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はてなキーワード: 原初的とは

2021-07-30

腐女子に限らず2次元文化は全部そうでしょう。

作者、あるいは限られた理解者が造り上げる理想郷

理想郷理想郷であるが故に美しい。

けれども美しいからこそ、みんな美しさを模倣しようとする。

原初的な美はその段階で失われて、金だとか、名声だとか、雑音が入る。

雑音が入った理想郷の模造品の住人に、原初理想郷ルールを守れと言って守るわけがない。

2021-06-10

酒って美味いよ

anond:20210608190114

クソみたいなブコメトラバが多すぎてショックだったので長めに書く。ブコメもしたが言い足りない。

同意する点

元増田記事の『酒』を全て『アルコール』に置換すれば特に議論する点はない。アルコール別にうまくない。

だが「アルコール ∈ 酒」だ。

そして、酒は美味い。ものがある。

うまい料理とまずい料理があり、好みの料理とそうでないものがあるのと同じだ。

味とうまさについて

まず前提を。

アミノ酸、糖、塩、タンパク質、脂
これらは細胞エネルギー源として重要物質で、「原初的なうまさ」のもとである幼児マックフライドポテトは大好きだ。
酸味、苦味、辛味
これらは本来、毒や腐敗のバロメータなので警戒すべき対象である。なんでコレを美味いと感じるのかは自分もよくわからないが、バランス良く含まれると美味いと感じるのでしょうがない。学習で身につく「後天的なうまさ」である
香り
胃に入れば同じ。であるはずなのだが、香り匂いは美味さの大きな位置を占める。不思議食べ物を探したり果実の熟れ具合を判断したりに使われたはずなので、喜びと密接につながっているのかもしれない。

というわけで「うまさ」というのも一筋縄はいかない。「原初的なうまさ」に関しては合意が取れやすいのだが、それ以外の要素が入ってくると文化経験の差が大きく出てくる。それでも、ある程度以上共通して評価される要素があるならば「うまさ」があるのだと評価するしかないだろう。そうでないと戦争しかならない。

なお「原初的なうまさ」なら線虫だってわかる。 https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2017/5236/

おすすめルート

酒の味がわからん。という人向けのルート提示したい。

自分経験ベースにしているが、本増田もそんなに詳しい人ではない(酔いやすい...)のでそこはご容赦願いたい。

途中で挫折したり興味がわかなくなったなら離脱しても構わないが、完走したら増田として感想いただきたい。

買い集めるのは大変なので、カクテルやってる座り心地のよい感じの店でちょっとずつ出してもらうのがいいと思う。居心地の悪いところはやめておこう。酒飲みの友達がいるなら少し分けてもらうのもいいし、何人かで持ち寄って試すのも楽しいと思う。

が、いまコロナなのでいずれも難しいね。ごめん。

LV:0 もやしもん

酒の味は理解らなくても、漫画面白さはわかる増田かもしれないので最初にあげておく。

薀蓄から入るという側面もあるが、味や食文化とはなにか?という点をちょっと学んでみてほしい。

記事に本増田がブチギレかけた理由が少し伝わったらうれしい。

LV:1 カクテル

ここでのポイントは味そのもの以上に多様性可能性を感じることである

ちなみに、これらは一緒に飲むと味の傾向が違いすぎて合わないし、酔っ払って味がわからなくなるので一日一杯にしておこう。

キューバ・リブレ
みんな大好きコーラカクテル。夏にぐびぐびっといっちゃいたい。
ホワイトレディ
強くてキリッとした柑橘のこれぞカクテルという感じのカクテル
ホットバタード・ラム・カウ
家でも作れるラム牛乳鉄板の強化版。温かいカクテル

LV:2 リキュール

この場合リキュールを薦めるのは定番の手かなと思う。「酒だから出せる味」を追求した酒だからだ。

飲み方(味わい方)だが、小さじ一杯程度を数回に分けて、5分くらい掛けて飲む。

味わい方も人格の一部であるショートケーキを3口で食べてコーラで流し込むやつが人に信用されないのと同じだ。

カルーア
カルーアミルクのアレだ。甘いのが美味いのは分かりやすいが、風味や香りに注目。
コアントロー
オレンジキュラソー定番ブランドケーキなどにもよく使われる。言ってみればオレンジジュースの亜種だが、香り高く力強くふわっとして丸い。ごめん語彙力。
アイリッシュミスト
個人的に好きなので上げた。コレはもう大人お菓子である。美味いし贅沢だな〜っていう味。

LV:3 スピリッツ

マンガ誌の方ではない。蒸留酒の方だ。

度数が高いのが一番の特徴ではあるが、微妙香り付けとか風味を楽しむという点で、アルコールと酒の違いを説明するにはいい題材だ。

基準ウォッカ
限りなくアルコールだ。酒≒アルコール代表である。これをベースに他のスピリッツを味わってみよう。美味しいやつは美味しい。これを飲みまくるロシア人やばい偏見)。
ジン
蒸留香り付けをしたもの。ほろ苦いが、これがジュース系のカクテルに入ると深い味わいに変わる。
テキーラ
芋焼酎とかでもいいのだが、原料の香りが強く残っている酒。癖が強いが、ライムと塩を添えて飲むみたいなスタイルがめっぽう美味い。
ラム
サトウキビから作られる蒸留酒。「甘さ」と「甘い香り」の違いを感じてみよう。ホワイトからダークまでラム酒の飲み比べなんてのもおすすめ

LV:4 ビールワイン日本酒

原料から醸造したものをあまり加工せず出している酒なので、元の原料の味が発酵過程で変化した複雑な風味が特徴となる。これらの特徴は味が複雑で繊細なことだ。

そう。酒の味初心者には難しいのだ。この一般ジャンル

美味い・まずいも幅があり、本当に美味いものをつくるのが難しい。それゆえ酒飲みは産地や生産者ごとの違いを楽しみ美味いものには称賛を送るのであるが、本来、酒とアルコール区別のつかないレベルの人が手を出すものではない。

わかりやすく飲みやす日本酒も増えているので、その辺りから入るといいと思う。

LV:? コーラオレンジジュース牛乳

家に帰ってから飲もう。

これらはもちろん美味いが、酒も美味い・美味い可能性があるのだなという辺りまでは感じられるのではないか

(もし寂しくなったら牛乳ラムちょっとだけ入れてみよう)

で。

長くなったが以上である

自分は酒を美味いと思うし、酒の味がわからないのは人生を損していると思うタイプだし、酒の味に関する偏見と戦わねばならぬと感じたので、ざざっと書いてみた。

2021-05-14

環境問題最近思うのは

自然を天然の状態で保つことを善とは思わないし、自然を人工物で加工するのも悪とは思わない。

環境問題も提起するきっかけは人間にとって害となる事態が発生したからであり、そうでなければ環境を改変することはどんどんするであろう。日本でも江戸時代には灌漑や干拓が各地で大規模に行われたがこれも環境を改変する営みだ。

それに、人間自然破壊するのが悪だとして自然人間を殺しにいくのは悪とはならないのかという疑問も沸く。日本台風地震津波、水害などの災害があるがそうした害から身を守る営みが悪かと言われたらそうではないであろう。ダム開発をせずに人命が奪われることが善とはいえない。

かに不適切な開発は自然からしっぺ返しを食らうであろうが、それが即ち人間の悪になるかというとそうは思えない。人間自然は利害が対立するところで殴り合いをするだけであり、どちらが悪いということは原初的にないはずである

環境問題とは人間自然あいだの永久的な利権いであり、そこに善悪は無いのだ。環境問題について裁ける資格のある神はいないのだ。私たち人間人間立場しか環境問題を語れないのだ。

2021-05-02

人生が楽しくないやつに足りないのは人を憎む心

上っ面で生きてるから人生がつまらないんだよ。

俺は人生毎日楽しいよ。

人間が憎いからな。

ボケがあああああああああああああ!!死ねやあああああああああああああ!!

