「1923年」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 1923年とは

2018-11-03

韓国の88歳の大学教授ハングルで書いた文章です。日本語訳します。

韓国の88歳の大学教授ハングルで書いた文章です。日本語訳します。

http://yeoksa.blog.fc2.com/page-0.html

"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。" [チェ・キホ伽耶大学客員教授]

朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います

それは相当な覚悟必要です。生命危険覚悟していますしかし、これは私の使命であると信じています

私はソウルに住んでいました。 そして、時々、平壌東京に行きました。

その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。劇場に行けば映画の前に、戦争ニュースがありました。

例えばニューギニア日本が勝った映像が流れ、拍手万歳暴風雨でした。

私は映画が好きで、東京にも行きましたが、日本人は冷静でした。

しかし、韓国人は全員が狂ったように喜んでいました。 それが普通の姿でした。

なので「親日派」という言葉使用できません。その「使用できない言葉」を使って、先祖まで批判しています

「親切でやさしい日本人」という印象を、必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。

韓国日本歴史教育比較すると、日本10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。

朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています

韓日合邦によって「教育」医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。

近代国家の基礎が出来たことは明らかな事実です。

その実績を「日本帝国主義の侵略政策産物だ!」と糾弾する韓国にはあきれます

より一層「日帝民族産業を停滞させた!」という主張にはコメントする気持ちもなくなります

民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。 近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。

韓国人は「日帝虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。 歴史真実を知っているためです。

朝鮮末期は「地獄」でした。 それは大韓帝国時代になっても同じでした。

1904年日本朝鮮惨状を救うために、財政支援決断します。

例えば1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だったが、歳出は3000万円以上でした。

その差額は日本負担していました。 1908年にはより一層増加し、3100万円を支出しています

現在88才の老人の絶叫です。 どう思われますか?

2018-08-07

[]チアリーダーはかつて男しかいなかった

18世紀末に始まったチアリーディング1923年ミネソタ大学で初めて女性が参加するまで男性しかいなかった。

それ以降も女性の参加は稀で、本格的に女性チアリーディングに参加するようになるのは徴兵男性がいなくなった第二次世界大戦から

https://en.wikipedia.org/wiki/Cheerleading#Female_participation

2018-06-16

2018-02-13

anond:20180213130959

拉致問題矮小化する為に、100年近く前の1923年関東大震災における朝鮮人虐殺を持ち出して、「お前らはその祖先からな!」と言っている訳ですが。現役の拉致関係者やその周辺に対する反論としては甚だ立場に偏りがあるし「当時差別呼ばわりしてめっちゃ協力してたし。今もそれに特に反省も何も無いじゃん!」っていう疑問はぬぐえない。

2017-11-04

かつて大惨事のあった公園

こないだ両国にある横網町公園に行った。無料で入れる普通公園なんだけど、たまたま入って見たらなんだか石垣の立派なお城のような建物が建っていて、花が供えてあったりして慰霊してる雰囲気説明書きの看板もあったけどスマホ検索したらなかなか凄かった。

横網町公園 - Wikipedia

公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年赤羽現在東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである工事1923年7月から始まったが、その最中9月1日関東大震災がおきた。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園避難した人だけで38,000人が犠牲になったという。震災後、その38,000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。


火災旋風で38,000人が犠牲に」って想像を絶するけど、東日本大震災の死者が確か2万人くらいと思うと凄い事件だなと思って。(今調べると東日本大震災は死者16,000人弱の行方不明者が約2,500人だった)

関東大震災で習った事って「大きな被害」「朝鮮人井戸に毒を放り込んだというデマで殺された」くらいな気がする。東京の人はもっと詳しく習ってるのかな。

関東大震災Wikipediaを見てみたらこ火災旋風のことは直接書いてないみたい。公園に建ってた慰霊堂のことがちょっと載ってるけど。

一見長閑な公園でかつてこんな大惨事が起きていたなんてと、なんか不思議な気分だった。調べたり看板を読んだりしなかったら何も知らないままだったわけで。また東日本大震災の話になっちゃうけど、「ここから下には家を建てるな」って立て札があってそれを守ってた村?町?は被害が無かったとかいう話とかさ、奇跡の一本松を残すだの残さないだのの話とかさ、語り継いでいかないと記憶って無くなっちゃものなんだなって。

横網町公園検索すると「心霊スポット」と出てくるから少しは知られた話なのかもしれないけど。(あと今年の7月殺人事件起きてる)


(追記)

ブコメ見てURL最後スラッシュ消してWikipediaちゃんと読み直してたら関東大震災のページに横網町公園火災旋風のことしっかり記述してあった…長いんで読み飛ばしてた…

やっぱり地元の人はちゃんと教わってることとか、神奈川の「どやぁ」とか知れて面白かったので書いて良かったです。

2017-09-02

6000人虐殺論を採用すると

4県合計の12,840人の6000人が1923年9月以降に虐殺されて次の年の調査までに14000人も流入する計算になるわけで

半数近くを虐殺しながら次の年には3倍に増えるのを受け入れるってのはありえないように思える

震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家メディア民衆 / 山田昭次 / 日本史 | SYNODOS -シノドス-

http://synodos.jp/society/14990

ここから次の年の人数まで引用

     1923年  1924年

東京府  8,567人  13385人

埼玉県  311人   787人

千葉県  317人   707人

神奈川県 3,645人  5678人

4県計  12,840人 21,213人

https://anond.hatelabo.jp/20170902034014

2017-09-01

震災時に朝鮮人はどのくらいいたのか?

https://anond.hatelabo.jp/20170901172529

追悼文の問題とか、ややこしすぎてあんまり言及する気にはならないのだけれど、上記トラバ先の増田がたった一点「震災当時の東京に6000人の朝鮮人はいなかった」という点にこだわってるみたいなんで、それが妥当なのかどうかを考えてみた。

まず、根拠国勢調査ということだけど、これは大正9年震災が起こったのは大正12年。そして、震災が起こる前年、朝鮮半島から渡航規制が緩和され、一気に朝鮮から労働者が増えた。

この資料ね。

http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/4/42108/20160528051714670665/oer_016_4_107_145.pdf

上記資料によれば東京には1920年時点で2053人の朝鮮人が在住していたが、5年後の1925年には10818人に増加している。

さらに、こっち

http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/12347/1/003809.pdf

によれば、もともと学生が多かった東京朝鮮人だが、この増加時期にはスラム居住肉体労働者が増加しているらしい。スラム統計の把握がむずかしい地域で、他地域流入していた労働者就労場所を求めて統計外に流入していた可能性はけっこう高い(そうだという証拠まではない)。

こちらの資料によれば

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshhe1931/37/4/37_4_131/_pdf

関東大震災発生の1923年在日朝鮮人の総数は80415人。で、東京の占める割合はその数年後には13%程度というわけだから比率が大きく変化しなかったとしたら(仮に10%と低めに見積もっても)震災発生時には統計上だけでも8千人程度がいたと推定できる。

どの程度の割合殺人が行われたのかわからないけど、在住者の過半数ぐらいにも上るような大殺戮なら、非公式在住者まで含めれば6000人はあり得ないことでもないように思う。だから「ある」という話ではないよ。けど、国勢調査数字だけで「ない」というのも、けっこう根拠が薄いんじゃないの、っていうこと。要は、確実な証拠はない、ということだろうと思う。その中で関係者が「ま、このぐらいかな」と大雑把に推計した数字なんだろう。それが正確でないということは、いまさらあげつらっても仕方ないのじゃないの?

朝鮮人をめぐるデマは、どうも、この震災の数年前から労働者として朝鮮人が急増していたということが背景にあるんじゃなかろうか。「見かけない連中が増えてきた」という心理が、デマ拡散下地にあったのではないかと。このあたりは教訓にすべきかもしれないよな。

2017-08-25

関東大震災の追悼を名目にした儀式

関東大震災被害者人達は今でも追悼されているようだけど

普通に1923年に亡くなった人を知る人は既に94+10歳くらい 直接追悼されることもないだろう

もう十分すぎるくらい祈られててるんじゃないだろうか。輪廻転生しても天寿全うするくらい時が経ってるぞ。

この20年前にあった日露戦争は戦没88,429人で関東大震災並に犠牲者がいるそうだけど99.9%の人は追悼なんてしてないし

いつまで追悼を続ける気なんだろうか

2016-12-21

ブリン・フリストフ・ペトコフ(ブルガリア語: Добрин Христов Петков, ラテン文字転写例: Dobrin Khristov Petkov, 1923年8月24日 - 1987年2月10日)は、ドイツ出身ブルガリアを中心に活躍した指揮者ヴァイオリニスト

2016-02-22

日本死ね

俺、建築関係仕事やってんだけれども、先日、岩手県とある古いお寺を解体することになったんだわ。

今は利用者もないお寺ね。んでお寺ぶっ壊してると、同僚が俺を呼ぶのね。

「俺君、ちょっと来て」と。俺が行くと、同僚の足元に、黒ずんだ長い木箱が置いてたんだわ。

俺 「何これ?」

同僚「いや、何かなと思って・・・本堂の奥の密閉された部屋に置いてあったんだけど、

   ちょっと管理してる業者さんに電話してみるわ」

木箱の大きさは2mくらいかなぁ。相当古い物みたいで、多分木が腐ってたんじゃないかな。

表に白い紙が貼り付けられて、何か書いてあるんだわ。相当昔の字と言う事は分ったけど、

凡字の様な物も見えたけど、もう紙もボロボロで何書いてるかほとんどわからない。

かろうじて読み取れたのは、

大正??年??七月??ノ呪法ヲモッテ、両面スクナヲ???二封ズ」

的な事が書いてあったんだ。木箱には釘が打ち付けられてて開ける訳にもいかず、

業者さんも「明日、昔の住職に聞いてみる」と言ってたんで、その日は木箱を近くの

プレハブに置いておく事にしたんだわ。

んで翌日。解体作業現場に着く前に、業者から電話かかってきて、

業者「あの木箱ですけどねぇ、元住職が、絶対に開けるな!!って凄い剣幕なんですよ・・・

   なんでも自分が引き取るって言ってるので、よろしくお願いします」

俺は念のため、現場に着く前に現場監督に木箱の事電話しておこうと思い、

俺 「あの~、昨日の木箱の事ですけど」

監督「あぁ、あれ!お宅で雇ってる中国人留学生)のバイト作業員2人いるでしょ?

   そいつ勝手に開けよったんですわ!!とにかく早く来てください」

嫌な予感がし、現場へと急いだ。プレハブの周りに、5~6人の人だかり。

例のバイト中国人2人が放心状態プレハブの前に座っている。

監督「こいつがね、昨日の夜中、仲間と一緒に面白半分で開けよったらしいんですよ。

   で、問題は中身なんですけどね・・・ちょっと見てもらえます?」

単刀直入に言うと、両手をボクサーの様に構えた人間ミイラらしき物が入っていた。

ただ異様だったのは・・・頭が2つ。シャム双生児?みたいな奇形児いるじゃない。

多分ああい奇形の人か、作り物なんじゃないかと思ったんだが・・・

監督「これ見てね、ショック受けたんか何か知りませんけどね、この2人何にも喋らないんですよ」

中国人2人は俺らがいくら問いかけても、放心状態でボーっとしていた(日本語はかなり話せるのに)。

あ、言い忘れたけど、そのミイラ

「頭が両側に2つくっついてて、腕が左右2本ずつ、足は通常通り2本」という

異様な形態だったのね。俺もネット2ちゃんとかで色んな奇形写真見たこと

あったんで、そりゃビックリしたけど、「あぁ、奇形か作りもんだろうな」と思ったわけね。

んで、例の中国人2人は一応病院に車で送る事になって、警察への連絡はどうしようか、

って話をしてた時に、元住職(80歳超えてる)が息子さんが運転する車で来た。開口一番、

住職「空けたんか!!空けたんかこの馬鹿たれが!!しまい、空けたらしまいじゃ・・・

俺らはあまりの剣幕にポカーンとしてたんだけど、住職が今度は息子に怒鳴り始めた。

岩手訛りがキツかったんで標準語で書くけど、

住職「お前、リョウメンスクナ様をあの時、京都の~寺(聞き取れなかった)に絶対送る

   言うたじゃろが!!送らんかったんかこのボンクラが!!馬鹿たれが!!」

ホント80過ぎの爺さんとは思えないくらいの怒声だった。

住職「空けたんは誰?病院?その人らはもうダメ思うけど、一応アンタらは祓ってあげるから

俺らも正直怖かったんで、されるがままに何やらお経みたいの聴かされて、経典みたいなので

かなり強く背中とか肩とか叩かれた。結構長くて30分くらいやってたかな。

住職は木箱を車に積み込み、別れ際にこう言った。

可哀想だけど、あんたら長生きでけんよ」

その後、中国人2人の内1人が医者首をかしげ心筋梗塞で病室で死亡、

もう1人は精神病院移送解体作業員も3名謎の高熱で寝込み、俺も釘を足で踏み抜いて5針縫った。

真相が知りたく何度も住職に連絡取ったんだけど、完全無視だった。

しかし、一緒に来てた息子さん(50過ぎで不動産経営)の連絡先分ったんで、

しかしたら何か聞けるかも?と思い、電話してみた。

なかなか話し好きなオジサンだった。要点を主にかいつまんで書く。

俺 「アレって結局何なんですか??」

息子「アレは大正時代に、見世物小屋に出されてた奇形人間です」

俺 「じゃあ、当時あの結合した状態で生きていたんですか?シャム双生児みたいな?」

息子「そうです。生まれて数年は、岩手とある部落暮らしてたみたいだけど、生活に窮した

   親が人買いに売っちゃったらしくて。それで見世物小屋に流れたみたいですね」

俺 「そうですか・・・でもなぜあんミイラの様な状態に??」

息子「正確に言えば、即身仏ですけどね」

俺 「即身仏って事は、自ら進んでああなったんですか!?

息子「・・・君、この事誰かに話すでしょ?」

俺 「正直に言えば・・・話したいです」

息子「良いよ君。正直で(笑) まぁ私も全て話すつもりはないけどね・・・

   アレはね、無理やりああされたんだよ。当時、今で言うとんでもないカルト教団がいてね。

   教団の名前は勘弁してよ。今もひっそり活動してると思うんで・・・

俺 「聞けば、誰でもああ、あの教団って分りますか?」

息子「知らない知らない(笑)極秘中の極秘、本当の邪教だからね」

俺 「そうですか・・・

息子「この教祖がとんでもない野郎でね。外法(げほう)しか使わないんだよ」

俺 「外法ですか?」

息子「そう、分りやすく言えば(やってはいけない事)だよね。ちょっと前に真言立川流が、

   邪教だ、外法だ、って叩かれたけど、あんな生易しいもんじゃない」

俺 「・・・具体的にどんな?」

息子「で、当時の資料も何も残ってないし偽名だし、元々表舞台に出てきたヤツでもないし、

   今教団が存続してるとしても、今現在教祖とはまったく繋がりないだろうし、

   名前言うけどさ・・・物部天獄もののべてんごく)。これが教祖名前ね」

俺 「物部天獄。偽名ですよね?」

息子「そうそう、偽名。んで、この天獄が例の見世物小屋に行った時、奇形数名を

   大枚はたいて買ったわけよ。例のシャム双生児?って言うの?それも含めて」

俺 「・・・それで?」

息子「君、コドクって知ってる?虫に毒って書いて、虫は虫3つ合わせた特殊漢字だけど」

俺 「壺に毒虫何匹か入れて、最後に生き残った虫を使う呪法のアレですか?(昔マンガに載ってたw)」

息子「そうそう!何で知ってるの君??凄いね

俺 「ええ、まぁちょっと・・・それで?」

息子「あぁ、それでね。天獄はそのコドクを人間でやったんだよ」

俺 「人間密室に入れて??ウソでしょう」

息子「(少し機嫌が悪くなる)私もオヤジから聞いた話で、

   100%全部信じてるわけじゃないから・・・もう止める?」

俺 「すみません・・・続けてください」

息子「分った。んで、それを例の奇形たち数人でやったわけさ。教団本部か何処か知らないけど、

   地下の密室に押し込んで。それで例のシャム双生児が生き残ったわけ」

俺 「閉じ込めた期間はどのくらいですか?」

息子「詳しい事は分らないけど、仲間の肉を食べ、自分の糞尿を食べてさえ生き延びねばならない期間、

   と言ったら大体想像つくよね」

俺 「あんまり想像したくないですけどね・・・

息子「んで、どうも最初からそのシャム双生児が生き残る様に、天獄は細工したらしい

   んだ。他の奇形刃物か何かで致命傷を負わせ、行き絶え絶えの状態で放り込んだわけ。

   奇形と言ってもアシュラ像みたいな外見だからね。その神々しさ(禍々しさ?)に

   天獄は惹かれたんじゃないかな」

俺 「なるほど・・・

息子「で、生き残ったのは良いけど、天獄にとっちゃ道具に過ぎないわけだから

   すぐさま別の部屋に1人で閉じ込められて、餓死だよね。そして防腐処理を施され、即身仏に。

   この前オヤジの言ってたリョウメンスクナの完成、ってわけ」

俺 「リョウメンスクナって何ですか?」

息子「神話時代に近いほどの大昔に、リョウメンスクナと言う、

   2つの顔、4本の手をもつ怪物がいたらしい。

   伝説にちなんで、例のシャム双生児をそう呼ぶ事にしたんだよ」

俺 「そうですか・・・

息子「そのリョウメンスクナをね、天獄は教団の本尊にしたわけよ。呪仏(じゅぶつ)としてね。

   他人呪い殺せる、下手したらもっと大勢の人を呪い殺せるかも知れない、

   とんでもない呪仏を作った、と少なくとも天獄は信じてたわけ」

俺 「その呪い対象は?」

息子「・・・国家だとオヤジは言ってた」

俺 「日本のものですか?頭イカレてるじゃないですか、その天獄って」

息子「イカレたんだろうねぇ。でもね、呪いの効力はそれだけじゃないんだ。

   リョウメンスクナの腹の中に、ある物を入れてね・・・

俺 「何です?」

息子「古代人の骨だよ。大和朝廷とかに滅ぼされた(まつろわぬ民)、いわゆる

   朝廷からみた反逆者だね。逆賊。その古代人の骨の粉末を腹に入れて・・・

俺 「そんなものどこで手に入れて・・・!?

息子「君もTV新聞とかで見たことあるだろう?古代遺跡や墓が発掘された時、

   発掘作業する人たちがいるじゃない。当時はその辺の警備とか甘かったらしいから・・・

   そういう所から主に盗ってきたらしいよ」

俺 「にわかには信じがたい話ですよね・・・

息子「だろう?私もそう思ったよ。でもね、大正時代に主に起こった災害ね、

   これだけあるんだよ」

 1914(大正3)年:桜島の大噴火(負傷者 9600人)

 1914(大正3)年:秋田大地震(死者 94人)

 1914(大正3)年:方城炭鉱の爆発(死者 687人)

 1916(大正5)年:函館の大火事

 1917(大正6)年:東日本大水害(死者 1300人)

 1917(大正6)年:桐野炭鉱の爆発(死者 361人)

 1922(大正11)年:親不知のナダレで列車事故(死者 130人)

そして、1923年大正12年)9月1日関東大震災、死者・行方不明14万2千8百名

俺 「それが何か?」

息子「全てリョウメンスクナが移動した地域だそうだ」

俺 「そんな!教団支部ってそんな各地にあったんですか?と言うか、偶然でしょう(流石に笑った)」

息子「俺も馬鹿な話だと思うよ。で、大正時代の最悪最大の災害関東大震災の日ね。

   この日、地震が起こる直前に天獄が死んでる」

俺 「死んだ?」

息子「自殺、と聞いたけどね。純粋日本人ではなかった、と言う噂もあるらしいが・・・

俺 「どうやって死んだんですか?」

息子「日本刀で喉かっ斬ってね。リョウメンスクナの前で。それで血文字遺書があって・・・

俺 「なんて書いてあったんですか??」

日      本      滅      ブ    ベ    シ

俺 「・・・それが、関東大震災が起こる直前なんですよね?」

息子「そうだね」

俺 「・・・偶然ですよね?」

息子「・・・偶然だろうね」

俺 「その時、リョウメンスクナと天獄はどこに・・・??」

息子「震源に近い相模湾沿岸の近辺だったそうだ」

俺 「・・・その後、どういう経由でリョウメンスクナは岩手のあのお寺に?」

息子「そればっかりはオヤジは話してくれなかった」

俺 「あの時、住職さんに(なぜ京都のお寺に輸送しなかったんだ!)みたいな事を言われてましたが、あれは??」

息子「あっ、聞いてたの・・・もう30年前くらいだけどね、

   私もオヤジの後継いで坊主になる予定だったんだよ。

   その時に俺の怠慢というか手違いでね・・・その後、

   あの寺もずっと放置されてたし・・・話せることはこれくらいだね」

俺 「そうですか・・・リョウメンスクナはどこに??」

息子「それは知らない。と言うか、ここ数日オヤジと連絡がつかないんだ・・・

   アレを持って帰って以来、妙な車に後つけられたりしたらしくてね」

俺 「そうですか・・・でも全部は話さないと言われたんですけど、

   なぜここまで詳しく教えてくれたんですか?」

息子「オヤジがあの時言ったろう?可哀想だけど君たち長生きできないよ、ってね」

俺 「・・・

息子「じゃあこの辺で。もう電話しないでね」

俺 「・・・ありがとうございました」

以上が電話で話した、かいつまんだ内容。はっきり言って全ては信じてない。

長生きはしたいです。

2015-12-03

レジンキャストミルク (電撃文庫) 藤原

スペインユダヤ人 (世界史リブレット) 関 哲行

キリスト教歴史 (講談社学術文庫) 小田垣 雅也

帰ってきたヒトラーティムール ヴェルメシュ

社会福祉思想歴史魔女裁判から福祉国家の選択まで (MINERVA福祉ライブラリー) 朴 光駿

☆ザ・フェデラリスト (岩波文庫) A.ハミルトン

インフォメーション―情報技術人類史 ジェイムズ グリック

アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書) 巽 孝之

異端審問 (講談社現代新書) 渡辺 昌美

シルバー事件 アスキー

絶対に解けない受験世界史 (大学入試問題問題シリーズ) 稲田義智

筋と義理を通せば人生はうまくいく 高須 克弥

99歳ユダヤスーパー実業家が孫に伝えた 無一文から大きなお金成功を手に入れる習慣 矢吹 紘子

女子マネージャーの誕生とメディアスポーツ文化におけるジェンダー形成 高井 昌吏

世界一即戦力な男――引きこもり非モテ青年音速で優良企業から内定をゲットした話 菊池

愛についての感じ 海猫沢 めろん

借金底なし沼で知ったお金の味 25歳フリーター借金1億2千万円、利息24%から生還記 金森 重樹

猫背を伸ばして 新装版 (フレックスコミックス) 押切蓮介

こんな上司が部下を追いつめる―産業医ファイルから (文春文庫) 荒井 千暁

棟梁―技を伝え、人を育てる (文春文庫) 小川 三夫

石井直方筋肉まるわかり大事石井 直方

フルーツ果汁100% 第1巻 (白泉社文庫 お 3-1) 岡野 史佳

☆「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット) 土井 隆義

読書の方法―なにを、どう読むか 吉本 隆明

予備校なんてぶっ潰そうぜ。 花房 孟胤

海洋堂創世記 樫原 辰郎

世界堂書店 (文春文庫) 米澤 穂信

コーディングを支える技術 ~成り立ちから学ぶプログラミング作法 (WEB+DB PRESS plus) 西尾 泰和

☆九月、東京路上1923年関東大震災ジェノサイド残響 加藤 直樹

大東亜戦争の実相 (PHP文庫) 瀬島 龍三

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶 グードルン・パウゼヴァン

クリスマス少女は還る (創元推理文庫) キャロル オコンネル

江戸のハローワーク (双葉新書) 山本 眞吾

Three Essays on the State of Economic Science Tjalling C. Koopmans

The Elements of Style, Fourth Edition William Strunk Jr.

ザ・フォール/落下の王国 特別版 [DVD] リー・ペイス

アメリカめっちゃスゴい女性たち 町山 智浩

☆船に乗れ!〈1〉合奏と協奏 藤谷 治

ちょー美女と野獣 (コバルト文庫) 野梨原 花南

11/22/63 上 スティーヴン キング

システム×デザイン思考世界を変える 慶應SDM「イノベーションのつくり方」 前野隆司

追われ者―こうしてボクは上場企業社長の座を追い落とされた 松島

劣化国家 ニーアル ファーガソン

ブラック企業経営者本音 (扶桑社新書) 秋山 謙一郎

創価学会研究 (講談社現代新書) 玉野 和志

グロースハック 予算ゼロビジネスを急成長させるエンジン 梅木 雄平

女のカラダ、悩みの9割は眉唾 (講談社+α新書) 宋 美玄

To Repair the World: Paul Farmer Speaks to the Next Generation (California Series in Public Anthropology) Bill Clinton

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書) 小坂井 敏晶

Making the Modern World: Materials and Dematerialization Vaclav Smil

高校教育アイデンティティー総合制と学校づくりの課題 (「教育」別冊 (9)) 小島 昌夫

☆名作はこのように始まる〈1〉 (ミネルヴァ評論叢書・文学の在り処) 千葉 一幹

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ] ニコラス サリバン

単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス) 池谷 裕二

天涯武士幕臣小栗上野介 (1之巻) (SPコミックス時代劇画) 木村 直巳

秋葉原事件 加藤智大の軌跡 (朝日文庫) 中島岳志

ぐいぐいジョーはもういない (講談社BOX) 樺 薫

LEAN IN(リーン・イン) 女性仕事リーダーへの意欲 シェリル・サンドバーグ

鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! 村崎 百郎

男性学の新展開 (青弓社ライブラリー) 田中 俊之

闘争領域の拡大 ミシェル ウエルベック

実録 ドイツ決闘した日本人 (集英社新書) 菅野 瑞治

男性ECCE HOMO (文春新書 934) ヤマザキ マリ





正統と異端 - ヨーロッパ精神の底流 (中公文庫) 堀米 庸三

魔女狩り (「知の再発見」) ジャン・ミシェル サルマン

図説 魔女狩り (ふくろうの本/世界歴史) 黒川 正剛

魔女狩り (岩波新書) 森島 恒雄

異端審問 (文庫クセジュ) ギー・テスタス

剣豪将軍義輝〈上〉鳳雛太刀 (徳間文庫) 宮本 昌孝

2015-10-22

「学園」に呪縛されるライトノベルについて

なぜ物語の少年少女が「学園」に呪縛されるようになったのか - Togetterまとめ

このまとめの最初のあたりで芦辺拓氏が例に挙げている作品刊行年は以下のとおり。

小林芳雄と少年探偵

→『怪人二十面相1936年

西條八十の白ばと組

→『あらしの白ばと』1952年

高木彬光の古沢姉弟

→『覆面紳士1950年

森下雨村池上富士

→『少年探偵富士夫の冒険1923年

横溝正史の御子柴進

→『幽霊鉄仮面』1937

まず、このくらいのスパンの話だということを理解しておいてほしい。

たかだか十年前と比較するくらいの感覚で「最近ラノベ作家は楽をしたがるから」などと言っていると論点がズレてしまう。

さて、そもそも「昔は学園ものは少なかったが今は学園ものばかり」というのはラノベだけの問題なのだろうか。

Wikipediaの「学園漫画」の項には以下のように書かれている。

少年少女主人公とする作品学校を場としたりその人間関係が中心になることが多いことは当然であり、漫画以前の小説時代から学校もの存在したし、学校舞台とする漫画作品昭和30年から存在した。ただ昭和30年代には、放課後に家の手伝いをする者や中学卒業して実社会に出るものがまだ多く、学「園」ものという呼び方にはある程度の生活階層青春もの意味するイメージもあった。

結果的に、雑誌漫画において学園漫画という「分野」(市場分野?)が生じたと言われるのは、日本高度経済成長が成果を安定させて生活の向上や学歴の向上が既定路線となった1960年代半ば(昭和40年前後)からである

学園漫画で言えば『ハリスの旋風』が1965年、『夕やけ番長』が1967年、『ハレンチ学園』や『男一匹ガキ大将』が1968年である

芦辺氏と同じ論法を使えば「戦前終戦直後には学園もの少年漫画は少なかったのに今は学園漫画ばかり」とも言えそうだ。

もとより、「学園もの」増加の原因を、一足飛びに現代ラノベに求めたところで、何が分かるものでもあるまい。

同じくWikipediaから学園小説」の項。

学園小説一定の発展を見せたのは、少年雑誌よりも少女雑誌においてであるもっとも著名な作家としては『少女世界』の読者から作家デビューした吉屋信子があげられる。

1916年に連載が始まった吉屋信子の『花物語』は、当時ベストセラーとなった連作短編で、女学校舞台とした話が多い。→エス

これは「漫画以前の小説時代から学校もの存在した」「学園ものという呼び方にはある程度の生活階層青春もの意味するイメージもあった」ということの実例と言える。

こうしてみると、むしろ1960年代以前の少年向け娯楽作品において学校舞台とならなかったのは何故か」というほうが問題なのではないかと思えてくる。

そしてそれは、Wikipediaのとおり経済力理由を求めるほうが、現代青少年の心性を大仰に言い立てるよりは筋がとおっているだろう。

(もちろん他の要因もあるだろう、議論するならその点についてすべきである

最後に、筆者が最近読んだライトノベル50作品を「A. 学校が出てこない」「B. 学校は出てくるが事件が起こるのは学外である」「C. 学校が主な舞台である」で分類したところ、以下のような内訳となった。

A. 18作品 B. 16作品 C. 16作品

まり芦辺氏が言うような「全てが学校で起きる学園ものラノベ」は16/50=32%である

言うまでもなく、このサンプル数は少なすぎるし、個人の嗜好による偏りなどもあるので参考程度にお願いしたいが、

最近ライトノベルの全てが「学内で完結している」ということはありえない、とは確実に言えるはずだ。

大ヒット作だけを見ても、SAOダンまち「A」であるし、禁書目録魔法科高校は「B」に分類されるだろう。

正直なところ芦辺氏がどうして「最近ラノベは学園ものしかない」と強固に思い込んでおられるのか理解に苦しむ。

どうか賢明なる読者諸氏においては「へえ最近ラノベは学園ものばかりなんだな」などと鵜呑みにしないでいただきたい。

2015-02-22

一番良かったのは明治初期だよ

大審院歴代院長

歴代院長[編集]代 氏名 就任日 出身校及び備考

1 玉乃世履 1875年明治8年)5月12日 岩国藩代理

2 玉乃世履 1878年明治11年)9月13日

3 岸良兼養 1879年明治12年)10月25日 薩摩藩

4 玉乃世履 1881年明治14年)7月27日

5 尾崎忠治 1886年明治19年)8月12日 土佐藩

6 西成1890年明治23年)8月21日 府中藩

7 南部甕男 1891年明治24年)4月8日 土佐藩、院長心得

8 児島惟謙 1891年明治24年)5月6日 宇和島藩

9 名村泰蔵 1892年明治25年)8月24日 長崎出身、院長心得

10 三好退蔵 1893年明治26年)3月3日 慶應義塾

11 南部甕男 1896年明治29年)10月7日

12 横田国臣 1906年明治39年)7月3日 慶應義塾

13 富谷太郎 1921年大正10年)6月13日 司法省法学

14 平沼騏一郎 1921年大正10年)10月5日 帝国大学法科大学

15 横田秀雄 1923年大正12年)9月6日 帝国大学法科大学

16 牧野菊之助 1927年昭和2年)8月19日 帝国大学法科大学

17 和仁貞吉 1931年昭和6年)12月21日 帝国大学法科大学

18 林頼三郎 1935年昭和10年)5月13日 東京法学

19 池田二郎 1936年昭和11年)3月13日 東京帝国大学

20 泉二新熊 1939年昭和14年)2月15日 東京帝国大学

21 長島1941年昭和16年)1月31日 東京帝国大学

22 霜山精一 1944年昭和19年)9月15日 東京帝国大学

23 細野長良 1946年昭和21年2月8日 京都帝国大学

2014-03-09

首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。



【おもな放射道路編】

東海道国道1号・15号)

池上通り

中原街道

綱島街道

  • 1900ごろ時点で綱島~六角橋の区間が原型存在。現在では旧綱島街道としてほぼ残っている。
    • 綱島以北は現ルートに相当する道はなく、代わりに、矢上を経由してガス橋通りに相当する道と、高田・子母口へ通じる県道106号に相当する道に分岐していた。
  • 丸子橋~綱島間は1940ごろ開通。ちなみに東横線開通のほうが先で1930ごろ。
  • 大豆戸~菊名間の新道は1940ごろ開通。菊名~浦島丘間は1960ごろ開通。

目黒通り

駒沢通り

国道246号方面(青山通り六本木通り・大山厚木街道

世田谷通り津久井

甲州街道国道20号



【おもな環状道路編】

内堀通り

  • 1900時点から現在と同じ道が存在している。
  • ただし二重橋前地域は、1970ごろ以前の地図では道路なのか広場の一部なのかがはっきりしない。

外堀通り

  • 淡路町鎌倉橋間に道ができたのが1930ごろ。それ以外の区間はほぼ全線に渡って1900時点で市電が走る道路だった。

外苑東通り

外苑西通り

明治通り

  • 古川橋渋谷区間。1900ごろ時点でほぼ原型あり。広尾付近は1930ごろに市電開通とともに1本の道として整備。
  • 渋谷~新宿区間。1900ごろ時点では、明治神宮前代々木付近に若干道があるのみでそれ以外は道らしき原型はなし。
    • 渋谷駅付近は、1960ごろに宮下公園東側が開通するまでは山手線西側の道につながっていた。
  • 神宮前新宿区間は1940ごろまでに開通。
  • 新宿~池袋区間は、1950ごろに開通していてそれ以前は道らしきものはほとんど無し。
  • (以東は省略)

山手通り

  • 北品川~大崎区間は、1920ごろに開通。1950~1960ごろにかけて大きな道へ整備。
  • 大崎~五反田間は1900ごろにはすでにあり、大崎駅の陸橋は1920ごろに陸橋化されて、その後何度か形状改良されている。
  • 五反田~大橋間は1950ごろまでに開通。
  • 鑓ヶ崎~神泉の現「旧山手通り」区間は、1900ごろ時点で現道と若干異なっているが原型が存在し、1920ごろにほぼ現道のルートで開通している。
  • 神泉~熊野町の区間は、1940~1950にかけて、もともと道がなかったところに一気に開通。
  • 渋目陸橋・菅刈陸橋ができたのが1960ごろ。それまでは、初台方面から南下すると現「旧山手通り」にのみつながっていて、中目黒目黒方面とは直結していなかった。
  • 熊野町~仲宿区間は1960ごろに開通。

都道420号

  • 現在進行形で今も絶賛整備中のこの道路。1900ごろ時点で存在するのは下記区間。
    • 戸越~五本木(現在と多少異なり武蔵小山を経由)、下馬~三宿~大山(北沢)、中野駅付近、哲学道~大山(板橋)
    • ルート上に「大山」という地名が2箇所あるため、ここでは「大山(北沢)」「大山(板橋)」と記述する。
  • 大井町付近は、1920ごろの大井町線敷設以降に徐々に整備。仙台坂トンネル開通は1990ごろ。
  • 戸越小・戸越公園の一角は、1950ごろまでの地図は「三井邸」と記されている。この下にトンネル開通させて大井町駅方面へ直結させる計画が2010時点着工中。
  • 国道1号中原街道目黒通り間の現道が開通したのは1960ごろ。
  • 目黒通り駒沢通り(=五本木)間は現在2014年時点で新道着工中。
  • 五本木~下馬区間は2000ごろ開通。
  • 下馬~三宿区間は、1960ごろに既存道路を拡幅・延伸して整備。
  • 三宿~大山(北沢)区間は、現在420号指定されている狭隘道路は1900時点ですでに存在する。拡幅&新道の計画があり、拡幅工事は現在着工中だが新道についてはまだ未整備。
  • 大山(北沢)~笹塚区間は2010ごろ開通
  • 笹塚~中野五叉路区間は1960ごろに開通。
  • 中野五紗路~新井付近1930ごろ現道開通。
  • 新井付近~哲学道区間の開通が1960ごろ。
  • 哲学道~大山(板橋)区間は1900ごろ時点から道があり、徐々に整備されている。

環七通り

環八通り

府中街道大師道・南部沿線道路・川崎街道

尻手黒川道路

  • 1900ごろ時点で原型が存在するのは、末吉橋およびその周辺、矢上~梶ヶ谷~清水台区間、柿生黒川区間。
  • 川崎駅末吉橋区間は、何度かルート変更されたのち、1960ごろに現道完成。
  • 末吉橋~子母口区間は1940~1960ごろに現道完成。
  • 子母口~梶ヶ谷~清水台区間は1960~1970ごろに現道完成。梶ヶ谷貨物駅完成が1970ごろ。東名川崎IC完成が1970ごろ。
  • 清水台~稗原区間開通が1980ごろ。稗原~王禅寺ヨネッティ付近は、神木本町方面からの道路として1960ごろ先に開通。
  • 王禅寺~山口台区間は1980~2000にかけて開通。
  • 山口台~津久井道区間は2010開通。
  • 津久井交差点から黒川方面へ直結させる短絡ルートが2010現在事業中。
  • その他、2006に元住吉付近で東横線と立体交差を逆にする工事実施

横浜麻生道路

  • 1900ごろ時点で、多少現道と異なるが全線で道路が存在。柿生から先は鎌倉街道府中方面・八王子方面へ直結していた。
  • 1930ごろ、東神奈川六角橋間の現道完成。当時は市電が走っていた。六角橋北側の一部区間の現道完成は1960ごろ。
  • 1960ごろ、津久井道交点が現在のようなT字路に路線変更
  • 1970ごろ、新川向橋付近の現道完成。
  • 1980~2000にかけて、池辺町~市ヶ尾間の新道完成。
  • 2000ごろ、市ヶ尾~鉄町間の新道完成。

国道16号八王子街道・町田街道方面



【その他、概況】

地形・丘陵

河川

2012-01-14

僕達が今後いきる世界は、今あるものを十分に楽しんで生きれば良い。

将来が暗いニュースや、若者が辛い時代になると言う世論も多いけど、良く考えたら悪い時代では無いんじゃないかと考えた。日本バブル時代や、バブル中の国と比較すれば、もちろん見劣るし夢も萎む。

日本はすでに人口オーナス人口も減り、老人が増え働き手が減る)であり、成熟国に入っている。

人口ボーナスがあり、発展が途上の国と幸せのあり方を、一緒に考えてはいけないのでは。

ガンガン物を手に入れて幸せになる時代ではなく、持っている物を楽しむ時代であると感じる。

もちろんバンバン働いて、金や物も手に入れて幸せになることも正しい。

ただそれを、バブル期発展途上国のように、絶対的な物差しとしてはいけないと考えた。

2010年日本人普通(8割ぐらいの人は)に持っている物は、

・豪邸ではないが、安心して寝起きでる暖かくて涼しい

・贅沢はできないが、安心で好きな食べ物やおいしい食べ物を入手できる環境

ガードマンはいないけど、安心して外出でき夜中でも襲われることのない日常

100%保証ではないけど、安心して通院できる医療制度や腕利きの病院

・楽ではないけど、アルバイトでも月15万ぐらいは稼げる環境

費用負担はあるけど、十分使えるパソコンに、自由なインターネット環境

・住んでいる地区にもよるけど、お金をかけなくても楽しめる観光旅行や遊ぶところ

・他にも、漫画アニメ映画SNS2chはてなAmazon を嗜む環境etcetc

は大体の人が持っていて、無駄遣いしなければ月10万あれば、この暮らしができる

幸せ環境ではないかと考えた。

(例:家賃5万、デリカ250円×3=750×30=22500、ネット3000円、その他10000円、貯金10000円。かつかつで)

10万なら、資格能力が何も無くても、特殊な問題を抱えていなければ、ある程度

年齢が越えていても、コンビニ等の働き先は、いくらでもあるんじゃないかと。

さらに8割以上の人は、18万以上稼いでいますよね。

何も無い人が、簡単に月10万稼げる国は、世界でも少ないはずで、

それなら僕らはずいぶん幸せ時代で、幸せな国にいる。

いやいや、今の時代はつらいよ。原発老人介護医療年金etcと、これから大変だよ。

と思い、過去日本を見ると、まず1900年代の場合

1905年 日露戦争

国民増税物価高騰に苦しむ

1914年 第一次世界大戦

国民増税物価高騰に苦しむ

1918年 スペイン風邪流行

患者150万人のうち15万人が死亡。

1923年 関東大震災

190万人が被災10万5千人死亡。

1929年 世界恐慌

不景気国民苦しむ

1934年 東北地方大凶

世界恐慌に加え、冷害・凶作、昭和三陸地震津波が続き、身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺などが激増して悲惨な状態

1937年 日中戦争

国民増税物価高騰に苦しむ

1938年 国民総動員法公布

生活はどんどん制限

1939年 第2次世界大戦勃発

生活はどんどん制限

1942年 ミッドウェー海戦大敗北

3500人死亡

1945年 原子爆弾投下

約30万人が死亡

1945年 第二次世界大戦終結

日本は300万人が死亡

見るだけでめっちゃくちゃ、大変な時代だった。

今は戦争日本ではないし、食べ物はあるし、病院もあるし、すごい良い時代だ。

1950年から戦後復興で、他国の戦争需要もあり、

人口ボーナスがあり、発展が途上の国の幸せのあり方だったと思う。

これは悪くない時代だったはず。

で僕らは、獲得する幸せは感じないけど、1950年代の人が、全力で手に入れた物を

普通に持っているので、こりゃ幸せだ。

僕達が今後いきる世界は、今あるものを十分に楽しんで生きれば良い。

つか、ネットがあると、それだけ十分楽しめるよねって話でした。

2012-01-03

訳してみた。

http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded

1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。

1912年4月14日 タイタニック号沈没

1913年 フォード、流れ作業方式を導入

1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発

1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用

1916年2月16日1916年12月20日 ベルダンの戦い

1917年11月7日 ロシアで10月革命

1918年11月11日 第一次世界大戦終結

1918年11月9日 ヴァイマル共和制の樹立を宣言

1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点

1920年12月16日 寧夏、海原地震

1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞

1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニローマ進軍

1923年 ドイツでハイパーインフレ

1924年1月21日 レーニン死去

1925年1月~2月 ノーム犬ぞりバルト)疾走

1926年 アル・カポネが権力の頂点に

1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行

1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)

1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日

1930年3月12日 ガンジー、「塩の行進」

1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップウルグアイにて)

1931年5月1日 エンパイアーステートビル開業

1932年 ワイマール共和国崩壊

1933年1月30日 ヒトラー内閣発足

1934年10月27日 毛沢東の長征

1935年9月15日 ニュルンベルグ法制定

1936年6月~1936年4月 スペイン内戦

1937年5月6日 ヒンデンブルク号爆発事故

1938年3月12日 オーストリア併合

1939年9月1日 第二次世界大戦勃発

1940年6月14日 パリ占領

1940年 ヒトラー権力の頂点へ

1941年6月22日 ドイツ、ソ連へ侵攻

1941年12月7日 真珠湾攻撃

1942年9月13日1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い

1943年2月13日 「全面戦争するか?」演説

1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦オペレーションオーバーロード)決行

1945年5月8日 第二次大戦ヨーロッパでの戦い終結

1945年8月6日 広島に原爆投下 同9日 長崎に原爆投下

1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判

1947年8月15日 インド独立

1948年6月24日~1949年5月12日 ベルリン封鎖

1949年10月1日 毛沢東、中華人民共和国の樹立宣言

1950年6月25日1953年7月27日 朝鮮戦争

1951年 朝鮮の人口?

1952年10月31日 初めて水素爆弾が炸裂

1953年6月17日 東ベルリン暴動

1954年6月4日 西ドイツワールドカップ西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」

1955年5月14日 ワルシャワ条約制定

1956年10月29日1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争

1957年10月4日 スプートニク・ショック

1958年10月19日 中国で大飢饉の始まり

1959年1月1日 キューバ革命の勝利

1960年 モハメド・アリ ローマ金メダル

1961年8月13日 ベルリンの壁構築

1961年10月27日 チェックポイントチャーリーでの対峙(ベルリン危機)

1962年10月14日~28日 キューバ危機

1963年6月26日 「私はベルリン市民である」演説

1963年11月22日 J・F・ケネディ暗殺

1964年8月2~4日 ベトナムアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)

1965年 ベトナム戦争拡大 地上戦力投入

1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争

1968年1月30日9月23日 テト攻勢

1969年7月20日 初めて月に着陸

1970年4月 カンボジア侵攻

1970年4月29日 ワルシャワ礼拝?

1971年10月14日 グリーンピース設立

1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件

1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争

1974年8月8日 ウォーターゲート事件

1975年4月30日 ベトナム戦争終結

1975年4月17日 クメール・ルージュ プノンペン制圧

1976年6月16日 ソヴェト蜂起

1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故

1978年10月16日 法王パウロ二世 パウロ一世を嗣ぐ

1979年9月8日 「暗黒の金曜日」 イスラム革命頂点

1980年5月18日 セント・ヘレンズ山噴火

1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発

1982年4月2日6月20日 フォークランド紛争

1983年4月18日 アメリカ大使館爆破事件(ベイルート

1984年12月3日 ボパール化学工場事故(インド

1985年3月11日 ミハエルゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任

1986年1月28日 チャレンジャー事故

1986年4月26日 チェルノブイリ事故

1987年6月12日 「この壁を壊せ!」演説

1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)

1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

1990年10月3日 東西ドイツ統一

1990年8月2日1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争

1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

1993年10月3~4日 モガディシュの戦闘

1994年4月6日7月15日 ルワンダ虐殺

1995年4月19日 オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件

1996年1月21日 フランス、最後の核実験

1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸

1998年8月 モニカ・ルインスキー 不倫スキャンダル

1999年5月3日~6日 オクラホマ州で竜巻被害

2000年1月1日 ミレニアム

2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件

2002年1月1日 ヨーロッパユーロ発行

2003年3月20日 イラク戦争勃発

2004年12月26日 インド洋大地震と津波

2005年8月29日 ハリケーンカトリーナ ニューオリンズを破壊

2006年6月12日8月14日 レバノン侵攻

2007年6月 ヨーロッパ熱波

2008年10月 金融危機

2009年1月20日 バラク・オバマ大統領就任

2010年1月12日 ハイチ大地震

2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故

2011年 アラブの春

2011年3月11日 東日本大震災と津波

2011年3月 福島第一原発事故

2012 ?

10分どころか、6時間くらいかかったorz

それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。

(調べてみたら、どちらもM7クラス

2008-11-05

日本は侵略国家であったのか」を読む 補遺

http://anond.hatelabo.jp/20081101232814

 こんにちは元増田です。

 その後、台湾外交部からも抗議声明が出されたようです。

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081102-OYT1T00492.htm

 しかし、田母神氏ご本人は、「誤っているとは思わない」「(論文の内容について)今でも間違っていない」、

http://www.asahi.com/national/update/1103/TKY200811030159.html

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081103-OYT1T00526.htm

とおっしゃっておられるようであり、

近現代史の一面的な見方を見直そうという動きが各方面から起きていたが、その象徴的論文

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081103/plc0811031834005-n1.htm

という新聞もあるので、ネット上にある反論ソースをあげておくのも意味ないことではないと思い、対中外交について落ち穂拾いをしてみます。今回もネット上にあるものだけを参照しており、私はこの時代の一次史料を読んでいませんので、「ちらしのうら」であることに変わりはないですが、根拠を何も示さない所論よりはましだと思っています。

日本は・・・(中略)・・・相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」のか

見出し引用の出所は、田母神俊雄日本は侵略国家であったのか」2008年

http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

それでは、公開されている次の論文を紹介する形で反論します。

古屋哲夫「対中国政策の構造をめぐって」『近代日本における東アジア問題』古屋哲夫山室信一編、吉川弘文館2001年、をPDFHTML化したもの(単行本にはあたっていないことをおことわりしておきます)。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/pdf/75.PDF

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 まず、日露戦争後の日本中国権益についてみてみましょう。そもそも初期条件は清の関与できない日露両国の話し合いで設定されました。

日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には 1923年大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 清の事後的同意が必要とされたこと、租借権と経営権には期限が設けられていたことは留意されるべきでしょう。

 後の関東軍へとつながる駐兵権の話も、この段階で出てきます。

それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約ロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11??12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。・・・(中略)・・・結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 先に既成事実があって後に法的に問題を確定させようとしていることは留意されるべきでしょう。

このようなやり方が、相手側に不満を生じさせ、後の紛争の種となるのも当然でしょう。

日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。・・・(中略)・・・その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春旅順間の鉄道とは全く異なるものとして協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを 実力で押し切ろうとしていた。

 実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。これは前年8月陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 上記のような「条約よりも既成事実押し通せ」という態度は、国際法にのっとった正当なものと言えるでしょうか。

軍と外務当局との関係については、一致することも異なることもあったでしょうが、ここでは両者ともに既成事実化をはかっています。

軍だけに責任を負わせることはできません。

安奉線が朝鮮半島満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使することで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。

 つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権拡張を図ることは不可能になっていたと言える。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまであげてきた行為から、相手国の了承などどこ吹く風といった態度があったことは明らかではないでしょうか。

 つづいて、中華民国期に入ります。

ところで日本が主導しえなかったこうした〔引用者注辛亥革命以後の〕経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」 との意見外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日地域の確保のための中国分割という発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

ここでは、一外交官、一大陸浪人の例しかあげられていませんが、後にみるように、国の分裂を促進させようというのは国の政策となっていくのであり、その萌芽がみられることは留意しておくべきでしょう。また、ここでも軍のかかわりがみられるようです。もちろん、他国を分裂させようというのは、相手の了承を得た、国家間の条約を尊重する態度とは言えないでしょう。

この間〔引用者注革命後、1910年代前半の中国情勢の混乱〕に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の 時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっている・・・(後略)・・・

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 漢口事件について、古屋論文に基づき、要約します。

 まず、陸軍少尉中国軍の制止を無視して戒厳地区に進入し、一時抑留されました。

 軍からの報告は、「無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた」というものでしたが、日本の総領事は「これを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告」しました。しかし、「陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として」、謝罪と賠償利権を要求し、結果として中国側に処罰・謝罪させたものです。

 古屋論文は、このような事例が満洲では蓄積されていたであろうことを指摘し、「このような先例の蓄積は、「日本軍威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった」と評価しています。

 交渉ごとにおいて、譲歩できないものを必要以上に多くすることは、カードの手札を事前に少なくしているのと同じではないでしょうか。

 つづいて、第一次大戦下の部分をみていきましょう。

第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった・・・(中略)・・・この〔引用者注内閣の〕方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後 まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる・・・(中略)・・・大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったようにおもわれる・・・(中略)・・・第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった・・・(中略)・・・日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツ軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここでは、中国の内部分裂を促進させる政策を内閣採用しています。政治が、権謀術数やパワーゲームというのはその通りなのかも知れませんが、これに対する中国の、その民衆の反発は至極まっとうなものでしょう。ベルサイユ講和会議における中国の要求が退けられたことから、五四運動へとつながります(中国ベルサイユ条約への調印を拒否しました)。周りにいくら根回しをしても、当事者同士に納得が得られなければ物事は進みません。

 そして、アジアの国際秩序について話しあわれたワシントン会議では九か国条約が結ばれます。

中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html


 このような流れのなか、詳細は省きますが、古屋論文では、「国際的に通用しなくなって」きた「特殊権益」、「勢力範囲」にかわり、「満蒙治安維持」という、関東軍の謀略による満洲事変につながっていく「政策理念」が出てくるとされます。

しかしそれ〔引用者注:満蒙治安維持〕は、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。

 それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制意識が形成され、大衆呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権独立と、国内における大衆中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/75_taichugoku.html

 ここまでみてきたような、日露戦争から満洲事変にいたる流れをおさえてなお、「相手国の了承を得」た、「条約に基づいた」と表現することが妥当なのでしょうか。ご覧の通り、日本大陸政策に対する軍の関与は明白ですが、まさか防衛大を卒業された方がこの程度の知識をご存知ないとは思いませんので、あの「論文」の内容とどのように整合性をとられているのか興味深いところです。

 さて、このように、一つの論文をみて、「論文」の一部の所説を検討するだけでも結構な手間がかかります。歴史勉強はそれほど甘くはありません。粗雑な「論」を示して誤りはないと言われても困ります。また、「事実小説より奇なり」ということもありますし、歴史学においては、「神は細部に宿る」こともあるので、個人の感覚からおかしいと言うだけでは有効な批判にはなりません。また、学問においては、勉強が足りずに事実認識が間違っているのは、明らかに勉強が足りないことに非があります。今は勉強不足で根拠が示せないというのであれば、その主張は根拠がないゆえに認めれらないのです。いつか証明されるのかもしれませんが、そのときが来るまでその主張に強度はありません。

 ところで、古屋論文の最後に、「国内における大衆中国侮蔑感」の問題が出てきました。今もまた、中国に対する偏見百害あって一利なしであり、中国の実態を虚心にみつめ、評価しなければならない、と私は考えています。

 その意味で、中国の民衆運動について、興味深い論文をみつけたので最後に紹介します。

しかし,中国民衆のナショナリズムとは,つねにそうした「暴力」をともなうものとしてしか実現されなかったのであろうか。そこには多くの場合,「暴力」の受け手の側からするバイアスがかかってはいないだろうか。一昨年の,「反日デモ」についての日本マスコミ報道が,デモの「被害」を強調し,一面的な批判に終始したことも想起される。「歴史」と「現在」を同時に射程に入れねばならない現代史研究者にとって,そして,民衆の運動対象であったわれわれ外国研究者にとって,必要なのはこうしたバイアスを克服し,実証的に中国の民衆のナショナリズムの実態を注視することではないか

江田憲治「民衆運動ナショナリズム1925年の五・三〇事件を手がかりとして―」『現代中国研究』21、2007年、27-28ページ。http://modernchina.rwx.jp/magazine/21/eda.pdf

 私はこの問題意識に全面的に賛同し、実証的な近現代史の議論が進められることを希望するものです。

またしても、このような長文をお読みになってくださった方に感謝します。

2008-04-30

正統派詐欺師

ちょっと古いネタですが、1923年に途絶えたとされる皇族有栖川宮後継者を名乗り、結婚披露宴著名人を招いて祝儀など1270万円を集めた男が詐欺容疑で逮捕されるという事件がありました。 主犯の背後には右翼団体なども絡んでいるそうで、奥の深そうな事件ではあるが、この「皇族結婚披露宴詐欺」だけに注目すれば今時珍しい「正統派詐欺師」と言えるではないだろうか。 

編集長の独断では正統派詐欺師であるためには、(1) 騙された人に満足を与え (2) 騙されたことに気付いた後にも失笑を誘い (3) 十分な準備と大胆な計画で (4) 困っている人には被害を与えず (5) 大金を騙し取る という厳しい条件がありますが、今回の詐欺は全てを美しくクリアしています。 

だれかに成りすます詐欺で、対象に選んだのが皇族なんてスケールがでかくていいじゃないですか。 しかも衣冠束帯や十二単衣まで用意する準備周到ぶり。 コストも相当かかったことでしょう。 家紋を入れた引き出物まで用意していたそうですから、1270万円集めたといっても利益率はそう高くなかったかもしれません。 

しかもよく調べれば断絶していることの分かる有栖川宮の名前を使うなど、招待を受けてのこのこやってきて騙された芸能人も苦笑するしかないですよね。 白昼堂々と400人近い自称著名人たちを騙したあんたはエライ。 編集長から21世紀の正統派詐欺師に認定します。 

できればこういう人たちは「詐欺容疑で逮捕」とかいう普通犯罪者扱いはしないで、「有栖川宮の公務です」とかいってあの格好で社会奉仕活動させるとかがいーね。

 
アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん