はてなキーワード: 関ヶ原の戦いとは
コンテンツによって許される範囲が違いすぎて分からなくなってきた。
今日Xで「関ヶ原の戦いに関して人に話したらネタバレをするなと怒られた」というポストを見かけて笑ってしまった。どうすればいいんだ。
分からなすぎて、ネタバレを嫌う民はもうそのコンテンツに触れるまで自衛してほしいと思うようになった。
・漫画
時に更新されたらみんなすぐ感想を呟いて展開がトレンドに載ったりする。〇〇死亡とか
じゃあ漫画はそんなに厳しくないんだろう。
・ゲーム
1番わからない。
発売日から1〜2週間経った頃に感想を呟いたらフォロワーからネタバレだとリプライされたことがある
上とは別ゲーだが、ポケモンのDLCなんかは解禁から翌日には新ポケモンや新要素、キャラ名などがトレンドになっていた。
なんなら俺も先にトレンドで知った口だが、これがきっかけでネタバレってあんまり考えないでいいのでは…と思うようになった。
・映画
ゲームや漫画と違って上映時間という縛りがあるし、触れられるタイミングにも差異があるから上映直後は話さないか、ふせったーを使用する必要があるのはわかる。でも公式側がツイートでよく「皆さんが配慮しすぎて全然感想ツイートが見つけられない」というのも見かける。もしかしたらコナン映画の犯人以外は呟いてもいいのかもしれない。
・ライブ
ツアーの場合セトリや演出がネタバレになるという意見を見かけてから迂闊に呟けなくなった。
これに関してはそれ以来ふせったーを使っている。
・人に作品を薦める時
薦めるということはあらすじをある程度説明する必要があるが、それはネタバレと紙一重だ。
詳しく説明できないけど衝撃的な展開がある!と説明したとそれは「衝撃的な展開がある」ということ自体のネタバレになってしまう。
例えばまどマギで3話で衝撃的な展開がある!と説明されたらその人は身構えてしまうだろう。
しかし真に衝撃の体験を受けるならば、何も警戒しない状態で3話を見る必要がある。
これはリアタイしていた人なら分かるはずだ。
まどマギ3話に関してはもう10年以上経ってるからいいだろうということにする。
かといってその辺りも説明しないで薦めようとすると、キャラがなんとなく魅力があるとか、とにかく面白いから見てなどふんわりした感じになってしまう。
果たしてそれでコンテンツに触れてみたいと人は思うのだろうか。
加減が難しい。
ちなみに俺はネットで見かけてしまった分はもう自業自得だと思うようにしてる。
対面の時は流石に結末系を言う時は「ネタバレ大丈夫?」と聞くようにしている。
アサクリ世界では、遥か昔に「かつて来たりし者」が超古代文明を築き、強力な遺物をいくつも残した
その遺物を収集し世界を操ろうとする敵集団が「テンプル騎士団」である
騎士団の起源は紀元前10世紀、古代インドで釈迦によって設立された「修行教団卍」である
世界中に広がった騎士団は国や時代にあわせて様々な宗教団体、企業などに姿を変えながらも遺物による世界支配を企み続けていた
テンプル騎士団に与する歴史上の人物には、アレクサンドロス大王、始皇帝、クレオパトラ、フィリップ4世、フランシスコ・ザビエルなどがいる
アサシン教団は、テンプル騎士団の企みに気づき、人々の自由を求めて抗う集団で、主人公側
遺物の眠る神殿を騎士団(当時は"結社"という名)に襲われ家族を殺された男が、騎士団と戦うため前身団体「隠れし者」を結成
アサシン教団に与する歴史上の人物には、ブルータス、フィリップ4世、徳川家康などがいる
6世紀、アサシン教団の鑑真は、遺物を隠し守るために唐招提寺を建設
遺物の一つである「エデンの剣」は強力な力を持ち、ペルセウス、チンギス・ハーン、ジャンヌ・ダルクなどを主人とした後に、武田信玄の手に渡る
遺物を求めた騎士団のフランシスコ・ザビエルは、信玄の孫である望月千代女を取り込み信玄に与する
信玄は遺物の力で天下統一を目指すも、アサシンの服部半蔵に暗殺される
本能寺の変にて、アサシンのヤマウチ・タカは信長を暗殺、遺物を回収
豊臣秀吉は徳川家康殺害をもくろみ、その忠臣である服部半蔵を風魔小太郎に暗殺させる
関ヶ原の戦いでアサシンは東軍を支援し井伊直弼の陣に加わり、島左近を暗殺
アルターエゴ社という多国籍企業を隠れ蓑にするようになった騎士団は、1945年にアメリカで暗躍し、日本に原爆投下をさせた
2013年、アサシン教団日本支部はヤクザの陰摩羅鬼(オンモラキ)組に襲撃され、返り討ちにして陰摩羅鬼組を乗っ取り教団の表向きの顔にした
ヤクザもまた、闇に紛れて光に奉仕し民衆を守る集団であるとした
陰摩羅鬼組の構成員であるタカクラ・キヨシは最初は反発していたが、アサシンのモチヅキ・ケンイチとモチヅキ・サエコに教えを受けて彼もまたアサシンとして生きる道を選ぶ
弥助が注目されすぎてW主人公の忍者ナオエが注目されていないが、今までのアサクリ日本史で大活躍していたヤマウチ・タカってナオエじゃね?
