はてなキーワード: 1914年とは
しかし、この繁栄は長くは続かず1910年代半ばには衰退を始めた。1908年から1914年にかけ有力な種牡馬が相次いで死亡、その上残った種牡馬も輸出されたり失敗したりで活躍馬を出せなくなり、牡馬のクラシックホースは1914年のエプソムダービー優勝馬ダーバー(Durbar、フランス産)が最後となる。最終的に、産駒世代が17勝、その下の孫世代が27勝に達したセントサイモン系の英クラシック勝利数が、その下のひ孫世代では5勝に急減した。しかも5勝全てが牝馬(1000ギニー2勝、オークス3勝)に偏り、牡馬はついに0勝に終わった。
この結果、イギリス国内でセントサイモン系は急速に数を減らし、1930年ごろまでには親系統に当たるガロピン系を巻き込んで姿を消した。また、オーストラリア、南アメリカに広がっていたセントサイモン系も同様に滅亡した。隆盛を極めたセントサイモンの父系があまりに短期間のうちに消滅してしまったために、日本では「セントサイモンの悲劇」と呼ばれている[注 6]。
このような結果に終わった理由として、ある種牡馬の血が交配可能な牝馬の大半に行き渡ると、その種牡馬の系統に属する種牡馬は近親交配を避けるために満足な交配機会を得られず、その結果急に勢力を減じると理論づけられることがある[15][注 7]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3
1880年、アメリカ・カンザス州に住むドイツ移民の家庭に生まれた。
1911年にMLBのニューヨーク・ジャイアンツを訪ね、
監督のジョン・マグローに「自分がジャイアンツの優勝に貢献する投手になると占い師に予言された」と話した。
マグローは冗談で彼に入団試験を受けさせたが、その日からジャイアンツが連勝しはじめたため、ファウストは入団を許可された。
当初、ビジターの試合にはファウストを連れて行かなかったが、なぜかジャイアンツは苦戦した。
ファウストを帯同した場合、ジャイアンツは36勝2敗という驚異的な成績を収めた。
ファウストは地元の新聞紙に取り上げられて人気者となり、ベンチ内ではジョークを飛ばしてチームの士気を高めた。
ただしワールドシリーズではその神通力は発揮されず、ジャイアンツはアスレチックスに敗れた。
優勝決定後、ファウストは2試合で9回を任されて1失点に抑えた。
しかし、もちろんファウストに野球の才能はなく、その投球はへろへろだったという。
翌年もファウストはチームに帯同し、ジャイアンツは最高のスタートを切った。
ファウストがいた時期のジャイアンツの勝率は8割を超えたという。
だがファウストがあまりにも「投手をやらせろ」とうるさかったので、マグローはとうとう彼を解雇してしまった。
チームの連勝は止まったものの、最終的にジャイアンツは優勝した。
オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国が国境で接していたのが1908年。
前者の ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ皇帝は長期政権の在位60年目で、ドイツやイタリア、ロシアと同盟していたが、オスマン領のボスニアとヘルツェゴビナに侵攻、そして併合したので、欧州各国はいきり立った。
で翌年に皇太子が暗殺され、5年後に第一次世界大戦が勃発(1914年。国際連盟はまだなかった。ただ今は国際連合があっても侵攻問題では影が薄いな)。
このとき日本はイギリスに要求されてドイツ側に宣戦布告(ドイツ領のハイテク山東が欲しかったはず)。ロシアは汎スラブ主義だったのでこれもまたドイツ側に宣戦布告。
ところで日本の硫黄王・海上保険の広海二三郎は、1910年から1911年で、生産量を年間1000トンから1800トンに拡大している。硫黄といえば火薬の原料。きっと軍拡イギリス向けに輸出して利益を得たんだろうな。なおイギリスは1911年には法律で医療無料化をした。
113年後の今はプーチンがハプスブルクの立場で、イギリスはイギリス。何かのきっかけで大戦争化して更にインフレ起こすなどは控えていただきたい、と岸田などが言えばいいのに。
矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日〈天保4年4月24日〉 - 1925年〈大正14年〉6月16日)は、日本の女子教育者、社会事業家。
肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児の誕生は歓迎されず、名付け親は10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。蘇峰は明治、大正、昭和にかけての大論客、蘆花は明治、大正の文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。
かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠の弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである。明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。
妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎発東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。
このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎や父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬の農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄からの手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本洋学校生徒35名による花岡山キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳冨蘆花も参加している。やがて熊本洋学校は廃校になり、彼らの一部は、新島襄の同志社に入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。
明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で教育者のマリア・ツルー夫人と運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校の教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。
自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年)築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である徳富久子、横井つせ子、竹崎順子も洗礼を受けている。当時17歳のキリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。
明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理に就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。
明治23年(1890年)、櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となり、初代院長に推される。
明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。
一方、恵まれなかった結婚生活や小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。
楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職は大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年(1925年)6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治、大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
五賢帝は、1世紀末から2世紀後期に在位したローマ帝国の5人の皇帝、またその在位した時代のこと。しばしばネルウァ=アントニヌス朝とも称される。共和政時代から続いてきた領土拡大が一種の集大成を迎え、ローマ帝国始まって以来の平和と繁栄が訪れた。パクス・ロマーナと呼ばれる時代の一角をなす。
