はてなキーワード: 現実主義とは
「安倍晋三が殺されたのは因果応報」でもセックスだけど、それだと悪いことしたから殺されたみたいに聞こえて語弊があるんだよね。悪い事したから殺されたわけだけど。
「安倍晋三が殺されたのはブーメラン」ってのも皮肉が聞いてるけど、「いやブーメランじゃなくて銃だろ」ってなっちゃうし
でもこれだとid:baikoku_senseiが撒いた種のせいで安倍晋三が殺された感あるな。やどりぎのタネかな?
んで、今回アベちゃんが殺された直接の原因は何?ったら統一教会の広告塔になったことなんよね。で、宗教被害者に恨まれた。
他の奴もやってたじゃん、ってスピード違反で捕まったみたいな擁護もされてるけど。
じゃあ、なんでアベちゃんとか他の奴らもが統一教会とツルんでたかってーと、それでお金とか人が付いてくるからで。
いや、その金って信者騙してぼったくった金じゃん。教えはどうなってんだ教えは!なんて思っちゃうけど、
でもさー、そういうキレイごとじゃ儲からないし、不幸になるヤツは自己責任だろってことで
カルトもマルチもヘンな学校法人もウェルカムして、清濁併せ飲むっつーかこれほぼ濁濁じゃんって感じで
でもそれで選挙も勝って、みんな許容してたわけじゃないっすか
やってることは許せないけど他に選択肢がないから消極的支持みたいなのもだけど
結局は不法行為を許容してんだよね。その方が自分にとって都合がいいからって
そういうのを見ないふりしてるうちに、アベちゃんはそのツケを払わされることになったわけで。
ある意味象徴的なんだよね。そっちの人からしたら「逆恨み」なんだろうけど。
あと、公文書改竄とか、これは維新だけど偽造リコールとか、完全にAUTOな違法行為にも
そうやって制度が破壊されたら自分も含めて皆に影響があるんだけども、それより自分たちの利益の方を優先する感じ。
一方で、困った人を助けたいなら自分の金使ってやれとか、福祉とかルールを軽視するところがあったり、
新自由主義的の悪いトコロが目に付く。
表現の自由界隈でも、山田太郎が表現の自由のために何故か平井への支持呼びかけて
平井は嫌いだけど表現の自由のためならしょうがないか~みたいな事あったじゃん。
こういう、大義名分があるから多少の無茶は許容されるみたいなトコが個人的に信用ならんのよな。
お気持ち長文です。さっきはてなid取得して書き捨てた文章です。
はてな政治界隈をROMして一年ほどになる。当初はあるブログを読んでいて、そのブログが「ブクマカ」「増田」などと言い出して、なんだその用語は?と思い、
調べてみるとはてなブックマークなるものが存在することが分かった。当初は誰が誰だかさっぱり分からなかったが、だんだん強烈なブクマカのことは覚えるようになった。
そして今では毎日暇な時にふと思い立って「〇〇〇(はてなid)のブックマーク」のページを20人程度さっと確認し、どんな言動をしているか見る。
これが結構癖になるんだよ。個人名は出さないけど、「このブクマカ頭おかしいなー」と思っているやつがたまに正論を言い出すと面白いし、
例えば「左右」の対立があって、「右」が有利な記事で左をたたき、「左」は撤退している中で、「左」のブクマカが「左」としての理屈を言い出したりとかしてると
「お、この人やるじゃん」って思う。
そして「はてな村人別帳」なるものを知ってからはメタブを主にみるようになった。とても面白かった。例えば、ゴリゴリの反自民かつゴリゴリのミソジニーみたいなあんまりいないタイプの
ブクマカをよくいるタイプのブクマカがどう思っているかそれまではよくわからなかった。メタブを見ると、いわゆる左からボロクソに叩かれ、いわゆる右からは嘲笑われていた。
更にブログのドメイン検索をしてあるブロガーに対して特定のブクマカがどう思っているかを調べてみた。すると、結構な割合の人が、「この記事はゴミ」のような事を言ったブロガーの
別の記事に対して、「ここに書かれていることは正しい」と言っている。「誰が言ったかより何を言ったか」を、それこそ「村人別帳」に載るような人も含めて実践している。
ちゃんと考えて狂っている。狂った人の狂った一貫性のある論理の一端に触れることができる。ブコメはたったの100字だが、それが積み重なればその人の立ち位置が(少しは)分かる。
そして、はてサと冷笑系とネトウヨとノンポリしかいないと思っていたはてなにもまた、途方もない多様性があることを知る。「えぇ!?この人たち、メタブでこんな罵詈雑言を飛ばしあう仲なの!?
すごい思想近そうなのに!」ってことも割とある。これまでは左派ブクマカばかり見ていたので左派ブクマカがそんな感じになるのを見ることが多かったが、
最近はアンチ左派冷笑系とミソジニストのブクマカも大量に知ることができた。(大体左派の死ぬほどメタブしまくってる人たちのおかげ)
彼らは左派に比べるとあまり内部批判をしないという印象は変わらないが、たまに活きのいい人がご同類を批判しまくっている。
(なお、右派についてはまだ発掘できていない。個人的な印象としては、そもそも右派ははてなには少ないのではないかと思う。左派もアンチ左派冷笑系も、お互いをたたくのに一生懸命で、ヤフコメにいそうな論外のネトウヨはどちらからも雑に批判され無視されるというのはありがちなケースだ。はてなで右派と呼ばれる人たちは大体、単に左派のことが気に入らず左派の逆張りをするだけの人たちであると思っている。一方左派と呼ばれる人たちも人権に関心のない人が多そうではある)
AのメタブでBがAに対して罵詈雑言を飛ばす一方、CのメタブではAがCに書いた罵詈雑言にBがスターをつけるというケースはよくある。三つ巴だ。
四つ巴の事例もある。いったいどこが受け入れられなくてそうなったのか、考えるだけで楽しい。
最近のブームは、ブクマカのメタブページを見て、それについている個別のブクマを見て、その直前のブクマを漁ることだ。
一体どのブクマを見て、そのメタブをしたのか。これを知ると、より一層ブクマカ同士の関係性を知ることができる。(残念ながら、それが分からないケースもあるが)
自分にとって、ブログや増田なんぞは、「それにブクマカがどう反応するか」以外の価値を見出せないものになってしまった。
ここで言われている「メタブ」はこれ( https://kido-ari.hatenablog.com/entry/2019/02/04/172811 )の③? ①か②の意味しか認識していなかったから混乱した。あと「村人別帳」ってのも初めて知った(まだよく分かっていないけど)。
はい。③の意味です。混乱を招いて申し訳ありません。ここで言う「メタブ」というのは、他人のブックマークページをブクマすることです。
増田デビューおめ。ウォッチして♡(提案)/あと個別のID言及のある増田は当事者から削除依頼かけられると消されるので、とりあえず取り急ぎ。ルールを守って楽しく増田!
ブコメ返信以外で言及してないから大丈夫だろうと思ってましたが、ブクマカの特徴に触れているやつ、暗に一人のブクマカを指している箇所を消しておきました。
ていうか、こんなくそみたいな増田に対してみんな優しいね。もうちょいブクマカってこういうイキリ腐った文章に厳しい傾向があると思ってた。学びになった
はい。酒やたばこよりよほど悪質な趣味だと自分では思ってます。下手すると麻薬との違いは合法性だけなのではないか、くらい。
あと、「そんなにメタブしまくってる界隈があるんか?」と思う方にはとりあえずこれ
https://anond.hatelabo.jp/20190203145803
3年前の増田だけど、ユーザーページをメタブされた数が多い順に並べられています
“はてなで右派と呼ばれる人たちは大体、単に左派のことが気に入らず左派の逆張りをするだけの人たちであると思っている。一方左派と呼ばれる人たちも人権に関心のない人が多そうではある” 真理を突いたな
おほめいただきありがとうございます。この引用文を見て、「じゃあ左派は何がしたいのか?」について書いていなかった気がするので、追記します。
はてサには4パターンあると思っています。ダメなほうから順に並べます。
ただ単に世間に対する優越感を感じたいがためにはてサをやっているタイプです。いわゆる「出羽守」の一部はここに入ります。
こういう人はネトウヨも冷笑系も一定数います。見かけたら、「運動と瞑想を怠った者の末路は悲惨だ。なぜこんなになるまで放っておいたのか?
このタイプは、「日本は世界の中でこんなに遅れている。恥ずかしい。」というようなことを積極的に言います。
例えばジェンダーギャップ指数やら、gdpやら、ヘイトスピーチやら、児童ポルノやら、少子化やらコロナやらです。一部ブクマカからは「出羽守」として忌み嫌われているタイプです。
①の人は日本をけなしたいだけなのですが、ここの人たちは日本をよくしたいと思っています。とはいえ、日本のいい部分にはあまり目を向けません。たぶん情報源が、
とにかく今の日本を変えよう!今の日本はやばい!という層の発信する情報なのでそうなってるのかと。
ですが、本質はネトウヨに比べればマシなだけのなんちゃって保守なので、人権と人権の衝突みたいな話になるとバグることが多いです。
このタイプは、「日本の右翼はこんな人たちを踏みにじっている」と言います。②のようなことを言いはするのですが、②が(例えば)ジェンダーギャップ指数を
本質的には数字としか思っていない一方、③は疎外された実感として強く感じています。②の人たちの理想の世の中になっても、おそらく③の人たちは
本質的に救われません。
3-a) 自分たちの人権を推し進めるあまり別のカテゴリーの人権を踏みにじることにためらいをなくしてしまった人と、
3-b) 別のカテゴリーも含め尊重しなければ!と、あらゆる人権侵害を忌み嫌う人です。
前者は例えばTERF(はてなでは、いわゆるフェミニスト、とりわけ
過激なフェミニストは全員そんなメタブがついていますが、TERF的な人はその中でも2,3割ではないかと思っています)の女性とかですね。
そんで後者は、いわゆる「ポリコレ」を積極的に推進する人です。この種の人は、「人権侵害は悪いこと」というのが
当たり前になっているので、それを理解できないネトウヨや一般人、1や2や3-aの偽左翼を見るとぶちぎれます。
彼らは、特に3-aのような人には同情が必要というところまで頭が回っていないように見えます。
全員左翼としてダメな例を挙げてしまいました。右翼としてダメな例がネトウヨなので、左翼としてダメな例がはてサでいいでしょう。
ただ単に世間に対する優越感を感じたいがためにアンチ左派をやっているタイプです。
見かけたら、「運動と瞑想を怠った者の末路は悲惨だ。なぜこんなになるまで放っておいたのか?もうダメかもわからんね。お大事に。」と
祈ってあげましょう。
②ネトウヨ
直球の差別主義者の人たちです。もうダメです。在日がどうたらとか平気で言いだします。
ちなみに、この中でも「進歩主義全否定派」と「時代に合わせて進歩すべきだが左翼の言う進歩をすると共産主義になる!派」が混在してる気がします。
正直この層はよくわかりません。左派の頭おかしい人は面白いんですけど右派の頭おかしい人は大抵面白くないんですよね。
実はアンチ左派冷笑系の中には、思想的には左翼になったかもしれなそうな人が一定数います。
こういう人は左翼の掲げるスローガンが、教条的に見えたと思うんですよね。
しかし、何らかの理由で「左翼思想の押し付け」が大嫌いになって、そこへの抵抗として
アンチ左派をやっている感じです。なんかこの辺の人たちの中でも、
3-a) 反左翼派と 3-b)自分たちが真の左翼派がいる感じがします。
筆者はどちらかと言えば後者がマシだと思っています。左派の3-bと、右派の3-bは、一緒に
両者ともに学校を嫌ってる人が多いイメージ。てかはてな政治系の人はみんなそうかも。
こういう人たちは自民党右派的な道徳も忌み嫌っている人が大半です。
昨今の「表現の自由」関連の騒動は、この層に大きく刺さっているように見えますね。
それから、この層は左翼・右翼を理想主義、自分たちは現実主義と言いがちなイメージです。
それだけならいいんですが、あれこれいいつつも理想主義を全否定する人が多くて、ちょっとどうかと思います。
ちなみに、右派としてまともな人って、多くの場合匿名サイトに書き込みまくるなんてことはしないと思います。
なので、ブクマカのほとんどにまともな右派になるルートはありません。
記事、ユーザー、メタブで三次元でハテブを楽しむのすごい!ユーザーは一切認知せず記事についてるコメントだけ見た雰囲気で集合人格的な"ハテブちゃん"(安倍晋三が死ぬほどにくいとか)を楽しんでる派なので。
はてブのコメントが無個性なものばかりであればそうなっていたでしょうが、私はハテブちゃんよりも各ブクマカの方が好きなんですよね
安倍晋三が死ぬほど憎い人は多数を占めますが、安倍晋三が死ぬほど憎い人が死ぬほど憎い人も結構いることを考えるとハテブちゃんは大分狂ってそうです
もう124ブクマから動かなそうなので、知ってたブクマカを数えたら11人でした 多分熱心に見てる人は6人とかそんなもんです ウォッチャーとしての経験の浅さを思い知りました みんなありがとう 以後編集はしません
編集しませんと言っておいてなんですが、私の心理を解説するかのようなブログ記事があったので
https://domino-r.hatenadiary.org/entry/20090410/1239353760
読んでてごめんなさいしたくなりました...
