はてなキーワード: 包括的とは
「両性の合意のみに基づいて」の「のみ」は、婚姻を異性婚に限るという意味ではなく、婚姻をする2者以外の意志の介入(端的には家制度下による両者親族の意向など)に歯止めをかけるために入れられた文言である、というのが、24条1項の立法者意思についての一般的理解。そもそもこの憲法が誕生した時代に、「同性同士が結婚する」というアイディアは、法曹界だけでなく当時の同性愛を実践する当事者にとっても全く現実的なものではなかった。
このことから、立法者意思説に立った場合も法律意思説に立った場合も、24条1項は、同性婚を積極的に禁止しているわけではなく(人間と法は、その時点での想定の枠外のものを「禁止」しない)、同性婚を「想定していない」(未規定)という解釈が一般的である。2021年の札幌地裁判決に始まる各地での同性婚訴訟の判決も、このような解釈に基づいている。その点で、https://anond.hatelabo.jp/20240316113208 の増田が書いている「憲法は同性婚を想定していない、というのは憲法学会の通説であり」は100%正しい。
ただし、同じ増田が追記で書いている「両性の合意がない以上、それに準ずる制度は作れたとしても憲法上の婚姻には該当しないって理屈付けしなきゃ無理」のほうは間違っている。「憲法で同性の婚姻が保障されていない状態のまま、民法戸籍法において規定された婚姻を同性に拡張すること」自体は法律論的には問題がない。憲法上では未規定だった対象や事項を下位法で包摂するというのは、憲法24条以外の憲法条文でも当然存在する。たとえば肖像権・プライバシー権は憲法上では想定されていなかった未規定の権利だが、第13条の幸福追求権という抽象的な包括的人権から敷衍される具体的権利性のひとつととらえることにより、後に民法で規定され保護されることになった。そこは、増田も引用している高橋和之先生がこのように書いている通りである。
「日本国憲法は、人権をそこで列挙した個別的人権類型に限定したのではなく、時代の変化に応じて生ずる個人の新しい必要・要求が具体的人権として個別化されることを認めている」
なお、ここで元増田に都合の悪いことも書いてしまうと、元増田が引用している高橋和之氏の「立憲主義と日本国憲法」 の
婚姻の自由については憲法24条が保障しているが、近年議論され始めた同性間の結婚まではカバーしていないというのが通説である
という部分は、実は2020年発行の第五版では「通説であった」と改められている。このことは国会質疑でも取り上げられている。https://twitter.com/P_reDemocracy/status/1597644240489701377
それはともかくとして、2021年札幌地裁判決では、少なくとも同性カップルに対して権利保護の仕組みを一切立法しないのは国会の裁量範囲を超える違憲状態であり、このような違憲状態を解消するうえで、実際に現行の民法戸籍法が規定する婚姻を同性に拡張することで解消するか、それとも海外のシビルユニオンやPACSのような、婚姻と似たような形で同性間にもパートナーシップの法的保護を保障する、別建ての法律を新たに創設することで解消するかは、国会の広範な裁量に委ねられる、としていた。以後の各地域での同性婚訴訟の基本的な流れも基本的にはこの立場にあった。「同性間に結婚を許してもいいし、同性向けに(あるいは同性も含めて)結婚みたいな別制度を作ってもいいから、とにかく何かやりなさいよ」ということだ。
一方、今回の札幌高裁判決は、この建て付けから一歩踏み込んで、現行民法戸籍法が同性間の婚姻を認めていないことは、憲法24条1項にも違反するとしており、ここまでの判決とは大きく意味合いが変わった。これは同性婚訴訟の当事者を支援する法曹にとっても予期せぬ判決で、驚き混じりの賞賛の声が出ているほどだ。ただし、その「違憲である現行民法戸籍法のあり方」に対してどのような立法的解決を図るかは、引き続き立法機関たる国会の裁量に任されていると考えられる。よって、憲法24条1項の定める「婚姻」の下位分類として、現行民法戸籍法の定める「婚姻」と、新たに民法で規定される「何か」(たとえばシビルユニオンやPACSのような婚姻類似制度)が併存する、という建て付けも可能であろう。その点では、札幌地裁判決に続く一連の判決での示唆と、求める立法的解決の形が激変しているわけではないと思う。
とはいえ(これまで保守派が「同性婚を禁止している」と認識していた)24条1項自体にもとづいて「現行民法戸籍法は違憲だ」という判決が出るというのは結構すごいことで、おそらくこの判決が出たことで「国会がどのあたりを落としどころにするか」というラインも変わってくると思う。おそらく自民党保守派も「婚姻制度が提供する法的保護のごく一部について最低限保障するようなショボいシビルユニオンを作れば違憲状態は解消され、保守派も何とか納得するだろう」だったものが、「同性パートナーシップを現行民法戸籍法の「婚姻」には絶対入れさせたくないが、そのためには、あるていど充実したシビルユニオン法案を提案せざるを得ない」という感じになるかもしれない。法相から以下のような物言いが出てきたのはその潮目の変化を表していると思う。
小泉龍司法相はこの日の定例会見で「国民生活の基本や国民一人一人の家族観にも関わる問題で、国民的なコンセンサスと理解が求められる」とし「われわれも、議論を進めるという意味では貢献できるところがある」
岸田首相「同性婚規定、なくても憲法に違反しない」 札幌高裁が「違憲」判決出したのになお後ろ向き:東京新聞 TOKYO Web
与党内でも、公明党はもともと同性婚推進派だし、自民党内で同性婚反対の論調をリードしてきた安倍派はいまズタボロの状態にある。外堀は徐々に埋まりつつある気がする。
男の絵描きの私、あるキャラが着ていた服がかわいいなぁと思って、自キャラにも着せたくなって資料を見たいなぁと思ったんだけど、まずその服の名称が分からない。フリフリ 腕輪、スカート フリルとかって単語を検索して、出てきた見たこともないカタカナ語を調べてって繰り返して1時間、なんとか、そう言うスタイルを指す包括的な言葉に辿り着いたんだが、それをまた調べてみると、年代や地域、使ってる素材やスタイルによって30種類以上に細かく分類されていてたまげた。一つのスタイルでこれなので、それぞれのスタイルでも同じようなもので、多分、めっちゃ細分化されてるんだろうし、そんな中から自分の最適な一着を見つけるのってあまりに難易度高過ぎへんか?
