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2021-05-09

コロナウイルス社会的契約の弱さを白日の元に晒し

(2020/04/04 FT)

Covid-19のパンデミックに明るい兆しがあるとすれば、それは偏った社会に一体感をもたらしたことです。しかし、ウイルスやその対策としての経済封鎖は、既存の不平等に光を当て、さらには新たな不平等を生み出すことにもなります病気を克服するだけでなく、すべての国が間もなく直面する大きな試練は、現在共通目的意識危機後の社会形成するかどうかです。西洋指導者たちが大恐慌第二次世界大戦後に学んだように、集団犠牲を求めるためには、すべての人に利益をもたらす社会契約を提供しなければなりません。

今日危機は、多くの豊かな社会がこの理想にどれほど及ばないかを明らかにしていますパンデミックを食い止めるための闘いが、医療システムの準備不足を露呈したのと同様に、政府が大量の破産を食い止め、大量の失業対処しようと必死になっている中で、多くの国の経済のもろさが露呈しています政府は、大量の倒産や大量の失業回避するために奔走しています国民総動員の呼びかけにもかかわらず、私たちは実際には全員一緒にいるわけではありません。

経済の締め付けは、すでに最悪の状況にある人々に最大の犠牲を強いるものです。一夜にして、ホスピタリティレジャー、およびその関連部門で何百万もの雇用生活が失われた一方で、高給取りの知識労働者は、しばしば自宅で仕事をするという迷惑な状況に置かれていますさらに悪いことに、まだ働ける低賃金仕事に就いている人たちは、介護士医療サポートワーカーだけでなく、倉庫作業員配達員、清掃員など、命がけで働いていることが多いのです。

政府による経済への並外れた予算支援は、必要ではあるものの、ある意味では問題悪化させることになります。不規則不安定労働市場の出現を許してきた国では、そのような不安定雇用形態の労働者金融支援提供することが特に難しくなっています。一方、中央銀行による大幅な金融緩和は、資産家を助けます。その背後では、資金不足の公共サービスが、危機管理政策適用という負担の下で軋んでいます

ウイルスとの戦いでは、一部の人利益を得て、他の人が犠牲になっているのです。Covid-19の犠牲者は、圧倒的に高齢者です。しかし、ロックダウンの最大の被害者は、若くて活動的な人々であり、彼らは教育を中断し、貴重な収入放棄することを求められています犠牲はやむを得ないが、国家努力の中で最も重い負担を負っている人々に、どのようにして返還するかを、すべての社会が示さなければなりません。

過去40年間の一般的政策方向性を覆すような、抜本的な改革検討する必要があります政府は、経済においてより積極的役割を果たさなければなりません。政府は、公共サービス負債ではなく投資とみなし、労働市場不安定さを軽減する方法模索しなければいけません。再分配が再び議題となり、高齢者富裕層特権問題となるでしょう。ベーシックインカム富裕層向けの税金など、これまでは風変わりだと思われていた政策検討されなければなりません。

ロックダウン中のビジネス収入を維持するために政府がとっている前例のない措置は、正しく、欧米諸国が70年間経験したことのないような戦時中経済比較されます。この例えは、さら推し進められていきます

戦争に勝った指導者たちは、勝利を待たずにその後の計画を立てました。フランクリン・D・ルーズベルトウィンストン・チャーチルは、1941年に「大西洋憲章」を発表し、国際連合方向性を示しました。イギリスは、1942年普遍的福祉国家を目指す「ベヴァリッジ報告」を発表しました。1944年のブレトウッズ会議では、戦後金融システムが構築されました。これと同じような先見性が今も求められています。真の指導者たちは、公衆衛生上の戦争を超えて、平和を勝ち取るために今すぐ動員するでしょう。

引用元

https://twitter.com/HelenCSullivan/status/1246600170738868225

2021-03-21

差別された!」と喚くオタクくんの為に、犯罪史の歴史修正して被差別民にしてあげようと思う(笑) どれか選べ

1995年8月5日 兜町オタクリンチ事件

 無害な16歳エバ好き学生意識高くリア充なイケイケの商社マングループ

 ヘイトに起因する集団暴行受け、液状化するまで殴られたという事件

 犯人コネを使って事件隠蔽し、実は世間オタクヘイトクライムされたことを知らない

 

1944年 オタク石油窃盗弾圧事件

 戦時中、貴重な石油フィギュアに使っているという風評からオタクを狙った一連のリンチ事件

 非国民烙印を逃れる為に、愛国的な作品萌えキャラを作ったのは有名な話である

 

