はてなキーワード: 高畑勲とは
君の名は。や天気の子と同様ではないにしろ、同クラスのエンタメを期待して見に行ったら説教された気分。
友達と久しぶりに飲みに行ったらアムウェイの勧誘されたみたいな気持ち
すずめの戸締まりは説教部分が多すぎて、キャラや背景の掘り下げがあまりに雑。
出てくる奴ら全員テンション高すぎ。もう少し親交を深める描写有っていいでしょ。
なんであの流れで全国旅行から大恋愛?(君の名は。や天気の子くらいまで描写しろや)
それもこれも災害をメインに置きながら多方面に配慮して中途半端になったせいでしょ。
映画『もののけ姫』を劇場公開していた頃、スタジオジブリの制作現場に密着したというドキュメンタリー番組がテレビで放映された。その中で、こんな場面があった。
タタリ神による呪いを受けたアシタカが、彼の腕に出来たアザを、エミシの村の長老たちに見せる場面。その原画が上がって来たのをチェックする宮崎駿は、自分を写すカメラの前で、次のようなことを言い放った。
「人は驚いた時に、身を乗り出す人と、身を引いて逃げる人の2種類がいる。この原画は、身を引く反応の絵になっている。それは、これを描いた人間が、イヤなことから逃げ出すような人間だから」
ナチュラルに原画マンに対する人格攻撃を加える宮崎の姿が、全国放送の電波に乗った瞬間であった。
これとは対照的な話を、一つ紹介する。雑誌『アニメージュ』では1982年頃、安彦良和が自筆のイラストと共にエッセイを連載していたことがある。その安彦のエッセイの一篇で、演出家が描く絵コンテの指示内容と、原画マン等アニメーターがキャラの絵に付ける演技との関係について、イラスト付きで次のように述べていた。
1カット目:クラッシャー・ジョウの主人公ジョウが、歩いている。カメラパン。
2カット目:カメラ切り替わり、カメラ奥から手前に向かって、犬を連れた女性が道を歩いて近づいて来る。
この3カット目の「ギョッ!とする」というのは色々な解釈が可能であると、安彦良和は述べる。
「女性が苦手だから」「片思い対象の女性に予期せず出会い、ドキドキキュンキュンしたから」「犬が苦手だから」「女性に金を借りて返していないので『不味い!』と思ったから」「女性が化け物に見えた(近眼なのにメガネやコンタクトをしていなかった)から」など。
このように一言に「ギョッ!とする」と言っても色々あるのだから、どのようにアニメーターが描けば良いのか、アニメ演出家が描く絵コンテは、演技を適切に指示する内容でなければならない。それがエッセイで安彦良和の述べたことであった。
宮崎駿も、出来上がった原画の演技に文句を言うのに託けて、全国放送による公開人格攻撃を原画マンに対して行うぐらいなら、そもそも演出家である宮崎自身が適切な指示を絵コンテに書いておけば済んだ話である。それを怠っておいて、原画マンに対する人格攻撃を宮崎は加えていたのだから、お粗末以外の何ものでもない。
それと、もう一つ。高畑勲に寿命を擦り減らされた近藤喜文を守れなかった(守らなかった)宮崎駿に、果たして原画マンなど他人のことを「嫌なことから逃げるような人間」と批判する資格があるだろうか?これは修辞的な疑問、つまり反語であり、そんな資格は宮崎駿には無いと自分は思っている。
周知のとおり宮崎駿は、高畑勲大好き人間である。だから、高畑勲のすることを批判したり、それにブレーキを掛けたりすることは決して出来なかった。それは結局のところ、宮崎駿が高畑勲に嫌われるのが怖かったからではないのか?だとしたら、宮崎駿も「嫌なことから逃げていた人間」ということになるではないか。
原画の出来一つでアニメーターの人格に四の五のケチを付けるぐらいならば、宮崎駿自身もまた「近藤喜文を守ることから逃げた人間」という称号を死ぬまで背負うべきである。何しろ、失われたのは絵ではなく、人命なのだから。
近藤喜文が存命であれば、スタジオジブリも宮崎吾朗なんぞを担ぎ出す羽目にもならずに済んだであろうし、またジブリだけでなく日本のアニメ全体にとっての実り大き仕事をしたことだろう。近藤喜文を守らなかった宮崎駿の罪は、余りにも大きい。
月ノ美兎と剣持刀也、どっちも配信未経験だし、あのわけわかんねー時期にわけわかんねー会社に応募してきた、倍率も甘かっただろうところから通過してきた素人なのに、なんであんなに配信者として優秀なんだ?
