はてなキーワード: ルーズベルトとは
University of MarylandのSpace Systems Laboratoryを率いるAkin氏の、宇宙船設計に関する箴言のリスト。 原文はここ:https://spacecraft.ssl.umd.edu/akins_laws.html
含蓄とユーモアに満ちていて理系・とくにエンジニアには刺さると思うのだが、和訳がなかったので翻訳してみた。自分は17、35、そして最後が心に残った。あなたにはどれが響いたか、コメントで教えてほしい。
1. 工学に数字は不可欠だ。数字のない分析は意見に過ぎない。
2. 宇宙船を完璧に設計するのには無限の手間がかかる。だから、どこかが不調だったとしても動作するように設計するのがよい。
3. 設計は反復的な作業だ。必要な反復回数は、今までやった回数プラス1だ。これはいつでも正しい。
4. あなたが設計に最もこだわった部分は、最終設計案においては必ず役立たずとなるだろう。この落胆とうまく付き合ってゆかねばならない。
6. (マールの法則)両対数グラフにプロットし太いマーカーを使えば、何でも線形に見えるものだ。
7. 設計を始めるとき、リーダーに一番なりたがる人間はリーダーに一番向いていない。
8. 自然において、最適点は中庸な場所にあるものだ。極限が最適点であるという主張は信用してはならない。
9. 必要な情報が十分ないことは、分析を始めないでいい言い訳には断じてならない。
10. 疑問に思ったら、推定せよ。緊急時なら、当てずっぽうでもいい。だが、実際のデータが得られたときにそこに立ち返り後始末をすることを忘れてはならない。
11. 時には、全部破棄して最初からやり直すのが一番解決に近いこともある。
12. 正しい答えが一つだとは全く限らない。間違った答えはいつも複数あるものだが。
13. 設計は要件に基づく。要件が求めるよりも少し「良い」設計にすることに正当性などない。
15. (シアの法則)設計の改善点は、主に境界部にある。設計を台無しにしてしまう点も主にそこにある。
16. 以前に似た分析を行った人たちが、当代最高の叡智と直結していたわけではない。従って、彼らの分析を自分の分析よりも信頼する理由はない。彼らの分析を自分のものとして発表する理由は、なおさらない。
17. ある分析が紙の上に書かれていることは、その正しさとは何の関係性もない。
18. 過去の経験は現実性チェックにもってこいだ。だが、現実性ばかり考えていると、ほかの点で素晴らしい設計を台無しにしてしまうこともある。
19. あなたがこの分野のほかの人々よりずば抜けて賢い可能性は非常に低い。分析の結果、終端速度が光速度の二倍になったのなら、あなたはワープ・ドライブを発明したのかもしれないが、十中八九どこかでミスをしたのだろう。
20. 悪い設計によいプレゼンをすると、いつの日か破滅する。いい設計に悪いプレゼンをすると、即座に破滅する。
21. (ララビーの法則)あなたが教室で耳にすることの半分はクソだ。教育とはどちらの半分がそうなのかを理解することだ。
22. 迷ったら、文書に残しておけ(文書化の必要性は、計画が終わった直後に最大になる)。
23. 開発スケジュールは絵空事に思えるものだ──いつの日か、それに間に合わせられなかったかどで顧客にクビにされるまでは。
24. 「仕事崩壊体系」というものがある。あなたが何らかの体系を与えない限り、積み上がる仕事は増え続け、いつの日か崩壊するからだ。
25. (ボウデンの法則)テストが失敗した後で分析を修正して、はじめからずっとくだらないミスをしていたのだと発見するのは簡単なものだ。
27. (ヴァルシの法則)スケジュールは一方向にしか進まない。
28. (レンジャーの法則)無料の発射などというものはない。
29. (フォン・ティーゼンハウゼンのプロジェクトマネージメントの法則)計画の最終的な必要規模を推定するには、予定期間をπ倍し、予定コストの小数点を一つ右にずらせ。
30. (フォン・ティーゼンハウゼンの工学設計の法則)新しい工学システムの設計に最大の影響力を及ぼしたければ、絵を描く練習をしろ。エンジニアたちの作る乗り物はいつも、最終的には初期案のコンセプトアートみたいな見た目に落ち着く。
31. (モーの進化発生の法則)どんどん高い木に登り続けても、月にたどり着くことはできない。