って心の中で常に叫んでいる。これ書いてる時もな。定期的にキーボードキーが吹き飛んで困る。

とにかく、世界が憎い。人間全てが憎い。

赤ん坊が泣いてればうるせえから憎いし、赤ん坊が静かにしてれば赤ん坊らしくなくて憎い。

群れてる若者が憎いし、1人でいる若者が憎い。

ものを知らない中年が憎い。知識マウントとってくる中年も憎い。

無駄に力を持っている老人が憎い。か弱い老人が憎い。

男が憎いし、女が憎い。日本人が憎いし、外国人も全員憎い。

人間様に配慮しねえ自然が憎いし、自然を傷つける人間が憎い。

何より社会が憎いね。俺が5000億円持ってて、全ての人間奴隷扱いできない社会は間違っていると真面目に思ってるよ。

俺は1000年生きたいし、この世の全ての場所に行ってみたい。美味い物を喰って面白いこと全部やって、綺麗な景色も全部見たいね

そんなんだからスティーブ・ジョブズが死んだ時、「ざまああああああ!!」って手を叩いて喜んだね。

俺はあの、俺より稼いでて尊敬されてた、いけすかねえハゲ野郎が知らない世界未来を見られるんだからな。

一面的に、俺はジョブズに勝ったと思った。嬉しかったね。祝杯あげちまったくらいだ。ま、祝杯用に温存してた山崎焼酎が不味かったからそこの酒は二度と飲まねえって決めた日でもあるが。

人間なんてのはこのくらい身の程知らずで、自分勝手でいいんだよ。

高望しろよ。お前達に足りないのは原初的エネルギーだ。根本的に、世の中のためだとか人を喜ばせようとか、そういう、クソみたいな意識があるからだめなんだ。

自分を満たすために生きろよ。自分の不足を憎め。他人の全てを憎め。人を憎んで、世界を憎めば人生はよりよくなる。

ゲームがつまらないとか言ってたけど、要は憎しみが足りないからつまらないんだ。

俺はゲーム面白いよ。ミスったら自分を憎んで戦えるし、自分より上手いやつの存在が憎いからやりこもうって気になる。

ゲームなんてのはキャバクラみたいなもんだろ。ちゃんと俺を接待しない製作者も憎いね

わかるか?お前達の人生に足りないもの憎悪だ。憎悪人生を豊かにする。

俺はずっとコンプレックスを抱いて生きてる。他人は俺より恵まれていると感じる。その衝動が俺の人生を突き動かしている。

この世は不幸に満ちていて、世界の人々は理不尽に晒され続けるんだからな。

不条理他人を焼いていると思うと、心の底から俺は幸福を感じる。

からこの世界は俺を喜ばせるために存在しているかのようだ。でも、そんな倫理観の無い世界が憎い。

赤の他人を心の底から憎めるようになれ。そうすれば人生張り合いが出てくるもんだ。

まあアレだ。正しいとか間違ってるとか、そういうレベルの低い話じゃねえんだよ。

人生なんてのは死ぬまでのゲームに過ぎないんだからよ。せめて自分楽しいゲームにしなきゃだめだろって話だ。

どうせ死ねば終わりなんだから自分のために都合よく解釈していこうぜ。

そのために必要エネルギー源を見つけろ、俺は憎悪がお手軽で良いと思うよって話。

2021-01-29

中学のころ(俺にそんな時代があったとは!)、好きな女の子がいた。よくある話だ。

俗に言うスクールカーストのこともあり、まあ憧れに近いような存在ではあったが、

たびたび目が合うと、お互いじっと見つめ合っていたのだ。

僕の記憶以上に僕が彼女意識して見てしまっていたのだろうし、

彼女としてもからかい甲斐があったか何も言わない僕に戸惑いもあったのだろうが、それは幸せなひとときではあった。

給食前のちょっとした空き時間なんかに目が合うと、そのまま2、3分くらいじーっとはにかんだような表情で曖昧に笑って、

見つめ合っていた。開け放った窓から入り込む風がクリーム色のカーテンをたなびかせ、真昼のけだるい光を透かしていた…

みたいなね。どこまで美化されているのかはもう定かではないが、甘い記憶だ。

で、まあ、よくある話だが、あるとき僕が言った何気ない一言彼女を傷つけてしまった。

僕としては悪意のない軽口だったのだ。

ある出来事に付随し、単に彼女と長く一緒にいられる可能性がなくなってしまたことへの残念な思いが出てしまっただけだったのだが、

僕はその可能性の余韻に少し気持ちが高ぶっていたのだと思う。

だが時と場合というものがある。それは今考えてもひどい言葉だった。

それで彼女は泣きだしてしまって、周りの女子に諫められながら僕はただ謝ることしかできなかった。

で、まあ、それで彼女とは疎遠になったまま、中学卒業して、その後は何もない。

よくある話だ。だが…と続くわけでもない。何のオチもない。ここで再会するような大団円もない。

先日、唐突彼女が夢に出てきた。この流れもよくある話。

僕は過去に戻って彼女と再会した。未来から来た僕を彼女不思議がらず、微笑んで迎えてくれた。

目が覚めて、気づいた。

あの一言がなかったら、どうだっただろう。というのを今まで考えたことがなかったことに。

その後の僕の人生も後悔の連続だったが、彼女のことは幾度となく考えた。後悔もした。

だが、今の今までそのことを考えたことがなかったのだ。

そうして次々に記憶から引き出されてきた、幾つか分岐点のようなものがあったのではないかということも。

中学の時、その後もいろんな場面で言葉を交わしたこと高校の時も駅で彼女が遠くから手を振っていたこと。

僕はここに、この後悔にまみれた人生原初的な後悔の形を見つけた。

それは盲点となり死角となり、僕の人生を封じていた。自ら蓋をしたようなものだ。

そうして人はそれを「人生」と呼ぶ。ここに至って気づく、ああこれが…、テレビとか小説でよく見てきた人生というやつか、と。

残念なことに、愚者経験から学ぶことしかできない。それに気づくのに、僕はいささか年を取りすぎてしまっていた。

彼女はとうに結婚し、子供を持ったらしい。

うそう、そうだよね人生って。テレビで観たことあるわそういうの。よくある話、よくある人生

ただ過ぎていくだけの、信じがたいほどに意味もなくただ過ぎていくだけの。

いざわが身に起こってみれば、どうしようもない。あらゆる可能性が閉ざされていくのだ。

でも、手を振って呼んでる、まだそう思ってる。

手遅れなのに。わかっているのに。

2021-01-25

anond:20210125101623

処理内容でFor文と同じ速度になることはあっても原初的なFor文の処理速度超えるわけないだろ

余計な処理付け足してるのにパフォーマンス上がらねえよ

2020-11-24

anond:20201122230939

最も原初的呪いは悪意を向けることや悪口を言うこと、って呪ってみようスレで昔読んだな

2020-11-02

努力矛盾である

 努力をする、という行為そもそも矛盾であって、人間努力をしないようにできている。更に言えば、人間努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。

 というのは、努力をする、という行為必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事からである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身マイナスしかならないということなである

 脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力必要期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間努力無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。

 例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為人間生存戦略上の矛盾なのである


 とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間生存戦略矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。

 繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである

 才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。

 とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。


 俺は凡人である。つまり努力をしている人間である期待値の低い試行を繰り返している人間である

 というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄リソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的判断能力はとっくの昔に欠落している。