Youtubeで流れてくるのを、いくつかみたのだけど、
ホリエモンは、刑務所出てからずっと一貫して、自分の好きなことだけを徹底してしてる感じなので、
もう世の中とか興味ないんだと思う。存在を忘れられないために、完成がないけど応援してもらいやすいロケットとかで、知名度を維持しつつ、
その知名度をレバレッジに、好きなことやってるだけの人。たまにサイバーの社長とかと同じ立場として話してるけど、サイバーの社長からすると、一緒にしないでくれ〜って思ってると思う。
成田さんは、世の中変わらないという、現実主義ではあるが、それでもなんとかできることはしたいという思いはある人で、すごいバランス取れてる人だと思う。
さて、選挙が近づいてきてインターネッツの選挙大事だよバズがうるさい時期になってきましたね。
なんか特にここ数年、若者は自分のために選挙行こう!とか、生活を良くするために選挙行かないと!とか、選挙行かないのに文句だけは~みたいなクソ説教を死ぬほど聞く気がするのですが、
個人的に党派性云々より選挙自体に何も期待していないので、その手のことを言っている人がいるとタレントでも知人でもア~・・・って思ってしまう。
この増田の趣旨としては、選挙に行かない言い訳をしたいわけでも、政治や選挙制度それ自体を批判したいわけでもなく
上に書いたような「選挙に行こう!」みたいな発信への思うところを書いております。
あまり詳しいというわけでもないので間違いもあるかもしれない。納得できる論理で、じゃあ選挙に行ってみるか、と思わせてくれる反論がつくことも微妙に期待しております。
以下、選挙行こうよ話でよく使われる文句と、それに対応して増田の思うこと、というかたちでお送りさせていただきます。
・ひととおり公約を読めばどの党も高齢者一辺倒ってわけでもないし、社会保障の皺寄せが若者に来るのは人口構成比にもよるものも当然あると思う
・そも高齢者は自分に得だから選挙に行く、というわけでもなくて、時間があるから投票に行きやすいとか、地元候補者やその関係者との付き合いがあるとか、地域に根付いた人間関係(互助、世間体)が強いとかある。
→人口構成比や細かい政治システムに関係なく世界各国でも投票率は低下傾向があるし、世代間格差が開いているっぽい(軽くググった知識なので古い/誤解かもしれない)。ということは単に現代の若者の生活スタイルや情報収集手段に現行選挙がマッチしてないという事情も少なからずあると思う。
オンラインで投票可能期間を伸ばせば若者の投票率も多少上がるだろうけど、課題は多し。
・あと単純に因果が逆でも成立しない?そのロジックがアリなら、20代全世帯に5万円配りますつって普段選挙に行かない若者票を荒稼ぎする政治家が先に出てきててもおかしくない、気がするのだけど…
・さらにいうとこの論調の危険なところは、本来なら富裕層/貧困層の対立構造として問題視すべき部分まで世代間問題にすり替えてること。
・政治参加方法は選挙だけじゃない。ストライキ、デモ、パブリックコメントなど直接意思を表明できる手段は色々ある。なんなら政治に文句を言う政治批判なんか、一番歴史が長い政治の手段なんじゃなかろうか。
→そも無から選挙権が産まれるはずがなく、普通選挙権を獲得したのは批判や政治運動だよね。
・昔は全員に投票権があったわけじゃない。
→これ本当に謎。昔はできなかったんだから今しないのはもったいない、なんてこと腐るほどあるでしょ。論点がぶれそうだから具体例は出さないけど。
・選挙に参加する権利=恩恵を受ける権利、社会を作っていく権利、というわけでもない。選挙権は、政治上の代理人を選ぶための1票を投じることができる権利以外の何物でもない。
・個人的には投票しないと文句言えないのロジックも飲み込めてない。選挙制とか多数決に納得して投票をした人の方が文句言えないんじゃないの?と思うし、与党に投票なんかしようものなら口をつぐむしかなくなるのじゃないか?
・あとは、少なくとも民主主義の下に論じているのならば投票しない人への排他的な態度は正解ではないと思う
・現状の選挙システムで現実主義な見方をするなら、1票の影響力は正直なところかなり小さいよね。
人口比率による世代間の票の格差があるので若者についてはさらに小さい。まずそこを認めてからなんじゃないの。
純粋に公約を読んで判断して、という個人も当然少数ってわけじゃないと思うけど、業界として票田を持っているとかそういう大きい組織票の殴り合いもあるなか、自分の1票を重いと言い切るのはやっぱ無理あるような気がいたします。しかもみんな同じ党に入れるわけじゃないとなるとなおさら。
公明党がなんで連立与党になってるかとか、なんで特定業界との癒着が発生してしまうのかを考えれば自民公明だよね。
・あと政治に正解はなく、世代とか右翼左翼だけじゃないその人々の立場や価値観で最適解は変わってくるのに単純化(=投票すれば暮らしがよくなる)している風に見えることがとても引っかかっている。
若者が〜の例でいえば、高齢者向けの社会保障分が若者に回されれば社会全体ハッピーなの?という感じ。そんな単純でもないけど。
・これだけ書いておいて元も子もないことをいうと、選挙以外の方法で政治が変わることを期待しているわけではなく、 政治憎しでも選挙憎しでもなくて、「若者は選挙に行こう!」憎し、というのがニュアンスとして実感に近い
蠅の王
この世の美しきものすべて
時には克明な現実主義によって、時には想像力を書きたてる手法を駆使するといった、ニュアンスに富んだ作品群を通して、全人類に普遍性を持つアラビア語の創作芸術を形成したこと
張り出し窓の街
弓と竪琴
いつか月曜日に、きっと
1993年 トニ・モリソン(米)
「他者」の起源 ノーベル賞作家のハーバード連続講演録 (集英社新書)
詩趣に富む表現力を持ち 、現実と虚構が一体となった世界を創作して 、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている
白の闇
運命ではなく
故郷の街のメランコリックな魂を探求する中で、文明の衝突と混交との新たな象徴を見出した
わたしの名は赤
新たな旅立ち、詩的な冒険、官能的悦楽の書き手となって、支配的な文明を超越した人間性とその裏側を探究した
来るべきロートレアモン
権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた
楽園への道
稠密で透光性のあるイメージを通じて、読者に現実への斬新な道筋を与えたこと
悲しみのゴンドラ
白檀の刑
2014年 パトリック・モディアノ(仏)
我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して
戦争は女の顔をしていない
逃亡派
テレビの中から、夢を見せたり、語ったり、そういうことやる人が居なくなったよね。
『大衆』の立場では、そういうものを信じられない世の中になったと思う。
だからなのか、今の20代より下の子たちは現実主義的で刹那主義的。その場が楽しければいい。
で、テレビの中の世界とか政治家とかの「スゴイ人たち」は、夢を見せるのが一番の仕事なのに、
不景気やら業界規模の縮小やらで、影響力を持ちにくい、理想主義者や若者はどんどん切り捨てられた。
利己的で扇動力のある人間、上手く立ち回れる人間、彼らに扱いやすい人間ばかりが生き残る。
この時代、「プロ」を志向したり、業界経験のある人は知っていると思うけど、
今から叩き上げで入ろうとしても、既にポジションを確立した一部の人間以外は搾取される宿命だ。
働けど楽にならざりき。
プロゲーマーに失言が多いんじゃなくて、「配信」という業態の問題
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220503175511#bbutton
TheHabanero プライベートで「ガイジ」「(罵倒としての)障害者」「身長〜cm未満は人権なし」みたいなこと言ったことないし言ってる人間も周りにいないが、ゲーム界隈はそういうことを日常的に発する連中の集まりってこと?
