした委員会の決定は、特に物議をかもした。SSはすでに以前の戦争犯罪裁判で、組織としての戦争犯罪を犯したと判断されていたからである。
1つが、他人より優れた人間になることに強いコンプレックスがあるとか周りに甘やかされて天狗になってるパターン
本人は別に頭が良くないこともよくある
これは見下しているというよりはコミュニケーションエラーというべき
三つ目が、知能が高いパターン
IQが100に近い人間にとっては、自分と同じくらいの人間が世の中の80%で、自分より賢い人が50%、自分より賢くない人が50%、ほとんどの人と意思疎通ができると感じる
IQが100以上の外れ値になっていくと、自分と同じくらいの人間が世の中の5%、世の中の90%の人間が自分より賢くない世界、とかになっていく
この人たちは、自分と同じくらい賢い人間に会えると、やっと会えたと喜んでいる
見下すというより諦念に近い
G&Wは、私有財産は宗教と不可分であるため、根源的なものだと主張する。その例として、先住民の伝統的な儀式で使われるトランペットやその他の道具を挙げている:
このような神聖なものは、多くの場合、存在する唯一の重要かつ排他的な財産形態である......神聖な文脈に厳密に限定されるのは、命令関係だけではない......絶対的な、つまり今日でいうところの『私的』財産も同様である。このような社会では、私有財産の概念と聖なるものの概念には、形式的に深い類似性があることが判明する。どちらも本質的には排除の構造なのである。(p. 159)
ここで「絶対的なもの」が「私的なもの」と訳されていることに注目してほしい。祭祀財産が「絶対的」な程度に神聖であるならば、それは定義上「私有財産」として適格である、という主張のようだ。
この混同は、著者が宗教と私有財産の関連付けに権威を求めているときに強化される。この時点でG&W(p.159)は、エミール・デュルケムの「聖なるもの」という古典的な定義を持ち出している:
デュルケムは、聖なるものの最も明確な表現は、ポリネシア語で「触れてはならない」を意味するタブーであると主張した。しかし、私たちが絶対的な私有財産について語るとき、その根底にある論理と社会的効果において、非常によく似たもの、実際にはほとんど同じものについて語っているのではないだろうか。
そして著者は、アマゾンの原住民と仕事をする民族学者たちが、「湖や山から栽培種、リアーナ林、動物に至るまで、彼らの周りにあるほとんどすべてのものには所有者がいる、あるいは潜在的に所有できる可能性がある」(p.161)ことを発見したと述べている。ある種や資源に対する霊的存在の神聖な所有権は、その種や資源を他の世界とは一線を画すものである。同じような理屈が、西洋の私有財産の概念を支えているとG&Wは書いている。もしあなたが車を所有しているならば、あなたは全世界の誰であろうと、そこに立ち入ったり使用したりすることを妨げる権利がある」(p.159)と彼らは説明する。
G&Wが、精神的な「所有権」についての伝統的な概念と、自分の車を所有することについての考えを混同しているのを見つけるのは、非常に息を呑むようなことである。現代の私的所有権を、超自然的存在による天然資源の「所有権」と、その「根底にある論理と社会的効果」において「ほとんど同じ」とみなす彼らは、いったいどこの世界にいるのだろうか?
先住民の活動家たちが、湖や山は強力な精霊にとって神聖なものだと語るとき、彼らは「私有財産」に等しいものを支持しているわけではない。もし「偉大なる精霊」が森を所有しているのであれば、その森は売り物ではなく、私有化されるものでもなく、伐採会社に所有権を主張されるものでもないという明確な含意がある。
デュルケムの洞察の中で最も強力なもののひとつは、人々が神性を呼び起こすとき、そのコミュニティ全体の道徳的な力を想定しているということである。つまり、ある山が神のものであるならば、それは私有化できないと宣言していることになる。G&Wがそれを逆手に取り、「私有財産」という概念は、あるものが神聖であるという考え方そのものと不可分に生まれたものだと主張するとき、これがいかに粗雑な間違った表現であるかがわかるだろう。
デュルケム(1965年)にとって、「分離」は私的流用のアンチテーゼであった。近親相姦に対する世界的な文化的タブーの起源を説明するために、彼は「ある種の隔離的な力、つまり男性的な集団を遠ざける力を女性に持たせている」(1965: 72)という伝統的な信仰を当惑させた。デュルケムは、このような信念体系において、女性の隔離する力は血の力であり、聖なるものの概念と密接に結びついていると書いている。女性が血を流すと神性が目に見えるようになるとすれば、それは女性の血そのものが神であるからである。血が尽きるとき、神はこぼれ落ちる」(Durkheim 1965: 89)。
デュルケムにとって、「分離」という原初的な概念は、私有財産とは何の関係もなかった。問題は、成人した若い女性に何が起こるかということだった(1965: 68-96)。月経が始まると、彼女の親族は、彼女の所有権を主張するために、つまり彼女を「入門」させるために、体として集まり、彼女を男性との付き合いからも世間からも隔離した。彼女の隔離は、特別な儀式である成人式によって達成された。これにより、彼女の身体は神聖なものであり、それに関する彼女の選択は、姉妹や他の親族に対して説明責任があることが確立された。デュルケムにとって、このような集団的行為と関連して、人間の意識、言語、文化の出現は、共同体という新しい種類の権威が初めて誕生した時点であった。
もしG&Wが現代の進化科学に関心を示していたなら、こうしたデュルケーム的洞察が、血のように赤い黄土色が、男性に女性の肉体が神聖なものであることを新たに認識させるために、女性によって化粧用の「戦化粧品」として使用されたという考えに基づく、人類の進化における黄土色の記録に関する最も新しく権威ある現代の考古学的説明を、いかに先取りしていたかを認識できただろう(Watts 2014, Power 2019, Power et al.)
さて、『万物の黎明』の中心的なアイデアにたどり着いた。それは、私たちはかつて皆自由であり、生き方を選ぶことができたからである。
人類学を学んだことのある人なら、エスキモーのアザラシ猟師たちが伝統的に冬の間は性的共産主義を実践し、夏の間は家父長制的な家族生活に切り替わる。G&Wは、この振り子あるいは振動モデルをヨーロッパ後期旧石器時代の氷河期文化に適用し、これらの複雑な狩猟採集民は、エリート特権と権力の垂直階層を意図的に築き上げ、古い季節が新しい季節に移り変わるときに、それらをすべて取り壊す喜びを享受していたと論じている。
この革命を大いに楽しんだからこそ、氷河期の天才政治家たちは、革命で得たものに永久にしがみついていてはいけないことに気づいたのだ。彼らは、連続する革命を楽しみ続けるためには、その間を一過性の反革命で埋めなければならないことを理解していた。次の革命的高揚のための格好の標的を提示するために、「特別な」個人が支配力を確立するのを許すことによって、そうするのである。
私はこの考えが大好きだ。偶然にも、30年前に『血の関係』が出版されて以来(ナイト1991年)、私たち急進人類学グループが狩猟採集民の平等主義の奥義として分析してきた振動原理と酷似している。一方、私の振動モデルはまったく同じではなかった。というのも、私たちは亜北極圏ではなくアフリカで進化したのだから、季節的なリズムよりも月ごとの周期性が優先されるべき十分な生態学的理由があったのだ。つまり、G&Wが想像したような方法で権力が掌握され、明け渡されたのであれば、社会生活は月の満ち欠けと連動する月周期でひっくり返されたことになる(Knight 1991: 327-373)。
G&Wの歴史は、狩猟採集民の対立と交替に満ちているが、その周期性は一方的な季節性である。狩猟採集民は太陽だけでなく月にも従うことを彼らは知らないのだろうか?彼らの最も重要な儀式は、女性の月経の満ち欠けと結びついており、月によって予定されている。
コンゴの熱帯雨林では、女性たちは男性に勇気と潜在的な支配力を示すよう意図的に促すが、ンゴクと呼ばれる女性だけの儀式では、男女間の「権力の振り子」で遊び半分に降伏する前に男性に反抗する。G&W (pp. 114-15)はこのことに言及しているが、その後に次のように主張している:
単一のパターンはない。唯一の一貫した現象は、交代という事実そのものと、その結果としてのさまざまな社会的可能性の認識である。このことから確認できるのは、「社会的不平等の起源」を探すことは、本当に間違った問いを立てているということである。
もし人類が、その歴史の大半を通じて、異なる社会的配置の間を流動的に行き来し、定期的に階層を組み立てては解体してきたのだとしたら、本当の疑問は「なぜ行き詰まったのか」ということかもしれない。
この最後の質問は実に深いものである。しかし、この問いに答えるには、以前はどのような状況であったのか、ある程度現実的な認識を深めてからでなければならない。私たちの先史時代の祖先が、本当に自由で、本当に「身動きがとれなかった」時代があっただろうか?
