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2024-04-12

anond:20240412100120

駿大先生ジブリの前の東映動画時代組合活動を行うバリバリ左翼思想をもって活動していて、そこで師となったのが高畑勲さん

のちに自分思想的に転向したと語ってはいるけど、初期の作品ほど色濃く左翼思想が見られるし、未来の子どもたちに向けてメッセージを送ろうとする作品性はずっと一貫してる

ただ作品を大喜びで見ていた子供たちは、まったく覚醒せずに大人になってしまったわけだけどな

2024-03-20

anond:20240320093951

海外旅行好きの女性って何か特徴ってあるのかな。

そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。

国内海外わずだし、男女問わずだけど。

旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所食べ物を入念にチェックする。

現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動がみられる。

最近では、インバウンド来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。

映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。

旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。

日常との差異体験やよその世界ちょっとだけ繋がったりできたことの証明自己顕示が欲しいのだ。

その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したこと証明するうえでとても重要

このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、

現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。

さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、

東海道五十三次時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。

日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。

ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。

そんな男性立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。

それは、旅先で一時的体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。

旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。


「おもいでぽろぽろ」というジブリ高畑勲監督映画(1991)がある。

都会育ちのOL女性田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、

最終的に田舎暮らし決断するところで終わる。

この映画場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、

いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをしばしばきてきた。

アジアアフリカ中南米で。かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。

「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば

海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。

また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップ意向が高いのに対し、女性男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。

男性女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、

だが!しかし、、、、

果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。

それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。

まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。

突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。

瀬戸内海小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。

あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」

当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、

ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟必要だった。

ドラマおしん」(1983年)も思い出す。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。

そこでは、さらもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイ過酷人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつ小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性共感を呼んだ作品だった。

孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、おしんドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしん過去を振り返るために旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。

アウェイ世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。

「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じるエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性文化的に育まれものなのかもしれない。

昨今では、結婚就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。

男性は芯がないくせに保守的で臆病だからこそ外の世界渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリホームにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなもの男性社会のものがもっていた。ふるさと家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。

一方、女性は嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界

「嫁ぐ」という習慣、因習宿命からまれた、抑圧される女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。

これはなかなかパラドックスだと思った。

翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイ世界に飛び込むという意味

かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟必要だということだ。

若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分覚悟能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。

嫁ぎ先である日本社会日本人男性漠然失望している場合

希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイ世界で生きる宿命ならば、

いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚深層心理にあるのではないか妄想する。

一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というもの概念として存在していた時代都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀)は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。

かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。

「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」

この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイ世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。

なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、温かい視線旅人である自分に向けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテン寅さんとほぼ同じ世界観だ。

そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。


民俗学者宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人考察した文章のなかで、そうした旅人

地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域活性化寄与する機能果たしていたことを、

世間師という言葉表現した。そんなことも思い出した。

世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。

嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会リーダーシップをとっていかなければならない男性潜在的意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。

かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。

男の旅というのは、ちまちましたもの火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。

しかし、この四半世紀、女性社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性模索する時代になった。

テレビドラマも、90年代以降、女性社会進出を反映して、トレンディドラマ代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストラン食事する、みたいなシーンが増えた。

東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマ世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。

しかし、現実女性社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性役割押し付けられていたのが現実だ。その現実90年代ドラマショムニ」でよく表現されていたように思う。

しかし、時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。

中長期的には東京一極集中トレンドは変わらないものの、それは不動産価格トレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省必要な人というのは減っているのではないか首都圏の人は首都圏世代を重ねるし、地方の人は地方価値見出し仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方ふるさとホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。

そうなると、都会の人間地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。

その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、女性理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。

一昨年のドラマファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業テーマ女性自画像模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。

ファーストペンギン」のように地方移住テーマにした作品は、アウェイ環境女性ポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。


そんなことをおもった。そもそも旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。

とりとめもないメモです。

2024-02-13

anond:20240212203522

じゃあお前は見てるだけで高畑勲演出意図全部分かるのか?

俺は分からん

2024-02-04

契約合意問題

こういう意見をチラホラみるけど。

テレビ側が、原作者との合意無視した(軽んじた)ところが問題の中心だと思っている。

[B! 増田] 原作VS脚本の議論、どこへ行く?

