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2018-01-07

国語総合」の現行学習指導要領解説文部科学省

https://anond.hatelabo.jp/20180105123031

への補足

科目の目標

国語を適切に表現し的確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や

想像力を伸ばし,心情を豊かにし,言語感覚を磨き,言語文化に対する関心を深め,国語を尊

重してその向上を図る態度を育てる。

教育内容についての解説抜粋

伝統的な言語文化国語特質に関する事項〕

(1) 事項

(1) 「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこと」の指導を通して,次の事項

について指導する。

伝統的な言語文化に関する事項

(ア) 伝統的な言語文化への興味・関心を広げることについての事項

(ア) 言語文化特質我が国文化外国文化との関係について気付き,伝統的な言語文化

への興味・関心を広げること。

言語文化特質」とは,我が国言語文化独自性格やその価値のことであり,微視的には,

作品一つ一つに表れた個性価値,巨視的には作品集合的にとらえた時代全体の特質さらに現

代につながる我が国文化全体の独自性のことである。ここでは主に古典を教材とした指導を通し

て,生徒がそれに気付くことを求めている。

我が国文化外国文化との関係」を取り上げているのは,我が国文化理解するに当た

って,中国など外国文化との関係重要となるからである我が国中国文化の受容とその変

容とを繰り返しつつ独自文化を築き上げてきた。その経緯を踏まえ,古文漢文の両方を学ぶこ

とを通して,両文化関係に気付くことが大切である。古来,我が国は,文字書物媒介にして,

多くのもの中国から学んだ。その結果,漢語漢文訓読文体が,現代においても国語による文

表現の骨格の一つとなっている。漢文古典として学ぶことの理由はこの点にもある。

ここで,

外国文化」としているのは,高等学校では,近代以降の言語文化視野に入れて幅

広く伝統的な言語文化について扱うこと,また,我が国文化は,近世以前においても,南蛮渡来

といわれたヨーロッパ文化の影響もあることなどを踏まえたものである

伝統的な言語文化への興味・関心を広げる」ためには,古文漢文だけでなく,古典に関連す

近代以降の文章や,伝統芸能年中行事など,多様な方面からアプローチすることが大切である

現在我が国は一層の国際化に向かい進んでいるが,その中にあって我が国伝統的な言語文化

独自性価値を知り,それを尊重する態度の育成は,これまで以上に重要になっていることを認識

する必要がある。

(イ) 文語のきまり訓読のきまりについての事項

(イ) 文語のきまり訓読のきまりなどを理解すること。

(内容の取扱いの(5))

イ (1)のアの(イ)については,読むことの指導に即して行うこと。

生徒は,古典を読むのに必要言葉のきまりの基礎的な事項について,中学校学習している。

ここでは,それを踏まえて指導する必要がある。

文語のきまり」には,文語文法のほか歴史的仮名遣いなども含まれる。特に現代語と異なる古

特有のきまりに重点を置いて,仮名遣い活用の違い,主な助詞助動詞などの意味用法,係

り結び,敬語用法の大体などについて指導し,古文を読むことの学習に役立つようにする。

訓読」とは,元来中国文語である漢文を,国語文章として読むことである

訓読のきまり」とは,訓読必要な返り点,送り仮名句読点などに関するきまりをいう。これらのきまり

についての指導は,教材の訓読必要範囲内で適切に行う必要がある。なお,訓読は,おおむね

文語文法に沿った読み方をするが,普通文語文法では扱われない訓読特有伝統的な読み方もあ

ることに注意する必要がある。

なお,内容の取扱いの(5)のイに示しているように,文語のきまり訓読のきまりについては,

詳細なことにまで及ぶことなく,読むことの指導に即して扱うとする考え方は従前と同様である

したがって,文語のきまりなどを指導するために,例えば,文語文法のみの学習時間を長期にわ

たって設けるようなことは望ましくない。漢文訓読のきまり指導場合も同様である

(2:52 解説より追記)

古典を読み味わうためには,古典理解するための基礎的・基本的知識及び技能を身に付けて

いなければならないことは言うまでもない。しかし,従来その指導を重視し過ぎるあまり,多くの

古典嫌いを生んできたことも否めない。そこで,指導においては,古典の原文のみを取り上げるの

ではなく教材にも工夫を凝らしながら,古人のもの見方,感じ方,考え方に触れ,それを広げた

り深めたりする授業を実践し,まず,古典を学ぶ意義を認識させ,古典に対する興味・関心を広げ,

古典を読む意欲を高めることを重視する必要がある。そして,そのような指導を通して,古典を理

解するための基礎的・基本的知識及び技能を身に付けさせていくことが大切である

(ク) 我が国伝統文化に対する関心や理解を深め,それらを尊重する態度を育てるのに役

立つこと。

(ケ) 広い視野から国際理解を深め,日本人としての自覚をもち,国際協調精神を高めるの

に役立つこと。

(ク)及び(ケ)は,国際化への対応考慮した観点を示している。我が国伝統文化に対する関心

理解を深め,それらを尊重することは,我が国郷土を愛する態度を育成することになる。また,

それは異文化理解の基礎を培うことにもなる。日本人としての自覚をもちながら世界の中の日本

立場役割を考え,国際理解を深め国際協調精神を養うことは,世界視野に立って国際社会

貢献しようとする態度の育成につながる。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2010/12/28/1282000_02.pdf

2017-11-24

anond:20171124012605

ばかくせえんで反論すんのもめんどくせえ。

なんでこういうバカってLGBT議論で旗色が悪くなるとロリペドを引き合いに出すんだろうな。

全然ちげえだろうがよバカ

それと今議論してるのは自民党老害議員竹下が「同性パートナーなどと不敬なもの天皇陛下に合わせるわけにはいかん。それが日本の伝統」って話であってそれ以上でも以下でもない。

他の話は他の問題ときにしてくれ。

それでも一応言えば

近世までの規制ゆるゆるの時代においてはそれは何でもありだったんだし、それはそれで今更歴史の書き換えなんてできない。

そういう近世的な価値観では強いものが弱いものを犯して好きにするという価値観常識だったろう。

それが現代になって弱いもの保護するべきという価値観が出てきたことにより、近親相姦とかロリペドとかは規制されるようになった。

婚姻制度も極端に女性立場が弱いことがなくなったし、売春基本的には禁止されて衆道という男性売春も表向きには規制された。

同性婚がどうとか言われる話の裏側には「日本の伝統は男女の結婚である子供をたくさん生むことである」みたいなものすごく短期間に無理やり醸成されたことがあたかも古来延々と続いてきた価値観であるかのように思われていることがある。

しか過去には衆道という同性愛を当然とした売春方法社会制度として確立されていたという事実がある。

まり日本の伝統的に「恋愛性交渉は男女のもの」というのは後付価値観であり、同性愛は当たり前に存在していた。

そのことを今のLGBT議論において主張をしているわけであって、再び衆道のような一部の男性権利を著しく奪うような売春制度を復活させようとしているわけではない。

ていうか男性だろうが、女性だろうが、子供だろうが本人の意に沿わない性行為は極力避けるべきというのが現代価値観である

から衆道過去負の遺産かもしれないが、同性と寝たいという願望を持つ人は世の中に確実に存在していて、それが今まさに公共権利として認められようとしているという話であるわけ。

とか言っても根本的に自分価値観を壊さな範囲理解しようとするバカはいくら言葉を並べても理解できないことはわかってるので、とりあえずお前はバカだってことをまず自覚すべきだとだけ言っておく。

2017-10-27

anond:20171027144735

メンバーシップ雇用って、いつ頃が源流なのかね。

江戸時代後期~明治時代とかかなと思ってんだけど。

近世になって資本が蓄積されてくるのに合わせて、丁稚方向から番頭のれん分けへといういわゆる日本型雇用形態になったのかなぁとか。

江戸時代近世市民社会が長く続きすぎたせいだろうかなどと、妄想

同じように資本が蓄積し市民社会が成立したヨーロッパは、日本ほどは資本メンバーシップが強く結びついてない感じもする。

ヨーロッパはその頃に革命とかで忙しそうにしてたから?とか、貴族血縁メンバーシップの方が強かったから?とかうんぬんと、妄想

2017-10-01

anond:20170930051452

現状見えている情報からは、成功した企画になったと言っていいでしょうが

「同じようなことが今後もあるのは嫌」というのをヤオヨロズへの窓口としてのKADOKAWAに強く言った可能性は高い

現状で12.1話成功した(差し引きプラスだった)と認識できているなら、「同じようなことを今後もぜひ起こしてほしい」と考えるのが非常にシンプル利益欲求であるはず。

もちろん現実シンプルではなく、程度の差はあれ、KADOKAWAは「12.1話は非常に幸運にも成功したけど、これはまぐれであって、2度目の期待値差し引きマイナスである」と考えて、ファンは「たつき信じろ」と考えたのだろう。

さて、本当に2度目の期待値差し引きマイナスなのだろうか?

いわんや、当然予想された「たつき降板によって被るマイナス」を確定させてもなお、避けたいほど大きなマイナス期待値だったのだろうか?

(「プラス10マイナス5で差し引きプラス5」の結果よりも、時として「プラス3」だけのほうが好まれ場合があるのは承知していますしかし、今回の問題差し引きされる数字は、1020どころではなかったでしょう)

以下、本筋からそれた蛇足

増田は「業界の慣習を破壊させることの巨視的な損失が大きい」と考えるかもしれないけど、わたしはその慣習こそが時代にそぐわないと考えています。いわゆるオタク界隈で「グレーゾーン」とされる活動の多くは、巨視的に見れば差し引きプラスになっているはずで、著作権親告罪であることを最大限経済合理的解釈すれば、「黙認」という言葉さえそぐわないと思っています

理想だけで言えば「差し引きプラスマイナスかを神の視点で判定して、マイナス活動だけを親告する」べきところを、個別に判定するのが現実的ではないので、一括して禁止したり、「黙認」したりしているのが業界の現状でしょう。しかしもうひとつ方法として、「一括して基本自由宣言しつつ、マイナスが著しく目立つ活動があれば、可能範囲で親告していく」ほうが最終的なプラスが大きいのではないか、というのが、わたしの考えです。けものフレンズプロジェクトA二次創作に関するガイドラインも、少なくとも業界平均値よりは、どちらかと言えば後者の考えに寄ったものでした。

どちらが正しいか証明はできませんが、古くは北風と太陽近世では落語ラジオ放送最近では欧米を中心にしたアーティストライブでの撮影許可の例が挙げられます。幸いにも自由と開放のほうが儲かる世の中であるようで、わたしはうれしいです。

古代[ソース編集]

日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲建御名方神タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を摑んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲起源とされている。

人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手トドメの一撃を加えて命までをも奪った上、しかもそれが賞賛される出来事であった事から見ても、少なくとも現代相撲とはルール意識も異なるもので、武芸武術であったことは明確である[2]。宿禰・蹶速は相撲の始祖として祭られている[3]。

さらに『古事記』の垂仁記には、

ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。

とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと と訓す)の文字が現れる。以降の記紀六国史においても、相撲に関する記述散見される。

相撲節会」を参照

奈良時代から平安時代にかけて、宮中行事の一つとして相撲節会が毎年7月頃に行われるようになる。毎年40人ほどの強者近衛府により選抜され、宮中で天覧相撲をとった。最初の記録は天平6年(734年)のものであるが[4]、節会を統括する相撲司の初見養老3年(719年)であることから8世紀初頭に定着したものと思われる。相撲節会は当初は七夕宮中行事の余興としての位置づけであったが、後に健児の制が始まると宮中警護人の選抜意味を持つようになる[5]。時代が下るにしたがって相撲節会重要宮中行事となり、先例が積み重なるとともに華やかさを増した。然し同時に、健児選抜という本来趣旨は次第に忘れられていった。12世紀に入ると律令制の衰退、都の政情不安定とともに相撲節会は滞るようになり、承安4年(1174年)を最後に廃絶となる[6][7]。

神事相撲」を参照

一方、神社における祭事として相撲をとる風習が生まれた。これを神事相撲という。農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護感謝するための農耕儀礼であり、これは一貫して現代にまで続いている[8]。

中世[ソース編集]

武家相撲」を参照

相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士棟梁となった源頼朝特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた[9]。

日本礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年

土地相撲」を参照

続く足利幕府は、相撲奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都相撲文化地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。[10]。

近世[ソース編集]

「勧進相撲」を参照

江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲力士大名の抱えとすることでその名残をとどめた[11]。

近代[ソース編集]

相撲を取る皇太子時代昭和天皇

大相撲」を参照

明治文明開化相撲をはじめとする伝統芸能は軒並み危機に陥るが、明治天皇の天覧相撲が繰り返されるなどによりその命脈を保つ。大正14年1925年)には幕内最高優勝者に授与される天皇賜杯が下賜され、また東京相撲大阪相撲合併することにより日本相撲協会誕生、勧進相撲大相撲に一本化された。

平成に入って、日本ビーチ相撲連盟というアマチュア組織が結成された。また、義務教育武道必修化の必修科目として、相撲剣道柔道の三種を基本として加味された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/相撲

兎に角臭そうなので相撲は撲滅するべき

殺人競技ルーツにする相撲人権違反で即刻廃止するべき

そう言う事を言いだしたらオリンピック競技殺人競技ルーツにする種目がたくさんあるのでオリンピックを即刻廃止するべき

2017-09-28

anond:20170928151530

そうなんだよね。

中世は言い過ぎとしても近世レベルの法運用だと思う。

運用レベルをその辺に押し込めてるのは、報道レベルというか市民の法や自由に関する無関心さが遠因になってるんじゃないかな。

彫り師立場自由を考えればこんな判決になるわけないし、逆にこんな判決が出たということは刺青に対する偏見差別があることを社会自覚してないからだと思う。

移住を考えてるんだけど生活基盤が日本にあるから今すぐというわけにもいかないので、その間だけでもこの社会寄与したいと思ってる。

2017-09-12

anond:20170912153649

本当だ!!!

これヤバイね。

揚げ物語

作者:そらが

揚げ物の歴史物語性は無いです。

01.古代から中世2016/12/25 20:09

02.砂糖まみれの中世盛期 2017/01/04 22:02

03.中世晩期のレシピ 2017/01/10 21:12 (改)

04.近世初期の南欧 2017/01/17 22:36

05.中国古代伝統 2017/01/27 21:01 (改)

06.中国中世イスラム様式 2017/02/07 20:55 (改)

07.中国明代唐揚げ 2017/02/16 20:59

08.イタリア文化の余波 2017/02/25 21:17

09.17世紀フランス──揚げないカツレツとじゃが芋抜きのコロッケ 2017/03/12 20:15

10.アンシャレジームの新揚げ物 2017/03/24 21:51 (改)

11.女料理人たちのフィッシュフライ 2017/03/29 20:29

12.スルタン揚げ菓子──三大料理の三番手 2017/04/06 20:29

13.近世イタリア──フランス料理の逆襲 2017/04/14 21:18

14.ポテトコロッケと大革命 2017/04/28 20:11

15.古典フランス料理の完成 2017/05/01 20:10

16.双頭鷲のシュニッツェル 2017/05/06 20:55 (改)

17.イタリア料理リソルジメント 2017/05/13 21:39 (改)

18.英国における揚げ物の状態 2017/06/13 20:56 (改)

19.新大陸食生活 2017/06/26 20:38

20.素食から満漢全席まで 2017/07/15 21:26

21.中華料理の成立 2017/07/30 20:51 (改)

22.ソヴィエトロシアではバターを揚げ物で包む 2017/08/12 21:11

23.多分これが一番古いと思います 2017/08/27 21:05

24.大衆時代の揚げ物 2017/09/11 20:36

現在進行形更新されとる……。

じっくり読んでみる。

2017-08-23

女性向けAVは教科書としてはずっとマシだし割とプレーン

AV教科書」のせいで女性は悩んでいる。"エロメン"一徹さんに聞く、男女のセックスがすれ違う理由

http://www.huffingtonpost.jp/2017/08/22/adult_video_n_17799470.html

にこういうブコメがついてた


男向けのAV理想とするのは間違いなのは確か。だけど、そこで「女性向けのAV」がアドバイスとして出て来るのに毎回疑問を感じる。それは女性ファンタジーを男に強要することに変わっただけでしょ。そこに気付こう

いや言ってる主旨はわかるし正しいと思うよ。

けど女性向けAV1度見てみてほしい。

全然女性向けファンタジー強要」ってほど色ついてないから。

かなりプレーンオムレツみたいなセックスばっかだと思う。

(但しセックスの前にトレンディドラマみたいな小芝居がついてるものもあってあれのドラマ部分は女性向けファンタジー色ある)



ていうか俺は男として男性向けAVが本当に楽しめなくて困ってたんよ

とにかく気持ち悪い 

男が殆ど場合見た目も言動も声も隙無く気持ち悪いし、

女の不自然な声やリアクションも興醒めの一言

んで局部ドアップとかカメラワークも落ち着かない

動きもうおおおお!ドガガガガ!みたいなさ

あれで気持ちよいって奴がどこに居るんだよ?

まり男性向けAVを教科書にすると男にも気持ちよくないセックスしかならないんよ



ここからは仮説だけど

近世日本ポルノって春画から始まってて、

春画はあれは絵だからエクストリーム体位や超ハイテンションシチュエーションや断面図のような局部描写漫画的な台詞がちりばめられてたんだよね

声も音も動きも時間経過もないメディアからこそ

そういう刺激性のある情報を過多なぐらい盛り込むのは正しかったんだよ


それがエロ小説エロ漫画になって、AVってのはその後から普及したものでしょう?

最初に作った人達が「エロ漫画エログラフィックノベルの実現」をモデルにやっちゃったんだよ

で、現代まで続いてる

女優男優身体を使ってエログラフィックノベルをしてるんだよ

からあれはエロ漫画みたいに鑑賞するなら楽しいんだと思う


でも自分がしたセックス追体験には全く使えないんだよね

それにもちろんセックス教科書にも使えない

あんセックスしないし、しても気持ちよくないもん

エロ漫画として正しいのとVRや教科書として正しいのは全く違うというのが罠で、

男性向けAVは常に前者なんだよ


女性向けAVはポルノポルノでも後者なんよ

それが性差で生まれてるのか取り巻く文化の差で生まれてるのかなんなのかはわからん

とにかく俺が求めてるもの女性向けAVにあった

実際にやるなら男性向けAVのセックス女性向けAVのセックスは圧倒的に後者の方が気持ちいいんだよ、男にも

これは個人差だとかそういう話が通用しないところだと思ってる

ゆっくり動くのとうおおおお!ドガガガガ!って動くのどっちが集中できて気持ちいかだけでもこれは答が決まりきってる


から俺は子供にどっちかを教科書に与えるなら絶対女性向けAVにする

それぐらい違う

ほんとに一回見て欲しい

男性向けにもこの方向性作品を期待しないことはないんだが

たまにこの方向性っぽい売り文句作品を出しても、期待してみてみると

やっぱり男優気持ち悪い漫画しかいわない笑っちゃう言葉責めをしてて

女優アンアンアンアン!って萎えるわざとらしい喘ぎ声出してて

羊頭狗肉なんだよね

2017-08-03

https://anond.hatelabo.jp/20170802203134

珍しい→叩く、じゃなくて、珍しい→目立った→見つかった→そりゃ叩くよ内容的にも、って順序。

人種差別女性蔑視17世紀人権発見されて以降数百年にわたって人間社会において共有されている考えなので

「ありふれた」意見というよりも、「近世以降の人間社会における大前提」と言う方がより適切な言い方だと思うよ

2017-06-30

https://anond.hatelabo.jp/20170630072535

そうなんですよ。

氷食症

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E9%A3%9F%E7%97%87

栄養物質強迫的に食べたくなる病気である異食症の一種[1]。近世冷蔵庫が普及し始めてからまれ病気で、一日に製氷皿1皿以上食べるもの、という定義がある。

2017-06-17

風流夢譚という現代舞台天皇家殺害モチーフ作品あったけど

右翼の抗議と右翼活動家による殺人テロ事件が起こって、出版社謝罪して自ら表現の自由放棄した。

から風流夢譚」を持ち出して、教養が足らんという奴はアスペ以前の馬鹿だし、源氏物語など古典近世以前を舞台にした作品持ち出す人も元増田質問意味理解できていない馬鹿

現代舞台にした天皇家物語で(名前を変えた架空天皇皇族でもいい)、

クジラックスのような醜悪物語を描いていて、

右翼などのクレームで潰されずに社会に守られた作品

を持ってこいよ。

ほんとにそんな作品あるんですか~?????

 

そういう作品をパッと挙げられる奴が「教養ある人」って言うんだよ。

源氏物語」とか場違いな答え出してマウント取ったつもりの奴は単になぞなぞが強いことを誇るガキのマインド

 

https://anond.hatelabo.jp/20170616171312

 

*俺は元増田じゃないし名乗ってすらいない。勝手元増田と思ってコメントしてる人の国語の成績が知りたい……

2017-06-05

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線として言っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学歴史学勉強したわけではありません。高校時代文転して受験するかと生半可に考えていて(結局やめたけどね)、興味本位教科書を読んでみただけの素人です。

さいしょの方でも書いたとおり最新版教科書を持ってません。はてブでバズっていてびっくりしましたが、このエントリ専門家レベルのものとして受けとるのは、恥ずかしいのでやめてください。

再追記。id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝。)

  

  

  

(追記2

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかったことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2017-05-25

近世中国ってアヘン戦争日中戦争南京大虐殺だとかいいとこなしだったけど やっと眠れる獅子が目覚めたんだなあ

2017-05-19

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2017-05-10

キリスト教十字軍をやったから酷い、では他宗教は?

昨今テロばっかりやってる、名前言ってはいけないあの宗教平和的で、誰も殺していない?世界一平和宗教

いいや全くそんな事はない。

ローマ帝国崩壊後、地中海はサラセン海賊に荒らされまくった。

奴隷にされた数は120万人以上、殺害された記録は探せなかった。だがそれを以て「被害者0人」と言うのは浅はかだろう。

十字軍は元々、フランス狂信者が言いだしっぺだが、それが支持された背景には数々のテロ行為存在していたからだ。

サラセン人とエルサレム関係ないという指摘はその通りである

双方、勝てるところとしか喧嘩しないから、いつも平和的な人々が被害に遭う。

サラセンが収まると、次に現れたのがバルバリア海賊だ。19世紀まで続いた。

列強がよってたかって北アフリカ制圧した!という話は、北アフリカに住んでいた無実の住人に対してはまあそうなんだけど、

海賊に襲われていた側からしてみれば、自国攻撃してくる国に対しての攻撃である

このあたり、奴隷にされても「あの宗教は寛容だから奴隷になっても幸せキリスト教非人道的!」なんて言う人が平気でいるけど、

タリバンポコハラムを見ててもそう言えるか?

あれは特殊な例で、中世近世は優しかったと思えるなら花畑と言わざるをえない。

現代も何も変わらない。

一部の賊が異教徒一般人を殺す。

賊は駆逐されるかもしれないがしわ寄せはあの教徒一般人に来るのだ。必ず。

そして「罪もない一般人を苦しませた異教徒、酷い!」と大々的に言われる。

テロ一般人関係ないって言うなら、賊を駆逐した軍隊一般人関係ないよね?

いいや軍隊は賊の駆逐の時に一般人にも手を出した。って言うなら、先に一般人に対してテロった件についてもそちらの宗教全体で責任持てよと。

宗教を貶めてのかの宗教擁護は、見てて気持ち悪い。

2017-04-28

http://anond.hatelabo.jp/20170428142802

黒船来航までの中世近世政変とかミクロ過ぎて

これから世界展望するのに

何の役にもたたない気がしてならない

伝統的に天皇権力武家政権がせめぎあってきたことを抑えておけばいいだけなのでは

2017-04-21

望み

私には生まれつきエゴがないので、個人的な望み(俗に謂う「夢」)がない

人々の洗脳を解いてデモクラシー革命を実現することが望みだが、それは、バイトして金貯めて実現しうるようなことではないし、TNT背負って溜池山王突撃してもきっと実現しないだろう。バイトして金貯めて革命を実現する話をアニメ化でもしてほしいくらいだ(笑)

どうやったら人々からエゴがなくなる進化が起こるのか、日本人(笑)近世近代以来の洗脳が解けるのか、判れば苦労しない。むしろ洗脳が解けないようにして国家体制を実現しているわけだから、そんな容易に洗脳が解けるはずもないのだろうと思う。たとえ成り上がって革命を起こそうとしたところで、見つかったら確実にぶっ叩かれて刑務所に入れられるのが日本スペックなので、もう手の施しようがないのだろう

わざわざ近世近代呪いを呼び起こして洗脳を強めることを、今の権力者支配層、既得権益階級がやっていて、もはや滑稽なまでに愚民どもは釣られているようだ。近世近代のことを「日本古来」とかい阿呆が多いし、そもそも「日本」なるものは古来存在しない。「日本」というのは近代国家主義概念で、遡ってせいぜい徳川光圀大日本史が端緒だろう

エゴのない進化を遂げるというのは一種の才能で、天才的なできごとで、ヨーロッパモダンエヴォリューションに限らず、釈尊ブッダ)にも起こった昔からあることなのだけれども、人類凡そをみると進化することは決してなく、むしろ幼稚化が進んでいる。岡本太郎が云っていたことも然もありなんと思う

2017-03-18

既得権益者の逆ギレと、日和見菌パラサイト

安倍以来、激鬱で生活行動すらまともにやれていないので、ましてや書くことも辛くて、思考はいくらでも自動的に出てくるのだが書けないという日々が続いている。だから論理的にちゃんとしたことを書く気力がないので、跳躍的に短絡に書く。

近年の現象は、既得権益者の逆ギレと、社会の既成構造に馴れ合う人々のパラサイトで生まれている。そうやって、プーチン安倍トランプも生み出されている。

自然界の多くは、普段は役に立たない日和見でできている。人体の細胞のかなりの割合は、役に立っていない。人体に棲む細菌の大多数は日和見菌であり、「勝ち馬に乗ろう」とする。生きていくためには多少のことは辛抱するというそこそこ恵まれ人間が、人数としては多い。こいつらは日和見である

残念ながら、弱くて卑怯な奴は日和見をするし、組織論理で行動する。自分の命が惜しかったり、部下や親類や友人のしがらみの社会では、日和見で行動する。本当に正しく善い人でいるためには、ときには人間関係を絶たねばならない。だから友達(笑)である。妻や恋愛友情なんかでは、保身のエゴイスティックな行動を取るという生存欲求という意味で強くなれるだけであり、そこには正も善もない。あるのは、人間社会利己主義に基づいた正義だ。そういう意味で「強い」のであって、正しいかどうかは別の問題だ。

既得権益者は、贅沢な地位民主党政権時代抑制され、被害妄想に陥った。恵まれ身分を奪われたら、「差別されている」とすら思い違いもする。もはやコント漫才かのような笑い話だが、困ったことにフィクションではないから困る(笑)。例えば、このオッサン社会なのに、男が差別されるようになったとすら思い込んでいたりする(笑)所得があって恵まれているのに、俺のカネを無駄遣いするなと言って税金ケチらせようとし、社会保障費は貧困者に負担させようとする。

逆ギレである

ちょ、おま(笑 である。面倒くさいからその一言だけでもいいと思う(笑)

けど実害が甚大だから困る。物凄く困る

社会の既成構造政体があって、そのなかで権力権利をもっている階級身分っていうのが未だにある。封建。カースト制のようなものだ。そうして、そのカーストに基づいて人生を過ごしている人間には、その身分に基づいて生きたがるのも居る。沢山居る。世襲政治家のイエというのは贅沢な身分でもあるが、ときには針のむしろであり、人生牢獄である。けれどもおそらくは多くの人から羨ましがられている。

同様に人生牢獄だが羨ましがられるとは限らないものに、夫にパラサイトする女という「孟母三遷」的な封建的人生をえらびたがる人々がある。男尊女卑差別されているのは明白なのにもかかわらず、男にパラサイトして人生を終えたがる人というのは残念ながらかなり多い。そして実際、ひとりのちからではこの社会構造を変えることはおよそ不可能みえるし、異論の声を上げるだけでも既成社会で生きていくにはデメリットでもあり、そしてついには、既成社会適応して疑うどころか心底賛同するという社会適格者化すら起こる。

残念ながら、とにかく実際、女に生まれたら、結婚しないで生きていくのは困難な社会であろう。

男が外でカネ稼いで、女がそのサポートをするという、そういう武家社会かなんかの慣習が拡大再生産され相続されて、今に至っていて、未だにある。

保守」というのは、「古来を守っている」のではない。決して、ない。単に、既成構造を死守しているということ。奴らの言う「古来」は、既成事実封建制度。この封建制度ってのも、たかだか近世のもので、古くはない。古来の古代のものではない。とき儒教封建であったり。カトリック教会封建であったりするかもしれないが、そういうカースト社会構造。そして、そうした構造奴隷にわざわざなりたがる人はかなり多いってこと。たとえば、解放をいやがる奴隷だって沢山いたくらいだし。おそらく今でもインドに行けば、客が自らセルフサービスでやったら、俺の仕事奪ってくれるなと言うカーストの下層者が残っているだろうと思う。

こうした遺物洞察して反省して革新しないと、いつまでたっても人類はクソ未満なんだろうと思う。

2017-02-24

神道なんてマンソンファミリー人民寺院と変わらんだろう

今回の幼稚園だが小学校の件で神道=邪教だってわかった

中世近世戦後のうちにキリスト教に滅ぼされたら良かったんだこんなもん

2017-01-25

近世文化崩壊のその先を突破しなければならない

最近文化人サブカル系であろうが自由個性を追求しないし、因習とたたかうことはない。むしろ逆で、愛国ポルノを煽ったり、抑圧主義を美化したり、鉄道オタクですら呆れる観光列車を好き好んで乗るほどだ。

から日本の文化を好む人は例え外国の流れが含まれていてもまだ「島国日本ガラパゴス情報空間」の洗脳否定的で、それを敬遠する進歩的層と言える。が、そこでも結局、所謂精神などの日本的古典性と矛盾するような本家版や世界版で当たり前の価値観はすべてゴッソリと検閲され、日本的枠の中に押し込まれしまうのはあんまりだ。

乗り物オタクだって、例えば車やバイクはたったの10年前まで暴走族の名残があったし、鉄道でもアングラ文化的な根強い考えがあって、右翼スキャンダルから分かるように反PC構造オタク翻弄されたりもする。しかし、だからこそ、オタク自由を追及し、因習とも権力ともたたかってきたのである

アメリカであればマドンナの「ホワイトハウス爆破したい」発言を冷笑する感覚と、日本であればサブカル凋落違和感を持たない感覚権威主義感覚封建主義固執する感覚愛国ポルノを煽る感覚、抑圧主義を美化する感覚鉄道オタクですら呆れる観光列車を好き好んで乗る感覚、全部同じだ。

鉄道好きを撲滅せよ」「私鉄東京から出て行け」という鉄道社会構造のもの否定のような暴論、「ポスト管理社会主義」という現代人権感覚のもの否定のような暴論、「サブカルを根源ごと潰せ」というカウンターカルチャー全否定右翼を「普通」だと思い込み、それを批判する発想の方がおかしいと嘲笑うアレ・・・全部全部、同根であり、全世界からドン引きされる島国日本なのだ

その先を突破する必要がやはりある、と思う。権威思考でなければならない。整然としてなければならない。たとえ地方人でも車やバイク自転車歩行者より優先されなければならない。例え車やバイクが嫌いでも大人として認められるために免許証を取得せざるを得ない。この道以外の選択肢があるだと宣伝している政治だって、ゴールは一通りしかない。

平成末期の、21世紀に生かされていると思いきや、実際には中世のような途方もないくらい後進的な価値観がそこかしこに幅を利かせていて、家父長制的なイエの構造サブカル排斥思想が、会社を包み、社会を包み、学校を包み、日本国日本人のものをくるんでいてその長に今の政治がある。これ全部把握したうえで対抗勢力がなきゃまずいよ。

例えば文筆業の私が小説を書くとするなら、現代日本ベースにした作品であれば、車社会軍事政権で身動きの取れなくなった鉄道オタクロードバイクで車を蹴散らし、鉄道オタクのものが気に食わない権威階級ビビらせるような、そういう表現を考えるだろうね。

2017-01-16

中世近世あたりで日本キリスト教国になってたら今頃どうなの?

平和社会になってると思う

現代日本人助け合い精神がない神道大乗仏教儒教のせいで“個人”としての自尊心を失った

僕が織田信長豊臣秀吉徳川家康になったら絶対神道大乗仏教弾圧し、キリスト教隣人愛精神を広める

そしてアジア代表する枢機卿になり

現代では聖人として扱われる存在となる

毎週日曜に教会に行く習慣ができれば孤独な人は減り、穏やかな共同体意識が芽生え、日本は今頃平和な国になっている

2016-11-09

ネットとか雑学とかに精通している高尚なはてなーの人教えて

俺、山形出身なんだけどさ、

 

出羽の守

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%D0%B1%A9%A4%CE%BC%E9

 

本来は、出羽国(でわのくに)を治める古代近世役職[*1]。

このくらいは歴史好き、あるいは高校日本史取ったレベルの人なら知っていると思うんだけど

 

現代では、「欧米では」「共産圏では」と、すぐに他国などを引き合いに出して日本などの対象物を引き下ろそうとする安易な言説を振り回す人物に対して、揶揄的にこう呼ぶことがある。

ってどういう過程でそうなったの?

 

「では」→「出羽」、って韻を踏んでいるってだけ?

ならなんで出羽「の守」にする必要があるの?

山形出身馬鹿にしてるの?

山形県人が馬鹿なの?

 

あーちなみに俺自身馬鹿だよ。馬鹿から教えて頭いい人。

どういう過程でこうなったのかが知りたい。出典とか出してもらうと喜んでウンコ漏らします。

2016-09-28

[] 諂諛

(てん‐ゆ)

へつらうこと。阿諛(あゆ)。

天朝蔑視し醜夷に―し」〈条野有人近世紀聞〉

https://kotobank.jp/word/%E8%AB%82%E8%AB%9B-579046

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