はてなキーワード: 1941年とは
私は元増田なのですが、アウシュヴィッツ火葬場の謎の回答を書いたら、結構それに対する異論もあったように思います。私は専門家でもないし確かめたわけでもないので、理屈については不正確かもしれませんが、概ねは否認論者の主張を参考にして否認論の主張を理屈として述べただけでした。マットーニョ先生は同時代の養豚場の火葬の論文まで持ち出して批判してきます。これは的外れの事例なので比較になんないのですけど、でも否認論者が如何に必死かということがわかるかと思います。
正確な知識が必要と、タイトルで断っているのは、決して否認論者を舐めてはいけない、ということです。例えば、火葬炉の回答についたブコメで「絶滅収容所以外では死体を埋めていた」という話をされた方がいますが、そんなの当然知っているのです。アインザッツグルッペンの話かと思いますが、実はこのアインザッツグルッペンはたしかに死体を埋めていましたが、その後に掘り返して焼却処分にしたのです。焼却方法は現地で野外火葬したのですが、鉄道レールを利用した即席焼却場を作っていました。この作業にあたったのが1005アクションと呼ばれる部隊です。パウロ・ブローベルという親衛隊員(元アインザッツグルッペンの一人)が指揮を取って遺体焼却作戦に当たり、アウシュヴィッツのユダヤ人囚人などから特別作業班を作って現場を連れ回っていたのです。当然このユダヤ人はいらなくなったら現場で銃殺刑です。
但し、全部焼却処理できたというわけではなさそうです。近年でもマンション建設現場からアインザッツグルッペンの埋葬遺体は発見されています。ちなみに、ホロ否認派はこのアインザッツグルッペンの虐殺は、「パルチザンだったからいいのだ」と主張します。8割以上ユダヤ人なんすけどね・・・。ともかくも、1005アクションは存在し、ナチス親衛隊はとにかく徹底的に証拠隠滅をしようとしたのは間違いのない事実なのです。ところが、否認論者はこの1005すら否定してきます。
http://iroiro.alualu.jp/sekaisi/sofia/sofia_s36-1.html
古いサイトですが、元ネタはゲルマー・ルドルフのようです。このルドルフもマットーニョと並ぶ、否認論量産人ですが、ルドルフはマックス・プランク研究所で働いておりましたが、首になってしまいます。そしてホロ否認に手を出したがために、刑法犯になってしまい逃亡します。結局イギリス定住だそうですが、最近では公然わいせつ罪で逮捕されています。ルドルフ先生は知名度が高いため世界的ニュースになっています。詳しくは英語のWikipediaを見ましょう。ルドルフくんは真面目に働いていたら博士号も取れたはずなのに博士号持ってないんです。なのに否認派は「有能な化学者」と思ってるそうです。あの噴飯もののロイヒターレポートを称賛するというレベルなのに・・・
かのロイヒターレポートを書いたフレッド・A・ロイヒター・ジュニアも詐欺師でしたし、ゲルマー・ルドルフも上記の通りの人物ですし、否認論本濫造人(軽く100冊!を超えます)カルロ・マットーニョは素性がよくわかりませんが、どうやらイタリア国内のどこかの教師職のようですが、ともかくろくな人物はいませんけど、奴らも生活かかってますので必死です(笑)。多分歴史見直し研究所(IHR)などから金が出ているのだろうと邪推しています。でも、十年ほど前にIHRの会長は、ホロ否認戦略を見限ったという情報も得ています。ホロ否認がいくらやっても世間に受け入れられないので、もう直球で反ユダヤ主義を訴えようではないかと言っているそうです。
例えば、青酸ガスの元となるチクロンBペレットのガス室への投入口など存在しない!というものがあります。これ、実は結構厄介な問題なのです。反否認論側としては、くっそムカつく否認論の一つです。
何故ならば、1)アウシュヴィッツの最初のガス処刑室(クレマトリウム1)の天井には3つか4つほどのちクロン投下孔があけてあったが、このクレマトリウム1は1944年に防空壕に改修されてしまっているのです。1941年9月末〜1942年末くらいまでしか運用しておらず、もっぱら基幹収容所でソ連兵などの処刑(ユダヤ人も含みますが)に使ってただけのガス室だったのです。で、防空壕にしたときに天井を塞いでしまいます。が、戦後にポーランドが収容所を博物館にしようということで、このガス室の再現工事を行ってもっかい屋根の穴を開け直すのです。ところが、この再建工事、内部工事を含め杜撰な工事だったので、ガス室当時を正確には再現しておらず、否認論者のフォーリソンらに見抜かれてしまいます。博物館の案内も杜撰で「当時のままだ」と言っていたらしいのです。そして、このクレマトリウム1のガス室捏造疑惑が発生するのです。
ね? 厄介な話でしょう? そして、2)ビルケナウの方のクレマトリウムはどうだったかというとこれ、親衛隊はダイナマイトで爆破し原型をそもそも留めていません。クレマⅡとⅢにはクレマⅠ同様、天井にチクロンペレット投下孔があったのですが、現在瓦礫しかなく、よくわかんないのです。そして否認派は、1980年代頃に公開されたのであろう、1944年代に撮影された航空写真(連合軍やドイツ軍のもの)を利用し、ビルケナウのガス室には「チクロン投下孔などない!」と言い出します。でも、実は当時の航空写真は解像度が低くてよくわからないのです。また、そもそも論として、親衛隊が残した建設図面には一切このチクロン投下孔が記載されていないのです。
そして、映画『否定と肯定』でお馴染みのデヴィッド・アーヴィングもこの実際の裁判でこの穴のことを裁判中に持ち出すのです。一日中、肯定派側の学者とこの件で裁判中に議論の応酬をしていたこともあったらしい。で、肯定側のリップシュタットを応援する研究者たちが「じゃぁ、この際きっちり調べてきてやろう!」と現地調査に乗り出すのです。結局裁判にはこれは不要でしたが、ビルケナウ・クレマトリウムⅡの跡地の瓦礫から、天井のチクロンペレット投下孔の痕跡を4箇所中3箇所見つけ出したのです。クレマトリウムⅠの投下孔も現在の穴の位置で間違いないと、写真解析により断定しました。
これに対し否認派は、クレマトリウムⅡの残骸にある穴は「戦後にポーランドが内部を調べるためにあけた穴であり、当時のものではねぇんだよ、バーカ」とこれまた適当な反論を抜かしやがるわけですが、どう考えてもその穴は後で開けたものではないと既に証明しているので、言いがかりに過ぎないものでした。こちらに日本語翻訳解説があります。
ホロコースト否認論を否認するテスト-16「毒ガス落とす孔がないんですが」の件|蜻蛉|note
ま、こんな感じで、重箱の隅突きじゃないですが、あらゆる論点でホロコーストなどなかった・ガス室などなかったという主張を辞めないのが否認派です。実態をご理解いただけたらなぁと思います。
ええっと、これが正解!というのはブコメにもトラバにも私の見た限りではありませんでした。近いものはありましたが、これ、知ろうとすると先ずアウシュヴィッツ・ビルケナウのマッフル炉がどんなものだったかを知る必要があります。ええっと、簡単にググった範囲では、このページにある上から3つ目の写真ですね。
わかりますかね、一つのマッフルの口の幅は大体60〜70cmだったかと思います。わかりにくかったら類似画像検索か何かでもっと見やすい写真もあったかとは思いますが、この一つのマッフルが三連になっていて実質的には3つで一つの炉を形成しています。これをトリプルマッフル炉と呼びます。
アウシュヴィッツの大量虐殺の現場はアウシュヴィッツⅡとも呼ばれるビルケナウキャンプの方です。アウシュヴィッツメインキャンプから3キロほど離れた場所にあります。上で示したリンクの写真はすべてビルケナウのものです。
このビルケナウにトリプルマッフル炉を5基備えたクレマトリウムⅡとⅢの2つがあり、そこから少し北に行ったところに……えっと、炉の形式をちょっと忘れましたのでとにかく8マッフルの火葬炉をもつクレマトリウムⅣとⅤの2つがありました。故に、計46マッフルあったわけです。
さて、計算上は1日仮に3,000体ならば、一時間あたり約3体/マッフルとしなければダメであり、一体20分なわけですが、実際はどうやったかと申しますと、実は複数遺体を同時に焼却処分していました。これとほぼ同じ答えはありましたが、でも少し考えてもらいたいのです。
一体を一時間で焼却できるというのは、焼却エネルギーをそれだけ与えるからです。1体につきnカロリーならば、3体なら3nカロリーです。つまりカロリー計算ならば、同時に焼いたところで、炉が与えるエネルギーは同じなのだから、3倍の時間がかかるはずです。
あれ? と思いませんか?