ナオエは女性差別の風潮が強い中で、男の名前を使って男のふりをして2つの名前を持っているのでは?
アサクリシリーズは各国を舞台にし、主人公の名前は各国語で「鷹」を意味するものになっている
タカのビジュアルは発表されており、まあ普通に見れば男だし、発表当初は男として描いてたと思うが、ギリ実は女設定いける範囲
天狗のお面つけてる絵とかは、性別偽装に便利そうなアイテムだし
弥助=タカは流石に難しそうだが、その線もなくはない、でもナオエ=タカだと思う
弥助は奴隷の立場を逃れて信長の家臣になったつもりで信長に心酔するも、結局は見世物かつ慰み者の性奴隷にすぎず、ナオエが自由を説き真に解放させるのではないか
ただの暇つぶしにお前らすぐレポートだのアンケートだのうっさいからもうChatGPTに聞くわ。
戦国時代は日本の歴史上で最も激動した時期の一つで、多くの武将が戦闘や裏切り、病気などで悲惨な最期を遂げました。しかし、幸せというのは個人の価値観や状況によって大きく異なるため、「幸せな死に方」と定義するのは難しいです。それにもかかわらず、比較的平和な時期に自然死を迎えたり、自身の志を成し遂げた後に亡くなった武将もいました。
1. 徳川家康 - 戦国時代の最終局面を制し、江戸幕府を開いた家康は、1616年に75歳で自然死しました。彼の死により、彼が築いた体制はさらに固まり、260年以上続く平和な時代が始まりました。彼の生涯と成就を考えると、彼が満足する形でこの世を去ったと考えることもできます。
2. 豊臣秀吉 - 秀吉は、天下統一をほぼ成し遂げた後、1598年に病死しました。彼の死は自然死であり、彼自身が築き上げた豊臣政権の頂点にいた時でした。しかし、彼の死後、彼の築いた体制は徐々に崩れ、関ヶ原の戦いによって最終的には滅びました。
これらの武将が「幸せ」な死に方をしたかどうかは、彼らの遺した言葉や行動、後世の評価などから推測することしかできません。また、歴史的な文脈や個々の価値観によっても見解は変わり得るため、一概には言い切れません。
うーん、いまいち孫市。
・第1部の1/3ぐらいまで
・多分本編後のエピローグ
・上の奴の続編
・多分第1.5部の本編
・第2部
これ全部が同じゲーム内でしっちゃかめっちゃかに同時並行で進んでる。
いやまあ第1部終わってから始めた俺の時期が悪いのかもだけどさあ……もうなんなんこの順番。
そろそろいいだろと思って進めたイベントで本編終了後のネタバレ食らうとは思わなかったよ!
ソシャゲでメインストーリーを楽しみたいなら本編クリアするまでサブコンテンツはノータッチだよね。
新しいオープンワールドが解放されましたって言われて行ったら本編終了後っぽいヤベー状況になってるんだけど?
マジで何?
たとえば俺が、崩壊学園と崩壊3rdと原神とスターレイルを同時にやっててネタバレ食らうとかなら分かるぜ?
でもそうじゃないから。
マジで謎が謎を呼ぶけど結末だけを知ってるよ。
関ヶ原の戦いも知らないのに、徳川家康が最後に勝つことだけを知りながら、漠然と「あーこれ信長そのうち死ぬな―。やっぱ合戦なのかなー」と思いながら大河ドラマ見ているような状態だよ!
どういう時空のねじれ方?
たとえるなら、キン肉マンII世から入ってキン肉マンの終わりを知っているつもりで読み進めてたのに、途中から絵柄が変わってⅡ世では全く聞かされていなかった敵が登場して完全に混乱してるような状態?
これ正しいプレイ順は何?
こういうのを読むと何となく石田三成は忠義の人というより、超可哀想な中間管理職って感じがする
もし家康が重家を大阪に送らず自分の手元に置いていたら東軍についてたifもあったりしたのかな
上の説もどこまで本当がわからないけど
https://togetter.com/li/2178921
これの影響で律令国名調べてたけど
時代 | 西暦 | 地名の変遷 | 備考 |
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飛鳥時代 | 704年? | 律令国として尾張国が誕生。愛知郡(現在の名古屋市の大部分+α)を含む。 | ※愛智郡などの表記も |
平安時代 | 尾張国愛知郡に那古野(なごや) という荘園が存在したっぽい | ||
戦国時代 | 1530~40頃 | 駿府今川氏が建てた平城を織田信秀が奪って那古野城(なごやじょう)と命名。※諸説あり | 清州城へ移るまで信長が拠点にしていた。※30年くらいで廃城 |
江戸時代 | 1600年 | 関ヶ原の戦いで家康の天下統一後、尾張国全域+αを清洲藩として家康の四男が領主に。 | 四男死後は家康の九男が受け継ぐ |
1609年 | 家康の命により、那古野城跡地に名古屋城を築城。 | 清州城は素材にし、清洲城下町はそのまま名古屋城下町へ移転した。 | |
1610年 | 清洲藩→尾張藩に改名し、家康の九男が御三家筆頭である尾張徳川家の初代に。 | ちな名古屋城が中心だったため名古屋藩とも呼ばれてたもよう。 | |
明治時代 | 1871年 | 廃藩置県で、尾張藩(名古屋藩)→名古屋県に。 | |
1872年 | 府県統合で、額田県(≒三河国)を吸収合併。その後 愛知県に改名。 | ||
1889年 | 市制施行で、名古屋市誕生。 | 現在へ至る。 |
つまり尾張の愛知に那古野があってそこに那古野城ができて潰れて後に名古屋城ができて清須→尾張(名古屋)だったのが廃藩置県で名古屋になって統合して愛知となり、名古屋ができた。
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あとあんまり関係なさそうだが、現名古屋市内で那古野(なごや)城跡とはちょっと違う場所に那古野(なごの)という地名があったりする。
慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)からの
これを見ると情けもある政務もできる名将だったみたいすね
関ヶ原の戦いで領土を失った大名の内、数少ない大名として返り咲いた武将であった。さらに、それらの中でも最終的に10万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみであり、そのことは特筆される。
長重は築城技術の高さを評価されていた。彼が築城した棚倉城、白河小峰城はいずれも城としての質が高い[9]。棚倉城は西側が急峻な崖であり、守りに適した立地条件を持っていた[10]。白河小峰城は総石垣造りの城で、これは東北地方では数少ない造りの城であった[9]。こうした築城技術は幕府側からも評価され、陸奥の入り口である要衝に長重は領地を与えられたと指摘される[9]。
死去に際して子息、家臣に「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め、しかし、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくない」と遺言を残している。河合敦はこの遺言にも長重の堅実で実直な人柄が現れていると評している[11]。
浅井畷の戦いののち、講和のために前田氏から人質として前田利常が遣わされた。利常は前田利家の子ではあるが、他の兄弟と違い身分の低い側室の下に産まれた庶子であった。小松城に抑留されていた人質の利常に、長重が自ら梨を剥き与えた事があった[12]。利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。
戦国の割合が半分に加えて戦国関係ない時代でも顔を出してくるため
年 | タイトル | 時代 | 徳川家康登場 | 備考 |
---|---|---|---|---|
2014 | 軍師官兵衛 | 戦国 | ○ | 本能寺の変から関ヶ原の戦いまで |
2015 | 花燃ゆ | 幕末〜明治? | × | 最後まで見ていないので確認はしていない |
2016 | 真田丸 | 戦国 | ○ | 本能寺の変から大阪の陣まで |
2017 | おんな城主 直虎 | 戦国 | ○ | 少年期から本能寺の変まで |
2018 | 西郷どん | 幕末〜明治 | × | 最後まで見ていないので確認はしていない |
2019 | いだてん 〜東京オリムピック噺〜 | 明治〜昭和 | × | 後半の主人公が2年前の徳川家康役 |
2020 | 麒麟がくる | 戦国 | ○ | 少年期から本能寺の変まで |
2021 | 青天を衝け | 幕末〜昭和 | ○ | 「こんばんは、徳川家康です」 |
2022 | 鎌倉殿の13人 | 鎌倉 | ○ | 最終回で次回作への引き継ぎのような形 |
2023 | どうする家康 | 戦国 | ○ | 主人公 |
3話までの話は
第1話 ビデオテープ規格:VHS vs ベータ(おまけで コンパクトカセット vs エルカセット)
と二大巨頭の激突において、猫が敗者側に賭ける(そしてしくじる)という路線だった。
しくじり猫がバーテンダーになり、カクテルに関するデタラメなエピソードを披露し、
更には客にとって必要なこととは真逆の花言葉の嘘を話すしくじりをしましたという構成になって、ちょっと困惑。
煽り文も「少し趣向を変えまして」と書いてあったので、箸休め回かと一旦は納得したのだが・・・
第5話は幕末~開国の時代において、とある料理屋が魚料理だけを続けていくか、新たに肉料理をだすかの選択で猫がしくじるという話。
一見、魚 vs 肉 という二項対立の形にはなっているのだが、作中にも述べられているようにそもそも日本では長い間肉食禁止令が出されていたので、魚が負けるというよりは欧米の肉食文化を取り入れるか否かという変化の問題で、最初の3話とは毛色が大分違う。この話の中で魚は負けたが魚食文化の敗退ではなく、現に我々は肉も魚も食べる文化を今でも持ってる。
このように、4話5話で元ネタであるシュレディンガーの猫の「生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさっている状態から、観測によってどちらかの状態に収縮する(そして本作の猫は必ずしくじる)」というコンセプトから外れてしまっている。
家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の結束は固く、微塵も互いを疑うことは無かった。この流れで義弘を17代目当主という見方が出来たとされるが、義弘は「予、辱くも義久公の舎弟となりて(『惟新公御自記』)」と義久を敬うこと終生変わらなかった。しかし、『樺山紹劔自記』では「弟・家久の戦功を妬む様は総大将に相応しい振る舞いではない」と人間くさい一面も紹介されている。
敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設している。
祖父・島津忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」と評されるほどの猛将だった。
許三官仕込みの医術や茶の湯、学問にも秀でた才能を持つ文化人でもあった。また、家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず13名の殉死者も出すに至っている。
義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていた。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかった[11]。
義弘は家臣らに子が生まれ、生後30余日を過ぎると父母共々館に招き入れて、その子を自身の膝に抱くと「子は宝なり」とその誕生を祝した[11]。また元服した者の初御目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父に劣らない働きをするだろう」と言い、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄と言えるものはなかったが、お主は父に勝るように見えるから手柄をたてるのだぞ」と一人一人に声を掛けて励ましている[13]。
三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場として吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用していたが、自身のみならず家臣らにも利用させた。
九州平定後、義弘が秀吉から拝領した播磨国の領地を管理する際、現地で井上惣兵衛尉茂一という人物が検地などで義弘に協力した。そのお礼として、義弘は井上に島津姓と家紋を授けた。この井上が、島津製作所の創始者・初代・島津源蔵の祖先であると島津製作所の歴史に記されている[14]。
秀吉への降伏の際に島津家は本拠である薩摩一国以外の領土を全て奪われることを覚悟していたが、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより大隅一国と日向の一部が島津領として残った。この事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があったため関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって創作されたものであるともいわれる。
愛妻家であり、家庭を大事にする人情味溢れる性格だったといわれている。朝鮮在陣中に妻に送った手紙の中に、「3年も朝鮮の陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供たちのためを思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供たちはどうなるだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子供がいるのだから、私が死んでも子供たちのためにも強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい」という内容のものがあり、義弘の家族を心から愛する人となりが窺える。
武勇と実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬されていたようである。その為、関ヶ原の撤退戦においても松平忠吉や井伊直政ら徳川譜代のみが追撃を行い直政自身が深手を負う結果に繋がった。
若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎討ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。
慶長4年(1599年)、剃髪・入道し惟新斎と号したがこれは祖父・忠良の号・日新斎にあやかったものである。
木崎原の戦いにおいて伊東祐信、柚木崎正家との戦いの折に愛馬が膝を突き曲げて敵の攻撃をかわし義弘の命を救っている。この馬は後に「膝突栗毛(膝跪騂)」と呼ばれ義弘の主要な合戦にのみ従軍するようになり、人間の年齢にして83歳まで生きた。姶良市に墓と墓碑が建てられている。
慶長の役の際、義弘は正確な時を知るために7匹の猫を戦場に連れて行ったという逸話がある。猫の目の明るい所では細くなり、暗い所では丸くなる特性から、時刻を読みとったとされ7匹のうち2匹が日本に生還した。この2匹を祀った神社が鹿児島の仙厳園にある「猫神神社」である[15]。
晩年は体の衰えが顕著になり、1人で立ち歩き、食事を摂ることも不可能になっていた。それを見かねた家臣が昼食を摂る際、「殿、戦でございます」と告げると城外で兵たちの鬨の声が聞こえてきた。それを聴いた義弘の目は大きく見開き、1人で普段からは考えられないほどの量の食事を平らげたという。
関ヶ原で敵中突破をした後、生き残った家臣らは義弘に薩摩への早期帰還を勧めた。しかし義弘は大坂で人質になっている妻子らを救出するため、「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ、妻子の救出に向かったという(『惟新公関原御合戦記』)。
義弘の肝の太さを示す逸話がある。義弘の小姓らが主君の不在をいいことに囲炉裏端で火箸を火の中で焼いて遊んでいた。そこに義弘がやってきたので、小姓らは慌てて火箸を灰の中に取り落とした。それを見て義弘は素手で囲炉裏に落ちていた火箸を拾い、顔色一つ変えず静かに灰の中に突き立てた。後で家臣が「大丈夫でございますか?」と尋ねると「大丈夫だ。まったく小姓どもは悪さばかりして手を焼かせおる」と笑って返した。家臣が義弘の手を見ると、その掌が真っ赤に焼きぶくれていたという(『武功雑記』)。なお、同じ内容の逸話が加藤嘉明にも存在するため、島津家か加藤家のどちらかが模倣した可能性が高い。
戦陣医術に詳しく、『上井覚兼日記』によると天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津忠長と上井覚兼に対して金瘡医術の伝授を行い、秘伝の医書を与えている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである[16]。
茶の湯を千利休、古田織部に学んだ茶人でもあり、茶書『惟新様より利休え御尋之条書』や織部から薩摩焼の茶入の指導を受けた書状が残る。
小田原征伐において、秀吉が沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次が舟橋を架けた。しかし秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り、舟橋の安全性を証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。
同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康の居城の駿府城に宿泊する予定であった。しかし同じく三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉は長吉の言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。
秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下(秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉は激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。
石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。
甲州八珍果を定め、甲斐国で果物栽培を奨励したという説があるが、正確なところは明らかになっていない[8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB
名臣だなあ
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
着古した羽織を着ている豊国をみて、家康は「物持ちが良いと言っても限度がある」と窘めたところ、「これは足利義晴様にいただいたいものでございます」と答えた。これを聞いた家康は「豊国は古い恩義に背かない律義者だ」と賞した。
ある時、「粗忽者と言うのは朽木卜斎(牧斎)殿のようなお方の事を言うのでしょうな」と徳川家康に語ると、家康は「なるほど、卜斎が粗忽者であるというのは皆が知ることであるが、御身(豊国)の粗忽さは卜斎以上であると私は思う」と答えた。周囲の者がこれを訝しむと、家康は「卜斎は粗忽者であるが、先祖伝来の朽木谷を今でも保っている。それに比べては御身はどうか。昔から山名家といえば六十余州の内の十一州を治めた大族で、六分の一殿と称えられた家である。それが今では所領を全く失い、こうして寄寓の身となっている。これはまさしく天下の粗忽と言えるもので、これを超える粗忽は無いと思う」と語った。これに対して豊国はさして恥じ入った様子もなく「全く仰る通りです。私も六分の一殿とまでの贅沢は言いませんから、せめて百分の一殿ぐらいには呼ばれたいものです」と答え、これには流石の家康も苦笑するしかなかったという。
天正年間に、徳川家康とともに斯波義銀(津川三松)の屋敷を訪問した際、豊国の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(豊国)は新田家の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている。家康も新田氏の分家を自称していた。
関ヶ原の戦いの後、豊国はかつて自らを追放した武田高信の遺児・助信を捜し出して召抱え、200石を与えた。以後、助信の子孫は代々山名氏に仕えた。
征夷大将軍に就任した家康に謁見した際、室町幕府第10代将軍・足利義稙から山名氏当主に贈られた羽織を着用して賞された。
有職故実や和歌・連歌・茶湯・将棋などの文化、教養面に精通していた。室町時代の名族山名氏一門の生き残りとして、戦国時代から豊臣時代を巧みに生き残り自らの子孫を江戸幕府の上級旗本として存続させた。