原作改変するな!」は火元ではないのをいまいち飲み込めてない感じの人いておもろいね契約不履行が火元

[B! 増田] 高畑勲の恐るべき原作改変

日テレは約束を守らなかったのか?

[B! 著作権] 無許可二次創作を擁護しまくってたはてな民って原作者の気持ち考えたことあったの?


契約合意を守ったかなんて、みんなで議論したところで、どこにも行き着かないと思うが。

守られてないなら原作サイド民事訴訟を起こせば良くて、それが嫌なら日テレと手を切ればいいだけでは。

なんか…、話が踏み込んでほしくない領域突入して、都合が悪いから逃げの一手を打ってる?

2024-02-03

anond:20240202211633

かぐや姫の物語スタジオジブリ最高傑作だし100年後も残る作品だと思う

ただ高畑勲アニメ監督というより芸術家みたいな部分が強くて、決して万人受けするような作風ではないか一般人から過小評価されているんだろうね

200年後に宮崎駿を知ってる人はレアで、

単なるマニアだけど、

高畑勲を知ってる人はそこそこにいると思う。

で、当時の人たちは馬鹿だったか高畑勲価値理解できなかったんだ、と見下されるんだよ。

anond:20240202211633

一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。

この大人時代という追加トッピング高畑勲の悪意がある。

あのねー、あんたすっごい失礼なことをいうよね。

岡島タエ子:今井美樹

トシオ:柳葉敏郎

声優やってくれたトップアイドルたちに顔をよせたの。

敢えて絵柄を似せたの。

まあ、さすがにハウルキムタク顔で書いたりはしなかったけど今井美樹50代って、あんた当時のファンやってたおじいさんたちにコロされるよ。

ディズニー白雪姫みてもおばさんくさいとかいうんだろうな。

  

にしても萌え絵ロリ幼女以外みとめないってどんだけ末期のロリ二次コン……

ジブリはおもひでとほぼ同時期に少女漫画アニメ化してるんだけどそっちは顔は可愛いまま原作ストーリーの苦みを生かした感じだからふわふわ世界にいきていたいオタクさんやっぱりケチつけそう

顔と性格のいい幼女以外認めないってわけだw

2024-02-02

高畑勲の恐るべき原作改変

宮崎駿原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲もっと恐ろしい。

高畑勲原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメ解釈原作を読んでしまう。

高畑アニメは、原作のものを改変してしまアニメ

火垂るの墓

火垂るの墓』の原作野坂昭如という作家自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造原作になっている。

野坂昭如実体験→野坂昭如小説アニメ

実はこの「実体験→小説」の時点で大きな改変が入っている。

それは主人公の清太が死ぬ、という設定変更。

清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。

野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。

高畑勲アニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。

高畑勲原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。

おもひでぽろぽろ

これについては原作からだいぶ変えてる。

アニメでは子供時代大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代存在しない。

アニメの子時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。

一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。

この大人時代という追加トッピング高畑勲の悪意がある。

自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想世界の可愛らしい少女漫画キャラクター残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロ田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。

かぐや姫の物語

高畑勲の技工が最高潮に達した作品

ジブリ経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。

それくらい原作通りのアニメだが、ひとつ大きな改変がある。

それは『かぐや姫の物語』というタイトル教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。

竹取の翁の物語タイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点物語が語られる。

一方かぐや姫の物語ストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象かぐや姫になるように作られている。

ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」からかぐや姫社会翻弄される話」にすり替えている。

まりに見事なテーマすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画評価イマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。

しか水木しげる妖怪イメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーヨーロッパ民話アニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫解釈高畑解釈で上書きされるだろう。

2024-01-27

anond:20240127100032

そういう、いわば「創作過激派」な宮崎駿と、それを超える創作モンスター高畑勲を、長い期間創作可能環境を作り、売り上げという実績に結び付けて、世界的な評価を獲得させるところまで進めた鈴木敏夫はすげーなと思う

2023-12-30

anond:20231230165643

俺はこういう憶測自分がしてしまとき

自戒の念を込めて

「大叔父高畑勲だったと予想したやつは一人もいない」

という教訓を思い出すようにしている。

一応念のために説明すると、

これは宮崎駿の最新作

君たちはどう生きるか

なかに出てくる『大叔父』という登場人物の話だ。

君たちはどう生きるか」という映画宮崎駿自伝的要素がある作品で、

この映画を見ると

この登場人物は誰をモデルにしてるのか?