そこで、もっとコークスを入れればいいのだ、という話になってきますよね? 一体あたりのコークス料はこれは流石にデータがまったくないのでわかりません。しかし、幅6,70センチしかないマッフルに三体も入れて、更にコークスを三倍にするなんて、非現実的だと思いませんか?
実は当初、親衛隊自身がそう思っていたフシがあるのですが、これにはカラクリがあります。上で述べたように、実はマッフル一つが1炉ではないのです。トリプルマッフル炉なのです。つまり、炉としては1炉1マッフルよりも三倍も大きいので、熱量/高温をそれだけ維持できるのです(要するに外部へ廃棄されたりして無駄になる熱量が少ない)。しかし、まだ問題は解決してはいません。何れにせよ、遺体量分のコークスが必要なのはそれほどは変わらないからです。
で、一体どうやってこの問題を解決したかというと、それは「遺体自身を燃料にする」だったのです。流石にそれは誰も思いつかなかったのではありませんか?
嘘だろ? と思う人がいたら、そう証言した人がいると答えておきましょう。ヘンリク・タウバーというこの遺体処理作業に当たった、ユダヤ人収容者の作業員、いわゆるゾンダーコマンドがいます。タウバーは酷く否定派に嫌われています。当たり前です、このタウバーの証言を認めたら、否定論は一瞬で破綻してしまうからです。戦後裁判などで当然証言台に立ってます。
で、このタウバーは遺体がよく燃えるので、燃料の追加はほとんど必要なかった、と答えているのです。このタウバー、驚くなかれ一度に9体くらいも遺体を入れたことがあるとまで証言しています。そんな馬鹿な?と思うでしょ?
想像ですけど、おそらく、タウバーのこの証言は、遺体をどんどん連続投入していたがために、実際には同時に9体入れたのではなく、次々に入れていった場合の先に入れた遺体は燃焼して体積が減っていき、それで9体などと言ったのだと思います。あるいは普通に、トリプルマッフル一基を1炉と考えて、3つのマッフルに対しての9体なのかもしれません(それなら理解しやすい)。
何れにしても、遺体自体を燃料にするって少々信じ難いと思いませんか? 人間の体って普通は7割は水です。アウシュヴィッツについてすぐ殺された人が大半ですから、痩せてすらいないわけです。しかも、このついたばかりのユダヤ人の方がよく燃えたというのです。流石にそれは嘘だと、言いたくなってきませんか?
でも、遺体を燃料にしたというのは証言しかないのですが、15分程度で焼いたという当時の文書記録はいくらでもあるのです。
えー、それっぽく引用文献が載ってますが、これはあるページからコピペと少し修正しただけですので、ご勘弁。ともかく文書資料はそれなりに残っていて、多分まだまだあると思いますが、実際に算術的火葬率1体あたり15分程度をやってたということに疑いの余地はありません。
というわけで、こういう具合に細かく突っ込んでくるのがホロ否認論です。そんなの出来るわけない! というのを反論するのが結構大変だということがご理解いただけるのではないでしょうか?
で、どうして引用文献を示したかというと、「Mattogno」という人物の名前が出てきます。この人、超有名なホロ否認論者です。ホロ否認論者が普通に、ホロコーストを肯定するような資料を自著に載せるのです。ホロ否認論者に、粗雑なリビジョニストがやるような「やばい資料を隠す」ような人はいないと言っていいでしょう。
どうも都合のいい総括が行われているようだ。
IthacaChasma 3本の矢のうち、1本目(金融緩和)は上手くいった。しかし日銀は金融緩和はできても需要は創出できない。2本目の財政出動が全く足りなかった。おかげでデフレ脱却ができず、賃金も増えなかった。消費税率上げは最悪。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200902213816
本来のリフレ政策がどのようなものであったか、振り返ってみよう。
戦後の各国は、ケインズ経済学の影響の下で、財政政策および金融政策を用いてマクロ経済の安定化を実現するという枠組みを受け入れてきた。しかし、世界的な固定相場制が崩壊した1970年代以降は、マクロ安定化の手段は金融政策を主軸とし、財政は基本的に公共財や公共サービスの供給に割り当てるという考え方が定着するようになった。(略)したがって、金融政策をそれ(引用者注:国内マクロ経済の安定化)に適切に割り当てておけば、財政政策をマクロ政策に用いる必要は特にない。
岩田規久男(編)『まずデフレを止めよ』 pp123, 124
この認識を支えていたのが、
1920年代の長期的成長経路への回帰という意味での終焉については、さまざまな要因が指摘されている。「1940年3月のドイツ軍フランス侵攻によるヨーロッパからの大量の戦争資材の発注による輸出の急増とアメリカ自身の軍事費の急増による拡張的財政政策」(加藤[2001]199-200頁)を強調するのは加藤出氏である。白川方明氏も同様に戦争を強調する(白川[2002a])。(略)
アメリカが参戦したのは1941年だが、生産はその前にすでに上昇している。1940年にはほぼ終焉が完成していると考えるべきである。(略)1941年以降、財政支出が増えたことはそのとおりである。しかし、それまでの時期については、それほど増えていない。(略)
さらに、安達氏の研究でも、公共投資の増額は大恐慌からの回復、終焉とあまり関係がないことがわかる。デフレからの脱出が達成された1933年には公共投資は減少していたし(ルーズベルトは、就任と同時に緊縮財政を行っていた)、40年にはまた減少していた(図表5-3を参照)。
岩田前掲書 pp159, 160
という実証と、
そもそも、先進国のマクロ的な景気対策はほとんど金融政策に頼っている。というのは、資本移動が自由な場合、金融政策が財政政策より効果的というマンデル=フレミング理論のほかに公共投資のような財政支出は特定の利益集団に利用される可能性が高いために敬遠されるからだ。広範な消費者を対象とする減税政策であれば、こうした問題は避けられるが、財政赤字を考えると減税の余裕はないからだ。
岩田前掲書 p210
という理論だった。すなわち、緊縮財政であっても(緊縮でない方がベターであるにせよ)、レジーム転換を伴う十分な金融緩和を実行すればデフレ脱却は可能だ、というのが本来のリフレ政策であった。これを総括するのであれば、
のいずれかでしかあり得ない。本来のリフレ政策が実現されていたにもかかわらず消費増税のせいでデフレ脱却ができなかった、とする冒頭に掲げた意見は、本来のリフレ政策は誤りであったというのが論理的必然であると考えるが、そのように理解していいのかな?
