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はてなキーワード: 牽制とは

2017-07-23

メモ

   米ロの新冷戦は極めて間接的な形で進行する

アメリカモンロー主義では決して無くアメリカ利益になることならなんでもする、あれ

アメリカ外国への武力行使は控えるようになるがその分軍事力に拠る牽制は多くなり、軍事力も増大する?軍事費は抑えられるかもしれないが潜在的戦力は減少しないのは確か

ロシア単独アメリカに対抗することが出来ないため周辺国への影響力の拡大が優先的に行われる、またネット攻撃などの間接的軍事力に注力する恐らくこれは中国も同じ

またロシアは状況の変化により大きな方向性の転換が有り得る、革命は恐らくないが市民の声の完全な黙殺も出来ない

ロシア独裁体制軍事政権化が進展し周辺国への浸透が継続される、ロシア国内での民主化勢力勢力弾圧されるが少なくない影響力を持つ

主に考えられるのがウクライナ中東の新ロシア化と中国への影響力の拡大と大国に対しての自国の有利になるような間接的な形での政治介入継続的実施

しかロシア第一次世界大戦第二次世界大戦ときのような国家戦略の支柱となる特定イデオロギーを持たないため世界的な影響力は限定的ものとなる、が地域的影響力は極めて大きいものとなる


ウクライナ周辺での独、英、仏とロシア

この対ロの方針でもヨーロッパ諸国間の摩擦が顕在化?、独と英は意見対立するEU内でのもう一つの求心点としてフランスが台頭する?……

アメリカの対ロ政策への介入とドイツへの牽制EU平和裏に瓦解する時期を逸した、最終的な結末は分裂か政争かはたまた…… その時イギリスいかなる行動を起こすか……

イギリス欧州以外の対外勢力との結びつきを求める、日本ドイツEU内で主導的立場を獲得しようとするがEU内での大きな反発も起きる

シェンゲン協定欧州委員会 EUのこの二つの仕組みの変化

日本海東シナ海での中、ロと日米 日本アメリカ

中国周辺諸国との衝突、中国国内民主化勢力の動向、ロシアと違い中国は各国と曲りなりも関係性を維持しておりそのため中国国内民主化勢力は様々な対外勢力と結びつきやす

また現状から大勢一般大衆地方権力者とも利害が一致するため無視できない因子となる、中国民主化勢力弾圧は粗雑で性急に過ぎるため逆効果となるかも

日本が各国と強い結びつきを求める、主にアジア欧州との結びつきも?アメリカ日本に対する影響力を弱める政策をとる?

日米同盟は如何なる自体においても双方の国家により絶対に維持される、中ロが存在する限り太平洋の完全支配必要日米関係存在し続ける

日本は国際協調を続ける、9条破棄、右傾化軍事力の増大はあっても積極的対外侵略を行う気は決してない、核を持つこともないがすぐに核兵器に転換可能な準核戦力をもつ可能性は大いにある?

2017-07-17

字画判断は滅びろ

子供ができた。

まれるのはまだ先なので、夫婦間で名づけについてはまだ話し合っていない。

というか、お互い牽制しあっているといったほうが正しい気がする。

なぜなら、自分は「字画なんてまったくもって興味なし。好きな名前を付けたらいい。」という考えに対し、

相手は「字画重要。それに合わせて名前またはつかう漢字を考えるべき。」という考えだからだ。

以前、何気ない会話の中でこのお互いのスタンスを話した。

そのときまだ子供を作ろうとしていなかったので、気軽にこういう話ができた。

ただ、お互い「へーぇ」と言いながら、心の中では引っかかる部分があったんだろう。

その後もたまに話したが、「字画なんてどうでもいい」「いや、字画重要だ」の平行線だった。

でもそろそろこの問題に対して真面目に取り組まなくてはいけない。

あたりまえだけど、わざと悪い字画名前を付けたいわけじゃない。

付けたい名前字画が良ければそれで問題ない。

字画優先順位が下だってことだ。

そもそも字画概念は誰が言い出したのか、根拠は何なのか、まったくわからないのが気に食わない。

(私の調査不足かもしれないけど)

私の中では、血液型占いや、荒唐無稽新興宗教教義と同レベルだ。

字画の本とか、判定するwebサイトかいろいろあるけど、

どこぞのオッサン(おばさんかも、じいさんかも、ねーちゃんかもしれないが)の根拠もない戯言に

なぜ我が子の、大切な、一生を共にする名前ケチをつけられなきゃいけない?

親(自分たち)の考えより、見ず知らずの赤の他人の、根拠も何もない言葉のほうが大切なのか?

の子私たちの子だ。会ったこともない奴の謎理論がなぜ介入してくる。

昔は神社やお寺に行って名前をもらうこともあったとかいうのは知ってる。

だけどそれとこれとは別次元だ。

字画なんてただの画数だ。数字だ。

世の中には、字画妄信して、他人姓名判断までしてくる有難迷惑な奴がいるのもわかってる。

そういうやつに傷つけられないかだけが心配ではあるけれども。

ただ、相手気持ちわからんでもない。

何よりも大切な我が子だ。

理由があろうがなかろうが「悪い」より「良い」方が良いに決まってる。

それでも、何から何まで「最高」にはできないのだよ。

字画のために、読みを、漢字意味を、私たちの想いを犠牲にするのか?