32. (アトキンのデモの法則)機械が全部完璧に動いているときに限って、上役はそこにいない。
33. (パットンの事業計画の法則)乱暴なやり方で今週実行されるよい計画は、来週の完璧な計画にまさる。
34. (ルーズベルトのタスク・プランニングの法則)あなたのいる場所で、あなたの持っているもので、あなたのできることをせよ。
35. (サン・テグジュペリの設計の法則)設計が完璧になったとわかるのは、足すものがなくなったときではなく、取り除くものがなくなったときだ。
36. 凡百のエンジニアは美しいものを設計できる。優れたエンジニアは効率的なものを設計できる。一流のエンジニアは、実用的なものを設計できる。
37. (ヘンショーの法則)計画を成功させる鍵は、責任の所在を明確にすることだ。
38. 「たまたま」新しいロケットを使って行われる探査計画は、事実上、そのロケットの発射計画なのだ。
39. (言い方を変えよう)有人宇宙計画を、現実的な予算・予定通りのスケジュールで進めるための3つの鍵:
1. 新しいロケットを使うな。
2. 新しいロケットを使うな。
40. (マクビランの法則)うまくいくまで、改善することはできない。
41. 何かを正しくやる十分な時間があることは絶対にないが、しかしなぜか、何かをやり直す時間ならいつも十分にあるのだ。
42. 飛行計画がなければ、金がない。飛行計画があると、時間がない。
43. 何かを本当に理解できるのは、それを三度見たときだ。もしくは、それを一度教えたときだ。
44. (ラチャンスの法則)「時間はたっぷりある」は、非常に短い時間で「時間が足りない」になる。
45. 宇宙は一切のミスを許さない。エンジニアのあなたがしくじれば、誰かが死ぬ。自分の分析はほとんど正しかったのに……と言っても、部分点はもらえない。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 なでしこ
・04 インパルス
・05 [3択]『ロッキー』
・09 [近似値]4万5300
・15 利休揚げ/利久揚げ
・16 鈴木敏夫 すずきとしお
・18 YOSHIKI
・19 [ふるさとクイズ][秋田県大仙市]スマイルソーセージ)ハイチーズ
・21 かわぐちかいじ
・22 1(番目
・26 グスタフ・クリムト
・27 [3択]サル
・29 虎(の巻
・30e サザンオールスターズ
俺の思想はこんな感じ
アメリカも共産主義もどちらも大嫌い。でも強いて言うなら前者の方がまだまし
日本にはろくな政党が無いので嫌々一番マシな自民に投票している。決して自民が好きなわけでは無い
憲法改正はどちらかと言えば賛成
原発賛成
安倍の国葬は反対、でも共産、れいわ支持者が顔真っ赤にして発狂するのは正直見てみたい
ウクライナを支持する、でも真珠湾発言や天皇陛下戦犯扱いの件もあり、冷めた目で見るようになった。
太平洋戦争は自衛戦争、東京裁判は一方的なリンチで裁判とは言えない、パール判事を全面的に支持。ニュルンベルク裁判も野蛮な復讐劇
しかし、東南アジア侵略はどうあがいても擁護不可能で同じ日本人として恥ずかしく思う。東南アジア侵略を正当化する人間は心から軽蔑する
東郷平八郎、乃木希典、大山巌、石原莞爾、栗林忠道、樋口季一郎、根本博を尊敬する
東條英機については一方的に悪者扱いされるのは胸糞悪いが、戦前、戦時中の行動が無能すぎるので正直同情できない
ヒトラーは悪く言われすぎ。コロンブス、コルテス、ピサロ、レオポルト2世、ルーズベルト、トルーマン、スターリン、毛沢東、習近平、ポルポトの方が遙かに凶悪なのでそちらを非難すべき
フランス革命は野蛮の極み
女系天皇でも良いと思う
腐女子は死に絶えて欲しい
しかし、たわわに関しては作品も作者も信者も気持ち悪いので今回だけはフェミを支持する
弱者男性は可哀想だけど、女性にも選ぶ権利があるから仕方ないよね。唯一の解決策は各々が妥協婚をやめてこれ以上弱者を産まないこと
黒人については同情的だったが、アジア人へのヘイトクライムを知ってからは冷めた目でしか見られなくなった
ポリコレは嫌い
イスラム過激派がクソなのは言うまでも無いが、イスラム教徒全般を一括りにして叩く奴は知能が低い
韓国は嫌い
外国人に日本を褒めさせるホルホル番組はぞっとするほどおぞましい
これを見てどっちだと思った?
