はてなキーワード: 言ってはいけないとは
つじ誠心(せいしん)・練馬区議会議員【誠心誠意】
https://twitter.com/Tsuji_Seishin/status/1743498539395912061
昨日の練馬区賀詞交換会にて、日本共産党練馬区議団・都議に囲まれ、辻の共産党の募金活動に対するポストに言及された。「邪魔しないで」「共産党舐めたら怖いぞ」「ぶち◯すぞ」と…。
https://twitter.com/arima_yutaka/status/1744171750676693080
1月5日の賀詞交換会でのつじ議員に対する私の発言は、極めて暴力的で不適切な内容を含むものでした。どんな状況でも許されるものではないと考えます。一連の発言を撤回し、心よりお詫びします。
@jcpnerima
https://twitter.com/jcpnerima/status/1744210952709652706
有馬区議会議員の謝罪文を掲載します。地区委員会として、所属議員による著しい暴言について心よりお詫び申し上げます。今後こうしたことが起きないように努めるとともに、多くの方々が犠牲となり、避難生活を余儀なくされている被災地の支援に引き続き力を尽くしてまいります。
・「さよーならまたいつか!」は「虎に翼」というNHK連続テレビ小説の主題歌
・「虎に翼」は、日本で初めて法曹の世界に飛び込んだ女性の困難を描いたドラマ
・そんな朝ドラの歌詞を、勝手に男性の俺の人生と重ね合わせて解釈する
・かなり邪道な解釈だと思うので、いろんな解釈ができるね~ぐらいの温度で受け取ってほしい
・男性
・女性になりたい気持ちに人生をまるまる振り回されて、気づけばもうおっさんになってしまった
・まず、事前情報なしで「さよーならまたいつか!」を聞いて、「女性が翼を得ようともがく歌」なのかと思った
・そのあと、「さよーならまたいつか!」のインタビュー記事を読んだ
米津玄師「さよーならまたいつか!」インタビュー|“キレ”のエネルギー宿した「虎に翼」主題歌
・米津玄師はこの歌詞を、「米津玄師の主観」として書いているっぽい
・米津玄師がどういうつもりでこの歌詞を書いているかはわからないけど、自分を重ね合わせて読んだら個人的に染みたので、記事を書きたくなった
・何かしらルールを守れば細かく引用していいかもしれないが、ルールを詳しく知らないので各自歌詞サイトなどを見て、後述の解釈と比較しながら読んでほしい
・俺は、すごく小さい頃から女の子になりたい気持ちを抱えていた
・いつかこの気持ちが薄らいだりして平和な時期(=春)が来るのかなとぼんやり思っているまま、大人になった。結局そんな時は来なかった
・仲良くしている女性(=燕)たちは、俺が高校生になっても、成人しても、おっさんになっても、自動的に「女性らしさ(=翼)」を持っている。素知らぬ顔で
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(※注:長くなるけどセンシティブな話なので書く)
ここでいう「女性らしさ」は、顔や体の美醜の話ではなく、生まれつきの女性ホルモン量に由来するような女性的特徴の話
例えば、脂肪が付きやすい・骨盤が太くなりやすい・声が高くなりやすい(声変わりがない)・身長が低くなりやすい・胸が大きくなりやすい・髭が生えにくい・体毛が薄くなりやすい、など
(女性ならではのセンス!みたいな話にもピリッと来てしまう。俺には女性ならではのセンスがないんだ……みたいに)
磨き上げたもの(例えば、ダイエットした結果の体型や、美容した結果の肌、勉強した結果のセンス)ではなく、生まれつきの女性的特徴に憧れがある
嗜好として理解しづらいかもしれないけど、俺個人の話なので、どうかそういうものだと理解してほしい
後天的に声を高くしたり、脂肪が付きやすいようにしたりはするものの、どうしても人工的な女性らしさは生まれつきの女性らしさとは違っていて、コンプレックス
脱線するから女性ホルモン投与の細かい話まではしないけど、女性ホルモン投与なんてそんな良いもんじゃない
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・(そんな悩み、いつかどうにかなるよと言われたけど)いつの間にか成人し、おっさんになった。どうにもならなかった(=嘘をつかれた)
・今、女性を取り巻く環境にはいろいろな困難(=土砂降り)がある。それでも、俺から見れば女性らしさ(=翼)は持っている。””俺は””女性らしさが欲しかった
・だから、「男性は〇〇でいいね」みたいなことを言われると「お前たちには女性らしさ(=翼)があるじゃん」って言いたくなってしまう。でも、そんなひどいことは言ってはいけない。土砂降りの中を飛んでいるので
・なので、奥歯を噛み締めて、口の中に血をにじませて、天に唾を吐いて、自分の顔で受け止める。(と、歌詞にはあるけど俺は受け止めきれてないかも)
・これはただの俺の恨み節なので、女性各位は俺のことは気にせず(=気儘に)生きてほしい 知らねえけど!