私はそれが我慢ならない。

2017-07-05

https://anond.hatelabo.jp/20170704163355

元増田です。

俺も嫁も軽くげんなりする程度にこういう憐れみに遭遇するからそこら中に居るもんだと思ってたけど、そうでもないんだな。

環境が、あるいは俺の態度が招いてるものなのかな。

じゃあ嫁みたいに最初から愛妻オーラじゃんじゃか出せば同性に対する牽制?になるのかな。

でも普段からよく会う友人なんかはそういう事言う人居ないんだよな。大体あくまで知り合いって程度の距離感の奴にやられる。

外面っていうか、ビジネス用の態度だとそういうのが寄ってくる感じになってるのかな。

尻に敷かれてるアピールとか、そういう処世術っていうのは解らなくもないし否定もしないけど、勝手に憐れんでくるの本当にやめてほしい。

どうせ幸せからって態度に出てもまたやれやれって顔されるだけだし。

あのやれやれって感じが本当にムカつく。水差さないでほしい。しつこいとぶん殴りたくなる。

あとお前に男の楽しみ教えてやるよって態度で女が居る店に誘ってくるのも勘弁してほしい。絶対断るけど。

(これもそもそもお前と2人で出歩くほどお前にも興味ねーよって奴に限って誘ってくる)

愛妻家マジョリティなほのぼの空間に行きたい。ブコメトラバの見た事無いって人達が心底羨ましい。

2017-07-03

再開2か月後の愚痴

https://anond.hatelabo.jp/20170528012818

さて、GWで再開した艦これで、またしても文句を言いたくなったので書き捨てておく。

エアプでとやかく言うのはフェアじゃないけど、それなりに身銭切ってやり込んだ文句は好きに書かせてもらう。


あっという間の2か月だったが、その間に五航戦長門鈴谷と改二にしたところでとうとう勲章が残り2個になってしまった。

そこに来て、昨日鬼怒が演習あと1回で改二改造レベルという所まで到達してしまい、急激にやる気を失いつつある。


艦これ問題点元増田に書いたとおりだが、更に言うなら


どの艦種も万遍なく育てないと、攻略難易度が跳ね上がる


というのを付け加えたい。

MAPルート固定に伴う艦種縛りに、出撃可能艦種制限任務における艦縛りとある現状、好きな艦種だけ育てていると攻略が極めて困難ないし不可能になる。

この場合、育成とは各艦種で強い子をピックアップし、最低でも改二レベルまで育て、関連任務クリアすることを意味する。

そこに来て昨今の改二改造に要求される高レベル、ありゃ一体なんなんだ。

駆逐艦でも大抵Lv70以上、中大艦種だと更に上のレベル要求されるとか、大して興味のない艦種でそこまでのレベリングを強いられるのは苦痛しかない。

改造後の任務も大概エグい。

たとえば空母任務悪名高い二航戦リランカ任務五航戦カタパルト任務自分は航空主兵提督空母スキーだったからやり通せたけど、特に二航戦リランカなんて、好きじゃなかったら絶対投げ出していたと思う。

実際、例の新編三川艦隊5-1任務(元々は鳥海改二のための任務)はクリアできていないし(そして無情にも基地航空隊開放のための一連の任務に組み入れられてしまった)。

更に駆逐艦の改二ラッシュとか、とても手が回らない。いい加減にしろと言いたい。

悪いけど、こちとら

「元々この艦種全然興味なかったけど、○○を改二まで上げる過程で、彼女セリフwikiでその艦の歴史を知り、今では好きになりました。より楽しく遊べるようになりました」

とか本気で思うほど殊勝な人間じゃないし、そういう提督はいっぱいいると思う。

まあアクティブユーザ繋ぎ止めるためとか牧場防止とか色々事情はあるんだろうけど、その結果、今の艦これ


×「育成キャラゲー

○「育成キャラゲーの皮を被った戦略シミュレーション崩れ


という感じである


あと、信濃実装は一体いつ来るんでしょうか?

この運営ツイートから3年半以上経っているのは公然の秘密ですか?

提督になるのをやめた回答者かいらっしゃるんですが(多分こういう人は1人2人じゃないと思う)、もったいない話です。

それとも自分のように信濃育てたらあとは消化試合みたく考えている提督への牽制でしょうか?

2017-07-01

LGBTsであるのはそんなにも悪なのか

 バイ当事者として思う。

 中学生時代、実はその気があるのではないかと気がついてからはや数年がたった。幸いにも生来オツムの弱い俺は自身マイノリティであることを深くは気にも留めず、それより目下のところの悩みは人間関係をうまく構築できないことにあった。

 高校に上がるときに状況は変化した。うまく人間関係が行くよう、仮面かぶることで自分自身を作ってしまえば良いと悟ったのである高校生になるまでそんなことにも気がつかない程度には頭が悪かった。考えてみれば、あたりを見渡すと、みんな真っ白で、まるで自分には負い目がないかのように振る舞っていたのだった。美しい世界だった。互いが互いを牽制し合うことで、負の部分は徹底的に平らかにされ、狭い学園内に、その生態系特有の標準像が形作られていた。もちろん、個々に特徴はあった。しかしそれは決してマイノリティではなかった。それを知った途端、皆がよそよそしくなり、あるいは全力で忌避しだすような。

 まんまと学園の標準像を手に入れ、学園内における人間関係に満足できるようになった俺は、初めてやっと自分マイノリティであることそれ自体直視し、その孤独に深く怯えた。暇ができれば「ゲイ 割合」でググった。ググったところで孤独がどう収まるわけでもないのにね。けれど、動揺は表に出さないようにして、ひたすらに勉学に打ち込み、孤独不安がよぎりながらも結局はマイノリティであることを見ないようにする努力を重ねた。

 大学に入った俺は、Twitterで界隈の情報を知るようになっていた。そもそも自分自身性的志向を隠していたこともあり、いわゆる「お仲間」は一人も知らなかったから、出会人達が本当にLGBTsであることが信じられなかった。

 そこには様々な人が暮らしていたのであって、ウェイ系や趣味謳歌する者、社会人や地味な者が渾然一体として存在していた。それはもう殆ど社会と変わらないのであって、一つ違うのは皆がマイノリティであることだった。彼らは一緒にコミュニティ形成し、つるむことで根底にある孤独を紛らわしているかのようだった。

 そして同時に、ネット文化(淫夢など)やネットでの論調を目にするにつれて、俺にある疑問が浮かぶようになった。

 「LGBTsであることはそんなにも悪なのか」



 一部のLGBTsに対して進んだ国・都市ではPrideを大きなスローガンとして、市民権を得られるような活動が続けられてきた。日本にもPride文化は輸入されたのであって、実際にパレードも行われているし、わりと盛況しているようだ。だけど、違うんだ。そうじゃない。そもそもそれらの国・都市アイデンティティ個性を重視する文化を長い間かけて育んできた。この文化が素地としてあってこそ、LGBTsにかぎらず、他の多くのマイノリティも声を上げることで市民権を得ようとしてきた歴史がある。だからPrideなんて言葉を使うようになったのだろう。

 でも日本はそうではない。少なくとも日本にはアイデンティティ個性を重視しようという文化はない。こんな文化自然発生するものではないのであって、意図的に育んでいくものだ。日本は残念なことに育んでは来なかった。日本において個性尊重しているようにみえるのは、実際には個性見世物にして消費するか、あるいは黙認という形式を取り、なかったことにするかにすぎない。高校時代の美しい世界もまさにその通りで、別に性的マイノリティに限った話ではなく、ひたすら皆が標準像を追い求める一方、標準像として収束される先にも残り続ける、ただひとつの「日本人」という個性の姿や文化といった共有資産が賛美されることに満足を得る人間も出現し始めた。マイノリティに関して言えば、ゲイアイコンとしての「オカマ」や「淫夢」は見世物として消費され、その他のゲイはなかったことにされている。そんな国でPrideなどと言ってみても滑稽なのだ。だからこそ輸入されたコンセプト・スローガンでは対処ができない。


 ゲイ理解されないことの一つに、「自分にも危害が加わる可能性があるから」というのがある。でも、考えてほしい。人が自分好意を持ってくれることは少しも危害ではないのではないのではないかそもそも性的暴力実力行使に出るような輩は、ゲイ理解云々の以前に一定確率行使しようとする。でもそれは、ヘテロ男性の中に女性強姦する人がいるのと変わらないので、ご指摘には当たらないような。

 そして、ゲイのくせにヘテロ男性告白してきたらキモいというのもよくわからない。そのような人たちの中で、告白相手女性レズビアンである可能性を少しでも考え、躊躇した人間がどれくらいいるのだろう。結局、物事はすべてマジョリティが当然のこととして行っていることは当然のことで、同様のことをマイノリティが行おうとして、マジョリティの行動との間に違いが生まれた途端声高に主張し始める。マジョリティは自らの行動を顧みず、棚に上げた上で我々の一挙動を観察する。人から愛を向けられることがそんなに嫌なのだろうか。俺だったら、自分に魅力があるのだと知れて誇らしいことだと思うのに。


 どんな社会を望むのかといえば、答えは明白で、「LGBTsの存在が当然のこととされている」社会だが、まあ無理だろう。こんな世の中じゃ。何か新たなネタが見つかるたびに、徹底して皆が食いつき叩き上げ、消費し尽くす。そこには様々意見が入るものの、結局はネタを消費する手段にすぎないから、意見平行線上をたどったまま、次のネタ、次のネタへと移っていく。誰もが同じ生け簀から出ようともせず、古い水を変えようともしない。食い散らかした餌の破片と糞尿で薄汚れた生け簀の中で、同じ境遇であることに何故か安心感を覚える。そして誰も自分意見を変えようとしない。それぞれが意見を表明し、その意見はどこか遠くへ流されていくのみだ。寛容などとは程遠い。日本の体質自体が変わらないと始まらない。俺だってなにも好き好んでこう生まれてきたのではないのに。


 それにしても、「生物学的におかしい」とか「自然の摂理に反する」とか、「異常」「変態」「公の場には出ないでほしい」みたいな言説は読み飽きてしまった。もう死んでしまいたい。

2017-06-27

インスタントコーヒーの内蓋論争ここに勃発

職場ではコーヒーインスタント)と紅茶お菓子とかが飲み放題食べ放題

紅茶は1パックになっているわけだけど、インスタントコーヒーは1瓶で提供される

新しいインスタントコーヒーを開けるのが喜びで、使い切りギリギリになるといつも社員同士の牽制合戦がはじまる

そこで勝ち残った者が次のインスタントコーヒーの内蓋を開けるんだけど、正直気に入らない開け方の奴がいる!!

なんで内蓋を全部取らずに少しだけ穴開けるの?

全部取れよ!!と思いつつ、敗者には全ての内蓋を取ることは許されていないから1瓶使い終わるまで悶々として過ごす。

どうでもいいけど少しだけ開けた穴に、カップの湯気で少し湿ったスプーンを強引に入れる奴はエロい奴だと思ってる。

穴が広がるだろ!!おぉん?!

2017-06-26

何でバズるんだろう

フィリピン米軍撤退させた結果ミンダナオ島ISに占拠されている、これが不都合マスコミは全く報道しない。

という内容のツイートが2.9万リツイートされているが、中国牽制する為に米軍フィリピンにいる。

ついでにテレビあんまり見ないから知らないが新聞では普通に報道されている。

何で3万近い人達がそれを知らずに調べようともせずにリツイートで回してるのか不思議だ。

バズるツイートは間違いが多い感じがする。

2017-06-12

http://anond.hatelabo.jp/20170612151600

ん?女ってよくやるじゃん。

極端な人を槍玉に挙げて、徹底的に叩き、見せしめに使うことで、少しでもそっち寄りの思考発言をとらせないような対人コントロール

この場合処女厨を叩くことで、それこそ本命も含めた大多数の男たちに、経験が少ないほうが良いという発言思考をさせないよう牽制してんでしょ。

2017-06-11

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2017-06-10

PR問題ヨッピー相手をみて喧嘩をしファンネル飛ばしていたのか

興味ない人向けに、概要を書くのが好きな村民がいた。わたしだ。

興味がない人も、興味がある人も読む価値があるようなエントリーはとてもわたし能力では無理なので、せめてフラット第三者的目線で公平に綴ってみる。

広告記事ヨッピーさんと作成している会社社長2016年に「PRと書くとPVが減るから入れたくない」と正直な発言をした。

そこに id:otsuneが「大きい穴が空いてますよ」と言った。

その社長は、共通の友人から過去に聞いた話だと、とても正直な性格で嘘がつけない人という話だ。

彼は「PRタイトルにつけるとPVが落ちるからつけたくない」と正直な発言をした。

その社長唐突otsuneを名指しで煽りはじめる。

otsuneは「大きい穴が空いてますよ」「ギガが減る」と言った。

するとヨッピーotsuneのイキリ発言と称したスクリーンショットをまとめ

全然知らなかったんだけど、インターネット古参であるらしいおおつねまさふみさんと他の人のページで論争っぽい事になりまして、「イキり発言」みたいなのがだいぶ集まったので「こういうおっさんは本当にどこにでも居るんだな」って思いました。