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戦史叢書
防衛研修所戦史室(現・防衛省防衛研究所)が編纂した太平洋戦争及び日中戦争(大東亜戦争)に関する公刊戦史。
開戦経緯、戦争指導、個々の作戦等について、各種文書、口述記録並びに外国の公刊戦史等を元として、記述するもの。
1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂・発刊。
大本営関係34巻 · 陸軍戦史37巻 · 海軍戦史21巻 · 陸軍航空戦史9巻 · 年表1巻の全102巻で構成。
戦略レベル以上の分析や史料批判に欠ける。旧軍に所属していた元軍人が書いているため、身内に係る批判がされにくい。陸海軍の対立が編纂事業にまで及ぶ。捕虜の取り扱いや占領地行政に係る記述が無いか少ない。索引が無い。誤りが多い等の問題点が見られるようだ。
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日本陸軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項について記述。官制について記述。
扱う期間は慶応3年(1867年)~昭和20年(1945年)8月15日。
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明治元年(1868年)から昭和15年(1940年)5月までの約70年間に亘る陸軍中央部施策中、大東亜戦争関連事項につきその大綱を概説して記述。国防上の政策、軍令機関等の制定改廃、帝国国防方針の制定改定等について記述。
扱う期間は明治元年(1868年)~昭和15年(1940年)5月。
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主として大正6~7年(1917~1918年)頃から昭和12年(1937年)頃までの約20年間に亘る陸軍軍需動員の計画準備について記述。徴発制度・法令・官制・計画等について記述。実施面については、戦史叢書第33巻『陸軍軍需動員<2>実施編』に詳述。
扱う期間は大正6~7年(1917~1918年)から昭和12年(1937年)。
大本営陸軍部の立場から大東亜戦争(日中戦争・太平洋戦争)に至った政戦略の経緯や戦争指導について記述。主として「大本営政府連絡会議」及び「御前会議」の運営及び開催に伴う陸海軍及び外交当局の動きについて記述。
扱う期間は昭和6年(1931年)~昭和16年(1941年)8月30日。
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日本海軍創設から「大東亜戦争」開戦までにおける海軍中央部の施策 、開戦から終戦までの大本営海軍部・連合艦隊の戦争指導および作戦指導の概要を記述。
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日本海軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項を重点的に概述。
扱う期間は昭和16年(1941年)11月~昭和20年(1945年)8月15日。
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昭和17年(1942年)6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦及びその前後の海軍作戦について記述。本作戦は、戦争全般のターニングポイントとみなされている重要な戦役(戦闘)であり、本作戦の失敗(敗北)以降、開戦から常に先手を取り続けていた日本海軍は、守勢に回ることとなった。なお、本作戦は、アリューシャン列島西部要地攻略作戦と一体の作戦として計画及び実行されたものであり、戦史叢書第029巻『北東方面海軍作戦』を関係して参照することが望ましい。
扱う期間は昭和17年(1942年)1月~昭和17年(1942年)6月。
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外地(特に南方占領地)からの海上輸送は、戦争中の国力維持に対し極めて強い影響を与える。戦争敗因の一大要因として、わが海上輸送力の減退に基づく国力喪失が挙げられており、それらの実相並びに諸対策の実態を明らかにするためにも、これらの関連分野全般に亘っての総合的研究叙述が必要とされるところである。
扱う期間は明治40年(1907年)4月~昭和20年(1945年)8月。
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昭和20年(1945年)1月~8月にかけての大本営陸軍部の作戦指導及び戦争指導の経緯を記述。
扱う期間は昭和20年(1945年)1月20日~昭和20年(1945年)8月15日。
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1615-05-07 大阪城が落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡
1853-05-23 アメリカ艦隊、浦賀沖に来航(黒船来航)
1861-04-12 アメリカ南北戦争(1865年5月9日まで)
1868-01-03 王政復古
1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)
1871-08-29 廃藩置県
1875-06-28 讒謗律(太政官布告)及び新聞紙条例(太政官布告)公布
1877-05-26 木戸孝允死去
1888-03-09 ヴィルヘルム1世・プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御
フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1894-07-25 日清戦争(1895年4月17日まで。宣戦布告は1894年8月1日。台湾平定終了は1895年11月30日)
1898-07-30 ビスマルク死去
1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)
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1905-09-05 日露両国講和条約(ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)
1912-07-30 明治天皇崩御。皇太子嘉仁親王が践祚。元号が明治から大正に改められる。
1914-07-28 第一次世界大戦(1918年11月11日まで)
1922-02-01 山縣有朋死去
1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印
1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効
1926-12-25 大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(摂政)が践祚。元号が大正から昭和に改められる。
1927-03 昭和金融恐慌
1930 昭和恐慌
1930-10-02 日本、ロンドン海軍軍縮条約を批准
1932-05-15 五・一五事件
1936-01-15 日本、ロンドン海軍軍縮条約を脱退
1936-02-26 二・二六事件
1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効
1937-07-07 日中戦争(1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称)
1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告
1939-09-01 第二次世界大戦(ドイツがポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)
1940-09 アメリカ、対日屑鉄全面禁輸
1940-09-27 日独伊三国同盟調印
1940-11 日本とアメリカの各種交渉(1941年12月まで)
1940-11-30 日本国中華民国間基本関係ニ関スル条約(日華基本条約)調印
1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達
1941-04-13 日ソ中立条約調印
1941-06-22 独ソ戦(ドイツがバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)
1941-08-28 近衛首相、ルーズベルト・アメリカ大統領に首脳会談を提案(結局、沙汰止みとなる)
1941-12-08 太平洋戦争(日本の英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)
1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。
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1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)
1942-06-05 ミッドウェー海戦
1942-08-07 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸
1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
1943-05-12 米軍、アッツ島上陸(5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。
1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。
1943-11-22 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談。26日まで)
1943-11-28 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談。同年12月1日まで)
1944-06-19 マリアナ沖海戦。日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋の制海権と制空権を喪失。
1944-07 ブレトン・ウッズ協定
1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。
1944-08-02 テニアン島の日本軍玉砕(テニアンの戦い)
1944-09-11 米軍、ペリリュー島上陸(ペリリューの戦い)
1944-10-20 米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)
1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。
1945-02-04 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談。11日まで)
1945-04-12 ルーズベルト・アメリカ大統領死去。トルーマン副大統領がアメリカ大統領に就任
1945-05-02 ベルリン陥落
1945-08-06 アメリカ、広島県広島市に原子爆弾を投下
1945-08-09 アメリカ、長崎県長崎市に原子爆弾を投下
1945-08-15 玉音放送
1945-09-02 日本政府、ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争(大東亜戦争)終結)
1945-09-09 日本政府、中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結)
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1950-06-25 朝鮮戦争
1951-09-08 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
(日米安保条約)調印
1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効
1952-10-15 警察予備隊が保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1953-03-05 スターリン死去
1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催
(於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーグホテル)
陸上自衛隊(保安隊から改組)、海上自衛隊(海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置
1956-07 昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)
1958-08 大躍進政策
1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。
1964-08-02 トンキン湾事件(8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)
1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年10月24日まで)
1966-05-16 無産階級文化大革命(文化大革命)(1976年10月6日まで)
1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)締結
1971-08-15 ドル・ショック
1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)
1972-09-29 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。
1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)
1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)
1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印
1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効
1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱)
1985-09-22 プラザ合意
1987-12-08 中距離核戦力全廃条約(INF条約)発効(2019年8月2日失効)
1989-01-07 昭和天皇崩御。元号が昭和から平成に改められる。
1989-04-01 消費税導入(当初は3%)
1989-06-04 六四天安門事件
1989-12-29 日経平均株価、取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。
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1993-07 衆院選で自民党が敗北し、非自民連立政権が誕生する(55年体制の終焉)
1993-11-11 欧州連合条約(マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)
1995-11-23 Windows95が日本国内で発売される。
1997-07 アジア通貨危機
1997-11-03 三洋証券、経営破綻(会社更生法の適用を申請する)
2003-03-20 イラク戦争(2011年12月15日まで)
2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行
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加藤陽子の本(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』等)が参考になるかも
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>そりゃ大きく変わったのは事実だけど、ずっと前から変わっていたんじゃねーの?