(中央公論平成26年9月号に戸部良一・帝京大学教授が「日本は何のために戦ったのか 戦争の理念と『政治戦』」と題して、大東亜戦争について書いておられます。とてもいいと思いました。
開国以来日本外交は英米という二つのアングロ・サクソン国との関係を基軸に、これら二国との関係を調整することを基本にして、外交政策をつくってきました。東アジアから欧米諸国を駆逐し、自分が東アジアの盟主になるというような政策をとったことは、一度もありません。日本の歴史や外交史を読めば、簡単なことです。
では、「あの大東亜・太平洋戦争は?」 となるかもしれません。「自衛の戦争」と無理してこじつければ、そう言えない部分もないこともないでしょうが、しかし、ろくな外交をしないでおいて、つまり戦争を避けるような外交をしないでおいて、追い込まれ、「ハイ、自衛のためです」の主張には、賛成しかねます。 かと言って、アメリカは完全に日本との外交交渉に誠実であったとはいえません。
極東軍事裁判の判決のようなアメリカの言い分が100%正しいわけではありません。連合国側が広めたこの理屈が世界に流布していて、こまります。かといって、日本が100%正しかったという主張にも、うなずけません。もし、軍部とくに陸軍があれほど政治に横槍をおさなかったなら、日本の外交はアメリカと戦争などをしていないでしょう。中国問題をかたずけていたでしょうし、ドイツとの同盟なども結んでいなかったでしょう。陸軍は自己のメンツのために日本を犠牲にしたのです。
故リチャード・ストーリという有名なイギリスの日本史家は、「日本外交は明治以後優秀であり、軍部が口出ししていなかったら、あんなことにはなっていない」と言っています。こうした国際的規模の大きな誤解のもとは、ナチ・ドイツと日本を同じものとして考えるからです。
日本は中国と戦争をする意思はなく、また昭和12年に偶発し拡大する中国との争いをやめ、中国から兵を引きあげたかったのです。ましてや、アメリカとの戦争などは、ぜひとも避けたかったのです。アメリカもドイツとは戦争がしたく、それゆえ当初は日本との戦争を避けたかったのです。
日本は大いなる野望ともち、まず中国との戦争からはじめていき、やがてその野望達成の必要上ナチ・ドイツと同盟を結び、ドイツは欧州を、日本は東アジア全部を支配するため戦争をした。日本については間違いの解釈をしています。アメリカは正義の保安官で、町の秩序をみだす日本という悪漢を二丁拳銃で打倒したという西部劇です。
専制全体主義国家は暴力と脅迫と大虚偽宣伝にみちあふれていました。日本は違います。)
日本の「鬼畜米英」は戦争が始まってから言い出された言葉で、最初に鬼畜米英の考えがあって、その考えにしたがって政策目標が作られ実行されたわけではありません。国民の間には英米への強い好意がありました。東アジアでは、日本がもっとも英米への好意が強かった国でしたし、今でもそうではないかとと思います。
昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋での偶発的些細な事件では、日本も中国も拡大する意図はなく、そのまま停戦して終わりにしたかったのです。しかし、日中双方の停戦の意図にもかかわらず、拡大し、大げんかになり、ついにアメリカとの戦争になりました。
アメリカとの戦争になるまで、つまり昭和16年12月まで、4年と5か月もあります。アメリカと戦争したければ、もっと早く、対中戦争で体力を消耗するまでに始めています。なぜそんなに待つ必要があったでしょうか。また、もしそうならば、対米衝突を避けるために、日本が提議して日米交渉などする必要もありません。日本は中国全土を占領しようとか、東アジアから英米の勢力を駆逐するというような、大それた考えや予定などもっていませんでした。東南アジアの植民地を解放しようという崇高な考えで戦争をしたのではありません。対米関係が悪化し、アメリカから経済的に締めつけられ、南方の天然資源のほうに眼が向いていったのです。最終的に南方の天然資源確保のために英米仏蘭と戦い、これらの地域から英、仏、蘭を追い払いました。その結果、戦後これらの国々がふたたびその植民地に支配者として帰ろうとしましたが、東アジアの人々の激しい抵抗にあい、不可能になりました。
もし、こうしたことがなかったなら、アジアの国々の解放は、フィリピンは別かもしれませんが、ずっと遅れていたのは間違いありません。
ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」で書いていますが、日本は東アジアにあって他の国々と違う国なのです。理由は歴史的経験の違いです。東南アジアの国々と、歴史上たえず専制国家であった中国とそれを手本とした朝鮮・韓国と、封建制度を発達させた分権的な、しかしながら、統一された社会としての日本という経験の違いがあります。また西洋帝国主義の挑戦にいちはやくうまく応じて独立を維持した日本という違いがあります。また明治以後日本だけ豊かになり、敗戦後もいちはやく日本だけいちはやく復興しそのうえ豊かになった日本という違いがあります。また戦後一時的な占領をのぞくと、西洋諸国の植民地になったという経験ももちません。ヴェトナム、インドネシア、ビルマなど、植民地になった国々と人々がどんなにみじめな政治や生活を強いられたかという、経験をしたことがありません。
日米交渉において、アメリカから経済的に締めつけられと書きましたが、こう書くと、「じゃあ、悪いのはアメリカだ」という意味でもありません。そこには交渉過程における相互のやり取りというものがあります。アメリカとしては、そうでなかったら取りにくかっただろう強硬な手をうつことができたからです。
イギリス、フランス、オランダとしては、日本に負かされ、かつ植民地を失い、大変不愉快だったでしょう。
なお、日本は南方の天然資源確保・・・といいましたが、ナチは東欧とソ連に一方的に襲いかかりました。日本はそんなことしていません。万一アメリカからの資源買いつけに支障が出た場合にそなえて、事前にオランダと商業ベースでの購入をのぞみ、交渉をしています。この交渉はまとまりませんでした。
万が一のインドネシアへの進出のため、また英米の中国援助の道を封鎖するため、フランスとはヴェトナムへの進駐を考えて交渉します。この交渉には軍事的圧力をちらつかせ貫徹しますが、これにたいしアメリカは石油の輸出禁止と在米資産の凍結という厳しい手段でこたえます。このアメリカの予想外の反応に近衛はびっくり仰天。そこでルーズベルト大統領との直接会談を提案します。それは軍部が対米交渉の障害になっているから、軍部の頭越しに話し合い、交渉をまとめよう考えたからです。この直接首脳会談には、アメリカはハル国務長官などが強く反対し、この提案を拒否します。
さて日中戦争ですが、これが中国で拡大し、英米との雲行きがあやしくなり、対決を避けようとして、対米交渉を提議し、日米交渉がワシントンで開始します。その交渉がまとまらなかったのは、日本にも大きな責任があります。しかし、「それは日本だけの責任だ。アメリカは悪くない」と一般に考えれていますが、これは大間違いです。ハル国務長官の態度にもみられるように、アメリカにも大きな責任があります。ハル国務長官には、アメリカの学者にも同じ意見がありますが、「だいたい戦争を避けるため、日本との交渉をまとめるつもりがあるのですか」と言ってもいいぐらいのところがありました。
日本は昭和にはいると、右翼的国粋主義の風潮も強くはなりますが、ドイツとは違い、多くの組織が併存しており、どの一つの組織も他の組織を圧倒するとか、ましてや他の組織を滅ぼしていくということはありませんでした。そのときそのときの事情や都合で、ある組織あるいは政治勢力の意見が強まったり弱まったりしていました。日本の場合は、偶発戦が拡大していくにつれ、その戦争遂行上戦時体制ができ、陸軍の要望が聞き入れられていき、陸軍が威張ったのです。決して陸軍は他の組織を吸収したわけではありません。一部の軍事費をのぞくと、法案も予算案もすべて国会を通過しなくてはなりませんでした。そういう意味で国会は機能していたのです。意外だと思われるかもしれませんが、軍部は議会や世論を気にしていたのです。
陸軍に反対したからといって、消されるとか、強制収容所おくりになるということはありませんでした。強制収容所もないし、ゲシュタポなどの恐ろしい暴力警察もありませんでした。日常生活については、もっと具体的なものを当時の新聞とか記録とか小説などで、実際の日本人の日常の暮らしを知る必要があると思います。(たとえば田辺聖子の小説や思い出。向田邦子の小説。芹沢光治良の「人間の運命」も面白い本です。)
日米交渉の難点の一つは、中国からの撤兵問題でした。陸軍も東条も中国から撤退はするが、それには二、三年は必要だと言い張ったのです。ナチと違って、中国全土を占領するとか、中国国民を奴隷化するというような主張は、100%ありません。アメリカは二、三年の期間は不満で、二、三か月の以内の撤兵を主張しました。ここに陸軍の横暴があるのです。すぐ撤退しては、陸軍の印象が悪いのです。負けたようで格好よくないというわけです。
