はてなキーワード: 魔女っこ姉妹のヨヨとネネとは
まあ期待があったのは事実かなあ。
期待値低い映画(「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」ぐらいの立ち位置)だったら「まあええんちゃう?」で終わったと思う。
でも「このシーンまじで凄かったよね!!!」がないのはちょっとどうなんだと思う。
同窓会映画としては悪くなかったんだけどさ、同窓会の域を出てないんだよね。
新キャラもいたけど普通の出来る大人って感じでソツがなかったり、クズがクズだったりで予想外がないんだよね。
たとえば平岡みたいな「コイツこういうキャラかぁ~~~」ってなるのが面白かったというか。
まあ尺が足りなかったんだろうね。
まあやっぱよくないのは一度下げてまた上げたことなんだよね。
誰かが「ヒーローモノの2作目はつまらない。なぜならヒーローが1作目で得た力を失ったり、正義のあり方に今更になって悩むからだ」って本書いてなかったっけ?
アレだよまさに。
やっぱ劇場版ってスケール大きくしていって「地方大会優勝で調子に乗ってたら全国の強豪がヤバかったので修行して全国優勝したぜ」みたいな感じなんですわ。
10あったのを一度5に戻して、それから6足して11にしましたを見せてきて「ドヤ!6も増えたで!」とかやられても、前作はパっと見3から10に増えたかのごとく錯覚させて貰えてたんで差分のスケール下がってるんすよねーとなるっつーか。
まあ尺なんだろうね。
そういえばこれって何が伝えたかったんだろう。
「人生は俺たたエンドの連続で戦いはずっと終わらないんだ」ってこと?
まあ上手く行かないなりに皆が夢に向かって頑張っているってことそれ自体に輝きを見い出せってことなんだろうけど、そういうアイドル的なものだけ見せられてもなあ。
SHIROBAKOで俺が見たいのって「アニメって凄いんだぞ。業界人はクズ多いって言われるけど、クズだろうが凄いから凄いんだよ」って所が見たいんだよ。
俺は結局SHIROBAKO見てさ「これ凄いわ。見てない奴は人生1%ぐらい損してるな。つまり俺は1年ぐらい死んでたってこと実質」という気持ちになりたいんだな。
途中でテーマとして使われた「届かなかったら意味がない」ってのはまさにこの作品のことだったよ。
届かなかったよ。
球威が足りてない。
あと作ってるアニメの内容と作品が噛み合ってると思えないんだよな。
いや分かるよ。
敗北エンドで終わって、楽園にたどり着けると信じて、それは全部ムサニのことだろ?
で?
それでどうすんだよ。
それぞれの人生が淡々と続いてる中で、なにか大きな感動が産まれるんじゃないかってことを表現してくれよ。
「なんか俺たちが好きな魔女っ子みたいなのをやりたい」というだけで終わった作品だろ。「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」でも観てろ。
Wikiで調べてつくってみた。宮崎駿監督の後継者云々を受けてつくったので、主な有名監督と若い監督中心。基本的にはTVシリーズをやってないオリジナルか、小説原作の劇場アニメを発表してる監督。例外も一部あるけど。
1941年生まれ 宮崎駿(風の谷のナウシカ)、富野 由悠季(機動戦士ガンダム)
1960年生まれ 庵野秀明(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)、片渕須直(マイマイ新子と千年の魔法)
1961年生まれ 新房昭之(劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語)
1966年生まれ 神山健治(009 RE:CYBORG)、水島精二(楽園追放)、沖浦啓之(人狼)、宇田鋼之介(虹色ほたる)
1967年生まれ 宮崎吾朗(コクリコ坂から)、細田守(時をかける少女)
1973年生まれ 新海誠(言の葉の庭)、米林宏昌(借りぐらしのアリエッティ)
※ある程度ネタバレあり。
昨日の深夜遅くにアニメ映画『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』の地上波放送をやっていたので見ました。
アニメーションや背景、音楽は非常に良く出来ていて楽しめましたし原作への興味もわきましたが、映画の話が面白かったかというと、うーん。子供に見せたいか、というとさらにうーんという出来だったので何が気になったか整理するために引っかかった点書きます。
