「長井龍雪」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 長井龍雪とは

2024-04-18

俺はアイドルマスター XENOGLOSSIAを書いたってだけで花田永久評価してるよ

から俺は長井龍雪永久評価してるよ

 

あと全然関係ないけど大沼心も好き

2023-05-01

レペゼンゼノグラシアを忘れずに超電磁砲でもあの夏で待ってるでもロボット落ちにした

長井龍雪

 

オルフェンズの監督で一気に株を下げきるまでは次世代を担う監督の一人だと思われていたのに。

2019-10-14

空の青さを知る人よ 観てきた。

松平健声優やってるというので観てきた。

若かりし日の徳田新之助(=吉宗暴れん坊将軍)の声から想像もつかないくらい、おじいちゃんな声になってた。

役柄的にはおっさんか。。。

もう30年以上経つので仕方ないですな。。

お話のほうは、、監督長井龍雪さんだったので、いい感じにそつなくまとまっていました。

ただ、AさんはBさんが好きで、BさんはCさんが好き。BさんとCさんの仲を応援するDさんもCさんを好きになる・・・

このドロドロ感はまるで、「凪のあすから」を連想するなぁと思ったら、脚本岡田麿里でした。

岡田麿里は、こういうエモい脚本を書くのが上手い気がする。

今回の岡田麿里はたぶん当たり。

エンドロールの中のフォトアルバムできちんとハッピーエンドになっているのも良かった。

ただ、空から女の子が落ちてくるシーンで、パンツが見えなかったのは物足りなかったかな。

2017-04-10

鉄血のオルフェンズは見てないんだが

長井龍雪監督で良かったのはとらドラとある科学の超電磁砲

ハチクロ2期、あの夏で待ってるもなかなか悪くない

それ以外はいまいち(あの花)、あるいは糞(ゼノグラシア

J.C.STAFFと組んだ時だけいい仕事をする人

かもしれない

監督が糞だっただけなのに何で脚本の話になる

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」の監督長井龍雪(ながい たつゆき

長井龍雪 ながいたつゆき です

オルフェンズの監督は、ながいたつゆき です。

 

>影響を受けたアニメ監督富野由悠季を挙げており、「作品内で生々しく人間を描く所が、自分作風の根っこになっている」と語っている

 

らしいです!

2015-10-27

誰がオタクと呼ばれ、誰がオタク自称たかオタク史で振り返る

はじめに

90年代後半からオタク論が学術的、サブカル論的に語られ始め、2000年過ぎあたりを境に徐々に下火になっていった。ネット個人サイトにおいてもオタク史やオタク論をまとめたものはいくつも見つかるが、その多くも2005年前後で語ることをやめている(その意味では『オタク論の死について』(エフヤマダ, 2014)はオタク論の現状に対する貴重な指摘である)。

本稿は真のオタクとは何であるかとか、データベース消費や心理学がどうこうといった話には一切言及しない。本稿の目的は誰がオタクと呼ばれ、誰がオタク自称したのか、その変遷を整理することである

おたく」の誕生

第一回コミケ1975年12月に開催されたが、この時点で彼らはアニメファンやマニア自称しており、オタクではなかった。もっと二人称としての「おたく」はそれ以前のSF大会から広く使われており、そうした状況から一部で彼らを「おたく」と揶揄していたという指摘は存在する(岡田斗司夫, "オタク学入門", 1996)。とはいえ、彼らを「おたく」と明文化したのは1983年中森明夫によるものという点で見解は一致していると言っていいだろう。

運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴ら」「栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタ」「女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴ら」(中森明夫, "『おたく』の研究(1)", 漫画ブリッコ(1983))

中森はこのように「おたく」を形容する。この時「おたく」に知識量や購買力などは一切要求されておらず、現代で言えば非モテコミュ障ブサイクへの侮蔑の言葉であった。この連載は批判意見の殺到により早々に打ち切られるが、一方、オタク達は自虐を込めて「おたく」を自認するようになっていく。

世間的な「おたく」の誕生

ほぼオタク界隈の内部でのみ使われてきた「おたく」は、1989年宮崎勤連続幼女殺人事件で一気に世間に知られることとなる。宮崎は6000本のSF、ホラーアニメを録画したビデオテープを所有しており、この点からマスコミは「宮崎のような非コミュインドアブサイク」の代名詞として「おたく」を用い、バッシングを展開した。

この時高校生だったあるオタクは次のように当時を述懐する。

オタク、かっこ悪い?」

そういう問い自体出なかった

オタクは格好の悪い生き物だ」

侮蔑され諦観

故に侮蔑され故に諦観

数珠つなぎの輪がぐるぐると回っていた気がする

(中略)