2016年年 オタク学生性器切り離し事件

 無害で無垢ちょっと性欲ムクムクなオタク学生が、仕事帰りの女性強姦しようと襲う

 女性オタク性器を、持っていたハサミで切り離し、難を逃れたという事件

 オタク象徴ともいえる男性器が無残にどぶに捨てられたこから

 「オタクタマタマ重要だ」というスローガン提唱された重大事である

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛

2021-02-12

森 喜朗に寄り添ってみる

以下はWikipediaコピペが大半である

森の年表

1937年生まれる。

小学1年生の1944年に、母が亡くなる。

小学2年生の1945年に、第二次世界大戦終結する。

中学1年生の1950年に、北朝鮮韓国朝鮮戦争を起こす。

高校1年生の1953年に、冷蔵庫洗濯機トースターなどがようやく登場する。

高校2年生の1954年に、ゴジラ映画一作目が上映される。

21歳の1958年に、東京タワーが完成する。

27歳の1964年に、東京オリンピックが開催される。

32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙立候補する。

以下はWikipediaから引用である

選挙直前一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。

らしい。時代である

40歳1977年に、内閣官房副長官就任する。

46歳の1983年に、文部大臣となる。

51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。

57歳の1994年に、日本標準的な定年が60歳となる。

58歳の1995年に、テレホーダイが始まる。

61歳の1998年に、Windows98誕生する。

63歳の2000年に、当時の小渕首相脳梗塞で倒れる。その3日後に第一森内閣発足。日本国の長となる。

以下は、Wikipediaから引用である

前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという

64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。

2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。

69歳の2006年に、Twitter誕生する。

73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。

75歳の2012年に、議員引退する。

76歳の2013年に、アルゼンチンブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。

77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長就任する。

82歳の2019年に、#KuTooが誕生する。

84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。

寄り添ってみる

森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である

森が小学2年生のとき第二次世界大戦終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。

そのような教育を通して、森は育ったのだ。

日本インターネット誕生し、私達がWindows98テレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。

森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来性格とみるか?育った時代教育環境も影響しているはずだろう。

私達の感覚では、「時代に合わせて感覚アップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。

特別に森がというより、一般論としての森の世代であるTwitter誕生たころには70手前の世代である

自分母親父親職場上司に「感覚アップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代人間である学生時代戦後経験した世代である

PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代人間は、感覚アップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚アップデートすればいいのかわからないのではないのか。

この世代人達は恐れているのではないか自分の古くさった感覚アップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか

哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である

森内閣時代、私は中学生であった。胡散臭い爺という印象であった。私と同世代で森が好きなやつは少ないのではないか

しかしこうして年表を並べてみたら、お疲れ様でしたとしか言いようがない。

2020-12-26

RRDいわく1944年10月25日日本戦時下でなかった

RRD と言えばはてな左派界隈を代表する人物の一人だが、どうも彼が1944年10月25日日本戦時下でなかったと主張しているようなのだ

 

発端は以下の記事についた彼のブックマークコメントだ。

記事の内容はツイッター朝日新聞社アカウントが紹介した戦時中女子挺身隊が出勤をする様子が合成により人数を水増しされているというものだ。

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo">www.buzzfeed.com

 これ自体問題はないしかし、RRD 氏が奇妙な事を言いだしたのだ。

朝日新聞戦時中写真めぐり謝罪。「工場に出勤する女子挺身隊」は合成、Twitter掲載

ネタウヨ的には朝日新聞捏造したことになってるのね。さすがトランプ信者根城だけのことはある。そりゃ話も通じないわ。

https://b.hatena.ne.jp/RRD/20201222#bookmark-4695948251994769250

 

とのことだが、

 

発表によると、写真は、戦時中写真週刊誌「アサヒグラフ」の1944年10月25日号および、朝日歴史写真ライブラリー戦争庶民 1940~49」(朝日新聞社1995年)に掲載されていたという。

 

 

肝心の記事には1944年10月25日アサヒグラフ刊行されたと明らかに記述されているのだ。

さて、1944年10月25日はどんな日かというと、レイテ沖海戦が終わりマッカーサーレイテ島に司令部を設置した日なのだ

これはもちろん言う必要もない事なのだが、日本降伏したのは1945年だ。ポツダム宣言受諾日なのかミズーリ号上での調印なのかは議論余地はあるだろう。しか1944年10月25日太平洋戦争が終わっていたと言う歴史学者はいないのではいか?

よしんばいたとしてもかなり異端の説だろう。論文レベルではあるのかもしれないが寡聞にして存じ上げないので、id:RRD氏にご教示いただきたい。

 

また、太平洋戦争が始まった日も1941年これも異論はないだろう。日中戦争考慮してもそれらは太平洋戦争よりも早く始まっていた。

1941年から1944年日本戦時下というのも自然と導かれる。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo

ついでにいうとこの記事の他のコメントを読んでも戦時中朝日新聞社によって刊行されたと言う事実否定したり疑問を挟む人は彼以外に誰もいないのだ。

トップコメント朝日新聞社プロパガンダに協力した貴重な史料という内容である

彼とスターをつけた人間のみが奇妙な認識でいるのだ。

 

なぜ、こんな間違いを犯すのか?

1.内容が理解できない

2.終戦の日がわかっていなくて戦後朝日新聞社軍部プロパガンダをまとめた物と勘違いした

 

1.は流石にないと信じたい。2.も大概なので2.の間違いを犯したのだろうと思う。

 

俺ならこんな間違いをしたら恥ずかしくてコメントを消すだろう。

2020-12-09

anond:20201206114053

・各時代競走馬比較するための時代区分(私案)

1 1905年1931年 公認競馬馬券禁止連合二哩創設~旧競馬法制定~東京優駿日本ダービー)創設以前

  代表的競走馬コイワヰ、バンザイナスノ、ハクショウ、連合二哩の勝馬

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2 1932年1944年 東京優駿日本ダービー)創設~競馬開催の停止

  代表的競走馬:ワカタカその他東京優駿勝馬セントライトクリフジ

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3 1946年1963年 戦後競馬再開~シンザン登場以前

  代表的競走馬トキノミノルメイヂヒカリハクチカラ

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4 1964年1980年 シンザン三冠ジャパンカップ創設以前

  代表的競走馬シンザンスピードシンボリトウメイハイセイコー、TTG

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5 1980年現在   競馬の国際化(ジャパンカップ創設・グレード制導入等)

  代表的競走馬ミスターシービー以降の三冠馬、オグリキャップ、いわゆる「最強世代」、ウオッカ

  ※この時代については、更に細分化されるべきかもしれない。

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2020-11-28

anond:20201127165849

(3歳馬による)クラシック三冠馬牝馬三冠馬について

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クラシックとは、皐月賞東京優駿日本ダービー)・菊花賞桜花賞優駿牝馬オークス)の5つのレースを指す。

クラシックレース定義・成立等については省略。

一般的に、皐月賞東京優駿日本ダービー)・菊花賞を捉えてクラシック三冠馬と言うが、クラシック三冠馬牡馬に限るものではない。牝馬がこれらのレースを達成しても正則のクラシック三冠馬となる(達成馬なし)。また、牝馬については皐月賞東京優駿日本ダービー)・菊花賞桜花賞優駿牝馬オークス)の内、桜花賞優駿牝馬菊花賞を勝てば、牝馬三冠馬(かつ牝馬クラシック三冠馬)、その他の組み合わせの三つを勝てばクラシック三冠馬(変則)、二つを勝てばクラシック二冠馬(変則)と見なして良い。

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牝馬三冠は、1970年ビクトリアカップ制定される以前は、桜花賞優駿牝馬菊花賞牝馬三冠であったと見なして良いだろう(達成馬なし)。

例えば、1964年カネケヤキ牝馬二冠馬)が菊花賞に出走している(結果は5着。なお、このレースで、シンザン戦後初の三冠を達成)。

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変則のクラシック三冠馬1943年クリフジ東京優駿日本ダービー)・優駿牝馬オークス)・菊花賞。無敗で達成)がいる。

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東京優駿6/6→阪神優駿牝馬オークス10/3→京都農林省賞典四歳呼馬11/14(京都農賞。後の菊花賞)というローテーションで達成(戦前競馬春秋に開催)。また、クリフジは仕上がりが遅く、4月横浜農林省賞典四歳呼馬(後の皐月賞)には間に合わなかったもの(デビューが早く、出走できていれば勝ったと思われる)。

翌年1944年以降は太平洋戦争大東亜戦争)の激化により、競馬平時通りの開催ができなくなったため、三冠馬の発生するチャンスは戦後1947年まで無くなる。

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変則のクラシック二冠馬は、1947年トキツカゼ皐月賞(当時・農林省賞典)・優駿牝馬。同年の東京優駿2着)がいる。

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2020-10-10

ホロコースト否認論への反論には正確な知識必要

anond:20201008002119

 

私は元増田なのですが、アウシュヴィッツ火葬場の謎の回答を書いたら、結構それに対する異論もあったように思います。私は専門家でもないし確かめたわけでもないので、理屈については不正確かもしれませんが、概ねは否認論者の主張を参考にして否認論の主張を理屈として述べただけでした。マットーニョ先生は同時代養豚場火葬論文まで持ち出して批判してきます。これは的外れの事例なので比較になんないのですけど、でも否認論者が如何に必死かということがわかるかと思います

 

否認論への反論は正確な知識必要、とは?

正確な知識必要と、タイトルで断っているのは、決して否認論者を舐めてはいけない、ということです。例えば、火葬炉の回答についたブコメで「絶滅収容所以外では死体を埋めていた」という話をされた方がいますが、そんなの当然知っているのです。アインザッツグルペンの話かと思いますが、実はこのアインザッツグルペンはたしか死体を埋めていましたが、その後に掘り返して焼却処分にしたのです。焼却方法は現地で野外火葬したのですが、鉄道レールを利用した即席焼却場を作っていました。この作業にあたったのが1005アクションと呼ばれる部隊です。パウロ・ブローベルという親衛隊員(元アインザッツグルペンの一人)が指揮を取って遺体焼却作戦に当たり、アウシュヴィッツユダヤ人囚人などから特別作業班を作って現場を連れ回っていたのです。当然このユダヤ人はいらなくなったら現場銃殺刑です。

  

但し、全部焼却処理できたというわけではなさそうです。近年でもマンション建設現場からアインザッツグルペンの埋葬遺体発見されています。ちなみに、ホロ否認派はこのアインザッツグルペン虐殺は、「パルチザンだったからいいのだ」と主張します。8割以上ユダヤ人なんすけどね・・・。ともかくも、1005アクション存在し、ナチス親衛隊はとにかく徹底的に証拠隠滅をしようとしたのは間違いのない事実なのです。ところが、否認論者はこの1005すら否定してきます

http://iroiro.alualu.jp/sekaisi/sofia/sofia_s36-1.html

古いサイトですが、元ネタゲルマー・ルドルフのようです。このルドルフもマットーニョと並ぶ、否認論量産人ですが、ルドルフはマックスプランク研究所で働いておりましたが、首になってしまます。そしてホロ否認に手を出したがために、刑法犯になってしまい逃亡します。結局イギリス定住だそうですが、最近では公然わいせつ罪で逮捕されています。ルドル先生知名度が高いため世界ニュースになっています。詳しくは英語Wikipediaを見ましょう。ルドルフくんは真面目に働いていたら博士号も取れたはずなのに博士号持ってないんです。なのに否認派は「有能な化学者」と思ってるそうです。あの噴飯ものロイターレポートを称賛するというレベルなのに・・・ 

Germar Rudolf - Wikipedia

  

かのロイターレポートを書いたフレッド・A・ロイヒター・ジュニア詐欺師でしたし、ゲルマー・ルドルフも上記の通りの人物ですし、否認論本濫造人(軽く100冊!を超えます)カルロ・マットーニョは素性がよくわかりませんが、どうやらイタリア国内のどこかの教師職のようですが、ともかくろくな人物はいませんけど、奴らも生活かかってますので必死です(笑)。多分歴史見直し研究所(IHR)などから金が出ているのだろうと邪推しています。でも、十年ほど前にIHRの会長は、ホロ否認戦略を見限ったという情報も得ています。ホロ否認いくらやっても世間に受け入れられないので、もう直球で反ユダヤ主義を訴えようではないかと言っているそうです。

 

他にも色んな具体的否認論があります

例えば、青酸ガスの元となるチクロンBペレットガス室への投入口など存在しない!というものがあります。これ、実は結構厄介な問題なのです。反否認論側としては、くっそムカつく否認論の一つです。

何故ならば、1)アウシュヴィッツ最初のガス処刑室(クレマトリウム1)の天井には3つか4つほどのちクロン投下孔があけてあったが、このクレマトリウム1は1944年防空壕に改修されてしまっているのです。1941年9月末〜1942年末くらいまでしか運用しておらず、もっぱら基幹収容所ソ連兵などの処刑ユダヤ人も含みますが)に使ってただけのガス室だったのです。で、防空壕にしたとき天井を塞いでしまます。が、戦後ポーランド収容所博物館にしようということで、このガス室再現工事を行ってもっかい屋根の穴を開け直すのです。ところが、この再建工事、内部工事を含め杜撰工事だったので、ガス室当時を正確には再現しておらず、否認論者のフォーリソンらに見抜かれてしまます博物館の案内も杜撰で「当時のままだ」と言っていたらしいのです。そして、このクレマトリウム1のガス室捏造疑惑が発生するのです。

ね? 厄介な話でしょう? そして、2)ビルケナウの方のクレマトリウムはどうだったかというとこれ、親衛隊ダイナマイトで爆破し原型をそもそも留めていません。クレマⅡとⅢにはクレマⅠ同様、天井チクロペレット投下孔があったのですが、現在瓦礫しかなく、よくわかんないのです。そして否認派は、1980年代頃に公開されたのであろう、1944年代に撮影された航空写真連合軍ドイツ軍のもの)を利用し、ビルケナウのガス室には「チクロン投下孔などない!」と言い出します。でも、実は当時の航空写真解像度が低くてよくわからないのです。また、そもそも論として、親衛隊が残した建設図面には一切このチクロン投下孔が記載されていないのです。

 

そして、映画否定肯定』でお馴染みのデヴィッド・アーヴィングもこの実際の裁判でこの穴のことを裁判中に持ち出すのです。一日中肯定派側の学者とこの件で裁判中に議論応酬をしていたこともあったらしい。で、肯定側のリップシュタットを応援する研究者たちが「じゃぁ、この際きっちり調べてきてやろう!」と現地調査に乗り出すのです。結局裁判にはこれは不要でしたが、ビルケナウ・クレマトリウムⅡの跡地の瓦礫から天井チクロペレット投下孔の痕跡を4箇所中3箇所見つけ出したのです。クレマトリウムⅠの投下孔も現在の穴の位置で間違いないと、写真解析により断定しました。

 

これに対し否認派は、クレマトリウムⅡの残骸にある穴は「戦後ポーランドが内部を調べるためにあけた穴であり、当時のものではねぇんだよ、バーカ」とこれまた適当反論を抜かしやがるわけですが、どう考えてもその穴は後で開けたものではないと既に証明しているので、言いがかりに過ぎないものでした。こちらに日本語翻訳解説があります

ホロコースト否認論を否認するテスト-16「毒ガス落とす孔がないんですが」の件|蜻蛉|note

 

ま、こんな感じで、重箱の隅突きじゃないですが、あらゆる論点ホロコーストなどなかった・ガス室などなかったという主張を辞めないのが否認派です。実態をご理解いただけたらなぁと思います

 

2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

8月15日に記しておきたい怖い祖父の話

大正まれ祖父は、坊主頭メガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子であるから聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。

対照的祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。

祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父遺影インテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真遺影の人でしかなかった。

そんな祖父遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父政府が贈ったものだ。戦後日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。

去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父戦後抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎山中にある村で、家業農家という典型的な家だった。時代時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。

その頃から興味が沸いていたんだと思う。

遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。

私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日実家終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。

兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要ものは、対象者が故人の場合申請者との繋がりがわかるための除籍謄本戸籍謄本といった、役所簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。

まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言事実のみであるのだから

待望の兵籍簿は一か月かからずに送られてきた。

当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。

読み解いてまず驚いたのが、祖父1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州国境警備をしていたらしい。大きな作戦戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。

次に驚いたのは1944年2月祖父除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父満州終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父人生はガラリと色を変えた。

千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。

千島列島といえば、日本降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。

お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島ソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前漠然としているだけで、よくわかっていなかった。

どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。

祖父のいた部隊結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。

得撫島はもとより、千島列島自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空から米軍攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれ沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。

得撫島ラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずはいられない。

兵籍簿には、祖父召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。

昭和20年

8月15日終戦

9月29日ソ連により武装解除

10月19日ソ連により得撫島出発

10月24日ソ連ポートワニー上陸以降土工作業従事

昭和23年

7月22日舞鶴上陸

古ぼけた紙は語っていた。戦争8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ祖父戦後も長らく闘い続けていた。自分血縁である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父存在への深みが増した。

シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。

祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。

ここでは政治的な話はしない。

兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父存在がぐんと近づいた。存在のものを実感した。祖父ちゃんと生きていた。過酷時代を生き抜いた。ドラマ映画主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和世界ツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。

兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。

仏間へ行き、再び祖父遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影漠然とした無機質なものではなく、凄惨時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。

2020-05-10

標準語? ジオン弁の間違いやろ

今や敵は焦っておるのであります、敵の焦っておる今こそ敵を徹底的に叩いて、これを破局に追込むに逸すべからざる好機であります。(1944年東条首相施政方針演説

司馬遼太郎 ともかくあの調子演説、いまでもありますけど、蔭でひとが「アホかいな」と……。

桑原武夫  いうとる、いうとる(笑)。などというひやかし方もありますね。

以前、『進撃の巨人』の大阪言葉版が爆笑さらったけど

あいう進撃ノリ、ジオンノリを現実にやってしまうのが関東地方やで?

あちらの『戦犯弁』特有の陰惨な空間が成立せえへんとこが、上方(かみがた)の真骨頂

講談社さん、『関西弁』やのうて『上方言葉』『畿内語』です

関西』などと、関東自分位置まで引き下げようとせんように

2020-05-05

ジークジオン

今や敵は焦っておるのであります、敵の焦っておる今こそ敵を徹底的に叩いて、これを破局に追込むに逸すべからざる好機であります。(1944年東条首相施政方針演説

司馬遼太郎 ともかくあの調子演説、いまでもありますけど、蔭でひとが「アホかいな」と……。

桑原武夫  いうとる、いうとる(笑)。などというひやかし方もありますね。


「以前、『進撃の巨人』の大阪言葉版が爆笑さらったけど……」

公式は『関西弁版』言うてるけど、あれ間違いなく大阪語やんな」

「ああいう進撃ノリ、ジオンノリを現実にやってしまうのが関東地方。あちらの『戦犯弁』特有の陰惨な空間が成立せえへんとこが、上方(かみがた)の真骨頂やわ」

講談社さん、『関西弁』やのうて『上方言葉』『畿内語』やで? 『関西』などと、関東自分位置まで引き下げようとせんように」

2020-02-22

anond:20200222083533

リンクこちらのほうが良かったか

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%A7%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

問題となった戦局解説記事は、毎日新聞社政経部および黒潮会(海軍省記者クラブ主任記者である海軍御用記者の新名丈夫記者執筆した記事見出し作成山本光春)で、「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として南方における防衛線の窮状を解説し続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている(#『毎日新聞』(1944年2月23日付)の記事参照)。これは海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の東條英機陸相首相は怒り、毎日新聞松村秀逸大本営報道部長から掲載紙の発禁[5]および編集責任者と筆者の処分を命じられた。

2019-08-03

anond:20190803141822

ピンポイント1944年だろうね。

日本の歴史の中で、国のために命を投げ出すのが最も正しいとされた瞬間だから

2019-02-25

anond:20190225103358

1つ目は「1919年に行われたワシントンでの飢餓実験

2つ目は「「ミネソタ飢餓実験」と呼ばれる1944年1945年実施された調査

ちゃんと読もうな、文盲^^

anond:20190225102230

1919年に行われたワシントンでの飢餓実験では、カロリー制限有効性を否定する結果が出ています

研究対象となった被験者は、1日1400~2100キロカロリー食事を摂ります

これは、通常の摂取カロリーより30%削減された食事なのですが、実験参加者の総エネルギー消費量も30%減少していたことが判明しました。

これは、摂取カロリーを減らしたことで、体がバランスを取ろうとして消費カロリーも抑えたため。

摂取カロリーが減った分だけ、体は消費カロリーも減らすよう勝手に調整しているのです。

また、「ミネソタ飢餓実験」と呼ばれる1944年1945年実施された調査では、

カロリー制限しすぎることの恐ろしさ」が判明しました。

第2次世界大戦後、何百万人も飢餓さらされたのですが、当時は飢餓状態人間生理活動にどう影響するかは未知の情報でした。

そこで、カロリー制限をしている時期と、回復期における状態理解する目的実験が行われました。

被験者は平均身長178センチ、平均体重69.3キロ健康で、平均的な体格の若い男性36人。

はじめの3カ月、ごく標準的食生活を送り、次の半年体重24%減を達成するよう摂取カロリーが調整されました。

カロリー制限中、男性たちの心身に変化が見られます

被験者たちは真夏7月だというのに寒がり、夜には2枚の毛布にくるまらないと眠れないほど震えだしたのです。

そして、安静時の代謝量を計測したところ、通常時と比べて40%も減少していたことが判明しました。

精神的にも悲惨な影響が見られました。被験者は、強烈に食べ物に魅せられるようになり、集中力を失い、

なんと大学中退する者まで現れたのです。その後の調査で、カロリー制限によって起こりうる数々のデメリットが次々と明らかになりました。

カロリー絞っても「やせられない」という逆説

https://article.auone.jp/detail/1/3/6/7_6_r_20190111_1547154003927377

2019-02-23

なぜ十二星座のなかで牛と羊にだけ「牡」が付いているのか

まず、江戸時代までは中国の「星宿」が使われており、西洋星座が広く知られるようになったのは明治になってからであった。

現在星座名に統一されるようになったのは、以下のPDFによると1910年ごろであるらしい。

https://tenkyo.net/kaiho/pdf/2013_05/03rensai-03kabumoto.pdf

また、『日月地球渾轉儀用法』で興味深い内容として、十二宮解説において、

然ルニ今日実際ノ天文ヲ按スレ三月ヲ以テ大陽白羊宮ニ立タスシテ却テ隣宮ノ雙魚ニ立ツヲ見ル因テ其然ル所以ノ原因ヲ考察スレハ蓋シ是レ三千年ヲ流過スルノ間毎三月廿一日ヲ以テ大陽位置スル赤道上ノ春分点下ニ出スハ甞テ白羊宮ニ在リシト雖モ年々徐々ニ遷移シテ終ニ雙魚宮マテ来リ

というように星座と宮を同義的に用いていることがあげられる。また、Geminiの訳語として「雙児宮」ではなく、「雙女宮」という名称が用いられているが、この名称は『星学図説』や『星学捷径』、『百科全書天文学』など、今回紹介した天文書においても同様に用いられている。

1910年発行の『天文月報』第2巻第11号所収の「星座名」において、91星座(88星座ではなく)の日本語訳名が与えられているが、そこでは「雙子」と記されており、当時の『天文月報』編集主任であった一戸直蔵は自らの著『星』において、

獣帯の十二星座とは次ぎの通りである。括弧内の名称は従来多くの書籍散見したものであるが、近頃我国の天文学者一同の評議で、訳語一定した

と述べて「雙子(雙女)」と記していることから日本においてGeminiは1910年女性から男性になった、と結論していいだろう。

ここで「黄道十二宮黄道十二星座が同一視されている」とあるが、「白羊宮」「金牛宮」といった黄道十二宮名称は、西洋占星術インドを経て中国に伝えられたとき漢訳されたもので、日本には平安時代に入ってきて宿曜道として広まっている(異同はあったようだが)。

西洋天文学体系が入ってきたのは明治であるが、占星術においてはそれ以前から名称存在していたということである

実際、中国では十二星座も「白羊座」「金牛座」で定着しているので、日本でもそうなっておかしくはなかったと思われる。

ちなみに、中国では「双女座」というと「乙女座」の異称らしいのだが、上記によると日本では「双子座」の異称認識されていたようである。このあたりは謎。

さて、「一戸直蔵の『星』」は以下で読める。

https://books.google.co.jp/books?id=2soa36rEEWMC&dq=%E7%89%A1%E7%89%9B%20%E9%87%91%E7%89%9B&hl=ja&pg=PP48

かに「近頃我国の天文学者一同の評議で、訳語一定たから、其方を主として、従来のは併せて記すこととした。」とあり、その後に「牡羊(白羊)」「牡牛(金牛)」と記されている。

これまでは白羊・金牛と書かれることが多かったもの牡羊牡牛統一した、というわけである

天文月報』第2巻第11号は日本天文学会のサイトで読める。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1909/pdf/191002.pdf

天文学術語を和訳せしもの区々にして一定せず。これ天文学普及上著しき故障なるを以て、本学を専修する人々相謀り、数年前より最も適当なるものを得んと考究中なり。

「数年前より」とあるように、確かにそれ以前から天文月報上では「牡羊座」「牡牛座」で表記統一されている。

実は1908年10月天文月報第1巻第7号にもこのような質問がある。

http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1908/pdf/190810.pdf

数年前迄は小生等星座を呼ぶに、何某の星宿とも呼び申候。又黄道上の星座は何々宮と申来り候処、茲に記載されたるものは皆何々座と申候は天文学会にて新に術語として択ばれたるものと被存候。

「数年前までは星座を呼ぶのに『何某の星宿』とか黄道上の星座は『何々宮』とか呼んでいたが、天文月報ではすべて「何々座」と記載されている。これは天文学会にて新たに術語として選ばれたものだと思うが、何と読めばいいのか」という質問で、さらに、

茲に記されたる星座黄道のものは白羊、金牛、双女、巨蟹等の名を捨てられたるは一に羅甸語を翻訳せられ候と被察候。

黄道上の星座について『白羊』『金牛』『双女』『巨蟹』などの名前が捨てられたのは改めてラテン語から翻訳したためだろう」とも書かれている。

それに対する回答では、黄道十二星座については触れられていないが、あえて否定されているわけでもない。

残念ながら、これ以上に命名の詳細な経緯は分からないが、ひとつには「黄道十二宮」と「黄道十二星座」の違いがあるかもしれない。

最初引用した文書にも書かれていたが、当初はこの二つは概ね一致していたものの、年を経るにつれてズレていったので、現在ではたとえば「白羊宮」は「牡羊座」と一致しない。

実際の黄道十二星座は大小さまざまであるが、サインは実際の星座とは別に黄道12等分したものである。初期には実際の星座サインは、大雑把に一致していたが、歳差によってずれていった。

天文学者たちがこれを考慮し、占星術との使い分けを企図して名前を変えたのであれば説明はつく。

以上より、「牡羊」「牡牛」という命名のものは既に指摘されているとおり「ラテン語のAries・Taurusを直訳したから」ということになるだろうが、それは明治期の天文学者たちが名前を付け直したからであって、決して必然的ものではなかった。

何かが違えば「牛座」や「金牛座」が使われていたかもしれず、「原語や神話から考えれば牡羊牡牛に決まっている」などと居丈高に言うのは後知恵もいいところだと思う。

余談。

星座名はこの天文月報のもので決定というわけではなく、その後も議論が交わされ、最終的に1944年学術研究会議が発表したものが決定版とされているようだ。

以下のPDFからはそうした議論雰囲気がうかがえるかもしれない。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167055/1/tnk000171_322.pdf

2018-02-16

アズレンって10から先どうなんの?

太平洋戦争史実視点で行けば、1943年の中盤くらいまでがアメリカにとっての峠みたいなもんで、そっから先は物量攻勢によってどんどんワンサイドゲーム化。

そしてアズレンの10章は1943年7月コロンバンガラ島沖海戦モチーフ

から史実だとこの先どんどんアメリカ側は苦しい戦いじゃなくなるわけで、それ踏まえて海域難易度はどうなることやら。

そうは言っても、1944年マリアナレイテは超絶キツくなるだろう。

でもその先考えると…やっぱり坊ノ岬沖海戦大和で締める感じ?

それとも台湾での金剛長門追撃とか、果ては呉での榛名伊勢日向・青葉・大淀フルボッコまでやる?

2017-01-11

サムスン製の電動歯ブラシが爆発!!→デマサイト捏造でした

サムスン電動歯ブラシが爆発し歯を全て失った男性

http://news.nicovideo.jp/watch/nw2587244

サムスン電動歯ブラシが爆発し、男性が歯を全て無くしたという内容

配信記事元ネタであろう海外サイトを見てみる

Man left toothless after explosion of his Samsung electric toothbrush

http://worldnewsdailyreport.com/man-left-toothless-after-explosion-of-his-samsung-electric-toothbrush/

ここに載せられてる写真

調べてみるとヤブ医者に歯を全部抜かれた男という全く無関係ニュースのものであることがわかる

Christopher Crist’s Dentist Pulls ALL HIS TEETH Without Permission

http://www.huffingtonpost.com/2013/04/10/christopher-crists-dentist-pulls-all-his-teeth_n_3054482.html

そして他の記事を見てみる

Pyramids Were Built With Help From Dinosaurs, Claims Top Egyptologist

ピラミッド建設には恐竜の助けがあったとエジプト学者が主張)

Aliens meddled with U.S. election claims controversial expert

アメリカ選挙エイリアン干渉された)

Japanese Whaling Crew Eaten Alive By Killer Whales, 16 dead

日本捕鯨員が殺人鯨に食われて16人死亡)

Rocket launched in space by Nazis in 1944 expected to hit the USA next week

ナチス1944年に発射したミサイルアメリカに来週着地予定)

一目瞭然でデマサイトだとわかる

配信元はゴゴ通信かいサイト

記事には訂正も謝罪もなく別記事差し替えられてる

http://gogotsu.com/archives/25293

そして次々と拡散されるデマニュース

http://i.imgur.com/wNPOpRG.jpg

http://i.imgur.com/eBDMShM.jpg

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カドカワ株式会社ニコニコニュース嘘ニュースを垂れ流す

問題記事はこちら


サムスン電動歯ブラシが爆発し歯を全て失った男性

http://news.nicovideo.jp/watch/nw2587244


サムスン電動歯ブラシが爆発し、男性が歯を全て無くしたという内容

配信記事元ネタであろう海外サイトを見てみる



Man left toothless after explosion of his Samsung electric toothbrush

http://worldnewsdailyreport.com/man-left-toothless-after-explosion-of-his-samsung-electric-toothbrush/


ここに載せられてる写真

調べてみるとヤブ医者に歯を全部抜かれた男という全く無関係ニュースのものであることがわかる


Christopher Crist’s Dentist Pulls ALL HIS TEETH Without Permission

http://www.huffingtonpost.com/2013/04/10/christopher-crists-dentist-pulls-all-his-teeth_n_3054482.html



そして他の記事を見てみる


Pyramids Were Built With Help From Dinosaurs, Claims Top Egyptologist

ピラミッド建設には恐竜の助けがあったとエジプト学者が主張)

Aliens meddled with U.S. election claims controversial expert

アメリカ選挙エイリアン干渉された)

Japanese Whaling Crew Eaten Alive By Killer Whales, 16 dead

日本捕鯨員が殺人鯨に食われて16人死亡)

Rocket launched in space by Nazis in 1944 expected to hit the USA next week

ナチス1944年に発射したミサイルアメリカに来週着地予定)



一目瞭然でデマサイトだとわかる


配信元はゴゴ通信かいサイト

記事には訂正も謝罪もなく別記事差し替えられてる

http://gogotsu.com/archives/25293



そして次々と拡散されるデマニュース

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いつまでこんなことやってるんだよ糞メディア

2016-12-04

死の収容所へ 1

ヨーロッパユダヤ人絶滅の準備

 ドイツ軍ソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組的殺作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルトハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。

「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」

 この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。

ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。

 1941年12月11日日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツ戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。

 ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録ニュルンベルク国際軍事法廷証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分ゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。

総統意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方追放し、その跡地に対して行われることになった…

ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」

 ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域ユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツ占領国や同盟国とは別にイギリスソ連ヨーロッパ地域、また中立国ポルトガルスペインスウェーデンスイスアイルランドトルコといった、ドイツ占領する予定だった国も含まれていた。

 ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後証言で「ヒトラーユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所対応させる必要があった」。

 この会談の直後、アイヒマンアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。

 ガスを使った殺害ナチドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式組織として医師を擁する医療関係の諸機関大学研究所病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。

 かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。

 しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである

絶滅作戦

 絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊パイプ排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。

 「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連ドイツ占領地域では1941年12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。

 1941年12月8日。占領ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれ区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」

 「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれ場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。

 1941年11月ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議ハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人であるハイドリヒは1942年5月にチェコレジスタンス暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファーストネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツ東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者ウクライナ部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。

 ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。

 ルブリン近郊のマイダネク収容所ユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。

 強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国ポーランド南部シレジア地方建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランドオシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎敷地強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校政治犯収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍工業囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体ガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体ガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。

 アウシュヴィッツビルケナウ収容所絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所移送された。他に子ども双生児脊髄障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。

 生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。

 厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓さらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人バラックから毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。

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