あんな適当な選び方で面白い奴が選べるなら、会社の知名度もVtuberの知名度も上がった今、世の中に眠ってた面白い素人が大量に集まり、倍率百倍くらいで厳選して、超面白くて素行も良いやつを採用できるはずじゃないのか?
なんでそういうやつらが出てきづらいのかね。
kusunoki7100 これは戦後にアニメ制作なんて訳のわからん実績もない仕事に応募してきた人材の中に、宮崎駿、高畑勲、富野由悠季、出崎統がいたと言う現象と同じだと思っている。
たとえばミッキーマウスは、あの外見で葉巻をふかしたりと「大人」として振る舞ったりするんだけども、
じゃあそういう「大人」みたいな振る舞いをしたからミッキーマウスの外見が中年の大人に見えるのかというとそんなことはなく、
あの「頭が大きく」「目が大きく」「甲高い声」によって
「なんとなく若いんじゃないかな」「人間みたいに年は取らないんじゃないか」という受け止め方される
で、じゃあなぜ、あんなふうに頭が大きく目が大きいかというと、
そういうデフォルメをしたほうが、体や目線を使ったジェスチャーが明快になるから
日本のアニメキャラの原形って、基本的にディズニーなどの欧米で培われてきたデフォルメによる表現技法を取り入れて出来てるんで、
アニメキャラが「頭が大きく」「目が大きく」「声が甲高い」のは
で、アニメの女の幼さというのは、
「アニメーション表現として伝わりやすい」「アニメとして動かして面白い」造形に合わせやすいのが「幼い言動をする女児」だから、となる
宮崎駿は明確に「もっともアニメで映える」基準でロリコンキャラを動かしてる
「手でスカートを抑えてどうする! 手はオーバーアクションに使え! スカートは動きの演出のためにパンツ丸見えになるぐらいめくれろ! それこそが動きが最も映えるのだ!」と
アニメーションの絵が書き込み量が増えて「リアルな描写」が当たり前のように作られるようになったから上記が忘れられてるけど、
高畑勲あたりが追及するリアル描写が成立するためには、映像としてちゃんと「映える」ための飛び道具が必要で、
新海誠はデビュー以来屈折したアニメを作り続けていて、それが『君の名は』で漂白されて大ヒットした。その成功を旧来からのファンは「新海誠もそっちに行ってしまうのか」と半分祝福、半分寂しい思いをして見届けた。
そして次作の『天気の子』。この映画で新海誠は旧来からの期待に答えて闇の部分を出そうとしていた。天気の子は『キミ』と『セカイ』を天秤に載せて葛藤するよくある話だが、昔からあるこの手の話は『セカイ』の描き方に重きが置かれておらず、葛藤が成立していなかった。そこで新海誠は自分の才能を活かし、皆が生活する『世界』を圧倒的に美しく描き、失うものの重量を重くして天秤のバランスを取ろうとした。
新海誠はインタビューでこの作品は賛否両論を巻き起こすだろうと語っていたが、しかしその試みはうまく行かなかった。なぜならこの映画が公開されていた2019年は個人の人権が最も重視されていた時代だったからだ。ブラック企業問題が社会問題になり、社会と個人どちらを取るか問われたら、みんな個人と答える、それが正しいとされた最後の時代だったからだ。だから天気の子は葛藤が成立せず、作中でくどいくらい穂高が犯罪を重ねても、それを責める観客はほとんどおらず、ただのラブストーリーとして消費された。
しかし今は違う。コロナ禍で世界は変わってしまった。恋人と会うために病院から抜け出すカップルがいたら、社会は容赦なく糾弾するだろう。『火垂るの墓』の高畑勲監督は80年代にインタビューで「いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と語っている。『天気の子』もまた『火垂るの墓』と同じく観る時代によって見方が180度変わってくる映画だった。
その時の所感を思い出話も兼ね、ここにエントリーを残そうと思う。
拙い文章だしまとまりの無い雑記で恐縮だが、もし興味があれば最後まで付き合っていただけると幸いだ。
