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2024-08-06

ホント無敵の人だったんだなと

会社更生法について意味深な事を書いてる人が居たけど 関係あるんだろうか

2023-05-27

「過払い」とは何だったのか

https://www.toben.or.jp/message/pdf/230518arktokyo.pdf

ここで言う「A社」とは株式会社DSC、「B社」とは「株式会社Dキャリアコンサル」、「同一人物」とは児嶋勝なる人物のことです。

https://diamond.jp/articles/-/250777

3年前の東京ミネルヴァ法律事務所破産で裏にいたのと同じ会社、同じ人物

首都圏にいると気づきませんが、地方ラジオ新聞は今でもいわゆる「過払い金」の広告で溢れています

その広告を手掛けているのが上記のA社=株式会社DSCを代表とする広告代理店群。

サムライうんちゃんらとかね。名前は入れ替わりつつ、常に数社そういう会社がある。

それらの会社には共通点があります

どれも中心人物が「武富士OB」なんです。

上記の「児嶋勝」氏もそうです。

事業モデルはどれも同じ。

経営基盤が弱い弁護士事務所に取り入る(食い詰めた弁護士を取り込んで事務所を作らせるパターンもある)。

過払いがまだ儲かると吹き込み、地方での相談会を持ちかける。

相談会の広告費は回収した過払い金報酬から払えばいい、と甘いことを言う。

テレビラジオ地方紙等に広告を打つ。

広告を見た相談から電話対応もやってあげる。

相談会の日程、会場(公民館とかが多い)、相談者の予約設定までやってあげる。

弁護士は当日、相談会場に行って相談者に会うだけ。

相談会で受任し、消費者金融会社から過払い金を回収する。

弁護士は、回収した過払い金から弁護士報酬徴収し、そこからさらにツケになっていた広告費用を支払う。

もし支払えれば、ですが。

そのツケが貯まりに貯まって数10億に達して破産申し立てたのが東京ミネルヴァ

破産申立てにすら行き着けずクラッシュしたのがアーク東京です。

アーク東京代表弁護士は元A法律事務所です。

A法律事務所はいわゆる「過払い」の代名詞のような事務所です。

A法律事務所2000年代後半のいわゆる「過払いバブル」の渦中に登場し、瞬く間に47都道府県支店を置くほどの規模に成長しました。

その急成長は代表弁護士(一時期テレビによく出ていた)の手腕によるものだったんでしょうか?

それは甚だ疑問です。

実はA事務所も中核に武富士OB人物がいて、実質的事務所経営を仕切っていました。

過払い金回収の顧客は、要はかつて消費者金融から借り入れていた人です。

どこの誰が、いつ、どれくらい消費者金融から借り入れを行っていたか

その情報に誰よりも詳しいのは、当の消費者金融業者です。

株式会社は2010年9月に会社更生法の適用申請し、事実上倒産しています

それ以前から武富士経営は苦しく、従業員多数が外部に流出していました。

武富士の元従業員が退社に際し顧客名簿を持ち出し、過払い金回収ビジネス活用した。

弁護士業界を潤したいわゆる「過払いバブル」の真相は実はそれだった可能性が高い。

https://hihin.net/?p=6155

武富士倒産については、「計画倒産だったのでは?」という根強い疑問があります

弁護士業界では、武富士といえば「過払い金の支払いの気前がいい」ことで有名でした。

過払い金請求するとホイホイ認め支払ってくれる相手方武富士でした。

会社負債総額を膨らませて倒産を急ぎ、創業者一族はとっとと資産を持って逃げる。

武富士創業者一族計画にまんまと司法が利用されたのかもしれません。

もっと弁護士は儲かったので、ウィンウィンでいいのかもしれません。

武富士倒産当時、過払い金の影響で次に潰れる消費者金融大手はどこだ、と言われていました。

ところが結局、その後は大手はどこも潰れていません。

プロミスにせよ何にせよ、大手銀行の傘下に入りピンピンしています

その間、過払い金請求はずっと続いていたのに。

結局、消費者金融は儲かるんです。

昔のように年利40%とかは取れなくても、年利20%でも十分ビジネスとして美味しい。

から過払い金という負債を物ともせずどこも今も消費者金融業にまい進しているんです。

過払い金に手を出したのはA法律事務所東京ミネルヴァアーク東京だけではありません。

当時、驚くほど多くの弁護士が過払いビジネスに参入していました。

過払いビジネスには、

・広く顧客を募る広告出稿業務

広告を見た顧客から電話をさばくコールセンター業務

相談実施する相談業務

消費者金融との交渉業務

過払い金の回収と顧客への返金業務

など雑多な事務作業必要です。

これらを弁護士自力で用意したのでしょうか?

そうは思えません。

弁護士ペーパーテストを頑張った秀才がつく専門職であり、事務作業は概して得意ではありません。

それらの事務作業をやってあげたのは、実は上記DSCを始めとする武富士OBだったんじゃないのか。

弁護士業界の過払いバブルとは、実は武富士OBに利用されただけじゃないのか。

そう疑っても不合理とは思いません。

もちろん、過払いバブルで潤った弁護士と、上記東京ミネルヴァアーク東京には大きな違いがあります

前者は実際に儲かり、後者は儲かるどころか大惨事です。

でもそこに質的な差があるとは思えません。

まだ過払いが美味しい時期に参入し、うまく立ち回り、さっさと撤退した前者。

旨味が薄れた時期に今さら参入し、儲けることもできず、あげくに大事故を起こした後者

その違いは、要は上手くやったか否かだけです。

やったことは別に同じです。

過払い回収業務への規制はどんどん厳しくなっていましたから、むしろ前者の方がヤンチャしていた可能性すらあります

というか、実際そうだったはずです。

冒頭のA社こと株式会社DSCと取引があった弁護士は、東京ミネルヴァアーク東京だけではありません。

もっとたくさんの弁護士取引をして、渋谷キレイオフィスを構え、キレイなお姉さんを多数雇っていました。

まずはDSCはじめ武富士OB自称広告代理人弁護士業界全体として食い込まれいたことを認める。

その事実を広く知らせ、業界内外に危険性を伝える。

アーク東京懲戒処分はもちろん妥当ですが、もっと根深問題として取り組むべきだと思います

2020-11-24

三菱UFJユナイテッドオーシャンの癒着は無かったことになったのか?

今日付の日本海事新聞記事ユナイテッドオーシャングループの子会社グループ会社から破産を申立」を読んで、「あのグダグダ劇はまだ続いてるのか」と少しばかり感心した

ユナイテッドオーシャン(以下UO社)を聞いてピンとくる人はあまりいないだろう インド人社長が一代で大きく成長させた国内大手船主会社

なんでインド人日本で船主業を営んでいるのかは謎なのだが、この会社2015年冬に会社更生法を申請した

まず船主について簡単説明しておこう

大手オペレーター日本国内でいえば日本郵船とか商船三井とか)は荷主からの依頼を受け船を手配する

オペは自社船も保有しているが全て自社で抱えるのはリスクが高すぎる(海運マーケットボラティリティが高い)