おい あれ

アニメコミックだって

プッ

オタクだよオタク

ぎゃはははは

宮崎だよ宮崎

オイロリコン部ーッ

幼女さらうんじゃねーぞーッ

ぎゃははははははは

平野耕太, "すすめけん", 月刊少年エース10月号増刊 エース桃組(2004))

世間宮崎のような人物をオタクと呼んだ。宮崎のような気持ちの悪い見た目をしているならそれは宮崎であり、あるいはアニメが好きならロリコンであり性犯罪者である。全て一括りに扱われた。

当時の高校生オタクにこうした罵声反論する公の場など当然無く、家族からも白い目で見られ、彼らはひたすら耐えるしか無かった。その意味で、当時彼らにとってオタクであるという自称は「同じ迫害に耐える同志」という意味だったと言ってもいいだろう。

技術革新と濃度差の可視化

岡田現代でいうところの作画厨と考察厨を兼ね備え、またアニメに留まらない広範な知識、教養分析力を有する者を「おたく」と呼んだ。世間からの白眼視に耐えてなお「おたく」であった連中であり、加えて当時は今よりはるかに娯楽の少ない時代であり、情報収集理論武装に傾倒した者が少なくなかったことに不思議はない。

80年代後半からパソコン通信が、そして95年以降でインターネットが徐々に一般家庭へと普及を始める。同人誌即売会と異なり時間的空間的制限無しに、そして同人誌制作に比べてはるかに手軽かつ安価意見交換できる場は、不特定多数オタク間の相互交流を可能にし、各自の知識差が広範に意識され始める。

そして『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明, 1995)が大ヒットを記録する。これにより宮崎勤を知らない世代である高校生を中心にオタク人口は大きく増加し、終盤の難解な展開の考察解釈を求めてネット活用された。ネット黎明期オタクの集う場所はごく限られたこともあり、高度な知識と分析力を備えたオタク存在はより多くのオタクの目に触れることとなり、各オタクの「濃さ」が相互自覚されていった。翻って「自分はあれほどの知識を有しないからオタクではない」といった謙遜も生まれ、こうしてネットオタク人口の拡大によってオタクと呼ばれる者とオタク自称する者のズレは拡大していくことになる。

秋葉原聖地

エヴァ以降、『カードキャプターさくら』(浅香守生, 1999)のようなロリコンアニメから『serial experiments lain』(中村隆太郎, 1998)のようなカルトアニメ、あるいは『カウボーイビバップ』(渡辺信一郎, 1998)など幅広いジャンルで今なお名作とされるアニメが相次いでTV放送され、無垢な若者オタク化を助長し続けた。

他方、オタクをPCに向かわせた要素として95年以降のエロゲにおけるカンブリア爆発的な状況の影響は否定できないだろう。『雫』(Leaf, 1994)に始まるビジュアルノベルの勃興と「泣きゲー」の流行など、現代エロゲベースはこの時代まででほぼすべて確立したと言っていい。

コミュニケーションツールとして、コンテンツ再生機としてPCはオタクの必需品と化していった。これと同期して、それまで家電製品の街であった秋葉原は90年頃からPCパーツの街へと変化し、来店するオタク率の高さからトレーディングカードフィギュア専門店が相次いで秋葉原に出店、秋葉原アキバと化していく(森川嘉一郎, "趣都の誕生 萌える都市アキハバラ", 2008)。

そして2005年TVドラマ電車男』が視聴率20%を超えるヒットを記録する。オタクには「アキバ系」という新たな名前が与えられ、アキバは一般観光客オタクと呼ばれる気持ちの悪い珍獣を生で見ることの出来る動物園として扱われた。

珍獣としての要素については、モーニング娘。に端を発するアイドルオタクによって発展したオタ芸にも言及してしかるべきだろう。視覚的にわかりやすい「気持ち悪さ」を有したそれらの振る舞いは、オタ芸という名前を含め、何をオタクと呼ぶかにおいて一定の影響力を有したと考えられる。

動画サイトによるオタク人口の拡大

2006年に登場したニコニコ動画は、2007年発売のVOCALOIDの登場などを通じて非アングラユーザ、中高校生といった若年層のユーザを多く取り込み、違法合法わず大量のアニメゲームといったオタクコンテンツを抱え込んでいく。

アニメ放送時間が限られ、視聴時間をあわせて見るか、わざわざ録画予約しなければならない。ゲームも安くない金額を支払ってプレイする必要があり、多くの場合プレイ時間は数十時間以上を必要とする。これに対し、動画サイト投稿された動画に必要な手間はクリックするのみであるオタクコンテンツの視聴にかかるコストはかつてと比べ著しく低下した。