このエピソードは何を意味しているのか?

を考えてしまうつくりになっている。

ゆえに映画を見た人たちが様々に予想して色々な角度から感想を書いた。

しかし、その中で「大叔父」が高畑勲モデルとしたものだ、と予想した人は一人もいなかった。

この事実意味するのは、

人が誰かの創作物を見たり読んだりしたときに感じ取る

「正解」のようなものほとんどの場合に正しくはないということだ。

ただ、それでも制作者が込めた「思い」のようなものは観客には伝わる。

から映画の終盤「大叔父」と主人公たちとの別れの場面で

観客は宮崎高畑を失った喪失の悲しみを受け取ることになり、

感受性の強いものはそのとき涙を流すことになる。

やや、蛇足が過ぎたが要するにちょっと文章を読んで理屈で考えた予想というのはは大抵の場合間違っているということだ。

2023-12-24

君たちはどう生きるか

NHKドキュメンタリーで興味をもって、遅ればせながら映画を見てきた。

例の番組では高畑勲との関係クローズアップされていたけれど、この作品テーマ少年の成長じゃないか。(千と千尋の神隠しと違って、一晩で見る夢のような内容なので、成長というより、自分気持ちに折り合いをつけると言った方が近いかもしれない。)

作品クライマックスを作るために、高畑勲モデルにして、結果的高畑勲を乗り越えたという見方はあるかもしれない。でもそれがメインテーマかというと、ちょっと違うような。

NHKディレクターの関わり方(書生)からすると、スタジオジブリ確認なく放送されたとは思えないし、むしろジブリ(=鈴木敏夫)の意向が色濃く出ているのではないか。他のインタビューでも、鈴木敏夫はサギ男は自分、大叔父高畑勲だと言っているし。

そう見せたい、そこに注目してほしいという理由があるのかもしれない。そのほうが注目されやすいからなのか、それとも、メインテーマがあまりにもパーソナルなものからなのか。

敢えて視点をずらしたのか鈴木敏夫意向ということなら、サギ男らしいと思った。

いずれにしても、素晴らしい作品だった。番組宮崎駿が「頭のフタを開ける」と言っていたが、本当に誰かの頭の中を見ているような、或いは誰かの夢を一緒に見ているような気持ちだった。

あれを映像に具現化するって、すごいと思った。

2023-12-20

ほら、オタク考察ってバカバカしかったじゃん、これでわかったよね?

あれだけ偉そうに考察していたのに誰も大叔父高畑勲って読み解けてなかったじゃん

顔までちゃんと似せて作っていたのにさ

あの偉そうな考察マジでなんだったの?

ねえ?

お前ら自分バカってことを自覚しろよな

要するにジブリで働いていたということだけが自慢の人なんだろう。

ジブリ宮崎高畑の近くで働いたことがあるんだぞ!というのが自慢の種、飯の種なんだよ。

そういう人が宮崎駿という人をある意味矮小に描いたドキュメンタリーを見たときに怒りを覚えるのはわかるような気がする。

宮崎駿は神であってくれねばならないんだ、そういう人にとっては。

でなければ、神の側近くで侍っていたということが自分存在価値である人間にとっては大いなるダメージなのだ

媚びへつらう。

ということを彼は批判している。

実際に媚びへつらっているのかどうかは知らない。

でも媚びへつらってあの映像撮影できるなら幾らでも媚びへつらってやる、と思わねばドキュメンタリーなんて制作できないだろ?

なぜそんなことが理解できないのだろうか?

あの映像があるおかけで、大叔父というキャラクター高畑勲を描いたものであるというのが実感を持って理解することが出来た。

例えば、書籍雑誌などで鈴木敏夫インタビューに答える形で、いや実は大叔父っていうのは高畑勲を描いたものなんですよ、と発言していたとしてもピンとは来なかっただろう。

しか映像の中で宮崎絵コンテを見せながら、これパクさんに似てるでしょ、と嬉々としているのを見せられれば1万字の文字説明されるよりも遥かに伝わるものがある。

あの映像は貴重なんだ。

その貴重さがなぜ理解できないんだろうか?

その貴重なもの撮影するための手段として、媚びへつらいが必要ならなんぼでもやってやる、と思えなければ人に何かを伝えることなんて出来ない。

多分そういうところを理解できない人は創作というものは出来ない。

ものを作るということは並大抵のことじゃないんだ。

その覚悟がない人間創作なんて出来るわけがない。

2023-12-17

プロフェッショナル仕事流儀NHKプラスで見てる

高畑勲さんがすごすぎる

絶対妥協しない、妥協するくらいなら作品未完成のままでいい

このスタイル死ぬまで貫き通して作品を発表し続けることができたこと、社会的な名声も地位も手に入れたこ

周りの人にものすごく恵まれていたんだろうこと、それだけの才能も持っていたであろうこと

すべてが奇跡的だと思う

こんな純粋培養の「芸術家」は他にもいくらでもいるだろうけど、ほとんどの人は社会から脱落して食い詰めてどうしようもなくなるのがオチだろ、それが現実ってやつだろ

この人すごいよ、どうなってんだよ

あと、メカキャラも人並み以上に描ける、あの本田雄さんがジブリに……って話は噂にしか聞いてなかったけど、マジだったんだね

庵野ナウシカがもしあるなら、この人がキーマンになるんだろうな……すごいなもう

2023-12-09

宮崎駿高畑勲出会いは「東映動画」の労働組合だったというのは有名な話で、その知性と思想性を含めて非常に真っ当に左翼だなと

2023-11-07

火垂るの墓リアリティなさすぎワロタwww

客を泣かせるために高畑勲に殺された兄妹がかわいそうや

2023-10-26

anond:20231025145246

未来に残るのは高畑勲作品だけです。

当時の人々には高畑作品価値理解できなかった。

未来人に馬鹿にされています

あなたがたは。

こんばんわ未来人です。

そのため宮崎駿のほうが人気があり、高畑勲作品は低評価だった。

それは過去人が馬鹿から

未来からは損な感じです

2023-09-01

魔女の宅急便OPEDの雑採用背景好き

元々はいもの鈴木敏夫の私情採用なんだよね。

 

鈴木 音楽について決めなきゃいけない打ち合わせの前夜に、ガールフレンドユーミンコンサートに行ったんですよ。それが初めてのユーミン体験。それで翌日、監督宮崎駿音楽演出をやっていた高畑勲に「ユーミンいいんじゃないかな」と提案したんです。

こいつホンマに私情を仕事に持ち込むことに躊躇しない男やな。

 

で、宮崎駿毎日ラジオで聞くくらいユーミン好きだったかユーミンにお願いしましょうってなって

書下ろしでお願いしますって事務所に持っていったんだけど

ユーミン夫妻が全然乗り気じゃなくて1年以上「まだすか?」「どうすか?」って通い詰めてたら

ユーミン旦那が「なんかちょっと重いんでなしでw」って言ってきたんだよね。

 

しょうがないので当時のユーミン楽曲の原盤権持ってたレコード屋の偉い人に頼み込んで

楽曲を使わせてもらうことになったので、

魔女の宅急便にあの2曲が使われることに対しては

当時のズブリユーミン夫妻に直接許可は取ってないっていう。

大ヒットしたのちに「ええで!」ってなってるんだけども。

2023-08-01

anond:20230801141224

ジブリは1本ではなく宮崎駿高畑勲の2ライン体制だったろ

1本だけだと浮いた人材が暇になるから複数の方が効率いい

2023-07-24

どう生きバード感想

忘れたくないのでつらつら。




●13個の石は宮崎駿 作品

●まひとさんは吾郎さん

●あれは 宮崎駿物語。大おじ様が 宮崎駿


宮崎駿幸せにしなきゃいけない人間だと思ってるのは吾朗さん。それは パンダコパンダから変わらない。

一方で 創作をしながら 築き上げてきた あれやこれやのご縁。その中で 高畑さんとの出会い製作を助けてくれたおばあちゃんたち。動かしたらダメ、なるほど。守ってくれてる。

創作という魔力を持った大きな石の力を利用して世界を築き上げていく。宮崎駿はかつて世界を愛せるかどうか 鍵 という話をどこかでしていた、愛せる世界であってほしいと。

そのための創作 なんだと思う。これで1日は持つっていうセリフ意味はよくわかってないけど、これであと1日はこの世界を愛せるって意味なんじゃないかなと思う。あの石は宮崎駿創作 なんだと思う。

世界を捉え直して綺麗に積んであげることで世界を1日だけ愛せる。そういう作品を送り出してきたんだと思う。

3日に1個積みなさいと言ってた。3日っていうのはそのままの3日って単位じゃない気がする。3年とかなんじゃないか適当だけど。

それぐらいのスパン作品を送り出してあげることで世界が愛せる 手伝いをするっていうのがあの創作の石に見られた人たちの任務で、宮崎駿がずっと それをやってきたけどもう限界があるからかにつぎたいと。

まろさんに失敗したこともあったけどそこには 言及してなかったような気がする。とにかく 真人さんに継ごうとしてた。まあつまりはごろうさんなんですけど。

まあ本当に最後作品になるんだろうなと思うものだった。

からこそ今までお世話になってきた人やあの人や この人もういなくなってしまった人に思いを伝えたいというのが、切実すぎるほどに伝わってきた。

ひみさんは高畑さんなんじゃないかなと。

ひというのが 何かの脅威を表すとしたら、創作の炎に焼かれていった高畑勲さんらふのことじゃないかと。

今まで戦ってきた数々の戦友たち、その人たちが次々となくなっていった。それでも背負うものがあるから足を止めることはできなかった 宮崎駿さん。その 宮崎駿さんの懺悔と逆にそれを肯定していかなきゃいけないという背景からまれ作品 なんじゃないかなと思う。

そう考えると最初から最後まで本当に真人さんを中心に動いていて、

創作で今までお世話になった人たちへの感謝気持ちが全部現れてるように思った。

残すべきものは残した。

さあ君たちはどう生きるか そう 投げかけられてるような気分になった 。これは個人の感想です

さら個人的感想を述べていくと、宮崎駿 眞人さん好きすぎんだろ。作品 全部つぎ込んで 真人さんへのお手紙 じゃん こんなん。

スタッフも豪華。

まだ宮崎駿さんはご存命だけど、献花に近いような作品だと思った。

すべての関係者への感謝と、

伝えられなかった思いの言語化と、

まるで遺書

わたしもいつかこんな遺書が描ける人間になりたい。

人生何周してもたどり着けない気がするけど、思うのはタダですから

2023-07-16

anond:20230715194659

プロットを考える上でメタファーが元になってるのは間違いないけど、

個々のメタファー間の整合性はとってないので

勝手整合性取ろうとしても絶対無理が出るよ

あそこはアレのメタファーであそこは全然関係ないアレのメタファー

ぐらいに考えたほうがいい

青鷺はシーンによって高畑勲でもあるし鈴木敏夫でもあるし

宮崎駿は眞人でもあるし大叔父でもある

パヤと~鈴木は~ずっ♡友♡だよ♡ 故:高畑勲に捧ぐ

俺、こういうの結構好きなんすよね。

型月の二人みたいな関係性っつ―か。

最強のふたりみたいなノリっつーか。

実力主義腐れ縁が混じり合った末永い戦友関係みたいなの。

君生きはマジで意味からねーと思ったけど、ここだけは分かったぜ。

ここも分からなかったという奴は血の代わりに冷たいオイルが流れてそう。

君たちはどう生きるか考察見てたら「墓の主=高畑勲」って出てきて不謹慎すぎて笑ってしまった

しかに死んでるけどさ。

ちょっとそれはブラックジョークが強すぎない?

しかに墓の主が高畑で確定したら、アオサギの方は鈴木Pで確定してスッキリするけどさ。

墓の奥からする実態も持たない謎の声が高畑勲ってのはもうそ自体映画パンチラインすぎません?

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