 さて、そのような凡人にとって、基本的努力というもの期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率努力がある」というテーゼがそれに当たる。

 凡人――最も努力費用対効果コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というもの存在する。それは事実である。「努力矛盾である」という原初的命題テーゼ)を止揚アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。

制限された状態から効率の最大化を求める行為矛盾ではない」。

 これがジンテーゼだ。

 努力をしなければいけない人間は、能力制限限界リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力基本的効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というもの存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェス世界における現人類最強の人間ノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間相対的チェス能力制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり人間には万民において制限が、限界が、リミット存在している。

 となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいか効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空重力トレーニング想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。

 そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。

 そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるである

 ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力意味を見出すことができるのである。あるいは、重力のものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである


 テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。

 人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。


簡単にできることをする

 誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳から重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。

 例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。

 毎日あいうえお、と書いていると、殆ど人間は次のように思う。「『あいうえお簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。

 そうなったならば、相対的に難しいけれど比較簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである

 簡単なことから始めよう。しかもそれを毎日続けよう。

 そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。

 才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。

 すると矛盾は消える。

2020-10-09

暴力に囚われていないという幻想

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-10-08

暴力に囚われていないという幻想(改稿)

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-05-22

プログラマー学習

プログラマー学習問題ってのは表層的な問題であって、この話題議論されている本質は「社会で金を稼いで生きるってのはどういうことなのか?」ってことなんだろうね。

「誰かの保護下に入る代わりに作業指示に従う義務を持つ人形機械になる」ことなのか? それとも「自分の力で生きたり死んだりするサバイバル」なのか?

原初的な話で言えば、人間は全て後者なんだろうけれど、現代社会的には前者の意識の人も多い。それだけならまだしも前者であるのが社会の真理だとして、社会他者にその意識の共有を求める人もいる。もちろん、後者の人だってそれっを周囲に求めたりする人もいる。だから両者の境界面でギスギスする。

これは、ある任意の人の中で統一された話ですらなくて、たとえばサラリーマンの人が「だってあいつは漫画家(or芸能人or起業家)なんだから成長も無職自己責任だろ」とか言い放ったりする。

プログラマーという存在は前者なのか後者なのか、人々の中でその認識境界事例にあたるんだろうね。

もう少し踏み込むと、IT技術が発展した現代社会は、すべての社会人にとって徐々に「自分の力で生きたり死んだりするサバイバル」に移行しつつ有るように思える。先進国においては、企業から見て欲しい人材ピンポイントで探す事が可能になりつつあって、自力で育てるよりも今求められているスキルの持ち主をハントしたほうが合理的になりつつあるからだ。

中世社会ではその人間能力云々以前に裏切りとか出し抜きが有るので、能力よりも人格や忠誠が大事で、それは子飼いを育てることやコネじゃなきゃ担保できなかった。しかちゃんとした道徳契約が成立する現代国家では、父祖の代からの付き合いみたいな安全保障がなくても、裏切りをそこまで気にしなくて良い。だから雇用流動性があがる。

そうすれば当然全ての雇用は「自分の才覚でその席を奪い合うサバイバル」になる。全てのサラリーマンもそう。外注化の影響を考えれば公務員でさえ無関係ではない。おそらく日本社会は、ただの事務職でさえ、自分の力と時間学習してスキルアップをしていかなきゃ席を奪われる方向に進みつつ有る。

プログラマー作業者なのかサババリストなのかという議論は、多くの人が感じているこの不安――自分生存競争に巻き込まれていずれは敗者になるのではないか? という風を受けているんじゃないかという気がしている。「パッケージされた教育を受ければ、才能や生存能力関係なく作業者として生活保証される領域スキルが身につく」という「保証」がなければ、人は本当のサバンナに放り出されてしまうわけだから

2020-04-22

見ずして死ねない日本の伝統建築10

友人と旅行すると,興味ない人には日本の伝統建築って全部同じに見えてるんだろうなーって思うことが多い.つまり,「見えて」いても「見えてない」んだな.解像度が低い.だから,その深み凄みを紹介するために10建築を選んでみた.

この増田で,日本建築のどこをみればいいかが少しでも理解してもらえればいいな,と思っている.あくま日本建築を楽しむための「入り口」として,もしくは旅行の楽しみを一つ増やすためのお手軽ツール(やや自嘲をこめてるよ,これ)として,読んでくれると嬉しい.

法隆寺中門~回廊(奈良県生駒郡飛鳥時代

 法隆寺は誰もが行ったことがあるだろう.しかし,一般人教科書に載っている五重塔と金堂があるなーって思って,終わりなんじゃないだろうか.違うのよ本当に.中門なんだ.中門から回廊にかけての柱.伊東忠太エンタシスと呼んだ,胴張りの柱.この列柱をみて,何も感じない人間は,おそらく建築に対するセンスを持ち合わせていないのだろうから,これ以降この増田は読まなくてもよろしい.建築は細部に宿るのだ.その原初的プロポーションは,日本にも偉大なる古典クラシック)があったという証なのだ

東大寺法華堂(奈良県奈良市奈良時代

東大寺に行くと,一般人大仏殿で満足して帰る.ちょっと詳しい人は,二月堂まで登って景色を楽しんで帰る.じゃあ玄人は?その横の法華堂だ.しかも,入り口ではなく,裏側からまずその建築美を楽しむ.この風景こそが,まさに創建時代東大寺からだ.実はこのお堂は,左半分が奈良時代仏堂であり,鎌倉時代に右半分の礼堂を増築している.だから側面からみるとチグハグな印象を受ける.なぜこんな事になっているか原初的には,仏像は外から拝むものなのだ.お堂の中は仏の領域であり,そこに人が入ることはなかった.しかし,日本は雨が多いため,実用的な理由で,仏堂に並び建つ形で礼堂という,人が入って拝むためのお堂が作られるようになる.そして,その後この仏堂と礼堂を一つの大きな屋根で覆うようになったのが,日本の最も一般的正方形に近いお堂の形だ.なぜ奥行きがあるのか,それは二つのお堂を包摂してるから.そして,内部を内陣(仏の領域)と外陣(人の領域)に分けている.

 とまあ,東大寺法華堂だけで日本建築史が語れるんだけど,法華堂自体価値とは,その仏堂と礼堂の処理の過渡期的な建築であることはもちろん,何よりも,天平建築天平彫刻がそのままの形で残っていることだ.奈良時代日本はやっと中国・唐から最新の様式を導入できるようになった.そしてそれは王者建築なんだな.力強く,おおらかで溌剌とした建築.柱と梁によるシンプルで強い建築.その素のままの美しさでは,天平建築にその後の建築は敵うはずがないのだ.

富貴寺大堂(大分県豊後高田市平安時代

平安時代建築って,数も少ないし奈良時代以前の建築に比べて,それほど素晴らしいとは思えない.よくも悪くも日本ナイズされて,よく言えば品のある住宅風の,悪く言えば構造ダイナミズムが弱い建築が作られた.平安時代,人は仏堂の中に入り,座って祈りを捧げるようになった.それゆえ,天井は低く,落ち着いた空間が好まれるようになった(卵が先か鶏が先かはわからないが).軽く高床にして,床下の風通しをよくしているのも日本化のひとつ.これらの日本的要素を建築史的には和様と呼ぶ.平等院鳳凰堂和様代表みたいに言われているけど,あれはまあ,例外的な派手派手金持ち建築なわけで,一般的仏堂というのは,この富貴寺大堂のような三間四方(柱が4本で間が3つの正方形型)の阿弥陀堂だろう.これがよい.実に素朴で,柔らかい建築.人と仏像距離がちょうどよくて,いつまでも中に入って祈りを捧げられるような,そんな自然体の空間.こういう空間は,奈良時代ダイナミックな,ところせましと仏像が建ち並ぶ空間とは異なり,ほっとするんだな,日本人なら.とはいえ,この富貴寺は大分のド田舎にあるので,さすがに東京から行くにはマニアじゃないと無理かな.東日本なら,福島県いわき市にある白水阿弥陀堂も同様の建築でよい(らしい.東国はいまいち詳しくない).さらに,平安時代に由来する浄土庭園の中にあるので,こちらの方が平安時代的でよいかもしれない.