・社会に出て色んな人と出会ったけど、俺の悩みは何も解決しない
・「いい年して女の子になりたいとか馬鹿なこと言ってないで結婚でもしたら?」とか言われるけど、そんなことをしても幸せ(=春)じゃない
・俺はこのままグズグズしているかもしれないけど、俺が生きてる間に、俺がグズグズしてしまった原因の固定観念(=縄)ぐらいは破壊しておきたいなぁ
(少なくとも、いい年して女の子になりたいとか馬鹿なこと言ってないでとか言われない世の中にしたいなぁ)
・どうか俺以外の同じ思いの誰かは虎のようにやりたいことに突き進んでほしい がんばれよ!(=消え失せるなよ)
(ここは「俺も虎のようにやりたいことに突き進むぞ!」が本当は正しい解釈なのかもしれない。自分はそんな気持ちになれてないけど)
・また今日も「女性のここがしんどい」みたいなツイートが流れてくるけど、奥歯を噛み締めて、血をにじませて耐える(俺の苦しさはその人たちとは無関係なので)
・俺が刺さった部分が特殊だからややこしいけど、「女性が持ってないものを男性が持ってる!」っていう読み方とは真逆の読み方もできる米津玄師すげぇよね
・当たり前に才能(=翼)を持っている人へのキレと、それを羨む自分の泥っぽさと、「変えられないものを追うのやめたら?人に合わせたら?」と言う人へのキレは全人類共通だと思う
・きっと「虎に翼」の主人公にとっては男性的であることが才能(=翼)なんだろう。当時の社会的な特権の話もあるから似ているようでベクトルは違うけど
・やっぱり書いてて思ったけど、自分のこの悩み自体は理解されがたいかも。たかが容姿、たかが精神の話でごちゃごちゃと、と言われるかもな。そういう人にキレたいけど。
・米津玄師も俺から見れば才能を持ってる人に見えてるけど、こんな歌詞を書いてるんだしきっと何かしら羨むようなこともあるんだろうなぁ
・性の話って炎上しそうでコエ~~~~~とこんな場で記事書いてる俺が思うぐらいだからそんなテーマ性の朝ドラの歌詞書くってすげぇよ
少し前に車椅子女性の話題で盛り上がっていたときに思い出した。
小学生時代、ある同級生の母親は、彼女の夫が押す車椅子に乗って運動会やら授業参観やらの行事を観に来ていた。周りの保護者より少し若く見える、痩せた、色の白いお母さんだった。
その同級生は子供のくせにそこはかとなく辛気臭いオーラを纏っていて、暗くて友達もいないのに一人で何か喋ってニヤニヤしているようなやつだった。当たり前にずっといじめられていた。仮にOとする。
Oは児童養護施設から通ってきているのに、学校行事にはいつも両親が揃って参加していた。休日には家族揃ってスーパーで買い物する姿を度々見かけた。
母親の病気のこととか何か事情があって家族で暮らせないのだろう、と今ならば想像するに難くないけど、施設育ち=親がいないという認識の当時のわたしたちの目には、別に居を構えながらも仲がよさそうなO一家の姿は異様なものとして映った。
ひどい話だけど、Oだけでなく家族ごと、クラスメイトから、いや学年中から差別されていた。気がする。
例のごとく車椅子でグラウンドにやってきて運動会を観覧し、教室に戻って昼食をとる際、土のついたタイヤのまま校舎に乗り込むO夫婦の姿を、わたしたちは冷ややかな目で見た。ちゃんと入り口にそれ用のマットが敷いてあって、踏んできているにもかかわらず。
小学校高学年、思春期にさしかかり不安定な心身をもてあまし、わけのわからない苛立ちやさみしさをお互いに悟られまいと取り繕っていた。障害とか施設育ちとかの事情を抱え、差別されながらも健気に生きているO一家の姿はいじらしく、尖った心を持ち寄るわたしたちの格好の的だった。
ある土曜日の午後、市の陸上大会に向けての練習があった。全員参加ではなく有志の集まりだったので、普段教室であまり喋らないタイプの子とも仲良くなれて、楽しい。
練習が終わって、わたしたちは麦茶を飲みながらずっと喋っていた。日焼けするからと木陰のところに集まって、実はあの子のことが嫌いとか好きとかキャアキャア叫びながら喋った。
ふと話が途切れ、もうそろそろ帰る?という雰囲気になったところで、一人が「そいえばさー」と口を開いた。
「そういえばさ、どうでもいいんだけど、こないだイオン行ったらOがまた家族でいたんだよ。
でねぇ、これマジだよ?…Oのお母さんが、歩いてた」
わたしたちは、爆笑した。ゲラゲラ笑った。全員で涙を流して、息も絶え絶え転げ回って笑った。
おかしかった。いつも白い顔をして、旦那に車椅子を押されているお母さん。そんなお母さんが自立して歩いているなんて、突飛で、シュールでナンセンスだった。前衛的な発想のようだった。
おかしい以上に、気持ちよかった。言ってはいけない、笑ってはいけないことなのはみんな分かっていた。
広い校庭にわたしたちしかいなくて、おかしいことなんて何もないのに馬鹿笑いして、すっごく悪いこと言ってるのに誰にも迷惑をかけていないから咎められなくて、こんなひどいわたしたちを誰か止めてほしいのに、芝生の上に転がったままどこへでも行けそうな、行ってしまいそうな気がして、怖いけど楽しくて、無敵だった。
曇ってるけど日射しは強くて湿った風が吹いていて、みんな同じ日焼け止めの匂いがしていた。ひざの裏側に芝生が刺さってチクチクしたけど、手で払うとさらりと落ちた。気持ちよかった。
家に帰り、キッチンに立つ母にOのお母さん歩いてんだってーと言うと、「Oさんの奥さんは脚が悪いんじゃなくて病気で体力がないから車椅子なんでしょ。何言ってんの」と返ってきた。つとめて不愛想な母の声になんでか安心したのだった。
数年後Oのお母さんは亡くなったと聞いた。
陸上練習のときのメンバーは、中学に入って少しヤンキー風味になったけど、成人後に同窓会をしたときにはごく普通のかわいいお嬢さんの姿だった。今ではほとんどの子が結婚して親になって、忙しく過ごしていることと思う。
Oが大人になった姿はどうしても想像できない。どんな暮らしをしているんだろうか。
校庭でひどいことを言って笑い転げて、誰か止めてほしいと思った。
その後の人生で、ちゃんと止めてもらえたと思う。元々優しい気持ちの子もたくさんいるけど、意地悪だったわたしたちも、失敗して傷ついて、自分のことが嫌になってもそれでも生きていくという選択をしたとき、他人に寛容になろうと努めて、その習慣が体に馴染んだと思っている。
