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はてなキーワード: 士族とは

2021-04-02

anond:20210402102255

天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずだけど娘は士族しか嫁に出しません!

2021-03-28

anond:20210328204517

明治維新の際の、不平士族みたいな感じ。どっかで暴発しないといいけど。

佐賀の乱とか萩の乱とか西南戦争みたいに。

いっそ暴発してもらって、一掃した方がいいのか?

2021-03-06

anond:20210306114210

⁇「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。だけど、ワイの娘は士族しか嫁に出さんやで。」

2021-02-23

anond:20210220101021

その明治維新の志士たちも、各地方での文化資本があればこそ育ったわけで、ほとんどが藩の首都藩校で学んだ士族でしょ。勉強するのが当たり前であり、びっちり叩き込まれた。また、長じては天下国家に想いを馳せる事が当然という教育を受けていた。さすがにド田舎百姓だとこうはいかなかったろう。せいぜい商家や庄屋階級までかと。(今で言えば県庁所在地公務員医師弁護士教師などに相当か)

また、参勤交代制度もあって、地方武士江戸勤めも普通の事だった。若殿様は江戸育ちだったりした。(例えば島津斉彬

ノーベル賞について言うと、実はやはりノーベル賞科学者出身地は偏っていて、それがけっこう話題にもなっている。(ノーベル賞街道とか)

なお、日本人ノーベル賞の第1号と第2号は共に京都出身京都府立一中から三高を経て京大卒。共にそれなりの家柄。まあ、当時は今よりも家柄とか階級がモノを言ったのでしょうね。階級社会の名残りが色濃く残っていたのでしょう。(日本の文化の中心地は江戸ではなくて上方だったからね。)

2021-01-27

無抵抗主義の村はアニメなのにリアルで通じると思ってるネトウヨが多いが

抵抗運動をつづけた不平士族新政府軍に叩き潰され一族郎党八つ裂きにされ

早々に新政府に乗った元武士幸福人生を過ごしたことをもう忘れたのだろうか

リアルで強固に抵抗する人は敵に殺される

それを知っている人は勝てる戦争でも腰が引けて戦わないか結果的軍団や国全体が勝てなくなる日本のことだ

2020-11-14

anond:20201114114239

天は人の上に人を造らずだけど娘の婿は士族がいいって言ってたおじさんもいるらしい

2020-08-28

anond:20200828094237

福沢諭吉も娘は士族しか結婚さないっていってたし、家族のことになると話は別って人は多いんだろうね。

2020-08-08

anond:20200808114450

結婚した時点で新しい苗字作るシステムだったら

部落差別とかも消えやすかっただろうにな

男の名字を残すシステムから、男側が士族華族出身名字であることが重要になり、男側が部落出身名字だと子世代まで差別が残ることになる

2020-06-26

anond:20170809013919

メモ感想

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>なぜ立ち止まれなかったのかを考える材料提供してほしい。

加藤陽子の本(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』等)が参考になるかも

.

>そりゃ大きく変わったのは事実だけど、ずっと前から変わっていたんじゃねーの?

そのへんを考えると、日露戦争終結あたりから歴史を見ていった方が良さそうだな

他のコメントブックマーク含む)を参照してみると、結節(ターニングポイント)としては例えば、以下が挙げられるようだ

開国ペリー来航)

征韓論

台湾出兵

日清戦争

日露戦争

シベリア出兵

世界恐慌

満州事変

・五一五事件

盧溝橋事件

・第二次上海事変

トラウトマン工作

.

>ここから既に国内人材物資徴発が始まっていたわけで、いわゆる戦時下体制内閣は挙国一致内閣

マスコミは1937~1941年もっとスポットあてるべき。

1940年体制』(野口悠紀雄)ってやつかな?

.

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20170809013919

ブックマークコメントで、

>それを言ったらペリーが来たときから

日中戦争満州事変帰結で、満州事変日露戦争ロシア革命辛亥革命の延長線上にあり、日露戦争日清戦争維新の不平士族征韓論が背景にあり、維新関ヶ原の… つまり卑弥呼黒幕だったんだよ!

とある

こういうような考え方をして、信長時代から維新まで歴史を説き起こしたのが徳富蘇峰近世日本国民史』だったような気がするな(ふと思い出した)

.