aya_momo あれを日常でも言っていると思うと引く。
この増田に対して「いや結局はモラルの問題でしょ、配信のせいにするな」というコメントが人気だ。
さぞかし自制心の働く良心的なユーザーなんだろうと、彼らのブクマを見てみた。
TheHabanero 2022/04/17
自民党のクソ改憲案には一切言及せず社会保障の将来的な破綻だけに着目して「自民党は現実主義だから…」みたいにお茶を濁そうとしてるはてウヨ達の卑怯さよ…。
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TheHabanero 2022/05/05
大して長くもなければ論理構造がややこしいわけでもないこの記事をロクに読めないバカミソジニーがブコメに集まっててホッコリした。
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TheHabanero 2022/04/17
aya_momo 2022/05/06
日常的に政敵に罵倒を浴びせ、クソだのウヨだのバカだの言ってる人間が、
そういう構造的な問題を考えずに、「eスポーツ界隈にいる人間の育ち」を問題視するって、
danseikinametaro とうとう『配信』に責任転嫁し始めた。「民度が低そう」というパブリックイメージそのままでニヤニヤしてしまう。
そんなパブリックイメージなどない。
僕たちは生まれながらにして不幸だった。
物心がついた時には経済成長など実感できないほどなく、平和のみが幸運にも固定されていた。少子高齢化を無責任に押し付けられ、いつも年金の説明では僕たちが下で、いっぱいの先人が上に伸し掛かる絵を繰り返し見せられた。
小学生のころには阪神淡路大震災があり、生活は不条理に突然破壊されることを知った。
オウム真理教は天災だけでなく人災があることを教え、それを報道するテレビには頭のおかしい人をいじめることの楽しさと正しさを刷り込まれた。
学校ではいじめがあっても誰も救ってくれなかった。子どもも大人も誰も責任を取らずに済んだ。
どう大人を信じようと努めても、彼らの正しさの裏にある保身だけが形を濃くするだけだった。
いじめ、学力低下、キレる十四才、僕たちだけが責められている気がした。勝手に「ゆとり」を与えられ、数年後には「ゆとり」だとバカにされた。
ノストラダムスの大予言も二千年問題も世界を無くしてはくれなかった。変わらないんだ、という陰鬱な気分を虚構ごと生活に仕組まれた。
社会に参加するまでの過程で、どんどんと多様性という理想が叫ばれるようになっていった。でも現実はまだそう出来ていなかった。ゆとり教育でも、AO入試でも、新卒一括採用でも、実験の最前線で僕たちは消費された。
社会の正体に近づくほど、実験の甲斐なく何も変わらずに、大人たちは利権を固定させようと頑張っていることがわかった。かつて多くの若者たちの理想主義が現実主義に敗北し、僕たちの生活には既に革命の「か」の字すらなかった。
センスが良いとされる大人は肌触りの良い冷笑と諦観で、理想からも現実からも逃げているだけだった。
芸術に届くわけではないわずかな詩情の中に逃げ、丁寧な暮らしとやらで現実を隔離しただけだった。雑草も食えるらしいと、何も新しくない発見を雰囲気の良い雑誌で語った。
とにかく真っ当ではなかった。僕たちには老朽化した線路と駅が残された。
いつかみんな死ぬ、くらいしか希望はなかった。僕は、小学校四年、五年と苦労したあとに六年生になったときのような開放感を待っていた。
インターネットは唯一僕たちに与えられた現代的で民主的な革命だった。僕たちは最前線に立つことを初めて喜んだ。僕たちが社会を実験していた。大人の腕の中で揺らされるのではなく、自らが世界を開拓していた。
過去の日本では文学や学生闘争に向いたであろう若者の活力がインターネットで遊ぶことに費やされた。情報の波をサーフィンしていた。
けれどアナーキズムなど思想と呼べるほど突き詰められてはいなかった。脱法とジョーク、たくさんの知識。組織化しない雑多なカオスが世代や日陰者の雰囲気をベースとしてただ在った。
東日本大震災のとき、僕たちは初めて大きな波を感じた。世界ごと変えてしまおうというワクワクがあった。
ネットから始まる民主化が現実世界にも網目を伸ばし、キレイな情報を伝播させることを夢見ていた。
実際のところ我々には思想がなかった。正確には思想が育っていなかった。長い間の自己否定とカオスたちの団結は思想を形成させなかった。
論壇はインテリっぽい動きに酔っているままで、ほとんどの人間が責任を背負おうとしなかった。
大衆は十分なリテラシーを持っていなかった。目の前の文字が自分を騙そうとしているかだけを考えていた。
もちろん先行者と同様に誰も責任を取りたがらなかった。波は結果的に芸術の一部分だけに還元された。
僕たちの革命は、革命という皮すら被れずに失敗した。あの頃目立った人間たちのどれだけがまだ実際に社会に有効なことをしているのだろう。
僕たちは生まれてから今までずっと負け続けている。逃げ続けている。立ち向かう人間を冷たい視線で嘲笑っている。かつて"カッコイイ大人たち"がしていたように。
拗ねた子どものままで皮肉とセンチメンタルを捏ねくり回している。
最近は「多様性の尊重」がブームになっている。拡がり分化する人間の在り方を認めようとするのは正しいことだと思う。
だが、それは欺瞞だ。多様性は排外主義への攻撃だ。多様性を求める社会は多様性をもたらさないものを排除する。
最大限の寛容ではなく、この時代この社会における妥協点でしかない。
ただそれよりも深刻なのは、多様性未満の僕たちだ。多様性で救われるのは国籍、性指向、いくつかの快い思想である。いわば十分に形作られたアイデンティティーのうち、現代社会に適応するものだ。そして主張に成功したものだ。
僕たちの苦しみはアイデンティティーの未発達である。差別をされたり、大事に築き上げたものが喪失したわけではない。時代により幾度となく無意味化された結果、育たなかったのだ。
社会の複雑さへの想像力、ありのままの他者の受容、明確な善への地図が無かった。
今までのシステムは近いうちに崩壊すると言われつつも、なかなか崩壊しない。仮に崩壊したとしてもサバイバルを生き抜く知恵が無い。広大な大地に丸腰で放たれるのだ。
「ちゃんとしなきゃ死ぬ」とトリプルファイヤーの吉田靖直は歌った。「ちゃんとしなきゃ」という要請だけが社会にある。
なんとなく、どこか生きにくい僕たちの行き場はどこだろう。ちゃんとした職があればいいのか?ちゃんとした病名がつけばいいのか?ちゃんとした人になれればいいのか?ちゃんとした人ってなんだ?
今になってようやく哲学や文学などの人文学に解答を求めることができるだろうことに気づいた。それは人間として真っ当な足掻きに思えた。
まだ遅くはないと信じて、攻略サイトには無く、ビジネス書より直接的な、人間思索の旅に出ようと思う。良い哲学の書を教えてくれ。
真面目に答えてくれる人がいたので、やりすぎると増田らしくないけどちょっとだけお返事します。あと、全体に増田の言ってることはよく理解できるので、特に異論のないとこは省略するよ。
まず「更生と刑は両立する」のくだりについては、「それは日本の制度がおかしいのでは?」としか言いようがない。わざわざ更生させといて、それから殺す。それに何の意味があるのだろう、って、合理的思考ができる増田は不思議に思わないだろうか。だいたい、裁判でも「改悛の情が明らか」であることが減刑の理由にはなるよね。懲役刑だって、反省態度で仮釈放までの期間が変わる。これは実質的な減刑じゃないかな。駐車違反をネタに「反省したら刑が割引なんてないでしょ」という理屈は、ちょっと納得がいきかねるね。
次に「国家」という仕組みへの不信の話。
国家を信じないなら何を信じるのか、というのは旧きリベラリズムにとっての急所だし。そもそも国家が信用ならないなら、終身刑のほうが不安だ。国家が正しく終身刑をやりとげる、という「国家への信頼」はいったいどこから発生するのか。