何の罪もないO一家に冷たい目線を向けて嘲笑っていたことを思い出すとき、ひどかったなと思う気持ちは本当なのだけど、あの陸上練習後のお喋りの時間には青春フィルターがかかっていて、思い出すとキュンとする。
キュンとしたあと、でもやっぱり酷すぎるよねと心の中でつぶやいて、少し許されたような気持ちで回想を終えている。
矢沢永吉が言ったらしいけど
「ロックシンガーがお金のことを言ってはいけないという考え方が嫌い」
っていうのが凄くしっくり来た
イラストレーターがちょっとしたイラスト頼まれて無報酬だと腹が立つというのも同じ気がする
自分の場合でも10分とか20分で終わるような簡単な仕事だと別に無報酬でも全然構わないし
生産者からすると「ゼロ円じゃなくて、良い商品をちゃんと買ってくれ」と思ってる人がそれなりにいると思う
おまけに生産者側がゼロ円、つまりは無価値と認定したものに対して付加価値を付けるような行為なので
スタジアムのゴミ拾いボランティアもそれを仕事にしている人達をバカにしている行為だと思うし
俺個人のケースと見てきた範囲の話だけど排他的ナショナリズムを少なからず俺は持っていて外国人というだけで警戒対象なのね
日本人も警戒してるのに外国人ならもっと警戒するという感じで、日本を褒められても何とも思わないし何も書き込まない
一方リベラルからよくネトウヨと言われてる方々って海外や世界情勢に対して関心が強くそういう話題に飛びつくのよ
関心が強いからこそ韓国、中国、ロシアのニュースはずっと目を通していて良くない感情や批判的な文章を書き込み、反対に友好的な記事や書き込みには友好的なコメントをつけてる
リベラルのロジックだと日本人にはどれだけ罵倒しても良いけど外国人に対しては悪く言ってはいけないと事実上なってるから
前々から「推し活」というものにうっすらと疑問や違和感を持ってきたが、最近少しずつ言語化できるようになった気がするので、ここでまとめておきたい。
第1に、「推し活」においてはドラマや映画などの作品の内容や質が軽視されていることである。
昔ながらの映画ファンは、宮崎駿の「ナウシカ」「ラピュタ」は素晴らしいけど「ハウル」は意味わからないとか、黒澤明の「七人の侍」「椿三十郎」は凄いけど「影武者」はスケールが大きいだけで内容はつまらないとか、三船敏郎は黒澤映画では神だけどそれ以外では大根役者でむさ苦しいだけだとか、そういう話を当たり前のようにしてきた。
しかし「推し活」をしている人たちは、その当たり前のことを許さない。「推し」が出演している映画やドラマについて、「あれは出来がよくなかったね」と言ってはいけない雰囲気が強く存在する。事実、近年の日本のドラマがレベルが高くて面白いという話は全く聞かないし、「個人の感想」で言えば5分と見続けられないレベルだと思うが、Tverの視聴回数はドラマが上位を独占しているという。これは、ドラマや映画が「推し」を鑑賞するための舞台背景でしかなくなり、その内容や質が軽視されていることを意味している。
最悪の結果になった「セクシー田中さん」騒動について、その背景には間違いなく「推し活」がある。つまり、現在のドラマ作りは、優れた原作や脚本を土台にして配役を決めるという当たり前の順番ではなく、まず「推されている」人気の俳優やアイドルのキャスティングが先にあり、その後に適当な(人気と知名度がありそうな)漫画原作を探す、という逆の順番になっているのだという。そのように、日本のドラマ制作の現場は、主要な視聴者・顧客層である俳優・アイドルの推し活をしている人々の期待に応えることを優先してしまっており、当然ながら原作者の意図や想いなどはほとんど重視されない結果になる。
第2に、「推し」に不祥事があった場合の精神的なリスクが大きすぎることである。
普通の映画ファンなら、たとえ宮崎駿がセクハラ疑惑で文春砲を浴びたとしても、当たり前の話、「ラピュタ」の面白さまで否定されたとは感じないだろう。しかし「推し活」をしている人たちは、「推し」の全人格・全人生にわたって推しているので、「推し」が不祥事で文春砲を浴びてメディアから消え去ってしまった場合、「推し」の出演作を鑑賞するのもつらくなり、精神的に病んでしまうことになる。当人だけのことなら自己責任だが、大抵の場合は友人や家族を巻き込んで、周りも疲弊させることになる。
第3に、最終的に犯罪的行為や人権侵害を擁護してしまうことである。
昔ながらのプロ野球ファンなどは、例えば巨人の選手や経営陣に何らかの不祥事があった場合、巨人ファンが真っ先にそれを批判することも普通だった。しかし近年の「推し活」の場合、旧ジャニーズや宝塚の問題で露見したように、「推し」の不祥事がパワハラや性加害のような事案にあたる場合でも、完全に無視・スルーする人はまだましなほうで、それを全力で擁護したり、報道を虚偽と決めつけたり、被害告発者をバッシングする人たちが目立った。当然外野には全く理解されないし、犯罪的行為の肯定にもなるので、SNSでは大炎上するし、やはり精神的に疲弊して病んでしまうことになる。「推し活」の内部からパワハラや性加害を反省してなくそうという主張や運動は、残念ながらほとんど皆無に近かった。
毒親を持っている人のブログを読んだり話を聞いたりすると思うことがある。
毒親持ちの人の体験談は、それはそれは凄惨で、進学させてもらえないとか仕事もせず家に居座る親が暴力を毎日振るってくるとか殺されかけたとか……。親元を離れて立ち直った人もいれば、今なお親の影に苦しんでいる人もいるだろう。そんな彼等を見て自分はこう思うのだ。
「この人に比べれば自分はマシな親を持っているのだろう」
そしてこうも思う。
「だから決して、自分の親が毒親持ちと思って甘えてはいけない」
けれど、ずっとそうして生きてきたのだけれど、最近親と共に過ごすことが辛くなってきた。「おはよう」と話しかけられるだけで動機がして、頭痛がする。眠れない夜が増えた。これは家族間の関係として健全なことなのだろうか。今一度自分の親が毒親ではないのか客観的に整理したくて、文章に起こすことにする。
彼は毎日仕事に行き、給料もきちんと家庭に還元しているし、私の進学を阻むようなこともなかった。大学まで出してくれて、一戸建てを持っており、ギャンブルや浮気の経験もない。
もうこれだけで私が数々見てきた毒親像とはかけ離れている。だから私は父に感謝をしなければならないし、軽い気持ちで毒親などと言ってはいけないとずっと思っていたのだ。
ではなぜこの男に声を掛けられる度に不愉快な気持ちになるのか。それは父の性格に起因している。
単刀直入に言って、父の性格は自己中心的で周り、特に家族のことを常に見下している。
例えば「明日出掛ける」と言うと「何時に?」と聞かれる。ここで少しでも返答が遅れると「なんでそんなことも分からないんだ」
例えば私が昼ご飯を食べようとすると「昼ご飯を食べようだなんて悪い奴だな」
私は何か悪いことをしただろうか。毎日のようにこういう無意味な罵倒をされ、どんどん神経がすり減っていく。もっと酷い人格否定をされたこともある。「子供は親の奴隷なんだから黙って言うことを聞け」と言われたこともある。けれどそれを本人にやめて欲しいと言っても「俺はそんなことは言っていない」「これもコミュニケーション」「冗談もわからないなんて心の狭い奴だ」。話にならない。
ではもし反撃してこちらが「馬鹿親父」などと言ったらどうだろうか。まるでやくざのような気迫で威圧し、怒声を浴びせ激高し、床を踏み鳴らし机を拳で殴る。それでも収まらないときは手近なものを破壊し、最終的には暴力に発展する。さすがに暴力に発展することは稀(というかそうなる前に謝ったり宥めたりしているの)だが、家でも外でもお構いなしに蹴られたり殴られたことがあるし、母に至っては数回骨折沙汰になったことがある。
力ではどうしても勝つことが出来ない。だから何を言われても、私は黙って受け流すしかないのだ。
もうひとつ私を苦しめていることがある。それは父の奇声だ。上記はまだ共感できる人も多いだろうが、これに関しては珍しい上に恥ずかしい話過ぎて誰かに相談することもできず、ずっと悩んでいる。
父は昔から声が大きい。最近耳が悪くなってきて殊更声が大きくなってきた。それは加齢によるものなのである程度は仕方ないのだが、問題は奇声を発することだ。
奇声といっても金切り声でなく、例えばYouTubeの動画でユーチューバーやゲーム実況者が驚いたり興奮した時にスマホが音割れを起こすほどの大声を出して、慌てて音量を下げた経験はないだろうか。あれを、何かの撮影でもなく家の中でやる。還暦をすぎた男が。
誇張なく、いきなりリビングで「うおおおおお!」とか「うぎゃあああああ!」とかいうのだ。病気だとしか思えない。しかも時間は問わない。父が叫びたくなった時に叫ぶ。毎日、毎日、何度も何度も。
だから朝、目覚まし時計より早く父の絶叫で目を覚ますことはざらにあるし、そういう時は心臓が縮み上がる程驚く。
一度気になってデシベル測定をしたことがあるのだが、結果は80~90デシベルだった。これは地下鉄の車内や布団たたき、ブルドーザーの音に匹敵するらしい。
もちろんやめて欲しいと何度もお願いしたし、精神の病院は勧めた。当たり前だが病院を受診するはずもなく、しつこく言ったところ「頭がおかしいのはお前だ」の言葉からはじまりあとは前述した通りである。
他にもおかしいところをあげればきりがないのだが、最後に一つ父の一番理解できない話をしたい。
私は生まれつき肺に病気を患っている。これに関して両親を恨むつもりはないし、長く生きられないと言われていたところを手術を受けさせてくれて、他の人と同じ日常生活を送ることができるようにしてくれたことに感謝をしている。
だが100%なにもかもが健康体になったわけではないし、今でも肺には他人よりもハンデを抱えている。だから掛かりつけのお医者さんには肺や心臓を大切にしてねとさんざん言われているのだ。
その子供を持ちながら、父は平気な顔で紙煙草を吸う。別に隠れて吸うのなら構わないのだが、私が幼いころ(手術前)からキッチンで、リビングで、果ては外食した時に私が食事中でも対面に座ってぷかぷかと吹かす。その量は1日に1箱近い量だ。父が家にいると一日中家が煙草臭くなる。
あまりにも臭いのでベランダで吸うようお願いしたら、窓を開け放したまま足だけベランダに出して吸っている。当然窓から副流煙がリビングに逆流してくる。だったらせめてと空気清浄機を近くに置いたら「音がうるさい」「俺に対する嫌がらせなのか」と不機嫌な顔をしながら空気清浄機を止める。
キッチンで皿洗いしていると後からやってきた父が「煙草を吸うから退け」と言う。せめて洗い物がキリのいいところまで待ってとお願いしても「待てない」と吸い始めるか、真横でものすごく不機嫌なオーラを出しながら急かしてくる。たった1分ですら待つことが出来ない。
このようなことは言いたくないのだが、私が煙草を吸わないで欲しいとお願いするのは、あなたの遺伝子を引き継いで作られた身体に欠陥があったからなのだが、父には何一つ思う所はないようだ。どうも母に聞いたところ、妊娠中も平気で母の前で煙草を吸っていたらしい(母は避けようと頑張っていたようだが、当時狭いアパート暮らしで限度があったようだ)
こんな父だが、ことあるごとに口先だけではこう言うのだ。
「俺はどんな時もお前の味方だからな」
ふざけるのも大概にしろ。人の人格を毎日否定して、やめて欲しいとお願いしたことを喜々として余計にやって、泣いて「もうやめてくれ」と言ったことには「人が泣いてるのをみると殴りたくなる」と言い放って、人が買って来たものを許可も取らずに盗んで食べたり使用したりして、電車で数駅のところに遊びに行っただけで土産をせびり、感謝を強要し、都合が悪くなると「冗談」「コミュニケーション」と逃げるか激高して無理矢理黙らせるかして、大声で絶叫して、持病もちの前で煙草をやめない。
父の言動を聞いていると、本気で自分は「娘を愛する良い父親」だと思っているようだ。仕事に行って金さえ払えば良い父親なのだろうか。自身の子供が眠れない日が続いて、悔しくて苦しくて涙が零れて、頭痛がやまなくなっても、父にはその姿は見えていない。
この父を毒親と言っていいのかずっと悩んでいる。この程度で毒親と言ってしまうと、「この程度で毒親持ちの被害者面するな」と言われてしまうのではないかと思ってしまう。
けれどこの男を父として認め普通の親として扱うには、もう精神の限界が出てきているようにも感じている。
自分はストレスに強い人間だと思っていたし、実際いわゆる「鬱」に当てはまるような症状や過呼吸や胃潰瘍もでていない。だからこの悲しさも辛さも大したことはなくて甘えなのだろうかと思う。身体に大きな不調が出れば、父はなにか変わるだろうか。いや、変わらないだろう。しかし、大手を振って家を出ていくチャンスになることは間違いないだろう。けれどそれもないのなら、もう少し耐えるべきなのだろうか。