2020-06-07

anond:20200606231113

お前日本士農工商って知ってるか?

昔あった身分制度の1つなんだが、これの下に「えた・ひにん」っていう身分があったんだ

これは士族の下の身分のやつらが自分らより低い身分のやつらをいじめ鬱憤を晴らすための言わばガス抜き存在のためにあったんだな

 

白人社会にとっての士農工商がまさに白人黒人黄色人種なんだ

黒人差別を許さない!と盛り上がってるところ悪いが、

黒人からえた・ひにんとして扱われてきたアジア人がなぜお前らに協力しなければならない?

まず自分たちの行いを反省するところから始めてくれなければ黒人社会的地位が上がってもまたえた・ひにんを差別する文化が残るだけなのは

頭が悪くないから分かるよな?

2020-05-13

[][][]「報国致死はわが社中の精神

第二章 「貧富を問わずに人才を作るは、前金を払うて後の苦労の種子を買うもの

      ――貧民には最低の教育しかいらない 35

「銭あり才あるものは上等の学校に入るべし」

――福沢は選別教育必要を強調する 36

「最も恐るべきは貧にして知ある者」

   ─福沢は貧知者を生まない教育模索する 40

教育の過度を防ぐは、財産の安寧を維持するの一法」

   ─貧知者が生まれぬよう授業料を高くせよ 42

「もっぱら富豪の子弟を教うるの門を開かしむるこそ知者の事」

   ─貧知者が生まれぬよう官立学校を廃せよ 44

「年齢の制限児童を遊惰に導いて悪風に染めしむる」

   ─子どもの遊びの権利も福沢の眼中にはない 48

断じて政事に関するを得せしめず」

   ─文部省から独立にも限度がある 50

学問のすヽめ」の放棄

   ─士族遺伝子を残すためには選別教育こそ必要 58

「報国致死はわが社中の精神

   ─慶応義塾の建学の精神 61

「ただ普通教育・知見のみ、高尚なる学育は第二のこと」

   ─女子高等教育はいらない 67

インパクト出版会 / 天は人の下に人を造る  「福沢諭吉神話」を超えて


第七章 「男女を同権にするがごときは衝突の媒介

――女の領域は家、その美徳優美さ 215

「さしむき自力をもって殖産に従事せんとするも難きこと」

   ─労働権を軽視する福沢女性論は男女平等論とは無縁である」216

「男女を同権にするがごとき平均論は衝突の媒介

   ─良妻賢母主義の原形 219

裁縫の嗜みなき者は女子にして女子にあらず」

   ─家事育児は女の天職 221

新家族の苗字中間一種の新苗字創造して至当ならん」

   ─偕老同穴論が前提されている 226

 「夫婦間の権利については、条文の規定一点の疑いを容るるところなく」

   ─福沢は「明治民法」に全面的な賛意を示す 229

「家会を開設し、婦人女子に家政参与の権を与えたき」

   ─女に参政権はいらない 232

「無遠慮なるべからず、差し出がましく生意気なるべからず」

   ─「女徳」へのこだわり 234

「内実は不品行を犯すとも、これを秘密にして世間の耳目に隠すべし」

   ─ 239

娼妓に依頼して社会の安寧を保つの外あるべからず」

   ─良家の娘を守るために公娼制は不可欠 242

内地においてさえ娼婦必要は何人も認むるところ」

   ─娼婦出稼ぎ人民移住に伴うべきもの 247

人間以外の醜物」、「人類の最下等にして人間社会以外の業」

   ─薄幸な貧しい女性をそこまで指弾するか?! 251

天は人の下に人を造る

2019-10-24

anond:20191024232654

ほんとそれ。

だけど大企業とか一部の集団の中には未だに先祖家系ものをいうところがけっこうあるというね。

あるところでは新入社員の同期は先祖がみんな幕末士族明治時代華族だったり、医者家系ってけっこう先祖代々だし。

そして、生まれついた要素でばかり人を判断する風潮も根強い。生まれつきの要素ばかりでなんでも決めつけて努力放棄する人はほんと多い。

ここの殆どの人は信じられないだろうけど、血液型とか誕生日占いが人事評価基準になる会社とか未だにあるからね。

2019-09-15

anond:20190915172646

というか、田舎へ行く程そうらしい。

都会では想像がつかないが... (そもそも地主とか旧士族とかワケワカ)

anond:20190915114055

世襲」がかなり多いんじゃないかな。

親も親戚も教師地方公務員ばかり。

地主とか旧士族とかだったりする。

財産はあるけど使える金は普通レベルなので、定年まで安定した給料をもらえることが最優先。

公務員コネ社会からコネがあると知れればいじめにもあわない。

2019-04-05

anond:20190405064841

西洋列強に肩を並べたアジア人」が理想なんじゃね。和服にこだわったのは士族文化殉死した西郷じゃん。保守派というより民族派

2018-12-17

日本未来は無い!