1.死について重く考えているのか軽く考えているのかわからない
この映画では魔法世界の『魔の国』と我々の世界そっくりの『現代社会』の2つの世界が舞台となります。一番の違いは当然魔法が使えるか使えないかなのですが、その次に重要な違いが命の重みです。魔の国では寿命以外の死はないようです。魔法で再び蘇ることが出来るからです。そのため現代社会に迷い込んだ魔女のヨヨは、死や怪我を恐れる現代人とのすれ違いを生んでしまいます。このシーンはちょっと泣けますし、物語的にもいい描写だと思います。
一方で、この映画が進むにつれて事件が広がり様々な被害が起きていきます。人々が怪物化してしまうというのを発端として、ビルや街が次々と魔の国の上空に転移されていったり、奇怪な植物が街を飲み込んだりして、最終的にその破壊は地球規模にまで広がります。で、最終的に怪物化は治りビルも元の場所に戻っていくのですが、その描写がどう見てもめでたしめでたしで終われるレベルじゃないのです。例えば怪物化に関しては物語中で交通事故を引き起こしているようにさまざまな事故を起こしているだろうことは想像に難くありません。ビルと街の転移が拡大してからは東日本大震災以上の災害が地球規模で起きているようにしか見えず、まさにカタストロフィとしか言いようがありません。実際に、この災害がまだそれほど大きくなってない段階で既にヨヨのペットの猫ビハクは巻き込まれて死にかけてる訳ですし、最低でも数百万数千万単位で人が死傷していることは明らかです。
しかし、この大災害を引き起こした主因となる現代社会の人物の責任はそれが意図しなかったものとはいえ問われないのです。責任が問われないばかりか、罪悪感に感じている様子すらありません。みんなこれ納得出来てるんでしょうか?一つ可能性があるのはみんなが願いかけるシーンにおいて、その願いの魔力でケガ人や死人が復活していた可能性ですが、それって結局魔法頼みでテーマに沿うのか疑問ですし、責任という点が解消されたとは思えません。一匹の猫が死にそうになる事件や、一人の人間が死んで娘が遺されたという事への情感あふれる描写に対して、多数のその他大勢の死に対する描写や感情が皆無なのはあまりにもアンバランスに過ぎると思います。
事件のそもそもの原因を考えると、12年前に魔法世界で起きた戦争の影響で魔法世界の人間が現代社会に転移したことが原因です。要は現代社会は魔法世界のゴタゴタの余波で壊滅的な被害を受ける被害者に見えるのです。しかし、主人公姉妹の祖母であり大魔法使いのおヨネなど魔の国の上層部はビルの転移による魔の国の被害を異世界からの攻撃と侵略と捉え、その転移を止めるために既にボロボロの現代社会への攻撃し全てを破壊しようと準備します。ヨヨというチャンネルがあり現代社会の情報も得てるわけですし、描写を見てるとおヨネは異世界に戦艦を転移される事も可能なようです。事件解決の使節団を送るなど他の対応は取れそうなのにいきなり攻撃を計画というのは非常に無責任にしか見えませんし、そもそも被害のほとんどは森で起きており、上述の通り魔の国では死んでも大抵は復活出来るため、果たして魔の国の被害がどれほどなのかも全然実感が湧きません。
戦争への後悔や反省などは原作で回収してるネタかもしれませんが、その辺りはもうちょっと描き様がなかったのではないでしょうか?原作キャラらしいのはほぼ全員好感持てましたがおヨネだけは納得いきませんでした。
願いと呪いについては例えばまどかマギカでも大きなテーマの一つであり、まどかマギカでは願いと呪いはそれこそ表裏一体のものでしたが、ヨヨとネネでは願いが他者のためであれば純粋な善きことであり自分のためであれば純粋に悪しきことであると完全に分別されて描かれているように見えます。他人の幸せを願うことが一般的に善きことであり、他人の不幸を願うことが悪しきことなのは納得がいくのですが、自分の幸せを願うことが単に我がままだと断じられるのはストンと納得出来ません。例えば孝洋の両親の願いは果たして家族を無視した自分の幸せだけを望んだ願いだったのでしょうか?子供にも理解しやすくするために分かりやすくという目的もあるのでしょうが、そういった配慮は子供を下に見ている様で余計に見せることを躊躇われます。