そのへんを考えると、日露戦争終結あたりから歴史を見ていった方が良さそうだな
他のコメント(ブックマーク含む)を参照してみると、結節(ターニングポイント)としては例えば、以下が挙げられるようだ
・征韓論
・台湾出兵
・日清戦争
・日露戦争
・世界恐慌
・満州事変
・五一五事件
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>ここから既に国内の人材・物資徴発が始まっていたわけで、いわゆる戦時下体制で内閣は挙国一致内閣。
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https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20170809013919
>日中戦争は満州事変の帰結で、満州事変は日露戦争、ロシア革命・辛亥革命の延長線上にあり、日露戦争日清戦争は維新の不平士族の征韓論が背景にあり、維新は関ヶ原の… つまり、卑弥呼が黒幕だったんだよ!
とあるが
こういうような考え方をして、信長の時代から維新まで歴史を説き起こしたのが徳富蘇峰『近世日本国民史』だったような気がするな(ふと思い出した)
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『検証 防空法 空襲下で禁じられた避難』「空襲は怖くない」、「逃げずに火を消せ」 ―― 空襲被害を拡大した日本政府の責任
http://osakanet.web.fc2.com/bokuho/kensyo.html
* 情報統制 ―― 「空襲は怖くない」、「焼夷弾は簡単に消せる」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52580?page=3
かつて政府は、空襲から身を守るため丈夫な防空壕を建設せよと指示していた(1940年12月24日・内務省「防空壕構築指導要領」)。
ところが、防空法改正により避難禁止と消火義務が定められると方針転換する。
1941年10月1日に内務省は「国民防空訓」を発表し、家庭用の防空壕は作らないよう指示。新聞は「勝手に防空壕を掘るな」「避難、退去は一切許さぬ」と報じた。
敵はアメリカだけではない
https://anond.hatelabo.jp/20150214223556
( ・3・) クラシック好きの上司がジャズを聴きたいと言いだして、から数か月後――
その朝、彼が職場に着くと、クラシック好きの上司は目を閉じて見えないオーケストラの指揮をしていた。腕の動きが激しさを増し、握った拳が垂直に振り下ろされる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11。
「なんだ、来ていたのか」と上司は目を開いて言った。「春の祭典の第二部なんだが、どうにも縦の線が揃わなくてな。リハーサル不足だ」
「高度に発達した空想は現実と見分けがつかないくらい不自由なものだ。ティンパニ奏者とシンバル奏者はもう何年も口をきいていない。――それはそれとして、ボブの件、明日の日曜はどうだ?」
ボブというのは、ボブ・ディランのことだった。上司の娘さんが英語の授業で「はげしい雨が降る」を習ってきたらしく、それ以来、上司は彼にディランについてのレクチャーを要請しているのだった。彼が娘さんに教えるのではなく、彼が上司に教え、上司が娘さんに教える。ディランのことならパパに任せなさい、と目論んでいるのは明らかだった。
明日。彼は断ろうとしたが、適当な口実が見つからなかった。高齢の親戚はひと通り殺してしまっていたし、このあいだ死んだ祖父にもう一度死んでもらうには、まだ少し時間が必要だった。
「じゃあ、決まりだな」
こうして、彼は休日をつぶして上司の家を訪ねることになった。どの作品を題材にするべきか迷ったが、一日でディランのキャリアを追いかけるのは無理だと割り切って、彼自身がディランを聴き始めた高校生のころに感銘を受けたものを選ぶことにした。『ブラッド・オン・ザ・トラックス』だ。このなかの数曲を検討するだけでも、一日まるごとかかってしまうだろう。たくさんのアルバムを持っていかずに済むのが救いといえば救いだった。
最寄駅に着くと、もう上司は車で迎えに来ていた。大きな声で名前を呼ぶので、きまりの悪い思いをしたのをわたしはよく覚えている。車に乗り、しばらく走ると、左手に惣菜とパンの店が見えてきた。看板にはアルファベットで DELI BAKERY と書かれていた。
「デレク・ベイリーのCD、今日こそは返していただきます」と彼は言った。
「そんなことを気にしていたのか」と上司は笑った。「大丈夫。おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう」
おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう。それはまるでデルポイの神託のように聞こえた。彼は運命のうねりが身に迫ってくるのを感じた。しかし、現実は物語とは違う。成就しない予言。読まれない遺書。途切れる伏線。それが現実だ。
「デレク・ベイリーというのは、あのヴェーベルン風のギタリストだな?」
「そうです」
「あれをかけると、猫たちが爪とぎを始めるんだ。何か感じるものがあるのかもしれないな」
「猫たち、とはどういう意味ですか?」
「猫たち、とは」と上司は言い、長めのフェルマータを置いた。「猫の複数形だな」
「また拾ってきたんですか?」
「いや、拾っていない。拾ったのはちーちゃんだけだ」
「猫の方から入ってきた?」
「いや、入っていないし、出してもいない」
「じゃあどうして増えるんですか?」
「さて、どうしてでしょう」
「ちーちゃん、ベルリオーズ、リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー、お客様にご挨拶だ」と上司は居間の扉を開けて言った。居間には母猫のちーちゃんと、三匹の子猫たちがいた。上司が公園で拾ったとき、ちーちゃんはすでに出産を間近に控えていたのだ。
「里子に出すまでの幼名だよ。正式な名前は里親がつければいい」
猫たちは来客には関心がないようで、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフに背後から跳びかかり、ベルリオーズは伏せの姿勢でおしりを振りながら取っ組み合いに加わる間合いを計っていた。
「みんな元気だな。よし、そっちに掛けてくれ。いまコーヒーを淹れてくる」
( ・3・) まずはバイオグラフィからだな。ボブの経歴をざっとまとめてくれ。
――いえ、それをやっていると時間がなくなるので、今日は『ブラッド・オン・ザ・トラックス』というアルバムだけを聴きます。
( ・3・) それにしたって、そのアルバムの位置づけくらいは踏まえないと。
――では、Rate Your Music のページを見てください。
https://rateyourmusic.com/artist/bob-dylan
――アルバムが発表順に並んでいますね。デビューしてまもなく、1963年に最初のピークが訪れます。このころのディランがお手本にしていたのはウディ・ガスリーで、ギター、ハーモニカ、歌というフォークのスタイルで世に出ました。
( ・3・) 「はげしい風が吹く」か。
――「はげしい雨が降る」と「風に吹かれて」です。ディランは1941年生まれなので、22歳前には代表作を発表していたことになります。
――1965年から66年にかけて、二回目の、そして最大のピークが訪れます。演奏はフォークからロックへ変わり、詩の内容も変わります。
( ・3・) どう変わるんだ。
――初期の詩は、一言でいえば真面目で、真面目な人たちに支持されるものでした。そこに、散文的な感覚では理解できない要素が入ってきます。「イッツ・オールライト・マ」「デソレイション・ロウ」「ジョハンナのヴィジョン」といった大作が次々に書かれるのがこの時期です。
( ・3・) 理解できない要素というのは?