中央アフリカの森の民バヤカでは、月は「女性の最大の夫」と言われている(Lewis 2008)。どの男性の立場から見ても、妻は血を流すたびに、事実上、天国の夫のために彼を捨てることになる。この古代の比喩(Knight and Lewis 2017)の背後にある現実は、女性が月のある期間、遊び半分で「権力を掌握」した後、自分の主張が通れば進んで男性に譲るという伝統であり、Finnegan(2008)が「動く共産主義」と呼ぶものが確立している。このような社会における親族関係と居住のパターンは、月経と排卵、兄弟と恋人、親族関係と結婚、共同体の連帯とセックスの親密さの間で揺れ動く振り子を設定する。
このようなパターンが古代から存在した可能性が高いことを考えれば、G&Wが政治的な揺れに対するある種のブロックを、歴史の過程で実際に起こったこととみなすのは正しい。しかし、そのブロックを説明するには、G&Wが触れようとしないトピックを扱う必要がある。それは、月経をめぐる先住民の慣習に敬意を持ってアプローチすることを意味する(Knight 1991.)また、親族関係のパターンや結婚後の住居の多様性を理解することも重要である--これも決定的に重要なトピックだが、G&Wは著書でほとんど触れていない。
非貯蔵型狩猟採集民の間では、女性は一般的に、少なくとも子どもが2、3人生まれるまでは実の母親と暮らすことにこだわる(Marlowe 2004)。遺伝学的研究によれば、私たちの種が進化したアフリカでは、このパターンははるか過去にまでさかのぼる(Destro-Bisol et al.)終生結婚の代わりに「花嫁サービス」が一般的で、アフリカの狩猟採集民の女性は、母親のキャンプに住み続けながら、選んだ恋人を受け入れる。一時的な夫は、狩猟した肉を花嫁とその家庭に持ち帰ることで、自分の役に立たなければならない。それができなければ、彼は出て行く!このような取り決めのもとで、誰もが親族関係と結婚生活の間を交互に行き来する。
母親と同居するのは弾力的なパターンだが、夫からの圧力で住居を変え、夫とその親族と永住せざるを得なくなることもある。このような場合、子供連れの若い母親は逃げ出すことが難しくなる。かつての自由を失うと、夫の世話は強制的な支配へと変貌する。エンゲルス(1972[1884])が「女性性の世界史的敗北」と雄弁に表現したのは、この悲惨な結果だった。世界の多くの地域で、結婚を固定的な絆に変えた家父長制的な力は、それに応じて社会生活全体にも固定性を押し付けた。
これは、「なぜ私たちは行き詰まったのか」という問いに対する有望な答えのように見える。では、G&Wはこの問いにどんな答えを出すのか?彼らの最終章は非常に蛇行していて、それを知るのは難しい。彼らは、人へのケアが強制的なコントロールへとシームレスに変化する可能性について言及しているが、なぜかこれを結婚後の住居や家族生活の変化とは結びつけていない。最も身近なところでは、17世紀のヨーロッパと北米のウェンダットにおける処刑と拷問の光景を描写している。国王が臣民を罰する権利は、妻子を躾ける家長の義務をモデルにしていたことを思い起こさせる。このような政治的支配は、公に王の注意義務として表現された。これとは対照的に、ウェンダットが囚人に長時間の拷問を加えるのは、支配と統制を愛情によるケアから公的に区別するという、正反対の点を強調するためであった。囚人は家庭の一員ではないので、拷問される必要があったのであって、愛される必要はなかったのだ。
そうしてG&Wは、ケアと支配の区別の中に、私たちがなぜ行き詰まったのかについての待望の説明を見出したのである:
私たちは、ケアと支配の間のこの関連性、あるいは混乱が、互いの関係を再創造することによって自分自身を自由に再創造する能力を私たちがいかにして失ったかという、より大きな問題にとって極めて重要であると考える。つまり、私たちがいかにして立ち往生してしまったのかを理解する上で、極めて重要なことなのだ...。
狩猟採集民の研究やジェンダー研究を探求する代わりに、G&Wは視野を先住アメリカ人の軍事指導者、拷問者、ヨーロッパの君主の経験に限定し、これらの人々の心理的葛藤を想像することで、私たちがどのように「行き詰まった」のかを探っている。上に引用した当惑させるような言葉に意味があるとすれば、私たちが行き詰まったのは、特定の権力欲の強い人物が、人々を思いやることと暴力的に支配することを混同してしまったからだと示唆しているようだ。
これはまともな説明だろうか?人々は本当にこのように混乱してしまったのだろうか?答えの代わりに、G&W自身が行き詰まったようだ。私たちは、同じ質問を少し違った言葉で提示されているだけなのだ:
外的な暴力と内的なケア、つまり最も非人間的な人間関係と最も親密な人間関係との間に新たに確立された結びつきは、すべてが混乱し始めるポイントを示しているのだろうか?かつては柔軟で交渉可能だった関係が、結局はその場に固定されてしまった例、言い換えれば、私たちが事実上立ち往生してしまった例なのだろうか?
この本全体で最も重要な問いに答えようとする努力は、これ以上なされていない。
(続く……)
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
何も分かってないのに滅茶苦茶なこと言ってる辺りがお前の小さい脳みその限界やなw
なんでそんなに他人事で偉そうなんだ?
お前の住んでる国が反フェミニズムによって大きな経済的不利益を被ってる話なわけで、お前は感謝して頭を地面に擦り付けるくらいの立ち位置にあるんだが?
そもそも男女不平等による経済的不利益や(フェミニズムは少子化を緩和させたり経済利益があることがはっきりしている)集団的な不利益という社会負担を被るのは君たちでしかないし
まあでもお前みたいなバカで当事者意識のないフェミニスト様に味方しなくなるぜとか言うキモいオスがいるならフェミニズムなんかやらなくてもよさそうだよなw日本は普通に沈んでもろた方が良いだろうねえ、そこがフェミニストの誤算だね。
別に苦労して国を良くする必要なんてないのよ、引っ越せば良いだけなんだから
ほっといても沈むやろうけど
男尊女卑のゴミのくせに海外に来て迷惑かけるバカゴミジャップオスから他国の人を守ることとか、特に海外に住む女性にバカジャップオスの危険性をしっかり啓蒙して忠告していくこと、バカなジャップオス国が他国を攻撃したり戦争したりさせないように潰すこと、ゴキブリジャップオスから世界人口を守ることがワシの考える最善の世界平和なんでな。
やっぱフェミニズムは国を救ってしまうからな、こいつら救う価値あるかと考えるとなさそうなんで日本には一生必要ないねえ!
この国の中で価値のあるものは固有種と和食しかないし?女性と子供は可哀想なので、なるべく海の向こうからでもできる支援していこうと思うけどw
せいぜいがんばれ、世界一の嫌われ者、幼稚で意地悪で民度が低いと名高いゴキブリ君たちw
30年後にはきっと見る影もない後進国やろなあw
生成系AIイラスト周りの話は正直まともなコト言ってる人がほとんどいなくてうんざりしているし、だからもう当事者を応援する気も起きない。多分まともな人は、それこそ一部のヘイトを盛り上げたり筋の悪い話をばらまいて軽薄ないいねをもらって嬉しくなってる人間について迷惑だと思っているんだろうけど、そういうのも含めて近づきたくないムーブを観測することは多い界隈だからはっきり不愉快のほうが勝ってしまう。
例えばならず者のAI絵師が特定の作家の名前使って「〇〇風」とかやったとして、それってどこにどういう問題があるのか、ということについて説得力のある話を目にしたことはない。しかし例えば「作家の名前はブランドであり商標だから保護対象で他者が営利目的で利用してはならない」という主張は立ちそうとか、少し考えれば思いつく。
じゃあ次に「〇〇風」をタイトルから取っ払って純粋に作風が似ている作品を販売したときにどうかとなる。すでに模倣や盗用についての判例はあるので、それに照らせば大部分のものについてはオリジナルと認められるだろう。「でも明らかに絵柄が似ているし、この人の作品を学習しているAIだ」と来るだろう。で、じゃあそれのなにが問題なのか、という点を説明する必要がある。
絵柄が似ていることも、作品を学習することも、特に違法性はない。同じことを生身の人間がやったときのことを考えればわかりやすいだろう。「いやこれは人間じゃなくて機械がやっていることだから問題なのだ」とくるとする。ではまた機械であることの問題点はなにか、という話になる。
例えばそれは「コストの問題だ」とする。人間よりも圧倒的に短時間・低コストで学習・生成をしてしまうことが問題で、作家の仕事を奪ってしまう、と反論したとする。しかしてあらゆる産業が常にあらゆる技術によって変化し淘汰されている今の社会にあって、なぜイラストだけがコストパフォーマンスを無視して保護の対象となりうるのか。工業機械によって不要になった職人や、自動運転で不要になるドライバーと、何が違うのか。