家を出ていけばいい。それは間違いなくそうなのだが、父と二人きりにしたらいつか母が殺されてしまうのではないかという恐怖もある。両親から「お前は独り暮らしができない」と何度も言い聞かせられて、まるで呪いのように縛り付けられている感覚もある。一人暮らしをしたいと切り出したあとに、激高され毎日不機嫌なオーラを出される中過ごさなければならないのが怖い。踏ん切りがつかない。これは甘えなのだろう。
そういう中途半端な親元に生まれた私は結局今日も、本当の毒親よりはマシと言い聞かせながら父の顔色を窺う、情けない生き方しかできないのだろう。
んだけど、私の考えは少数派かなと思うのでここに書く。(多数派に攻撃されないかと怖いから)
事件概要としては、Adoが他の歌手とコラボしたことについてSNS上で否定的なリアクションがあったらしい。
具体的にどれのことなのかは分からなかったけど、Adoとコラボ相手は釣り合ってない(コラボ相手の方が格下?)から嫌だみたいな意見があったのかな。
それに対してAdoがお気持ち表明していて、主張を要約すると概ね以下だった。原文はまあSNSを見に行ってもらえると。
まあ要するに、「マイナスの意見をSNSで言うんじゃあねーよ」って趣旨なのかなと思った。
言うにしても言い方考えろや、みたいなニュアンスというよりは「マイナスの意見をSNSで言うのは邪悪な人でなし」「言うな」という主張なのかなーという感じ。
気持ちは分かる。
せっかく楽しんでもらいたいと思ってやったことが楽しんで貰えなかったり、自分ならまだしもコラボ相手を悪く言われるのは辛いよな。
だけど、クリエイティブやエンタメをやってる側が「マイナスの意見は思っても言うな」っていうのはひどく身勝手だなーって思っちゃったんだよな。
わざわざリプライして攻撃するとか、これみよがしな当てつけとか罵詈雑言はさすがにねーわと思うよ。
そういう明らか悪意でやってんのは限度超えてるけど、「あのひとは好きだけど今回のは残念だったわ」とかつぶやくのもダメなのか?
もしそうなら、FF14は好きだけどあのインフルエンサーは起用してほしくなかったわ、みたいなことを言うのもダメってことになるじゃん。
もしそうなら、パルワールドのキャラクターデザインには本当に不愉快にさせられた、みたいなことを言うのもダメってことになるじゃん。
残念だった、嫌だった、期待外れだったみたいな感想を言うのは「想像力も優しさも配慮もない無神経」なんだろうか?
それに、クリエイティブを世の中に公開したときにマイナスの反応が出ることを押さえつける、否定するのって提供側としてあるべき姿なのか?
クリエイティブやってれば思ったとおりに受け取ってもらえないことや、逆に迷惑に思われちゃうことだってよくあるじゃん。
表にアウトプットを出す以上、そういう反応が出ることもひっくるめて覚悟キメる必要があるんじゃないかなーって思った。
さよなら絵梨でも主人公の父親が言ってたじゃん。創作やってれば自分が傷ついちまうこともあるって。私はこの感覚・価値観大事だなあって思うんだよな。(今回は創作物自体というよりコラボについてではあるけれど)
なもんだから、クリエイティブをやってる側が「私が正しい、お前たちが間違ってる、正せ」ってよう言えるなあって。
自由な意見を配慮に欠けた言葉として区別して、攻撃された傷ついた、傷つけた人間は悪、ってドツボにハマってるのはAdoの方なのではと思ったりした。
「あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい」とか、畜生ムカつくなあ今に見てろ、みたいなマインドが大事というか。
「私は嫌だからブロックする」っていうのと「こんなやつはブロックされて当然の人でなしだからブロックする正しさが私にはある」ってのは全然違うというか。
もちろん何を言われても我慢するべきって言いたいわけじゃないよ。中には行き過ぎた、腹に据えかねるコメントもあったんだと思うよ。
なら「こういうのはやり過ぎ」って話を限定するなりがよかったんじゃないかなあ。
あのお気持ち表明に周りの大人もだれもフォローしなかったのか? って思った。
もし本当に「SNSでマイナスの意見を言うのは悪」「マイナスの意見がない状態があるべき正しい姿だ」って思ってるんだとしたらかなりヤバいし怖いな、って思った。
世の中の風潮としても、マイナス意見は絶対悪みたいな流れがある気がしてよけいに怖さを感じるんだよな。
私は「これはよかった」「これはおもんなかった」みたいな色んな意見が言える世の中がいいよ。
まあそんな感じ。
気がついたらトラバ・ブクマがたくさんついていた。色々な意見・反応をしてくれてありがとう、たぶん全部読ませてもらった。
中にはちゃんと読んでから書いたのか疑問なものとか、私がうまく伝えられなくてすまないと思うものとか、あるいは当てこすりだったり暴言だったりするなーとか思うものもあったけど、なるほどと思うようなものやそういう見方もあるんだなと膝を打つようなものもたくさんあった。
なんにせよ、疑問だなあと思って書いたものに素直に反応してもらえるのは本当にありがたいし、全員に感謝したい。
もらった反応のうちいくつかピックアップしてコメントしたいなと思う。せっかく書いてもらったのに全部に反応できなくてごめん。
あの文は
A「公開アカウントでコラボについてマイナスな意見を言う人間を否定している」
B 「公開アカウントでコラボについて暴言を言う人間を否定している」
C「公開アカウントで引用rtやリプライ、DMなど本人に届けるかたちでコラボについてマイナスな意見を言う人間を否定している」
D「公開アカウントで引用rtやリプライ、DMなど本人に届けるかたちでコラボについて暴言を言う人間を否定している」
Dに対して彼が怒るのは真っ当。CとBもまあ理解できる。
これは私の感覚に近いと思った。
Dはさすがにないだろと思うし、BやCも発言する前にちょっと考えたほうが良いんじゃないかと思う。
私はAも含意されてるのかなと感じて、だとしたらそれはとても恐ろしいことだと思った。
この意見は私の思ったことをよりクリアに指摘してくれたと思う、ありがとう。
如何も何もアーティストがエゴサを当たり前にしていてそれが周知されてる時代に、公開でツイートするのって結局暗に見せるためにやってるんじゃないの?
別にadoだけでなく配慮して鍵でやってる奴らも、オープンにやってる奴らに対して「ああ攻撃するためにやってるんだなあ、鍵かけろやボケ」って思っとるぞ
「結局暗に見せるためにやってるんじゃないの?」には私は同意しないなあ。見せる意図なしにSNSに書き込むは普通にあると思う。
「まともな奴はそこを大前提に」っていうのも、何がまともかの線を引くにはちょっと勇み足な領域じゃないかなあ。
もちろん、だからといって何でも言っていいわけじゃないよね。言葉遣いや書き方をよく考えるのは必要だと思う。
前提となるコンテクストもひとつじゃなくて、前提が違うと受け取り方や判断が変わってくることもあるなと思った。ありがとう。
お気持ちは自由/好きすぎてコラボ相手を下手くそ呼ばわり、はコラボ相手を傷つけるから怒ったんだろう/大人の目線だと「好きすぎて周囲を傷つけて回るファン」はショーバイの邪魔になるファンだとも言える笑
商売の邪魔になるファン(と言っていいのか微妙だけど)を遠ざけるとか、ファンを教育・コントロールする意図っていう場合もあるんだね。
そういう発想はなかった。確かにそういう見方もあるかもしれない。ありがとう。
否定的な意見を書く自由もあるし、Adoがファンを選ぶ自由もあるのでは。Adoに対して「どんなに不服でも不愉快でも客扱いしろ」と遠回しに要求している自覚はある?
「どんなに不服でも不愉快でも客扱いしろ」には私は同意しないな。
「自分が嫌だから」客を選ぶのは自由だと思う。「こいつは排除していいやつだ」は違うかなと思った。
ファンの側も、出されたものに対して「これは嫌だった、面白くなかった」って言うのは(言い方はあるけど)自由だと思う。「これはダメなものだから引っ込めろ、やるな」は違うかなと思う。
あれはニコ動とかでよく見た古のオタク仕草では。コラボさせていただいてるんだから私を理由に相手方に迷惑をかけるなよ、っていう。//コンテンツの批判は良いがAdoを叩き棒にしてコラボ相手を殴るのはどうかと思う。
コラボ相手のことを悪く言うなよっていうのが動機として大きいんだろうなあとは思った。心情的にもビジネス的にも。
一方で、コラボコンテンツだとしてもプラス・マイナスどちらの感想も出てくるものじゃないかなとも思う。言い方かなあ。
Adoの書いた内容は個別事例を起点としながらも一般論として述べちゃった(と私は感じた)点で齟齬が生じてるような気がしなくもない。
そんな0100でとらえなくてもというか増田もだいぶ強めに受け取ってると思うけどなあ
大人が止めるほどひどい発言にも別に見えなかった…まあ私がそこまで彼女のことを知らないからかもしれんけど
彼女が百戦錬磨45歳くらいのベテランアーティストだったら増田の言うこともわからなくもないけど
Adoさんはそれこそ「あいつはけなした、僕は怒った、それでこの一件はおしまい」のよくネットで見る言葉も元ネタもリアルタイムで知らないくらいの若い人でしょ
創作者やアーティストである以前にまだたくさん経験することがこれからある人間としてあのくらい感情が迸っても仕方ない醜い発言たくさん見たのかなって少しわかってあげてもいい気がする(若いファンの人びっくりするほど過激なこと書く人いるしね)
何か言えばすぐ大きな話になってアーティストとしての矜持や凡百の創作論みたいなものが(こっちからは可視化できないけどたった一人の人間にいっぺんに何千何万分)ぶつけられるのネットって本当に不自由だと思うわ
彼女が何を言ったところで実際には増田が例に挙げたそれらすべての発言が今日から全部しちゃだめです!にもならないし、はいわかりましたやめます!ともなるわけないんだし
言いたいやつは誰に言われたところで言うしそこまでの力はAdoさんにも誰にもないんだからさ
増田が箇条書きにして書いた最後のことが一番言いたかったことなんじゃないのかな
もしそうなら、で例に挙げてるようなことはだいぶ拡大しすぎて捉えてると思うよ
「これはよかった」「これはおもんなかった」を言うなとは全然書いてないと思うんだよね…受け取り方かなあ
「増田が箇条書きにして書いた最後のことが一番言いたかったことなんじゃないのかな」っていう趣旨の反応をくれた人が結構いた。
私はAdoの書き込みを「本来マイナス意見は言い方に関係なく言ってはいけないものだし、言う人間は想像力も優しさも配慮もない無神経」って趣旨が含まれているかなと思った。
言うにしても言い方考えろっていう観点については同意。そりゃあそうだよね。
同じような意見をくれた人は多かったけど、この意見は順序立ててあって書き方も丁寧だったからピックアップさせてもらった。ありがとう。
「コラボ相手に見えてしまう場所」のレベルが個々人の受け取り方で違う
あと「配慮に欠けた言葉」も多分、一人一人で思ってるレベルが違う
「コラボ相手に見えてしまう場所」→引用リポストやAdoのポストへの返信ぐらいのレベル(→コラボ相手がエゴサまでして見に行ったら知らん)
もらった色々な意見を見ていて、これだろうなあと思った。
私は
「コラボ相手に見えてしまう場所」→パブリックに参照可能だけれど特にリプライはしていないSNSのつぶやき
「配慮に欠けた言葉」については、配慮というよりもマイナスの意見全般について問題
って言ってるのかなと感じた。
書いてくれたもので例示されている内容に基準を置くと、わたしもフンフンそうだよねって思う。
この観点において、どう受け取るか、またどこにラインを引くか、が人それぞれで結構分かれるんだろうなと思った。