楽天、ぐるなび、食べログ、ホットペッパービューティー、価格コム、映画.com、アットコスメ、Amazon、メルカリ、各種漫画アプリなどの、利用者がレビューを投稿できるサイトがある。
ユーザー名(ニックネーム、ハンドルネーム)は、必ずしも名詞である必要はない。
はてなーとしてリベラルな考えを啓蒙したり、政治的思想を広めたり、褒め殺しをするような名前にしている。サイトによって字数制限はあるが、それに収まるような名前を考えるのも楽しい。
どこのサイトも下品なものや公序良俗に反するものや実名はNGだが、政治的主張や社会風刺や社会問題に関するものはOKらしい。
例えば、こんなユーザー名にしている。
・NHK受信料は払いません
・ダメ、ガッカイ。
・同性婚を認めましょう
・年少扶養控除復活を望む会
ホットペッパービューティーなんかだと、利用したサロンが律儀にコメ返をくれるので、こんな返事が帰ってきたりもする。
性犯罪者に対する社会の風当たりは厳しい。 最近、四谷大塚の講師Mが女子生徒をロリコン性犯罪者グループに売ったことで 中学受験業界全体が揺れている。 Mはおそらく大した罪には問われないだろう。 だからこそかも知れないが、「Mを死刑にしろ」という声が絶えない。
なぜだろうか? それはきっと、以下2つの理由によるものだろう。
そもそも、犯罪者とは何だろうか? それは、犯罪を冒した人間のことである。 ではなぜ人は犯罪を冒すのだろうか? それは、犯罪を冒すことがその人にとって有益だと判断されたからだ。
ふつうの人は犯罪を冒さない。 なぜならば、犯罪を冒さなければ平穏な生活が手に入るからだ。 言い換えると、ふつうの人の中では平穏な生活が手に入ること > 犯罪を冒すこと という不等式が成り立っている。 しかし、犯罪者にとってはこの不等式が逆になっているのだ。 特に、性犯罪のように意思を持って行わなければ成立しないものの場合はそうであるといえる。
この不等式は、ふつうの人にとっては絶対に逆にならないものだ。 でも犯罪者にとっては逆になっている。 これが何を意味するかというと、犯罪者は明らかにふつうでない感覚、あるいは人生観を持っている ということだ。
なぜだろうか? それはきっと、脳の気質レベルでなにかがふつうではないからだろう。 だから、犯罪者のこの気質は修正不能であり、 犯罪者はどうせまた再犯するということになる。 事実、性犯罪者の再犯率は極めて高い。
全対象者のうち,調査の対象となった性犯罪事件の裁判確定から5年が経過した時点において服役中等の者を除いた1,484人について,罪名は問わずいずれかの再犯を行った者の比率である全再犯率は20.7%であった。性犯罪再犯率は13.9%であり,全再犯を行った者のうちの約7割を占めていた。
昨今、東大や京大といった難関大学を中退する人間が目立つようになった。 SNSの影響うんぬんの前に、はっきりいって、頭が悪いんだろうと思っている。 ガイジと言っていい。
大学を22歳で卒業し、大学院を24歳で卒業するストレートに失敗する要因としては、 浪人、留年、中退の3つがあるが、 このうち就職における影響は、大きい順から 中退、留年、浪人となる。
中退は、そもそもが高卒と同じ扱いになっているからというのもあるが、 特に難関大学においては別の理由もある。
難関大学を卒業して、例えば京大卒になることと、 中退して高卒になることには大きな開きがある。 人生は全く違ったものになるだろう。 しかし、彼らはそれを放棄して中退という道を選んだことになる。 つまり彼らは、難関大学を卒業して輝かしい学歴を手に入れることより、 中退して勉学の苦しみから解放されることを優先したのだ。 これは明らかにふつうの感覚ではない。 これらの高みにたどり着くために、多くの人は子供の頃から塾に通い、 時には泣きながら勉強して、 それでもなお届かずに諦めたのだ。
日本の大学を卒業することはそう難しいことではない。 だから、あと少しだけ努力すればその高みに届いたはずなのに、 それすら辛いという理由で放棄して中退してしまったということになる。
これは、平穏な生活を手に入れることを難関大学卒の学歴を手に入れることに対応させて、 犯罪を冒すことを中退して楽になることに対応させれば、 性犯罪者の論理と全く同じことに気づくだろう。
これは以下のような理由による。
まず、仕事をするためにはそのプロダクトなりビジネスを ある程度はジブンゴト化する必要がある。 難関大学中退者というのは、自分の人生という最重要プロダクトすら まともにジブンゴト化出来ずに放棄した人間であり、 このような人間が しょせんは他人が定義したプロダクトなどをジブンゴト化することが出来るはずがあるだろうか(いやない)。
次に、なぜ彼らが大学を中退することを選んだかというと、 これは大抵の場合、勉強が嫌だったからだ。 彼らは多く場合、アスペルガー気質があり、 好きなことはとにかく熱中するが、嫌いなことは絶対にやらないという 傾向がある。 このような傾向は、仕事をする上では致命的となる。
一方でふつうの人間というのは そのような近視的なものの見方はせず、 より高い視点で物事を見ることが出来る。 つまり、自分の人生にとって卒業ないし学歴がどういう価値があるかという包括的な視点でものごとを見ることが出来るから、 興味のない科目や授業があったとしても、ある程度は受け入れることに成功し、 単位を落とすまでには至らない。
最後に、彼らは努力出来ない。 これは、嫌いなことに対して努力することが出来ないということでもあるが、 彼らは内心、中退したことを悔いている。 この後悔は、履歴書が門前払いされるごとに深くなっていき、 次第に、こんなはずじゃなかったという思いに支配されることになる。 世の中のほとんどの大人は、もっと勉強して少しでも上位の大学に行けばよかったと後悔しているのである。 であれば、大卒になる権利すら自分で放棄してしまった人間の後悔というのはこの比ではなく、 場合によっては自分を認めない社会に対する恨みすら抱くようになる。
このような人間は、中退せずに難関大学を卒業した人生と、今の人生を比較してしまい、 今の人生をこれ以上改善しようとは思わない。 なぜならば、その努力は、前者の場合に比べて報われる可能性が低いと考えるからである。 池江璃花子は白血病から立ち直り、世界水泳に出場するまでに復活をしたが、 大抵の人間は白血病になったら、仮にそれが治ったとしても、またトップレベルの 選手を目指そうとはならない。 なぜならば、白血病の治療において抗がん剤や放射線治療をした影響によって 自分の身体は確実に弱化しており、努力しても虚しいだけだと考えるからである。 こうした状況において最大の努力をしてトップレベルまでカムバック出来るのは、 池江璃花子が池江璃花子だからに他ならない。 ふつうの人間は、今日ほんの少し疲れているだけでも、今日はお休み明日から本気出すと言って それを繰り返すものである。
では、低学歴はどうだろうか。 低学歴も、高学歴になることを諦めているのだから、 同様の論理が適用出来るのではないかと思うかも知れない。
その考えは、大体は合っているが、性犯罪者というほどにはならない。
東進の林修は、最後の授業においてこのようなことを言うらしい。
「これから一ヶ月間、必死に勉強しろ。 必死に勉強すれば、結果がどうであれ、人生の糧になる。 必死に勉強しなければ、結果がどうであれば、 自分は一ヶ月間すら必死に努力出来ない人間なのだと 生涯苛まれることになる。」
この論理を学歴の高低に適用すると、 仮に必死に勉強した結果が低学歴なのだとしたら、それは別に構わない。 しかし、必死に勉強せずに低学歴なのだとしたら、その人は確実にだめだということになる。 ただ残酷なことに、最大に努力した結果低学歴なのだとしたら、 それはやっぱりだめということになるから、 結論として低学歴はやっぱりだめということになる。
実際、使えるか使えないかは概ね出身大学の偏差値と相関がある。 特に、論理的思考力など仕事をする上で重要な能力は、 低学歴の人には備わっていないことが多い。 生まれつき知能指数が低い場合は受精卵しかやり直すしかないが、 そうでない場合でも、思考力というのは思考しなければ養われることはない。 難関大学の問題は思考力を要求するため、受験生の中には その訓練のために難問を何時間も考え続けたという経験をしたものが少なくない。 中学受験出身者の論理的思考力が高いのは、膨大な量の論理パズルを幼少期に訓練しているからだ。 だから、低学歴は基本的には使えない。
しかし、その使えない度は、難関中退者よりはマシだとは言える。 大学受験は時の運もあるし、環境によって十分な準備を出来なかった人もいるだろう。 それに、大卒と高卒の差に比べれば、大学の偏差値の高低はそこまで大きな問題ではないから、 誰しもが最大限の努力をするという前提には無理がある。 実際、マーチや関関同立レベルで十分に高学歴という価値観を持っている人の方が大多数であることは間違いない。
だから、偏差値が低い大学出身の人間でも、 大学に入ってから努力をして、そこから伸びてくるというケースはある。 しかしそれは決して一般的ではない。
安楽死を認めると安楽死を強制する圧力が生まれて「強制的な自己決定による自死が生まれる」という考え方は論理的か。間違っているか。詳細に検討し批評しろ。
あなたが提起した問題は、倫理学、社会学、法学などの観点から広く議論されている重要な問題です。安楽死を認めると、社会に「強制的な自己決定による自死」の圧力が生まれるという主張は、いくつかの論理的な前提と結論に基づいています。
前提1: 安楽死が法的に認められると、それは個々の自由と尊厳を尊重するという社会的な価値観を反映しています。
前提2: しかし、一部の人々は、安楽死が認められると、高齢者や重病者など、自己決定が困難な人々に対する圧力が生じる可能性があると主張します。これは、社会が生命を終えることを容認することで、生きることの価値が相対的に低下し、生きることへの支援が減少する可能性があるという懸念から来ています。
結論: したがって、安楽死を認めると「強制的な自己決定による自死」の圧力が生じる可能性があるという主張は、これらの前提に基づいて論理的に導かれます。
しかし、この主張が必ずしも正しいとは限りません。それは以下の理由からです。
反論1: 安楽死が法的に認められている国や地域では、厳格な規制と手続きが存在します。これは、不適切な圧力がかけられることを防ぐためのものです。したがって、法的な枠組みが適切に設計されていれば、「強制的な自己決定による自死」の圧力を防ぐことが可能です。
反論2: 安楽死を認めることが必ずしも生きることへの支援を減少させるとは限りません。社会は、生と死の両方を尊重するバランスを見つけることが重要です。
したがって、この問題は非常に複雑で、多角的な視点から考える必要があります。それぞれの社会や個々の価値観によって、答えは異なるかもしれません。重要なのは、公正で包括的な議論を通じて、最善の解決策を見つけることです。この問題についてのあなたの意見や考えを聞かせていただけますか?
この度、SpotifyはRiversideとのパートナーシップを強化することになりました。これにより、最先端の機能をSpotify for Podcastersで利用できるようになります。Riversideは優れたプラットフォームで、あらゆるタイプのポッドキャスターが使える、AIを活用したパワフルな収録ツールと編集ツールを提供しています。2022年にRiversideと初めてパートナーシップを結んで以来、世界中のトップポッドキャスターがRiversideの高度なツールを活用し、より魅力的なポッドキャストを生み出してきました。Riversideは、現在Spotify for Podcastersで提供している機能と同様のポッドキャスト制作機能に加え、ポッドキャスターが制作レベルをアップするのに役立つ新しいビデオツールやAIツールを提供しています。
本日リリースされた新しい統合機能では、ウェブ版のSpotify for Podcasters上でRiversideの機能を使ってオーディオポッドキャストやビデオポッドキャストの収録や編集を行えます。たとえば、Spotify for Podcastersでゲストを招いてリモートインタビューを収録できるほか、スクリプトに沿って音源に詳細な編集を行うこと、公開前にRiversideの包括的なAIツールを使ってシームレスにコンテンツの調整や最適化を行うことができます。以下のビデオでは機能について詳しく説明しています。
この統合機能のリリースと並行して、Spotifyは現在のポッドキャスターのニーズにより応えるため、リソースを投じる重点分野を見直し、従来のツール開発ではなく次世代のポッドキャストの発展に注力することにしました。この変更に伴い、Spotifyでは今年6月の初旬に、ウェブ版とモバイルアプリ版の制作ツールの提供を終了します。これには、収録ツール、編集ツール、「Music + Talk」のフォーマットが含まれます (Music + TalkはSpotifyで配信しているポッドキャストエピソードにフルライセンスの楽曲を追加できる試験的な機能です)。
これまで通り、Spotify for Podcastersに完成したオーディオポッドキャストやビデオポッドキャストをアップロードして、配信、管理、収益化(一部の国が対象)を行うことが可能です。また、既存の公開済みエピソードはすべて変更されず、引き続き配信されます。詳しくは、こちらのヘルプセンターをご覧ください。
Spotifyは、ポッドキャストや番組のさらなる発展を目指し、これからも皆さんの声に耳を傾け、学び、改善を続けてまいります。そして、ベテランか新人かに関わらず、ポッドキャスターの誰もが魅力的なポッドキャストを制作できるプラットフォームの構築に尽力します。番組を見つけてもらいやすくする機能、熱心なリスナーとの交流機能、ポッドキャストの収益化を実現する機能といった今後のお知らせにもご期待ください。
どうせ母親に任せっきりなんだろう?
8割は俺が担った自負がある。
オシメ交換は9割俺がやった
土日の終日95%俺が面倒見てる。
まぁ俺が好きだから作っただけで8割が俺が消費していたが、まぁ作った
子どもたちが集う公園には精神ギリ暴発寸前のヤツれた母親を大勢見かける、ブチギレシーンを何度も目撃した
ウチ一度もねぇのよ
そりゃもちろんダダをこねることもあるがせいぜい3歳まで、ほぼ記憶が無い
公園から帰りたくないとか玩具買って、地面に転がって手足バタバタは1度あったが、我が子にもとうとうこの時期が来たかと嬉しくなりビデオ撮影した。
その後、次こそ最高の映像を残してやると待ち構えていたがついぞやらずに4歳、5歳を経過。
もうやらんだろう
イヤイヤ期も無かった、健全な成長に必要な時期だと本に書いてあったのでイヤイヤ期をやれと命じたことがあるが、拒否られた
泣きじゃくる、癇癪を起こすことも稀にあったが、数えるほどしか覚えてない
人間含めた哺乳類は抱きしめて胸の圧迫と皮膚刺激を与えると落ち着く。リッキンギ、グルーミング。
海馬の糖質コルチコイド受容体、視床下部からの副腎皮膚刺激ホルモン分泌に対するネガティブフィードバック機構に作用する、しろ、さぁ交感神経活動の正常化、カテコールアミンの分泌を抑制せよ、とか考えながら30秒も抱きしめていれば落ち着く、チョロイ。
押さえつけてるだけだろ?
好き放題させている
公園で遊びたい、帰りたくない、真っ暗の砂場で飽きるまで待ってやったのは10回20回では無い
面倒な説得やら交渉やら説諭するくらいなら俺は俺でスマホでネットでもやってりゃいい。
目を離した隙に砂を食ってたりしたこともあったが、腸内フローラの多様性、幼年病原体とのエンカウントはむしろ有益であるとの論文もある、どんどん食え。
タブレットやスマホも専用機を与え自由に使わせており、一応は制限時間を儲けているが時間でロックかかると
目が悪くなるかもしれんが、なぁに彼が大きくなることにはips細胞とかでちゃちゃっと直せるようになるのではなかろうか、しらんけど。メガネかけりゃいい。
玩具買ってくれ、買いますとも、せいぜい数百円、数千円、数万円のものだ
ウチは貧乏だから、との説得をそれとなくしたらあまり無茶は言わなくなった、値札を見て「これならどう?」みたいな、挙げ句に「ウチは貧乏だから我慢する、お金持ちになったら買ってね、っていうか俺が自分で買うわ」とか言い出した
念のため、悲壮感はゼロだからね、子供は笑いながら冗談半分に言うてる。
なんというか、部屋にゴミ増えるのうぜぇっ等々大人の諸事情的なこともざっくり包括的に理解してくれてる感じ、天使か、
出かける時は服も着させる、自分でやらない、パパやって
無理にやらせようとしても遊んでいるだけで逆に面倒くさい、ならばさっさと俺が着せたほうが早い
まさか10歳二十歳になって、パパ靴下捌かせととは言わんだろ、そのうち勝手に自分でやりだす。
甘えてるだけ
甘えが悪いとは思わん、5歳なんて「生きるの楽しい」って記憶だけ刷り込めば十分だと思ってる。
「今日は運が良かったね、楽しかったね」子供の口癖、俺がよく言ってやるのを真似た。
なにか少しでも楽しいことや新しいものに出会えたらそうやってフラグを打つ、記憶する
そうそう、そう言えばトイトレも楽だった。
幼稚園に入る前に終わらせなければと少々焦ったが、入園数週間前に秒で終わった
おねしょは1度だけだった。ちょろい
先日、公園で遊ばせていると「パパ来て」、公園では勝手に遊ばせる、
友達がいれば友達と遊んでいるし、誰も居なければ適当に同年の子供を見つけて友達になって遊んでる。楽でいい。なんか知らんが走り回ってる、何が楽しいのかねぇ
そんな息子が満面の笑顔で「雲梯最後まで行けた見てくれ」と、アレをしろこれをしろという指導や誘導は一切しないが勝手に雲梯の練習を初めて、しばらく2,3ステップまでしか進めなかったがようやく最後まで渡り切れたようだ。
雲梯で脳が活性し利口になることは知っている、頑張ってやってくれ
補助輪をつけるのが面倒くさかったのでそのままやらせていたら小一時間で習得。
ビュンビュンと走り始めた、とにかく楽で良い
公文だのピアノ、絵画、水泳、皆さんいろいろされているが一切無し
風呂場にスピーカーをつけて好きな音楽を流せるようにしているが、元気に鬼滅とポケモンを歌っている。そんなんでいいんちゃうの?一応俺はピアノが弾けるが
先日、図書館で3歳まで公園でよく一緒に遊んでいた母子と再会した
突然来なくなったのだが習い事全部入りなのは知っていた、育児マニュアル信奉親、公園では裸足で遊ばせてた
その子を見て、正直勝ったと思った、いや勝ち負けとか言うちゃダメなのは百も承知、二百も合点なんだが、感じてしまったものはしょうがない
彼は生命力と覇気がスポイルされた目をしていた、可哀想に、だがそれも親の愛だ
アホだと思うが。どうにもできん。頑張れ
スポーツクラブに通う彼の筋力、体幹は明らかに俺の息子に劣っている、事実だから仕方がない
俺の息子はひらがなを一つも書けないが、彼はカタカナも書けるだろう
なぁに文字なんて小学生になってから嫌でも習う、60にもなってひらがなが書けない以下略
就学してから、こんなの全部やってるもーん、よゆー、から教育が始まるのと
え?俺全然できない、みんなできるの?ヤベ、勉強頑張らないと不味くね?
息子は超絶負けず嫌い、そこで折れない諦めないフォローと自尊心や自己肯定感を養ってやれば良い
スポック博士の育児書の初版本を図書館で書庫請求して取り寄せてもらった(平成元年の三版しか残ってなかった)
つまり、まー、こんな知見はどれほどの支持、権威や科学やデータだと言うても、ほらみてみ、変わるのよ、間違えてるのよ
だがあの本はぶっちゃけ役に立った、「いろいろ書くが、子供なんて頑丈だから簡単には死なない、自信持って自分のやり方で育てなさい」だってさ
そのまんまやんけw
コメントいっぱい貰った、ありがとね
俺も何度かある、それ子供悪くないよね?叱るところじゃないよね?その叱り方じゃないよね?
精神的にギリなのもわかる
だからさ間違っててもいいんだよ、子供は育つ、育てやすい子、そうでない子、色々なのもわかるが、もう少し肩の力を抜いて子供を育てない?
正しい子育てなんてなくね?マニュアル頼りの子育て、測りすぎの育児を少しだけ見直す
書きたかったのはそういう事です。
賃金の向上は、労働者のモチベーションや生活水準の向上につながることがあります。しかし、AI(人工知能)や技術の進歩もまた、業務の効率化や新しい仕事の創出などに寄与しています。これらの要素は単純に否定すべきものではなく、適切に統合されればより良い社会や経済の実現に貢献できる可能性があります。
賃金の向上が必要である一方で、AIや技術の導入も慎重に進める必要があります。これらの変化が労働市場に与える影響や、技術の進歩が不均衡な分配を生む可能性に対処する必要があります。賃金の向上や技術の活用、社会的課題への対応は、総合的なアプローチが求められます。
AIは労働力の一部を代替する可能性がありますが、同時に新たな職種やビジネスの分野を生み出すこともあります。重要なのは、人間とAIが共存し、お互いの強みを最大限に生かす社会を構築することです。適切な教育やスキルの向上も重要であり、これによって人々は変化する環境に適応し、新しい機会を活かすことができます。
経済や社会の変革には時間がかかるものですが、バランスを取りながら進めることで、より包括的で持続可能な未来が築かれる可能性があります。
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AIにより一部の職種が自動化されることで、一部の人々が職を失う可能性があります。ただし、同時に新たな職種や産業が生まれ、変化する労働市場において新しい機会が提供されることも期待されます。以下に、AIによる職の変化に対処するための可能性がいくつか挙げられます:
スキルの再編成と教育: 失業者や影響を受ける労働者に対して、新しい技術やスキルを学ぶ機会を提供することが重要です。教育・トレーニングプログラムが、変化する職業に適応するための支援を提供できます。
創造的な産業の成長: 新しい技術が導入される中で、それに関連する新たな職種や産業が成長することが期待されます。例えば、AIやロボティクスの開発、メンテナンス、データ解析などの分野で需要が増加する可能性があります。
サービス業や人間性に関連する職種: 一部の職種はAIによって自動化されやすい一方で、感情や人間性が必要な職種は引き続き需要があると考えられます。介護、教育、カウンセリングなど、人間同士の関わりが不可欠な職種が重要性を保つ可能性があります。
起業家精神: 失業者や影響を受ける人々が新しいビジネスを始めることも一つの選択肢です。新しいアイディアやサービスが求められる中で、自らのスキルや経験を生かして新たな道を切り開くことができます。
重要なのは、社会全体がこの変化に対応するために協力し、柔軟性を持って対応することです。政府、企業、教育機関が協力して、労働者が新しい環境に適応し、機会を生かすためのサポートが提供されることが求められます。
その謎を解明するため調査隊はインターネットの奥地へと向かった
その結果、英語圏の歴史解説YouTubeチャンネルを発見した
Why Do We Throw Coins in Fountains?
