はてなキーワード: 明治天皇とは
昭和58年から今日までの社会の流れがこのように来たのは全くの偶然で神の命令などにより支配されていたという事実がない。平成時代には女子供もいれば
ヤクザもおり、明治天皇も昭和天皇も、ホリエモンもグレイもなんでもいたし、なんでもあった。
要するに全体が全くの偶然でそこに法も規則もない。30代から50代の人は、昔に裁判官や警官等をみたことがない。今の社会がめんどくさいからさっさと自殺した
人もいる。
下坂が醜悪なのは、この40年間に色々あり、偶然で動いてきたことを認められないことであり、特に最近の者の言わないことは
「めんどくさい」「どうでもいい」「イオンがあるからいい」「平成なんて色々あったじゃん、いまさら何言ってんの、プゲラッチョ」といった言葉でありそういう言葉が一切聞かれない
私たちはいつから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説!
https://intojapanwaraku.com/culture/48024/
疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉、から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができます。しかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちのご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。
日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授・中澤克昭先生のお話をもとに追ってみました。
うつりかわる肉食への考え方
日本史の教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代(明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜は労働力を提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。
3世紀ごろの日本(ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀に仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避(タブー)につながっていくのです。
しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシやシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代の遺跡から出土した木簡からわかっています。中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地の所有権を確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。
古代には禁欲の対象だったお肉も、平安時代になると禁忌つまり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代も飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物が確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。
「天神さま(菅原道真)の牛のように、神話や伝承の世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓(ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。
新鮮な馬肉
では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。
なお、近代以前に肉を地方から京都や江戸へ運ぶとき、塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉も存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカやイノシシでしたが、貴族社会の宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお(現在の味噌・醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています。
肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家に権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家の食事のマナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別な作法があったようです。
