はてなキーワード: 立憲主義とは
ここに宮台真司(1995)『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』がある。社会学的観点からオウムがなぜのさばり、オウム的なものに立ち向かうにはどうすればよいかを記した本で、少なくとも10年ほど前は哲学・批評・(現代)社会学近辺では必読文献だった気がする。
そんなわけで本棚にたまたまぶっ刺さっていたので「終わりなき日常を生きなきゃならないんだよなあ」ぐらいしか覚えてない状態で再読した。以下では、この本の要約ではなく、気になったポイントを断片的に取り上げていく。ちなみに私自身は特に宮台のファンではなく、ほかに宮台の本は『権力の予期理論』『サブカルチャー神話解体』しか読んでないと思う。宮台が今回何を言ってるのかもほとんど把握していない。
まず読み始めて思ったのは、知識人の対応がどうやらオウムと今回ではだいぶ異なるのだなあということだ。冒頭で宮台は、オウム事件がそれまでの歴史における過去から理解する、言ってしまえばそれまでの歴史の延長線上におけるものとして理解することを激しく拒絶することにまるまる一章を割いている。オウム事件を(それまでの文学等々より悪しき・劣った)オタク文化の影響とか、連合赤軍の二の舞であるとか、そのように理解する知識人を批判する。
この辺りは論壇における立ち位置を示すパフォーマンスが結構含まれている気もするが、そもそもオウムについて語りたいわけではないので内容には深入りしない。ここで問題にしたいのは歴史と出来事の間の関係である。
今回の事件について、いまのところ過去の歴史と連続的に語る言説は私の見る限り絶無といってよいのではないかと思う。右派にせよ左派にせよ、「これまでの日本では起きたことがないたぐいの出来事」として捕らえているようにみえる。流れた川の水が戻ることはないので、むろんそれはある程度正しい。しかし完全に歴史から切り離された出来事が可能なものか、という点に関しては議論があるだろうし、宮台自身かれの歴史の中で取り組んできたことだろうから、とにかく歴史との連続性を強調する言説がないこと、それがオウムのときとは逆であるらしいことだけを指摘しておく。
宮台は「普通の若者が普通にオウムに入ってサリンを蒔いた」という見立てを行う。そのため、「マインドコントロール」(宮台は使っていないようだが「洗脳」もここでは同義語としていいと思う)について、何か特殊な技術であったり、明確な必要十分条件を定義できるものではないことを強調する(自分の講義だってある種のマインドコントロールだと言いながら)。これは社会学・社会心理学近辺ではわりと常識的な考え方であると思う。なので被害弁護団が「洗脳」をかぎかっこ抜きで自明な用語として使っているのには、少なくとも私は少し抵抗を覚えないでもない(「洗脳」と言いたくなるような事実があることを否定しているのではなく、あくまで用語法の問題)。
本全体の骨子となる主張として、宮台はオウムに関わった若者が抱える問題は「『終わらない日常』に耐えかねて『輝かしきハルマゲドン』を夢想し、キツさに耐えかねて『夢想を現実化』しようと」した点にあると主張する。その処方箋として「終わらない日常を生きる知恵」が必要とされるが、その知恵を持っているのがブルセラ女子高生なのだそうだ。なぜならブルセラ女子高生は決してオウムに入ってサリンを蒔いたりしないから、とのこと。まあ妥当性については何も言うまい。
すでに見たようにこの本は世代論の本でもある。宮台は江藤淳やその後の加藤典洋、あるいは宮台と同世代の大塚英志も含め、年長世代が新しい世代を「何かが欠けた存在」とみなすことを強く批判する。「あんたがただって年長世代におんなじこと言われてただろう」というわけであるばかりか、そうした言説は不要なきらきらしさを持った「幻想」を下の世代に押しつける有害なものである、というのが宮台の主張だ。そして大塚に対して「われわれ新人類世代はまだ何かを諦めたが、ブルセラ=ポスト団塊ジュニア世代はようやく諦めるべきものを最初から持たず、そのため何も諦めていない。なのにまた旧世代の幻想に彼女たちを縛り付ける気か」的な批判を行っている。どうでもいいが大塚英志が軽く30年以上同じスタンスを取り続けているのを見ると本当に安心する(20冊かそこらは読んでる程度にはファン)。大塚のツイッター(ていつから本人がつぶやくようになったの? 俺の知ってる大塚はタイピングができなかった気がするが)を見ると、メディアなり知識人なりが統一教会と自民党―安倍との関係を追求しないことにブチ切れてて、やはり信用できるなと思った。政教分離の観点から国葬にも激しく反対していて、こっちは大塚が立憲主義の観点からそう言うのは分かるが、私が政教分離についてよく分かっていないので(天と地の分離ってけっこうキリスト教特有の考えだったりしない?というレベル)、問題意識は共有できていない。こういう場合は経験上5~10年くらい経ってから共感できるようになることが多いが、今回はどうだろうか。
話が逸れた。宮台は可能かもしれない処方箋として(異性を念頭に置いた)コミュニケーションを検討する。「全面的包括欲求」に対して応えることが可能なのは宗教と恋愛だけだからだそうだ。そして恋愛は社会の再生産を行う家族システムへの動機でもあるため、社会は宗教より恋愛をプッシュする。にもかかわらず恋愛からはじき出されて宗教に飲み込まれる若者が多いのだから、恋愛は処方箋ではあるが「やれるなら最初からやってる」程度のものでしかないと宮台は言う。
だから現実的な処方箋としては、旧世代が押しつけてくる「輝かしさ」など忘れて「まったり終わりなき日常を生きろ」ということになる。
「処方箋」の妥当性はさておくとしても、少なくとも統一教会は「若者問題」ではない(原理研については詳しく知らないが)という一点においてすでにそのまま転用はできないなあというのが第一の感想であるし、さておいた妥当性をほじくりたくなるなあというのが第二の感想である。
もう少し有意義なことを言うのであれば、この「まったりしたコミュニケーション」こそが統一教会の本質なのではないか、という気が脱会者や現信者のブログやツイッターなどを見てるとするのだ。10年代に流行った「居場所」の問題はいまだ解決していない。
立憲民主党が向き合えなかったのは、民衆の知的レベルの低さだろうね。
立憲民主党の演説等々を聞いていると、聴衆に対して、立憲主義とか立法事実とか、そういう、真っ当な西側先進主義諸国の市民しか知らないようなことを、皆が知っていることが当然期待されるかのような主張をしているんだよね。
でもさ、ここは残念ながら日本だ。選挙で勝つ方を予想してそちらに投票するのが正しい行動だと信じているような「市民」が無視できない割合でいる。目指す政策についての質問がほぼ空白だったり質問の意味を理解できない程度の候補が元アイドルというだけで選挙で優勢になる。国権の最高機関で虚偽答弁を何百回もやった人物が総裁を務める政党であることは投票意向にはほぼ寄与しない。そういう社会だ。
まあ、このレベルの国民に日本国憲法は高度過ぎたのだとと思うよ。どうやらこの憲法も、近いうちに国民のレベルに見合った程度のものにされそうだ。まあ、これまでが異常だったのかな。
死んだ年寄が言ってたカビが生えて埃のかぶった言葉を引用したりしてあーだこーだと言うのってナンセンスだろ
集産主義者が「自由民主党」を名乗って保守をやって、「立憲民主党」の自浄作用のない金持ちが貧民を騙して立憲主義でも民主主義でもなさそうな政党運営しながらリベラルを語ってる2021年の日本の現状で、ハイエクが言ったかどうかもわからん言葉を引用するのは権威主義すぎる。
これは斬奸状である。いや何もお命頂戴という話ではない。枝野君は総選挙敗北の責を取り、直ちに立憲民主党代表を辞せ。
これは明らかに立憲民主党の敗北である。確かに事前の情勢報道(投開票日終了まで続いていた)では党勢は伸長されるはずであった。前回議席の維持ならば少なくとも敗北に非ずと強弁できるだろう。しかし、現有議席すら守れていないのは明確な敗北だ。就中、今次総選挙は前回大敗し、挽回は容易であるはずであった。議席を失陥し、一敗地に塗れた同志に恥じるところはないか。
これに対し、たもとを分かった国民新党は増、非左派野党である維新は大躍進を遂げた。単に得べかりし議席を、彼らに献上しただけではないか。これは間接的な反党行為とすら評価可能な事態だ。
それとも自民党が減ったから勝利だとでもいうのか。ならば55年体制下社会党と何ら変わらぬ、政権を目指さない安定野党に堕することになるが、それでいいのか。
あまつさえ貴君は、選挙前にこう言った。これは政権選択の選挙なのだと、自民政権か非自民政権かを決める選挙であると。
これは現状からすれば、そして選挙前の情勢からしても明らかに大言壮語の類であった。政治家が信頼を得るには、偏に誠実な言動を行うことである。身の程を超えた大風呂敷を広げ続ければ、やがて国民は貴君らの言動をそれなりに値引きしてみるようになるだろう。
他方、狡猾にも貴君は勝敗ラインの設定は行ってこなかった。ならば、政権として選択されず、政権首班として認められなかった貴君は直ちに他に席を譲り捲土重来を期すことこそ憲政の常道といえる。
貴君が代表の座に固執すれば、己の言動にすら責任を取らぬ政治家となる、それでいいのか。
選挙の前後、立憲民主党所属議員から、多数の失言があった。これらは全てシンパタイザーによって糊塗されたが、明白な誤りである。ただ詫びて済むものではない。特に政策的発言において、党方針と全く異なる方言と言ってもいいような発言があったことは、党員の管理が不十分である明確な証拠である。
また、政策議論における発言を弾劾し、デュープロセスを全く外れたまま処分し追放したことは、立憲主義の看板を著しく損ない泥を塗ったものであると断じざるを得ない。
更には、候補者調整においても明らかに指導力に欠く、もしくは一部の独走を許すような事態も招いている。
明らかに貴君には、党全体を管理し統率する能力か意志に欠けるところ大である。そのような人物を代表に据え続け、今後戦えるのか。答えは否、再びの敗北を招くだけである。貴君は貴君がお山の大将でありさえすれば、それでいいのか。
総選挙の結果を見れば、自民党に嫌気を指した層が進んだのは左傾化した立憲民主党ではなく、非左派と目された維新であった。
票田は明らかに中央にあり、左傾化したところでとれるのは現有程度であること明白である。さらに政権側は、敵失に敵失を重ねていた。正に棚から牡丹餅が落ちんとしていたのに、それを拾ったものは誰か。現状の選挙で数多くの批判の声をみすみす逃したのは、共産党との共闘によって中道にウイングを伸ばせなかった一点によるものである。
共闘路線は明白な失敗であった。たしかにいくつかの議席は共闘で得られたであろう。首がつながった議員もいるはずだ。自民の大物も仕留めた。しかしそれは単に局地戦における健闘であって、戦略の誤りは明らかである。
このまま進めば、選挙における依存度を増し、文字通り立憲共産党となり果てるが、それでいいのか。
以上、いずれも許されざる大罪である。故に枝野君、君は速やかに立憲民主党代表を辞せ。
政党は貴君の個人商店ではない。民主的存在なのだ。最早貴君の歴史的使命は終了した。党は貴君が立派に育てた。後進に道を譲り、立憲民主党代表選を行い今後の方針を定めるべきという審判が下されたのだ。それにより人材ここにありと、民主主義ここにありと堂々と示す秋が到来したのだ。
立憲民主党は代表を変えることが出来る、共産党の如き独裁ではないことを、己の犠牲を以て示せ。そこから党再生の一歩が始まると確信する。
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政党支持率見てたら次の衆院選で政権交代はまずないことは誰が見てもわかる。過去の政権交代した選挙(自民→民主、民主→自民)では与党第1党と野党第1党の支持率が逆転していたけど、今は全くそんな状況ではない。
つまり、ここ数日に枝野が発表した「政権取ってこれをやる」と言うのは絵に描いた餅でしかないのだから、必要なのは既存支持層を確実に取り逃がさないためのアピールであって無党派を取り込むことではない。政権交代ではなく現有議席の確保を至上命題とすれば、下手に党内が揉めそうな経済政策なんかやらずに反自民とリベラルをアピールしとけばいいだけ。党内向けの「総選挙ガンバロー」以上の意味はないんだから、いくら外野がガッカリしようが関係ない。
だいたい「立憲民主党」という党名自体がもともと「自民党は立憲主義に反している!」という反自民アピールなんだから、反自民は何よりも優先すべき党是だろ。ぶっちゃけ具体的な政策は自民と大差ないんだから、「政策は同じでも自民みたいな合法性や手続きを無視した我田引水はしません」というのが唯一最大のアピールポイント。そこを避けて具体的な政策なんか出したら「自民と変わんない」としか思われないだろ。
1,いいえ。
2,適切。社会性秩序の維持のため。
4,適切。ヘイトスピーチは対話を目的としない名誉毀損に類する表現行為であるため。
5,不適切。ヘイトスピーチと言えども表現の自由により保障される。表現内容を理由とする罰則は必要最小限にするべき。
6,不適切。表現の自由への制約は必要最小限であるべき。制約の根拠が不明確。
7,不適切。6と同じ。
8,適切。表現の内容により補助金に差をつけるのは表現の自由に対する間接的な制約になり得る。
9,ある。芦部、長谷部、四人本、基本憲法、立憲主義と日本国憲法。
10,法律で表現について規制すると、表現をする側の表現の自由、販売店側の営業の自由に対しての制約になる。そのため、自主規制のような形で行うのが望ましい。それほどに表現の自由というのは極めて重要な権利という事を理解して欲しい。