動画の字幕の書き起こしをChatGPTに翻訳&要約してもらった
毎年、世界中で私たちは噴水から井戸、さらにはテーマパークの乗り物まで、コインであらゆるものを飾ります。私たちは幸運を求めて、願いが叶うことを望んでいます。場合によっては、ローマで誰かと結婚するためにもコインを投げます。この伝統は時代を超えて広まり、その起源は古代ローマにまでさかのぼります。ローマの公務員であるガイウス・カエキリウス(別名:プリニウス・ユニオル)が書いた手紙によれば、人々は清潔な泉に感謝の意を表す形で贈り物を投げ込むようになりました。当時、清潔な水は非常に貴重であり、神々への感謝の印としてコインを投げる習慣が広まりました。この伝統は今でも続いており、ローマのトレヴィ噴水が特に有名です。また、映画「Three Coins in the Fountain」でもこの伝統が取り上げられ、ロマンティックコメディの要素として広まりました。噴水に投げられるコインは、都市や観光地の収益の一部として寄付されることもあります。
要約の結果、元動画が言っている内容とちょっと違う文意になっている箇所があるな……
しかし歴史解説YouTubeチャンネルの内容をを鵜呑みにするのはちょっと気が進まない
調べるとっかかりとしては役に立つんだけどね
あと、この解説はアジア圏のコイン投げについての観点がまるっと抜けている
中国人が願掛けとして飛行機のジェットエンジンに向かってコインを投げ入れようとした、というニュースがあるくらいだ
すなわち、現代の池へのコイン投げの風習は二つの源流があるはずだ
ひとつは西洋起源、小プリニウスが書き記したそれであり、コインを投げ入れて願い事をするヨーロッパの民間伝承「Wishing well(「願いの井戸」と訳すべきか)」を経由してトレヴィの泉に辿り着くルート
もうひとつはアジア圏のいわゆる願掛け目的のいわゆる「賽銭」を辿るルート
二つに分ける意味はあるのか……?
うーん
どうだろう
ないかも
あるということにして調べよう
映画「Three Coins in the Fountain」がもしも存在しなければ、西欧圏でコイン投げの風習は廃れていたかもしれない
しかしその映画があろうとなかろうとアジア圏の人々はコインを投げて願掛けする風習を続けていたであろう……気がする
あとで二つに分けて考える意味は無かった時点で考えを改めればいい、ということにしておこう
RedditやQuoraでも「なんで中国人って池や川にコイン投げるの?」みたいなトピックが立てられいるのを確認した
(そしてそれに対する回答は「コイン投げの風習は世界中にありますよ」というもの、質問者が知りたい内容とはちょっとずれている気もする)
「キリスト教の教会に併設されている池にコインが投げ入れられて困った」みたいなスレもたっていた
というわけでイスラム教とユダヤ教でコイン投げによる願掛けがどう認識されているかもぐぐりましょうね
ユダヤ教はなんか出てきた
ラビに「願いを込めて願いの井戸にコインを投げることは何か悪いことですか?」とユダヤ教の教義に反していないか質問する内容のサイトが引っ掛かった
解釈によってはセーフだけどあんまり推奨しない、みたいな空気感の回答だな
コイン……つまり金属製の硬貨のみが投げ入れられるのか?という疑問もある
貝製の通貨、貝貨を池に投げ入れるみたいな文化がある地域ないかな~
パプアニューギニアは現在も貝貨を使っている人々がいるみたいだが、願掛けとして貝貨を投げるみたいな記述は見つけることが出来なかった
パプアニューギニアのなんかでっかい噴水のストリートビューを探して金属コインの他に貝貨が沈んでないか探してみてもいいかもしれない
まあおそらく無さそう
お葬式で貝貨を精霊に扮した人に向かって投げるみたいなことはやるらしいんだけど……
そもそも何で調べ始めたかって「海外……例えばアメリカでは合格祈願の願掛けとかするのかな?」と思って
ぐぐった結果は「願掛けしない」というもの、まじかー
教会でお祈りとかする人もいるにはいるけど、願掛けするくらいなら勉強しましょうねみたいな考えをするってなんかのブログに書いてあった
例えばかつ丼みたいな勝負飯食べたりお守りを買ったりみたいな風習もないっぽい
いやー……そうはいっても欧米人だって水にコイン投げて願い事するじゃん?池にコイン投げて合格祈願とかしないの?
そこらじゅうに願掛けスポットが大量にある日本が特異、ということだろうか
まあまあ、結論を急ぐことはない
もうちょっと調べましょうね
賽銭とトレヴィの泉を一括りにして包括的に投げ銭文化について論じた論文をまだ見つけることが出来ていない
投げ銭に限らず「迷信」というテーマで調べてもいいかもしれないな
……といった感じで調べた内容を一旦メモ
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太宰府天満宮の菅原道真公のような受験、学問を司る守護聖人にお祈りするみたいな風習があるかどうかを調べること
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平等大臣のリズ・トラスがイギリスの団体が行なっているジェンダー・イデオロギーを含む小学 生向けの教育内容を批判
英国の平等監視委員会が、ストーンウォール(イギリスの大手LGBT活動家団体)と手を切ったと報道
平等大臣のリズ・トラスが全ての政府機関がストーンウォール(イギリスの大手LGBT活動家団 体)のプログラムからの撤退を指示
2022/4/6
英国首相ボリス・ジョンソンが、親権の制限を伴う「ギリック能力テスト」を批判
ジェンダー・セルフID制度の法案をきっかけに、スコットランド首相のニコラ・スタージョン が辞任
アイルランド首相が「生物学的男性は女性刑務所に収監されるべきではない」と答弁
ケミ・バデノック平等大臣が、女性の法的保護のために平等法の書き換えを検討していると報道
男子校や女子校にトランスジェンダーの学生(法的性別と異なる性自認を持つ生徒)を受け入れ ないことを許可
英国自転車競技会が「トランスジェンダーを名乗る男」の女子大会出場を却下
イギリスの与党である保守党が、生物学的性別に基づいた政策に舵を切っていると報道あり
スティーブ・バークレイ保健長官や内務大臣スエラ・ブレイバーマンが女性スペースへのトラン ス女性の立ち入りを制限する方針を発表
なんかネットでは信用のならない議論が繰り広げられているが、こういう時は信頼できるテキストに当たらないとダメだ。(ネット民のご意見なんか糞食らえなのはもとより、学術論文も、多くは新しい説を主張するために書かれていたりして、そのエビデンスレベルを読み誤るリスクが高い。)
信頼できるテキストといえば、信頼できる出版社から出ているコンメンタールである。ちょうど昨年6月に弘文堂の「条解」シリーズから著作権法が出たところだ。
以上のように、著作者人格権の譲渡や放棄が困難と解されていることから、実務上は、著作者人格権の不行使契約が広く用いられている。
(…)
従来の議論においては、著作者人格権の不行使契約(特に包括的な不行使契約)については、その有効性を否定する見解が少なくない。