またアフィブログの影響も否定できまい。2chのログをまとめて整形し、見やすく要約する形で作られたゲーム系、アニメアフィブログは人気を博し、その読者は当のアニメを実際に見たことがなくともその内容を大雑把に把握し、売上情報スキャンダルを把握する。その情報あくまアフィブログに書かれている内容に留まるが、彼らが一定オタク的知識を有していることはまぎれもない事実である

こうした層はアニメマンガを多少知ってはいるが、深く傾倒しているわけではない。オタクコンテンツ情報収集必要コストが高かった時代、身だしなみ等、オタク趣味以外にコストをかける余裕は無くて当然と言えたが、しかしコストが下がるにつれてオタク趣味以外へ投資をすることは普通になり、まともな容姿で一般的話題も把握した「オタク的な知識を有する何か」が徐々に増え始めることになる。

非モテ」という単語が使われ始めるのは2006年以降であるとのことだが(松谷創一郎, "〈オタク問題〉の四半世紀", どこか〈問題化〉される若者たち(2008))、中森がかつてオタクと呼んだ人々は、こうして「おたく」という乱暴な括りから非モテコミュ障等と細分化し始める。

誰をオタクと呼び、あるいは誰がオタク自称するかは、各々が自分の周囲にいる自分がオタクだと思った人を参考に決定するのだとすれば、ヤバい容姿のいかにも濃いオタクがかつてはどのサークル同好会にもいた(黎明期は全員そうだったと言ってもいいだろう)時代と比べ、2010年に近づくにつれてそうした人物は減少し、あるいは絶滅していったと言え、こうして当人の周辺環境によって誰をオタクと呼び、誰がオタク自称するかの個人差が拡大していったと考えられる(SNSの発達により、小さく仲の良いコミュニティが大量に分散して存在するようになった、という点もあるだろう)。

一方で2007年以降、AKB48握手券商法を本格化させたことにも言及しておきたい。ファンにとって投資金額は熱意と情熱を表すバロメータとして機能した。彼らは自分がどれだけ投資したのかを示し、それによって同じファンから一目置かれるようになる。かつてネットによってオタクの濃度差が知識差として可視化されたと述べたが、投資金額の多寡としてもそれは可視化されるようになっていった、と言ってもいいだろう。

オタク向け婚活パーティの登場から現在へ

細田守監督映画作品は『時をかける少女』(2006)を筆頭に非ジブリアニメながら広く世間に受け入れられ、『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之, 2011)、あるいは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(長井龍雪, 2011)のヒットはアニメを見るというオタク的行為に手を出す敷居を下げ、アニメを見ることは異常ではないという空気を作っていく。

2011年アエルラアイムシングルの2つのオタク向け婚活サービスが開始される。このオタクの定義を見てみると、アエルラは「一つの趣味を愛し、共有したいという気持ちがあれば、それはオタクである」と定義し、アイムシングルでは明確な定義こそないが、「マンガアニメゲーム好き」をパーティ参加の必須条件としている。

筆者が数回体験した範囲に限られるが、実際にこうしたパーティに行ってみるとかつて中森が嘲笑したような「おたく」を見ることはない。いささか一方的な会話を展開する男性は多少いるが、慣れない場に緊張したことの影響も少なからずあるだろう。一方、岡田オタクと呼んだような広範な知識教養を有するオタクを見ることもまたほとんど無かった。面白いことに30代の参加者でも90年代後半のアニメ話題に反応する例は少なく、良好な反応の得られるアニメは概ね2010年以降であった。こうした点から彼らのオタク趣味の範囲はここ数年に限定されており、もともとオタク的であったのかもしれないが、オタク趣味を実際に楽しむようになったのは最近であると考えられ、10代の若者に限らず、幅広い年代でオタク自称、あるいはそうと意識する人口が増えているという認識を抱いた次第である

他方、携帯ゲーム課金要素の充実や2010年以降のアイドルアニメ興隆などから、グッズその他のオタク趣味への投資金額の多寡がオタクとしての熱意の度合いを示すバロメータとして意識されるようになっていく。2015年、TVニュースにて「リア充オタク」が特集され、その「リア充オタク」のオタク趣味への投資は年間2万5千円であると報じられた際、その金額の少なさへの揶揄が主にTwitterで取り沙汰された点は、その意味で興味深いものがある。

おわりに

アイドルオタクアニメオタクを絡めるなら声優のアイドル化への言及本来必要不可欠だし、女性オタクへの言及が明らかに足りていない、ゲームオタクについてなど全体的に漏れが多い点は自覚している。申し訳ない。

また整理の都合上、いささか恣意的に流れを作った部分があることも否定できない。例えばネットの普及+エヴァによるオタク人口の増加→知識格差可視化、という流れは自分でも「本当にそんな単純な話か?」という疑問を抱いているが、ざっくりした傾向というレベルではまぁ嘘ではないだろうと考え記載した次第である

ただ、ある人が誰かをオタクと呼ぶ時、あるいはある人が自らをオタクと称する時、その内容から当人がどういう時代背景を前提としてきたのか、あるいはどういうコミュニティ所属してきたかを推測できることは、会話の食い違いやすれ違いを修正する手助けになると筆者は考えている。

オタク論は死んだが、オタクが絶滅したわけではない。

オタク同士の相互理解の一助に、本稿が幾ばくかでも寄与できれば幸いである。

2015-10-05

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ がなぜ糞なのか1話

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ がなぜ糞なのか1話

総評として、ギアスキャラ世界ガンダムへ混ぜて、アルドノア並に腐らせた糞アニメ

・開幕回想シーンだが、意味がなさすぎて失笑

キャラデザがクソ。おばQみたいに、顔に目玉が貼りついてる。

目の周りの凹凸が一切ない。こんなクソキャラ絵は見た事がない。

なんだよあの角みたいな髪型はアホか。

・一つの作品キャラデザを混ぜすぎw

ガッツと、ギアスシュナイゼルと、昭和マンガデブが混在して爆笑ものである

・親しみの沸かない覚える気にもならない複雑で長いキャラ地名制作バカ

アルドノアやバディコンと同じで制作バカしか居ないのでSFアニメなのに

一切考察がされていない。火星重力対地球1であり、空が青く、大気がある。

この時点で見る価値のないクソアニメ決定。

ラノベ並のガバ世界で、なぜか大人は全員チンピラヤクザみたいです。

子供奴隷毎日暴行されて、基地そばで実弾大砲を撃ち合って練習します。

誤射で全員死んでもいいらしい。

・なんで殴られて黙っているのか?意味が全くわからない。

質量10トンはあるロボがあんなに動くならコンプレッサーエアコンを付けない理由になりません。

付けないで気密があるなら水蒸気でモニター全部見えないじゃん。

ちょっとした破片や衝撃で全身血まみれだろ。アホか。軍人が素っ裸操作とか

腐向けだか知らねぇが勝手ガンダム世界レイプするな。しねバカ制作

新潟デザイン専門学校卒の 長井龍雪 は何を監督してたの?矛盾だらけだろ。

デザインしか学んでないの?バカなの?だったら仕事受けるなよ。中学生以下のバカじゃん。

監獄軟禁されてるわけでもないのになぜ女の話が童貞キモオタ会話なのか?

・大人が居るのになんでキャンプ子供軍団政府要人警護をするのか?

本人が依頼しても通用するわけないだろ。

・どうやら民間人らしいが社員だの一軍だの社会構造が滅茶苦茶である

地球火星支配し、公然独立運動が行われ、

火星大金持ちが本当の姿が見たいとかい意味不明理由

国家転覆活動をし、民間の軍の少年兵が護衛する?

父親が娘を誘拐させる?構成岡田麿里は何をしてたの?

全く理解できない。この構成のどこに面白さがあるわけ?

セリフも酷い。設定説明が9割で、わざわざ「マクギリストクサカンサツドノ」

フルネームで呼び合う様は、視聴者説明している感丸出しですね。岡田まりさん聞いてますか?

ていうか1話で全キャラ出す意味ないじゃん。構成岡田って素人なの?バカなの?

・部屋で普通に座ってたのに、廊下に出ると無重力であるバカwww

セリフセリフをかぶせるので何言ってるか聞こえません。死ね

・整備ドッグタバコを吸って火付いたまま地面に投げ捨て踏みつぶします。

岡田麿里長井龍雪バカコンビには学もなければ、常識もないんですね。

握手のシーンがキチガイ同士にしか見えないのは常識がないから

セリフ言いながら握手求める→男が汚れてる気付く→女が強引に握手する

これで3秒で終わる演出を、なぜ一分もかけて、わざわざキチガイ会話にするのか。

・超SF世界なのに、基地の夜間警備をマシンガンを手で持って兵士がやるバカさ加減。

赤外線センサーすらなく、スナイピングされるまで気付きもしない。

さらに照明弾があがって突然戦闘が始まります。なんで照明弾なんですかね?

岡田麿里長井龍雪バカから考えてないんですね。

・遠くから撃ってきたのになんか戦車だして滅茶苦茶に撃ち始める。

・もう戦争が始まってるのに、バイトシフト相談でもしてるかのように

雑魚兵士4人で1軍と3軍で戦術を会話してるバカ描写

信号弾を撃ったら敵が全部そっちへ行く。そのバカさをキャラ必死言い訳する。

戦争中に素っ裸でずっと戦車の上に棒立ちです。完全にキチガイ露出狂

戦闘描写がいい加減すぎる。敵が奇襲して、なぜ味方の戦車隊が間に合うのか。

・なぜ最初から敵MSが気を使って基地攻撃しないのか?

戦車ですらあれだけ大砲基地まで撃ち込めたのに。

まり戦車でMSから普通に逃げて、ちょうどガンダムが出てきて倒す。

全てがこれだけの為の岡田長井クソ脚本である

最初からガンダムの準備をしておけばいいだろ。無能岡田長井バカコンビしね。

http://mastiff.2ch.net/test/read.cgi/anime/1443245194/149

2015-08-14

劇場アニメ監督の生年一覧

Wikiで調べてつくってみた。宮崎駿監督後継者云々を受けてつくったので、主な有名監督若い監督中心。基本的にはTVシリーズをやってないオリジナルか、小説原作劇場アニメを発表してる監督例外も一部あるけど。

1935年まれ 高畑勲(かぐや姫の物語)

1941年まれ 宮崎駿(風の谷のナウシカ)、富野 由悠季(機動戦士ガンダム)

1951年まれ 押井守(攻殻機動隊GIS)

1954年まれ 大友克洋(AKIRA)

1959年まれ 原恵一(百日紅)

1960年まれ 庵野秀明(ヱヴァンゲリヲン新劇場版)、片渕須直(マイマイ新子と千年の魔法)

1961年まれ 新房昭之(劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語)

1965年まれ 舛成孝二(宇宙ショーへようこそ)

1966年まれ 神山健治(009 RE:CYBORG)、水島精二(楽園追放)、沖浦啓之(人狼)、宇田鋼之介(虹色ほたる)

1967年まれ 宮崎吾朗(コクリコ坂から)、細田守(時をかける少女)

1968年まれ 小池健(REDLINE)

1973年まれ 新海誠(言の葉の庭)、米林宏昌(借りぐらしのアリエッティ)

1976年まれ 長井龍雪(心が叫びたがっているんだ)、宮地昌幸(伏 鉄砲娘の捕物帳)

1979年まれ 平尾隆之(魔女っこ姉妹のヨヨとネネ)

1980年まれ 吉浦康裕(サカサマのパテマ)

1984年まれ 山田尚子(たまこラブストーリー)

1988年まれ 石田祐康(陽なたのアオシグレ)

2015-07-15

新作ガンダム

監督長井龍雪

構成岡田麿里

キャラ原案伊藤悠

とか最高なんだが、欲を言えばGレコのR.C.を膨らませて欲しかったな…

2015-02-07

ラブライブ!は思い返せばお行儀の悪いアニメだった

先日のラブライバー集団による一人のラブライバーイジメの一件からお行儀の悪い信者構成されている事が確認されたが

考えてみたらラブライブ!本編もお世辞に行儀のよいアニメとは言えなかった。

その原因は、少なくとも二つあった。

一つは先のアイドルマスターゼノグラシアの件である

アイマス、後に別会社によって再アニメ化された事もあり、監督長井龍雪など実力派スタッフが手掛けた事もあって再評価兆しがあるが

元々放送当時から原作レイプ懸念され、始まってみてもその期待は裏切られず、一介のSFアニメとすればサンライズもかくたるやという出来であったものの、

構想数年とされてきたラブライブ!の橋渡しとなるわけもなく、ただただお行儀の悪い作品しかなかった。

もう一つは脚本監督海外ドラマから盗作した事とそれに関する悪い意味での反響である

そして特にスタッフに悪びれた様子もなく、そのパクった内容でやり遂げたお行儀の悪さはゼノグラシアの時から変わっておらず、

特典商法でラブライバーなるお行儀の悪い信者釣り上げる商業成功は収められたものの、純粋アイドルアニメファンからはあまりのテキトーさや

杜撰対応などから不信感を募って売上げにも拘らずファンが離れる原因となった。

その証拠掲示板が盛り上がらず個人ブログまとめサイトでも放送後取り上げられ難くなっている事からも明らかである

以上のようにサンライズのお行儀の悪さがそのままラブライバーの素行に反映された結果、先日の物盗りかつ暴行と穏やかでない事件が発生してしまった。

お行儀の悪いアニメにはお行儀の悪いファンが付く、悪い見本としてこれからも輝き続ける事だろう。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん