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2024-10-19

明治維新について簡単解説して!

明治維新(めいじいしん)は、1868年から始まった日本の大きな変革のことや。

江戸時代が終わって、武士時代から近代国家へと移り変わる大改革やったんや。

まず、江戸時代は長いこと続いたけど、外国日本に「開国せぇへんか?」って迫ってきたんや。

特にアメリカペリーさんが「ドン!」って黒船でやってきたんが大きなきっかけやな。

それで、徳川幕府がグラグラし始めたんや。

その後、薩摩藩長州藩を中心に「このままじゃアカン!新しい政府を作ろう!」ってなって、徳川幕府を倒す動きが強まっていったんや。

それで、天皇を中心にした新しい政府ができて、これを「王政復古」言うんや。

明治維新では、封建制度廃止されて、武士特権もなくなったんや。

そして、中央集権政府が作られて、軍隊近代化されたんや。

さらには、学校も作って、外国技術文化をどんどん取り入れていったんやで。

簡単に言うたら、江戸時代の古いシステムを壊して、新しい時代を作ったんが明治維新やな。

これで、日本は急速に近代化していって、世界の仲間入りを果たしたんや。

(でも国内内乱があったんだよね?)

そうやね、明治維新過程では日本国内内乱もあったんや。

特に有名なんは「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」や。

戊辰戦争1868年から1869年にかけて起こった戦いやねん。

徳川幕府を倒して新しい政府を作ろうとする側(薩摩藩長州藩が中心やった)と、幕府側の勢力がぶつかり合ったんや。

この戦いは京都鳥羽伏見から始まって、東北地方まで広がったんやで。

特に会津戦争函館戦争が有名やな。会津藩幕府側を支援して戦ったんやけど、最終的には負けてしまったんや。

また、函館では旧幕府軍榎本武揚(えのもとたけあき)が五稜郭(ごりょうかく)で最後抵抗をしたけど、こちらも新政府軍に敗れてしまったんや。

この内乱は、ただの権力争いだけやなくて、日本全体が新しい時代に進むための大きな痛みとも言えるんや。

結果的に、天皇を中心にした新政府勝利して、日本中央集権化と近代化に向かって進んでいったんやな。

(その時西郷隆盛は何してたの?)

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新の中心人物のひとりで、戊辰戦争の間もめちゃくちゃ大きな役割果たしてたんや。

まず、西郷薩摩藩リーダーとして、新政府を作ろうとする側に立ってたんや。

鳥羽伏見の戦いでは、幕府側と戦って新政府軍勝利に導いたんや。

彼は戦術にも長けてたし、部下たちにも慕われてたから、戦争勝利に大きく貢献したんやな。

戊辰戦争が進む中でも、西郷東北地方函館方面派遣される新政府軍の指揮を取ったり、旧幕府側との和平交渉にも関わってたんや。

特に江戸城無血開城江戸城を戦わずに明け渡すこと)では、西郷勝海舟(かつかいしゅう)が話し合って、江戸戦火から守ることができたんや。

これは西郷人間的な魅力や度量があったからこそ、実現できたもんやね。

ところが、明治維新が進んで新しい政府ができたあと、西郷新政府方針対立するようになってくんや。

特に西郷は、急速な近代化中央集権化の進み方に対して反感を抱いてたんや。

そして、最終的には西南戦争1877年)で政府反旗を翻すことになったんや。

この時、西郷薩摩士族たちを率いて、武士伝統や誇りを守ろうとして立ち上がったんやけど、結果的には政府軍に敗れてしまい、自ら命を絶つことになったんや。

簡単に言うと、西郷隆盛維新立役者でありながら、最終的にはその維新の流れに反発して戦った、というめっちゃドラマチックな人生やったんやな。

(あと伊藤博文についても解説して。なんか悪いイメージもあるよね)

伊藤博文(いとうひろぶみ)は、日本の初代内閣総理大臣憲法の制定に深く関わった人物やけど、確かに彼に対する批判的なイメージもあるんや。

それにはいくつかの理由があるねん。

まず、伊藤博文明治政府の中で「近代化」を進めた立役者やけど、その一環として朝鮮半島への介入や植民地政策に深く関わってたんや。

特に伊藤朝鮮に対して行った政策や、朝鮮日本保護国したことで、彼は後の日本植民地支配の基盤を作ったと言われてるんや。

これが大きなマイナスイメージひとつやな。

伊藤は、1905年日本韓国保護国化した際、初代韓国統監(かんこくとうかん)に就任したんや。

この統監府は、事実上日本韓国支配するための機関で、伊藤はそのトップとして韓国の内政に強く介入したんや。

この時期に韓国独立自主権が大きく損なわれたことが、彼に対する批判の大きな要因や。

その結果、1909年伊藤博文韓国ハルビン駅で、独立運動家の安重根あんじゅうこん)に暗殺されてしまったんや。

安重根伊藤を、韓国侵略独立を奪った人物として憎んでおり、この暗殺日本韓国の歴史に深く影響を与えたんや。

また、国内でも彼が明治政府の中枢で権力を握ってたこから一部の人からは「藩閥政治」を進めたと見られ、権力を一部の有力者たちで固めたことに対する批判もあったんや。

まり政治一部の人たちの手で動いていて、庶民の声が届きにくいっていう不満があったんや。

総合的に言うと、伊藤博文日本近代化に大きく貢献した一方で、朝鮮韓国との関係、そして国内外での権力集中に対する批判があるからマイナスイメージが残ってるんやな。

(女癖も悪かったと聞いてるけど)

ああ、そういう話もあるな!伊藤博文は「女癖が悪い」って噂がよく出る人物でもあるんや。

彼は若いころからかなり遊び好きで、特に女性関係にはだいぶ自由奔放やったらしいで。

彼は明治時代政治家の中でも、遊び人として知られとったんや。例えば、若いから遊郭に出入りしてたし、いろんな女性関係を持ってたっていうエピソードも多いねん。

噂によると、50歳を超えてから若い女性に夢中になってたとか、何度も結婚離婚を繰り返したりして、結構な数の女性と浮名を流してたんや。

特に彼の「芸者好き」は有名やったんや。政治家としての公の顔とは別に、夜はよく芸者遊びをしてたというエピソードがたくさん残ってるんや。

これが「女癖が悪い」という評判の元になってるんやろな。

さらに、晩年でもそうした生活を続けとったみたいやから一部の人からは「品がない」とか「節度がない」とか批判されることもあったんや。

ただ、そういう奔放な生活があっても、政治家としては一流やったんやけど、そのプライベートの部分があまり良いイメージを持たれてないってことやろな。

から伊藤博文には偉大な政治家としての側面と、ちょっとだらしない私生活の一面があって、それが「女癖が悪い」という評価に繋がってるんやろうな。

2024-10-10

小説 階伯(かいはく)つづき

百済亡命者たち――日本への道

百済滅亡の報せが朝鮮半島全土を駆け巡るとき、そこには絶望だけでなく、わずかな希望が残されていた。それは、百済の地を追われた者たちが、遥か倭の国――大和への亡命の道を選んだことだった。

百済の都泗沘(しひ)が炎に包まれ王族貴族、そして多くの百済の民が散り散りになって逃げる中、一握りの者たちは東へ、海を越えて大和へと渡ることを決断した。彼らにとって、倭はかつて同盟を結び、文化技術を共有してきた縁のある国だった。遠い異国ではあったが、そこに生き延びる希望があると信じていた。

渡海――苦難の旅

夜の海は静かだったが、波は冷たく、命の危機を感じさせた。百済から亡命者たちは、わずかな船団に身を寄せ合い、倭の地を目指した。彼らの目には、故郷を失った悲しみと、新しい土地での不安が浮かんでいた。

中でも、若き百済貴族、武珍(ムジン)は、家族と共に海を渡ることを決断した一人だった。彼はかつて百済王宮官職を務めていたが、新羅と唐の連合軍が攻め込むと、命からがら国を脱出した。彼の目の前には、父祖の地であった百済が失われ、愛した仲間や民が散り散りになっていく姿が浮かび続けていた。

「いつか…いつか、この地に戻ることができるのだろうか」と、武珍は呟いたが、その声は波音にかき消された。

やがて、彼らの船は倭の大地に辿り着いた。彼らを迎えたのは大和朝廷の役人たちだった。百済から亡命者たちが次々と上陸し、武珍もまたその一人として新たな生活を始めることとなる。だが、そこには異国の地での試練が待ち受けていた。

新天地大和

亡命者たちは大和王権に迎え入れられたものの、その生活は容易なものではなかった。彼らは、異国の地で自らの文化風習を持ち込む一方で、大和風土や習慣に馴染む必要があった。特に故郷を失った哀しみが胸に深く刻まれている者たちは、再び自らのアイデンティティを見つけるまでに長い時間がかかった。

武珍もその一人だった。彼は大阪南部に割り当てられた土地で、新しい生活を始めることとなった。この地には既に百済から移民が住み着いており、互いに助け合いながら新たなコミュニティを築いていた。大阪南部河内平野は肥沃な土地であり、農業が盛んだったが、何よりも彼らにとって特別ものは、地名の中に「百済」という故国の名を残せることだった。

「ここは、我々の新たな百済だ」と、武珍は言った。

大和王権の中での百済役割

百済から亡命者たちは、単に新天地生活を始めるだけではなかった。彼らは百済で培った高度な技術文化大和王権にもたらし、その地位を高めていった。特に天智天皇の治世において、亡命者たちは重要役割を果たすこととなる。

天智天皇大化の改新を主導した中大兄皇子)は、近江京を築いた際、百済から亡命者たちを積極的に受け入れた。天智天皇自身百済との強い同盟関係を保っていたため、亡命者たちの技術知識を利用して、近江の地を発展させることを狙っていたのである。武珍を含む百済貴族技術者たちは、天智天皇の招きに応じ、滋賀県周辺へと移住していった。

新羅に滅ぼされ、百済を失ったとしても、我々の技術文化がこの地で花を咲かせるなら、それが我々の新しい故郷となるだろう」と、武珍は自らを励ました。

百済技術者たちは、瓦や製陶技術金属加工、建築技術をもたらし、近江京の発展に寄与した。その中でも、仏教文化先進的な農業技術は、近江の人々にとって大いなる財産となった。百済から亡命者たちは、大和王権の一部として取り込まれながらも、独自文化を維持し続けた。そして、その痕跡は、現代滋賀県に残る渡来系遺伝子の多さにも反映されている。

亡命者たちの遺産

時が経つにつれて、百済から亡命者たちは日本列島に根を下ろしていった。大阪南部には「百済」や「加羅伽耶)」といった故国の名を冠する地名が残され、滋賀県には亡命者たちの末裔が多く住み着いた。彼らの遺伝子は、日本列島の中で異質な文化を生み出し、後の日本文化に大きな影響を与えた。

武珍も、かつての仲間たちと共に大阪南部で新たな百済を築き上げた。そして、彼の子孫たちは、百済の血を引き継ぎながらも大和王権に忠誠を誓い、その技術知識を後世に伝えた。

故郷は失われたが、我々の血は生き続ける。我々の文化は、この新しい土地で栄え続けるだろう」と、武珍は亡命者たちと共に夜空を見上げ、倭の地で新しい未来を夢見た。

こうして、百済亡命者たちの物語は、日本歴史の中に深く刻み込まれていった。朝鮮半島を追われた彼らは、決して故郷を忘れることなく、新しい大地でその魂と誇りを守り続けたのである

朝鮮半島奪還――日本宿命としての目標

天智天皇近江京を築いた時、百済から亡命者たちは日本の地に根を下ろし、新しい生活を始めた。しかし、彼らの胸には常に故郷である朝鮮半島への想いが宿り続けていた。日本という国がまだ形成されつつある時代、その根底には、失われた「伽耶」や「百済」を取り戻すという強い願望が隠されていた。

天智天皇は、ただ単に新しい京を築いただけではなかった。彼の統治の下で、大和王権は次第に「日本」という国としての形を整えていった。しかし、その目標の一つには、かつて倭人支配していた朝鮮半島南部――伽耶百済の地を再び日本の手中に取り戻すという、壮大な夢が秘められていた。

朝鮮半島に築かれた前方後円墳存在――それは倭人がその地を支配していたことを示す確かな証拠だ。前方後円墳日本発明された墓制であり、その巨大な墳墓が朝鮮半島南部にも点在している事実は、かつてその地が倭人にとっての故郷であったことを物語っている。

失われた故地の奪還――幾度かの挑戦

天智天皇時代を過ぎても、この「朝鮮半島奪還」という目標は、日本歴史の中で幾度となく浮上してきた。その後、豊臣秀吉時代には、それが現実のものとして動き始める。

豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役

秀吉は、天下統一を成し遂げた後、自らの野望を東アジア全域に広げようとした。その第一歩として選んだのが、朝鮮半島への侵攻だった。1592年、秀吉大軍を率いて朝鮮に進軍し、かつて倭人支配していた地を取り戻し、さらには中国大陸まで征服するという壮大な夢を抱いていた。

「我が倭の祖先の地、伽耶百済を取り戻す時が来た。朝鮮半島は、我々日本人の手に再び戻るべき土地である

秀吉のその言葉には、単なる領土拡張を超えた、失われた故郷を取り戻すという深い信念が込められていた。だが、朝鮮戦役は厳しい抵抗に遭い、秀吉計画は失敗に終わる。朝鮮半島の奪還は成し遂げられず、秀吉の死をもって日本軍は撤退余儀なくされた。

しかし、この「朝鮮奪還」の試みは、単なる軍事的野心の産物ではなかった。それは、古代から続く日本人の潜在的な願望――かつての倭人領土である朝鮮半島南部を再び自らの支配下に置くという、宿命的な思いの表れだったのだ。

倭寇――小規模な奪還の試み

大規模な侵攻が失敗に終わったとしても、歴史の中で日本朝鮮半島との間には、常に緊張と抗争が続いていた。その中で、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊集団が、朝鮮半島沿岸部中国大陸沿岸を襲撃する形で、奪還の意図を示し続けていた。

倭寇の多くは、正規日本軍ではなく、小規模な武装集団だったが、彼らもまた、朝鮮半島南部をかつての倭人の地として捉え、そこに自らの足場を築こうとした。彼らの襲撃は、単なる略奪ではなく、失われた倭人故郷を再び支配するための小さな試みの一環だったと言えるだろう。

倭寇活動14世紀から16世紀にかけて活発化し、朝鮮中国を混乱に陥れた。特に朝鮮半島南部はその影響を強く受け、倭寇侵略によって多くの地域が荒廃した。これは小規模ながらも、日本朝鮮半島との長い歴史的な繋がりを象徴するものだった。

戦前日本朝鮮半島

そして、最も大規模で決定的な奪還の試みが行われたのは、20世紀初頭の戦前日本だった。明治維新を経て近代化を果たした日本は、軍事力を強化し、再び朝鮮半島に目を向けるようになった。1905年日露戦争勝利した日本は、朝鮮半島への影響力を強め、最終的には1910年朝鮮併合することに成功した。

これにより、ついに日本はその「歴史的な故地」を取り戻すかのように、朝鮮半島を自らの領土として統治することとなる。豊臣秀吉が夢見た「朝鮮半島奪還」の夢は、この時に現実のものとなったかのように思われた。

しかし、この支配もまた、長くは続かなかった。第二次世界大戦の敗北と共に、日本朝鮮半島から撤退せざるを得なくなり、再びその地は遠い存在となった。

朝鮮半島南部――倭人故郷としての歴史的意義

イスラエルユダヤ人にとって失われた故郷であったように、朝鮮半島南部倭人――すなわち日本人にとっての歴史的な故地であり、その奪還は、古代から目標であった。日本前方後円墳朝鮮半島南部に点在していることも、その歴史的なつながりを証明している。これらの墳墓は、単なる埋葬の場所ではなく、倭人がこの地に深く根を下ろしていた証拠だ。

天智天皇からまり豊臣秀吉戦前日本、そして小規模な倭寇――いずれも朝鮮半島南部を取り戻すという潜在的な思いを抱いて行動していた。この「奪還の夢」は、日本歴史の中で脈々と受け継がれてきた宿命とも言える。

現代においても、日本朝鮮半島関係は複雑でありながらも、歴史的な繋がりは消えることなく残っている。かつて倭人が歩んだ地、朝鮮半島南部――それは、日本にとって単なる隣国土地ではなく、彼らの魂が宿る場所であったのだ。

2024-02-16

風呂嫌いの偉人

ジョブズ風呂嫌いなのは何となく分かるんだが、秋山好古が大の風呂嫌いだったのが分からん

彼は日露戦争中、2回しかお風呂に入らなかったという。

1904年2月8日から1905年9月5日までだから576日間として、288日に1回(9.6ヶ月に1回)の頻度でしか入ってない(むしろその2回は何で入ろうと思ったんだ)。

服も洗濯してない。臭いのはもちろんシラミまでわいていたという。

お偉いさんと会うときに注意されないのか。上に立つ者として部下に示しがつかないのではないか

あれだけイケメンなのに臭くて不衛生とはどういうことなのか。そこまで汚いと確実に皮膚病だったと思うんだけど、辛くなかったのかな。

フランス留学中はどうしていたんだろう。香水で誤魔化していたのだろうか。

風呂嫌いの偉人が気になって仕方がないのは、自分がもともと風呂嫌いで、うつ状態ときなどはまったくお風呂に入れなくなってしまうからだ。お風呂嫌いの人には自分と近いものを感じてしまう。

自分は小心者なので臭くて汚い状態で人前に出たくない。よって風呂に入れないと外出もできなくなる。

偉人たちの場合はそうではないようで……地位が高いから周りの人は強く言えないし強制できない。迷惑だろうな。

ジョブズ風呂嫌いだったかもしれないけど服は着替えてたと思うから洗濯してない服を着続けた秋山好古のほうが一枚上手だと思う。

自分うつ状態とき洗濯もできなくなるから、これもまた親近感を覚えてしまうのだが、偉人でも何でもない自分はこんなことに親近感を覚えてはいけない。

風呂に入ってないと、痒かったり体がベタベタしてたり不快なのに、それでも風呂に入らないことを貫き通せるってすごいよ。無職ニートならともかく社会的地位があって人前に出る機会も多いのに風呂に入らない人の深層心理を知りたい。

2023-10-15

anond:20231015181406

1905年明治38年3月会社としての古河鉱業経営となった。当時の明治政府富国強兵政策を背景に、銅山経営久原財閥日立鉱山住友家別子銅山とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には、日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した[1]。

しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が大気汚染引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする渡良瀬川洪水を頻発し、製錬による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、広範囲環境汚染公害)を引き起こした。いわゆる、足尾鉱毒事件である1891年明治24年)、田中正造による国会での発言で大きな政治問題となった。1890年代より、鉱毒予防工事渡良瀬川改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。

2023-08-16

いつまで「戦後」やるの?

そろそろよくね?

ほそぼそとやるのはいいよもちろん

 

 

______

 

バズったから何か書こうかな

年表でも書くか

 

2023年

|(53年)

1970年 沖縄返還

|(25年)

1945年 太平洋戦争終戦

|(4年)

1941年 太平洋戦争

1937年 日中戦争

1931年 満州事変

|(9年)

1922年 シベリア出兵終わり

1918年 シベリア出兵

1918年 第一次世界大戦終戦

|(4年)

1914年 第一次世界大戦

|(9年)

1905年 日露戦争終戦

1904年 日露戦争

色々

1895年 日清戦争終戦

1894年 日清戦争

 

20世紀前半は戦争し過ぎだな

20世紀後半はその後悔の半世紀って感じだったけど

現代もっと現代戦争を学ぶべきだと思うわ

 

比較として地震を持ってこようとして調べたんだけど

災害としての地震ってさ

1896年 明治三陸地震

1923年 関東大震災

1995年 阪神淡路大震災

2011年 東日本大震災

だいぶ飛び飛びなんだよね、昭和割りと奇跡だったんだな

あ、てか関東大震災からちょうど100年か

なんか色々イベントやるらしい、シンポジウムとか

2023-05-05

ニクロム

ニクロム線」は、電熱線の代名詞ともなっている。

ニクロム米国ドライバーハリス社の登録商標であった。Nichromeと表記される。 1905年技師アルバートマーシュによって開発された。

後発で、多くの特性でより優れた 鉄・クロムアルミニウム合金カンタル(登録商標、en:Kanthal (alloy))に

電熱線の主役が移ったが、カンタルが一般に知られていないため、カンタル線もニクロム線と呼ばれることがある。

2022-08-21

少子化の始まり戦後だという風潮を正したい

から思ってたんだけど

出生率ピークは大正時代1920年くらいで、そこからまっすぐ落ちていってる

http://honkawa2.sakura.ne.jp/1553.html

 

戦後の2回のベビーブームは単純に異常値であって、それ以外は綺麗に減っていってる

俺が本当に知りたいのは

明治から大正にかけてなぜ増えていったのか?

大正昭和初期にかけてなぜ減っていったのか?その因子は何か?

他国でも同様の状態なのか?

なんだけど、歴史に明るいわけじゃないかマジで戦前のことが分からんのに

誰もが戦後のことばかり話しててイライラする

 

ちなみに富国強兵政策かなと思ったんだけど、むしろその時期は出生率が減ってる時期だとわかった

価値観の大きな変化はたぶん江戸時代明治時代だろうから西欧化が原因というのも多分間違い

しろ女性の有り様の変化とか、文化的側面とか、近代化の何かだと思うんだけど、とにかく明治昭和初期に明るくないとわからん

俺らの昔のイメージっていうのはあくま戦後なのよ

 

______

 

コメントありがとうございます

 

関東大震災

→確かに1923年で、ピークの2年後くらいだ、何か関係あるのかな

 

産業革命

→確かにこれ大きいのかも、例えば第二次産業の普及と共に子供資産価値が一旦上がったとか?

 

電気の普及

→ていうか張ったページに書いてあるねw

大正時代における出生率の増加から減少への転換の契機となったのは、産児制限への動きや一般家庭への電灯の普及の影響と考えられている。

>電灯は庶民の「夜の生活」を変えた、といっていいだろう。電灯のもとで、人々は雑誌書籍を読むこともできたし、夜なべ仕事も容易になった。大正期に始まる都市出生率の低下は、電灯の普及と少なくとも時期的には一致している。都市では夜の娯楽が増え、農村に比べてそもそも低かった出生率は、さらに低くなった」

→つまり、予想だけど「娯楽が増えて子供が減った」ってこと?

 大正時代といえばまだ子供が資産だった時代だと思うけど、それでも娯楽の影響は大きいんだろうか

 そういえば昔、初体験の年齢が地方都市で異なると聞いたことがある、それに初婚年齢も都市部のほうが遅い

 

ちょっと間違えていたこ

富国強兵の時期って1870年頃〜1905年くらいなんだね、出生率の上昇と一致する

 

気づいたこ

世界恐慌 1929年から33年あたり

→単純な不景気によって出生率が下がった可能性?

 

仮説

・娯楽が充実すると子供は減る

不景気になると子供が減る

富国強兵はうまく行っていた?

不明なこと

産業革命が及ぼした影響

 

いずれにしても現代再現可能そうなネタがないな

娯楽を減らすなんて無理だし

2022-02-25

anond:20220225205755

2.お米が経済を回していた時代江戸時代

現代では、国の経済の規模はお金で表し、給料税金お金で支払われますが、江戸時代にはお米がその役割を担っていました。

加賀百万石」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。領地経済規模はお米の単位「1石(こく)」(≒150kg)の価値に換算して表されていました。1石は、当時1人が1年間に食べるお米の量とされていました。

また、お米1石が収穫できる田んぼの面積が「1反(たん)」(≒10a(アール))とされていました。1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼ領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります自給率の考えに似ているところがありますね。

江戸時代は、外国との貿易が限られていたのでお米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。1600年頃に1,000~2,000万人だった人口が1720年頃には3,000万人程度まで増えたと言われています(*1)。

一方で、災害異常気象によるお米の不作が原因となって幾度にわたり飢饉が起きた時代でもありました。大飢饉経験を踏まえてお米の備蓄やかんしょ(サツマイモ)の栽培奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものがあります

3. 花形輸出品だったお米 ~明治時代前期~

明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業貿易促進に力を入れていましたが、生糸お茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。お米が最も盛んに輸出されていたのは神戸港で、明治11(1878)年と明治21(1888)年にお茶を抜いてお米が輸出額第1位になっています(*2)。

どのくらいのお米が輸出されていたのでしょうか。当時の政府文書によれば、明治12(1879)年~明治21(1888)年の十年間の平均で、酒造用を除いた国内消費量3,129万石(約470万トン)に対して34万石(約5万トン)が輸出されていました(*3)。

輸出先は、主に英国ドイツフランスイタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。

明治時代に入って海外に輸出するようになったきっかけは、連年の豊作で米価が暴落したことでしたが、やがて外貨獲得の手段としても政府が自ら欧州での販売状況を情報収集し、産地でも輸出向けの品質改善に取り組みました(*4)。

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率100%を超えていたのです。

(図1)明治時代のお米の需給と輸出

(図1)明治時代のお米の需要と輸出

4. 輸出国から輸入国へ ~明治時代後期~

お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。

お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました(*5)。米価高騰は簡単には収まらず、富山を始め各地で米騒動が起こり都市部では餓死者が出ました(*6)。

(図2)お米の輸入量の推移

(図2)お米の輸入量の推移

明治の初年からお米の輸入は行われていましたが、このときを境に大量の輸入がだんだんと恒常化し、盛んだった輸出は縮小していきました。

いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています(*7)。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村米食率が上昇するとともに米食中心だった都市人口が増大したことで、お米の消費量わず20年で約1.5倍に増えたのです。

明治時代に入ってから近代的な土地改良や栽培技術の導入でお米の生産量は増加していましたが、明治25(1892)年の大蔵省主計局『米価ヲ平準二スル方案』は、生産増加だけでは人口増加に追いつかないと結論づけ、不作時の米価高騰を抑えるためにも外国からお米を輸入しやすくすべきと述べています

人口はその後も増え続け、明治前期に3,700万人だった人口は、明治44(1911)年には5,000万人、大正15(1926)年には6,000万人を超え、昭和15(1940)年には7,200万人にまで達したのです(*1)。

5. 輸入に頼らざるを得なかった時代大正時代昭和初期~

お米の自給率は、1890年代には100%を下回り、大正時代には94%、昭和初頭には85%まで下がりました(*1)。ただし、この頃、朝鮮半島台湾のお米は、輸入ではなく「移入」とされ、当時の日本政府は、日本本土朝鮮半島台湾を含めた圏内での自給を目指していくことになります(前掲の自給率は、移入も輸入に含めて計算されたもの)。大正6(1917)年の輸移入は、朝鮮半島のお米が48%、台湾のお米が31%、外米(英領インドビルマ)、仏領インドシナタイ)が21%となっていました(*8)。

大正7(1918)年には、二年連続の不作によって長期的に米価が高騰し、再び富山を始め各地で米騒動が起こりました。政府は、不足分を賄うため大規模な外米輸入を図ろうとしました。しかし、外米産地でも洪水や干ばつで不作が起こったことや、国内の米価高騰を抑制するため外米産地の政府が輸出制限輸出禁止を行ったため、円滑に輸入が進まず厳しい外交交渉を強いられました(*8)。

また、昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争では、戦況の悪化とともに外米輸入のための商船が確保できなくなり、昭和18(1943)年にはお米の輸入が半減、翌年にはほぼ途絶し、日本国内食糧不足が深刻になりました(*9)。

6. 約70年ぶりの自給の達成 ~昭和中期~

昭和20(1945)年に終戦を迎えた日本は、戦争による耕地の荒廃、農業労働力不足に加え、朝鮮半島台湾からの輸移入に頼っていた需給構造崩壊したため、深刻な食糧危機に直面しました。しかし、本格的にお米の輸入ができるようになったのは昭和25(1950)年以降でした。タイビルマミャンマー)、米国エジプトからお米を輸入することで国内の米不足を賄いました。

昭和27(1952)年には、10年後までに米麦の国内自給の達成を目標とする「食糧増産5ヵ年計画」を立てて生産量の増大に取り組み、昭和25(1950)年の938万トンから昭和47(1962)年の1,445万トンへと約20年で1.5倍になりました(*5)。約70年ぶりにお米の自給が達成されることとなったのです。

7. お米の消費減少と食料自給率低下 ~昭和後期から現在

増産によりお米の自給が達成された一方で、高度経済成長によって食生活多様化したことで、お米の一人当たり年間消費量は、昭和37(1962)年度の118.3kgをピークに減少に転じていました。

生産需要を上回り大量の過剰在庫が発生するようになったため、昭和46(1961)年から生産調整が本格実施されるようになり、1,200万トン前後だった生産量は、約50年で約800万トンにまで減少しました。一人当たり年間消費量も約50kgまで減りました。自給率の高いお米の消費が減ることで食料自給率カロリーベース)は昭和40(1965)年度の73%から40%程度まで低下することとなったのです。

2021-10-22

anond:20211022140939

光子(もり みつこ、1905年明治38年) - 没年不詳)は、大正から昭和時代にかけての女性吉原遊廓花魁であった日々を記した記録である光明に芽ぐむ日』『春駒日記』の著者。

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛

2020-12-09

anond:20201206114053

・各時代競走馬比較するための時代区分(私案)

1 1905年1931年 公認競馬馬券禁止連合二哩創設~旧競馬法制定~東京優駿日本ダービー)創設以前

  代表的競走馬コイワヰ、バンザイナスノ、ハクショウ、連合二哩の勝馬

.

2 1932年1944年 東京優駿日本ダービー)創設~競馬開催の停止

  代表的競走馬:ワカタカその他東京優駿勝馬セントライトクリフジ

.

3 1946年1963年 戦後競馬再開~シンザン登場以前

  代表的競走馬トキノミノルメイヂヒカリハクチカラ

.

4 1964年1980年 シンザン三冠ジャパンカップ創設以前

  代表的競走馬シンザンスピードシンボリトウメイハイセイコー、TTG

.

5 1980年現在   競馬の国際化(ジャパンカップ創設・グレード制導入等)

  代表的競走馬ミスターシービー以降の三冠馬、オグリキャップ、いわゆる「最強世代」、ウオッカ

  ※この時代については、更に細分化されるべきかもしれない。

.

2020-08-01

年表(近現代

関ヶ原の戦い日露戦争

1600-10-21 関ヶ原の戦い

1615-05-07 大阪城落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡

1853-05-23 アメリカ艦隊浦賀沖に来航(黒船来航)

1861-04-12 アメリカ南北戦争1865年5月9日まで)

1865-04-15 リンカーンアメリカ大統領暗殺

1867-01-30 孝明天皇崩御

1867-02-13 睦仁親王践祚

1867-11-09 大政奉還

1868-01-03 王政復古

1868-01-27 戊辰戦争1869年6月27日まで)

1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)

1868-10-23 元号慶応から明治に改められる。

1871-08-29 廃藩置県

1872-10-16 琉球処分琉球藩設置)

1875-06-28 讒謗律太政官布告)及び新聞紙条例太政官布告公布

1877-02-14 西南戦争1877年9月24日まで)

1877-05-26 木戸孝允死去

1878-05-14 紀尾井坂の変(大久保利通暗殺

1879-04-04 琉球藩廃止沖縄県設置

1888-03-09 ヴィルヘルム1世プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御

        フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝即位

1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝即位

1894-07-25 日清戦争1895年4月17日まで。宣戦布告1894年8月1日台湾平定終了は1895年11月30日)

1898-07-30 ビスマルク死去

1901-01-22 ヴィクトリアイギリス女王崩御

1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)

1904-02-10 日露戦争1905年9月5日まで) 

.

日露戦争終結太平洋戦争勃発

1905-09-05 日露両国講和条約ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)

1909-10-26 伊藤博文暗殺

1910-08-22 韓国併合ニ関スル条約調印

1910-08-29 韓国併合ニ関スル条約発効

1912-07-30 明治天皇崩御皇太子嘉仁親王践祚元号明治から大正に改められる。

1914-07-28 第一次世界大戦1918年1111日まで)

1921-11-25 皇太子裕仁親王摂政就任

1922-02-01 山縣有朋死去

1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印

1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効

1925-04-22 治安維持法公布

1925-05-05 普通選挙公布

1926-12-25 大正天皇崩御皇太子裕仁親王摂政)が践祚元号大正から昭和に改められる。

1927-03   昭和金融恐慌

1927-04-05 鈴木商店破綻

1928-06-04 張作霖爆殺事件

1929-10-24 大恐慌

1930      昭和恐慌

1930-10-02 日本ロンドン海軍軍縮条約批准

1931-09-18 満州事変柳条湖事件に始まる)

1932-03-01 満州国建国

1932-05-15 五・一五事件

1936-01-15 日本ロンドン海軍軍縮条約を脱退

1936-02-26 二・二六事件

1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効

1937-07-07 日中戦争1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称

1939-05-11 ノモンハン事件

1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告

1939-09-01 第二次世界大戦ドイツポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)

1940-01-26 日米通商航海条約失効

1940-03-30 中国汪兆銘政権成立

1940     アメリカ、対日石油輸出を制限

1940-09   アメリカ、対日屑鉄全面禁輸

1940-09-23 北部仏印進駐

1940-09-27 日独伊三国同盟調印

1940-11   日本アメリカの各種交渉1941年12月まで)

1940-11-30 日本中華民国間基本関係ニ関スル条約日華基本条約)調印

1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達

1941-04-13 日ソ中立条約調印

1941-06-22 独ソ戦ドイツバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)

1941-07-26 アメリカ在米日本資産の凍結を実施

1941-07-28 南部仏印進駐

1941-08   アメリカ、対日石油全面禁輸

1941-08-28 近衛首相ルーズベルトアメリカ大統領に首脳会談提案(結局、沙汰止みとなる)

1941-11-26 アメリカ日本に対しハルノート提示

1941-12-08 太平洋戦争日本英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)

        1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。

1941-12-16 戦艦大和竣工

.

太平洋戦争

1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲東京空襲

1942-06-05 ミッドウェー海戦

1942-07   日本軍、フィリピン全土占領

1942-08-07 米軍ソロモン諸島ガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸

        (ガダルカナル島の戦い、連合軍の本格的反攻始まる)

1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官ブーゲンビル島上空で戦死海軍事件)。

1943-05-12 米軍アッツ島上陸5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。

1943-09-30 御前会議絶対国防圏構想を決定。

1943-10-01 在学徴集延期臨時特例(勅令)の公布

1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。

1943-11-22 エジプトカイロ英米首脳会談カイロ会談。26日まで)

1943-11-28 イランテヘラン英米首脳会談テヘラン会談。同年12月1日まで)

1944-03-08 日本軍、インパール作戦開始

1944-04-17 大陸打通作戦(同年1210日まで)

1944-06-19 マリアナ海戦日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋制海権制空権喪失

1944-07   ブレトン・ウッズ協定

1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。

1944-07-18 東條英機内閣総辞職

1944-07-22 小磯国昭内閣成立。

1944-08-02 テニアン島日本玉砕テニアンの戦い)

1944-08-11 グアム島日本玉砕グアムの戦い)

1944-09-11 米軍ペリリュー島上陸ペリリューの戦い

1944-10-20 米軍フィリピンレイテ島に上陸レイテ島の戦い)

1944-10-23 レイテ海戦始まる。

1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29マリアナ諸島より東京を初空襲

1944-12-10 日本軍、大陸打通作戦完了

1945-01-06 ルソン島の戦い(同年8月15日まで)

1945-02-04 クリミア半島ヤルタ英米首脳会談ヤルタ会談11日まで)

1945-02-18 硫黄島の戦い(同年3月22日まで)

1945-03-10 東京空襲

1945-04-01 沖縄戦(同年6月23日まで)

1945-04-12 ルーズベルトアメリカ大統領死去。トルーマン副大統領アメリカ大統領に就任

1945-05-02 ベルリン陥落

1945-08-06 アメリカ広島県広島市原子爆弾を投下

1945-08-08 ソ連日本に対し宣戦布告

1945-08-09 アメリカ長崎県長崎市原子爆弾を投下

1945-08-14 日本ポツダム宣言を受諾

1945-08-15 玉音放送

1945-09-02 日本政府ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争大東亜戦争終結

1945-09-09 日本政府中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結

.

戦後占領バブル崩壊

1945-09-10 国共内戦

1950-06-25 朝鮮戦争

1950-08-10 警察予備隊設置(後身は陸上自衛隊

1951-09-08 日本国との平和条約サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約

        (日米安保条約)調印

1952-04-26 海上警備隊設置(後身は海上自衛隊

1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効

        日本占領状態が終了し、独立国

1952-08-05 日本国と中華民国との間の平和条約発効

1952-10-15 警察予備隊保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1953-03-05 スターリン死去

1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)

1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催

         (於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーホテル

1954-06-01 保安隊臨時松島派遣隊編成

1954-07-01 自衛隊法施行自衛隊成立)

        陸上自衛隊保安隊から改組)、海上自衛隊海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置

1954-12   高度経済成長1973年10月まで)

1955-11-15 自由民主党成立(保守合同

1955年11月  1975年4月30日 ベトナム戦争

1956-07   昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)

1956-12-12 日ソ共同宣言発効

1956-12-18 日本国際連合に加盟

1958-08   大躍進政策

1960-06-23 新日安全保障条約発効

1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。

1962-10-15 キューバ危機

1963-11-22 ケネディアメリカ大統領暗殺

1964-08-02 トンキン湾事件8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)

1964-10-01 東海道新幹線開業

1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年1024日まで)

1966-05-16 無産階級文化大革命文化大革命)(1976年10月6日まで)

1971-01   世界経済フォーラムダボス会議を開催)設立

1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)締結

1971-07-15 ニクソン訪中宣言

1971-08-15 ドル・ショック

1971-12-18 スミソニアン協定

1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)

1972-09-29 日本政府中華人民共和国政府共同声明

1973-10-06 第四次中東戦争

         勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。

1973-10-21 日米欧三極委員会の初会合(於東京

1975-04-30 ベトナム戦争終結

1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)

1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)

1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印

1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効

1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱

1985-09-22 プラザ合意

1986-12   バブル景気1991年2月まで)

1987-10-27 1987年大韓民国国民投票

1987-12-08 中距離核戦力全廃条約INF条約)発効(2019年8月2日失効)

1989-01-07 昭和天皇崩御元号昭和から平成に改められる。

1989-04-01 消費税導入(当初は3%)

1989-06-04 六四天安門事件

1989-12-03 マルタ会談終了(冷戦終結

1989-12-29 日経平均株価取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。

1990-03-27 総量規制バブル崩壊の始まり

.

現代バブル崩壊パンデミック

1990-10-03 東西ドイツ統一

1991-01-17 湾岸戦争

1991-12-25 ソ連崩壊

1993-07   衆院選自民党が敗北し、非自民連立政権誕生する(55年体制終焉

1993-11-11 欧州連合条約マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)

1995-01-17 阪神淡路大震災

1995-03-20 オウム真理教による地下鉄サリン事件

1995-11-23 Windows95日本国内で発売される。

1996-03-23 台湾民主化総統民選となる)

1997-04-01 消費税率が3%から5%に上がる。

1997-07-01 香港返還

1997-07   アジア通貨危機

1997-11-03 三洋証券経営破綻会社更生法適用申請する)

1997-11-17 北海道拓殖銀行経営破綻公表

1997-11-24 山一證券経営破綻公表

1998-10-23 日本長期信用銀行、破産国有化

1998-12-13 日本債券信用銀行、債務超過国有化

2001-01-06 中央省庁再編

2001-09-11 アメリカ同時多発テロ事件

2003-03-20 イラク戦争201112月15日まで)

2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行

2008-09-15 リーマン・ショック

2009-09-16 鳩山由紀夫内閣総理大臣に指名される(政権

2020-01-30

好奇心が無いので養いたい

とりあえず一日一個興味ない分野の記事に目を通す

今日ナショジオ

1805年風景1905年風景どちらを守るかで現地住民と金持ち団体が揉めてるらしい

大変だな…

明日数学記事でも読むか

好奇心ある人が羨ましい

こんなこと言われても困るだろうけど

2018-12-31

忠臣蔵大正時代にも飽きられていた」のは嘘

忠臣蔵大正時代にも飽きられていた」という記事ホッテントリにあがっている

http://cocolog-nifty.hatenablog.com/entry/2018/12/29/172400

根拠として玉田玉秀斎講談速記本をあげているが、これは明らかにおかしい。


まず言うまでもないことだが、たった一人の証言根拠結論をだしてはならない。

その個人玉田玉秀斎)の観測範囲限界ポジショントーク可能性等々があるからだ。

歴史学で正しい結論を出すには複数の文献を史料批判する必要がある。

で、忠臣蔵ほど著名なジャンルとなると、こういう史料批判はすでに専門家がしてくれている。

・宮澤誠一 『近代日本と「忠臣蔵幻想青木書店

この本によると明治戦前忠臣蔵ブームは3回

日露戦争直後、大正時代日中戦争である

最初の2つのブームに影響を与えたのはレコードである

忠臣蔵レコードに乗って全国に流される事で流行したのだ。

日露戦争直後のブームで儲かった浪曲師・桃中軒雲右衛門がそのお金泉岳寺大石内蔵助銅像を立てるほどであった。

大正時代ブームでもレコード活躍したのみならず、中央義士会が設立され、大佛次郎の『赤穂浪士』がベストセラーになり、その後はラジオ活躍した。

…などと言うことは宮澤の本を引いたウィキペディアにも書いてあるのでご確認あれ。


さて、日露戦争終結1905年)直後の一度目のブームから大正の2度目のブームの間は

たったの10年強。

この間には大正デモクラシーがあり、玉田玉秀斎発言はこの時期に当たる

開明的な大正デモクラシーで一時的飽きていたというのが正しく、

・飽きはじめたのは、明治の後半くらいなんじゃないのかなっていう雰囲気はある。

というのは明確な間違えである

なにせ、忠臣蔵はわかってるだけでも明治~戦中に114回も映画になっているのだから




【その他コメント

浄瑠璃歌舞伎か知らないけど、とにかく『仮名手本忠臣蔵』はかなり読むのダルいと思う。

見て楽しむ人形浄瑠璃歌舞伎読んでダルいのは当然。

アクション映画台本読んで「つまらん」というようなもの


スタンダード忠臣蔵を延々と楽しめるのであれば、アレンジする必要なんかない。

スタンダードアニメ二次創作コミケで量産されたら飽きられてる証拠だというようなもの


・ 読んだことねぇからよく分からないけど、(吉川)英治なら絶対面白いんじゃないかな。

吉川英治の「忠臣蔵」は「吉川英治歴史時代文庫」に入れてもらえなかったのに?(補巻扱い)




追記

個人的には最初に知るには映画テレビ忠臣蔵オススメする。目から情報理解やすいから。

エロゲの「ChuSinGura46+1 -忠臣蔵46+1」も実はオススメだが(1話無料だし)

あと一部の方に誤解があるようだが、特に戦後忠臣蔵忠義より個人の意地や人情に焦点を当てたものが多い

そりゃ、戦後になって忠義を全面に出したら流行らないからね。

2018-07-19

手元の温度計で~って

テレビなどで出てくる、手元の温度計で今38度です。昔に比べて気温が~とか、温暖化の影響が~とか言ってるのは、まさにストローマン論法ですよね。

あと30年前はエアコンがあまり普及してなかった~って話題なのに、「昔」が100年前だったりとかも…

そもそも「手元の」としている時点で、測定方法や地点が違うので比較できないでしょうし、「全地点の中の最高温度」などを表示して、他の地点も同じ温度のように印象付けたりしているわけです。

気象庁 - 観測機器について

気温はどこで、どのように計測しているのですか

気温の観測は、風通しや日当たりの良い場所で、電気温度計を用いて、芝生の上1.5mの位置観測することを標準としています

また、電気温度計は、直射日光に当たらないように、通風筒の中に格納しています

ようするに、(温度を上げるために)直射日光に当てたり、地面に近い場所で測ったような気温は、比較に使えないということです。

気象庁 - 観測開始からの毎月の値

東京 日最高気温の月平均値(℃)

1875年8月:29.4

1876年8月31.6

1877年8月:30.5

1989年8月:30.5

1990年8月:32.4

1991年8月:29.1

2013年8月33.2

2014年8月31.2

2015年8月:30.5 ※観測場所移転

最高気温の月平均値で見ると、多少変動はあるけど、そんなに上がってないですよね?

38度、39度というような数字は明らかに測定異常なレンジですし、100年位前と比べてみても、3度上がったとか4度上がったなんて言えないわけで。

(あえて日最高気温ではなく日平均気温を使って、100年位前の一番気温が低い年(1905年8月:22.2度)と、最近の一番気温が高い年(2010年8月:29.6度)だけを抜き出せば、○○度上がったという部分は、それっぽく印象付けることはできます…たぶん。)

まとめっぽいの。

エアコンに慣れたせいか感覚的には、暑くなったよね~となってしまますが、話の熱さにだまされないで!って事で。

2017-05-19

副島 種臣(そえじま たねおみ、文政119月9日1828年10月17日) - 明治38年(1905年1月31日)は、日本江戸時代末期(幕末から明治時代佐賀藩士、政治家書家。勲一等、伯爵。初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。

目次 [非表示]

1 生涯

2 書家

3 栄典

4 参考文献

4.1 伝記

5 登場作品

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

生涯[編集]

文政11年(1828年)、佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館教授を努める国学者で、兄は同じく国学者枝吉神陽。母は木原宣審の娘・喜勢。父と兄の影響により、早くから尊皇攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間に江藤新平大木喬任と交わる。

嘉永3年(1850年)、兄・神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。嘉永5年(1852年)、京都遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、神陽の命を受けて大原重徳に将軍廃止天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

安政6年(1859年)、父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる

元治元年(1864年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。慶応3年1867年)、大隈重信脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

明治維新後は慶応4年1868年)、新政府参与制度取調局判事となり、福岡孝弟と『政体書』起草に携わる。明治2年(1869年)に参議、同4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷解放したことで、正義人道の人と国際的に支持された。

明治6年(1873年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件台湾出兵も参照)の処理交渉特命全権公使外務大臣として清の首都北京派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。同年10月征韓論争に敗れて下野し、明治7年(1874年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部旅行滞在している。

明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年1888年)に枢密顧問官明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。

明治38年(1905年)、脳溢血のため死去[1]。

2015-09-26

韓国の歴史メモ

紀元前108年~220年:漢     (植民地

221年~245年:魏         (植民地

108年~313年:晋         (植民地

314年~676年:晋宋梁陳隋唐  (属国

690年~900年:渤海        (属国

1126年~1234年:金        (属国

1259年~1356年:モンゴル    (属国

1392年~1637年:明        (属国

1637年~1897年:清        (属国

1897年下関条約により清の属国から解放される←←←←←←ココ重要

1903年ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシア属国化回避

1905年1945年日本保護国併合

1945年1948年アメリカ(非独立)←←←←←←ココも重要

1948年大韓民国成立(アメリカ軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)

1948年軍事独裁政権誕生

1948年済州島4.3事件 3万人虐殺

1950年朝鮮戦争 400万人殺し合い

1950年保導連盟事件 30万人虐殺

1951年国民防衛軍事件 10万人虐殺

1951年居昌事件 8500人虐殺

1979年:軍出身大統領政権誕生

1980年光州事件 600人虐殺

1993年:初の文民政権誕生←←←←←←韓国民主化してまだ20しかたっていない

1997年アジア通貨危機国家財政崩壊によりIMF土下座

2012年米韓FTA可決、事実を知った国民火病デモをするも後の祭り

日清戦争講和条約下関条約

日清戦争講和条約は第一条から朝鮮独立国と認めて朝鮮から清への貢物は廃止する」。

日清戦争清国側の宣戦詔勅にはっきり 『朝鮮ハ我大清ノ藩屛タルコト二百余年…』(和訳)と謳った上で 戦闘状態に入った上での馬関条約一条

2015-04-19

否定された仮説

天動説

地球を軸にその周りを宇宙が回っているという説で、プトレマイオスによって体系化された。中世あいだは天体運行を最も高い精度で計算できる理論であった。コペルニクス地動説を復活させ、1627年にケプラー地動説をもとにした高精度の天文表を発表したことで、地動説が広く支持されることとなった。ちなみに地動説カトリック教会により迫害されたというのは真実ではないそうである

天動説 - Wikipedia

四大元素説

物の状態現象性質説明するための理論である。多くのバリエーション存在するが、アリストテレスの「温・冷・湿・乾の四つの性質の組み合わせにより火・水・空気・土の四大元素が生まれる」という説が広く支持された。これが否定されたのは1661年、ロバート・ボイルの著書『懐疑的化学者』によってである。彼は近代的な「元素」観を確立し、後のラヴォアジエによる化学革命を準備した。

四元素 - Wikipedia

フロギストン説

フロギストン燃素)という元素物質から分離することが「燃焼」であるとした説で、四大元素説のような迷信めいたものではない、科学的な理論として広く受け入れられた。1774年、ラヴォアジェは「燃焼とは物質酸素が結びつくことである」と看破し、フロギストン説否定された。

フロギストン説 - Wikipedia

ロリック説

「熱」が物質に起因するか運動に起因するかということは長年にわたる議論の的であったが、ラヴォアジェは熱物質説を支持し、熱の原因となる物質を「カロリック(熱素)」と名付けた。1843年、マイヤーによって運動エネルギーと熱エネルギー相互に変化することが明らかにされ、またエネルギー保存の法則が発見されたことにより、カロリック説は衰退した。

カロリック説 - Wikipedia

体液病理

古代ギリシャヒポクラテスが唱えたもので、人間の四つの体液のバランスが崩れることが病気の原因であるとする説である四大元素説とも結びついたこの四体液説は、批判に晒されつつも長らく信じられていた。1858年ウィルヒョウが「細胞病理学」を確立。すなわち病気とは細胞の異常によるものとされ、体液病理説は否定された。

四体液説 - Wikipedia

自然発生説

アリストテレス提唱したもので、「生物の中には親からではなく自然に発生するものがある」とする説である。たとえば虫やネズミなどがそうであるとされた。その後、レーウェンフックによる「微生物」の発見もあり、擁護批判が繰り返されたが、パスツールが行った1861年の「白鳥の首フラスコ実験」などにより、自然発生説は完全に否定された。

自然発生説 - Wikipedia

エーテル

ホイヘンスニュートンらにより提唱されたもので、エーテルとは光が伝播するための媒質として想定された物質のことであるニュートン力学とマクスウェル電磁気学における光速度矛盾説明するために利用されたが、最終的に1905年アインシュタイン特殊相対性理論によってエーテル説は否定された。

エーテル (物理) - Wikipedia

Category:否定された仮説 - Wikipedia

2013-09-05

本日は、日露戦争の戦勝記念日です

本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の日本海海戦で有名な日露戦争が、1905年本日ポーツマス条約によって終結しました。

賠償金もろくに取れず、悔しい思いをした面もあるでしょう。交渉の役目を任された小村壽太郎外相の苦悩は計り知れません。ほとんどスケープゴートじゃないですか、大臣は。

だが、しかし!わが大日本帝國は、なにはともあれ大ロシアに勝利したわけでありますロシアの南下を朝鮮半島で食い止めるという戦争目的も、ひとまず達成されたわけであります

これを祝わずしてなんとしましょう。これを祝わねば、東郷平八郎大将も、小林大臣も浮かばれません。

バルチック艦隊撃滅せしめた日本海海戦は、近代戦争で私が最も好きな戦局でございます

東郷大将画期的な丁字戦法もさることながら、やはり日英同盟本質的機能するところがよいです。

イギリス日本同盟国の連携があったからこその勝利でありましょう。

先の大戦では、米ソの思惑に乗ってドイツ日本で別々の戦争をしてしまったことが悔やまれるところであります

ドイツとともにソ連対峙していればあるいは…と思わないでもないですが、言っても詮なきことです。

いや、めでたい日に先の大戦の話はやめましょう。今日は戦勝記念日です。大日本帝國バンザイ

2013-08-06

モチェルダウンス

どこかで聞いたことのあるようなフレーズ。ググっても見つからなかったのでネット外の伝聞情報をここに記す。

概要

モチェルダウンス(モチェルダウンス)は、イギリスロックバンド1969年ヘルシンキ前身バンドを結成、1992年メジャーデビューデビュー以降外部ミュージシャンの起用は多いものの、同じパーマネント・メンバー活動している。「ハテナムーラ」がヒットして以降は常に第一線で活躍し続け、現在アメリカ代表するバンドの一つである

ローリングストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第1327位。

メンバー

現メンバー

ジョン・レモン

アマデウス・オオミカ

メンバー

ミンナ・アホネン

ディスコグラフィー

シングル
「柿を食え」(607年)
デビューシングル。鐘がなるぜよ
「泣かないで」(794年)
泣くよウグイス平安京エイリアン
美しい国」(1192年)
最近はいい国作ろうとは教えないらしい
「変」(1582年)
M・アケチが脱退。
アルバム
ワイマール憲法」(1889年)
それまでDHCが持つ通販化粧品ナンバーワン記録を更新
相対性理論」(1905年)
天動説を覆す
トラトラトラ」(1941年)
最近MAXを見ない
「1969」(1969年)
稲垣潤一、もしくはヴェルディ川崎
マリリン」(1985年)
ハッピーバースデーディアプレジデントでおなじみのホンダ
「アイアンアーム」(2003年)
うちの近所のアトムボーイはここ数年で次々と閉店

2013-03-22

アナトリー・ルイバコフ 「アルバート街の子供たち」 登場人物

サーシャ パンクラート
主人公大学新聞反党活動処分(退学)。
ソフィア アレクサンドロヴナ
サーシャの母、離婚
パーヴェル ニコラエヴィッチ
サーシャの父、離婚
マルク アレクサンドロヴィッチ リャザーノフ
サーシャの叔父さん、母の弟、35歳、工業部門指導者、15大会中央委員候補、オルジョニキッゼの部下。
カーチャ
サーシャの恋人(当初)。
ルーシ
カーチャの友人。離婚歴。子あり。
ワシーリー ペトローヴィッチ
ルーシャの男。
ユーリー シャローク
サーシャの同級生、レーナと恋仲、同じアパート、仕立屋(今は縫製工場)の息子、法学部卒、検察庁就職、OGPU勤務。
ヴラジミール シャローク
ユーリー シャロークの兄、強盗で8年収容所経歴、レストランコック。
ハイル ユーリエヴィチ
サーシャ宅の隣人、独身インテリ書籍と版画を収集
マクシム コスチン
軍学校生、サーシャの同級生、同じアパート
ニーナ イヴァノーヴァ
学校教師、サーシャの同級生、同じアパート
ワーリャ イヴァノーヴァ
ニーナの妹。
レーナ ブジャーギナ
技術図書館翻訳業、ユーリーと恋仲、サーシャの同級生、同じアパート、プジャーギンの娘。
ワディム マラセーヴィチ
美学専攻、医者の息子、サーシャの同級生、同じアパート
ヴィーカ マラセーヴィチ
ワディムの妹、ユーリーシャロークへの内通者、建築家イーゴリ ウラジーミロヴィッチを通じてとある著名建築家と密会。
ゾーヤ
ワーリャの友達設計事務所勤務。
セラフィム
マクシムの軍学校の友人。
ゲーラ トレチヤク
レーナの友達大使娘。
ヴィターリー
ヴィーカの友人、40歳代。
エリク
ヴィターリーの仲間、ヴィーカの友人。スウェーデン人電話会社社長の息子、技師
リョーバ シニャフスキー
ワーリャがメトロポーリで出会った、設計工房製図工。
リーナ
リョーバと一緒にいた製図工、ふとっちょ女の子
イーゴリ ヴラジーミロヴィチ
ワーリャがナショナルホテル出会った、ヴィーカの友人、有名な建築家、35歳ほど、後日彼の設計事務所にワーリャが就職
コースチャ
玉突き師、ワーリャと同棲ソフィア アレクサンドロヴナ宅を間借り)。
イワン グリゴーリエヴィチ ブジャーギン
中央委員、15大会で解任、元大使重工業人民委員代理
アナトリー ショームシキン
オルジェニキッゼ秘書
ロミナッゼ
元中委員、旧反対派、旧コミンテルン指導者左遷されウラルの市・工場党委書記
ベリョージン
OGPU、中央委員、ディヤーコフの上司
ソリツ
中央統制委員会、サーシャらへの処分撤回
ディヤーコフ
審判事、ユーリー シャロークの先輩。
イワン ザポロージェ
レニングラードOGPU次長キーロフ派遣要請したアルフョーロフの代わりにレニングラードに赴任、レニングラードへ連れて行く部下を選定。
フィリップ メドヴェーディ
内務人民委員レニングラード本部長・州党委員
ボローソフ
キーロフの警護隊長
バウリン
大学ビューロー書記
クリヴォルーチコ
学長、旧労働者反対派、大学建設遅れの件で除名、逮捕
ヤンソン
学部長、ラトビア人、クリヴォルーチコ除名時棄権
グリンスカヤ
学長ポーランド社会党左派コミンテルン活動家グリンスキー(ロミナッゼと共謀して新コミンテルン設立したとの疑惑)の妻。
ロズガチョフ
大学院生
アジジャン
社会主義会計学講師
ルーチキン
大学新聞反党活動処分(譴責)。
ローザ ボルジャン
大学新聞反党活動処分(譴責)。
ナージャ ボズドニャコーヴァ
大学新聞反党活動処分(譴責)。
コヴァリョフ
大学新聞反党活動処分(戒告)。
ストルペル
大学を所管する地区委員会第一書記
ザイツェヴァ
大学を所管する地区委員会でのサーシャの事件担当
マーロフ
サーシャが大学入学前に積荷人夫として働いていた機械工場監督。今は工場書記
ボリス サヴェーリエヴィチ ソロヴェイチク
流刑囚仲間、自称党員・元ゴスプラン、ロジコーヴォ在住、逃亡を図る。
イーゴリ ヴラジーミロヴィチ
流刑囚、建築家、白系亡命ロシア人の息子、パリコムモール加盟とのこと。
ヴォロージャ クヴァチャーゼ
流刑囚、グルジア人、美男子トロツキスト
イワーシキン
流刑囚、ミンスク出身初老印刷工。
カルツェフ
流刑囚、モスクワコムモール元専従。
ニル ラヴレンチェヴィチ
郵便屋、コルホーズ員。
マリヤ フョードロウナ
ゴリチャーヴィノ村の流刑囚、旧社会革命党員
アナトーリー ゲオルギエヴィチ
ゴリチャーヴィノ村の流刑囚、旧アナキスト
フリーダ
ゴリチャーヴィノ村の娘さん。
エフロシーニャ アンドリアーノウナ
ゴリチャーヴィノ村の住民、ニルの宿泊先。
ワシーリー
モズゴーヴァ村の最初下宿先の次男。
チモフェイ
モズゴーヴァ村の最初下宿先の長男
アルフョーロフ
内務人民委員部ケジマ地区全権代表キーロフレニングラード派遣要請したがなぜか東シベリア派遣された。
フェージャ
協同組合店舗職員40歳台。
ラリースカ
フェージャの出戻り娘。
ルーシ
フェージャの妹。
ヌウルジーダ ガジーゾウナ
ジーダと呼ばれている、モズゴーヴァ村学校教師タタール人トムスクに5歳の娘あり。
フセーヴォロド セルゲーヴィッチ ジリンスキー
モズゴーヴァ村在住、流刑者、モスクワ出身ベルジャーエフ弟子哲学者、35歳。
イワン パルフョーノヴィッチ
モズゴーヴァ村コルホーズ議長
ハイルハイロヴィチ マスロフ
モズゴーヴァ村在住、流刑者、元将校
オリガ ステパーノヴナ
ハイルハイロヴィチの妻、カりーニンから会いにきた。
ピョートル クジミチ
モズゴーヴァ村在住、流刑者、元商人、ボロネジ州出身
ユーロ
ロジコーヴォから移送された流刑囚。
リディヤ グリゴーリエヴナ ズヴャグーロ
ロジコーヴォから移送された流刑囚、1905年から党員
タラーシク
リディヤの養子、6歳、元富農の子

実名政治指導者は除いている

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