はてなキーワード: 一元的とは
立憲民主党の泉代表は、経済界や学識経験者らによる「令和臨調」の会合に出席し、野党間の連携の在り方について、「立憲民主党は中道リベラル政党だ。世界の潮流である人権感覚を持ち、安全保障では防衛力の整備が当然だと思っている」と述べました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230722/k10014139241000.html
私たちは、「社会的な公正と公平」の旗を掲げて、小泉・自民党政治と対決します。市民的自由を尊重するリベラルな政治と働く人々の声を基盤とするのが社民党です。野党同士の意思の疎通、結束を図りながら、率直な議論をしていきたいと考えています。
社民党は今臨時国会において、安倍新政権が持ち出す悪法を阻止するために全力を挙げ、日本国憲法のもとで戦後に獲得した価値が重要であると考える人々を結集していきたい。リベラル勢力の大結集をはかって、一元的な価値を押しつける流れを変えていく。
今後リベラル層が新たな動きを展開せざるをえない中、いかなる政策を策定するかで、共産党の政策は指針を与えるものとなっている
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-18/2014121801_07_0.html
●国民総背番号制へ
国による国民監視が強まるとの不安にたいし、政府は「国民を管理する仕組みになっていない」と説明します。
しかし、住基ネットが始まる前に、国の利用事務を恩給・共済年金の支給、建設業許可など現在の九十三から、旅券発給や婚姻届など二百六十四に広げる法案(継続審議)を出してきました。
住民基本台帳法「改正」のさい、国会は「安易な拡大を図らない」と付帯決議しましたが、これに反するものです。
来年八月からは希望者に「住基カード」が交付されます。これには市町村が図書館の利用や印鑑登録など独自のサービスを付加できます。政府は、納税者番号にも利用できないかと考えています。
収入や財産、思想信条から病歴、犯歴まで個人情報がまるごと集められることになります。情報が集まれば集まるほど、漏えいしたときの被害は大きくなります。
さまざまな個人情報が住民票コードを介してつながることになります。国民一人ひとりの個人情報が中央の情報センターで一元的に把握でき、国民監視の道具として使えることになるのです。
日本ペンクラブ(梅原猛会長)は、「国民総背番号制につながるプライバシー侵害や市民生活のじゅうりん等、容認しがたい」として住基ネットに反対しています。
まさに、その通りと思う。
>行政の一元的な指揮監督のもとでシステマチックに動くのが本来なら理想であるみたいな勘違いがある。
話せば話すほど、ヒントがみえてくるし、考え方に大きな違いはないなと思った。
ぶっちゃけ災害現場に立ったことの有る無しで、あまりにも見えてるものの違いがある。
イメージだけで闇雲にボランティアを危険視したり(あるいは手放しに称揚したり)党派性イザコザの種にしたり、そういうのはつまり「ボランティアとはどういうものか」がいまだあやふやなままだからだろう。
行政の一元的な指揮監督のもとでシステマチックに動くのが本来なら理想であるみたいな勘違いがある。
行政がやるべき支援の人員不足をタダで補う予備軍、代替物のイメージ。そのイメージに合致しないものは、先進的な取組みをしてる団体も迷惑Tuberも十把一絡げに叩かれる。
どんなに福祉制度が整備された社会にも必ず取りこぼしはあり、それに気づいた者が自分の責任で手当する、創意をもって気付きをかたちにするのがボランティアの領分なのだが。
本質的には個人の集団だからこそ高度に連携しなければならないし、自発性に立脚するものだからこそニーズの扱いについて考えるべきことが多くある。
今回の能登の震災の報を見ていてあらためてそういうあたりのことをいろいろ考えていたところだったので、思いがけず経験者の人とやりとりできて、刺激になってよかった。
前述のような「ボランティアとは」の基本レベルのことをみんなわかってなくて嘆かわしいってことじゃなくて、そうした認識はスタート地点にすぎないので、今後自分でどれだけ動けるかはわからない(能登にも行かない)が、考えては行きたい。
あとこれは全くの蛇足だけど増田とかでボランティアの話してもダメだな。
経験者にあったのすらほぼこれが初めてだし。
https://togetter.com/li/2240451
少し前はこんなの
https://togetter.com/li/2229705
こちらの話題。残念だが少なくともデータ上は一切そんな傾向はない。日本企業は漫画ビジネスの電子化に真剣に取り組み、大成功している。
集英社、直近も増収