ヨッピーさんはちょっと私に対する調査が足りないみたいなので」

理論武装できてる?」

「ここに穴があるけど気付いてる?」

シュート質問

(他にも、煽りには同じ強度の文体煽り返す。罵倒には同じ程度の失礼さで論理の穴を付く。などの指針はある)

あたりがお気に入り。カッコ閉じで自分語りしている所なんて最高。

こっちは真面目に話してるつもりなのに「論争のイロハを教えてやったぜ!」的な謎の上から目線が飛び出して来るのはだいぶアレだなぁと思いました。ネット古い人らしいっちゃらしいんだけど。

元ネタはこのへん。

https://www.facebook.com/atsushimiyawaki/posts/1552222478141313

しかし僕も性格悪いなぁ……。

これらを元にヨッピーの支持者達は「ギガ出会い系オフパコオッサン」「髪がギガ薄くて粉をかけてるオッサン」「ヨッピーさんの記事面白いから読んでから批判しろ面白い文句あるなら記事を書いてから言え!ギガおじさん!」と突撃した。

otsuneは「僕はおっさんだけどギガが減るは若者用語なんだけど」と思いながら黙ってた。

ギガが減る」がGoogle関連の世界企業幹部カンファレンスの登壇で使う「一般用語」に格上げされる。

ギガが減る」を知らずに「おっさん」を叩いている側はむしろ若者用語を知らないおっさん」という認知が広まる。

otsuneは「広告業界なのに(若者用語を)知らない人が多くて驚いた」と感想を述べる。

普段と違う戦況に混乱したのか、ヨッピーさんはotsune和解宣言をする。

otsune和解意味がわからず「高速道路を逃げる豚」とヨッピーさんを再度煽る。

すると id:shi3z が突然現れる。そしてヨッピーさんを殴ってマウンティングをしようとしたのだが、ヨッピーさんの支持者からの適切な攻撃としがらみですぐに腹を見せ

「謝ってくれたので良いです」

ヨッピーさんに赦される。

ヨッピーさんはshi3zを謝罪させたという戦果を得る。

謝って頂いたのでこの件はもういいかなと思うんですが、「寄付」は宣言した事だしこの人が社長だった期間は判明したので金額整理した上で近々寄付してスクショあげます

と、未来に再度問題提起を行い、shi3zに反省の機会を提供することを宣言する。

これらの宣言をみたはてなクラスタ人間が、shi3zの敵討ちとばかりに再度ヨッピーさんに凸しはじめる。

ヨッピーさんは

ほらー!!こういう手合いが出てくるんだよー!!!もう勘弁してくれー!!!

と、もう迷惑から絡むのを辞めてくれと、これ以上の参戦を牽制する。

と、ここまでが概要だ。

本題

そして現在表題にある「ヨッピー相手をみて喧嘩をする」エントリーをはじめ、はてな村の村人のヨッピーさんへの厳しい言及が続いているのだが果たしてこれは正しいのことなのか。

このエントリーでは、このエントリーを見るはてな村の村人が冷静な分析をする素材提供をしたい。

まず「相手をみて喧嘩する」についてだが、これは明確にモフモフの誤認なのでヨッピーさんに謝罪をするべきである

「謝ってくれたのでよいです」

ヨッピーさんが赦してくれる謝り方での謝罪お勧めする。

ヨッピーさんが相手をみて喧嘩をしてないのはここまでの経緯を見ても明らかである。shi3zも本来であれば戦闘力の高いレジェンドクラスの村人なのはご存知の通りだ。

ヨッピーファン自分に対して言及する相手へのリプを非常にマメにやるサービス精神を持っている。その際に別け隔てはない。全てを公平に相手をしてあげているだけである

相手を選んでファンサービス喧嘩をしているわけではない。

一方otsuneの件で分かるように、振り上げた棍棒を、どのタイミングで納めるのがもっとも相応しいか、に対して非常にクレバーである

「人を選んで喧嘩をしてはいないが、収束させるタイミングクレバーである

ただそれだけのことなである

ヨッピーさんがファビョっている理由がぜんぜんわからなかったんだけど

ヨッピーさんの対応がどんどん可哀想な展開になっていく。謝れない病がここにも

とここまで言及をしたshi3zは自ら謝ることで身を正した、そしてヨッピーさんはそれを赦した。それだけの心の広さがヨッピーさんにはあるのであるからきっと赦してくれることだろう。

更にはてブTwitter上で検索してもヨッピーさんを擁護する声は非常に多い。

またヨッピー可哀想な人に絡まれる図

律儀に返信してるヨッピー尊敬する。

いい歳のオッサンがモフモフとか名乗ってんの気色悪すぎるでしょ。

相手を見ながら喧嘩するヨッピーさん」みたいに侮辱するタイトルにする必要あったのかなー、、、と思ってしまう。

ヨッピー喧嘩売るにしては力の差がありすぎる感じ。 ヒクソン・グレイシー道場破りに挑んで血だるまにされた安生洋二くらい無謀だ。

ヨッピーさん周りが騒がしくなってるけど、見てると元電通マンとかどっかの意識高い系社長とかわき上がってきて面白いね。共通するのは自己愛の高さ。

ヨッピーに絡まれて注目を浴びたいみたいなヤクザからまれるだけでも疲れるだろうに、その後カスみたいブログ書いてドヤ顔されてるのただただ気の毒でしかないな。小蠅かよ、、、

いかがだろうか。更に続けると

よっぴーまた勝ってたもようw

ヨッピーotsune、 shi3zuあたりのはてブおじさんを薙ぎ払うここ最近の流れ最高にロックなんだけど、よくわかんない人にまで絡まれ始めててかわいそう…

こいつもマストドン持ち上げてるしマストドン持ち上げてるやつ全員ゴミだということが証明されつつある

しつこくすればするほど、『チヤホヤされたことのないオッサンたちのヨッピーへのひがみ』って構図が強まりそうだなー

はてな界隈ヨッピーが憎い人が多いのは理解出来た、あれだけ信者付いたら悔しいんだろうね

なんだこの■■■■とかいキモいオッサン有名人ヨッピーいっちょかみして屁理屈並べてるだけやん。謎のウエメセ煽りまくりの内容だし。そもそもオッサンがモフモフを自称とか超キモいんですけど。

もはやヨッピーさんに自己顕示欲の強い人が群がってるようにしか見えぬ…

ヨッピーの人相手に最高にダセえことしてた人、あらゆる態度が全て最高にダサくて、どこを切り取ってもウワァー最高にダセえ人という気持ちになる

売名が目的場合、いつまても続けたいのでしょう。誠実に対応しても、落とし所がそもそもうからヨッピーさんを疲労させるだけ。

今回の論争の場合ユーザー目線」が議題であったはずだ、であればなおさらのこと

どちらが世間から見ると「悪」でどちらが「錦」なのか、世間ではどちらが勝っている様に見えているのか、みなわかっておいた方がよい。

ここでこんな発言も紹介したい

一部の代表取締役経験のある方々の中でヨッピーさんが「伝説の賞金首」みたいな扱いになって炎上商法活用されてる構図、既視感あると思ったら小学生時代はるかぜちゃんだった。「取り巻きに殴らせるんですね」みたいな捨て台詞まで含めておんなじやで…

まんままっくす村井の構図と思った。

まり世間認識としては春風ちゃんやマックス村井有象無象が群がって批判し、それに勇敢なファンが立ち向かう姿に重なってみえるということだ。

はてな村危機ヨッピーさんに挑むのもいいが、それが結果として多くのユーザーからはてな村の評判を落とすことになっていることは、わたしが皆を代表して謝罪する。

広い心で赦していただきたい。

次にファンネル問題、数で殴る問題であるファンネル飛ばしていたのか飛ばしてないかファンネルが飛んだかどうかは別問題なので

飛んだ事実ヨッピーさんに絡むのは筋違いである

この様なポストヨッピーさんがしたのだからヨッピーさんはファンネル飛ばしたと見ていい。という解釈あくまでも自分の一解釈としておくべきだ。

ファンネルが飛んだだけだ。人の心の中まで人は理解できない。ヨッピーさんが数で殴ってないと言ってるのであればそれに対して謝罪をするべきである

きっとヨッピーさんは赦してくれることだろう。

さて、ここまで書いておけば皆さんもヨッピーさんが相手をみて喧嘩をしたり、ファンネルを飛ばすためのポストツイートをしたと言うのは誤解なのかそれとも真実なのかはわかるだろう。いかがだろうか。

otsuneヨッピーさんの支持者の一人が謝罪をしているのだから、支持者の皆さんに「ギガが減る」という地雷を埋めて恥をかかせて申し訳ないと全員に謝罪するべきだ。

そうすることで、この「PR問題」はヨッピーさんの中で終結する。

岡安モフモフ@アーガイルマストドン

飛んだ先に「○○の提供でお送りします」って書いてあるからって、タイトルに[PR]と書かなくて良い論拠にはならんでしょうよ……みたいな話ですかね。

ヨッピー @yoppymodel

│飛んだ先が冷静だからってタイトルを刺激的に書いて良い論拠にはならんでしょうよ……。「殴ったけどジュース奢ったからチャラです」みたいな理論やんけ……

そもそも「冷静に」とか言いつつちょいちょい煽っとるし…… 頼むよ本当に…

この様な些細なことの揚げ足取りから平和は訪れない。皆ヨッピーさんとその支持者に謝罪するべきである

さて、わたしは年の離れた弟がいるのだが、学生時代津田大介さんや茂木健一郎さんに傾倒し、本までお布施している彼をわたしはてな村独特の感情で冷笑し疎遠になってしまった。

今では彼は社会人になり、たまに食事をする際にその時の話をすると顔を真っ赤にしてくれる程には関係値は回復したが、彼の学生時代の2年間、一緒に遊んだり彼の悩みを聞いたりということは出来なかった。そして、その時間は戻ってこない。

同じような体験は、このエントリーをみた人にはして欲しくないという思いを込めこの内容を登録する。

どうか議論が「広告記事タイトルに[PR]と入れるべきか」に先祖返りしませんように。

2017-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20170606172654

これまで通り自衛権牽制しつつ平和主義

が一番実績があるわけだが

なんで何も問題がないのに変えたがるのかね

まさかあのくっだらない無人島騒ぎくらいで本気で国家防衛危機だとでも思っとるんか

2017-06-04

痴漢をいきなり捕まえて殴ったり警察に突き出す前に、「てめえバレバレなんだよ、見てるぞ。今すぐやめないと突き出すぞ」という牽制ができるといいのに。

被害者女性が睨んだりしてもカエルの面に小便なことも多いようだが、周りで見ている男性ガッツリ睨んだらどうなるだろう。

それが出来るぐらいの精神パワーの持ち主だと、冤罪だったときなんかは、ガンとばしたとばさないで結局殴り合いになっちゃうのかね。

冤罪じゃなくても逆切れする痴漢とか居そうだしなあ。

2017-05-31

http://anond.hatelabo.jp/20170531012412

あーこれ言う。哲学とか文学とか宗教には言わないけど、いわゆる固有名詞に付いてる権威とかヒエラルキーとか金銭感覚とか、そういう世間知的なことには疎くて、右から左スルーしてるから。その割に変なことだけ滅茶苦茶詳細に覚えてたりして、世間相場から外れてる自覚あるので、「ありがちな世間話とか話題の共有とか全然出来ないので、微妙空気が流れる前に自己申告しときます変人すんません。」的な心理で言う。

理系から」じゃなくて「アスペから」と言ってみた方が、自分の言いたいところが伝わるんじゃないかとも思うけど、差別的に取る人もいるかもしれないので言えない。変人自己申告は難しい。

それと理系結構割合の人は、哲学とか文学とか宗教どころか、法律(学)みたいな実学に対しても充分懐疑的だと思うよ。ただ世間の大多数は増田みたいなスタンス(役に立ってんだからいいじゃんとかそれがなきゃ回らないじゃんみたいな、功利主義的なあれ)なのを知ってるから、うっかり口を滑らして機嫌を損ねるコース突入したくないので、その話題とは距離を置きたいのだと思う。そんな牽制してないで嘘も方便で話合わせときゃいいんだけど、それが出来たら理系やってないと思う。

2017-05-30

http://anond.hatelabo.jp/20170530151849

まず、上で煽ったのは俺じゃないか無視してくれると助かる。

  

どこまでのゲームコンボがきつくて、どこからコンボ簡単になって、初心者向けになったのか

  

コンボゲーのコンボ波動拳撃ったり、動かない木偶にジャンプ攻撃>通常攻撃必殺技で締めることよりは難しいよ。

  

だが、波動拳や中足、屈伸で相手の動きを制限しつつ上を見て対空振ったり、

相手牽制空振りを大足で差し返したり、相手意識を地上に誘導した上でジャンプしたりって感じの

実戦で感覚的に掴んでいくことでしか培えないような差し合いゲーのノウハウを身に着けていくよりは、

  

トレモで一人でも練習出来るし、練習の成果が出易く出来たか否かが分かりやすいし、妥協も効くし、

取り敢えず目指すところがあり、覚えてしまえば大きくレベルアップできるコンボゲーの方が初心者向けなんだって話だよ。

2017-05-25

「対戦ゲーム相手絶対に負けない方法を知ってるか?」

当時同級生だったナイジェル(本名吉村。純日本人だ。)は相手ガイルが放ったソニックブーム波動拳相殺しながらそう言った。

ゲームセンターに対戦台といわれる背中合わせに並ぶ2台で同じゲームを楽しむ仕組みが取り入れられ始めた頃のことだ。

相手ガイル遠距離ソニックブームを連打し、近づけば中足払いで牽制するというスタイルを徹底していた。

リュウ竜巻旋風脚ソニックブーム対策になる前のシリーズでは、せいぜい中足払いに対して大足払いで相打ちを取って、ダメージで優位をとるのが関の山だった。

ナイジェルはガイル鉄壁を崩せず、すでに10試合近く負け続けていた。

相殺された波動拳の隙にガイルの裏拳がめり込む。

最終ラウンド、すでに絶望的な体力差だ。

「そんなの知らねぇよ。リュウでも真空投げができるっていうなら別だろうけど。」

適当なことを言ったわけではない。ナイジェルは強豪が集う新宿神保町ゲームセンターにもよく顔を出していた。

ひょっとしたら当時噂になっていたリュウ真空投げをナイジェルは知っていて、これ以上の負けに耐えきれず暴露しようとしているのではないか

隣にあるすでに誰もやらなくなったようなパズルゲーム腰掛けていた僕は、ギャラリー視線を気にしながらそんな淡い期待を胸に言葉を返した。

「いいか見てろよ。」

一つため息を付いてから、何かを心に決めたような真剣な目でナイジェルは言葉を続ける。

「それはな、、、」

画面上のリュウがバックジャンプして距離を取ると、おもむろに竜巻旋風脚を放った。

ガイルはそれを対処しようと冷静にしゃがんだ姿勢を維持している。

僕の目は次に起こる出来事を見逃さないようにと画面に釘付けになる。

しかし、次の瞬間ナイジェルが叫んだ言葉は、僕の全く予想していないものだった。

ゲームなんてルールの中で戦わないことだ!!」

突如として椅子を蹴り立ち上がるナイジェル。呆気にとられる僕を背に対戦台の反対側めがけて走りだした。

ナイジェルは無類のゲーム好きだが、じつは柔道の有段者で部のエースでもある。

腹がたったのはわかるが暴力沙汰はまずい。学校帰りにゲーセンいたことが発覚すれば僕の問題にもなってしまう。

吉村!」

僕は焦って立ち上がり筐体の影に消えたナイジェルの姿を追った。

しかし、そこにナイジェルの姿はなく、サマーソルトキックできっちりとKOされたリュウ叫び声だけが悲しくゲームセンターに響いた。

なるほど。

ナイジェルは負けなかったのだ。

なぜなら負けが確定するより先に逃げたのだから

この翌日から和風な顔立ちの彼はナイジェル(Nigel)と呼ばれるようになった。

その理由名付け親が誰なのかも彼はまだ知らない。

ウルトラスリートファイターII発売おめでとうございます

発売応援意味を込めて、2016年5月20日投稿した増田を再投稿しました。(一部修正

思い出そう!あの時の熱気と狂気を!みんなで再び熱くなろうぜ!

2017-05-21

若手俳優推しと繋がりたいけどつながれない

新規2.5次元若手俳優を好きになってそろそろ半年経つ。

3次元にハマる予定のない2次元オタクで生きて来たから周りも2次元オタクが多い。そんな感じだから周りは2.5次元で盛り上がっていても俳優までは別に…という人がほとんど。

1人で行動するのは慣れてるけどそろそろ同じ推しの人と繋がって楽しみたいなと思うようになってきた。

イベントで誰かと一緒に楽しそうにしてる人見てるとうらやましくなったし。終わった後に良かったね〜とか言ったりしたいし。

はいTwitterを見ても応援スタンスがあわない。

ガチ恋ではないかガチ恋の人の熱量におお…?としか思えない。すごいけどちょっとわからんなって感じ。

からといってめちゃくちゃ推しにお金を注ぎ込んでいるわけじゃないから、すごく応援している人から見られたらド新規お金を落とさないくせにって思われても仕方がない。

デブスだから同担同士で「きれいな人とつながれて嬉しい♥」みたいなのを見ると影で笑われそうだなと思って気が引ける。

そもそも半年しか経ってない新規から古株には目障りと思われててもおかしくない。

イベントも何回か行って楽しかったけど、周りの子の綺麗さや推しに対しての思いの強さや長く応援してる人を見てしまって「自分がここにいるのは場違いなんじゃないか」と思うようになってきた。言われたわけじゃないし牽制されたわけでもない。勝手に気落ちしてる。

生活に響かない範囲お金は落としてる。演技で好きになったから参加する優先順位イベント舞台になりがちなところはある。だからこそ舞台は何が何でも行く。原作知らない舞台でも、興味がなさそうな話であっても。推しの演技が見たいから行く。演技が見れる機会が増えるならお金どんどん落としたい。めっちゃ応援してる!!!!!!俳優活動頑張って!!!!!!!!でもちゃんと休んで!!!!!!って思いながら押しを見てる。

できれば自分と同じ熱量で推しを応援してる人と繋がりたいけど、色々悩みすぎて友だちがいないままになった。

根底にあるものとして、女特有仲間意識感が怖いっていうのがある。

2次元オタクであっても仲間意識はある。2次元オタクですら容姿マウントとかあるから笑う。自分も含めてオタクって時点でどんぐりの背比べなのにそんなんでマウント取られてもって感じだ。それ以外にもマウント取られるものあるけど。

ハブりもひどい。陰口もひどい。やる側にもやられる側にもなりたくない。ただ作品だけを好きでいたくても界隈の人格破綻者のせいで地雷になったものが沢山ある。別に作品は悪くないのに。表立って言わないけど正直自分関係なくても見てるだけで気分悪くなるからやめてほしい。

からこそ、楽しみたいだけじゃなくて自衛意味も込めて顔見知りを作りたい。でも顔見知りを作れる要素を何も持っていない。古株や熱心に追っかけてる人から最近よく見る人」って思われるレベルにならないとダメな気がしてる。それがいつになるのかわからないけど。

まあまずはデブからブスになるところかな。

見た目よくしないと何も始まらない。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

2017-05-17

友達以上恋人未満

友達以上恋人未満な人がいる

LINEで「(異性と)友達にはなれるのに、恋人になれない」って相談をしたら、

「俺はい友達と思ってるよ!」って言われた

わたしは思ってないから、、、

彼女も欲しくないって言ってるし、本当に脈なさすぎてなあ

最近は、仲良くなった(んだかなんだか知らないけど)女子大の子の話ばっかだし

面倒だから「好きなの?その子のこと」って聞いたら

「仲良くなったら好きになっちゃうじゃん」とか言うし!

私の方が仲良しだと思うけど

私の気持ちに気づいてて牽制してんのかなんなのかわからないし

つーか牽制するなら「俺はお前とは付き合えない」っていえば終わるじゃん

それなのに、となりに座ってきたり、LINEはちゃんと返信してくれたり、思わせぶりすぎるんだよー

バーーーーカ

2017-05-12

http://anond.hatelabo.jp/20170512160616

「この人痴漢です!」って言うの勇気いるよね、普通の人なら相手人生メチャクチャなっちゃうって分かるものね、本当に共感する。

自分は一度しか痴漢に遭ったことが無いので、経験不足なんだけど、その時は、満員電車でもなくって、完全に痴漢と目が合う状況だったのね。

で、目が合っても止めないので、さてどうしたもんかと思って、とりあえず、「おい」って言ってみたの。

そしたらその痴漢、突き出されるものと思って可哀想なくらいアタフタし始めて、止めてくれたよ。

パンツ脱がされたとかでは無かったので、結局突き出すことはしなかった。

その時思ったのは、(まあ世の中どんな女性いるかなんて自分には分からないけど)多くの女性は、痴漢人生を終わらせてやることが目的

じゃなくて、触るのを止めさせるのが目的なんだから、腕を掴んで「この人痴漢です!」をやる前に、ワンクッション、痴漢に対する警告を

挟めたらいいなということ。

誰に向かって言っているとはわからない形で、「やめて下さい!!!」って言うとか、声を上げるのが難しかったら、防犯ブザーを鳴らして

驚かすとか。

車内の雰囲気がザワってなるだけで、痴漢犯行を続けにくくなったりしないかな。

そんくらいで止めてくれる生っちょろいザコ痴漢ばっかじゃないだろうけど、今、痴漢冤罪周りは詰んでるから、物は試しっていうのもいいと思う。

車内の人が、ブザーをブーブー鳴らすのを認めてくれる位、一般的方法になったらいいな。

あと、これは無実の人を痴漢認定してお小遣い稼ぐ不届き者への牽制にもなると思うんだよね。

2017-05-01

あなたのこと好きだけど、以前と同じような好きではないの」

そう言われて僕は固まってしまった。

散々愛し合った仲だった。

抱きしめあって許しを乞えばまたよりを戻せるとおもっていた。

別れたいというのは彼女の気の迷いで、誤解が解ければ許してもらえる、いや、いっそ許してやろうとすら思う甘えがあった。

からまり感情の起伏を感じさせない彼女セリフを聞いて固まってしまった。

永遠にも思える沈黙が車内に流れた後

「そっか」

とやっと呟くように返事を返した。

感情では抱きついて泣きついて翻意を促したいのだけれど、理性では彼女が別れたいと思うのは仕方ないと思って、何もできないし感情もうまくあらわせない。

数分くらいどこともない一点を見つめている僕に、きっと彼女は恐怖を感じたと思う。

彼女勇気を出して本音を話してくれたけれど、そのせいで僕らは他人になり、一瞬にしてそれぞれのパーソナルスペースは広がり、閉鎖的な空間を共有するのが息苦しくなった。

僕を愛してくれた彼女はもういない。

情けなくだらしない僕でさえも愛してくれた彼女はいない。

優しさに付け込まれて、甘えられて、そんな僕に嫌気がさして、愛情が磨耗していったのだろう。

僕でさえも自分のことをクズだと思っていたので、もう愛していないと伝えられた時、そりゃそうだ、冷静な判断を下せてやっと彼女幸せになれる、おめでとうとすら思った。

「私刺されるんかな?」

彼女冗談交じりに言う。

長年付き合って一方的に別れを告げるのだから、恨まれる的な常識を元に言ったのだろうけれど、牽制意味が全くないとは思えず、彼女幸せ自分幸せと同一視するくらい大事に思っていた気持ちが伝わらないほどすれ違っていたのかなと無性に悲しくなった。