貞観の治(じょうがんのち)は、中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝太宗の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世に政治的な理想時代とされた。わずかな異変でも改元を行った王朝時代において、同一の元号が23年も続くというのはまれであり、その治世がいかに安定していたかが窺える。
16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀(Siglo de oro)と呼ばれている。スペイン君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなど、その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。
19世紀後半のヴィクトリア女王の時代、近代イギリスで最も繁栄し、多くの自治領、植民地を所有し、工業生産・金融の面で世界経済のヘゲモニーを握り、第二帝国の時代ともいわれた。国内政治では保守党と自由党の二大政党が交互に政権を担当する政党政治が機能し、文化面でも世界をリードしパックス=ブリタニカを実現した。
ベル・エポック(Belle Époque、仏:「良き時代」)とは、厳密な定義ではないが、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代、及びその文化を回顧して用いられる言葉である。19世紀中頃のフランスは普仏戦争に敗れ、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、第三共和制も不安定な政治体制であったが、19世紀末までには産業革命も進み、ボン・マルシェ百貨店などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになった。1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点であった。
第一次世界大戦の特需にアメリカは大いに沸いた。アメリカ経済は空前の大繁栄をとげ、戦前の債務国から世界最大の債権国に発展した。世界経済の中心はロンドンからニューヨークのウォール街に移った。大衆の生活は大量生産・大量消費の生活様式が確立する。一般には「黄金の20年代」と呼ばれ自家用車やラジオ、洗濯機、冷蔵庫等の家電製品が普及した。1920年には女性への参政権が与えられるようになった。ベーブルースによる野球人気やチャップリンの映画、黒人音楽のジャズなどのアメリカ的な文化が開花した。
いつ?
https://anond.hatelabo.jp/20201219095651
(出来事)
1856 日米修好通商条約締結
1860 横浜の外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬)
1869 戊辰戦争終了
1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬。1898年まで)
1874 台湾出兵
1877 西南戦争開始~終了
1894 日清戦争開始
1905 日露戦争終了
桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬。中央競馬のルーツ)
馬政第一次計画の制定(第一期:1906年~1923年、第二期:1924年~1935年)
帝室御賞典(東京)創設
1907 小岩井農場が種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬(小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する
1910 韓国併合
改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬のルーツ)
主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限は1928年まで)
帝室御賞典(阪神)創設
1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)
宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票が実施される(事実上の馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部が実施するようになる
1914 第一次世界大戦開始
1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵(1922年まで)
1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年~1924年は春のみ。1925年~1937年は秋のみ)
帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)
1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止
帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設
1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念)
下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する
1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)
1931 満州事変
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する
1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する
1934 中山大障害創設
1936 二・二六事件
1937 日中戦争開始
天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回からは春秋共に3200mで施行。ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)
連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止
菊花賞(京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬(オークス)(阪神優駿牝馬)創設
1939 皐月賞(横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞(中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)
1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成
1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬は能力検定競走として施行される(戦前の競馬はこの年限りで終了)
2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる
1949 朝日杯3歳ステークス(1991年から牡馬及び騸馬(せん馬)限定のレースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設
阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定のレースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設
1951 中央競馬における重勝式馬券の発売(1961年廃止)
トキノミノルが無敗で二冠を達成
日本中央競馬会(略称は1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)
啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬を表彰することを始める(1972年から『優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初の年度代表馬はハクリヨウ(ハクリョウ))
1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁の相互実施協定を締結する(国際交流の始まり)
東京大賞典(秋の鞍)創設
1958 ハクチカラが戦後の日本調教馬として、初めて海外に遠征する
1956 有馬記念(中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)
1963 中央競馬において8枠制が導入される
メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される
1965 シンザンが天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)