これに対して、著作者人格権の不行使契約の有効性を明示的に肯定する見解もある(田村411頁、内藤167頁以下、高瀬亜富「著作者人格権不行使特約の有効性−一実務家の視点から」コピ662号(2016)48頁等参照)。また、起草者も、実演家人格権についてではあるが、
「本条〔90条の3〕の「同一性保持権」と前条〔90条の2〕の「氏名表示権」はいずれも「人格権」ですが、権利者と利用者とでこの「人格権」の不行使特約(権利を行使しないという契約)を結ぶことも当然ながら可能でございます。なぜなら、著作権は「私権」であり、権利者はこれを行使するかしないかを契約によって自由に決めることができるからであります」と述べている(加戸639頁)。(…)
以上のことから、著作者人格権に関する契約の有効性については、著作者人格権それぞれの性質を踏まえつつ、意思の明確性と具体性を考慮して判断すべきであるように思われる。また、同一性保持権については、20条2項4号が「著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変」を許容しており、そこでは諸事情が考慮されることから、包括的な不行使契約が締結されていたという事情もその一要素として考慮すべきものと考えられる(以上について、上野・前掲52頁以下、上野達弘「著作物の改変と著作者人格権をめぐる一考察−ドイツ著作権法における「利益衡量」からの示唆(2・完)」民商120巻6号(1999)959頁以下参照)。
ちなみに文化庁の著作権契約書作成支援システムでは、そのマニュアル8頁において
なお、利用者に自由に使わせる必要がある場合などは、著作者人格権を行使しない旨を規定する例も見受けられます。この場合、著作者としては、依頼者が著作物を改変、修正した場合や著作者の氏名を表示しなかった場合でも異議を述べることができないといった不利益が生じるため注意が必要です。
と注意を促した上で、同システムが出力する契約書では、たとえ改変を許諾する場合であっても
規定例(一定範囲での変更を認め、かつ、氏名表示を要しない場合)
第○条(著作者人格権)
1 甲は、乙が本著作物を利用するにあたり、その利用態様に応じて本著作物を変更したり、一部を切除したりすることを予め承諾する。ただし、乙は、これらの改変であっても本著作物の本質的部分を損なうことが明らかな改変をすることはできない。
2 乙は、前項以外の改変を行う場合は、事前に甲の承諾を得なければならない。
といった条文を出力するようにしている。
なお、議論のきっかけになった事件では、原作者が著作者人格権に基づき介入を行い実際に意向に反する映像化を防止できているから、著作者人格権の不行使契約は締結していないと思われる。
①一般化の誤り:
文章は左翼、フェミニズム、リベラルなどの広範なグループ全体に対して非難を向けていますが、これらのグループ内には多様な思想と行動様式が存在します。全員が述べられたような行為に関与しているわけではなく、一部の個人や行動をもって全体を評価するのは不公平です。
文章では、特定の集団が被害者役を演じることで利益を得ようとすると主張していますが、実際には社会的な不正や不平等に対抗するために声を上げる人々も多くいます。彼らの主張を一概に「冤罪を被せる」と解釈するのは、社会的な議論や問題提起の重要性を過小評価するものです。
③嫌がらせ行為の誇張:
文章で述べられている嫌がらせ行為の例は、特定の状況におけるものかもしれませんが、これをもって全ての左翼・フェミニスト・リベラルが同様の行動を取ると結論づけるのは不当です。また、このような行為は個人の道徳的または法的責任に関わる問題であり、特定の思想や運動全体の性質を示すものではありません。
社会的な運動や思想が持つ多様性と複雑性を理解するためには、批判的な一般化ではなく、オープンな対話と深い理解が必要です。異なる視点を持つ人々との建設的な対話を促進することで、誤解を解消し、より公平で包括的な社会を目指すべきです。
⑤社会的変化への貢献:
左翼、フェミニズム、リベラルなどの運動は、歴史的に見ても、性別や人種、経済的不平等など、多くの社会的問題に対して重要な役割を果たしてきました。これらの運動が社会的正義や平等の向上に貢献している側面も認識する必要があります。
要するに、この文章への反論は、一部の行動をもって全体を評価することの不当性、社会的議論の多様性と複雑性への理解、そして異なる視点間の建設的な対話の重要性を強調しています。
町長により参加者が町内外より200名を超えると報じられたが、横瀬町全体の住民数が7,749名であることを考えると、参加率はわずか2.5%に過ぎません。
この比率は、フォーラムが町民の広範な関心や意見を代表しているとは言い難く、少数派の意見が過度に強調される【エコーチェンバー現象】に陥る可能性があることを示唆しています。
9割を超える住民がフォーラムの存在自体を知らず、または無関心である可能性があります。
フォーラムの参加者の中には、町役場の職員、議員、地区長などの公務員が多数を占めていたと報告されています。
これは、イベントが【内輪の交流に終始】し、外部からの新鮮な意見が不足していることを示唆しています。
実際、多くの非参加者たちが、このイベントを閉鎖的なものと認知しています。
よこらぼにおいて、過去に提案された225件のアイデアのうち、135件が採用されましたが、それについての具体的なフォローアップや成果の共有が圧倒的に不足しています。
公式ウェブサイトでは、これらのプロジェクトの進行状況や成果に関する情報が見られず、イノベーションの実現に向けた実質的な進捗が確認できません。
これは、よこらぼが成果を適切に評価し、サポートする機会を逃していることを意味します。
フォーラムの登壇者は採択者135名の内15名だけであり、その選定理由は明かされていません。
横瀬町は多様性を尊重するコミュニティを目指しているカラフルタウンと公言していますが、このフォーラムの実施状況は、その理念とは異なる結果を示しています。
批判的な意見や異なる視点は、コミュニティの成長に不可欠ですが、このイベントはそれらを十分に取り入れていません。
結論として、横瀬町よこらぼ大会議2024は、町の多様性とイノベーションを促進するための重要な機会であるにも関わらず、その潜在能力を活かせていないようです。
税収の多くを占める石灰産業など、地域経済を支える主な要素への支援が不足している点です。
イノベーションに投資することは重要ですが、既存の産業やインフラの強化も重要であるべきです。
兎沢町有地の開発といった高額なプロジェクトが積立金を切り崩し実施される予定ですが、その投資が長期的で確実性の高い利益をもたらすかどうか検討も町民への説明も十分ではありません。
横瀬町は、外見だけでなく、実質的な成長と自立を目指すべきであり、このようなアプローチは、持続可能な発展と住民の幸福に貢献します。
だからさw
法律のテクニカルな話とお気持ちの議論を分離しろというのが俺の論旨なのに
それすらも分かってないでしょ?
原作に忠実にってのは文書契約に無い口約束でしか無い、こんなものどこまで詰めてもお気持ち議論にしかならんの
一方文書契約上は明確に同一性保持権の放棄を包括的に承諾してるの、契約書を読んだわけではないがその承諾が得られなければ原作ビジネス、ドラマ化なんて不可能なの
漫画家が契約にあたり契約書を隅々まで読んで理解し、専門家のリーガルチェックを受けて想定されるトラブル、主張できる権利の保留がどこまでされているか確認
んなもんなーんもやってないのよ
自殺した漫画家を悪く言うつもりは無いけどね、スマホのアプリをインストールするときに利用許諾文書を読むやつなんていねぇ
それでも社会は回ってる
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
あほらしいけど興味はあったので、例によってChatGPTに投げたら、
概要:
本書は、現代の社会において、男女平等が進む中で、男性がより魅力的になるためのフェミニズムの理念やアプローチを探求するガイドです。伝統的なモテる要素に加えて、フェミニズムの視点から見た新しいアプローチや考え方を提案し、読者がより意識的で包括的な視点を持つことで、より深い人間関係を築く手助けをします。
みたいな感じで返してきた。
そんな本が本当に売れると思うの? 想定読者は誰? 「消費者を変えようと思うな」がマーケティングの鉄則なんだけど、みたいな感じで詰めたら、
概要:
本書は、モテるための新たなアプローチを提案しながら、読者の既存の価値観に寄り添うことを目指した実践的なガイドです。フェミニズムの理念を取り入れることで、男性がより魅力的になる秘訣を紹介します。新しい価値観に焦点を当てつつも、読者の期待に応えるエッセンスを凝縮した内容で、楽しく読みながら実用的なスキルを身につけられる一冊です。
みたいな感じで曲線的に答えてきた。
先日、anond:20231119130355 を書いた。
この記事では「心の性別」は固定概念由来だと書いているが今回はそれを更に掘り下げようと思う。
近年、「(特定の性別)らしさ」から解放される社会が目指されているが、その中で頻繁に使われる言葉の一つに「心の性別」がある。これは、LGBT関連の文脈で生まれ、個々の性自認に対して理解を深めるために使われることが多い。しかし、この言葉にもまた、固定概念が含まれていると感じている。
前回の記事では、「心の性別」が「(特定の性別)らしさ」から来ているという立場を掲げ、男女の固定観念から派生していると主張した。これにより、「心の性別」が新たなラベルを作るだけでなく、本質的な問題に対処する上で不十分であるという考え方を示唆した。
この考えを更に深めると、私は「心の性別」の非存在論に辿り着く。言い換えれば、生物学的な性は存在するが、心理的な性は存在しないという立場だ。最終的な主張は、「すべての人は生物学的な性を持つが、心の性別は存在せず、今ある言葉で言い換えると「ノンバイナリー」である」というものだ。
「心の性別」が存在しないとする立場は、性に対する既存の二分法に疑問を投げかけ、個々の人間の多様性をより包括的に理解しようとするものである。生物学的な性は体の構造から明確に定義されるが、心理的な性は人それぞれ異なり、一様に分類されるべきでないとの考え方だ。
この立場では、「ノンバイナリー」が適切な言葉であると考える。心の性別が存在しないとすれば、男性または女性に拘束されず、各人が単一の性別に縛られない存在であると捉えるべきだ。最終的に、心の性別は個性の表れであり、その本質は一人一人異なるものであると断言できる。
この立場は、性に関する社会的な期待にとらわれず、個々の人間をより包括的に理解するための新たな視点を提供している。性に固定されない多様なアイデンティティが尊重され、受け入れられる社会の構築が求められていると言えるだろう。
たとえば、増田に「全人類の男性を代表する男性ならではのグローバルかつ包括的な視点」で意見を言って欲しいと言われたらどうする?
全人類の男性には、黒人、白人、ありとあらゆる人種が含まれるのに、ただ自分が男性であるというだけで、それらの男性の視点で意見を言えると思う?
せいぜい、言えるとしたら日本人のあなたの世代のあなたの街で育った男性の視点が精いっぱいじゃない?
もっと言えば「増田さんならのではの視点」で意見を言って欲しいと言われたら、すごく楽に意見がいえるでしょ?
女性もそうなんだよ。
1人の女性が体験できるのは、その一個人の女性としての体験に過ぎず、その個人の体験をもって、「女性ならではの視点」と言われたら、困るんだわ。
全ての女性はどうせ大した体験をしてないから、誰に聞いても女性ならではの視点で意見が言えると思ってるなら、それは女性蔑視だし、
どうせ女性一人くらいの視点では大した意見もでないだろと思ってるなら、やっぱり女性蔑視なわけよ。
女性という性を代表させた意見ではなくて、その個人の、個人ならではの視点で意見を求めて欲しい。
ただそれだけのことなんだ。