大東亜共栄圏思想ですが、日本が中国全土を占領するとか、中国人を奴隷化するというような考えではなく、日中戦争が拡大したから、その説明の一つとして喧伝されたのであり、日中国民の平和友好といったムードがその本質であり、具体性のないものでした。当時もやはり、日本人は根底に日本人の中国にたいする「シナ(中国)コンプレックス」をもっていたのです。
東条は陸軍の「行進」の先頭で旗をもっていましたが、「俺についてこい」と陸軍を引っ張っていたのでなく、陸軍というおみこし担ぎ運動で、その集団行動行進で、たまたま旗手をつとめていたにすぎません。もちろん、それで得意になっていたわけですが。といって、東条に責任がないわけではありません。
日本の場合、いくら東条などでもある一定以上の文化・教養があったわけです。それを、ナチも日本も一緒にしてもらっては困ります。
この教養の差は、例えば敗戦の受けいれかたにも、大きな違いとなって表われます。日本の場合は、これ以上の負担を国民に強いるのはいけないという、コンセンサスがありました。ポツダム宣言の受託については、その内容の具体的な確認とか、「これでは国体が守れないではないか」といった意見の違いで、受諾がおくれただけであり、基本線は敗北やむなしでした。
東条でさえ対米交渉の妥結を希望をしていました。彼は10月中旬近衛に代わって総理大臣になりますが、東郷という、軍部の考えに抵抗した、超ハト派の、言葉をかえれば「強硬なハト派」の人間を外務大臣にして、交渉を継続します。(東郷は昭和20年4月成立の鈴木内閣という敗戦・終戦のための内閣で、外務大臣として、敗戦・終戦のために尽力します。彼は東京裁判では有罪。禁固二十年の判決。)
東条は反英米主義者でもありませんでした。中国との戦争で泥沼にはいってしまい、戦線を縮小する勇気、そこから撤退する勇気、をもたなかったのです。これがため、大事になってしまいました。昭和7年から大平洋戦争勃発までの駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーという人は、知日家、親日家でしたが、日記で「日本人は何か困難があると、(それを解決しようとしないで)回れ右をしてしまう」と書いています。
日本は「勝った、勝った。悪いシナを懲らしめた」という形にもっていけなかったわけです。戦線を大幅に縮小する勇気が必要でした。
中国も内部に大問題をかかえており、また、日本を一方的に大陸から追い出すほどの力をもっていませんでしたし、また、英米もそこまで中国を援助する必要は感じていなかったのです。中国が協定を守らないので困っているという点では、英米も日本と同舟でした。
陸軍は英米と大平洋方面で戦うための軍隊ではなく、大陸での権益を守るため、(ということは、間違いなく、日本の帝国主義的政策と関係しますが)、の軍隊であり、その対象は一貫してソ連でした。
また、よく誤解されることは、「日本は日清戦争とか、日露戦争とか、あるいは満州事変のあとから、大規模な軍隊を中国大陸に駐屯させていただろう」ということです。これもよくある誤解で、昭和12年の日本と中国の偶発的事件が拡大するまでは、中国大陸に少しの軍隊を駐留させていただけです。
矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日〈天保4年4月24日〉 - 1925年〈大正14年〉6月16日)は、日本の女子教育者、社会事業家。
肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児の誕生は歓迎されず、名付け親は10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。蘇峰は明治、大正、昭和にかけての大論客、蘆花は明治、大正の文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。
かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠の弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである。明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。
妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎発東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。
このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎や父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬の農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄からの手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本洋学校生徒35名による花岡山キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳冨蘆花も参加している。やがて熊本洋学校は廃校になり、彼らの一部は、新島襄の同志社に入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。
明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で教育者のマリア・ツルー夫人と運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校の教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。
自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年)築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である徳富久子、横井つせ子、竹崎順子も洗礼を受けている。当時17歳のキリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。
明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理に就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。
明治23年(1890年)、櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となり、初代院長に推される。
明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。
一方、恵まれなかった結婚生活や小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。
楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職は大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年(1925年)6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治、大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。
Wikipediaで真珠湾攻撃の記事を読むと、昔の日本人は無能だったことが分かります。
失敗は他人のせいにして、誰も責任を取らない姿勢は今も昔も変わりがないでしょうか?とても残念です。
https://anond.hatelabo.jp/20220319102718
「リメンバー・パールハーバー」というのは単に「真珠湾を思い出せ」というだけの意味ではなく、人類史上最悪の戦争犯罪である原爆投下を正当化するための合言葉なんだよな。これもまた「犬笛」なんだよ。だから日本人は怒ってるわけ。
東郷から駐米大使の野村吉三郎宛に、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。
「帝国政府ノ対米通牒覚書」は現地時間午後2時20分に特命全権大使の来栖三郎と大使の野村吉三郎より、国務省において国務長官のコーデル・ハルに手交された。
宣戦布告の通知書を相手国に届けるのが遅れてしまい、結果的に奇襲攻撃になってしまいました。
事前に宣戦布告ができなかったので、日本はただの卑怯者になりました。
一事が万事。計画が杜撰だったので最初から失敗。日本が負けるべくして負けた戦争でした。
肝心なところで失敗するのは、やはり頭が悪いからという他ありません。大変残念なことです。