1967 栗東トレーニングセンター開場
1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される
1970 大阪万博
スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される
1971 ニクソン・ショック
貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施されたことにより、持込馬が有馬記念を除く八大競走への出走権を失う
トウメイが天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される
1972 沖縄返還
地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止)
ハイセイコーが中央競馬に移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年の有馬記念2着(勝馬はタニノチカラ)を最後に引退)
1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止。最初の指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ。最後の指定馬は1991年のセントライト記念におけるレオダーバン)
1977 テンポイントが有馬記念でトウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス)
1978 美浦トレーニングセンター開場
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日(天保13年3月15日) - 1917年(大正6年)3月31日)[1]は、日本の外交官、漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 主な著作
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
来歴[編集]
肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田順左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身の医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮の宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門は儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。
1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅、木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都、江戸、奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。
1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市や玉名市で私塾を営んだ後、1875年(明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使に随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事、北京公使館書記官などを経て、1882年(明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。
1893年(明治26年)、東京帝国大学教授に就任し漢文学を講じた[1]。退官後、小田原に暮らし、76才で没した。1914年(大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士。従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学の総長となった木下広次が務めている[1]。
http://b.hatena.ne.jp/entry?eid=315450106
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005752638/enの論文で、エドワード・クック「ナイチンゲール伝」(1914年)1巻に記載があると書いてある。
原著の該当らしき部分は203p
https://archive.org/stream/lifeofflorenceni01cookuoft#page/202/mode/2up
この本には、ナイチンゲールが斧を持って薬箱を叩き割ったという逸話は記載されていない。
シャツ等の物資の入った政府貨物を強制的に空けたという話も「一般に広く流布している」ものの「確証はない」となっている。
ただ一方で”I think that Miss Nightingale was quite capable of the dreadful deed." (ナイチンゲール女史は荒事に非常に長けていたはずだと思う)とも言っている。
「公式記録はないが、あの人ならやりかねん」みたいなニュアンスなんでしょうか。
(ちゃんと訳せてないかもですが。Roebuck Committeeってなんだ?)
以下抜粋。
"February 1855, she received a requisition from the medical
officers at Balaclava for shirts. She knew that 27,000 shirts
had at her instance been sent by Government from home,
and they were already landed. But the Purveyor would
not let them be used ; "he could not unpack them without
a Board." Three weeks elapsed before the Board released
the shirts. The sick and wounded, lying shivering for want
of rugs and shirts, would have expressed themselves forcibly,
I fear, if it had been explained that they must shiver still
until the Board of Survey's good time had arrived.
Miss Nightingale's impatience at such delays was the
origin, doubtless, of a story which had wide currency at
the time that on one occasion she ordered a Government
consignment to be opened forcibly, while the officials wrung
their hands at the thought of what the Board of Survey
might presently say. The story was mentioned in the
Roebuck Committee ; and, though it was not confirmed, I
think that Miss Nightingale was quite capable of the dreadful
deed."
砂に埋もれてくしゃくしゃ
地は侘しく平らかに均された
跡なき力強い御手によって
遺跡に遊び
ポリ袋を叩いて鳴らした
勇敢なる男たちと女たちは神を敬愛し
朽ちた襤褸たちの知るところとなった
口ずさむ:私を愛していますか?
私をおぼえていますか?
私のうえに雪がつもる
幾重にも幾重にも層を成して:
これも神の掌のうちなのか
他の娘たちは埋葬される
無縁墓地*4の土のなかへ
日々を刻んで通りすぎる
二万の死者たちがあなたの歩みに寄り添うところ
気だるい鳥達のさえずりのなかで失われていった彼らの死因
彼らの残した記録はどうしたって謎めいている
すべては廃れて消えた
蛍光なしではね
私もがんばってきたんだよ でも
私の愛していたものを思い出して、私を抱きしめて、なんて言わない
なんどもなんども医者を呼んだ
そして絵の中に生きる
彼は言った:
「大丈夫」
「もう終わったよ」
そして飛行機に乗った
ベルトを締めずに
彼はとんでもない向こう見ずで有名で
“ぼうや”と呼ばれ
落下へと突き進んでいった*7
そして私たちは水準をあげる
狩人たちは
そして驚きをもって見つめて
私たちの髪をピンと逆立てると誓って
慈悲を! 神よ!