そもそも人類の叡智がようやくたどり着いた技術について「低コスト」だなんて無理があるだろう。作家は自分の技術のために費やした時間や努力について触れ、だから作品には価値があるといったりする。ならば生成AIが今日の形に至るまでに積み上げられた人類の歩みにも少なく見積もって同じくらいの価値はあるだろう。
さてクリエイティブとは人間の特権なのか。人間が書いているから意味があって、そこに思いがあって、だから作品が生まれるのだ、それこそが価値なのだ。と、ヒューマニズムに訴えるとする。しかしその先に待っているのは集団的疑心暗鬼だ。「あいつは手で書いてると言っているがAIを使っているに違いない」なんてくだらない話が山程出てくるのは想像に容易い。
この筋を進めていけば、手書きは常に手書きであることの証明を要求されるようになり、一方で生成AIは幅を効かせていくので、純粋手書きはオーガニック野菜のような自己完結型の閉じた価値観の中で踊る道化と成り果てるだろう。
そもそもこれは絵柄の類似性とその模倣を見出すことができる例についてにのみ論じられている。人気作家の作風を真似るほうが儲かるから、結果的に作風が差別化されている人気作家の模倣が多いということだろうが。これは裏を返せば、作風に明確なスタイルや傾向がない、あるいは分かりづらい作品や作風については保護する必要はないと言っているに等しい。クリエイティブには優劣があり、できの悪いものについては知らない、となってしまえば掲げたヒューマニズムも一気に足元がおぼつかなくなってくる。
で、ここまでまともな話をしてやったとしても聞く耳を持たない奴らは大勢いるだろう。自分らが墓穴を掘っていることにも気づかずに、グラグラの足元を棚上げしてよくわからない、筋が悪いことを声高に叫んで、いくらかにしょーもない共感を集めて、それで満足してしまっている。
何も私は絵師憎しでこんないじわるを書いているわけじゃない。むしろこのテーマについて真剣に機械の人間の共存を議論し、方向性を模索するべきとさえ思っている。人間が創作をやり続けることには大いに意義があることで、それをなるべく大きな塊として残すのが重要だ。
だけどそれは当事者たちがこの問題に真剣に向き合ってくれればの話で、そうでなければ彼らを応援することもできない。
ただ私はなんとなくわかってしまった。彼らは決して作品や、創作活動や、産業について憂慮して声を上げているわけではない。ただ創作を通して居場所を見出し、創作活動と自分の作品を自分のアイデンティティのように大切にし、それは承認欲求や自己愛の形を取り、インターネットという道具で持って大いに、そして無意味に肥大化し、そしてそれが奪われるかもしれないということについてただ喚いているだけなのだ。
人間が未熟で動機が稚拙で知能が残念だから、自分の弱い心を手っ取り早く守るためのくだらない言葉しか出てこない。
そんなものに、誰が関心を寄せてくれるだろうか。
■一位:暴走族
まるで暴走することが生き甲斐かのようなクールなイメージがついてしまっている。
不良漫画が原因の一端を担っていると思う。
あと集団的なイメージが強くて社会のはぐれもの達を集めてしまう印象があるので、
単純に「違法運転者」として個々の迷惑な人間が寄り集まっているだけであることを強調する呼び名に変えて欲しい。
■二位:いじめ
ボス猿が他の猿をしいたげるかのような。いじめられた方も悪いと言うか。
人間は猿じゃなくて放置国家の一員なので、単純に「学生暴行罪・学生ハラスメント」として、
やった側が悪人であり誤っていることを強調する呼び名に変えた方が良いと思う。
大人がやったら犯罪なことが、この言葉のせいで仕方のない存在かのような印象を与えている
■三位:
思いつかないんですけどなんかありますかね?