実は君はここで、致命的なスキを晒していると俺は思う。
なるほど、立場が変われば見方も変わるものだなあ、と感心しながら読んだ。増田の周りの「旧きリベラリスト」たちは、そこで沈黙したのかなあ。
まず、増田は国家を信頼し、犯罪者を「裁く」目線で物を言ってる(一応言っておくがそれがいい悪いという話じゃない)よね。一方、旧サヨクに共感する私としては、国家というモノにいつ何時理不尽に「裁かれ」「殺されるかもしれない」という目線で物を言ってるんだよ。だから、国家が終身刑を「やり遂げる」ことができないとしても「ああ、やっぱりな」と思うだけだ。終身刑を誤るなら、死刑だって誤るだろう。そして、後者を誤るよりは前者を誤る方が、取り返しがつくだけマシだと思う。だって終身刑を失敗して誤って仮釈放してしまったとしても、誤りが判明したらもう一度収監することである程度取り返しはつくけど、「間違って死刑しちゃったわ(テヘペロ)」だと何をどうやったって取り返しなんてつかないんだから。(ここでも、増田は多分誤って釈放された凶悪犯を想定するだろうね。そして私は誤って殺される無実の囚人を想像するわけだ。これは価値観の問題、物の見方の違いとしかいいようがない。)
ついで、「国家に代わる何があるのか」「それが旧リベラルの弱点だ」と増田は言うけど、現代だって、日常的に人々が信じているのはもっと身近なコミュニティや属する組織なんかであって、「国家」などという漠然としたものによっかかって生きてる人って、霞が関の中にもあまりいないんじゃない? いたらあんなに不正がはびこらんでしょ。ああいう不正って、国家とかそういう漠然としたものじゃなくて、自分の目の届く範囲の狭い狭いコミュニティに殉じるからこそ起きるもんだよね。小さな組織、小さなボス、それに従うから、大きな外から見たら「不正」としか見えないことに手を染めるわけで、彼らがいくら「お国の為」と口にしようと、それは口当たりのいい欺瞞に過ぎないくらいのことは、増田にだって分かってるだろう。
それに、たとえば終戦直後、国家が国家として機能していなかったときも人はそれなりにたくましく生きていたわけで、国家がなけりゃ人はない、なんてことはない。もちろんそれが理想的な社会だったとは別に言わないけど、近代国民国家を〈唯一完成した人類社会の最終形態〉みたいに言うとなると、それは無邪気すぎるんじゃないかなあ。国家に不信を抱くのは、むしろ現在と未来を生きる人間にとっては必須の要件だ、くらいに私は思ってるんだけども。
それから、死刑をする最大の理由はお金だ、って話。増田はそれを「現実的」な立場で語ったつもりなんだと思う。その現実主義を揶揄するわけではないよ。けど、それなら次に述べる四つの点についてどう思うかは聞きたい。
米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため https://www.afpbb.com/articles/fp/2572851
いや、死刑制度を維持するのって、意外とお金かかるんですよ? 「生かしておく方が金がかかるに違いない」というのは思い込みで、文明社会で人一人殺すというのはそんな簡単なことじゃないんだ。日本とアメリカで事情は違うと思うかもしれないけど、見方によっては日本の方が"殺し方"としてはより丁寧であって、それはつまり「よりお金をかけて殺している」ということでもあるんだよね。
さて、そうやって莫大な経費をかけて死刑を執行して、それで社会に一体どんなプラスがあるんだろう。増田も同意してくれたように、そこには見せしめとしての抑止効果もないし、遺族感情なんて不確かなものは宛にならない。つまり、死刑によって得られるプラスなんて、無いんだ。
一方、終身刑であっても、何割かの囚人がそこで「更生」したとする(何割かの更生は期待できる、という話は前にした)。彼らは自らの体験を語るかもしれないし、それが誰かに影響を与えるかもしれない。「更生」という言葉が語るように、それはプラスの効果であるだろうね。事件の全容が「更生」した犯人自身の口から語られることで、社会にあったセキュリティホールを少しふさぐことができるようになるかもしれないし、見落とされていた福祉の穴が埋まるかもしれない。また、道を踏み外しかけた人が、はっと踏みとどまれるかもしれない。何よりも、重大な罪を犯してしまった人でも、心から後悔し立ち直ってもう一度人生を歩もうと思えるようになれるのだ、というロールモデルを示すことは、社会にとって大きなプラスだと思うが、どうだろう。終身刑にだって、制度としての仮釈放はあるんだよ。
前の項目の中にもあげたことだけど、死刑というのは、犯罪の根源についての追及をそこでストップさせてしまう。なぜそんな犯罪が起きたのか、社会はそれとどう向き合うのか。どうすれば類似の犯罪は防げるのか。そういった議論を、全て、「我々の社会とは共存できないモンスター」のせいにして、封じ込めてしまうのがぶっちゃけ「死刑」という制度なんだよね。そういう目線で死刑と言う制度を考えたことはあった? 非文明社会、非文明国なら、それでいいんだよ。というか、それしかできない。たとえば、文明社会から離れた孤島で、30人くらいのコミュニティで原始的な生活を営んでいたときに、原因不明の殺人が起きたとして、明らかに犯人と分かっている奴がいたとする。そりゃそいつを吊るすしかないよな、なにせ原因が分からないし社会の不安を解消する方法がそれしかないんだから。でも、本当は深掘りすれば、殺人衝動を起こさせる風土病が原因だったかもしれないし、殺された奴に原因があったかもしれない。もっと文明が発達して、いろいろと調べる手段があれば、助ける方法があったかもしれないな、と、増田がその島にいたら思うかもしれない。私もそう思うんだよ。現代の「死刑」が、何もかもを明らかにして、完璧に調べつくして、その上で執行されている…というようには見えない。
いや、死刑議論は哲学だ、なんて言を弄するのは止めにして、もうこれいい加減真面目に考えるべきなんじゃないかと思うんだけど、世界で死刑制度の現況を見てみれば、
……という状況なんだよね。でもって、アメリカもさっきのニュースで見たような状況なわけで。で、君、どっちのグループに入りたいねん! て話なんだよ。こと”人権”という視点で世界と向き合う時に、死刑制度を存置しているということは、マイナスに働く要因ではあってもプラスに働くことは一切無いと言える。ここでも死刑制度は明らかに「高く」ついてるんだよ。死刑制度を擁護することは、実質的に人権問題において、中国やイスラムの側に立ちますよと言ってるに等しいわけで、これがリスクでなくてなんなんだろうと思うわけです。
というわけで、増田が「死刑制度を存置するのは、単に経済的合理性のため」という立場を取るなら、以上4点については反論する必要があると思うのだけど、どうだろう。
私は別に「美しい矜持を飾るためにお金払おうぜ」と言ってるわけじゃないし、別に経済的に合理的だから死刑を廃止しようと言ってるわけでもない。私が死刑を廃止した方がいいと思ってる理由は、全く前に書いたとおりだ。でも、単に経済的な合理性を考えても、実は死刑には合理性がないんじゃないかとは思ってるよ。
例えば、政府が検閲して性的表現は規制するよ!ってなったら戦うよ
でも性的表現は別にいいけど反政府的な表現は規制するよ!ってなったら別に戦わない
本当の意味で表現の自由を守るなら、あらゆる検閲に断固反対しなけりゃならないんだろうけど
そっちの自由は侵害されても困らないし、困る人が戦えばいいじゃん、ってスタンス
あと、山田とか赤松は私欲で動いてるとか、自民党はオタクを取り込もうとしてるだけとか言う奴いるけど、そんなの言われなくてもわかってるっての
清廉潔白な議員より、汚職まみれでも地元に還元してくれる議員当選させた方が御利益あるじゃん?
現実主義ってそーゆーことよ
第9回BL小説大賞に出品したせいで先月は自分の創作(出品作の直し作業)が忙し過ぎて、本を読むとかいう気分ではなく、読みかけて積んでしまったものが多かった……。
馳星周先生の作品って、少年漫画や青年漫画の二次創作でBLを覚えた人間にはヒャッホー! な、ヒリヒリとした男同士の関係性を描いたものがちらほらある。私は『生誕祭』が好きだなぁー。けどここしばらく馳作品を読んでなかったなと思い、バディものだというし面白そうだなと思って本書を手に取ったのだが……。
冒頭がすごくダルい。今まで読んだ馳作品の中でここまでダルいと思ったものはなかった。うぅ……なんだこれ。でも作者あとがきには楽しんで書いたって書いてあるんだなぁ。作者が楽しんで書いた作品駄作の法則発動か、それとも中盤から急に面白くなるのか。わからないけど、十分の一くらい読んで脱落した。
BL字書き仲間から、「柴田よしき作品はBLだよ!」と教えられて、どの作品がBLなのかわからないまま、とりあえず目に留まった本作を読み始めた。しかし、最近の私にはBL貧乏神でも憑いているのか、これもいきなりダルくてくじけそう。某BLレビューサイトのマンスリーくじも外したし、散々な気分だ。
中華BLにかぶれて中国に興味を持った私、感染症がどうかというよりかは、中国の市井の人々の暮らしぶりを知りたくて、本書を読み出した。これは興味深い。封鎖下の武漢の人々の暮らしぶりもよくわかるが、中国の一般市民の暮らしや考え方も見えてくる。ステイホームするしかないので、著者のだしてくる話題がネットの話多めなんだけれど、中国流ブラックジョークとか、漢詩のパロディーとかが興味深い。
中国といえば言論の自由のない国というイメージだけれども、それでも人々は完全に右へ倣え(いや左へ倣えかな。)している訳でもなく、動画で血気盛んに行政批判(地方自治体disくらいなら意外と大丈夫だったりするの?)や罵倒をしていたり、ユーモアを交えて上手く規制を交わしつつ本音を吐露しているようだ。
ちょっと意外だなと思ったのは、中国の人達、プライバシーを大事にしている。自由と感染症対策を天秤にかけてどっちを取るかっていう議論が出てきたりとか。また、感染症対策も大事だけれども経済を回すのも大事でしょう、とかいう意見も出たりして、完全に共産主義なのではなく、資本主義的な考えも取りれているようだった。いや、資本主義というよりは現実主義なのかな。
著者の方方先生は基本的に当局を支持し信頼していると繰り返し述べつつ、極端な思想(極左)は人々の暮らしに悪影響をおよぼすとも主張している。そしてよくネトサヨから攻撃されたりブログサイトからアカウントをブロックされている。
思い切った都市封鎖で徹底的に感染症対策をしたにも関わらず、なかなか感染者数が減らなかった武漢。本書は日記なので、リアルタイムにその状況を体験して書いている方方先生や、一般の武漢市民にはどうしてこんなに長く閉じ込められなければならないのか、分からなかったようだけれども、この翌年に俯瞰で見れる読者の私には、さもありなんと思える記述が所々にある。一般市民の多くはステイホームをしていたものの、当時の武漢にはホームレスもいれば貧民街も一部にあったらしく、それらの困窮生活者は生きる為にいつも通りの暮らしをしていたようだ。また、物資の配給に従事していた人々……多くは市の職員とボランティアだ……の感染症対策も情報不足や物資不足から万全とはいかなかったようで、それが感染拡大に影響していたのではないかと私には思える。
日本でも他山の石とすべき所は、役所というのは日常の仕事様式から、どうしてもフレキシブル対応が苦手となってしまう、という点かなと思った。こればかりは国の主義とか関係ない感じがする。全体主義・強権主義的なところのある国は感染症のような問題には強いと、外の我々には見えたけれども、現実にはそれでもかなりの苦労があったことが本書にはありありと書かれている。
……とまあ長々と書いたけれども、まだ半分ちょっとしか読んでないので、頑張って続きを読む。
BL関係ないけど。読んでみれば、一般社会から顧みられることのない、普通から脱落した女性たちの暮らしやものの考え方、世界の捉え方が書かれていて、興味深い。のばらあいこ先生の『秋山くん』『寄越す犬、めくる夜』の登場人物(こっちは主に男性だけれども、所属階層はほぼ同じだろうな)の日常とかを思い浮かべつつ読んだりとか。
性的逸脱行為を繰り返す少女が、自らの価値を「需要」のある無しで語るくだりとか、衝撃を受けた。しかし、そこまで荒れた生活を敷いられているわけでなくても、自他を使える使えないで見ている人というのは世の中にはとても多いというか、ただそこに存在することさえ許されない、役に立つのは義務であるかのような圧が社会全体にのしかかっている気はするよなあ。そういう圧が、社会の中の一番弱い人々を押し潰してしまうんだろうね。
非行や犯罪で少年院に入れられた少女達が、更生教育を受ける中でやっと自分の存在を肯定することを覚えるということ。世間的には少年院に入るなんて罰だとしか思われていないけれど、そこが人生の根幹の部分を学ぶ唯一の場所であるという人も世の中にはいて、必要な場所なんだなあ。しかし、女子少年院を出てから数年後に悲惨な姿でまた戻ってきた女性の話しは重く辛かった。せっかく自分を大切にすることを覚えても、彼女をゴミのようにしか扱わない人しかいない世界に戻っていくんだね。ネンショー出だということで……。
唐突に、紙の同人誌なんか家に一人で居られる昼間しか読む暇ないじゃん! と思って宝箱から発掘してきた。幽遊白書の同人誌、なんだけど、表紙からして誰おま。これが野火ノビタクオリティ。だが読めばなるほど蔵飛……そしてエモい。
実を言うと蔵✕飛は特に好きではないが嫌いでもなく、しかし野火ノビタ先生の作品に限っては超好きなので本を買ったという。私自身は幽白の最推しカプは男女カプなので、表向きには蔵飛読むなんて言えない。腐に媚びてんじゃねぇと陰口を言われるので。BLのカプでは仙水✕樹が好きだな。推しても誰とも喧嘩にならないし。
ドイツとナチスが絡むと必ず出てくる言説で、ここでもやはり大量に見られる。
はてなブックマーク:欅坂46も立憲民主党議員も…「ナチスをもてあそぶ日本人」にドイツ人がドン引きする理由 | 文春オンライン
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/50047
なんかズルいなあ。現ドイツはナチスとは別で第2次大戦は全てナチスが悪いっと言ってる感じ。昭和天皇は責任から逃げなかった。
コイツの祖父や祖祖父の世代がナチスを指示したからナチスがああなった。ナチスに全てをおっ被せているのは否定できないだろうよ。
ナチスこそが全ての原因で邪悪で悪魔で国民はその被害者という形にしないと成り立たないのがドイツ。想起するあらゆるものは排除っていうスタンスは、他のジェノサイド等の件では全く見られない特殊なもの
戦争責任をナチスに押し付けたからこそ、「我々一般のドイツ人とは違う狂信的な集団」として極端にタブー視する必要があるんじゃないかと穿った見方をしてしまう。
そりゃ「ナチス党を絶対悪においてドイツ人が悪い訳では無い」というスタンスだからな。だから謝罪も賠償もしない。外から見ると「ナチス⊂ドイツ」だけどな。
この言説の出元はズバリ西尾幹二である。といっても西尾が「西ドイツ(当時)はナチスを切断処理して反省を拒否している」と言ったのではない。
前年に西ドイツ大統領に選出されたヴァイツゼッカーは1985年連邦議会で後に有名となる演説を行った。西ドイツ大統領は米国や米国の政体をモデルにした韓国のようなものと違い、首相の上に立つが実権力は少なく元首のような役職だ。
この演説は「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」の節が有名で、要するにナチスの蛮行の責任を戦後のドイツ人は引き受けねばならない、蛮行に手を貸していないと言い張るのは許されないとの内容だ。
この演説を岩波の『世界』が取り上げて掲載し、後には数百円のリーフレットも発売した。「戦争への反省のモデルケース」としての評価であるのは言うまでもない。