Inside the museums, Infinity goes up on trial
Voices echo this is what salvation must be like after a while
( ・3・) 「ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に倚りかゝりて如何に滑かなる没食子が戯れるかを見よ!」
――どうしました?
( ・3・) 西脇順三郎だよ。よく分からない詩には、よく分からない詩で対抗だ。
――なぜ対抗しなくてはいけないんですか?
( ・3・) ただなんとなく。
――はい。続けますが、1960年代後半は、ロックが急成長する時代です。しかし、ディラン自身は、その運動の先頭に立とうとはしません。1969年の『ナッシュヴィル・スカイライン』は、カントリーのアルバムでした。
( ・3・) 帽子に手を添えてにっこり。
――捉えどころのない人である、というディランのイメージは、このころにはできあがっていたと思います。そして、三回目のピークが訪れるのは、1975年。
( ・3・) 33歳。――それだけ?
――伝記的な情報はいろいろあるのですが――というか、常に伝記を参照しながら語られる作品なのですが――今回は知らないふりをします。「この女性は誰々がモデルだから」といったアプローチはとりません。捉えどころのない人、謎めいたよそ者であることを行動原理にしている人が、久しぶりに本気を出したらしい、くらいで結構です。
( ・3・) そう、じゃあ聴いてみようか。1曲目は――
――1曲目は後にして、2曲目から始めましょう。「シンプル・トゥイスト・オブ・フェイト」。「運命のひとひねり」という邦題がついています。
( ・3・) なんで? 有名な曲なの?
――ほかの曲より易しめだからです。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、おそらく50位以内には入ると思いますが。
https://www.bobdylan.com/songs/simple-twist-fate/
She looked at him and he felt a spark tingle to his bones
――ディランの歌詞は本人のサイトで公開されているので、それに基づいて進めていきましょう。では最初のスタンザから、どうぞ。
( ・3・) 訳すの? 俺が?
――訳ではなくてもいいので、どういうことが歌われているのかを説明してください。
( ・3・) 夕暮れの公園に男と女がいた。女に見つめられると、男は体の芯に火花が走るのを感じた。彼が孤独を感じたのはそのときだった。彼は思った。まっすぐに歩いていればよかった、運命のひとひねりに気をつけていればよかったと。
( ・3・) そうだな。恋人たちがいい雰囲気になっているのかと思いきや、なんだか雲行きが怪しい。急に孤独を感じちゃったりして。
( ・3・) そうなの? で、まっすぐに歩いていればよかった、というのは比喩的な表現だな?
――もちろん。
( ・3・) われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き公園のなかにありき――
――?
( ・3・) ともかく、この男はあるべき道を見失って、運命の力が自分に働きかけているのを感じているわけだ。でも運命って、注意していれば回避できるものなんだろうか?
――次のスタンザに進む前に、脚韻の形式を見ておきます。2小節ごとに改行を加えると、以下のようになります。
She looked at him and he felt a spark
( ・3・) 1行目・2行目・3行目の park, dark, spark で韻を踏んでいるな。4行目・5行目の bone(s), alone もそうだ。それから6行目・7行目の straight, fate も。
https://twitter.com/kedardo/status/1241415360672219137
――ついでにコード進行も確認しておきます。これは実際に鳴っている音ではなく、説明のために簡略化したコードです。元のキーはEですが、ここではCに移調しています。 [1]
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
――まずは1小節目から8小節目まで。何か気づいた点はありますか?
( ・3・) 見たままじゃないか。ド、シ、シ♭と半音ずつ下がっていって、ラに落ち着く。
――はい。ラはサブドミナントのコードであるFの構成音です。しかし、まだラは終点ではありません。
( ・3・) 半音下降は続くよどこまでも。
( ・3・) Fの構成音は「ファ・ラ・ド」で、Fmの構成音は「ファ・ラ♭・ド」だ。長三度のラが短三度のラ♭になる。なんだか言うまでもないことを言わされているようだが、どこに誘導しようとしているんだ?
――ラからラ♭へ半音下がることによって、コードに影がさします。その箇所ではどんなことが歌われていますか?
――はい。彼が孤独を感じるのは、サブドミナントのコードがメジャーからマイナーに変化するときなんです。
( ・3・) ああ、それが言いたかったのか。つまり、コード進行と歌詞の内容とが結びついている、と。
――そうです。それから、もう一点。この曲は、コードが頻繁に変わる曲でしょうか。それとも、あまり変わらない曲でしょうか。
( ・3・) また誘導が始まった。1小節目から10小節目までは、2小節ごとにコードが変わる。C7からFへの進行を除けば、コードの構成音のうちのひとつが半音下がるだけだし、曲のテンポもゆっくりだし、あまり変わらないんじゃないか?
――はい。11小節目から12小節目、"and wished that he'd gone straight" と歌われるところはどうでしょう。
( ・3・) ここは2拍ごとにコードが変わる。あまり動かなかったコードが動きだす感じだな。
――"and wished that he'd gone straight" の "straight" は、この曲の旋律で最も高く、長く、強く歌われるところです。コードの動きと旋律との関係を見ると、11小節目に助走が始まって、12小節目の頭で大きくジャンプするようにできています。
( ・3・) ……ハーモニック・リズムと言えば済む話じゃないのか?
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
( ・3・) はっさく食べる?
かつて政府は、空襲から身を守るため丈夫な防空壕を建設せよと指示していた(1940年12月24日・内務省「防空壕構築指導要領」)。
ところが、防空法改正により避難禁止と消火義務が定められると方針転換する。
1941年10月1日に内務省は「国民防空訓」を発表し、家庭用の防空壕は作らないよう指示。
新聞は「勝手に防空壕を掘るな」「避難、退去は一切許さぬ」と報じた。
さらに1942年7月3日の内務省通達「防空待避施設指導要領」は、丈夫な防空壕は不要、床下を掘るだけでよい、
焼夷弾が落下したらすぐ飛び出して消火せよ、名称は「待避所」とする、
と明確な方針を打ち出した。退避ではなく待避、逃げ場所ではなく出動拠点なのである。
1942年8月に内務省が発表した手引き「防空待避所の作り方」は、
待避所は家の中に作った方が「自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急消火のための出動も容易である」と述べ、
床下への設置を奨励。
これでは頭上の猛火に向けて床下から這い上がることは不可能である。実際に多くの人が床下で命を落とした。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52580?page=3
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
軍医エフロシーニヤ・グリゴリエヴナ・ブレウス大尉の話が公開された。
もともとミリオタなのでソ連や独ソ戦はそれなりに知識があるけど、さすがに30年近く前になくなったソ連のことだと日本の読者はしらない事も多いんじゃないかな?原作は旧ソ連の人向けで特に用語とかの解説もないし。
レニングラードといえば900日近くの包囲された街。
スターリングラード、スモレンスク、クールスクなんていわれてもピンと来ないよね?
今回の東プロイセン攻勢やロコソフスキー元帥なんかも説明いるよね?
微妙に楽勝っぽい東プロイセン攻勢は同時期の沖縄戦なんかと比べて連合軍の死者が沖縄ではせいぜい2から3%なのに対し、10%近い死者を出してる。
コムソモールやピオネールどころかコルホーズもよくわからんという人も多そう。
そう言えば、ライフルが自分の身長よりも長いという描写もあるけど、当時のライフル銃は120cm近くある大型のもので、通常時は銃剣をつけたままなので特におかしい表現ではない。
あ、そういえば自動走砲大隊って、でてきたけどこれなんだろ?自走砲のことかな?と思ったけど、別の箇所には普通に自走砲ってあるし。
と話が脱線したが、そういう前提知識を仕入れる本ていいのあるかな?
速水螺旋人、津久田重吾 の「いまさらですがソ連邦」はかなりいいところ行ってるかな?今なら kidle で prime 会員なら無料で読めるよ!
でも表紙で旗を持ってるピオネールの少女がでかでかと載ってるけど、ピオネールやコムソモールは速水螺旋人のイラストコラムで軽く触れてるだけだったかな?
で独ソ戦自体となると、「どくそせん」はミリオタがミリオタ向けに書いた本と言う感じだし、手頃でこの一冊と言うのは浮かばないな・・・なんかいいのある?パウル・カレルを21世紀の今勧めるのはないし。
年齢 | 男性 | 女性 |
15(2000年生)~19(1996年生) | 0.28 | 0.4 |
20(1995年生)~24(1991年生) | 2.70 | 5.00 |
25(1990年生)~29(1986年生) | 21.60 | 30.76 |
30(1985年生)~34(1981年生) | 48.60 | 58.34 |
35(1980年生)~39(1976年生) | 61.05 | 68.52 |
40(1975年生)~44(1971年生) | 64.79 | 70.47 |
45(1970年生)~49(1966年生) | 67.75 | 70.93 |
50(1965年生)~54(1961年生) | 70.37 | 71.84 |
55(1960年生)~59(1956年生) | 73.10 | 73.08 |
60(1955年生)~64(1951年生) | 73.51 | 72.33 |
65(1950年生)~69(1946年生) | 75.68 | 68.91 |
70(1945年生)~74(1941年生) | 79.38 | 62.76 |
75(1940年生)~79(1936年生) | 81.17 | 52.63 |
80(1935年生)~84(1931年生) | 80.08 | 37.25 |
85(1930年生)以上 | 69.77 | 15.34 |
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/pdf/gaiyou1.pdf
※男女の有配偶率は55~59歳で逆転。男性の平均寿命が短く、夫が年上の夫婦が多い傾向が影響していると考えられる。夫より先に逝ける可能性は低いので、女性は死別・離別前提のライフ・マネープランを。
※1977年生まれ2000年卒~1980年生まれ2003年卒の就職率が最低。35(1980年生)~39(1976年生)の年齢階層が氷河期ど真ん中と言える。氷河期×未婚率の高い都民のデータでも6~7割は有配偶。
※高齢になるほど男性有配偶率が上がっていくが、婚姻率が高かった時代の影響が大きい。また、未婚男性は既婚男性と比べて顕著に短命な傾向にあるので、未婚男性の死により男性有配偶率が上がるとも考えられる。未婚男性の短命傾向は、「独身だと死ぬ」ではなく、病気や障害を抱えた宿命的に短命な男性が「子供の父親候補」から漏れがちなことが理由として考えられる。
https://anond.hatelabo.jp/20180214155553が文字数制限?に引っかかってしまったのか途中で切れたので続きです。
「003: アメリカ政府より強力」~「005:ジェダイのマインドトリック」の前まで
続きはhttps://anond.hatelabo.jp/20180214161344
巨大テクノロジーに屈服してしまったのは連邦政府だけではない。アマゾンの第二本部への入札の一貫として、州とシカゴ市の役人はアマゾンに13億ドルの給与税を免除し、そのお金をアマゾンが適切と考えるやり方で使えるようにすることを提案した。すばらしい。シカゴは徴税権をアマゾンに渡してしまい、シアトルの企業がシカゴの住民に最適な方法でお金を使用してくれることを期待しているわけだ。
政府の服従はそれからひどくなるばかりだ。もしあなたがアイスキャンディーを作って子どもたちに売ろうと思えば、高額な食品医薬品局のテストを無数に受け、また原料・カロリー・糖分を表示した完璧なラベルをつけなければならない。しかし、インスタグラムのユーザー同意書にどんな注意書きが書いてあるだろう。我々はソーシャルメディアのプラットフォームがティーンエイジャーの抑うつ状況を悪化させていることを示す大量の研究の存在を知っている。自分自身に問いかけてみよう。もしアイスクリームが子どもたちを自殺させやすくしているとしたら、我々はドレイヤーズのCEOがシリコンバレーのディナーで大統領の隣に座るのを肩をすくめるだけで見過ごすだろうか。
こうしたソーシャルメディアのプロダクトがタバコと同様の中毒媒介システムであることを信じない人は、7才の子供からiPadを取り上げようとして、自分の殺人計画を告げるような視線で見られるといった経験がないのだろう。この手のプラットフォームの中毒性を信じないなら、どうしてアメリカのティーンエイジャーが一日平均5時間インターネットにつながったスクリーンに張り付いているのか、その理由を自分で考えてみればいい。ソーシャルメディアが与えてくれる様々なご褒美のせいで、我々はまるでスロットマシーンの前にいるように自分の通知をチェックさせられ続ける。子供や十代の少年少女はこうしたプラットフォームがもたらすドーパミンの欲望にとくに影響を受けやすいという研究もある。多くのテクノロジー企業の幹部が自分の子供にはこうしたデバイスを触れさせないと公言しているのも不思議ではない。
以上のような問題は全て正当な懸念だ。しかしこれらの理由のどれ一つとして、あるいはこれら全てを集めたとしても巨大企業の分割を正当化する理由としては足りない。これから述べるのが、私が信じる四大企業を分割すべき理由だ。
ヴァンダービルト大学のロースクールの教授であるガネシュ・シタラマンの主張は、アメリカには中産階級が必要であり、我々の代表民主制が上手く機能するために富がバランスよく分配されるよう、憲法もデザインされているというというものだ。富めるものがあまりにも多くの力を持ってしまえば、寡頭政治につながる。だからアメリカの民主主義という舟を安定させるためには中産階級が舵にならなければならないのだ。
経済とそのキーとなる主体である会社の基本的な目的は、中産階級を作り出し維持することであると私は信じている。1941年から2000年にかけてアメリカの中産階級は世界の歴史においてもっとも優れた「善」の担い手だった。アメリカの中産階級は正しい戦争に資金を提供し、戦い、勝利した。高齢者の世話をし、ポリオの治療にお金を出し、人類を月に送り、世界の他の国に対して、自分たちがモデルとなって、消費とイノベーションが社会・経済を改革するエンジンになりうることを示したのだ。
経済の上向きのスパイラルは家庭と企業の間での循環に依存している。家庭が資源と労働を提供し、企業がモノと仕事を提供する。競争は発明と優れた製品(ハッピーアワー、リアビューカメラetc.)を提供するモチベーションとなり、車輪はいつまでも回り続ける。巨大企業はステークホルダーに対して莫大な価値を作り出す。それなのにどうして私たちの目の前で、歴史上初めて、他の国の中産階級が成長しているのに自分たちの国の中産階級が没落するという事態が起きているのだろう。経済が中産階級と中産階級が育む社会の安定を維持するためのものであるならば、我々の経済は失敗してしまっているということだ。
過去30年でアメリカの生産性が大幅に向上したのは間違いない。アメリカの消費者があらゆるレベルで自由主義社会の羨望の的になったことを否定することはできない。しかし生産性の拡大と消費者の地位の向上の結果作り出されたのは、高給の雇用と経済の安定をすばらしい電話と1時間以内に配達されるココナツウォーターと交換してしまうようなディストピアだった。
どうしてこんなことが起こったんだろうか。2000年代になってから、企業と投資家が夢中になったのは人間をテクノロジーで置き換えることによって急速な成長と利益の急拡大を可能にしてくれるような企業だった。こうして作り出された巨額の富が安価に資本を引きつけ、他のセクターは脆弱になった。古い経済に依存する企業と巣立ったばかりのスタートアップには何の希望もなかった。
結果として出来たのは企業にとっても人々にとっても勝者総取りの経済だった。社会はイノベーション経済の側(領主)とそうでない側(農奴)の二つに分かれてしまった。一つの素晴らしいアイデアがウン億のベンチャーキャピタルを集める一方で、普通の人、あるいはただ幸運でなかった人々(私たちのほとんどだ)は退職後の貯金をするためにもっともっと働かなくてはならなくなった。
億万長者になるのが過去に比べて簡単になったり難しくなったというわけではない。痛いほど明らかなのは、過去30年で見えない手が行ってきたのが中産階級を締め上げることだった、という事実だ。30歳の人間がその両親が30才だったころに比べて貧しくなったのは大恐慌以来始めてだ。
何か手を打つべきなのだろうか。こうしたイノベーションのアイコンたちが、経済の調子を保つための一時的な撹乱を行っているだけだとしたらどうしよう。トンネルの向こうではより強い経済と高給が待っているという見込みはないんだろうか。しかしこんなことがありえないという証拠はすでにある。事実、二極化は勢いを増しているように見える。これは我々の社会に対する最大の脅威だ。これが自分たちの住んでいる世界なのだから仕方ないという人も多いだろう。でもその世界も私たち自身が作り出したものではないのだろうか。百万人の百万長者を生み出すことからひとりの一兆長者を生み出すことに、私たちは意図的にアメリカの使命を変えててしまったのだ。アレクサ、これって良いことなのかね?
今まさに我々は劇的なマーケットの失敗の只中にある。そこでは政府が巨大テクノロジー企業への大衆の熱狂によって黙らされてしまっている。頑丈なマーケットは効率的で強力だが、グランドに定期的に入って旗をあげ、チームを動かすレフェリーなしではフットボールのゲームが成立しないように、枷のない資本主義が私たちにもたらしたのは気候変動、抵当危機、そしてアメリカの医療保険だ。
独占はそれ自体常に違法だったり望ましくないものだったりするというわけではない。単一の企業が投資を行い、安価にサービスを行うのが合理的であるところでは、自然な独占が存在する。しかしこの場合トレードオフとして厳しい規制が伴う。フロリダ電力は1000万人にサービスを提供し、親会社であるネクストエラ・エナジーは時価総額720億ドルだが、その価格とサービスの基準は市民に受託された人々によって規制されている。
対象的に四大企業は厳しい規制なしに独占「的」な権力を維持しおおせている。私が彼らの力を「独占『的』」と表現したのは、アップルだけは例外かもしれないが、彼らがほとんどの経済学者が独占の核心だと考える、顧客向け価格の釣り上げを行ってはいないからだ。
しかし、四大企業は我々が本能的に感じる大きな政府への反感を見事に利用し、競争が――私有財産、賃金労働、自発的な交換、価格システムと同様に――資本主義のエンジンの不可欠なシリンダーであることを忘れさせてしまっている。彼ら四大企業のサイズの巨大さに加えてチェックを受けない権力によって競争市場は抑圧され、経済が本来の目的を果たすことも阻害されてしまっている。つまり、活力ある中産階級を作り出す、という目的だ。
どうしてこんなことが起きるのだろう。1990年代にマイクロソフトがどうやってネットスケープの息の根をとめたかを思い出すのは有用だ。はじまりは何の問題もなかった。ある会社が優れた製品(ウィンドウズ)を作り出して、それがセクター全体へのポータルになった。今であればプラットフォームと呼ばれるだろうものだ。その成長を維持するため、その会社はそのポータルを自社製品(Internet Explorer)の方向に向け、パートナー(Dell)をいじめて競争をシャットアウトした。ネットスケープのブラウザの方がより人気で90%のシェアを得ていたとはいえ、マイクロソフトが意図的にインターネットエクスプローラーを援助しているのでは勝ち目はなかった。
同じ状況は四大企業ではどこでも起こっている。グーグルが上手くマネタイズできるよう、検索結果の最初のページがゆっくりと支配されていくことや、iPhoneの画面上の準標準プロダクト(アップルミュージック等)、強豪相手(Snap)を邪魔し、叩きのめせるよう会社(フェイスブック)の持てる全ての資源を按配すること、他の会社がとても競合できないような要求水準の設定と攻撃的な価格設定(アマゾン)。
もしかしたら消費者にとってもこういった「自然な」独占の方が都合が良いのかもしれない。しかし司法省の考え方は違ったようだ。1998年に、連邦政府はマイクロソフト相手に訴訟を起こし、反競争的な慣行を非難した。裁判を傍聴していた人が報告するところによると、マイクロソフトの幹部はインターネットエクスプローラーをタダで提供することで「ネットスケープの空気の供給を断」ちたかったと証言したのだそうだ。
1999年11月に、ある地方裁判所ではマイクロソフトは反トラスト法に違反しており、会社を二つに分割することを命じるという判決が出た(一つはウィンドウズを売り、もう一つはウィンドウズ用のアプリケーションを売る)。会社分割の命令は高等裁判所で却下されたが、マイクロソフトは会社の独占的な慣行を抑えることで最終的に政府と和解に達した。
和解内容に対して甘すぎるという批判もあったが、司法省があの時マイクロソフトを有望新進企業を芽のうちに潰してしまうという罪状で警告することがなかったら、今のグーグル――今や7700億の市場価値があり、自由市場の信奉者にとっての希望の的だ――が存在しえたかどうか、考えてみる価値はある。反トラスト法がなければ、マイクロソフトはマーケットの独占を利用して、ちょうどウィンドウズによってネットスケープを安楽死させてしまったように、グーグルよりもBingを使わせるよう仕向けていただろう。
司法省のマイクロソフトに対する訴訟が、マーケットに新鮮な酸素を送り込むという点で最も大きな効果を持った例であることは確かだ。株価にして何兆円ものドルを解き放ったのだから。四大企業による力の独占は、酸素不足のマーケットを作り出してしまった。私は何十回も小さな会社によるベンチャーキャピタル向けプレゼンを聞いたことがあるが、そこで説明される内容はどこでも、いつでも同じだ。「四大企業とは直接戦えませんが、四大企業の買収先としては素晴らしい会社になれます」。その細い針の眼を通すことが出来なければ、会社はその幼少期を生き抜くために必要な酸素(資本)を絶たれてしまう。IPOもベンチャーキャピタルの資金提供を受けた企業の数も過去数年で着実に減少している。
かつて「悪の帝国」そのものだったマイクロソフトと違い、グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾンは巧妙なPRを洗練されたロビイング――オプラ・ウィンフリーとコーク兄弟をかけ合わせたようなものだ――と組み合わせて、マイクロソフトに課されたような批判からほとんど逃れおおせている(https://anond.hatelabo.jp/20180214161344に続く)
太平洋戦争開戦が1941年でその40年前の1901年は日露戦争前で日英同盟すら締結されてないですよ
1900年頃のアメリカは経済的には今の中国に近くて世界一の経済大国になったところ
そのあとのアメリカに敗戦して実質的な属国になるとかも想像すらしてない
40年後の中国と日本の経済の差がどれくらいできるか想像つかないですよね
日本が中国領土になるか別として戦場になる可能性は高いと思いますけど
それか武力戦争にはならずに経済戦争で負けて中国資本に乗っ取られるか。この方が可能性は高いと思います
アメリカも中国との経済戦争になってしかも日本人より中国人の方が経済上手いから表面的な摩擦は起こさずに裏から手を回してやってアメリカに大きな影響及ぼすようになるとか
何年か前までは毎日のように新聞記事を読み漁っていた。1日5時間かける日もあった。真面目に読んで整理してとやるとそれくらいかかる。
きっかけはイラク戦争前に大量破壊兵器があるという証拠もないのに攻撃が始まり占領後結局なかったこと。
戦争は結局話し合いが決裂したらいつ起こってもおかしくないというものでしかない。かつて核開発を放棄した例で、リビアのカダフィ大佐がいた。北朝鮮もこの件に関心を寄せていたらしい。どんな交換条件が米などから提示され、カダフィ大佐はどう今後の自分の安全を守るつもりかを知りたかったのだろう。
結果カダフィ大佐は数年後の"アラブの春"の一連の政府転覆のさなか潜伏場所がばれ自国民になぶり殺しにされた。北朝鮮も当時核開発の放棄をするべきではないとの論説を出していたはず。アラブの春と同じことが北朝鮮で起これば止めようがない。政治とは参加する人が動かすものだ。そもそも我々は日本語ではまともな情報を得ることすら難しい(それが僕が新聞を読み見込まなくなった理由だ)。またこの国には発言権を大きくするために使える力が特にないのだ。政治家も国際会議で何もできないなら黙っていろと言われたらそれ以上何も言えずに帰ってくるのではないだろうか。
一部のリアリストに言わせると、我々リアリストの理論では日本が核武装しない理由が説明できないが、日本が存在するのもまたリアルなので理論を修正しないとということらしい(内容は知らないがそれでネオクラシカルリアリズム:新古典派現実主義みたいなのができたのだと聞いた)
また最近ふと考えた。個人主義は、人間はどうしても矛盾してしまうというような問題も、各個人の問題として向き合わないとダメなのではないかと。リベラルも個人の自由を求めているんだから結局は個人主義だからそれをやらないとと。保守派というのは、そもそも人間の限界を認めているからこそ、古くから続いている制度や風習に価値を認めているわけで。
ヘーゲルやそれを批判的に発展させたというマルクスやレーニンの主義は、理性に全幅の信頼を置いていたが失敗した。サルトルが最後まで擁護していたというがその後はもういないらしい。つまり人間の理性はどうせ間違えるという考えの人ばかりがこの世界にいる。
みな自分の間違えが明らかになって修正の必要があれば修正するという人ばかりだろうか?批判されれば耳を貸すだろうか?
そんなことはない。人間の幸せは信じたいこと信じたいように信じることなんだという様に最近考えるようになった。悪いのはやつらだと言い続ければ、自分の信じることが間違っていてもその考えをしばらくは延命できる。ミサイルが頭上に降ってくるまでは。
前の戦争を体験した人は一巡して消えつつある。80年周期で世界は激動気を繰り返すという説がある。太平洋戦争勃発が1941年。その80年後は2021年。
人間は結局おろかだし、おろかであるということを認めるのも辛いことだ。リベラルは個人の辛さをわやらげる社会でないとと言うだろう。また人モノ金の動きは早すぎて保守をやるにはもう世界は狭すぎるようだ。
日本人は戦前から海外から見れば、一見おとなしいが怒りだすと手がつけられなく、何をしでかすか分からない人々という評価が続いている。また中に入って観察した人も、良い面もあるけど、本当の事を言ってはいけないというやり方をどうにかしたほうがいうのを聞く。
https://this.kiji.is/207438898890506241
情報提供の受付
https://www.jbaudit.go.jp/form/information/index.html
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51052?page=2
「二次創作」の愛国教育は、戦後社会に見られるひとつの伝統芸であり、サブカルチャーであり、この分野に詳しい者にとっては見なれたものである。
「戦前っぽいもの」のパッケージは、戦後長らくつづいた保革対立のなかで形成されたものである。
保守勢力(自民党文教族、文部省など)は、教育の荒廃が叫ばれると、かならず国旗掲揚、国歌斉唱、「教育勅語」の再評価、修身の復活などを主張してきた。
国旗国歌問題に火をつけた第三次吉田茂内閣の天野貞祐文相は、その嚆矢である。内藤誉三郎(文部事務次官→参議院議員→第一次大平正芳内閣の文相)のように、「天壌無窮の神勅」を学校で教えるべきだと主張した例もある。
教育機関で国民国家の歴史や意義を教えることは必要である。国民国家は、現在の国際政治の基本的な単位だ。これを否定するつもりはない。
グローバリズムの時代、国民国家というシステムをいかに無理なく保守・管理・運用していくか。政府への盲従や排外主義などの欠陥は認識しつつも、こうした問題に取り組んでいくことは欠かせない。
パッケージを丸呑みするかいなかの二者択一は、あまりに単純すぎる。
ナショナリズムはいつどこで芽生えるか →戦争で負けている側である。
あるいは学歴を誇る人間はいつ登場するか。→落ちぶれてそこしか砦がなくなった時である
東大卒のりょーすけさんなどは、もう道具として使う。ふつうはそういうものだ。
東大生かくあるべし、みたいなことを言い出すのはかなり痛い
今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かるしかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化している
「ネットモブ」が「ネット右翼」と呼ばれたために、その主張も「保守」や「右翼」のものと勘違いされてしまった。この結果、昨今のナショナリズムの「再評価」とあいまって、歴史的な経緯に詳らかではないネットユーザーのなかで、劣化した議論が急速に肥大化してしまった。
1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。
→とはいえ、当初の「教育勅語」の内容は、後世の文書などにくらべて、意外にも慎ましいものだった。
「日本は神の国であり、世界を指導する権利がある」などという大それた神国思想は、「教育勅語」のなかに見られない。これは、『国体の本義』(1937年)や『臣民の道』(1941年)などで、教育界に広められたものである。
むしろ「教育勅語」の内容はかなり抑え気味だった。たしかに、「我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」「天壌無窮ノ皇運」など神話にもとづく記述もあった。だが、そこに掲げられた個々の徳目は現実的で、日常的な振る舞いに関するものが多くを占めた。
日本が日清戦争や日露戦争に勝利し、帝国主義列強の一角を占めるにいたって、かえって問題が指摘されるようになった。大国日本の国民道徳として、「教育勅語」はあまりに物足りないのではないかと注文がつきはじめた
→君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではない
また、井上は帝国憲法の起草者として立憲主義を尊重し、「君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と述べて、「勅語」を軍令のように考える山県の構想も牽制した。
もちろん、自由民権運動対策が念頭にあったこともあり、独立自治などにつながる徳目が慎重に排除されていることは見逃せない。その一方で、その内容は、神国思想や軍国主義の権化のごとき過激なものでもなかった。
追加修正
西園寺公望は、明治天皇の内諾を得て、「第二の教育勅語」の起草に着手した。
1919年、『勅語衍義』の執筆者・井上哲次郎によって「教育勅語に修正を加へよ」という論考が発表された
この提言の背景には、同年に朝鮮で起きた三・一独立運動の衝撃があった。
結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。
1948年6月の衆参両院の決議では、「教育勅語等」として「教育勅語」だけではなく「軍人勅諭」「戊申詔書」「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがセットで排除および失効確認されている。これらの詔勅が一体的に理解されていた証左だ
「教育勅語」は、狂信的な神国思想の権化ではないが、普遍的に通用する内容でもなく、およそ完全無欠とはいえない、一個の歴史的な文書にすぎない。その限界は、戦前においてすでに認識されていた。