そこまで興味ねえよ、って方は『デルタの羊』(著:塩田武士)を読むか、
『アニメーション制作進行くろみちゃん』(制作:ゆめ太カンパニー)を観れば良いと思う。
大分アニメ業界をマイルドに表現しているが、ある程度リアルな現状が分かるだろう。
大学を卒業後、国家資格が必要な仕事でそれなりに安定した生活を続けていた。
そのうち、毎日の仕事に退屈さを覚え、自分の好きなことに関われる仕事をしたいと考えるようになった。
そう決心してから実行に移すまではそう遅くなかった。
一度だけの人生、自分の想いには素直になりたいと思って転職をした。
中途採用の面接は驚くほどアッサリとうまくいき、無事志望していた制作会社に入社することができた。
他にも経験したポジションはあるのだが、書きすぎると特定されかねないのでここで留めておく。
そうして入社したアニメ制作会社に、新卒時代の仕事よりも長い年数身を置くことになる。
一般企業からすれば規模は小さいように見えるが、業界内からすれば大手制作会社といえる。
今の職場で、制作に携わったアニメをオタクじゃない先輩に話したら「あー、あのアニメ作ってたの?」って
言われるほどには結構作品自体の認知度は高いし、結構覇権認定された作品も制作していた。
会社についても、そこそこアニメオタクからは話題に上がるほどだ。
毎年新卒の制作進行が複数人入社するし、抜けた数だけ中途採用ですぐに補填できるほど、
ひとことで言えば「縁の下の奴隷」と称すのが正しい。
制作進行という仕事について、「立派な名前は付けられているが、テレビ番組のADと変わらない」という認識かもしれない。
概ね合っている。
付け加えるとすれば、漫画の編集者の仕事の一端も担っていると言って良い。
漫画の編集者は、大体一人の編集者が一人の作家を面倒見るものだと思う。
アニメの制作進行は一話につき約10~30人の原画担当、そして数人程度の作画監督、
監督の追っかけまでするのはスタジオによってまちまちだろうが、概ね他社も似たような状況だ。
クリエイターからすれば、アニメ自体に何の付加価値も与えていない使い捨ての道具程度にしか見られていないが、
実際のところ制作進行が居なければどんな作品が作られるだろうか。
高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』のように、制作期間と制作費をドブに捨てた「儲からない作品」のできあがりだ。
制作進行、制作デスク、ラインプロデューサー、こういった旗振り役が存在するからこそオンエアのスケジュールに沿ってアニメ作品は作られる。
全く軽んじられている仕事に見えて、実はアニメ制作の仕事においては重要な役割だ。
給料は中堅拘束アニメーターや演出の拘束費よりも、自分の新卒時代の月給よりも少ないのに。
また、大手のアニメ会社といえど、社内の作画スタッフだけで作品を作れるかと言ったらそういうわけでもない。
フリーや他社のアニメーターに声をかけて「うちの仕事しませんか?」と営業するのも制作進行の仕事だ。
これについては、大変なおもいをしてアニメーターに罵倒されつつも満身創痍で人集めしていたかと思うと
実はそこまで酷い目に遭ったことは少なかった。(全く無いわけではない)
結構ウチの社名と参加タイトル出しておくと集めやすかったというのが他社スタジオに籍を置いていた先輩の感想だ。
他にも、「外回り」といって作画担当の上がりをアニメーター宅やスタジオまで回収しに行く仕事もほとんど無かった。
会社のブランドによるアニメーターの集めやすさ、物理的にしんどい外回りが不要であること、これらは大手ならではの強みだろう。
アニメ業界にいる人間は大体低賃金で働かされるという問題が取り沙汰されるのは、業界の外の人間にとっても聞かない話題では無いと思う。
年齢が50代後半を迎えたベテランにも関わらず、相変わらずボロアパートに暮らしている人間は少なくないし、
税金を未納しているほど経済状況に困窮しているアニメーターも知っている中で若干名存在する。
キレイな上がりを出して作品に多大な貢献している人は月に50~100万、中堅でも安定している上がりを出せれば20~30万と、
作品に対して一定以上のクオリティを保っていれば普通に生活できているのが実情だ。
そんな実情なのに生活に困っているアニメーターは、新人である以外に思い当たる大きな要因としては以下の三つだと考えられる。
①病気のためしばらく仕事ができていない(激務だし生活サイクルが安定しないので、結構体を壊しやすい)。
②上がりは平均程度なのに性格に難があるから、次の仕事に繋がりにくい(この手の人は作品の納期がヤバいと起用される傾向にはある)。
③そもそも上がりのレベルが落書きだから仕事を干されている(なおかつスケジュールも守れないパターンも割とあるのでかなりタチが悪い)。
性格に難があったり、上がりを出すまでが遅くても使われ続けるアニメーターって、結局押さえるべきクオリティを押さえられている。
にも関わらず「アニメーターは低賃金だ! 彼らの生活を安定させろ!」と騒ぐのは業界をよく分かっていないモグリの発言だ。
新人アニメーターの生活を安定させろという話もあるが、これについても新人なら新人なりにキャリアの無いうちにフリーにならず、
どこかのスタジオに籍を置けば実はある程度解決できる話に過ぎない。
じゃあ稼いでいるアニメーターって具体的にどんなアニメーターだろう、と聞かれたら真っ先に以下の三点が挙げられる。
①納期厳守
②安定したクオリティの上がり
①さえ守っておけば仕事は来るし、②だけが強みな人も生活できるレベルで稼げる、③については納期を平気で破ろうが高い拘束費を貰って仕事ができる。
③をできる人が居なくても①と②を心がけられる人が居さえすれば生活なんてできるし、一ヶ月程度の休暇を取ったとしても生活している人だって居る。
制作の人間からすれば、あまりクオリティ追求しすぎず納期を守ってくれさえすれば文句は無い。
その理由は次項で話そう。
原画担当が演出指示に従って構図とキャラ等の位置関係等を下描きする工程。
最近では3Dモデルを使ったレイアウトを制作会社が用意して、その上に作画担当が描くパターンもある。
出来上がったレイアウトを演出担当が指示通りに描いてくれているか、
もしくは気が変わったからこういう風に直してくれという指示を挟む。
あまりに酷い上がりだったらこの時点でリテイク指示して作画に差し戻し、もしくは制作進行にブチ切れる。
演出の指示がしっかり作品の雰囲気や世界観に沿っているか確認する工程。
監督が演出を兼任している、監督の業務負担が重すぎる、演出の力量が高い、などの時には
作画監督(作監)が②③の工程で出た修正に加え、絵柄の統一を図る。
基本的に①で出てくる上がりは作監以上のクラスの人間が描かない限り、全く絵柄が作品に合っていないパターンが圧倒的に多い。
というか原画担当にキャラクターデザインの通り描かせたら時間がかかってしょうがないので、
総作画監督(総作監)がキャラを大写しにしていたり、動き方が大事なカットを修正する。
これに関しては、必要最低限なカットだけを修正させることで、総作監の業務負担を減らすことになっている。
④もしくは⑤の工程が終わった戻しのカットを、基本的には①の作業者が清書する。
演出、監督、作監などのメインスタッフが起用NG出したり、作業者のスケジュールが合わないなどの場合は、
別の作業者を制作進行が第二原画担当を探してお願いすることになる。
エンドクレジットに出てくる第二原画はそういった「レイアウト作業者の尻拭いをしている人」という認識でいると良い。
上がった原画がしっかりレイアウト修正を反映しているか演出がチェックする。
問題なければ、動画検査に回して動画会社や社内動画に描いてもらう。
これでも直っていなかったら作監にまた修正をお願いすることになる。
細かい工程は少し省いたが、一覧で見てみてもご推察いただけると思う。
上がりが上手ければ上手いほど、③~⑦の工程で省ける箇所が増えるのだ。
その省ける工程のおかげでアニメ制作がスムーズに動き、それができる作画担当はアニメ業界において重宝され、
貢献度に応じて対価が支払われるようになる。
作画担当のそうした活躍は拘束費の引き上げ、作監以上への格上げ、更には演出や監督デビューにも繋がる。
中にはずっと絵を描いていたいということで、生活が少しくらい苦しくても作画のままでいるアニメーターもいたりはする。
ここが前項で述べた「クオリティを重視し過ぎなくても良い」と言った理由だ。
昔のアニメに比べて、今の時代のアニメだからこその進化がある。
出来上がった作画に光の陰影だとか、無機物ののっぺり感を抑える処理。
これを撮影班や美術担当が加工することで立体的でリアリティや臨場感を与えてくれる。
『鬼滅の刃』を制作したufotableが、自分が思うにこの技術力は随一だと思っている。
あそこは動画については、海外の動画会社に撒いているので動画枚数にこだわりがあるというわけではない。
その分、撮影や特効によってリアリティのあるごまかしで、キレイな上がりになっているように見せている。
少し話題は変わるがtwitterのTLを巡回していたときに「あの作画やべえええええええ」って3Dモデルが動いているだけのカットを
絶賛していて、アニメ観ている人ってその程度の認識でしかないよなあって少し落胆してしまった。
演出助手になっても、制作デスクを担当しても、上がる給料は少ない。
それでも嫁と二人暮らしで、嫁の方もフルタイムで働いていたのでこれまでは問題無かった。
先立つものがなくなる不安で仕事にも集中できなくなり、再度新卒時代に携わっていた国家資格が必要な仕事に戻ることにした。
アニメ業界は、左うちわで稼げるようになるまでの時間が途轍もなくかかる。
特に制作側で入った人間は一層そこに至るまでに苦労を強いられる。
これを詳細に語ると当時を思い出して気が滅入るので、箇条書きで記載する。
・上がりの納期を守ってくれる作画が知り合ったアニメーター数百人中両手で数える程度しかいない。
・今でも当時の罵詈雑言の日々が夢に出てきて真夜中に起きる。
同年代の新卒社員と中途で入った自分とで、自分の方が給料が高い、なんてこともあって
大手の制作会社でも決まった給与テーブルが存在しないパターンがある。
あと、規模さえ考慮しなければアニメ制作会社の面接は驚くほど簡単に通りやすい。
簡単なコミュニケーションや、自分がこれまで経験したことをありのまま受け答えして、
最後の質疑応答でアニメ業界に興味ありげな質問さえしておけば大体通る。
落ちたらよっぽどのコミュ障か、社会不適合者レベルだとも言えるのではないだろうか。
そんな割と適当な業界でもあるので、ある程度新卒で働いてから考え直しても良いと思う。
10社転職してから入った人も居るような業界だし、思った以上に門戸は広い。
それでもアニメ制作会社に入りたいのであれば「アニメが好きなこと」と「アニメを作るのが好きなこと」は違う、
これは肝に銘じておいたほうが良い。
入りたての頃、自分が制作に関わったアニメのオンエアが観れなかったほど、アニメが嫌いになりかけたことがある。
そこを経て色んな感覚が麻痺し始めてから、真のアニメ業界人の一歩だろう。
道のりは前途多難だが、アニメで成し遂げたいことがあるならば健闘を祈る。
異様に温かい人々に飛び跳ねまわる元気すぎる子、憂鬱な感情を持っても周囲に発散しまくってお咎めなしな登場人物。
わけの分からぬ家族の談笑。だけのこの人のウソは美しい。夢を見たい人々には良い酩酊剤として働くのだろう。
実際の宮崎ワールドは風の谷のナウシカの原作に求められるように思う。権力と自分足りの理由に奔走して世界を悪くする人々。ただこの人には一つの抜けがあって、純粋に世界を壊すことを楽しんでいる下らない人間がいることを描いていない。人間は基本的に善性で動いており、成り立ちや理由によって悪になったり悪の如き正義を振るったりするのだ、という発想で描いている。まさかネットストーキングをするような糞がいるなんて想像だにしてない。もっとも人をおもちゃにするような人種を描くことに関して抵抗があるのかもしれないが。多分監督がリベラル左翼だからこその発想なんだろう。
この点高畑勲は妹への恋慕のあまり妹を餓死させてしまう火垂るの墓を淡々と作った。ここにある断絶はなにかといえば、人に対する信心があるか、あるいは人は単なる観察対象かだ。この意味で宮崎と知り合いの押井守はより人に寄り添っていない。彼にとって重要なのは人ではなく形式や構造のように思える。そもそも人間に対する信心という感性そのものが人間らしいという皮肉めいた構造があるように思える。翻って、リベラル左翼という思想は大変構造的だ。それは無機質にすべての人は許容され、すべての人や権力は批判されるべきだというフラットな発想に基づいている。むしろ思想であるからフラットでなくてはならない。実はこうした思想と宮崎駿の人間力は非常に相性が悪いのではないか。
宮崎駿的人間力は非常に理想的で恣意的で、思想的ではない。彼が言う老後の入院生活を描いた絵にはたくさんの欠点が存在する。理想を維持するのに多大なコストがかかる。しかも彼は革命家であったので、スタジオジブリを給料制にして一度は倒産寸前にまで追い込んでいる。宮崎駿が全てを仕組みと制度で考える人間なら人間の不条理もそのまま無感情に描いていたように思う。ナウシカ原作ですら全ては情熱によって動かされれており、無感情なのは墓所の先人たちだけだ(もっともこの墓所の住人は旧癖の形象化だとは思うが)。つまり彼はリベラル左翼的でありながら、リベラル左翼すら鼻白む感性で批判しているのだ。この点でむしろ非常に左翼的なのはアンビバレントな監督らしい。概ねあたっているとする予測でしかないが、インテリ左翼はムスカのように道化として描き、権力も嫌い、同じように抑圧的な共産主義も嫌い、それでいて人間には希望があるべきだという大矛盾の分断された心象を監督は内包していることになる。だからこそ宮崎駿のウソは今でも世界で輝いている。
で「母をたずねて三千里」という文字が出たので語りたくなった。個人的に高畑勲監督の最高傑作だと思ってる。
主人公マルコの親父は医者としては良い人なんだよ。貧しい人からもお金を取らずに診療をしてあげたり、本当に医者の鑑みたいな人間だった。
ただ父親としても夫としては良い人ではなかった。借金のカタに女房をイタリアからアルゼンチンまで出稼ぎに行かせるとかどんな男だコイツは、と今でも腹が立つ。
それでもマルコの母はアルゼンチンに行ってから1年間は働いてたんだよ。それが1年後には手紙が故郷のイタリアに全く届かなくなった。
そりゃお母さんが大切なマルコは心配するよな。ところがあの親父は「便りが無いのは元気の証拠」みたいな事を言ってろくに妻を心配しなかったんだよ。
それどころかもしお母さんが病気にでもなっていたら、と心配するマルコを怒りやがった。テメエがろくに稼がないからそのツケを女房が払ってんのにな。そういやマルコの兄も進学を諦めて働いてたっけか。
知っての通りマルコは最終的にブエノスアイレスでお母さんと再会する訳だけど、お母さんは悪い病気になって死にかけていた。手遅れになる前にマルコが到着した事で何とか気力を取り戻して一命を取り留めた、って感じだった。
良い話なんだけど、これマルコが10歳でありながら無理をしてイタリアからアルゼンチンまで行かなきゃお母さん死んでたんだよね。親父はろくに嫁の心配もしなかったけど、あいつの不甲斐無さと無責任な行動のせいで嫁が死ぬ所だった。
「母をたずねて三千里」は正しく「世界名作劇場」の名に相応しい名作だけど、マルコの親父は今でも大嫌いだ。フランダースの犬のハンスも嫌いだけど、マルコの親父は人格者とか善人的な立ち位置で描かれてるのが本当にムカつく。
40年以上前の作品も多いけど世界名作劇場は面白い作品が多いから見て損は無いと思う。宮崎駿・高畑勲・富野喜幸の三巨匠が同じ回に携わってる事も多いからアニメが好きな人には本当にオススメだ。古典っていいよね。