https://www.shinbunka.co.jp/archives/5822
https://gyokai-search.com/3-hon.htm
利益ではなく売上が単純に増えており、どこかで食いあっているというよりは、業界全体が好景気と言ってよい。
2019年の運営者逮捕の後、わかりやすく売上が増えている。違法アップロードコンテンツは相当な悪影響があったと言える。
https://shuppankagaku.com/statistics/mook/
その穴をアプリ、ウェブでカバーできているのは大きい。自社内広告との相性がよいのも相乗効果を産んでそうだ。
売上が増えているということは、本がもっと売れていることを意味するだろう。これは普通に考えれば新規顧客を掴めている。紙から電子への単純置き換えだけではこの動きは考えにくい。そこで思い当たるのが、ジャンププラス等のチャレンジングな作品群が客の誘引に一役買っている可能性だ。紙媒体ではトップクラスの作品しか掲載できないところをウェブでは比較的敷居を低く展開できていて、そこに今までは来なかった客層が集まっているのではないだろうか。
さて、それをふまえて。
この件は悪名高いCCCDがまずは浮かぶだろう。ただ、不正対策を何らかしないといけないのは、寧ろ漫画村が良い例として示されており、この後メジャーとなる個人リッピング用途への阻害要因となったのでやり方自体はあかんかったとしても、防ぐ行為自体を悪手とは言い切れないだろう。
あと、そもそも漫画出版はコピーへの対策がほぼ取れないので、同じ轍も何も違うアプローチを取らざるを得ないという背景もあるね。
日本の音楽業界もCDという物販以外を検討した経緯はある。例えばレコチョクやLismoといったサービスである。音楽業界は元々が電子機器再生前提なので、寧ろ電子化への対応はかなり早いほうだ。音楽業界は寧ろよい轍(?)。
ただ、このサービスがCDの売上を食ったというデータはない。そして、より一般的にCDがmp3やアップルミュージック含めたダウンロードコンテンツに置き換わった事実は残念ながら存在しない。
https://www.economist.com/graphic-detail/2019/10/18/the-strange-revival-of-vinyl-records
なんと、CDから電子販売の置換え以上に、両方合わせて音楽がコンテンツとして売れなくなってしまっている。そして、その理由を電子への置換えと仮定しようとしても、CDの減少のタイミングがあってない。これは、音楽コンテンツそのもののシュリンクである。従来有名ミュージシャンが歌えばミリオン、みたいな世界だったが、そんな事例が急減したことからもわかるだろう。カラオケ隆盛を越えた、レンタルで十分になった、少子化、他の嗜好コンテンツに客を取られた等言われてるが明確に一元的な理由は探しきれない。
その傾向は元々出てきていたが、止めとなったのはストリーミングサービス。シンプルに音楽を買うという文化が低下していったと言ってよい。
ここから言えるのは売り物がCDかmp3かは関係ないし、日本の業界がうまく電子化商売(notストリーミング)出来たとしても残念ながら太刀打ちは難しかった、時代の大きな流れだろう。
日本はiPodに負けたという言論があったりするが、そういう意味ではオーディオメーカーともかく、音楽業界は特段問題なかった。当時はまだまだダウンロード購入志向には早く(結局はCD市場には程遠い結果でもある)、リッピング元は結局はほとんどCDだったはずだ。それよりは、やはりストリーミングの影響がえげつない。
日本音楽業界は多分ここが一番マズッたところ。今のミュージシャンは音楽コンテンツそのものの売上は期待できないため、YouTube公開したり、spotify登録して利益を上げてたりする。ショバ代をみすみす支払って。ここが日本企業としてはレーベルの垣根を越えてでも、独自サービスを作ってでも入るべき領域だっただろう。
そして、コンテンツ売上が下がった時に音楽業界が取った手段は、ライブイベントによるマネタイズ。それはコロナ禍で大打撃を受け、逆に出版業界には追い風に。可哀想なところも無くはないが、音楽の売り方に向かい合わなかったツケが回ってきたとも言えそうだ。
以上を考えると、出版業界は同じ轍は踏むまいとプラットフォームビジネスを展開し、成功しているとわたしは思うのである。いやよくやってるよ。
あと、出版業界は版元と卸(≒閲覧サイト)とでクロス売り出来てるのも強みかと。コンテンツホルダーがkindleに限らずコミックウォーカー、自社アプリ、その他諸々に併売しているのでPF同士の競争にもなり場代を吸い取られにくくなってるし、逆にお店、つまりは販売する機会が多く作れている。これは音楽レーベルは多分できてないよね。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230822/k10014169631000.html