そして、一生この人を愛しながら幸せを願いたかったけれど、僕がそばにいては彼女幸せは訪れないことを知る。

「そっか、うん、仕方ない。君がそういう気持ちになったなら、どうしようもないね

半笑いのような顔で僕は言う。

冷たく思われただろうか。

あなた幸せを願って、あなた邪魔になりたくなくて身を引いたのだけれどわかってもらえただろうか。

彼女不安がらせたくないし、まとわりついて迷惑がられたくない。

最後から抱きしめて髪の匂いを嗅いで何分も何時間も愛と感謝気持ちを伝えたかったのだけれどそれは無理みたいだ。

あなた出会ってからずっと幸せでした。ありがとう」とだけ伝えて別れた。

そのまま二人の思い出の場所を車で巡ることにした。

もう彼女と会うことはない。

彼女と共にいろいろなことを共有して共に老いていく未来はもうない。

的なことを二日間くらい考え続けて、彼女と何度も来た展望台に辿り着く少し前にやっと涙がこみ上げ、それから栓が壊れたように涙と嗚咽が止まらなくなったので道端に車を止めて泣き叫んだ。

綺麗な景色の先には崖があって、アクセルを踏んで飛び込みたくなったけれど、もしかして彼女の気が変わって今にも電話が来るんじゃないかと思って飛び込めなかった。

それがご都合主義か小心者の言い訳かわからないけれど、自分が情けなくて笑った。

野党選択肢にならないんだけど共謀罪なんかもどうかなあと思う件

に限らず「自民党のその主張に関してはNoと言いたいんだけど野党政権取られて経済ダメダメにされるのも嫌だあ」という意思についてなんだけど、もう、世間にはすっかりITも浸透したことだし「国会議員が10人位(てきとう)連名で政策可否を提案したら、全国民参加ができる投票をする」ってシステム作れないかなあ? 国民投票なので原稿システムも有るんだけど、ITで十分に実行コスト下がってない? 提案したら一定期間特設サイト作って、国会議員グループがそれぞれの主張をPDFで公開するようにしつつで。二週間後に投票とか。法的拘束力はなくても、倫理的拘束力や、与党に対する牽制能力は発揮するように思われる。

なんでこんなこと考えたのかって言うと、「選挙による政権交代」以外の与党牽制方向性、あったほうがいいんじゃない? ってことで。

2017-04-20

町内会の係をやらない程度で罵倒られなきゃいけないんだ。日本死ね

うちの町内会はいくつかのブロックから構成されている。

ブロックはいくつかの班に分かれ、町内会に入っている家庭はどこかの班に属している。

その班の中で毎年持ち回りで班長を決める。回覧板のように隣の家に引き継ぐ感じだ。

数年前。隣の家の奥さんが、来年はそちらです、と言ってきた。

学会信者読経がうるさいし、何かと不愉快なことを起こす家庭で何度か苦情を入れたことがある。

旦那はまともなんだが。

自分病気を患っているからやれる訳ないだろうと言ったら、奥さんがやれませんか?年一回の集金と回覧板を回す位の仕事しかありませんよ、と。

やらないと言ったらやらないと言い追い返した。

こいつには言わなかったが、うちの妻はこいつのような専業主婦ではない。妻も俺も世界有数の企業正社員だ。

それに、妻が妊娠時の自宅安静の際にママ友子供と庭で騒いでいた奴らだ。こいつらのせいでうちには子供がいない。

そんなヤツの言葉を聞けるわけがない。

右隣りの奴が話したらしく、今度はブロック長がきた。こういう老人にはとりあえず敬意を払っておけば満足するから断りを入れた。

うちは共働きで、自分病気なのでやれません。お金は払いますから、と。

それで承諾をもらえたので、うちはやらないで済んだ。うちの左隣の家がやることになった。

この左隣の奴らが非常識

前々からその行動のおかしさを指摘してやっているのに治そうとしない。

仕方ないので、監視カメラで見張る程度はしている。近隣はうちに感謝すべきだ。

ある日、左隣のヤツが、

班長もせずにウソつきやがって。詐欺野郎

罵倒してきた。

「うちの金もらっているくせに何を言ってやがる」

と返した所、そいつの妻が警察を呼んだので警察が間に入ってその場はおさめた。

こんなのに付き合わされる警察がかわいそうだ。

左隣に向けているカメラやそこに入る音声から、左隣のヤツはうちが病気だとウソをついたと思っているのがわかった。病気が見た目でわからないのは当然のだろうし、普通に働くのだってこと何がおかしい?タバコ吸うのがそんなにおかしいか

そもそも、右隣りのヤツにも左隣のヤツにもどんな病気かなんて説明する必要なんてないだろう?

町内会の金は払っているんだ。班長やれば千円の謝礼が出るんだろう?それは町内会の会費から出てるんだろ?俺の金はだろう?

きちんと払ってやっているこっちに文句を言う方がおかしいだろう。

町内会なんてある日本死ね

金は払っているんだ。地域掃除なんて出る必要も係をやる必要もないだろう。

暇人プライバシーなんて話す必要もない。

町内会なんて死ね

専業主婦や老人はどうせ暇なんだ、若い奴らは仕事があっても雑用やる体力があるんだ、そういう奴らにやらせろ。

日本死ね町内会死ね

近隣の安全の為におかしいヤツの家を監視カメラ付けて見張って、牽制して、感謝されるべきなのに、仕事押し付けようとするなんて。

死ね死ね死ね

2017-04-14

http://anond.hatelabo.jp/20170414214931

そう、だからアメリカは先制時に、北朝鮮から牽制の数発をどこかの街か基地に撃たれたことが世界で明るみに出た頃には全部終わってなきゃいけないわけだ

核が横須賀に落ちたことが世界で明るみに出てて、まだ北朝鮮に核撃つ能力を残していたり、残していなくても北朝鮮世界にハッタリプレスリリースます余裕を残していたらアメリカは相当きつくなる

そうならんように仕留めるんだろうけどな

でも、初動で横須賀に核が飛んで来る事態は、普通にあり得ることだ

言ってるのはそこ

横須賀に核撃ったら北朝鮮破滅から核撃つなんてあり得ない」なんてことはない、ってこと

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