因みに『世界』は敗戦後に相当な影響力を持った論壇誌だったが、経済成長や全共闘の進歩派攻撃などによって影響力は下がっていた。だがこのヴァイツゼッカー演説の掲載は反響を呼び、リベラル人士に挙って引用されるようになった。
ところで複数人で編集されるwikipediaのヴァイツゼッカーの項は、演説内容が「悪いのはヒトラーとナチズムであり、ドイツ国民・民族も被害者である」だったとの節と、「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。」との引用文が併置されるという面白い状態になっている。
この盛り上がりに対し、ドイツ文学者の西尾幹二が文藝春秋社『諸君』で批判を加えた。
「演説文章をよく読んでみると、ドイツ国民の直接の罪は回避されている」「ナチスの罪はドイツ国民個人に無い事が前提となっている」という内容だ。
そして「日本の戦争犯罪と違ってナチスの罪は人道に対する罪であって国家そのものが犯罪国家で責任の取りようが無い」。
責任が取れない種類のものを引き受けると言っているのだから欺瞞だ、という事だ。
これは文章解釈であり、悪意を持てば文章は逆の意味に解釈する事も出来る。(「ナチスの手口に学べ」は反語だ、など)
それは言語的堕落だが、西尾がそう評価されなかったのはニーチェ思想を専攻とする文学者の実績があった為だ。例えば中央公論の『世界の名著』シリーズのニーチェの編纂、解説は西尾である。実態が無い〇〇総研勤務や過去論文が紀要に全くない文学研究者やバイト以外職歴不明の動画投稿者ばかりで構成される昨今の保守論壇と当時は全く違った。
それ故、西尾の批判は「無邪気な戦争責任論への懐疑」として評価されていた。ヴァイツゼッカー演説のリテラル(文字通り)の内容は、云わば民族原罪論のようなものなので、それに対してニーチェ的視点から欺瞞を突きつけたくなるのは無理もない。
但し、
一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
の様な一文を持って「集団が免責されてる」という辺りはニーチェもへったくりもなく単に低質なデマだ。あとで触れるがこれをやり始めたのは小林よしのりだ。この文章は「当時にも残虐行為にタッチしていない人間は居たがその罪は国民は免れない」という意味だからだ。
だから西尾を哲学的文脈で好意的に評価する時、こういう所は無視して、ユダヤ・キリスト教の道徳に類似した欺瞞を指摘した、と評することが多い。
だが西尾はニーチェ専攻にも拘らずにルサンチマンに駆動させられやすく、「切断処理を表明する演説」論者にのせられてそう言っちゃうのよな。で、論壇が経歴不明なバカや宗教右翼で埋まってパージされると冷静さを取り戻す、というのをずっと繰り返している。
90年代前半までとその後の保守論壇というのは質が全く違って、例えば引用したブコメで言うと、
とかは今は普通に見られるが、当時ならあり得ない。何故といって日本は交戦相手の米英仏豪に謝って賠償金を払っただろうか?勿論していない。
フィリピン以外の賠償金は全てチャラにして貰った。特に米国は自国の民間企業に対しても対日債務は諦めるようにした。ドイツも同じスキームだ。
そして日本はそれら交戦相手の連合国にチャラにしてもらう代わりに戦場となった主に東南アジアに対して復興後の開発援助を約束した。これらの戦後処理を全てやったのは自民党であって、それ故保守論壇人士の方が戦後処理に詳しかった。だから「ドイツは交戦国に賠償していない」なんて事は相当のバカじゃなきゃ言わなかった。それはどこも一緒だから。
こういう訳で当初は「ニーチェ研究者の文章解釈」として評価されていた西尾言説が、「ドイツはナチスを切断処理して反省を拒否する立場である」という風に化けて行く。
この決定的な曲がり角は先にも言った小林よしのりなのだが、小林を論壇に引き込んだのは西尾なのだ。だから西尾は小林やそのフォロワーが後者の言説を流布して行くのを黙認していた。
その後西尾は宗教右翼に教科書運動を乗っ取られてパージされてしまい、「彼らの運動論は左翼のそれだ」と批判する羽目になるのだが、彼らを引き込んで論壇の真ん中で活動させたのも西尾だったのだな。
という訳で「ドイツはナチスを切断処理して反省しない立場」節の原初は西尾で、それが解釈ではなくて「表明したという事実」に化けていったのである。
2015年にメルケルが来日した際、朝日新聞で講演して安倍政権の歴史認識を批判する場面があった。
講演、インタビューに態々選んだのが朝日新聞というのは明確なメッセージだ。
これにネットの一部は沸騰してドイツ叩きが盛んになった、という事があった。
何故そんなに逆上したかと言えば、一部で「常識」となっているドイツナチス切断処理論と反対の立場から冷や水をぶっかけられたからだ。
仕舞にはメルケルは極左に振れているという噴飯ものの意見も多く見られた。メルケルの所属するCDUは保守政党である。
このナイーブな恐慌状態は集団で信じていた事を現実が裏切る事で起きていたので、これぞまさにルサンチマンだ。
ニーチェの思想に沿って生まれた解釈が30年経って反ニーチェ的なナイーブに転化していたというのは寓話的だと思う。
当たり前だが、メルケルもドイツもナチス切断処理なんて立場を表に出した事は無い。統一ドイツの成立条件見れば当たり前だ。
西ドイツはEC加盟国だったが東ドイツはそうではない。統一は他の加盟国の承認が必要だった。
そしてベルリンというのは統一の前日、最後まで連合国の占領下にあった。
ソ連は勝手に東ベルリンを自分の勢力下としてしまったが、米仏英はそんな事認めていない。法的には最後まで共同統治であった。
つまりベルリンの占領はこれら4国の承認が無い限り解けない。もしヴァイツゼッカーがナチスを切断処理してドイツに責任無しという演説をしたら、東西ドイツがその態度だったら、ベルリンを首都に出来ただろうか?
そしてEUの顔役が出来ただろうか?
当たり前すぎてバカらしい。
はてサのなかではなぜか立憲がネオリベ富裕層バラモン(?)だから不人気ということになっているが、実態は逆だろ
ツイッターも含めて反緊縮や経済左派が圧倒的優勢なエコーチェンバーから離れるべき
・下位1割から2割の「貧困」「弱者」「母子家庭」「外国人」「非課税世帯」「低所得者」「非正規女性」「無職ニート」「ルンペン」といった特定弱者属性のみを優遇したから
世の中を支える多数派のフルタイム労働者は左翼の弱者優遇策で1円も得をしないしむしろATMにされる
弱者優遇というのは逆に言えば中間層以上の属性から税金を奪って弱者に配るという意味なので、中間層以上には損しかない
消費税減税して所得税増税というのもサラリーマン増税・労働者中間層増税だからな
共産れいわというプロの弱者に特化した極左と同盟したのも中間層離れの原因
「日本人・男性・現役世代・正社員」というボリュームゾーンを左派リベラルは強者と認定して逆差別しているので、怒ったこの層は自民や維新に流れた(アメリカでは同じ層が共和党へ流れる)
大金持ちではないし、かといって弱者特権もない中間層は自民や維新が好きなわけではないが、何もくれないどころか弱者のために税金搾取し、道徳的優位からの説教までくれる左派が嫌い
左派は「ネオリベガー」というが、弱者利権はネオリベ以上に中間層から嫌われまくってる(ネオリベは中間層にも弱者にも冷たいが、左派は弱者を優遇して中間層に冷たいので、中間層視点からは弱者を道連れにしたい)
立憲は共産れいわ社民らに引っ張られて高齢者医療費自己負担増や年金のマクロスライド削減に反対した
立憲は「消費税減税」を突然言い出し、所得税や法人税を増税しまくると主張 俺は立憲は気が狂ったから思ったよ
所得税増税なら引退世代は負担ゼロで現役労働者のみが搾取される しかも消費税減税で引退世代老人はむしろ得をする
世代間格差というのは生まれによる差別なのに、差別を許さない自称リベラルがこれを推進している
立憲は消費税が悪いガーと主張し続け、一方で現役世代を苦しめてると悪名高い社会保険料はガン無視 誰の党なんだ?
あと労働組合連合を切って捨てて老人政党の共産党に全額ベットしたのもダメすぎる
ネットでは反キンシュクMMTが圧勝しているがリアルでは財源なき無責任なバラマキには冷淡だよ
MMT論者やハンキン論者は基本経済左派なので所得税や法人税を爆上げしろというので現役世帯には恐怖感がある
経済左派やネット論客()はネオリベや改革主義を全否定するが、世論は河野太郎や維新が大人気
財源は限りがあるので無駄削減や改革しないと既得権層に寄生されまくって頑張ってる現役世代が死ぬからね
経済左派はネットのエコーチェンバーに騙されてリアル世論の河野太郎や維新が人気という改革人気を見誤った
旧民主党は「ネオリベ構造改革」と「普遍的福祉」の二枚看板だったから人気があったのに、今は立憲は改革を切り捨て福祉左派というニッチ政党でしかない
「改革」「既得権打破」「無駄削減」「自助」「市場経済」「自由」の河野維新 VS. 「反改革」「既得権維持」「無駄維持」「公助」「統制経済」「規制」の立憲共産れいわ 勝てるはずないだろ笑
立憲はネットのエコチェンを見過ぎて社会主義MMT既得権塗れの昭和回帰派が多数と見誤ってしまった
消費税を減税しつつ財政出動や福祉は増やしまくるという無責任な積極財政主張が中間層から嫌われた
じゃあどうすればよいのか?
・貧困弱者をやめて中間層の「普通に働いている人」が「頑張ったら報われる社会」を主張しろ
・世代間格差是正して、現役労働者を優遇し、高齢者にも負担を求めろ(消費税増税して社会保険料や所得税を減らせ。教育重視とかやれ。医療福祉はカットしろ)
・低負担高福祉という無責任な反キンシュク左派から決別し、次世代へのツケ回しをやめ、現実主義的な財政を主張しろ
反論ある?
これはいつもの国語増田じゃないかと思うが、内容が稚拙すぎる。ブリンカーを付けて歩いているのか?
https://anond.hatelabo.jp/20211106182157
国語と収入、所得の違いの指摘だけなら兎も角、倫理と対比して実習制度の奴隷使用を現実主義で擁護しやがった。
この「倫理を詰る者に対してその話者の立ち位置の倫理性を問う」というのは原発反対論者に電力の使用を詰るというのが有名だが、ブクマではフォーマットが同じなので安心して賛同する者が出ている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20211106182157
はい、言葉いじりだけで実習制度の奴隷使用は是認されるべきものになりました。
学校というサンドボックスで国語の問題を解くのは得意だが学校ではない社会の事象に対してもそのサンドボックスから出ないで得意げにあーだこーだ言うのが国語増田の特徴だったが、やっぱこの増田もそれなんじゃないのか?
そもそもほぼ全ての農家が土地を持っているというのは米軍が倫理的観点で強行した為というのを忘れている。
戦前まで土地を持たない小作農が沢山居り、これが農村部の貧困の原因になっていた。大日本帝国の満州開拓への固執の動機には国内の水呑み百姓問題があった。
これを理解していた米軍は耕作地の所有権を小作に移転させ、その他農村の近代化も進めた。
これには世界恐慌時米国内での困窮農村救済プロジェクトがあった事も関係しているのな。教科書で習うのは農業調整法だが、それ以外にFSA(農業安定局)プロジェクトなどがある。
そういうプロジェクトに従事していた人らが戦後に徴兵されたりして技官や武官として日本に来てこういう政策を行った。
米国の農業資本は中南米ではプランテーションを行っていたし、未だに行っている。
でも占領時もそういう資本は入って来なかったし、日本の農民もプランテーション下で経済的に支配された身分にならなかった。
米国の化学肥料メーカーにも蹂躙されず、国内の爆薬製造者が肥料メーカーに転身しただけだった。
増田の立場では日本の貧農は外国資本や農主の下で働くことになるのは現実主義的に当然なんじゃないのか?
だが実際は倫理的に改革されて戦後の農業の形が出来ていたんだよな。その土壌で奴隷経営するのが出てきて言葉遊びでそれをごまかしているのだから批判する声が出るのが当然だ。
GHQは税制の改革も進め、その一つの大きな柱が「個人事業への企業経理の導入」なのな。青色申告とか複式簿記のあれだ。
法人税でも青色申告でも複式でつけた帳簿は税申告時には税務署に見せない。PLだけ提出して帳簿と領収書などは保管義務があるだけだ。だが税務調査が来たらすぐに見せなきゃならない。
これは国税当局と経営者が互いに信頼するという前提に立っている。公文書改竄と国会虚偽答弁した事で国税庁長官に昇進した佐川宣寿が結局すぐに辞職したのはこの為だ。善意と信頼に基づく税制なんて運用できないからな。
この米国企業式の経理と税制を個人事業の基礎に据えた為に農家も個人商店も複式簿記出来るし給与生活者があまり意識しない収入と所得を当然に分別出来るのだ。
それなのに倫理と現実主義を対置して倫理をdisってみせるというのはどういう事だろうか?
今は入管法が厳しくなりあまり居ないが、2004年くらいまではオーバーステイの外国人っていうのは沢山居た。それでビザの条件にも違反して労働している者も多く居た。水商売とか町工場とか偽装請負とか。後者では賃金を買い叩かれて働いていた。オーバーステイなんて大したことじゃなかったのよ。
だが年々入管法は改正され、当局の締め付けも厳しくなってきた。すると手入れを恐れて雇用するのが難しくなる。
そうなると工場の社長や水商売のオーナーはボヤく。曰く「商売あがったりだー」「仕事減らすしかねぇ」当たり前だ。
でもしょうがないので商売替えするか諦めて社員を雇うしかない。私は当時水商売に近い所に居たからボヤキを散々聞いた。「いいアイデア無い?」とも聞かれた。
偽装請負の中にはオーバーステイ専門の派遣で、社長自身が外人、要するにただのブローカーが法人格持ってるのも居た。
当然困ったろうが知ったこっちゃない。商売畳めとしか言えないし、そうなった。
元増田はこれらの人は擁護すべき立場なのだろうから、どうか入管の矢面に立って外国人キャバクラのオーナーとかブローカーとかを擁護してやって欲しい。
実習制度は昔からあるが、それが人権問題で国際問題化してきたのはこの10年程度の事だ。
どうしてそうなったかは上の説明読めば判るだろう。オーバーステイ摘発が増加した為にこの制度の悪用が代替手段として一般化したのだ。
そして昔は現地のブローカーが暗躍してた人身ビジネスに国家がハク付けをしてしまった形になる。
更にその悪用にオーバーステイ外国人雇用にあまり関与してなかった業界が参入する事にもなった。その一つが農家。
だから「100円のほうれん草食いながら」云々というのは、甘い味を覚える前の経営に戻るしかないというだけの事。
ずっと実直にやってた頃に戻ればいいんだよ。
国語の問題を間違えている人を発見して有頂天になっても、それは学校的な発想でしかない。
「学校」のサンドボックスから出て「現実的」な事を書いてみようとしても、倫理で詰る人のメタ倫理性を論うテンプレでしかないというのはホームルームで先生をやり込める「目覚めた」生徒のそれだ。
学校的空間ではそういう自己否定@山岳ベースを聞いてくれる先生がいるが現実はそうではない。原発も条件が揃えば爆発するし人権問題が後に国際問題として延々解決しない事にもなる。更に人の人生を破壊する。