この意見と趣旨が同じ意見もたくさん書いてもらっていたんだけど、観点を分類・例示してくれて理解しやすかった。ありがとう。
https://anond.hatelabo.jp/20240126111326
長文だから引用しきれないけど、上記のトラバは後半ちょっと関係ないというか牽強付会な議論かなとおもったけど、前半の「トキシックイエスマン」という概念を用いて困ったファンっているよな、という話をしているのが興味深かった。
草津町の町長が性加害疑惑をかけられ、結局それが冤罪だったという事案があった。それを引いてきて「松本人志も冤罪かもしれないから、裁判が決着するまで何も言ってはいけない」みたいなことを言う人間がいるのだが、あまりにも雑な意見だと思う。
確かに草津の件でネットの連中がワーワー騒ぎ立て、草津町及び町長への風評加害を行ったのは論外である。一方で、あの件が問題になった時点で、少し調べれば「これは新井町議が嘘を言っているだけで、性加害などなかったのでは?」と判断することができたのも事実だ。具体的には、飯塚玲児というライターが書いていた『草津温泉 漆黒の闇5』という本、及びネットで出回っていた新井町議の「しょこたん通信」という怪文書のようなペーパーを読めば、同町議がかなりアレな人であり、証言に信憑性などとても置けないことは分かったと思う。
また草津町に知人がいれば、少し確認を取るだけで現在真相として出回っていることくらいは把握できたはずだ。地元では新井町議サイドがヤバい人であることは周知の事実で、町長室改装の経緯などから彼女が訴えている被害がありえないことは知られていた(だからリコールも成立した)。草津の件で学ぶべきことがあるとしたら「裁判の結果が出るまで何も言うな」ではなく、「調べられることは調べてから判断しろ」のほうだろう。ネットで二次加害をしていた人間は、ろくに調べもせずにひとつのソースで物事を判断したから、ミスリードした。
一方で松本人志である。文春の報道だけでなく、松本本人や吉本興業のコメント、その他たくさんの周辺情報が出ており、以下のことはほぼ確定している。
なので上記については裁判の結果を待たずして語ることはできるし、たとえ裁判で「性加害はなかった」と認定されたとしても、それはセカンドレイプにはなりえない(そもそも同意の有無を巡って裁判をするのか、よく分からんけど)。もちろん松本への名誉毀損は論外として、上記の範囲内でこの事案について語ることはできるだろう。
ロンドンブーツ敦などが「何があったか分からないから何も語れない」などと小学生みたいなことを言っているが、それを言い出すと裁判の判決も、真実であろうことを「認定」するだけで、究極的には人間には過去に何があったかなど分からない。裁判の結果が絶対的に正しく、盲目的にそれに従うのだとしたら、再審が終わっていない袴田巌さんに対しても「お前は殺人者だ」「裁判でそう認定されている」という態度を取らないと矛盾することになる。
語りたい対象に対しては調べられるだけ調べ、自分の中で結論を出し、二次加害にならない範囲で語る。調べても判断できないことについては語らない。そういうのが成熟した態度であり、「何があったから分からないからお上に決めてもらうまで黙ろう」というのはあまりにも幼稚で極端だと思う。
なぜ堂々といえないの?言ってはいけないと思い込んでる方が悪いでしょ
連日、超有名お笑い芸人さんの8年前の性加害疑惑の話題を目にする。
真偽については現状定かでないためお笑い芸人さんにも被害者とされている方々にも肩入れする気はないし、正直自分とは無関係のことなので当事者同士で納得のいく結末になればいいね、悪いことをした人がいるならそれ相応の罰が下るべきだね、とそれくらいの気持ち。
ただ、旧ジャニーズの時も今回も「●年も前の話をなぜ今になって」という第三者の声が聞こえる。
それについて思うところがあって、でもそれを友達や家族には話せないので、この日記を書くことにする。
私は、30歳をとうに超えた独身女。
そんな中、私はいまだに独身で、結婚願望もあんまりない。というか、自分には結婚は無理だと思ってる。
いや、「性被害」なんて大仰に言うべきではない。
レイプされたわけではない、なんなら、身体を触られたわけでもない。
小学校4年生だった私は、当時同じマンションに住んでいた高校生のお兄さんに非常階段に連れ込まれ、四つん這いになってお兄さんにお尻を向けるように命じられた。お兄さんは私のワンピースを捲り上げた。私は怖くなってその場から走って逃げた。文章にすると、それだけ。
たったそれだけのことを、いまだに私は、家族にも友達にも誰にも言えずにいる。
大人になったいま、カウンセリングに行ってみようかなと思うこともある。
勇気というか、なんだろう、なぜかわからないけどいざ言葉にしようとすると、何も言えなくなる気がする。
他人からすれば「たったそれだけのこと」だし「なんで今更?」と思うようなこと。
なんでたったそれだけのことを引きずってるの?なんで今更そんな話するの?って。
だからずっと、誰にも言えなかった。
だけど、「たったそれだけのこと」を、私は今でも昨日のことのように思い出す。
あの日着ていたワンピースが何色でどんなデザインだったか、膝をついたコンクリートの冷たさや駆け降りた階段の情景まで鮮明に。
いいなと思って付き合った人も何人かいた。