東大寺南大門奈良県奈良市鎌倉時代

日本建築史上の最大のトピックといえば,鎌倉時代東大寺再建に関わった僧,重源の大仏である.先述したように,平安時代には天井を低く住宅風の落ち着いた仏堂が好まれたが,重源が宋からもたらした建築は,その真逆をいくエポックメイキングものだった.天井は貼らず,屋根裏まで高く伸びる柱.縦横無尽に頭上を飛び交う貫(ぬき,柱と柱をつなぐ水平の補強材).そんな規格外建築東大寺大仏殿という世界最大級木造建築を作るためには,従来の和様建築では構造的に不可能であった.それゆえ,より合理的ダイナミックな中国・宋由来の建築が取り入れられた.日本建築史上最も巨大な,今見られる大仏殿の3倍にもなる内部空間.それはパンテオンにも劣らぬ迫力のものであったろう.そんな鎌倉大仏殿を今,見ることはできない.戦国時代田舎侍が燃やしてしまたから.しかし,東大寺南大門は当時のまま残っている.東大寺南大門をくぐる時は,ふと上を見上げてみよう.そして,圧倒的な上昇感に震えてみろ.

金剛三昧院多宝塔(和歌山県高野町鎌倉時代

多宝塔って知っているだろうか?下層が方形,上層が円形の平面を持つ,ちょっと変な建築だ.空海に由来するため,真言宗系の寺院によく見られる.これ,塔がそもそもインドストゥーパ釈迦の遺骨を納めた仏教最初期の半球系の建造物)に由来していることをあらわしている.先祖帰りの建築だ。中国にも存在しない、日本オリジナル奇形建築木造建造物としては,かなり無理矢理な形をしていることから,よほどの宗教的意味があったのだろうと思う.今は15mほどの小型のものが多いが,そのオリジナル高野山のコアである根本大塔だ.しかしあれは無理があったのか,燃えては再建を繰り返し,今ではもう鉄筋コンクリートだ.そんな中,金剛三昧院の多宝塔は本場高野山にありながら,鎌倉時代のもので,有名な石山寺多宝塔と並んで最も古く美しい形をなしている.どっちでもいいんだけどね,やっぱり本場の多宝塔を見た方がよいかな,と思うわけだ.

軽くさわりだけなのに,予想以上に長くなってしまった.まだ鎌倉までしか進んでいない.この増田反響があったなら,あとの5つも書いてもいいかな.


消えてたのでキャッシュからリカバリー

2020-01-27

テン年代俺的最強ゲームベスト10

いちゲーオタ中年男性ハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。

特別賞『Doki Doki Literature Club!(ドキド文芸部!)』(2017/PC

のっけから特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。

でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。

個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現絶対不可能

本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。

でも、これだけは言わせてほしい。

本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。

その(一見破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対

ああ、すっきり。

では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます

10位  『ASTRO BOT Rescue Mission』(2018/PSVR)

「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」

ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。

僕はかなり潔癖症から、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。

けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVR新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。

ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。

9位  『ショベルナイト』(2014/PCほか)

「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」

あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。

プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品であるアイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。

そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。

8位  『Undertale』(2015/PCほか)

このゲームの印象を喩えて言うなら、

久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感嫉妬軽蔑と相いれなさのような感情腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。

正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。

もし未プレイだったら、このゲームはできればPCsteam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリコンシューマー勢なので、ゲームPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利ナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。

作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二糸井重里系譜に連なる倭人王道シナリオコピーライターと感じる。

確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。

2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。

7位  『デラシネ』(2018/PSVR)

その山の森の奥には古い洋館があった。

庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。

君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。

俺は黙って君を見つめていた。

君は俺に気づかない。

俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。

ああ、なんだかこのゲームやってると批評目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。

本作は「VRで描かれた古典的AVGアドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。

VRしか描けない世界情緒に対して、あまり意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。

『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。

6位  『バウンド 王国の欠片』(2016/PS4/PSVR

もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。

かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女サイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。

しかPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。

画を作っているサンタモニカスタジオゴッド・オブ・ウォー風ノ旅ビト他)の仕事はいだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事白眉と言える。

とにかく、思わず自分少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつ世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。

そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」しか言い様のない儚い感情だ。

5位  『INSIDE』(2016/PCほか)

書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。

が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。

実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。

終盤の怒濤の展開と比類なき生命描写インパクトに心奪われるが、本作の真骨頂木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔心持ちを強く喚起させる。

俺にとって『INSIDE』とは、自己内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分世界との乖離自覚するための尖った注射針であり、神なき世界宗教である

灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。

4位 『スプラトゥーン』(2015/WiiU

人の生には「もっと幸福な時期」というものがたしか存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。

俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっと幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから

そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったか確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。

プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。

が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。

その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。

ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっと幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的理由だ)。

ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。

3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である

3位  『ARMS』(2017/Switch

それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元昇華された「理想的格ゲー」であった。

スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。

そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。

やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアル大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初最後だろう。

余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。

いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sportsゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。

2位 『Rez infinite』(2016/PSVR

2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。

2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器PS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。

AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後体験だった。

それは精神開放であり、身体解放だった。言葉遊びに非ず。

これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。

そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。

1位 『とびだせ どうぶつの森』(2012/3DS

Rez infiniteからまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。

あれだけ昔からどうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか? 

お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。

だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から仮想世界」における、人間存在理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。

一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中ゲームファンに「もうひとつ世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつ生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。

どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。

が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。

それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズド世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——

要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的神秘的なアトモスフィアに由るものだ。

カフカ『城』や村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。

そういうわけで、本作を迷わずテン年代1位に据えたいと思う。

※※※※※※※※※※

長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました

余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。

でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分重要度みたいなものぼんやり浮かび上がってきたので。

異論提言はもちろん、よかったらあなたテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。

ああ、10年はDECADE(でっかいど)。

2019-10-20

anond:20191020222823

ところで、なぜ人生楽しいべきと思うのですか?

人生はやがて動物として原初的な多大なる苦痛を感じながら必ず死ぬ結末が約束されているというのに。

あなた死ぬのが20000000秒後か2000000000秒後かの違いがそんなに大事なんですか?