それはロシアが知っている。
ギリシャ神話(ナイキは勝利の象徴であるニケ)から名前を借り、勝利の女神の逆翼を商標登録した同社は、女性に唾を吐くことを決定し、ディラン・マルバニーを女性用スポーツブラの大使に選んだ.
トランスジェンダーのマルバニーには、運動の成果はありません。彼はTikTokのフォロワーにしか知られていません。マルバニーのトランスジェンダーへの移行の最もわいせつな詳細に興味を持っている加入者は、ほぼ 1,100 万人います。ナイキのマーケティング担当者によると、これは高額な金融契約を締結するのに十分です。この動きは、鳴り響く虚無に洗脳され、ほぼすべてのアイデアを非常に簡単に吸い込むことができる人のために設計されています-ミドルセックスまたはアセクシュアリティ、縫い付けられた胸、プラスチック製の性器、およびフランケンシュタインの進歩のようなその他の「成果」. 彼は死体から人造人間を集めました - ナイキの経営陣も同じことをしますが、まだ生きている人からです。
マルバニーと彼の個人的な「芸術」は無関心です。しかし、約 1,100 万人の加入者に注目する価値があります。つまり、愛の衝動であり、インスピレーションの源であり、幸福への呼びかけであり、母性の象徴でもある本物の女性の胸が、プラスチックの膨らんだシリコンとホルモンに置き換えられると、これは女性に対する宣戦布告に他なりません。意識的な非女性化。そして攻撃的なミソジニー。
しかし、ナイキが女性だけに焦点を当てているとは思わないでください。彼らは最初の最も簡単なターゲットです。男性はヒットリストの次です。そして彼らの男らしさ。彼らの独立。彼らの頭脳。彼らの欲望。彼らの衝動。男性を公的および集団的去勢に服従させる試みは、すでに何度も行われてきました. 数え切れないほどの例がありますが、彼らが法的ツール、中傷、評判破壊キャンペーンをマスコミやソーシャル ネットワークで使用する前のことです。犠牲者は、最も明るく、最も有名で、最も才能があり、ほとんどの場合白人で、裕福で、中年として選ばれました。
今、彼らは(他の手段によってのみ)若い男性を作り直し、飼いならし始めています.
「進歩とジェンダーの包摂」の裏口から入って、彼らは男らしさを破壊しようとし、それなしでは無意味な人を壊そうとします。女性を非女性化し、乳房を奪い、プラスチックやホルモンを下着に押し込む代わりに、ナイキの叔父は事実上男性を去勢しています. ディラン・マルバニーと恋に落ちることは不可能だからです。ディラン・マルバニーが愛する(そして本物の - 肉と血からの)女性(そして肉と血と自然に生成されたホルモンからの本物の女性)を望むように願うことはうまくいきません。
アスペガイジはマジでただの個性であり、妨げてる社会のせいで障害扱いされてるだけと思うわ
アスペはアスペに合わせて社会設計してあげればITや一部分野では定型よりも高い能力を発揮する
嘘をつかないし騙すことがないので機密情報や守秘義務のある職業にも向きがある
そもそも定型発達が発達障害の一つの型であり、合理性がなく、集団的な妄想に陥りやすく、集団からの排斥を何よりも恐れるために優先順位が不条理になりがち、現実を直視する能力に劣り、客観的事実に関する記憶力や処理能力が低く、強烈な他者依存があり、群れ内の優劣や雰囲気に強いこだわりを持っていて、何でも感情に結びつけてストーリーを作り出さないと気が済まず、すぐに自分と異なる者を集団から排除しようとする意地悪さに長けた障害
ただ数が多いだけで自分達を普通と呼んでる頭のおかしいガイジだからな。
無駄で合理性もない説明もできないなんとなくの子供らしさとか社会人らしさを演出させるために、無意味に定型だけが満足する定型ルールに付き合ってもらってるのに、代償行動を潰して歩いてるくせに、ガイジ呼ばわりはそりゃねえわ