江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料上確認できますが、その後しばらく姿を消してしまいます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗は徳川家康を尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名の特権ではなくなりました。明治天皇も御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇が狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野で鷹狩りをして以来のことでした。天皇は800年ものあいだ狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士の時代と重なっているのが興味深いところです。
明治天皇は1872年に牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後生まれの世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥でちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活も高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。
一方で2030年ごろには、世界の人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食の研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。
「動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ちを自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。
https://www.youtube.com/watch?v=l14nOnFz9iU
上皇上皇后両陛下の御大婚の御盛義の奉祝曲として奉製された品のある曲であると思い新たに致します。
今上天皇陛下の御即位御列の儀の秋空晴れやかに渡るあの日。御道筋で奉奏されておりましたのを記憶しております
返信 引用
どんな事をKKが言おうと、もはや許されないレベル。
実現しようとでもいうのか。
もとれる。
許されてはならない。
以上
https://www.awinsider.com/watch?id=YXdWaWRZWGRXYVdSeFlVeFRhRXMwUzFoS01HRjNWbWxr
魂を喚び起こす 素晴らしき歌 何度聴いても 何度歌っても 本当に素晴らしい
https://kzsection.info/green/d-b-n-y-ng-f-bi-osaipan-d-o-y-su-noizu-ch-q-b-n/3H93gLBudJiWaoE.html
敵に蹂躙させまいと 忠魂あらん限り出された御英霊の 敢闘は敵の肝を寒からしめたのみならず 今もなお現地民の慰霊は途絶えることが ありません。 香取の鎮もる御社も 再建されております。
https://kzfaq.info/get/shokorasan-w-n-j-gaarunara-s-etekudasai/rcqGe5SXrN_cdYE.html
韓国から言いがかり吹っかけられた 東京オリンピックの日本選手の方のツイートを 侮辱してたのが例のショコラですね。 名前もショコラと仲のよい第三者が証して いるのに、個人情報保護違反と喚きたてる ショコラ。 矛盾の押し付けひどすぎ。
裁判でショコラが請求棄却とならねば 日本の司法は終わりです。 へんてこな判決や訴訟指揮をやらかす これが日本の裁判官かと疑いたく なるやつが大阪にいます。
ここは近代日本の真の歴史を学べるところ。 一日だけでは足りないくらいです。
地方公共団体がやる「平和」記念事業なぞ見れたものではない。 予算の使い切りと切り逃げするつもりか。 奴らの言うところの「平和」とは戦前の日本を冒涜することと 言わんばかりの悪辣さで、教育委員会が仕切っているようであります。 萬世太平ために勲功ままに記されているのが靖國神社、各護國神社ですし 御祭神の遺された遺産も敗れたりといえども大東亜各地でも受け継がれているところも少なくない。インドネシアや台湾の軍隊は日本帝國陸海軍の 典範の系統いわゆる血を繋いでいる。 国賊的な反日プロパになっている地方行政がやる平和記念事業、あれは なんだ? 反日自己批判ごっこは「ふざけるな!」と言わねばなりません。 住民の血税湯水のごとく使って、何様か!!? 毎年8月が近くなると恒例の反日展示。悪辣自虐な教科書を叩き落とすべく偽装平和事業に歯止めをかけてやりましょう。 遊就館こそ日本の鑑で萬世太平すなはち平和の鑑です。
零戦のように帝国陸軍の最新鋭の隼が あがっていないのは寂しいし残念です。 大東亜のパレンバン降下を成功に導いたのも この隼でありました。 確か六十四戦隊でしたか。 隼だけで占められていたのは。 大日本帝国が世界人類に貢献した勲功を 識ることができるのも 遊就館ですね。
嘉永六年以降、欧米列強に支配されることなく神代よりのすめろぎしろしめしたまひし日の本の國を保たれますところ、國安かれ民安かれとの大御心まにまに、寄せくる仇波を鎮め来る人の勲あらばこそです。 思いも今更ながら語り継がれるべきこと実感いたします。 当時の日本は列強の政治的思惑のもと厳しい国際環境を耐え抜き また労るべきを労り、歩んだ歴史でもあります。 遊就館は兵器類は多いです。そこでもまた、技術改良がどの点なされたか なんとしても父祖よりの國、保たすべき意気も伝わってきます。 竹田先生のもと、しっかり学校では学べないことを吸収してあげてください。
抗日華僑は原住民への圧迫を長年やらかしていた。 そればかりか英国の下で巨万の富をえていたとも。 必然的に、抗日活動の便衣兵のゲリラを鎮めるのは 軍政の1歩。 こちらも南京同様、不自然さもかなりある。加えて数字の暴走。 連合軍裁判と判決の出鱈目さを禁じ得ない。 あんたの方は連合軍のリンチと理由書におもねている。その延長線で 言ってる事、まるで戦勝国亡霊の広告宣伝塔並み。 敗戦利得者の共産党に空気入れられたか知りませんが、 戦勝国におもねだる醜さは例えようもないくらい醜いですね。 敗戦病症候群から一日もはやく開放されますこと、ご祈念申し上げます。
シンガポールは世界三大要塞の一つ(マルタ、真珠湾)に加えて英国の分割支配で華僑というスパイが群れをなしてやがった。つまり便衣兵がいたと言うわけだ。ところがシンガポールを陥落させたときインド兵が次々投降。藤原岩市によって自由印度仮政府ができる。ちょうどビルマ作戦でラングーンへ進撃。5月には同地を占領。 後のインパールもそこで構想があったといって良いところ。 チャンドラボースは描いていたと思われる。 英国の東洋侵略の牙城が有色民族の手に落ちているから 英国の傲慢不遜を砕かれたと思いこんだ英国の復讐とプロパガンダで 仕組まれたことを挙げねばならない。 となると、終戦後日本軍への処刑は国際法にてらしても違法不当であるといえる。 チャンギー収容所であったこと、まさにプロパガンダまるだし。 翻って、我が軍は 國の為 仇なす敵は 砕くとも 慈しむるの ことな忘れそ 畏くも明治天皇の御製である。 皇軍の御戦に住民虐待に捕虜虐待なぞありえん。 脈々と御製の大御心が嗣がれている。 でなければその翌年に早くも大亜細亜サミットといえる 大東亜会議が行われようはずもない。 歴史的精華を果たした大日本帝國陸海軍には大英帝国にとっては 怨み骨髄の的であったことが歴史的推移からみてとれる。 律儀に国際法を遵守していた日本軍は砕くべき敵を捕虜として丁寧に 扱いすぎたかな。
敢闘精神には感服致します。 米軍の戦争責任問われてしかるべき。 それ以上に世界人類を悩ませ圧殺し 今の支那にも見れるように超戦犯國はソ連でありまして これを援助した国際金融資本ロックフェラーに中国の毛沢東 各国の共産党員政治思想宣伝による政府転覆を計っていました。 翻り、日本にもアカと言われる連中が取り巻いていました。 これらはソビエトの指導のもと、各国の共産党員と一緒に国家弱体化 政府転覆の非合法なテロを敢えてしておりました。 現在日本の共産党は罪科罪業を覆い隠し、福祉云々といった主張を しておりますが、アカい毛布に本音を隠し国内錯乱にせっせと いそしんでいることは今更言うまでもありません。 透明行政と看板に挙げ、実態は行政の密室。 共産党サヨクそして劣化パヨク闘争抗争に明け暮れた奴らの元祖 共産党こそ最大の戦争犯罪人で政治責任を問われねばならない 連中であります。 やつらの政治生命を止めない限りは 日本の明日はありません。
京都なら御所そして平安神宮。奈良はさきに参らねばならないところ、 橿原神宮。 そして東京は皇居、明治神宮。靖國神社。 訪問ではなく学徒としてお祓いを受け参拝する事。 これであって修学旅行。 更に伊勢。昔から伊勢は修学旅行として神宮参拝。 学校教育では歴史共にある日本の民として敬神を教えられねば なりますまい。
かつて大阪にも国防記念館があったそうな。 大阪城のほうだったか。 郷土の誉れの武勲耀く護国神社が こうした記念館を小さいながらでも保たれてをられるのは 幸いであります。 五十二社のうち数社ではございますが 遊就館共に日本の近現代史のみならず、絶ゆることなき 日本の歴史が連綿と伝わっていることを実感できる。 マスコミたちと行政は日本の将来を意識したとき 現状の連合軍史観のプロパガンダで靖國神社と護國神社を 忘却の彼方に押し追る敗戦利得者の意向を真に受けた偏向的態度を 改めるべきであリます。
直系長子継承議論をNHKが「紀子さま妊娠6週」をスクープして、つぶれたのですよね。紀子さまが妊娠検査薬で陽性になり、愛育病院から先生に7日の午前中にきてもらい、その情報をNHKがつかみ宮内庁に確認して、妊娠6週を速報で流したんですよね。NHKの早業はすごいですね。どうやって情報を掴んだのでしょうか?NHKのスクープの力は、すごいですね。
いや!それは違う!!! 媛みかどは確かにおられたが男系で保たれた 古よりの國體権威の泉源を保たれたままに わしは申し上げてるんです!!! 皇嗣秋篠宮皇太弟殿下も悠仁親王殿下もいらっしゃる。 なにゆえ正田、川嶋、小和田と出てくるか!? 旧皇族方の御子孫もおられる。なぜそちらに お戻り願わないか。これまた理解に苦しむ。 皇男系であられればこそ皇威挽回なるのであります。 連合軍によって臣籍降下を余儀なくされた御方々、皇室の 向こうべきところは誰よりよく御存知でいらっしゃる。
私もそう思います。愛子殿下は旧皇族の人とお見合いしていいと思う方がいられたら結婚していただきたいです。旧皇族の方なら結婚しても金銭面でも苦労することがないと思うからです。愛子殿下は幸せになってもらいたいので💕
韓国内は自国の矛盾を反日に転嫁する事多々あり。 反日封じの為には、親日韓国人への人権侵害をも訴えること。 これを明るみにしなければ日本国内の左翼分子の跳梁は止まりません。 マスコミ共は韓国内のこうした矛盾は報道しないですから、 反日パヨマスコミによる知る権利の妨害として、 NHKなどに反撃の必要があります。 いけすかない左翼共のドグマの人権云々、奴らこそ 反憲、反人権、不平等、差別。これらの固まりといえます。 典型例;原水協と対極的に立つ広島の被爆者の子孫への迫害。 こちらはもう少し聞いとけばよかったと後悔してますね。
👨🦳「それはのう、明治時代に、文明開花を記念して作られた祝日なんじゃよ」
🙅♀️「ブーッ!違いまーす!」
👨🦳「そうなんだ!知らなかった。ワシ、物知り博士じゃなくてただのおじさんだから、適当ぶっこいちまったよ」
🙍♀️「いいんですよ。文化の日は明治時代は天長節、昭和初期では明治節といって祝日だったの。
その後、1946年の11月3日に日本国憲法が公布され、日本国憲法が文化と平和を重視してるとして、1948年に祝日として定められたの」
👨🦳「へぇ〜。ということは、明治天皇の誕生日に日本国憲法が公布されたってことかい?」
🙎♀️「そうなの!まあ色々あったみたいだけど、今まで11月3日が祝日だったから、それを続けたかったのかもしれないわね」
👨🦳「そうなんだ〜。教えてくれてありがとう」
💁♀️「また何でも聞いてくださいね!」
明治天皇の玄孫は居なかったんだ…
101.称光天皇(1414~1428))
102.後花園天皇(1428~1464)
譲位後に発生した応仁の乱を嘆いて出家。政務を放棄した足利義政を戒めたこともある。
103.後土御門天皇(1464~1500)
大嘗会を催したが、直後に応仁の乱が発生したため、中世最後の大嘗会となった。
104.後柏原天皇(1500~26)
即位時、朝廷の財政は困窮しており、父であった先帝の葬儀も40日後、即位式も即位後21年という有様であった。
105.後奈良天皇(1526~1557)
飢饉と疫病に苦しむ民を救うため、諸国の一宮に直筆の般若心経を奉納した。
106.正親町天皇(1557~1586)
毛利元就の献上金で即位。織田信長・豊臣秀吉の援助で皇居の修復、伊勢神宮の造営などを実現した。
107.後陽成天皇(1586~1611)
秀吉の援助で朝廷の権威回復に努めた。聚楽第行幸を行った。学問を好み、日本書紀などの慶長勅版を刊行した。
108.後水尾天皇(1611~1629)
女帝。
110.後光明天皇(1643~1654)
111.後西天皇(1655~1663)
112.霊元天皇(1663~1687)
113.東山天皇(1687~1709)
114.中御門天皇(1709~1735)
先帝の代に復興した大嘗祭が再び途絶えた。公事部類を残した。笛が巧く、狐ですら聞き入ったとされる。
115.桜町天皇(1735~1747)
116.桃園天皇(1747~1762)
117.後桜町天皇(1762~1771)
118.後桃園天皇(1771~1779)
父典仁親王に尊号を与えようとするも松平定信に阻まれる尊号事件があった。
120.仁孝天皇(1817~1846)
121.孝明天皇(1846~1867)
安政5ヶ国条約に反対し、攘夷を主張した。反面、和宮の降嫁に賛成し、公武合体を推し進めた。
122.明治天皇(1867~1912)
大政奉還がなされ、明治政府が誕生。在位中は大日本帝国憲法発布、廃藩置県、国会創設など近代化が進められた。日清・日露戦争の勝利、韓国併合により日本は列強の仲間入りは果たした。
123.大正天皇(1912~1926)
生まれつき病弱であったため、皇太子裕仁が摂政に任じられた。在位中に第一次世界大戦が勃発。皇室として初めて一夫一妻を確立。
124.昭和天皇(1926~1989)
在位中に第二次世界大戦が勃発。日本の敗北を受け入れ、日本国憲法が制定された。
125.上皇(1989~2019)
世界各国を訪問して皇室外交による親善に努めた。東日本大震災の際には自ら被災地を訪問した。
126.今上天皇(2019~) NEW!!