日本未来は無い!

いや、これは日本に限った事ではないかも知れないが、そう思う。
戦国時代戦国武将達の間では「人生50年」と言われていた。
この、人生50年については、現代計算方法計算すると50ではなくもっと短かかったとも言われている。
江戸時代平均寿命は30~40歳前後だったという。
これについては、早くに亡くなってしまう人が多かったため等のばらつきがある様だが。

最近延命治療だ何だで70歳~80歳まで生きる人は増えている。
しかし、そこまで長く生きる人が増える事で、痴呆老人が増加しているという問題が出てきている。

今の日本制度は、大半の人が70歳~80歳まで生きる事を想定した仕組みになっている。
その制度を作っているのは、言うまでもなく国会議員だ。
では、国会議員の平均年齢は現在どうなっているのか…というと、55歳となっている。

勿論、若手もいるだろうが、60歳・70歳の国会議員も少なからず居る訳だ。
そういう人達の集まりによって形成されている国会が、果たして40歳以下の国民のためになる
国の運営をするだろうか?
否!
自分達がこれから老いた時でも有利になる国家運営を考えるだろう。

日本未来を作るならば、国会議員に定年を設けるべきだろう。
国を運営する大きな仕事をしているからという理由庶民とは大差のある高給をもらい
安泰な老後の待っている国会議員

そういった国会議員家系を紐解いてみれば
江戸時代大名の子孫、明治時代でいう貴族士族の子孫も少なくない。
江戸城という器が国会議事堂に変わっただけで、政治という中身の部分でやっている事は
何も変わっていない。

こんな日本若者にどうやって希望を持てと言うのだろうか?
今の日本は、技術だけは進歩しているが、行われている政治江戸時代と何ら変わりがない!

2018-08-22

anond:20180821093936

士族末裔でもない連中がこんなことを言っているんなら笑える。

先祖様方は為政者に散々踏みつけられ振り回されてきたというのに為政者もの合従連衡一喜一憂ですか。ご立派にお国思いで忠義なことですな。

2018-08-05

anond:20180805015806

自衛隊が無理?

腰抜け それでも男か

 

介護農業も女がやることだ

農業のような賎など、士族が担う仕事ではない

日本男児なら戦争で血を流せ 

 

くだらないポルノを見る時間で訓練にはげみ

国の為に生きてこそ尊厳は保たれる

2018-07-03

anond:20180703163749

一般的には小泉純一郎竹中平蔵だけれども、

彼らはグローバル資本主義適応しただけであって、

彼らを憎んでも仕方のない話。

明治維新の後不満を持った士族は反乱を起こしたが、

反乱に失敗した後に自由民権運動を始めた。

ロスジェネは?「竹中はひどかった」と言っているだけで

自ら立ち上がろうとはせず、ただ無為に歳を重ねている。

ただの腰抜け。ただの負け犬

2018-06-30

日本資本階級ってさ

明治3年統計

皇族 28

華族 2251人 (0.01%)

士族 109万4890人 (3.64%)

卒 83万0707人 (2.76%)

神職 14万6950人 (0.49%)

僧尼 22万7448人 (0.76%)

平民 2726万5638人 (90.62%)

穢多 44万3093人 (1.47%)

非人 7万7358人 (0.26%)

合計 3008万9429人 (死刑1066人を除く)

これくらいの比率収束するんじゃないの?

2017-07-27

[]武士の商法

武士の商法」とは - 明治維新後、武士士族が始めた商いに失敗が多かったことからその商いのやり方。

また、商売に向いてない人が始めた事業のやり方。

関連 → 士族の商法.

武士の商法とは - はてなキーワード

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

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