だけど性行為を想像すると途端に嫌になって、せっかく想いが通じ合って交際が始まっても、すぐに自分から別れを切り出してしまう。
最初はなんでなのか自分でもよく分からなかった。付き合う前はあんなに好きだったのにどうして?って。
だけどある時「男の人に性欲を向けられることがたまらなく怖い」のだと気づいた。
20年以上も前のことなのに。高校生のお兄さんにスカートを捲られただけなのに。
30年以上生きてきて、今更ようやく、こんな匿名日記で初めてやっと話せた。
そういう人もいる。
あの時の高校生のお兄さんは、あの日以降も同じマンションに住んでいたはずだけど、一度も顔を合わせていない。
私はもう関係のない場所に住んでいるし、実家も違う場所にある。
きっと私がいまだにあの時のことを思い出して苦しくなっているなんて、あのお兄さんは思いもしないだろう。
それどころか、私のことなど、私にしたことなど、とっくの昔にすっかり忘れてしまっているだろう。
だけど私は、きっとこれから先も忘れられない。
「●年も前の話」なんて、当事者以外が簡単に言ってはいけないと思う。
そう言えるのはきっと本人だけだし、本当に苦しんできた人はきっと誰より「●年も前の話なのにこんなこと今更言うべきなのだろうか」と散々自問自答した挙句、ようやく言えたのかもしれないから。
「子ガチャ」は、ある。
言ったら許されない。どんな子が生まれても大切な子どもだから喜んで育てなければならない。
建前はそうなっている。そうしておかないと社会の前提を壊してしまうから。
でも。
好き好んで、一生介護奴隷になるために子を産む人、ほとんどいないと思うんだ。
介護に手を取られるから親は仕事できないのに、介護のために普通以上の出費がかかって。
子どもが大人になっても終わらない育児・介護に自分の人生を投入し続けるしかない、逃げることはできない運命が待ってる。
子を持つためには、こんなとんでもない可能性をも受け入れないとならないとは恐ろしい。正直怖くて子どもを持てない人の気持ちがよくわかる。産んじゃったら最後だからね。逃げられない。子どもの障害や特性・問題行動が重ければ重いほど預かってもらえない。重ければ重いほど、親は子を預かってもらって休む必要があるのに。
子を持つ人が減った日本だからこそ、「覚悟して産んだんだろ、親がなんとかしろ」と責め立てる人の割合が増えてきたように感じる。子育てのどうしようもなさやお互い様感を共有できない人だらけになってきた今日この頃。
私が子を産んだのは20年前。今よりは子を持つ人の割合も多くて、まだ育てやすかったような気がする。もし今結婚したばかりだったなら、子を持つ覚悟はできなかった気がする。
わたしがこんなにこちゃごちゃ書いているのは、子ガチャにハズれたと感じても表で言えないからだ。ここでひっそり「ハズレ引いちゃったわ。しんどいわ。逃げらんねえし、なんだよこれ。」とこっそり言いたいからなのだ。言えないけど言いたいんだもん。しんどいんだもん。詳しいことは書かないけどね。身バレしたら怖いし叩かれそうだし、子に見つかっても申し訳ないし。
なぜマッチングアプリをやったか。それは女性についてよく知りたかったからだ。
25歳の時に初めて付き合った彼女に振られ、どうしたら付き合い続けられるか、どうしたら価値を提供できるか考えた。
単純にセックスに対する興味があったと言うのもある。
結果どうだったかといえば、ある程度女性の需要や気持ちは把握できるようになった。
2年間で合計60人程度の女性とデートをし、20人強の女性とセックスをできた。
セックスの欲もある程度満たされ、数を追うこともなくなった。
マッチングアプリをやるメリットは、やはり試行錯誤ができることだろう。
セックスのやり方だと、耳舐めは効果的だが嫌う人がいる、gスポットよりその奥のほうが好まれやすい、人によりガシマンしないと感じない人もいる、クリで感じる人は多いが、20%くらいは中が開発されてない。
デートだととりあえず男が店など全部決めるのは当たり前、価格の配分は男の後輩と飲む感覚で決める(5000円の会計なら自分が3000で相手2000)などなど。
ラインの頻度や相手との距離感は同じで、距離感は保ちつつ好意を伝えるのが重要など。
余裕があるのは大事だが、ある程度ガッツいて承認欲求を満たさないとヤれない、などなど。
全て紙に書き、pdcaを回すことで最終的に80%の確率でセックスできたし、彼女化するのに重要なのは一人暮らしというしょうもない知識もできた。
恋愛工学をベースにPDCAを回したが、恋愛工学でもdisりは上手く作用しないこと、そもそも恋愛工学はアメリカの「ゲーム」という本が元で、disりではなくネグレクト、つまり「引き」が重要で、そちらは有用に作用すると学んだ。
ただデメリットとして、アプリで遊んだ後2人と付き合ったが、「サービス精神でしか付き合えなくなった」というのがある。
自分の自慢話や考えは不要、中身がある男ではなく中身がありそうに見せるのが重要、真剣な話や不安を想起するような話はしてはいけない、などなど。
気にかかることがあっても、言わない方が関係性が続くことも知っている。
実際は彼氏彼女になれば、「気になる部分」を言っても関係性は続く可能性が高いのである。
しかし、セフレ経験が長く瞬間的に「言ってはいけない」と思い言えなくなるのだ。
マッチングアプリをやって遊んだことは後悔していないけれど、相手の気持ちがわかるようになった分、自分の気持ちを伝えることができなく、わからなくなった。