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防衛省は、サイバーや電磁波など、陸・海・空の自衛隊どれかに収まらない分野に日頃から対応する必要性が高まっているとして、来年度、各自衛隊を一元的に指揮する常設の「統合司令部」を240人程度の規模で設置する方針です。
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統合司令部の設置により、これまでは自衛隊制服組トップの統合幕僚長が防衛大臣の補佐に加え、作戦指揮も担うことになっていましたが作戦指揮については統合司令部のトップが担うことになり、役割分担ができるということです。
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陸海空自衛隊を一体的に部隊運用することを目的とした防衛省の機関
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近年、統合幕僚監部を司る統合幕僚長は、アメリカで言うと文民の最高司令官である大統領と国防長官の最高軍事補佐機関であるスタッフとしての統合参謀本部議長の職務と、最高司令官の命令を武官として最高の立場で指揮するラインとしての統合軍司令官の機能を併存させているため、大規模災害や有事の際に、内閣総理大臣や防衛大臣への補佐と各部隊への指揮という2つの任務に忙殺され対応できない可能性も指摘されている。そこで統合幕僚監部から運用部を切り離すなどして、新たに統合幕僚監部とは別の常設の「統合司令部」を創設し「統合司令官」ポストを新設して部隊運用に専念させ、統合幕僚長を大臣補佐に専念させる構想がもちあがった[18][19][20]。
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https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=119313950X02020170523&spkNum=15&single
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仮にこういう各主要国のように統合司令部が常設されれば、統幕長はいざとなったら官邸とか大臣の補佐というのにかなり専念できます。統合司令官は、まさに太平洋軍司令官との連携とかあるいは部隊指揮というのができますし、その統合司令部の幕僚は、統幕各部とか陸海空幕僚監部との連携も統合司令部の幕僚はできますし、そんなに数は大きくなくてもやっぱりそういう形があるということが、ほかの国はやっぱりやっているわけですよ。生身の人間が両方やるのはかなりこれは難しいです。
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善悪と好き嫌いの区別が出来てない!って言う人がいるけど、どっちも快不快の問題じゃないのって思う。
人を殺しちゃだめ。
なんで?
で?
だから人を殺しちゃいけない。
で?それは理屈になってないよね。そうなるには大前提として幸せにならなければならないだとか個人主義だとかいった考えを必要とするけど、それは自明の道理じゃない。なら人を殺しちゃいけないという所にも一元的には繋がらない。
まあでも大抵の人は幸せになりたいだろうから、多くの人が共感するかもしれない。実際人権思想というものがあるくらいだし。でもそれは理屈じゃなく快不快の問題であって、それに共感するかどうかの多数決ですよね。
人間という言葉で括れてしまうくらいだし、9割9分くらいは同じ構造の生き物なんだろうと思う。だから大多数が共感出来る事だってあるんじゃないかと思う。
まあ合意とか言うけれど実際は産まれた瞬間に「この国ではこういう考えがあるのですが、同意頂けますか?」「なるほど、納得しました」なんて言って誓約書にサインする訳ではないし、人権は大切ですと教育を受けている訳だし。プリミティブな感じ方だけで決まっているかと言ったらそんな事もなくて、積み上げられてきた世の中の構造とかも多分に関わっているのだろうけど。
一方で全員が全員同じものを食べて同じものを着て同じ生き方をしている訳じゃなくて、その差異は個性と呼ばれて尊重されるものだと思うし、それが故にぱっくり考えが割れる事だってあると思う。
好き放題殺し合える世の中が良いという人はあまりいないかもしれないけれど、資産が再分配される世の中が良いかどうかは考えが割れる。実際割れてると思う。