そのため船主に船を保有してもらい、オペレーターは船主との間で用船契約を結んでその船を使うというスキームを取っている

これにより海運マーケットが低迷した場合には、違約金を払って船主に船を返すという選択可能となるわけだ

話をUO社へ戻そう UO社は2015年会社更生法が適用された 負債総額はグループ全体で1400億円にものぼる

UO保有船舶38隻は全て日本郵船に用船されていたのだが、なぜ新興船主であるUO社が国内大手日本郵船とここまでの取引拡大が図れたのか

答えは恐らく「日本郵船に対する過度な接待プラス「破格の用船条件」であったと思われる

UO社の用船条件は期間10年、当初3~5年は固定用船料でその後はインデックスリンク(市況連動)であったとき

こんな条件ならオペは大喜びで船を借りてくれるだろう 通常用船料は固定が一般的

そうでなければマーケットリスクを全て船主が負うことになるし、そもそも用船料が変動では返済出来るかどうかが不明なので銀行融資がおりない

ではなぜ三菱UFJはこのような用船条件で巨額の融資を実行したのか

答えは恐らく「三菱UFJ銀行に対する過度な接待プラス銀行自身ノルマ達成のため」であろうと思われる

三菱UFJ銀行側も社内調査により「新橋支店担当者等が銀座高級クラブでの過度な接待要求していた」ことを事実として認めている

しか問題なのはそれよりもむしろ担当者が偽造された用船契約を看過しUO社に対する融資を実行してしまたことにある これは紛れもなく背任行為

三菱UFJ側は「書類の偽造はUO社が行ったこと」としているが、本当にそうだろうか

UO社長は「銀行から“これでは稟議承認されない”と指示されて偽造した」として三菱UFJ銀行裁判で争っている

エビデンスの偽造に手を貸し(あるいは看過し)融資を実行して数字を伸ばす

あれこの構図どっかで見たことあるぞ、そうスルガ銀行かぼちゃさんの一件と全く同じ構図である

裁判では「三菱UFJは偽造を知り得る立場にはなかった」という結論に至りつつあるそうだが、客観的に見れば「おかしいなとは思いつつも成果のために見逃した」が正解であろう

見逃すことで銀座の高級クラブで豪遊することが出来、私腹を肥やすことができる

しか船舶向け融資は1隻あたり30~40億円と巨額なので自身評価も上がる

(上場企業向けなら数十億~数百億の融資があるが金利死ぬほど安いので儲からない

船舶融資場合相応のスプレッドが取れるうえ、米ドル建てが基本なので外為取引スワップ契約等でも収益が抜ける)

等々のメリットがあったので目を瞑ったのであろうが、良くて善管注意義務違反、悪ければ背任を問われても仕方ない

なのにそこらへんの話は一切触れず「自分たちは騙されたんです!」とだけ言い張る三菱UFJはどうなんだろうねと考えた 本当にちゃん社内調査したの?

2020-08-19

モーリシャスやらかした長鋪汽船ってどんな会社だろ?ってググったら出てくる画像ってちょっと大きな田舎の家じゃん

事故リスクをこんな民家が本社会社押し付けてる商船三井って

事故やらかしても会社更生法を申請すればノーダメフィニッシュですって目論見なの?

2020-08-01

年表(近現代)2

戦後占領バブル崩壊

1945-09-10 国共内戦

1950-06-25 朝鮮戦争

1950-08-10 警察予備隊設置(後身は陸上自衛隊

1951-09-08 日本国との平和条約サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

        (日米安保条約)調印

1952-04-26 海上警備隊設置(後身は海上自衛隊

1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効

        日本占領状態が終了し、独立国

1952-08-05 日本国と中華民国との間の平和条約発効

1952-10-15 警察予備隊保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1953-03-05 スターリン死去

1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催

         (於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーホテル

1954-06-01 保安隊臨時松島派遣隊編成

1954-07-01 自衛隊法施行自衛隊成立)

        陸上自衛隊保安隊から改組)、海上自衛隊海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置

1954-12   高度経済成長1973年10月まで)

1955-11-15 自由民主党成立(保守合同

1955年11月  1975年4月30日 ベトナム戦争

1956-07   昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)

1956-12-12 日ソ共同宣言発効

1956-12-18 日本国際連合に加盟

1958-08   大躍進政策

1960-06-23 新日安全保障条約発効

1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。

1962-10-15 キューバ危機

1963-11-22 ケネディアメリカ大統領暗殺

1964-08-02 トンキン湾事件8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)

1964-10-01 東海道新幹線開業

1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年1024日まで)

1966-05-16 無産階級文化大革命文化大革命)(1976年10月6日まで)

1971-01   世界経済フォーラムダボス会議を開催)設立

1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)締結

1971-07-15 ニクソン訪中宣言

1971-08-15 ドル・ショック

1971-12-18 スミソニアン協定

1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)

1972-09-29 日本政府中華人民共和国政府共同声明

1973-10-06 第四次中東戦争

         勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。

1973-10-21 日米欧三極委員会の初会合(於東京

1975-04-30 ベトナム戦争終結

1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)

1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印

1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効

1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱

1985-09-22 プラザ合意

1986-12   バブル景気1991年2月まで)

1987-10-27 1987年大韓民国国民投票

1987-12-08 中距離核戦力全廃条約INF条約)発効(2019年8月2日失効)

1989-01-07 昭和天皇崩御元号昭和から平成に改められる。

1989-04-01 消費税導入(当初は3%)

1989-06-04 六四天安門事件

1989-12-03 マルタ会談終了(冷戦終結

1989-12-29 日経平均株価取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。

1990-03-27 総量規制バブル崩壊の始まり

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現代バブル崩壊パンデミック

1990-10-03 東西ドイツ統一

1991-01-17 湾岸戦争

1991-12-25 ソ連崩壊

1993-07   衆院選自民党が敗北し、非自民連立政権誕生する(55年体制終焉

1993-11-11 欧州連合条約マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)

1995-01-17 阪神淡路大震災

1995-03-20 オウム真理教による地下鉄サリン事件

1995-11-23 Windows95日本国内で発売される。

1997-04-01 消費税率が3%から5%に上がる。

1997-07-01 香港返還

1997-07   アジア通貨危機

1997-11-03 三洋証券経営破綻会社更生法適用申請する)

1997-11-17 北海道拓殖銀行経営破綻公表

1997-11-24 山一證券経営破綻公表

1998-10-23 日本長期信用銀行、破産国有化

1998-12-13 日本債券信用銀行、債務超過国有化

2001-01-06 中央省庁再編

2001-09-11 アメリカ同時多発テロ事件

2003-03-20 イラク戦争201112月15日まで)

2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行

2008-09-15 リーマン・ショック

2009-09-16 鳩山由紀夫内閣総理大臣に指名される(政権交代

2011-01-20 中国国家統計局中国2010年度国内総生産GDP)を発表。

         名目金額日本を抜き、アメリカに次ぐ世界2位になる。

2011-03-11 東日本大震災福島第一原子力発電所事故

2011-05-02 ウサーマ・ビン・ラーディン殺害

2011-10-20 ムアンマル・アル=カッザーフィー殺害

2012-12-26 安倍晋三内閣総理大臣に指名される(第2次安倍政権成立)

2013      世界で、スマートフォンフィーチャーフォンの普及率を上回る。

2014-04-01 消費税率が5%から8%に上がる。

2018-07-06 松本智津夫死刑執行

2019-05-01 天皇譲位皇太子徳仁親王践祚元号平成から令和に改められる。

2019-10-01 消費税率が8%から10%に上がる。

2020-01-16 新型コロナウイルス日本国内における流行開始(日本国内での感染者を確認

2020-01-31 イギリス欧州連合離脱

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wikipediaABCD包囲網」「ハル・ノート」「太平洋戦争の年表」「日本史の出来事一覧」「沖縄県の歴史」「廃藩置県」(順不同)  その他各種記事を参考にした。また、航空自衛隊歴史航空自衛隊)を参考にした。

航空自衛隊歴史航空自衛隊

https://www.mod.go.jp/asdf/about/history/

年表(近現代

関ヶ原の戦い日露戦争

1600-10-21 関ヶ原の戦い

1615-05-07 大阪城落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡

1853-05-23 アメリカ艦隊浦賀沖に来航(黒船来航)

1861-04-12 アメリカ南北戦争1865年5月9日まで)

1865-04-15 リンカーンアメリカ大統領暗殺

1867-01-30 孝明天皇崩御

1867-02-13 睦仁親王践祚

1867-11-09 大政奉還

1868-01-03 王政復古

1868-01-27 戊辰戦争1869年6月27日まで)

1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)

1868-10-23 元号慶応から明治に改められる。

1871-08-29 廃藩置県

1872-10-16 琉球処分琉球藩設置)

1875-06-28 讒謗律太政官布告)及び新聞紙条例太政官布告公布

1877-02-14 西南戦争1877年9月24日まで)

1877-05-26 木戸孝允死去

1878-05-14 紀尾井坂の変(大久保利通暗殺

1879-04-04 琉球藩廃止沖縄県設置

1888-03-09 ヴィルヘルム1世プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御

        フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝即位

1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝即位

1894-07-25 日清戦争1895年4月17日まで。宣戦布告1894年8月1日台湾平定終了は1895年11月30日)

1898-07-30 ビスマルク死去

1901-01-22 ヴィクトリアイギリス女王崩御

1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)

1904-02-10 日露戦争1905年9月5日まで) 

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日露戦争終結太平洋戦争勃発

1905-09-05 日露両国講和条約ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)

1909-10-26 伊藤博文暗殺

1910-08-22 韓国併合ニ関スル条約調印

1910-08-29 韓国併合ニ関スル条約発効

1912-07-30 明治天皇崩御皇太子嘉仁親王践祚元号明治から大正に改められる。

1914-07-28 第一次世界大戦1918年1111日まで)

1921-11-25 皇太子裕仁親王摂政就任

1922-02-01 山縣有朋死去

1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印

1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効

1925-04-22 治安維持法公布

1925-05-05 普通選挙公布

1926-12-25 大正天皇崩御皇太子裕仁親王摂政)が践祚元号大正から昭和に改められる。

1927-03   昭和金融恐慌

1927-04-05 鈴木商店破綻

1928-06-04 張作霖爆殺事件

1929-10-24 大恐慌

1930      昭和恐慌

1930-10-02 日本ロンドン海軍軍縮条約批准

1931-09-18 満州事変柳条湖事件に始まる)

1932-03-01 満州国建国

1932-05-15 五・一五事件

1936-01-15 日本ロンドン海軍軍縮条約を脱退

1936-02-26 二・二六事件

1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効

1937-07-07 日中戦争1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称

1939-05-11 ノモンハン事件

1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告

1939-09-01 第二次世界大戦ドイツポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)

1940-01-26 日米通商航海条約失効

1940-03-30 中国汪兆銘政権成立

1940     アメリカ、対日石油輸出を制限

1940-09   アメリカ、対日屑鉄全面禁輸

1940-09-23 北部仏印進駐

1940-09-27 日独伊三国同盟調印

1940-11   日本アメリカの各種交渉1941年12月まで)

1940-11-30 日本中華民国間基本関係ニ関スル条約日華基本条約)調印

1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達

1941-04-13 日ソ中立条約調印

1941-06-22 独ソ戦ドイツバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)

1941-07-26 アメリカ在米日本資産の凍結を実施

1941-07-28 南部仏印進駐

1941-08   アメリカ、対日石油全面禁輸

1941-08-28 近衛首相ルーズベルトアメリカ大統領に首脳会談提案(結局、沙汰止みとなる)

1941-11-26 アメリカ日本に対しハルノート提示

1941-12-08 太平洋戦争日本英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)

        1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。

1941-12-16 戦艦大和竣工

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太平洋戦争

1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲東京空襲

1942-06-05 ミッドウェー海戦

1942-07   日本軍、フィリピン全土占領

1942-08-07 米軍ソロモン諸島ガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸

        (ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)

1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官ブーゲンビル島上空で戦死海軍事件)。

1943-05-12 米軍アッツ島上陸5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。

1943-09-30 御前会議絶対国防圏構想を決定。

1943-10-01 在学徴集延期臨時特例(勅令)の公布

1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。

1943-11-22 エジプトカイロ英米首脳会談カイロ会談。26日まで)

1943-11-28 イランテヘラン英米首脳会談テヘラン会談。同年12月1日まで)

1944-03-08 日本軍、インパール作戦開始

1944-04-17 大陸打通作戦(同年1210日まで)

1944-06-19 マリアナ海戦日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋制海権制空権喪失

1944-07   ブレトン・ウッズ協定

1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。

1944-07-18 東條英機内閣総辞職

1944-07-22 小磯国昭内閣成立。

1944-08-02 テニアン島日本玉砕テニアンの戦い)

1944-08-11 グアム島日本玉砕グアムの戦い)

1944-09-11 米軍ペリリュー島上陸ペリリューの戦い

1944-10-20 米軍フィリピンレイテ島に上陸レイテ島の戦い)

1944-10-23 レイテ海戦始まる。

1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29マリアナ諸島より東京を初空襲

1944-12-10 日本軍、大陸打通作戦完了

1945-01-06 ルソン島の戦い(同年8月15日まで)

1945-02-04 クリミア半島ヤルタ英米首脳会談ヤルタ会談11日まで)

1945-02-18 硫黄島の戦い(同年3月22日まで)

1945-03-10 東京空襲

1945-04-01 沖縄戦(同年6月23日まで)

1945-04-12 ルーズベルトアメリカ大統領死去。トルーマン副大統領アメリカ大統領に就任

1945-05-02 ベルリン陥落

1945-08-06 アメリカ広島県広島市原子爆弾を投下

1945-08-08 ソ連日本に対し宣戦布告

1945-08-09 アメリカ長崎県長崎市原子爆弾を投下

1945-08-14 日本ポツダム宣言を受諾

1945-08-15 玉音放送

1945-09-02 日本政府ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争大東亜戦争終結

1945-09-09 日本政府中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結

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戦後占領バブル崩壊

1945-09-10 国共内戦

1950-06-25 朝鮮戦争

1950-08-10 警察予備隊設置(後身は陸上自衛隊

1951-09-08 日本国との平和条約サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

        (日米安保条約)調印

1952-04-26 海上警備隊設置(後身は海上自衛隊

1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効

        日本占領状態が終了し、独立国

1952-08-05 日本国と中華民国との間の平和条約発効

1952-10-15 警察予備隊保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1953-03-05 スターリン死去

1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催

         (於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーホテル

1954-06-01 保安隊臨時松島派遣隊編成

1954-07-01 自衛隊法施行自衛隊成立)

        陸上自衛隊保安隊から改組)、海上自衛隊海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置

1954-12   高度経済成長1973年10月まで)

1955-11-15 自由民主党成立(保守合同

1955年11月  1975年4月30日 ベトナム戦争

1956-07   昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)

1956-12-12 日ソ共同宣言発効

1956-12-18 日本国際連合に加盟

1958-08   大躍進政策

1960-06-23 新日安全保障条約発効

1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。

1962-10-15 キューバ危機

1963-11-22 ケネディアメリカ大統領暗殺

1964-08-02 トンキン湾事件8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)

1964-10-01 東海道新幹線開業

1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年1024日まで)

1966-05-16 無産階級文化大革命文化大革命)(1976年10月6日まで)

1971-01   世界経済フォーラムダボス会議を開催)設立

1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)締結

1971-07-15 ニクソン訪中宣言

1971-08-15 ドル・ショック

1971-12-18 スミソニアン協定

1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)

1972-09-29 日本政府中華人民共和国政府共同声明

1973-10-06 第四次中東戦争

         勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。

1973-10-21 日米欧三極委員会の初会合(於東京

1975-04-30 ベトナム戦争終結

1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)

1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)

1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印

1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効

1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱

1985-09-22 プラザ合意

1986-12   バブル景気1991年2月まで)

1987-10-27 1987年大韓民国国民投票

1987-12-08 中距離核戦力全廃条約INF条約)発効(2019年8月2日失効)

1989-01-07 昭和天皇崩御元号昭和から平成に改められる。

1989-04-01 消費税導入(当初は3%)

1989-06-04 六四天安門事件

1989-12-03 マルタ会談終了(冷戦終結

1989-12-29 日経平均株価取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。

1990-03-27 総量規制バブル崩壊の始まり

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現代バブル崩壊パンデミック

1990-10-03 東西ドイツ統一

1991-01-17 湾岸戦争

1991-12-25 ソ連崩壊

1993-07   衆院選自民党が敗北し、非自民連立政権誕生する(55年体制終焉

1993-11-11 欧州連合条約マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)

1995-01-17 阪神淡路大震災

1995-03-20 オウム真理教による地下鉄サリン事件

1995-11-23 Windows95日本国内で発売される。

1996-03-23 台湾民主化総統民選となる)

1997-04-01 消費税率が3%から5%に上がる。

1997-07-01 香港返還

1997-07   アジア通貨危機

1997-11-03 三洋証券経営破綻会社更生法適用申請する)

1997-11-17 北海道拓殖銀行経営破綻公表

1997-11-24 山一證券経営破綻公表

1998-10-23 日本長期信用銀行、破産国有化

1998-12-13 日本債券信用銀行、債務超過国有化

2001-01-06 中央省庁再編

2001-09-11 アメリカ同時多発テロ事件

2003-03-20 イラク戦争201112月15日まで)

2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行

2008-09-15 リーマン・ショック

2009-09-16 鳩山由紀夫内閣総理大臣に指名される(政権

2019-05-09

anond:20190509101223

ググってこういうのも見つけたぞ。

2008年から民主党政権前だが。

https://www.rengo-ilec.or.jp/seminar/doshisha/2008/12th.pdf

「これまでに実現した主な制度政策」のところ。

年表っぽくするとこんな感じか。

2013-03-27

父が癌になって思ったこと

http://1024.hatenablog.com/entry/2013/03/26/195249

うちの親父も癌になった。発覚時ステージ3で、手術からそろそろ五年経つがいまのところ再発はなし。まぁとりあえず一安心というところか。

最初に見つかったのは歯肉癌。本人気づいていなくてなんか痒いな、腫れてるなということで歯医者に行き、歯医者も炎症起こしてる程度だと思って大きめな病院を紹介しただけだった。その後ふた月くらいは全く危機感がなかったのでほったらかしてた。昔親知らずで異様に腫れたことがあったのでそんなもんだろうと思っていたらしい。で、気づいたときステージ3。リンパにも転移していた。会社の定期診断では大腸への転移の疑いありとも出ていたが、それはシロだった。

この時親父は59歳、3月生まれなので翌年に定年退職の予定だった。

癌だっつーことで速やかに休職。すぐ手術するのかとおもいきや、意外に検査時間がかかるのね。保険ガンガンきいたのと、でかい企業だたので病気での休職などの制度もしっかりしてて、子どもはまだみんな学生だったけどとりあえず困らなかった。

別に嫌な親父だったわけではないが、自分と一番下の妹以外は何故か見舞いに行かず、いろいろ日頃の関係が出るなぁと思ったりしていた。自分はこの時躁うつ治療中&大学院生だったので割と暇ではあった、というのもあるが、手術の立ち会いも自分がいった。母はなぜか切れていてろくに見舞いに行かなかった。病気になるのは本人が悪いらしい…基地外である

手術と治療東京歯科大でやった。総合病院じゃないのに手術とか(リンパの切除もあったし)大丈夫なんだろうかと個人的にはちょっと思っていたが、口腔がんセンターになっているだけに治療スムーズで、特に不安に感じることもなかった。病床少ないので静かでいいし、がん患者が少なく、入院患者もだいたい元気に退院していく(親知らずとかだからね)ので、逆に本人にとってはよかったようだ。病院としてもアレルギーなし、他の病気もなし(昔胃にポリープが出来たくらい)、なんでも食べるしとくに落ち込むこともない親父は割と扱い易かったもよう。

こちらとしては切除した顎やリンパを見せられるのは勘弁していただきたかった。医療系じゃないんだから免疫ないんです。ここが患部だとか言われてもハイそうですか、としか

なお家族の絆とやらはうまれなかった。なのでそんなに感動的な話はない。

一ついい事といえば悲劇のヒロインになったつもりの母親が、親父が最初にかかった歯医者女医さんに「きっとうつなっちゃったのよ!」などと言われ、病院に連れて行かれて今もなおうつ病だとおもっていることだ。もともとボーダーなんだが、薬を飲んでるとみんなちやほやしてくれるのを学習したようで時々貧血が…とか動けないの…などと病弱なふりをしつつもちゃんと薬を飲んでくれている。出ている薬にリーマスが混じっているので、医者はたぶんボーダーであることを把握していると思われる。薬が効いてるおかげか昔より性格が穏やかになった。相変わらず人の悪口は多いが、まぁいじわるばあさん程度だ。

癌は不治の病というイメージがあったが、どちらかと言えば母親のほうが不治の病にかかっているような気がしてならない。

ま、母親は置いといて、当人はそんなに深刻な感じではなかったが、同時期にやはり癌(ただ部位は異なる)になった同僚がいて、その人が焼身自殺した直後だったので、どちらかというと現実逃避をしていたっぽい。えんぴつでなぞる徒然日記とかイラストロジック差し入れを喜んでいた。なんにも考えたくなかったんじゃないかなーと今になると思う。病院暇だしね。

手術直後は気力がなくなったのか、気にしない振りをしていてもやっぱり怖いのか、ボケっぽい症状があらわれて鉛筆でろくになぞれなくなっていたりした。あと算数どころか一から百まで数えるのができなくなった。

会社休職後には元の業務に戻さず新人教育とか、後方支援とかなんとか名目を付けてあまり重要な業務はさせなかったようだ。それでも置いてくれているだけましだと思うくらい、ぼけた。幸い今はボランティアにいける程度には回復している。

あのボケ方をしていたにもかかわらず、定年まで退職勧告をしなかった会社には感謝をしている。ずっと夜勤のある仕事だったが配置転換夜勤をなしにしてその代わり日勤と早朝勤+出勤をタクシーにしてくれたのもありがたい(事故があると困るからだろうが)。退職金も一割減だったけど出たのでその後の治療心配せずにすんだ。でかい企業だったので労組から見舞金もかなり出た。親父が退職したその次の年の年度末に会社更生法を申請しているのでかなり余裕が無い時期だったに違いないが、そういう対応をしていただいたことには本当に感謝している。あの会社のおかげで自分病気持ちだが大学院まで出ることができたし。色々悪く言われているし、問題もあったことは知っているが、でもやっぱり職を奪わず金を払ってくれる存在があるというのはありがたいことだ。

癌は不治の病というイメージがあるし、昔はそれこそ家を潰して治療費にあてなければならないほど治療にはお金がかかったらしいが、実際にすぎてみると「あれ、そんなもんか」という程度ですんだような気がする。しかしこれはうちの親父がでかい企業に勤めてて、その企業が先回りして色々と保険をかけてくれてたりとかしたからだ。これはたぶん幸運なことだったのだろう。幸運ではないかもしれない俺やあるいは俺と同じ世代の人々は、癌になったらまず経済的なところで問題がないかをおさえるべきだと思った。

あと思ってたよりずっと医療は進んでて、患者にはそれほど負担がかからないように医者も日夜研究をしてくれてるんだなぁと思った。一番ネックになるのはたぶん本人の恐怖心だと思う。これは個人の資質にもよるので本当にどうすりゃよいかわからん。恐死の恐怖は肩代わりできないしね。

しかすると恐ろしさのあまりボケるかもしれない。変な宗教にハマるかもしれない。騙されて医療を拒むかもしれない。そういうところに点け言ってくる奴はたぶん必ずいて、それに利用されることは大いに有り得る。出来る限り完治後も継続して安定した生活が送れるように変な情報シャットアウトして、本人の逃避の方向を問題ない方向性に向けてやるしか、周りで見てる人間にはできないんだろうなぁ、なんてことを思った。そゆう意味でも親父は手のかからないひとだった。ありがたい。

2010-08-22

共産党は具体的に何をしてくれたか(あくまで俺の場合

ホッテントリホームレスだけど、失業保険生活保護もサギだと確信した」http://blog.livedoor.jp/roadtoreality/archives/51595839.htmlの※欄やブクマコメに「共産党に行け」というアドバイスが目立つ。一方で「共産党が何をしてくれる?」という疑問や批判のコメもある。実は今から10年ほど前、俺の人生で最もキツかった時期に、一番助けてくれたのが共産党だった。ただし俺の場合、元エントリ主とは事情が違いすぎるので、直接比較はできない。だが具体的な情報はあったほうがいいと思うので、書いておく。ヘタレなんで増田にさせてもらう。

俺は今、個人事業主をしている。その前に二度、サラリーマン経験がある。元は技術屋だ。最初に勤めた会社メーカだったが、そこの経営がおかしくなって、転職した。

二度目の会社は、素人相手にワープロ表計算ソフトを教えるパソコンスクールだった。技術屋崩れの俺には、そんなことしかできなかった。

だがそこは、最初会社以上に酷いところだった。悪徳スクールだったのだ。外交員が繁華街を歩いている若いカモを捕まえて、5時間でも6時間でも軟禁し、100万近い授業料をローンで契約させるまで帰さないという手口だ。

転職した当初はそんなことはつゆ知らなかったが、実態を知るにつれてショックを受けた。こんなところに長居をすれば、必ず破滅が待っていると思った。

事実、ほどなくして特定商取引法が何度か改正され、悪徳スクールはあっという間に世間から姿を消すが、それは別の話だから省略する。

二度目の会社退職するときも、少なからず嫌な目にあったが、それも別の話なので省略する。

起業しようと思った。サラリーマンはもうごめんだと思った。あてがないわけではない。パソコンスクールだったらノウハウを丸ごとパクっている。あれなら個人でもできる。なにも100万などという法外な授業料を取らなくても、個人事業主として生活していけるだけの収入があればいいのだ。

しかし、事業というのはどうやって始めればいいのか?何から手をつければいいのか?当時の俺は何も知らなかった。

思いつくことは何でもやった。

以前に通っていた英会話スクール経営者に、相談に行ったことがある。一度目は「双方のメリットになればいいですけどね」と協力をほのめかすようなことを言ってくれた。二度目に言ったときには、露骨にうざがられた。こりゃだめだと思った。

親切な声をかけてくれた知り合いの50代のおばさんの家に押しかけたこともある。公営住宅だった。当然、何をしてくれるというわけでもなかった。善人というのは罪深いものだと思った。トマトジュースをごちそうになって、帰った。

通りすがり学習塾に、飛び込みで入って「パソコンスクールを始めたいと考えています。授業が空いている時間に場所を貸してくれませんか?」と頼んだこともある。「空き時間はありません」と、きっぱりと断られた。

そんな俺に手を差し伸べてくれたのが、当時、駅前の繁華街に店を構えていた、共産党系の書籍を扱う書店だった。

そこは店舗の他に10坪ほどの小さなスペースを持っていて、そこでビデオ上映会をやったり美術の展示会をしたりしていた。その場所を貸してくれるというのだ。

貸してくれたのはスペースだけではない。パソコンレンタルで揃えるつもりだった。ところが個人では、1台は貸してくれても複数台は貸してくれない。

幸いその書店有限会社法人格を持っていた。オーナーさんに無理を言って、名義を貸してもらった。なんでも後で話を聞くと、登記簿を持って東京にあるレンタル会社本社まで電車で行ってくれたそうだ。

さらに赤旗の日刊紙と日曜版にチラシを入れてもらった。

たまに出入りする程度の、顔見知りというだけの俺に、そこまでしてくれたのだ。

時あたかもITバブル真っ盛り。スタート早々、10台借りたパソコンは連日フル回転となった。これ以上ないという好スタートを切ることができた。

だが何となく「こんなことは長く続くはずはない」という予感がした。俺の人生で、うまく行くことが長続きしたためしはない。

程なく、当時の森首相提唱によるIT講習会というのがスタートした。自治体主催無料パソコン教室である。

当時の政府は、口先では「官業による民業圧迫にはならない」とか言っていたが、現実にはうちのパソコン教室の売上は、一気にゼロ近くにまで落ちた。当時パソコン教室最大手だったアビバは、会社更生法適用を申請している。

しかし俺は、なんとかサバイバルできた。好調な間にも、打てる手はなんでも打った。その中には「2ちゃんねる本の出版」なんてのも含まれている。売れなかったけど。俺が今こうして生き残っていられるのも、そうして打った手の一つが当たったからだ。しかし現時点では、それを書くことはできない。個人の特定につながるからだ。

俺が最初スタートさせたパソコン教室は、もうない。それどころか書店そのものが、今では駅前から姿を消してしまっている。だが俺が生きている限り、共産党以外の政党を支持するつもりはないし、共産党立候補者がいない選挙でも、自民党だけには未来永劫投票しない。

しんぶん赤旗の購読も続けている。毎日のように共産党失業者ホームレスを支援する記事が載っている。元エントリブコメに「共産党が金貸してくれるとでも?」というのがあった。くれるよ!当面の生活費の貸し出しなど日常茶飯事だ。

2010-02-20

親が会社を廃業して離婚するらしい

今朝会社経営していた親父から聞かされた。標題の通りだ。

お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。

家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。

話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。

しかし、自分という人間頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田自分感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。

そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。

今回の倒産は二度目になる

最初に親父の会社倒産したのは中学一年1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。

家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。

その時僕は、ひたすら星新一ショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライト皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。

一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。

そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。

親父が僕の母親結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。

そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社東北関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北社長に祖父が就任、そして空位となった関東社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。

その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビ新聞カメラの前で、親父は深々と頭を下げた。

その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。

祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカ会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。

初めての会社設立

問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。

説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。

よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。

そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。

そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。

そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。

一方の家庭事情

端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。

まず、横浜社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。

自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。

自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理うまい母親だった。

自分にとって、親父はクールデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。

その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。

両親の仲は「当然」1995年会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。

それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。

親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。

そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。

いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。

そして今月、親が会社を廃業して離婚するらしい

父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。

母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。

今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。

色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?

* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?

* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?

* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?

* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?

* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?

* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?

どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。

色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。

ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。

そんなことを振り返る。

ここまで読んでくれた人、ありがとう。

親が会社を廃業して離婚するらしい

今朝会社経営していた親父から聞かされた。標題の通りだ。

お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。

家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。

話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。

しかし、自分という人間頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田自分感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。

そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。

今回の倒産は二度目になる

最初に親父の会社倒産したのは中学一年1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。

家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。

その時僕は、ひたすら星新一ショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライト皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。

一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。

そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。

親父が僕の母親結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。

そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社東北関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北社長に祖父が就任、そして空位となった関東社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。

その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビ新聞カメラの前で、親父は深々と頭を下げた。

その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。

祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカ会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。

初めての会社設立

問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。

説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。

よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。

そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。

そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。

そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。

一方の家庭事情

端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。

まず、横浜社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。

自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。

自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理うまい母親だった。

自分にとって、親父はクールデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。

その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。

両親の仲は「当然」1995年会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。

それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。

親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。

そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。

いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。

そして今月、親が会社を廃業して離婚するらしい

父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。

母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。

今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。

色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?

  • 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
  • いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
  • 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
  • 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
  • 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
  • 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?

どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。

色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。

ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。

そんなことを振り返る。

ここまで読んでくれた人、ありがとう。

2009-10-31

http://anond.hatelabo.jp/20091031174659

検討されていた会社更生法適用なら、運航を継続したまま更生することが可能だよ。

その際に必要になるスポンサーが、外資になるだろうから、それを避けたかったのかもね。

 いまだ、外資を嫌う”庶民”が多い。その”庶民”は、自分税金が、赤字なのに一流企業給料を貰っていたの正社員赤字なのに配当金や航空券をもらっていた株主、そのような経営をしていた経営陣を救うために使われることわかってるのかな?それとも、自分もほとんど乗らないし、多くの人が必要性を感じてない地方空港への運航を、顔もわからないその地方に住むおじいさん・おばあさんのために残してあげたいのかな?自分税金を使って。日本の庶民はやさいいね。

2009-06-08

平松邦夫大阪市長をわけもわからず支持するおバカB層

2ちゃん橋下徹大阪府知事の支持者をB層と名指す人が何故か平松邦夫大阪市長を評価している場合を多々見かけるんですよね。単に民主党で民間出身だから評価しているのかもしれないんだけれど、大阪市民からしたらとんだ勘違い野郎なんですね。平松市長当選以来何やってきたを挙げましょう。

WTCに市庁舎を移転すると公約しながら自ら破棄。しかも同様にWTC府庁舎を移転しようとした橋下知事を批判。

http://www.team-osaka.com/article.php/20071107125547830

 平松「大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC)を最終処理後に市が買い取り、市役所を移し、現市庁舎は近代美術館にする。中之島が一大文化ゾーンになり、人が集まってくる。夢を語れる街にしたい」

橋下知事による市庁舎・府庁舎共にWTC移転する案に対し「両方入れるスペースはない」と反論。WTCに隣接しスペースが有り余っている市の三セクATCへの移転すら考慮しない。

http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/h_osaka/20090606-OYO8T00282.htm

一方の平松市長は前日、WTCへの府市同時移転提唱した橋下知事の発言について、「現実味がない。両方入れるスペースはない」と反論し、蜜月関係だった2人が批判し合う展開となっている。

http://osakadeep.info/13.shtm

大阪市は既にWTCに多数の市の部局・外郭団体を入居させ、「入居率は8割」を占めている。それら部局・外郭団体は、他に入居している民間企業の「2倍の賃料」を三セクに支払っている。そうすることで赤字三セクに多額の税金を投入、破綻を回避することでWTC建設を計画した市幹部や賛同した自民民主公明の各会派へ責任問題が波及するのを回避してきた。住民訴訟でも是正するよう判決で言い渡されたにも関わらず、平松市長は賃料を「たった1割しか減額しなかった」。三セク破綻した方がトータルで見れば市の負担額は減るにも関わらず、破綻させる気はハナから無かった。

http://mihari.exblog.jp/8192643/

入居率が下がる一方のWTC,ATCに、市の部局などが民間の約2倍の賃料を払って、事実上公金による支援を続けてきた問題で、見張り番は、4年前に住民訴訟を提起し、そのなかで裁判所採用による不動産鑑定で高額賃料が明らかにされました。

http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1204097314/

WTC、09年度に破綻の可能性 大阪市

2008年02月27日

 二次破綻(はたん)の危機にある大阪市第三セクター大阪ワールドトレードセンタービルディング

(WTC、住之江区)など2社の再建方法などを探る「市特定団体再建検討委員会」が、WTCについて、

現在の入居率のままでは09年度にも資金が不足し、破綻すると試算していることが、27日わかった。

二次破綻した場合、市には債権者金融機関に最大で約509億円の損失補償をする義務が生じ、

危機的状況にある市財政にとって大きな打撃となる。

 55階建てオフィスビルのWTCの入居率は82%で、テナントは市の7部局と関連団体で

大半を占める。市は今年4月から賃料を8.5%引き下げる方針で、新年度当初予算案に

盛り込んでいる。

 WTCをめぐっては、市が支払う賃料が高すぎるとして、市民団体が過払い分を返還するよう

求めた訴訟が、大阪地裁で6月に判決を迎える。同地裁の鑑定は、賃料が最大で適正価格

約2倍と指摘。敗訴した場合、WTCには多額の賠償責任が生じ、破綻は必至とみられている。

 このため、検討委は入居率を現状に近い80%に設定し、市の賃料について、(1)現行継続

(2)市の鑑定に基づいて8.5%引き下げ(3)大阪地裁鑑定の額、の3パターンで試算した。

 関係者によると、検討委は、予算案通り8.5%下げた場合は09年度に、現行の賃料(月額で

平方メートルあたり4700円)のままでも10年度に資金不足が起きると予測している。

資金ショートを避け、04年の特定調停で成立した返済計画を維持する場合でも、市は多額の

追加負担をする必要があるとしている。

 市は、WTCの再建策や最終処理策について、市によるビル買い取りや会社更生法の適用など6案を

3月中に市議会に提示する方針。

asahi.com関西

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200802270035.html

http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/090124_15.shtml

 大阪市第三セクター大阪ワールドトレードセンタービルディング」(WTC、住之江区)に入居する市の7部局の賃料をめぐり、平松邦夫市長は19日、WTCの仲茂彦社長と会談し、現行より8・5%減額となる1平方m当たり月額4万1300円とすることで合意した。

・平松市長WTCが二次破綻したら債務返済により自治体破綻のおそれがあると主張しているが、その一方市庁舎等の市が抱える優良物件を売却しようとすらしない。現庁舎でなければ市職員の仕事ができない事情でもあるのか?

http://www2.city.osaka.jp/shikai_kensaku/index.html

平成19年第4回定例会(平成19年12月平成20年1月) - 01月09日-02号

 本市財政危機の引き金となった赤字第三セクター、とりわけWTCの最終処理策についてお聞きします。

 現在、WTCに入居している本市部局の賃料が不当に高いとして住民訴訟が提起されており、昨年7月には大阪地裁において賃料鑑定が行われ、本年中の判決が予想されています。仮に賃料が高いとされれば、本市からの賃料が収入の大半を占めているWTCがたちまち二次破綻を起こすのは必至です。その結果、債権者に対し損失補償を行っている本市に多大な財政負担が生じることになり、財政破綻に至る可能性は極めて高いと言わざるを得ません。もはや当事者による経営再建は不可能と判断すべきです。

平成19年12月平成20年1月定例会常任委員会財政総務)-12月26日-01号

太田勝義委員 今お尋ねいたしますと、美術館の箱物には使われていないと、こういうことでありますが、何とか600億の枠を認めてほしいと、こういうことでございますので、それはそれでいいといたしたいと思いますが、問題は、市長が今回選挙立候補されるに当たって、中之島の本庁舎を近代美術館にとの発言が大きく新聞に取り上げられました。全く斬新な発想であり、さすが平松さんだなと、実は私は驚嘆をいたしました。ああ、この発想は私にもできませんし、恐らく理事者もできないでしょう。ゆとりみどり振興局もできないでしょう。

 それと同時に、美術館呼応して、ここのオフィスワールドトレードセンターに持っていくんだということで、向こうを市庁舎にすると、これは実は私も考えたことがあるんです、財政厳しいときにね。それを平松市長がおっしゃったんで、うん、これは私も同じ考えだなと思うたんですが、現実的にどうなんかなと。一般的な政治家であり行政マンであれば、そこまでは考えるんですけども、それを選挙の一つの大きな材料にし、公約と言うていいんでしょうか、マスコミに堂々と発表されて圧倒的な票を獲得されたと。

 私は、この2つの公約は大変タイムリーであり、すばらしい発想だと思います。逆にいうと、それ以外は私はあんまり評価いたしておりません、悪いけどね。いろいろとマニフェストを読ませていただきましたけども、これはあんまり、これで票稼いだなという感じしないんですが、イの一番に評価していたんはこの美術館ワールドトレードセンターへ行くということかなと。しかし、私はどう考えてもいいことだ、すばらしいことだという考えと、果たしてこれが可能なんかどうかということについて、ちょっと私はクエスチョンマークがつくんだがね。

 そこで、ゆとりみどり振興局に来ていただいておりますんで、この本庁舎を近代美術館として活用するとすれば、整備に当たって構造上どんな問題があるのか、果たして幾らぐらいかかるのか、これが一番問題だと思うんですね。いかかでしょうか。

横田ゆとりみどり振興局文化部博物館企画担当課長近代美術館担当課長 お答え申し上げます。

 近代美術館建設用地についてでございますが、1万6,900平米を先行取得いたしておりますけれども、この用地につきましては、国との売買契約におきまして指定用途に供さなかった場合には違約金が生ずる旨の規定がございます。

太田勝義委員 幾らぐらい違約金を払うことになるんですか。

横田ゆとりみどり振興局文化部博物館企画担当課長近代美術館担当課長 違約金の対象となる用地の取得価格の30%、最大の場合30%でございまして、金額にいたしますと約48億円でございます。

太田勝義委員 今の理事者の答弁ですと、48億円を違約金として国に払わなければならない。この本庁舎を美術館にするとすると幾らかかるかわからないと。ましてやエレベーター、その他照明いろいろかかると、二次的な問題がある。果たしてこれ市長は知っててあなたはここを美術館にしようと、そういう構想をなさったのか、知らなかったのかはどうですか。

◎平松市長 お答えいたします。

 先ほど来、市役所本庁舎を近代美術館に、それからWTCを市庁舎にというのを公約だと委員はおっしゃっておりますけれども、私、立候補記者会見をした際に、一番最後に、これは夢ですけれどもと、つけ加えました上で申し上げたことでありまして、今、御質問がありましたような細かいお話を一切知らずに発言したものでございます。以上でございます。

違法に公金が注ぎ込まれた市職員の「ヤミ年金・ヤミ退職金」事件で、違法な公金支出のため職員に対して損害賠償請求しなければならないにも関わらず、関淳一市長の意に反して勝手に「ヤミ年金退職金の公費返還は求めません」と発言して更迭された「森下暁・前市長室長」を、平松市長はあろうことか副市長(助役)に抜擢。

http://ninjax.dreamhosters.com/newsplus/news19_newsplus/1127/1127308679.html

 大阪市関淳一市長は21日、ヤミ年金退職金支出した公費の

一部について返還を求めないと議会で答弁した森下市長室長

経営企画監)を同日付で更迭するとともに、土崎敏夫筆頭助役

辞職を申し出たとして、26日付で辞表を受理する考えを表明した。

 関市長は職員厚遇問題などを受け、弁護士出身の大平光代助役

上山信一慶応大学教授らの主導で市政改革を進めている。土崎氏は

1964年に市に採用された“たたき上げ”の代表格。「外部主導の改革への

反発だろう」との見方も出ており、改革をめぐり亀裂が表面化した格好だ。

 森下氏は16日、市議会財政総務委員会で、ヤミ年金などの財源として

市が支出した公費328億円のうち、未返還の189億円について

地方自治法の5年間の時効が成立している」と答弁。市職員互助組合

連合会に返還を求めない考えを示した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050921-00000224-kyodo-soci

・平松市長就任後に起きた裏金問題で、平松市長裏金がどの部局にいくらあるのかを調査すべく幹部職員に「裏金はありません」と誓約書を書かせた。しかし平松市長が抜擢した森下副市長が誓約書にサイン後、裏金を隠していたことが発覚。それにも関わらず平松市長森下副市長を処分しなかった。裏金は同和対策事業に関するもので、平松市長部落解放同盟に支援を受けていた。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1188822548/686

http://www.mbs.jp/news/kansai_GE080326184700100256.shtml

副市長の出身局で裏金発覚~大阪市

 ウミを出し切ったはずの大阪市裏金がまた新たな部署で見つかりました。しかも、今月就任したばかりの副市長が当時、局長を務めていた部署で、責任問題に発展しています。

 総額2億8,000万円に上った大阪市裏金問題。

 調査の中で、環境局では旧同和対策事業の財団法人への委託費9,400万円余りが裏金化され、このうち少なくとも160万円が同じ事業を担当する経済局に分配されていた疑いが出ていました。

 これに対し、当時、経済局長だった森下副市長が、「裏金はなかった」と誓約書まで書いて反論していましたが、その後の調査で担当者裏金存在を認めたため、その管理責任が問われました。

環境局は『経済局に現金を渡した』と。経済局は『受け取った記憶がない』と。調査にあたっている総務局法務監査室は『記憶がないと言っているのでわかりません』と。誰が考えても納得できるものではない」(自民 多賀谷俊史市議

「調査に取り組む自覚に欠けていたと言わざるを得ない」(森下副市長

反省をしている。深くおわび申し上げたい」(森下副市長

 平松市長は以前から「調査締め切り後に裏金が発覚した場合は厳罰でのぞむ」と話していて対応が注目されます。

(03/26 20:00)

・平松市長選挙で市の連合労働組合「市労連」と部落解放同盟を実働部隊にし支援を受けていたが、選挙期間中その事実を伏せていた。その一方、対立候補だった関・前市長助役上がりの市長だと批判。自ら抜擢した森下副市長の市職員とのしがらみについてはいまだ言及していない。

http://www.sun-inet.or.jp/~yonetaro/doc4.html

初当選の平松氏、苦しいかじ取り必至 大阪市長選  07年11月18日

11月18日23時15分配信 産経新聞

 自公民主の激しい戦いになった市長選は、民主が推薦する平松氏が自公推薦の現職、関氏を破り、初当選を決めた。市長選が公選になって以来、初めての民間出身市長誕生となった。

 市民は、長く続いた助役から市長になる構図を否定し、「民間の目線」を強調した平松氏のフレッシュさを選んだ。職員厚遇問題から不祥事が続いた大阪市の閉塞(へいそく)感が長く行政担当した関氏にとってマイナスにはたらき、逆に元毎日放送アナウンサーで長く夕方のニュース番組キャスターを務めた平松氏を押し上げたともいえる。

 選挙戦は、平松氏の高い知名度と、関市政の市政改革で一定の距離を置く形となっていた市労働組合連合会(市労連)や部落解放同盟などの組織がフル稼働する2面作戦が功を奏した。

http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1195395132/

 平松氏は長年にわたって助役出身者らが市長を務めてきたことが職員厚遇問題などの温床になったとして

「民間から市長を」と訴え、徹底した市政の情報公開を主張。一方で数値目標を掲げて職員削減や歳出削減

進めた関氏の手法を「希望を持てない」と批判し、市役所の職員労組との対話姿勢も打ち出した。


マスコミ報道だけでもこれ程のダメ市長だとわかるのに、バラエティ番組しか見ていない層なのか、宗教的に支持政党以外を絶対悪とみなしているのか、平松市長を素朴に支持しているB層ってちょっと頭がアレだよねえ。

2009-02-11

米国マスコミを成功に導いたビジネスモデル地殻変動的に破綻

  “名門”のNYタイムズとて、新聞媒体として生き残れるのか

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 NYタイムズ経営計画の見直しを真剣に迫られている。

 果たして生き残る道はあるのか、と。

 同社はジャネットロビンソン社長サルバーガー家が筆頭株主で、ボストングローブとインタナショナル・ヘラルド・トリビューンなど高級紙を抱える。

 購読層が比較的裕福で、かつ知識階層であるため07年までは広告収入がよかった。インターネットとU―TUBE全盛を迎えるまでは。

2007年、NYタイムズは新社ビルをNYのミッドタウンに建て、周囲を睥睨した。工事費は6億ドルだった。

98年から2004年にかけては自社株買い。高度成長と広告費ののびを背景に自信満々おこなわれ、27億ドルを投じた。

これが完全に裏目に出た。

2003年にはワシントンポストと共同経営だったインタナショナルヘラルドトリビューンを完全に子会社化するため6500万ドルを投資した。ヘラルドトリビューン依然として赤字である。

この結果、同社は赤字体質が恒常的となる。

09年末に9900万ドル、2010年に2億5000万ドルの長期債務の期限が来る。

短期借入金は、この他に3億8000万ドル。このため新築ビルを売却し、社員を減らし、あいたスペースを賃貸にし、そのうえでメキシコ大富豪カルロス・スリム・ヘルから2億5000万ドルを年利10%の高利で借りてしのぐ。カルロスはすでに同社の6・4%の大株主でもある。

また所有球団ボストンレッド・ソックス」の売却も視野に入れている。

多角経営は負担になってきた時代の変化

米国に限らずマスコミネット時代になって、活字媒体ならびに地上テレビ局は極端に広告が落ち込み、どの企業社員削減、経営効率化、不採算部門閉鎖、ネット部門強化などを打ち出したが、時間的に対策は遅かったのかも知れない。

NYタイムズは、08年売り上げが14・2%のダウン、07-08年で19・5%の減収を記録した。

NYタイムズ社の陣容は1300名の社員と2億ドルの予算米国有数である。しかし近未来の明確な経営ビジョンを描けないのだ。

日本の大手マスコミが参考にしてきた「マスコミ産業」というビジネスモデル地殻変動的に破綻を迎えた。

ネット配信による広告収入はたしかに増大しているが、NYタイムズ全体の、まだ12%をしめるに過ぎず、かといって一旦無料にしたネット配信のニュースをふたたび優良に戻ることは無理がある。

 

 保守の名門・老舗ウォールストリートジャーナルとて、ニューズコープ社のマードックに買収(07年に56億ドル)されて以来、紙面をタブロイド版にし、経済ニュースばかりか社会ニュースを激増させた。

そのうえで、ネット配信ニュース無料とした。理由はネット広告料が増えれば、全体的なメリットがあると計算したからだった。

このような環境変化によりニューズコープは08年第四四半期に64億ドルの赤字に転落した。系列のフォックステレビさえ広告収入が劇的に落ち込んだ。

▲「USAトディ」のガネット社も大変だぁ

新聞大手グループのガネット社は五日間の無給休暇を導入した。

同社は最大手「USAトゥデー」など85の新聞を発行し、23局のテレビ経営、総従業員はおよそ三万人強。全米マスコミ最大である。

無給休暇を2009年1―3月期中の取得を義務付けると同時に、もし休暇取得を拒否した場合にはレイオフ(一時解雇)の対象になる措置をとった。

すでにガネット社は08年12月に傘下の新聞社で約10%の人員削減を決めた。広告収入の大幅な減少が原因である。

にもかかわらず売り上げ減退に歯止めがかからないため、コスト削減を一段と進める。

 一方、会社更生法を申請したトリビューンは、主力の「シカゴ・トリビューン」をタブロイド紙面として、再建を目指す。ただしタブロイド版は、駅売りに限り、宅配サイズは従来通りの方針という。

オバマ大統領地元ミシガン州。その地元大手マスコミ、「デトロイトフリープレス」と「デトロイトニュース」は毎週月曜日から水曜日の配達を中止し、インターネットで配信する方針を固めた。

 両紙は広告が集中する木・金曜ならびに日曜版に配達を限定し、ネット版は無料で閲覧という措置をとった。

デトロイトプレスは発行部数30万部を誇り、全米で20位の有力紙だがビッグスリー(GM、フォードクライスラー)の販売不振など、地元自動車産業からの広告が激減。

かくして米国マスコミ産業は急速に業界の淘汰・再編が進んでいる。

 シカゴ・トリビューンは08年に不動産王のサミュエル・ゼルが買収し、創業家経営支配から脱却、従業員による持ち株方式に切り替えていた。経営の効率化を急ぐゼル会長本社ビルの売却も表明していた。

 ▲雑誌媒体も変身の最中

 雑誌広告収入により成立し、購読料は付け足しである。

 TIMEとならぶ全米週刊誌の雄は、NEWSWEEK(親会社ワシントンポスト)だ。

 ところがNEWSWEEKも、07年末に310万部発行部数と豪語してきたが、09年2月現在、なんと260万部に激減し、09年には190万部、2010年には150万部に落ち込むと予測される。

 定期購読者が120万人、これが同誌の鉄票。駅の売店では4ドル95セントだが、定期購読にすると一部たったの47セント

 NEWSWEEKは、編集方針を変更する意図はないがサイズを変更し、写真頁を増やすという路線変更を考慮中と言われる。読者対象を特化し、豪華な広告を増やしていく方針も漏れてくるが、そんな対応だけで、このマスコミの危機を乗り越えるのは難しいのではないか。

2009-02-05

http://anond.hatelabo.jp/20090205204700

正直未来だけを見て過去を振り返らない方が精神衛生上好ましいな、この会社の場合は。  

ところで、給与債権の場合一般の先取特権があるということになっているが、内定取り消し保証金は支払いを受けられるのかな。

民法第三百六条では雇用関係について生じた債権を持つものは先取特権を有することになっているが、内定取り消し保証金の法的性質をどう捉えるかによって、弁済順位が大きく変わってくる。

単なる見舞金なのか?それとも解約権留保・就労始期付労働契約の一方的な契約破棄に対する一方的な損害賠償に支払いなのか?

特に今回の破綻スキーム会社更生法というのが大きい。別除権も大きく制限を受ける。

そもそも支払い原資などあるのかよ、という問題もある。

本件は雇用内定問題の中では新しい切り口なのでよくわからんね。

  

2007-10-26

やっぱりNOVA

会社更生法までいったか。

そりゃそうだよな・・・

 
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