出て行って、狩人が石碑を解読するのを待って*9
この街の下に何が横たわり、去っていったのか
見よ、そして絶望せよ
見よ、そして絶望せよ
---
1 シェリーの詩『オジマンディアス』より。古代エジプトの「王のなかの王」オジマンディアスを詠った詩。このあと続く砂漠や遺跡のイメージはシェリーの詩に準じている。全体をつらぬくモチーフでもある。
3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作の絵画についてのエピソード。この作品は長いあいだ、旧約聖書外典トビト記を下敷きにしたポピュラーな宗教画モチーフ「トビアスと大天使ラフェエル」の絵だと信じられてきたが、のちの研究でもともと「母親と子供」の図として描かれたものをティツィアーノの弟子が宗教画へ改変したものと判明した。
ちなみに「トビアスと大天使ラフェエル」はこんな話。ユダヤの盲人トビトの息子トビアスは、父親から昔貸した金を回収するように命じられてメディアの地まで旅をする。そのとき同行者として大天使ラファエルがトビアスについてくる。トビアスは旅から帰るまで、自分の同行者がラファエルだと気づかなかった。
4 歌詞では「potter’s field ポッターズフィールド」。無縁墓地を指す。語源は新約聖書のマタイの福音書。銀貨三十枚でキリストを売ったユダは自責の念からクビをつって自殺。ユダから押し付けられた銀貨のあつかいに困った祭司長たちは陶器職人(potter)の地所を購入し、行旅死亡人の墓地に定めた。
5 ワシントン・スクエア公園のこと。パリの凱旋門をモデルにしたワシントン・スクエア・アーチが建っている。もともとは貧困者用の無縁墓地で、今もその下には2万人以上の遺体が埋まっているという。
6 オーストラリア人画家アーサー・ストリートンの絵『Spring』の元ネタになった人物のこと。ストリートンの恋人だったらしい。
7 「ニューヨークの市長坊や」の異名を取ったジョン・パーロイ・ミッチェルは1914年から17年までの三年間、ニューヨーク市の市長を務めた人物。彼は当時ニューヨークを仕切っていた悪名高き集票マシーン(一種の政治団体)タマニー・ホールと激しく対立し、17年の選挙で落選するや第一次世界大戦に参加するため空軍へ入隊した。入隊の翌年、彼は飛行訓練中の事故で死亡。原因はシートベルトを締めなかったことによる落下事故だったという。
僕たちの軍事力を舐めてはいけない。日本が抵抗をやめるまでは徹底的に戦い、息の根を止めるつもりだから。
ドイツは最後まで抵抗したけど、その結果どうなったかご存知の通り。言うこときかないと日本も木っ端微塵になるよ。
まあ日本全部が悪だとは思わないよ。日本を破壊の崖っぷちまで追い込んだ自己中で低脳かつ好戦的なやつらの言いなりにはならないで、自分の頭で考えることだ。
言っとくけど、これは最終的な条件なので交渉とかの余地はないから、そこんとこヨロシク。
まずは、さっき言った好戦的な低脳なやつらだが、あいつらは永久的に排除すること。ああいう輩やつらが蔓延っている間は平和は無理だからね。
悪いが、君たちが完全に無力になったことを確認できるまで、いくつかの拠点は占拠することになるからね。
カイロ宣言に従い(1914年以来日本が植民地化した太平洋の国々と中国の一部や韓国はすべて返還して)、日本の領土は北海道・本州・四国・九州+僕らが認めたその他島々に限定するよ。
もちろん、日本の兵隊さんたちは降伏後、武器を放棄して日本に帰って良いよ。
別に日本人を奴隷にしようだとか国として二度と立ち上がれなくなるようにするつもりは毛頭ないから安心したまえ。
しかし捕虜を虐待したやつらを含めた戦犯には容赦なく征伐を下すよ!