善悪というのはその大部分の共感と個人の差違の境界を見定める事なんではないかと思う。
いくら理屈を並べて正当性を主張した所で、少なくとも一個人レベルでは「人を無差別に殺したいです」と言ったらけんもほろろに突っぱねられるのがオチだろうと思う。
社会の取り決めは善意や共感頼りではいけない。理屈だったルールこそが必要だ。
なんていう事を言う人もいるけれど、その理屈だったルールを定めるのに共感抜きでは一生話が進まないと思う。規範というのは、リンゴは上から下へと落ちるみたいな個人の感性を挟む余地のない自然法則の話とは違うから。
別にそれでええやんと思うのだけど、頑なに「いや道徳や善悪とは論理的理性的なもので〜」って言う人がいるから不思議に思う。
自分の快不快と世の中の多数決を混同していて、「自分がこう思うのだから世間一般もそう考えているに違いない」みたいな事を言う人を指してそういう区別がついてないと言うのならまあ分かるのだけど。
大川隆法いわく「 この世において、テロリストといわれる人々の行動の多くは、『復讐の念』『憤りの念』『怒りの念』などによって支配されています。そして、『リベンジ(報復)として、多くの人々の血を流したい』と思っているのでしょう。ただ、この考えの底には、『神は生贄を求める』というような考えが横たわっているように、私には感じられます。
一方、『革命』という言葉も多義的に理解はされていますけれども、革命の本質は『自由の創設』です。その意味で、テロとはまったく違ったものだと私は考えています。(中略)革命というのは、『人々を一元的に支配してしまおうとする、あるいは、人々を隷従させ奴隷にしようと支配する力に対し、自由が花開くことを求めて、人々が立ち上がること』です 」
自分が知らない漫画や漫画雑誌を探しているのですが、そのうえで質問があります。
少なくとも、同人誌や自費出版物などではない、商業活動のために売り物として刊行された本については、その気なれば漏れなく知識として抑えられるようにしておきたいです。
これらは全てISBNコードが割り振られていると思うので、コードを割り振った組織などにより一元的に管理された漫画やその雑誌を含むリストというのがあるはずだと思うのですが、それを一般の人間が見る方法はあるのでしょうか?また、そのようなリストが仮にあったとしても、あらゆるジャンルの書籍も一緒くたに登録されていると思うので、漫画関連の本に絞る方法があれば教えてください。
また、ここから先は杞憂かもしれませんが、もしISBNコードが割り振られていなかったり、ある特定の地域の書店にしか出回っていない漫画雑誌があるという場合は、そういった自分が知らない埋もれた雑誌をも含むリストがネット上にあるなら、教えてください。リストとしては漏れがあるものしかないという場合は、その漏れを自分で補う方法を教えてください(効率的な方法はなく、自分の足で探し続けるしかないのでしょうか?)。
別にたくさん漫画を知ったり読んだりしたいわけではなく、自分にとってもっとも面白い漫画に巡り合いたいだけなのです。
そのために、思い立ったら漫画を調べられるようなリストを押さえておく必要があると思いました。
そのリストに漏れがあって、もしその漏れの部分こそ、自分にとってもっとも面白い漫画だったらと考えると、漏れがないリストというものに強いこだわりが生じるわけです。そういう漏れがあるリストのなかでそこには自分にとってもっとも面白い漫画があると気づかずに探し続けるのは莫大な時間の無駄ですから。
面白い漫画を見つけたいなら同人誌も視野に入れて探せばいいじゃんと思うかもしれないが、これぞ発達障害特有の病質みたいなやつで、商業漫画のなかでのみ面白い漫画を探したいと思うって言うなかば強迫観念みたいなものなんだよな。なぜ商業漫画じゃなきゃだめなのかそこにもはや合理的な理由はないんだよ。強迫観念を解消するためには同人誌を範囲に入れることは意味が無いってことだけは、自分の体のことは自分がよくわかるってやつで、それとなく悟れてしまうから。
react redux はreactの何を解決するために作られましたか
React Reduxは、Reactアプリケーションで状態管理を簡単にするために作られました。React Reduxは、Reactアプリケーションのデータを管理するために、Reduxと呼ばれるJavaScriptライブラリを統合しています。 Reduxを使用することで、Reactアプリケーションのデータを一元的に管理し、アプリケーションの状態を堅牢かつ信頼性の高いものにすることができます。
react 単体ではアプリケーションのデータを一元的に管理できないということでしょうか?
React単独では、アプリケーションのデータを一元的に管理することはできません。Reactは、コンポーネントベースのJavaScriptライブラリであるため、各コンポーネントが独自の状態(データ)を持つことができます。しかし、これらの独自の状態を統合して一元的に管理することはできません。そのため、Reactアプリケーションでは、状態管理のために外部のライブラリやフレームワークが必要になることがあります。Reduxはそのような状態管理のためのライブラリの1つです。
react 単体でもrootコンポーネントのstateを事実上のアプリケーションのグローバルな状態として扱うことは可能です。それだと何か問題ですか?
React単体でも、rootコンポーネントの状態をアプリケーションのグローバルな状態として扱うことは可能です。しかし、この方法は、アプリケーションが複雑になっていくにつれて、状態管理が難しくなる可能性があります。また、rootコンポーネントのstateを他のコンポーネントに渡す必要がある場合、propsを介して渡す必要がありますが、これは非常に冗長な処理となり、コードの可読性も悪くなります。
さらに、rootコンポーネントのstateを変更するためには、必ずrootコンポーネントのメソッドを介して行う必要があります。これは、stateを変更するためには、必ずrootコンポーネントから呼び出される必要があるという制約があるためです。この制約は、アプリケーションの規模が大きくなると、管理が困難になる可能性があります。
Reduxを使用することで、これらの問題を解決することができます。Reduxを使用すると、アプリケーションの状態(state)を一元的に管理することができます。また、Reduxを使用することで、状態を変更するためには、特定のルールに従って行う必要があります。このことにより、アプリケーションの状態を変更する際に、堅牢かつ信頼性の高い方法を採用することができます。
また、Reduxを使用することで、rootコンポーネント以外のコンポーネントからも、状態を変更することができるようになります。これにより、アプリケーションの規模が大きくなっても、状態管理がしやすくなります。
ありがとうございます。まさしくそのとおりだと思います。
ちょっと増田が意図した内容になってなかったがどっちにしろ穴があった。
本当はもっと単純に、あらかじめ発表した予算総額に対してそれを上回る分をこっそり金を擦って賄ってしまえばいいという話だった。
でも当然支出は領収書によって記録されてしまう。領収書から実際に使ったお金の総額も簡単に割り出せてしまうだろう。
その総額が予算を超過していた場合当然お金の出所を問い詰められるはずだ。「お金を擦りました」と白状すればジ・エンド、インフレに国民はあえぐことになる。
ではどうするか?領収書の額を一元的に把握できる人たちに対して箝口令を敷くしかない。
独裁主義でもないのにそれが可能なのか?メディアもうっとうしい。
しかし結局なんでもかんでも告発してそれでインフレになったとしても自分の首を絞めることになるだけなんだから、主義がどうこうではなく「目をつぶる」という大人の対応がもっと今の日本人に必要だとも思うんだよね。
少なからず人間関係があるとそこから何らかの情報が来ることはあるじゃん?
局所的な事でいえば供給元から直接取得することみたいな処女崇拝みたいなのが好みだということはあるとは思うよ
でもその人間関係から情報がくるのも含めて人ひとり分の人生ってことだと思うんよね
だってネタバレが嫌なのだったら人間関係を断ってほかの情報源を断てばいいことだよね
それを続けておいてなおかつネタバレというか一元的な情報に縋りたいってちょっと猟奇的な感じがするんだわ
個人的にはそう思うんだけど、それとは別にネタバレ嫌だって人は感想をほかの人には絶対いわないってことだよね?
そういうのってそんな程度の楽しみで十分な感じ?だれかと共有したくならない?
Twitterはとにかく哲学、社会学的な思考や思想の発信に向かないし、その上それを続けていると頭がバカになってくる。
まともな哲学書とかを読むとわかるが、100字以内に収まる文章があったとして、
その文章に使われている単語一つ一つをどのような意図や文脈、意味で使っているのかをグダグダと書いていかないといけない。
例えばマルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」などは
「世界という概念はこの世の全ての属性を包括した概念だけど、一元的な全てを包括する概念としての世界というものは意味として成立し得ないよ。世界というのはいっぱいあるよ。」
ということを、日本語訳で356ページかけて喋っている。
この356ページを必死こいて理解してやっと、どういう文脈で世界が存在しないとかいう意味不明な事をこのドイツ人のあんちゃんが言い始めたのかということが共有できるのだ。
それぐらいやらないと所謂「作者の気持ち」はわからないとも言える。
ところが文字制限があると、どうしても文章を短くしなければならなくなる。
文章が短くされる事象を考える上で大事な点は、「どこを削るのか」ではなく、「何を残すか」だ。
残されるのはほぼ間違いなく主張になる。
主張が残りがちというのは、例えばカレーが米と合うということをどうしても伝えたくて
「日本式のカレーは辛さの中にもたまねぎの甘さがあって味も濃いから米と相性がいい。」
という文章を考えたけれどもどうしても短くしなければならない場合、
「カレーは米と相性がいい。」とするのが妥当だろうという話だ。
「カレーにはたまねぎの甘さがある。」だと「で?」となってしまう。理由だけでは何が言いたいのかさっぱりになってしまうし、自分としても言いたいことはこれではない。
農協のポスターになら使えそうな文章だが、言いたいことは米と合うという話なので全く適当ではない。
そうやってトリミングしていった文章は最終的に理由が薄くて主張から主張に八艘飛びする文章、
そう、Twitterでよく見るあの押し付けがましいうるせえ~文章になる。
そうなると読み手は間の文脈を自分の価値観で埋めるしかなくなる。
例えばカレーはインドカレーしか知らない人が、「カレーは米と相性がいい。」という文章を見た時、
「日本式」という補足がトリミングされているので日本式カレーという文脈で考えることが出来ず、「いや、ナンとも合うけど何言ってんだこいつは。バカか?」となりかねない。
カレーの例えだとバカバカしさが際立つが、思想や社会問題の場になってくると「これぐらい知ってるだろ…」みたいな丸投げが読み手にも書き手にも発生するので、
それは「文字制限に収めるために省略した部分を、そのうち書き手が考えなくなってくる」
という事だ。これが「バカになる」という部分になる。
さっきも述べたように文章をトリミングする際は理由や具体例が削られやすい。
そこを書かずに、論理的な構築が文章の中で完結していない文章を書くというのは実は危険な行為になる。
自分の中で「完璧に筋が通っている」と思っていても、言語化すると意外にスカスカだったり矛盾があったりすることが多い。
しかし、文字制限があるとそこを「書かなくても良い」という風になり、次第にそこの言語化自体が省略され始める。
そうでなくても、書いているうちに「あれ文字数足んねえな」と駆け足で結論を書き始める場合もありうる。
なんとなーく見覚えがあるだろうが、「前半と後半で全然違う主題になっているようなツイート」というのはこのように成立しうると言える。
こうなるともはや思考は肝心の検討すべき部分が言語化されていないフワフワの状態で終わってしまう。
「いやリプライにつなげたりメモを画像化すりゃいいじゃん」という反論もあるだろうが、Twitterは短い文章のほうがウケる。
つまり、回ってくる文章は長いものではなく短いものばかりになるのだ。
こうなるとまず作者の気持ちすら読み解けない文章から議論がスタートすることになるし、
ウケるということは共感されやすいということでもあるので、最初は長く文章を書いていても徐々に短いほうが良いのかなみたいな誘惑が読み手にも発生する。
長文がウケないわけではないが、打率の差がある。
そしてそもそも長文自体もTwitterに毒されていた場合は、「ただ論拠に乏しい長い主張」になり得る。
そういえばそうだった。うっかりしていた。お察しの通り、法学を学んだのは十数年前だし現職の法曹や法学博士ではない。
一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
このこと自体は知っている。それで法学を学んだのが十数年前の人間として聞きたいのだが。今は一元的内在制約説にプラスアルファするのが主流だとされていることは知っているが、そこのプラスアルファに統一的な見解は出ているのだったか。
危険の防止が含まれるのは一般的な見解だ。あるいはさらに含めて(精神病の強制治療などにおける)本人の利益も制約のうちに入れる説もある。だがそこは少なくとも俺の学んだ頃には結論が出ていなかった。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。
実は気づいていて、そこは『原則として』という但し書きに含めていた。だからこの指摘も想定内だ。
しかし(繰り返すが増田の法学知識は若干古い)『一元的内在制約説を拡張した』考えが主流なのだから、まずは共通的な考えとして一元的内在制約説ベースの考えを紹介した。
ついでに言うと、二重の基準論は4の最後のところで少しだけ触れている。
どのみち、『秩序の維持』も無制限に認めたら大日本帝国憲法にしかならないわけで、ジェンダー平等を目的とした表現規制法を作った場合に行為と結果のどちらに重点を置いたとしても(片方に全振りするつもりはない)『宇崎ちゃんの献血ポスター』『温泉むすめ』『たわわの広告』『ロリエロマンガ一般』を規制できるとは俺は思わない。
間違い。
なんか、真に受けてる人が多いみたいなのでちゃんと書いておくけども。一部ブクマが指摘しているとおり、「公共の福祉」を人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解する立場は「一元的内在制約説」と呼ばれ、昭和30年代からわりと長らく憲法学の主流な学説とされてきた。
けれど、机上の空論に過ぎないことが既に広く知られている。
みんな大好き長谷部教授の「新法学ライブラリー2 憲法」(新世社。当増田の底本は第4版(2008年))から持ってきてみよう。
もっとも,一元的内在制約説については,より根底的な点で,その妥当性に疑問を呈することもできる。
第一に,人権を制約する根拠となるのは,かならず他の人権でなければならないとの前提は,「人権」という概念をよほど拡張的な意味で用いない限り理解が困難である。たとえば表現の自由を規制する根拠として持ち出される街の美観や静穏,性道徳の維持,電波の混信の防止などは,いずれも個々人の権利には還元されえないものであり,社会全体の利益(公共の福祉)としてしか観念しえない。一元的内在制約説のよって立つ前提は,政府がかならずしも個々人の権利には還元し得ない社会全体の利益としての公共の福祉の実現を任務としているという明白な事実をあいまいにするばかりでなく,現にある人権が制約されている以上,その制約根拠となっているのも人権であるという誤った思考を導く危険がある。
元増田は、一元的内在制約説という古い欠陥理論に依拠している点で誤っているのみならず、一元的内在制約説の解釈適用においてすら、「『人権』という概念をよほど拡張的な意味で用い」る必要があるにもかかわらず、表現の自由の対抗利益に置きうる「人権」を限定的にすることで「公共の福祉」概念を過小に設定している。
一元的内在制約説は1955年に登場した古い学説で、かつては一世を風靡したが、今じゃ(というか十数年前には既に)芦部憲法に高橋教授が個人の人権の間に損する矛盾の衝突の調整と、自由国家にとって最小限の任務とされる社会秩序の維持と危険の防止である
という定義を付記せざるを得なくなっている。すなわち、現代ではもはや維持されていない学説だ。
そもそも元増田自身が「最低限の性道徳」による制約を引っ張ってきた時点で気付かなかったのだろうか。
そして増田の論はその後、創作物規制・広告規制を行うとするならば、それは当然に『表現の自由』に対抗できるだけの権利・利益が無いといけない。
という独自の見解を開陳し、それを武器に、対抗利益の要保護性をお気持ちで断じてバッサバッサと巻藁切りを始める。
まぁこれは、一元的内在制約説の広く共有された欠陥である「制約の可否を判断する具体的な基準が導かれない」という弱点の犠牲になったものとみることもできるが、それにしても、トラバで指摘されている屋外広告物規制条例のように「そうはいっても結構規制されてるよな?」と気付かなかったのだろうか。今じゃ常識の三段階審査とまでは言わないまでも(交通事故が業務上過失致死だと書いているくらいだから、法律を学んだのは何十年も前のことなのだろう)、古来より伝わる二重の基準くらいは持ってきて欲しかったものである。