2019-06-12

今こそw3mを使おう

w3mが(個人的に)アツい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/W3m

テキストベースWebブラウザです。

昨今のサイトを見るにはとても不便で、操作性も何もかも非効率だけども、ブラウジングがとても新鮮なものになるよ

いかポエム

CDが売れなくなっている昨今、EPLPとかレコード好調らしい。

なんかそんな記事を見た中に、

「もはや音楽聴くことに娯楽的意味がなくなってしまい、CDセールスが衰退、アーティスト音楽のみで身を立てることが困難になっている中で、

音楽聴く”ことを愛でるようになった人がいる。

ライブに行き生演奏を目で体で聴くことで原初的感動を受ける人や、繊細なアナログメディア音楽享受する”儀式行為”により、新しい価値見出している人がいるため」

というようなことが書いてあって、なるほどなあと思った。

効率無視した献身的行為、ある種の狂信とも言うべき自慰的な活動こそが、拡散してしまいがちなアイデンティティを収斂するための一助になっていると考えているので、

それが音楽であれ、ピュアオーディオであれ、ルリ儀式筋トレ政権批判ガチャ課金、なんにでも没頭できるものが見つかるということはとても喜ばしいと思う。(誰かに迷惑をかけなければ)

音楽ほど歴史が長くないが、Webブラウザも年々大きく変動している最中で、研究者ツールだったもの大衆向けに整備され、一般化されるコンテンツに合わせてWWWの利用も複雑化している。

SNSと高度に連携したスマホファースト無味乾燥に大量消費されるコンテンツを見ていると、WWWを見るという行為を愛で、儀式行為価値見出しても良いように思う。

きっかけとしては何年か前のYAPCで、

インターネットを介したコミュニケーションでは情報が多すぎる、たくさん情報を受け渡しすると疲弊する。

情報量を極限まで削ることで、原初的な伝わったことが嬉しいという気持ちを得られる。

→だからモールス信号を使う」

といったネタのようなLTを見たこと。

ここからw3m適当Webブラウジングをするのが習慣になった。

原理主義というならLineModeBrowserとかLynxとかを選ぶべきなのだろうが、

日本発というアニミズム的発想(とドキュメントの多さ)からW3mを選んだ。

何よりも、w3mは「WWW-wo-Miru」の略だというと、上にあげた「WWWを見る」という行為儀式意味を持たせるためには必要な要素だと思われた。

最近だとBrow.shという画像も何とかテキストで表示してやろうという意欲的なものもあるんだけども、これは端末の解像度依存が大きいため断念。

というか画像必要であれば普通ブラウザ環境も使うという腥っぷり。

twitterは、twtermを使ってこれも余計なTLチェックが不要となった。

というような落書きを、適当EC2インスタンス上のw3mから書いている。

EC2tmux + w3m + twterm という環境をほぼ放置してあり、コマンド一発でほぼ同じ環境無料AWSを乗り継いで利用できるようにしてある。

はてブテキストベースで閲覧する方法を探している。それがあれば、より原初的感動を持ってクソのようなコメントを投げ合えるパラダイスが待っていることは自明である

2019-05-31

anond:20190531130225

地方に行くと、方言で話さない奴は「自分らの仲間じゃない人間」と見なされる

まりムラ意識

しかし逆に考えてみたまえ

コミュニティの中に、自分らが使ってる述語や慣用句

まったく異質な言葉を使う者がいきなり現れたらビビるだろ

外国人差別とか以前の原初的な異物への恐怖、人間本能的なものだな

で、世間一般から異物扱いされる側の人間オタク)は

同類同士が集まった場では安心感が欲しいの

たとえ東京でも九州出身者のみとか東北出身者のみが集まると

自然に会話が方言になるのと同じようなものだと思いね

2017-09-06

表現規制なんて」って言うけどさ

真空パックAVの人に対する当たりの強さを見ていて不思議に思ったのだが、思春期に見聞きしたものの影響の大きさというのはなかなか侮れないと思う。

「影響を受ける」というよりも正確には「もともと心の内奥にある異性への都合のよい期待や幻想が、助長され増幅される」と考えている。

女性なので少女漫画に親しみながら育ったが、そこに出てくる「女の理想体現した完璧な(つまり女にとって最高に都合のいい)イケメン」が実在すると信じてしばらくのあいだ生きていた。もっと言えば、そういう人が自分だけのためにいつか目の前に現れる日が来ると疑いもなく信じていた。

子どものころのわたしは重度のコミュ障だったので、その世界観是正されるまでに結構な期間がかかった。

漫画の中のイケメンに比べたら現実男子自分に優しくしてくれなくて、かっこよくもなくて、頭もよくないし運動もたいしてできない。

から現実男子自分の中で勝手に蔑み、ばかにしていた。

一方で、漫画の中のイケメンとまではいかなくとも、かっこよくて人望があって、みんなの人気者のサッカー部とか野球部とかの男子とはまともに目を合わせて話すことができず、彼らの前ではやたら挙動不審になってキモがられていた。

コミュ障ゆえに二次元世界に逃げ込んでいた期間が結構長かった。

現実はどうやら漫画とは違うらしい、ということを頭では理解していても、気持ちの上で受け入れることをだいぶ長い間(今思い返してみると、高校の前半ぐらいまでそうだった)拒んでいた。

異性への過剰な期待とその裏返しとしての一方的な蔑み、というくだらない二極化から脱却して、男だとか女だとか意識する前にお互いに一人の人間として尊重しあうことが何よりも大切だ、ということに、もっと早く気づきたかった。

そうすれば、高校時代にもコミュ障なりにも周りの人と心の通い合う実のある生活を送れたのではないかと思う。

男女を完全にひっくり返しても、同じような地点を通過した人は無数にいると思う。

二次元なぞ有害からなくなってしまえ、などと言いたいわけではない。

真に有害なのは人間ひとりひとりの心の内奥にある、異性への原初的利己的な衝動、むきだしの欲望だ。

それを引き出し、有形化し、増幅させるのが二次元だ。

現実とうまく付き合っている人ならば早々に現実二次元区別をつけられるようになるのだろうけれど、コミュ障はなかなかそれに気づくチャンスを得られない。

気づかないかいつまでも異性への幻想を捨てきれず、ますますキモがられて現実から遠ざかっていく。

そういう人間にとって、二次元っていうのは救いの光明なのか、それとも甘い罠なのか。

まあべつに規制しようがしまいが自分はもういい大人なのでどうでもいいんだけど、子どもによっては結構影響はあるよね、ということを言いたくて書いた。

2017-08-28

原初的存在について考える

宇宙誕生前が虚無だったりマルチバース理論がその通りだったとして

それらが誕生するそもそも理由って何だよ?

別に虚無も無くったって誰も困らんだろ

でも何でそれがあったんだよ

理由とかない~そこにあるだけ~

そういう話してるんじゃないよ

増田があるのは増田を作った人間いるからという因果律の話をしてるんだよ

基底世界となる虚無世界があることが何の因果律であるのかという話だよ

なにか原初的存在があって起点となっていると考えるしか低能な俺には納得できない

結局人間自身4次元の膜を超えられない限りは

次元要素はいつまでもブラックボックスのままなんだろ

ゲームの中の住民ゲームプログラム解析頑張ったところで画面の向こうの俺の存在なんて分かる訳がない

2017-05-05

サヨクだけど、はてなサヨクの中にどうしても好きになれない人がいる

俺ははてなサヨクが好きだ。id:toledid:umetenid:buyobuyoid:blackseptemberid:Cunliffeid:Apemanid:scopedog、この辺の人たちが好きだ(好きだった)。彼らはサヨクとして非常にわかやすい。

政治的にはそれぞれ異なる点ももちろんあるが、彼らの文章からは一つの感情ほとばしるのを一様に感じ取ることができる。それは怒りである。現世に対する怒りこそは、現状追認を是としないサヨクにとって最も原初的感情であるはずだ。

id:buyobuyoに関しては本気で怒っていたと思うぞ。たぶん自分に対して。正義感の強い人間が処世のために悪に身を染め、それを意識的にせよ無意識的にせよ許せず、破滅言動に走るのはよくあることだ。

一方で、申し訳ないんだけどどうしても好きになれない、いやはっきり言って反吐がでる人が、はてなサヨクの中にいる。

id:haruhiwai18である。何が気に入らないって、(マテとか(こなみとか。寒い。まじ勘弁。

そんでも、政治的にはまあ近しいわけだ。俺もサヨクだし。んで、だいたい同じよな記事ブクマしようとするわけだ。

そして、俺はもう怒りに震えて日帝本国人どもへの呪詛を書き連ねようと思って、一応ブクマコメントを見ると、この人が寒いコメントをしているわけだ。

その瞬間怒りが完全に冷めて、あーもうむちゃくちゃだよ。俺の怒りをあんたにぶつけたいよid:haruhiwai18

2016-02-28

twitterで「街で美人を見かけた」って報告する人が苦手だ

「あの店の受付が超美人から絶対行ったほうが良い」

マックでだべってる女子校生が超可愛かった」

取引先のメガネ男子がすごいイケメンで癒やされた」

 そういうツイートフォローしている皆さんは普通にご報告なさる。

 結構な事だとおもう。

 美しいものかわいいものを見て癒やされたり、嬉しくなったり、チンコが立ったりする。

 人として健全なありさまだと思う。

 俺は性的視線暴力政治的な正しさをうんぬんするつもりはない。

 でも、それ以前の問題として

 ダメなんだ。

 街角で見かけた知らない人を刹那的判断して評価する、

 その態度がダメなんだ。

 

 すれ違う他人自分価値基準勝手自分世界観に取り込む、

 その無神経さがイヤなんだ。

 そういう行為残酷だと考えずにネットという場に書きこんでしまう、

 その倫理観絶望してしまうんだ。

 

 いや、本当はもっと別の感情があるのかもしれない。

 言語化できない原初的嫌悪が潜んでいるのかもしれない。

 でもとにかくイヤなんだ、ダメなんだ、怖いんだ。

 ほんとうによくわからない。

 一番近いのは、優しげな飼い犬とかが時折一瞬だけ見せる野生の獰猛さに「ああ、こいつも動物だったんだ」と感じる瞬間かもしれない。

 こいつも動物だったんだと。無害ではないんだと。

 

 もちろんtwitterでこんなことは言えない。リアルでもいえない。

 みんなやっていることで、社会的にも悪いことだとはされていない。

 右翼だろうが左翼だろうがオタクだろうがリア充だろうがパンピーだろうがフェミニストだろうがラッパーだろうが誰だろうが、

 みんなやってる。

 そこに罪悪感を誰もおぼえない。そして、おそらく、この場合はそれが正しい感性だ。

 間違っているのは俺の方だ。

 だから、俺は間違った場所しかこういうことを告白できない。

 増田が間違っていてくれて、今日ありがとうと思う。


 はてな感謝!1

 増田感謝!!!

 サバカレーにも日々感謝!!!

 です。

2016-01-14

誰もコンビニ店長おもしろさを説明できない

 

http://anond.hatelabo.jp/20160110131135

論の作法を知らないコンビニ店長

からあくまで「俺から見て」という話になりますけども、イケダハヤトという人のブログからおもしろみを感じることができなかった。役に立つかというと、それもあまりそうは思えない。

おもしろくない、役に立たないという結論を出しているが、イケダ氏がどうおもしろくないのか、

なぜ役に立たないのか、その根拠が書かれていない。

 

あれつくづく俺と対極にいる人なんだなあと思いました。

文章への情熱原初的な感動が感じられないイケダハヤトは、自分とは対極の人だと断じているコンビニ店長

だが、なぜイケダハヤトにはそれらが感じられないと判断できるのか、その根拠が書かれていない。

 

さて、彼は三度のメシよりなにが好きなんでしょう。俺にはそれがわかりません。その答えがおそらく彼があのような手法をとる理由であり、そしてどうやら俺は、わからないながらもなんとなくそ理由があまり好きではないのです。

「わからない」を「つまらない」「嫌い」等に結び付けてしまう人をたまに見るが、

からないのに判断を下しているおかしさに気付かないのだろうか。

 

すでに多くの人がやっているイケダハヤト叩きに手を出したあげく、鋭いことを何も言えず、

自身陳腐文章哲学を並べただけのコンビニ店長独自性が無く、結論根拠立てて説明するという

作法すら知らない人が、文章への情熱を自負している様は滑稽でしかない。

 

大学の知見や論文レポート下地があるイケダハヤトは、自説を根拠立てて説明する文章普通に書いているし、

顔や実名を明かしているぶん、コンビニ店長よりも文章に対する責任覚悟があるのではないか。

なんにせよ、他人情熱否定するような傲慢を冒すなら、相応の論を出せないと恥ずかしい。

 

コンビニ店長文章

発音リズムに気を配って、読み心地のいい文章を作る(語句の反復もその一例)。

漢字をひらいたり、常用外の漢字を使ったりして、ビジュアル的なニュアンスを出す。

 

これらは比較ポピュラー文章術であり、例えば大ベストセラー作家村上春樹もやっている。

から、こうしたテクニックを駆使しただけでは評価に値しない。

小説なら、どのような形でテーマを見せるか。評論なら、どれだけ鋭いことを言えるか。

文章術なら、まだ知られていない面白い文章術を編み出せるかどうか。

そういったもの文章価値になる。

コンビニ店長が今回書いた増田評論に該当するが、鋭いことを何も言えていないので価値が無い。

 

俺はかなり自覚的アマチュアリズムの信奉者でした。

「俺はアマチュアリズムの信奉者でした」と書くだけでも自覚や熱意を表現できるわけだが、

わざわざ「かなり自覚的な」という句を入れて野暮ったくしている。言葉センスが無い。

 

アマチュアリズムというとかっこよく聞こえるんですが、要は「無料なんだからなに書いたっていいだろ」っていうことです。あるいは「なに書いてもいい自由を俺から奪うな」「つーか金とるにあたって発生する責任とかとる気ねえから」ということでもあります

考えてみると、俺は常におすそわけの原理で動いていた気がします。たとえばカレー作った。なんかおいしくできた。じゃあ隣にも分けてあげよう。やっべー俺の作ったカレー超うめえっすよ。でも隣の人がカレーきじゃなかったらおすそわけしない。インターネットのすばらしさは、俺にとっては「俺の作ったカレーここにあり!」「俺は超うまいと思うからカレー好きな人は食え!」「でも俺の好みで作ったから好みにあわない人ごめんね」「そのかわり無料」っていうところです。

 

かといって日本全国のカレー好きの人に俺のすばらしいカレーを届けるための努力をするほどではないのです。だから別に有名になる必要はなかった。それに俺には「今日カレーを作ろう」「いや、気分的に今日うどん」という自由がありました。その自由を捨てる気はなかったのです。カレー職人になりカレーで金をとるためには、三度のメシよりカレーが好きであり、魂がカレーでできている必要があります。それでいえば俺は「料理が好き」なだけであり、だれかがおいしいといってくれればそれで満足だったのです。もっといえば「おいしいといってくれる可能性がある」だけで満足だった。

それでも俺は、なにも書かれていないテキストエディタを前にしたときの「さあ、いまから俺はなにを書いてもいい。そしてだれかがそれを読んでくれるかもしれないんだ。こんな素晴らしいことがあるだろうか」という原初的な感動を捨てたくはないです。

こういうのは、ネット文章を書いている人の多くが日常感覚的に思うことだ。

それをさもマイナー価値観のように語っているところに、コンビニ店長井の中の蛙ぶりが見てとれる。

 

大卒の人や、それなりに本を読む人の語彙や理解力想像する力がコンビニ店長には無い。

から「かなり自覚的な」等の過剰な説明をしたり、誰もが知っていることを念入りに語ったりする。

言わずもがな言葉ばかりで埋められた文章は、文字量のわりに読み応えに乏しい。

 

コンビニ店長おもしろさを解説してほしい

私はコンビニ店長文章面白いと思わない。コンビニ店長文章には知的刺激が無い。

誰もが知っていること(共感性)をまわりくどい言葉(歯ごたえ)で書いていて、

その共感性+歯ごたえが、コンビニ店長の人気の理由ではないかと推測している。

粋な文芸世界を知らない人や、文章批評的に読む習慣の無い人が、コンビニ店長に釣られてしまう。

 

コンビニ店長面白いと思う人、名文家だと褒めたたえている人は、なぜそう思うのか教えてほしい。

2016-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20160110131135

しかにこれは似てる。

じゃあ俺もひとつ書いてみるかとエディタを引っ張り出してきた。どれだけ似せて書けるもんかな。これをご覧の方もやったらいいんじゃないんですかね。んで、最終的には全世界人間が「仰向けに寝転んだところに幼女おしっこを浴びたい」などと発言するネット空間を目指すのはどうでしょうかね。だめか。

といっても元の文章がうまくて書くことがない。「おすそわけ」の部分はまさにそのとおりだなと思う。あと「原初的な感動」のとこ。俺自身人生がクソみたいな状況にあっても誰が読むわけでもない言葉エディタにたたき続けてきた。今も紙とペンがあればなにかしら書いている。それは呪いだ。ずっと昔、今から見ればゴミしかない俺の文章たまたま何人かが見て奇跡かなにか知らないが、面白いなと笑ってくれた。そんな呪いだ。そのときの胸にこみあげたなにかが、たぶん元の文章で言う「原初的な感動」なんだろう。まあ俺にはこれ、感動であり呪いとも思えるんですけどね。

でも、「読んでもらえる」ということだけですばらしいのは紛れもない事実。ただこれは「読む」だけじゃない。俺にとっては文章だが、ブログにのっけるのは絵でも写真でも動画でもいろんな形がある。内容だって万人に役立つライフハックネタだとかでも、アニメの画面からかぎ取った幼女パンツ香り考察だとかでもなんでもいい。読んでもらう、見てもらう、聞いてもらう、それでなにかをおもしろがったりしてもらう。中身に巧拙の差はあるだろうが、それが俺の理解できるブログの形だ。

から炎上とかを狙って人目をひくことが理解できない。良い悪い、でなく俺個人が理解できないだけだ。イケダなんとかさんは名前をよく聞くし、文章も何度か読んだことはあるはずだが覚えていない。なので、イケダさんのことでなく炎上だとかのこと、元の文章で言うなら「付加価値」を利用して人目をひくこと全体に言及する。しかし元の文章のこの言葉選びはうまいな。

で、俺はそういう付加価値による集客で文を読ませることが理解できない。いったいその文章でなにをどう楽しませたいのか、それが俺には見えないからだ。

というわけで元の文章と俺は同意見で、「んじゃあ俺が書く意味ねーな」となった。だけど、それでもなにかしらをひねり出してでも書かなければならない。でないと、あれを書いた人に対してなぜか申し訳ない気分になってしまうのだ。これは私情であり、今読んでいる人たちには関係ないわけだが、可能なかぎりには超うまいカレーを作るつもりであるので、楽しんでいただけるとうれしい。俺がうれしい。

さて、上に書いたように理解できないわけなんだが「分からない」で終わるのも面白みがない。

で、無理にでも考えてはみたのだが、「ブログというもの意味が今と昔では違う」という、手垢がつきすぎて誰も口にしないレベル結論しかかばなかった。そりゃそうだ。俺の「ブログ文章をのせる場所」なんて認識がもはや少数派の思考しかないのだから

今のブログは、ブログで完結しない。

現代で求められるブロガーは、ブログに書いた文章を介して多くの人間に影響を与えられる書き手だ。もちろんその中身が面白ければそれに越したことはないが熱心な読み手との交流といった付加価値で影響を与えてもいい。twitterで仲間を広げる、セミナー弟子を集める、オフ会友達を増やす、そうして輪を作ってその中に文章を投げる。

勘違いしている人も多いが、その輪に投げられた文章は実に「面白い」のだ。笑いのプロ真剣時間を掛けて考えたネタ以上に、仲間の間で次々に産まれバカ話が面白かったりする。炎上なんてものも、身内だと武勇伝として熱く語られる。その「面白さ」には優劣も貴賤もない。プロだろうが素人だろうがだれかを楽しませるのは同じ。むしろ面白さ」を生み出そうとする情熱能力も、仲間向けのブロガーの方が高いこともある。外部から見ればなにひとつ面白みの感じない文章であろうと、仲間の嗜好にあわせきった珠玉文章だったりするわけだ。

俺は、優れたものにはなにかしらの熱意があると信じている。ただむやみやたらに暑苦しいだけでなく心地よい熱意。そうした熱意のこめられた文章はやはり人目を強くひく。

だが、新しいブロガーのその熱意は文章だけに注がれているわけではない。だからダメだとかいいたいわけじゃない。彼らは外部から見えるブログ文章ではなく、彼らとその読み手がつながる世界面白くすることに熱意を注いでいる。彼らはまぎれもなく誰かを明確に楽しませているのだ。

だとするなら、俺がイケなんとかさんとかのブログを見て、「なんも役に立つもんねーな」と外から言葉を投げたところで、彼らの世界にはなにも届きはしないのだろう。だからまあ、関わるだけムダとも言える。てか、批判している側の人間も意外と中に入ってしまえば楽しめるかもしれない。世の中には交流の力も文章の質も並外れて高く、あふれる熱意でとんでもない規模の「内輪」を形成しているブロガーもいるだろう。そういう人間になら、俺は素直に感心したいと思う。

しかしだ。こんなものは旧世代人間のつまらない感情しかないのだろうが、俺はただ寂しい。

文章一つで見ず知らずの誰かの心を強く揺さぶったときの、書き手としての感情。どこの誰とも分からない人間が書いた文章に腹がよじれるほど笑えた、読み手としての感情。それらは本当にかけがえのないものだったと思う。ブログ書き手ブログ読み手、ただそれだけでつながるようなブログはどんどんと消えるのだろう。SNSなんかが広がってこれだけ簡単に人と人がつながれる時代なのだから当然の流れだとは分かっている。

だが俺はそれでも思う。文章自由に書け、それが誰かに読まれる。ただそれだけでもすばらしいことなのだと。

________________

 とまあ書いてみたけど、私の文章で一瞬でも「もしかしてこっちが店長かな」とか疑ってくれたら幸い。(うーん、読み返してみたけど全然やった…)

 私は底辺ブロガーなんで特定される心配はないけど、やっぱ店長はすごいな。元の増田を見返しながら書いたけど、見れば見るほど文体から店長っぽさが伝わってくる。

 もしも他の人が文体模写で書いたっていうなら、それもまた超弩級変態技術の持ち主だわ。

 まあ、この文章店長好きの気持ち悪いファンレターだと思ってくださいな。元増田を見かけて、うっひぃよおぉおおおんん!と喜びまくった勢いで書いた文章です。

 私は、見ず知らずのあなた文章が好きでした。

 今のはてなでは文章で読ませるってブログは少なくなりました。それは時代の流れで仕方ないことなのだと思います

 熱意が不特定多数に向けた文章以外、たとえばPV狙いの炎上や仲間内交流だとかに注ぎこまれ割合が多くなったってだけで、「楽しませよう」「目をひこう」という気持ちにはたぶん変わらないのだと、私は信じています

 ぺらっぺらの内容の記事ホットエントリー入りしてイラッとくることもありますが、それも今のはてなの一つなんだと思います

 だけど、やっぱり私はまだ見たい。

 文章の力で引きこませるような記事を、まだもっと見たい。

 交流系だろうが、炎上系だろうが、変態アニメペロペロ系だろうが、文書面白ければなんだっていい。

 私自身も微力ながら、でも自由気ままに、文章中心のブログを書きはじめました。(半分休止中ですが)

 もっと見たいって言うなら、自分からはじめるしかないですしね。非力であっても。

 だから、もしあの増田店長だったなら言っておきたいことがあります

 あの文章で返ってきた反応、求めていたものじゃないでしょ。

「わー店長だ」「おかえりー」「文章見てすぐ分かった」

 そんな言葉なんて、まああればうれしいでしょうけど、本質的に求めていたものじゃないですよね。

 批判しろ肯定しろ、書いた内容について真剣言及されたいって思ったりはしないですか。

 たぶん、今のままだと、増田に書くたびにそんな反応しか返ってこないと思います

 なので、ブログに腰を据えて、不特定多数に突き刺さるような文章を書いてくれませんか。

 もしくはもっと頻繁に増田日記をあげていく、だとか。

 じゃないと、いつまで経っても「おかえり」で埋められる反応になるかなって思います

 そんなの寂しいんじゃないかなと勝手ながら思ってしまいました。

 この増田を書いたのも、元の記事について、なにかしら踏みこんだ内容の反応を見せたかたからです。

 というわけで、またいつか、できれば「おかえり」で埋まらないような近いうちに、帰ってきてくださいね

 店長文章が好きな一人として、いつまでも待ってます

2016-01-10

長いです。

ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでたんすけどね。

あ、俺も昔ちょっとブログやってたことある人なんですけど。

あれつくづく俺と対極にいる人なんだなあと思いました。

個人的感情としては「そこまでしなきゃマネタイズできないとか向いてないからやめたほうがいいよ」としか思わないんですけども、同時にだれもが文章一本で金とれるわけでもない、ということもよく知っています

俺はかなり自覚的アマチュアリズムの信奉者でした。書籍化とかまあそういう話もそこそこあったんですけども、一度の例外を除きすべて断ってます。まあ商業に乗っかることのめんどくささってのがいちばんかいんですが、それ以上に俺には「自分文章を換金する」気がかなり強固な意志としてなかった。ブログでもそれを鮮明にしていたはずです。

アマチュアリズムというとかっこよく聞こえるんですが、要は「無料なんだからなに書いたっていいだろ」っていうことです。あるいは「なに書いてもいい自由を俺から奪うな」「つーか金とるにあたって発生する責任とかとる気ねえから」ということでもあります

仕事柄「商品価格」ということにかなり鋭敏です。流通に乗っかってる以上は、どんなもんでも商品だろってことです。まあ、需要がありゃどんなもんでも換金できるのが資本主義ってもんでもあるんでしょうけど、だからといって送り手がそのことに無自覚でいいってことはないよね、という。

俺が売ってるものは食い物がメインです。食い物は、払った金のぶんだけはなんらかの満足を客に与えなきゃいけない。そうでないと売れない。食い物の第一の機能は「食ったら腹埋まる」ということですが、ほかにも甘くておいしいだとか、レアだとかまあいろいろあります。ごく大雑把にいうと、普及価格の食い物に関しては「おいしい」と「腹埋まる」がメインの機能で、ほかのもの付加価値だと思ってます

しかし実際に売れる商品ってのは付加価値で売れるんですよな。パッケージがいい、CMが大量投下されてる、見た目より重い、いままでに見たことがない、など。まあリピート以外の要因では、食ったことがない状態から買うんだからあたりまえの話ではありますが。

で、イケダハヤトっていう人は、この付加価値の部分を極大化させた人だと思うのです。あらかじめ言っておきますが、いいとか悪いとかの話はしてないです。そもそも俺はブログってものを「文章をのっけるためのメディア」としか考えてません。俺にとってそうだからそうだ、というだけの話で、この段階で、そうは把握していない人を批判する資格能力がありません。

ただ、人目に触れるなんらかのメディアである以上、その本分は「おもしろい」か「役に立つ」だと思ってますおもしろいってのはなんでもいいです。単純に笑えてもいいし、罵倒芸でもいいし、人の生の一断面があらわれてるようなものでもいいし。そして、それ以外の部分はすべて付加価値です。

おもしろさというものが単純に言語化できる性質ものではない以上、付加価値のほうも明確には定義できない。だからあくまで「俺から見て」という話になりますけども、イケダハヤトという人のブログからおもしろみを感じることができなかった。役に立つかというと、それもあまりそうは思えない。ではなにが得られるのだろうと考えたときに、ある種の人々を「その気にさせる」「逆から見ることでわかったような気にさせる」機能がメインじゃないかな、と思えました。

付加価値は金になりますしか付加価値だけでは長持ちしない。それをなんとかしてきたところに異能があったんじゃないかと思えます。まあ実際にだれかの人生に影響を与えたんだとしたら、それはもう「付加」とは呼べないのかもしれません。

個人的にはイケダハヤトという人のスタンスは嫌いです。ただ、嫌いである以上に理解ができない。これはあくまで俺の理解能力限界なんだと(遠回しな皮肉でなく)思うんですが、たとえマネタイズという強力なモチベーションがあるにせよ、ああい炎上上等な手法で得られるものはいったいなんなのか。それが金だというなら仕事なんだからいやなことでも我慢するっていうことなんでしょうか。

考えてみると、俺は常におすそわけの原理で動いていた気がします。たとえばカレー作った。なんかおいしくできた。じゃあ隣にも分けてあげよう。やっべー俺の作ったカレー超うめえっすよ。でも隣の人がカレーきじゃなかったらおすそわけしない。インターネットのすばらしさは、俺にとっては「俺の作ったカレーここにあり!」「俺は超うまいと思うからカレー好きな人は食え!」「でも俺の好みで作ったから好みにあわない人ごめんね」「そのかわり無料」っていうところです。

かといって日本全国のカレー好きの人に俺のすばらしいカレーを届けるための努力をするほどではないのです。だから別に有名になる必要はなかった。それに俺には「今日カレーを作ろう」「いや、気分的に今日うどん」という自由がありました。その自由を捨てる気はなかったのです。カレー職人になりカレーで金をとるためには、三度のメシよりカレーが好きであり、魂がカレーでできている必要があります。それでいえば俺は「料理が好き」なだけであり、だれかがおいしいといってくれればそれで満足だったのです。もっといえば「おいしいといってくれる可能性がある」だけで満足だった。

さて、彼は三度のメシよりなにが好きなんでしょう。俺にはそれがわかりません。その答えがおそらく彼があのような手法をとる理由であり、そしてどうやら俺は、わからないながらもなんとなくそ理由があまり好きではないのです。

これを、文章だけでのし上がってきた人間マッチョイズムといえばそれはそうでしょうし、インターネット懐古主義だというのならそれもそうでしょう。それでも俺は、なにも書かれていないテキストエディタを前にしたときの「さあ、いまから俺はなにを書いてもいい。そしてだれかがそれを読んでくれるかもしれないんだ。こんな素晴らしいことがあるだろうか」という原初的な感動を捨てたくはないです。同時に、この感動はおそらくSNS時代以前の人間のものだということも承知のうえで、なおそう思います。まあ、かたちを変えた「飽食の時代なんだから文句言うな論」にしか聞こえないでしょうけど。それでも俺は「読まれる」というだけですばらしいことだとしか思えないのです。

※追記

あー、逆に「読まれる」という自体がさほど困難ではない状況以降の人にとっての「原初的な感動」がなんであるかは聞いてみたいかもしれない。自分にとっての感動が真実である以上、その先の状況にいる人たちの感動ってのは理屈しか想像できないものなのです。まあ物心いたころにはインフラとしてネット存在していたならそんなもののありようはないのかもしれませんけど。

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