経済活動を続けてゆくゆくは貿易に関わるのは結構だが、軍力をつけるのは無論ダメだぜ。
石油とか必要な原材料は輸入できるように計らってあげるけど、支配しようなんて二度と考えないこと。
民主主義に基づいた、平和で責任感のある政府が発足したら僕らは手を引くつもりだよ。
ということでさっさと降伏しなさい。さもなければ酷い目にあうよ!
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
将来が暗いニュースや、若者が辛い時代になると言う世論も多いけど、良く考えたら悪い時代では無いんじゃないかと考えた。日本のバブル時代や、バブル中の国と比較すれば、もちろん見劣るし夢も萎む。
日本はすでに人口オーナス(人口も減り、老人が増え働き手が減る)であり、成熟国に入っている。
人口ボーナスがあり、発展が途上の国と幸せのあり方を、一緒に考えてはいけないのでは。
ガンガン物を手に入れて幸せになる時代ではなく、持っている物を楽しむ時代であると感じる。
もちろんバンバン働いて、金や物も手に入れて幸せになることも正しい。
ただそれを、バブル期や発展途上国のように、絶対的な物差しとしてはいけないと考えた。
約2010年の日本人が普通(8割ぐらいの人は)に持っている物は、
・贅沢はできないが、安心で好きな食べ物やおいしい食べ物を入手できる環境
・ガードマンはいないけど、安心して外出でき夜中でも襲われることのない日常
・100%保証ではないけど、安心して通院できる医療制度や腕利きの病院
・費用負担はあるけど、十分使えるパソコンに、自由なインターネット環境
・住んでいる地区にもよるけど、お金をかけなくても楽しめる観光や旅行や遊ぶところ
・他にも、漫画、アニメ、映画、SNS、2ch、はてな、Amazon を嗜む環境etcetc
は大体の人が持っていて、無駄遣いしなければ月10万あれば、この暮らしができる
(例:家賃5万、デリカ250円×3=750×30=22500、ネット3000円、その他10000円、貯金10000円。かつかつで)
月10万なら、資格や能力が何も無くても、特殊な問題を抱えていなければ、ある程度
年齢が越えていても、コンビニ等の働き先は、いくらでもあるんじゃないかと。
さらに8割以上の人は、18万以上稼いでいますよね。
何も無い人が、簡単に月10万稼げる国は、世界でも少ないはずで、
いやいや、今の時代はつらいよ。原発、老人介護、医療、年金etcと、これから大変だよ。
患者150万人のうち15万人が死亡。
世界恐慌に加え、冷害・凶作、昭和三陸地震や津波が続き、身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺などが激増して悲惨な状態
生活はどんどん制限
生活はどんどん制限
3500人死亡
約30万人が死亡
日本は300万人が死亡
今は戦争も日本ではないし、食べ物はあるし、病院もあるし、すごい良い時代だ。
人口ボーナスがあり、発展が途上の国の幸せのあり方だったと思う。
これは悪くない時代だったはず。
で僕らは、獲得する幸せは感じないけど、1950年代の人が、全力で手に入れた物を
僕達が今後いきる世界は、今あるものを十分に楽しんで生きれば良い。
つか、ネットがあると、それだけ十分楽しめるよねって話でした。
はてなID:ykkjhrk
はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
途中で腹の立った人、題名で既に私の言いたいことがわかった勘のいい方、時間のない方は「本文」を飛ばして「おわりに」を読んで頂きたい。
あなたは、
あなたの旦那さんは、
あなたの息子さんは、
戦争に負けて、巨額の賠償を強いられて、ハイパーインフレの国に生まれたら、家族を養えますか?
父親が貴族やユンカーでもないかぎり自活は無理でしょ。本人の資質や努力、やる気なんて関係ありません。どんなに能力、やる気があっても、恐慌と重税下で家族を養える20代の男性なんてほぼ皆無です。外国を侵略したとか言われてるけど、外国を侵略せずに必死で働いてたら、食べていけたと思います?
多くの若者を死なせた国が終戦したら、自動的に“誰かが支援する必要”があるってことでしょ。
支援するのは誰?
・旧敵国(賠償免除、借款)
・米国
でしょうか。現実的には、戦火を交えた旧敵国(旧敵国も戦争で荒廃してるでしょうし)が自分の生活物資に加え“7000万の敗戦国民の生活物資”を維持し続けるのも、このご時世では苦しいでしょう。
(2)旧敵国に相当の稼ぎがあり、敗戦国民7000万名の生活物資を何年にもわたって供給し続けられる
(3)中立国が助ける
で、ないかぎりは、
(4)東方拡大により生存圏を確保する
しか、敗戦国に生きる道はありません。
・父親が貴族やユンカーではなく、
・政府が支払うと約束した額と現実的な支払い見通しが不十分で、
・旧敵国に、生活物資を支援する財力と予定があると確認できなければ、
「では、このままオーストリアとズデーテンラントに行って、手続きしていってくださいね」と、講和条約を調印する係の人が、講和条約と引き替えに合邦協定草案を渡しながら言う必要があるんじゃないの?
違うのかな・・
「育てられないのに降伏するなんて無責任」という人は、1910年代で帝国主義をしちゃダメだと言ってるの?
“敗戦する可能性”は誰にでもあるでしょ。“敗戦しても自活できる経済力を付けてから戦争しろ”ってこと?それが責任ある態度だというの?それいったい何世紀くらいのこと?22世紀くらい??何世紀まで働いたら“賠償しても国民7000万人養える経済力”なんてつくの?
民族自決ってのは、同じ民族は一つの国家に住みましょうね、っていう政策なんじゃないの?そのために国際連盟まで設立したりしてんじゃないの?
★★★
記録のための事件概要
・1914年7月、兄弟国は戦争を決意。当事国に最後通牒(後に期限切れで宣戦布告)。
・1914年8月、国家防衛のため総動員を開始、自動的に戦争に突入
・1918年11月 革命と共に終戦。隣国は皇帝を引き取り、共和国としての歴史が始まる。
・1921年の3月 ロンドン会議が開催され、賠償額が決定。総額1320億マルク。
・7月頃から国内争乱開始か。大統領緊急令を連発するなどし法によらない解決を繰り返す。
・国内に賠償踏み倒しの声が聞こえ、隣国による保障占領が相次ぐ。イギリスが調停を試みるが、国会が運営できず。
・1930年にヒンデンブルク(当時大統領)が議会に依存しない内閣の結成を命じる。
・1933年1月、軍部による反大統領クーデターの噂(未確認)
・ポーランド西部のアウシュヴィッツでは、虐殺されたユダヤ人無数が遺体で発見される。
・1945年4月30日 ベルリンが陥落したところを、ヒトラーは自殺。
★★★
“ホロコースト”の意味は、虐殺とか、抹殺という意味だと思うのだけど、
この事件では、誰が何をホロコーストしたの?
★★★
この総統が苦学生だった20世紀初頭、ヴィーンでの親友だった音楽家の証言より再構成
彼が総統となってヴィーンに来たときですか?私を接見してくれましたよ。
監視?もちろんなしです。本当ですよ。
それではどうしてあなたはあのいまわしいヒトラーを殺さなかったのですか、ですって?
どうしてって…。彼は私の親友だったからです。
民族自決もいいけど、既に分裂している国家も、もうちょっと合併したらどうかな、旧敵国。
600万人のユダヤ人のご冥福をお祈りします。
言うまでもないが、改変元→http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801
冗談抜きで、ふざけるなと言いたい。「盗人にも三分の理」というが、同情する余地のない人間などどこにもいないのだ。しかしだからといって、追いつめられれば何をやってもいいかのごとく触れ歩くのは単なるデマゴーグに留まらない、犯罪的な言説だ。そもそもこの手の言説は、子供を虐待することなく立派に育て上げている圧倒的大多数のシングルマザーに対する侮辱であることに気がつかないのか。恥を知れ恥を。
まして、「なんでも環境のせいにするな、全ては自己責任」という俗流過激ネオリベ思想を推進しているこのデマゴーグブロガーが、こういうときだけ全て環境のせいにするなど、ふざけるにも程がある。
そして、「ジェンダー」という錦の御旗を振りかざされれば目が眩んでことの本質が見えなくなる馬鹿なはてな民よ、恥を知れ。
人を殺すぐらいなら、もっとまともな手はいくらでもあったはずなのだ。いくら追い込まれての行動とはいえ、同情の余地にも限度があるに決まっていよう。同情の余地があれば全てが免責されるわけでもなければ、悲惨な境遇に追い込まれれば誰もが罪を犯すわけでもない。
勿論、仮にヒトラーが生まれた時期があと50年遅ければ、誰一人を殺めることもなく平穏に生を終えることができたのかもしれない。逆に、私が当時のドイツに生まれていたらヒトラーと同じことをやったかはともかく、その下手人にぐらいはなっていた可能性だってあることは重々承知している。それぐらいの「想像力」は当然ある。しかしそんなことがヒトラーを免罪することになどならないのは言うまでもない。もしそれを赦すことができる者がいるとすれば、神仏のような超越的な存在でしかあり得ないだろう。いずれにせよ、現実社会ではヒトラーは赦されることは未来永劫あり得ない。それが世の道理というものだ。
この事件、いったいそれと何が違うのだ。「ネグレクトしない自信はない」そんなことはあたりまえだ。母子家庭であろうとなかろうと、ネグレクトをしてしまう可能性はある。人間とはそういうものだ。しかし、その責任を自ら引き受けることなく子育てなんてそもそもできるわけがない。育児に限らず、一寸先は闇の現実世界というのはすべてそういうものだ。誰も、他人が過ちを犯す可能性を零にしてやることはできないのだ。なんとか自分を律するように最善を尽くすしかない、それが本当の意味の「自己責任」ではないのか。
別段在日外国人、在留外国人を差別する意図も意志もない、ということを宣言した上で、下記を記載したい。-1
”在日韓国・朝鮮人が日本に移入してきたのは、「戦時下の日本政府による強制連行によるものと語られることが比較的多かったが、現在では、これは戦時下の朝鮮を含め、原則としてすべての日本人に適用された国家総動員法に基づいた合法的な徴用であるという認識が広まっている。朝鮮半島から日本本土に渡航してきた大半が自由意志によるものであり、徴用で日本本土に来た朝鮮人も、戦後そのほとんどが帰国していることが判明している。従って、現在、在日韓国・朝鮮人のうち、その来歴が徴用とする者は極めて少数と考えられている。これは朝鮮人移住者の各種データを検証をした『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(昭和30年7月 法務研究報告書第43集第3号)に詳しい。在日韓国・朝鮮人団体である在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で在日韓国人からは39人に留まっている。”
日本人を責めたい気持ちもわかるし、現状差別を行っている多くの人が厳然と存在することは事実で、それを否定するつもりはない。
ただし、当時の日韓併合について責めるのは当時の国際情勢からして国際的にも支持を得辛いだろうという点も指摘しておく。
”英ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年-1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」としている(2001年11月27日 産経新聞)”
従って、現状の差別については、広範な民族問題としてのアイヌの方や琉球の方、またブラジルからの来日在留者同様、「差別しない」という点において、韓国・朝鮮系の方も等しく、「差別されざるべき存在」として付き合う必要がある、ということ。
アプリオリかアポテステリオリなんていう概念の提示はこれらの他の民族との線引きを行うもので、容認し兼ねる(個人的には)
また、終戦時において韓国が朝鮮戦争その他を含めた経済要因による理由もあり国籍選択を拒否したことについて、日本人に責任を問うのは無理というものだ、と言う点も指摘しておく。(これを韓国政府の棄民政策だ、と言う点についてはそういう捉え方もあるだろうし、自分としてはその立場を取る)
一方で、戦前から戦後についての多くの日本人移民についても、同様に日本政府による「日本人の棄民政策」であり、戦後の北朝鮮への帰還事業は総連も積極的推進を図っていた点をもって、日本政府・日本人だけの責務とするのは問題があると考える。
創氏改名については、戦中も朝鮮名をもって将校になった(まぁそうはいっても部隊指揮官クラスですが)点などをもって、「全ての人間に強制した」ということはない点も明記しておく。
また、朝鮮戦争が日本の植民地支配が原因だ、という点に関しては、結果としてそういった「要因」があったことは「歴史の連続性」として有り得るだろうが、そんなことを言い始めたら中東戦争は全てイギリスが責務を負うべきだし、印パ紛争もそうだろう。
そんな話は「現状の解決になんら寄与しない」ことに加えて、「どこまで歴史の責任を負うべきか」という点もあり、プロパガンダとしての効力は無いわけではないだろうが、少なくとも現状の差別解消に有効に機能するとは思えない。