1994年11月20日に外務省は当時の調査委員会による調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開した。
この調査などに基づく通説では、6日夜に大使館員が南アメリカへ転勤する寺崎英成の送別会をメイフラワー・ホテルの中国料理店で行っていたこと、奥村が送別会後も大使館に戻って浄書を行わず知人の家にトランプをしに行っていたこと、奥村の英訳親書の浄書・タイプが遅れたこと、14分割目に「大至急」の指示が付されておらず「帝国政府ノ対米通牒覚書」[257]本文の続きであることがわからなかったことなどが原因であるとされている。(この外務省調査は本来行うべき外務省からの発信時刻を調査対象から外しており、その点に大野は疑念を呈している。)
このような大使館のミスによる失態であるとの通説に対して、奥村とともに責任を問われることがある大使館総括参事官の井口貞夫は生前に「自分の管掌事務ではなく、この対米通告が宣戦布告だとは承知していなかった」と主張していた。
またその息子である井口武夫元ニュージーランド大使も、彼自身の調査研究の結果として外務省本省が負うべき落度を現地大使館に責任転嫁しているとして、奥村書記官を含めて大使館側に失態はなかったと主張している。
真珠湾攻撃の2日後の12月9日には、ポートランドのオレゴニアン紙で、アラモの戦いでのスローガン「Remember the Alamo!(アラモを忘れるな)」を改題した「REMEMBER PEARL HARBOR!(真珠湾を忘れるな)」とのフレーズが早くも登場している。
ルーズベルトが汚名演説で、日本の行為を「恥知らずな蛮行」や「背信行為」と激しく非難するなど、アメリカ政府が真珠湾攻撃を「だまし討ち」と喧伝することによってアメリカ国民の愛国心はさらに高まることとなり、「REMEMBER PEARL HARBOR!」というフレーズはたちまちアメリカ全土を席巻する国民的スローガンとなった。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、アメリカの議会で「真珠湾攻撃を思い出せ」と訴えています。
日本人は、過去の失敗から教訓を得て、同じ失敗を繰り返さないよう賢明になるしかありません。
しかし、アメリカが広島と長崎に原爆を落として、大量の非戦闘員を殺したのは戦争犯罪です。
「REMEMBER PEARL HARBOR!」は「REMEMBER HIROSHIMA!」「REMEMBER NAGASAKI!」とセットで覚えておくべきです。
アメリカが日本に原爆を使ったのは戦争犯罪であるのと同様に、ロシアがウクライナに原爆を使うのは戦争犯罪なのでやめるべきだとゼレンスキーは日本の国会で主張するべきでしょう。
日本の国会における演説では、日本人向けに「核兵器の使用は戦争犯罪である」「核兵器を所持する者、核兵器を使用する者は人類の敵である」と明確に主張してください。
1.コロンブス 4000万人
アメリカ大陸を「発見」しととされる征服者。彼自身インディを誘拐して奴隷として売りさばいたり、略奪を働いた極悪人である。だが、更に凶悪なことに彼の「発見」は白人によるインディオ大虐殺の幕開けとなってしまった。
1.毛沢東 4000万人
無謀な大躍進政策により3000万人以上の国民が餓死。その責任を取って辞任するが、権力欲に負けて文化大革命を起こす。これにより更に1000万人以上が死亡した。
3.スターリン 2000万人
過度の猜疑心と人間不信から自国民1000万人以上を処刑(大粛清)。また、ウクライナでは人工飢饉を起こし、1000万人を餓死させた。
ベルギー国王。コンゴを自らの私有地として所有したが、そこで過度の収奪を行った。税を納められない者は手を切り落とされるなどして殺された。
スペインの征服者。アンデス山脈のインカ帝国を征服し、インディオ1000万人を虐殺した。
スペインの征服者。メキシコ高原のアステカ帝国を征服し、インディオ1000万人を虐殺した。
6.ルーズベルト 600万人
アメリカ大統領。日本人に対して強い差別感情を抱いており、日本を経済的に締め付け太平洋戦争を引き起こした。
7.習近平 400万人
8.チャーチル 300万人
ベンガルで大飢饉が発生した際、首相でありながらそれを放置し、大勢を餓死させた。
アメリカ大統領。フィリピン人にスペインからの独立と引き換えに米西戦争への協力を要求した。戦後、約束を反故にし、フィリピンで大胆なジェノサイドを行った。