はてなキーワード: いちはやとは
立憲民主党の塩村文夏とか、米山隆一だって、政党をコロコロと変えているじゃん。
たとえば塩村文夏は維新政治塾→みんなの党→民進党→国民民主党→立憲民主党だし、米山隆一は自民党→維新の会→立憲民主党というふうに渡り歩いている。
塩村の場合、以前は沖縄に米軍基地の必要性を強く主張していたし、靖国神社への参拝をアピールしていた。(参考 https://ksl-live.com/blog27468)
さらに、塩村は国民民主から立憲民主に移って、国民民主から除名処分を受けている。
(後に2党は合流するが、塩村はそれと事情が違う。彼女は選挙対策のため、自分だけが逃げ出して、いちはやく立憲に移ろうとした)
米山なんて、過去には自民・維新から出馬したことがあり、完全に外様だ。今はすっかり変節して、立憲民主党にいらっしゃる。
こんな人達が先輩議員をやっていて、偉そうにリベラルづら、ポリコレ仕草をするのが立憲民主党だ。いったい、どういう神経で今井るるを攻められるのか?
(中央公論平成26年9月号に戸部良一・帝京大学教授が「日本は何のために戦ったのか 戦争の理念と『政治戦』」と題して、大東亜戦争について書いておられます。とてもいいと思いました。
開国以来日本外交は英米という二つのアングロ・サクソン国との関係を基軸に、これら二国との関係を調整することを基本にして、外交政策をつくってきました。東アジアから欧米諸国を駆逐し、自分が東アジアの盟主になるというような政策をとったことは、一度もありません。日本の歴史や外交史を読めば、簡単なことです。
では、「あの大東亜・太平洋戦争は?」 となるかもしれません。「自衛の戦争」と無理してこじつければ、そう言えない部分もないこともないでしょうが、しかし、ろくな外交をしないでおいて、つまり戦争を避けるような外交をしないでおいて、追い込まれ、「ハイ、自衛のためです」の主張には、賛成しかねます。 かと言って、アメリカは完全に日本との外交交渉に誠実であったとはいえません。
極東軍事裁判の判決のようなアメリカの言い分が100%正しいわけではありません。連合国側が広めたこの理屈が世界に流布していて、こまります。かといって、日本が100%正しかったという主張にも、うなずけません。もし、軍部とくに陸軍があれほど政治に横槍をおさなかったなら、日本の外交はアメリカと戦争などをしていないでしょう。中国問題をかたずけていたでしょうし、ドイツとの同盟なども結んでいなかったでしょう。陸軍は自己のメンツのために日本を犠牲にしたのです。
故リチャード・ストーリという有名なイギリスの日本史家は、「日本外交は明治以後優秀であり、軍部が口出ししていなかったら、あんなことにはなっていない」と言っています。こうした国際的規模の大きな誤解のもとは、ナチ・ドイツと日本を同じものとして考えるからです。
日本は中国と戦争をする意思はなく、また昭和12年に偶発し拡大する中国との争いをやめ、中国から兵を引きあげたかったのです。ましてや、アメリカとの戦争などは、ぜひとも避けたかったのです。アメリカもドイツとは戦争がしたく、それゆえ当初は日本との戦争を避けたかったのです。
日本は大いなる野望ともち、まず中国との戦争からはじめていき、やがてその野望達成の必要上ナチ・ドイツと同盟を結び、ドイツは欧州を、日本は東アジア全部を支配するため戦争をした。日本については間違いの解釈をしています。アメリカは正義の保安官で、町の秩序をみだす日本という悪漢を二丁拳銃で打倒したという西部劇です。
専制全体主義国家は暴力と脅迫と大虚偽宣伝にみちあふれていました。日本は違います。)
日本の「鬼畜米英」は戦争が始まってから言い出された言葉で、最初に鬼畜米英の考えがあって、その考えにしたがって政策目標が作られ実行されたわけではありません。国民の間には英米への強い好意がありました。東アジアでは、日本がもっとも英米への好意が強かった国でしたし、今でもそうではないかとと思います。
昭和12年(1937年)7月7日盧溝橋での偶発的些細な事件では、日本も中国も拡大する意図はなく、そのまま停戦して終わりにしたかったのです。しかし、日中双方の停戦の意図にもかかわらず、拡大し、大げんかになり、ついにアメリカとの戦争になりました。
アメリカとの戦争になるまで、つまり昭和16年12月まで、4年と5か月もあります。アメリカと戦争したければ、もっと早く、対中戦争で体力を消耗するまでに始めています。なぜそんなに待つ必要があったでしょうか。また、もしそうならば、対米衝突を避けるために、日本が提議して日米交渉などする必要もありません。日本は中国全土を占領しようとか、東アジアから英米の勢力を駆逐するというような、大それた考えや予定などもっていませんでした。東南アジアの植民地を解放しようという崇高な考えで戦争をしたのではありません。対米関係が悪化し、アメリカから経済的に締めつけられ、南方の天然資源のほうに眼が向いていったのです。最終的に南方の天然資源確保のために英米仏蘭と戦い、これらの地域から英、仏、蘭を追い払いました。その結果、戦後これらの国々がふたたびその植民地に支配者として帰ろうとしましたが、東アジアの人々の激しい抵抗にあい、不可能になりました。
もし、こうしたことがなかったなら、アジアの国々の解放は、フィリピンは別かもしれませんが、ずっと遅れていたのは間違いありません。
ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」で書いていますが、日本は東アジアにあって他の国々と違う国なのです。理由は歴史的経験の違いです。東南アジアの国々と、歴史上たえず専制国家であった中国とそれを手本とした朝鮮・韓国と、封建制度を発達させた分権的な、しかしながら、統一された社会としての日本という経験の違いがあります。また西洋帝国主義の挑戦にいちはやくうまく応じて独立を維持した日本という違いがあります。また明治以後日本だけ豊かになり、敗戦後もいちはやく日本だけいちはやく復興しそのうえ豊かになった日本という違いがあります。また戦後一時的な占領をのぞくと、西洋諸国の植民地になったという経験ももちません。ヴェトナム、インドネシア、ビルマなど、植民地になった国々と人々がどんなにみじめな政治や生活を強いられたかという、経験をしたことがありません。
日米交渉において、アメリカから経済的に締めつけられと書きましたが、こう書くと、「じゃあ、悪いのはアメリカだ」という意味でもありません。そこには交渉過程における相互のやり取りというものがあります。アメリカとしては、そうでなかったら取りにくかっただろう強硬な手をうつことができたからです。
イギリス、フランス、オランダとしては、日本に負かされ、かつ植民地を失い、大変不愉快だったでしょう。
なお、日本は南方の天然資源確保・・・といいましたが、ナチは東欧とソ連に一方的に襲いかかりました。日本はそんなことしていません。万一アメリカからの資源買いつけに支障が出た場合にそなえて、事前にオランダと商業ベースでの購入をのぞみ、交渉をしています。この交渉はまとまりませんでした。
万が一のインドネシアへの進出のため、また英米の中国援助の道を封鎖するため、フランスとはヴェトナムへの進駐を考えて交渉します。この交渉には軍事的圧力をちらつかせ貫徹しますが、これにたいしアメリカは石油の輸出禁止と在米資産の凍結という厳しい手段でこたえます。このアメリカの予想外の反応に近衛はびっくり仰天。そこでルーズベルト大統領との直接会談を提案します。それは軍部が対米交渉の障害になっているから、軍部の頭越しに話し合い、交渉をまとめよう考えたからです。この直接首脳会談には、アメリカはハル国務長官などが強く反対し、この提案を拒否します。
さて日中戦争ですが、これが中国で拡大し、英米との雲行きがあやしくなり、対決を避けようとして、対米交渉を提議し、日米交渉がワシントンで開始します。その交渉がまとまらなかったのは、日本にも大きな責任があります。しかし、「それは日本だけの責任だ。アメリカは悪くない」と一般に考えれていますが、これは大間違いです。ハル国務長官の態度にもみられるように、アメリカにも大きな責任があります。ハル国務長官には、アメリカの学者にも同じ意見がありますが、「だいたい戦争を避けるため、日本との交渉をまとめるつもりがあるのですか」と言ってもいいぐらいのところがありました。
日本は昭和にはいると、右翼的国粋主義の風潮も強くはなりますが、ドイツとは違い、多くの組織が併存しており、どの一つの組織も他の組織を圧倒するとか、ましてや他の組織を滅ぼしていくということはありませんでした。そのときそのときの事情や都合で、ある組織あるいは政治勢力の意見が強まったり弱まったりしていました。日本の場合は、偶発戦が拡大していくにつれ、その戦争遂行上戦時体制ができ、陸軍の要望が聞き入れられていき、陸軍が威張ったのです。決して陸軍は他の組織を吸収したわけではありません。一部の軍事費をのぞくと、法案も予算案もすべて国会を通過しなくてはなりませんでした。そういう意味で国会は機能していたのです。意外だと思われるかもしれませんが、軍部は議会や世論を気にしていたのです。
陸軍に反対したからといって、消されるとか、強制収容所おくりになるということはありませんでした。強制収容所もないし、ゲシュタポなどの恐ろしい暴力警察もありませんでした。日常生活については、もっと具体的なものを当時の新聞とか記録とか小説などで、実際の日本人の日常の暮らしを知る必要があると思います。(たとえば田辺聖子の小説や思い出。向田邦子の小説。芹沢光治良の「人間の運命」も面白い本です。)
日米交渉の難点の一つは、中国からの撤兵問題でした。陸軍も東条も中国から撤退はするが、それには二、三年は必要だと言い張ったのです。ナチと違って、中国全土を占領するとか、中国国民を奴隷化するというような主張は、100%ありません。アメリカは二、三年の期間は不満で、二、三か月の以内の撤兵を主張しました。ここに陸軍の横暴があるのです。すぐ撤退しては、陸軍の印象が悪いのです。負けたようで格好よくないというわけです。
大東亜共栄圏思想ですが、日本が中国全土を占領するとか、中国人を奴隷化するというような考えではなく、日中戦争が拡大したから、その説明の一つとして喧伝されたのであり、日中国民の平和友好といったムードがその本質であり、具体性のないものでした。当時もやはり、日本人は根底に日本人の中国にたいする「シナ(中国)コンプレックス」をもっていたのです。
東条は陸軍の「行進」の先頭で旗をもっていましたが、「俺についてこい」と陸軍を引っ張っていたのでなく、陸軍というおみこし担ぎ運動で、その集団行動行進で、たまたま旗手をつとめていたにすぎません。もちろん、それで得意になっていたわけですが。といって、東条に責任がないわけではありません。
日本の場合、いくら東条などでもある一定以上の文化・教養があったわけです。それを、ナチも日本も一緒にしてもらっては困ります。
この教養の差は、例えば敗戦の受けいれかたにも、大きな違いとなって表われます。日本の場合は、これ以上の負担を国民に強いるのはいけないという、コンセンサスがありました。ポツダム宣言の受託については、その内容の具体的な確認とか、「これでは国体が守れないではないか」といった意見の違いで、受諾がおくれただけであり、基本線は敗北やむなしでした。
東条でさえ対米交渉の妥結を希望をしていました。彼は10月中旬近衛に代わって総理大臣になりますが、東郷という、軍部の考えに抵抗した、超ハト派の、言葉をかえれば「強硬なハト派」の人間を外務大臣にして、交渉を継続します。(東郷は昭和20年4月成立の鈴木内閣という敗戦・終戦のための内閣で、外務大臣として、敗戦・終戦のために尽力します。彼は東京裁判では有罪。禁固二十年の判決。)
東条は反英米主義者でもありませんでした。中国との戦争で泥沼にはいってしまい、戦線を縮小する勇気、そこから撤退する勇気、をもたなかったのです。これがため、大事になってしまいました。昭和7年から大平洋戦争勃発までの駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーという人は、知日家、親日家でしたが、日記で「日本人は何か困難があると、(それを解決しようとしないで)回れ右をしてしまう」と書いています。
日本は「勝った、勝った。悪いシナを懲らしめた」という形にもっていけなかったわけです。戦線を大幅に縮小する勇気が必要でした。
中国も内部に大問題をかかえており、また、日本を一方的に大陸から追い出すほどの力をもっていませんでしたし、また、英米もそこまで中国を援助する必要は感じていなかったのです。中国が協定を守らないので困っているという点では、英米も日本と同舟でした。
陸軍は英米と大平洋方面で戦うための軍隊ではなく、大陸での権益を守るため、(ということは、間違いなく、日本の帝国主義的政策と関係しますが)、の軍隊であり、その対象は一貫してソ連でした。
また、よく誤解されることは、「日本は日清戦争とか、日露戦争とか、あるいは満州事変のあとから、大規模な軍隊を中国大陸に駐屯させていただろう」ということです。これもよくある誤解で、昭和12年の日本と中国の偶発的事件が拡大するまでは、中国大陸に少しの軍隊を駐留させていただけです。
・どこまで実話なんだろと思ってみたらほぼほぼ実話やんけ 映画じゃなくてすごい豪華な再現VTRやんけ
・つまらなくはないが特筆する楽しさもなかった…何でサブスク入ってるのにわざわざ映画館に行くのかって新鮮なもの今までみたこと無いものがいちはやく見たいから行くんだけど今回は得にそういうのなかった
・俳優さんたちの演技すご
・旦那さんから偽グッチ貰った使用人さん、警察のガサ入れの時にも偽グッチを大切そうに?抱えてて「だいぢなのは…気持ち…だよね!」ってなった
・偽ブランドのシーン、下妻物語のパチモンにぶちギレるブランド元のシーン思い出した
(オリンピック OR 五輪) (from:AbeShinzo)
「もしトルコが五輪を射止めることに成功すれば、私は世界で一番最初にお祝いを申し上げたい。しかし、もし日本が五輪を射止めることに成功したら、どうかエルドアン首相、世界で一番最初に祝っていただきたい。」と語りかけたトルコ。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) May 14, 2013
2泊6日で地球を一周する強行軍。今日から、各国首脳が集まるロシアのサンクトペテルブルグへ向かいます。続けて、オリンピック・パラリンピック招致の勝敗を決する地、ブエノスアイレスへ。東京招致を勝ち取るべく、最後まで全力を尽くします。
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 4, 2013
ロシアのサンクトペテルブルクから、2020年オリンピック招致決戦の地、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 6, 2013
安倍晋三です。朝早くにすみません。ブエノスアイレスより速報です。つい先ほど、東京が2020年の五輪開催地に選ばれました!!本当にうれしい。 この心からの喜びを、皆さんとともに、分かち合いたいと思います。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 7, 2013
ブエノスアイレスでの東京オリンピック招致に向けた私のスピーチ動画です。 私の思いのたけを込めた、渾身のスピーチです。
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 11, 2013
「まだ7年もある」ではなく、「もう7年しかない」という気持ちで、しっかりと準備を進めていきたい。本日、2020年オリンピック・パラリンピック東京大会の準備のための推進室を立ち上げました。...
安倍晋三 (@AbeShinzo) October 4, 2013
約束を守る旅。異例ではありますが、トルコに半年で2回目の訪問。2020年オリンピック開催が東京に決定した際には、イスタンブールをおしていたエルドアン首相は、約束を守って、真っ先に私に駆け寄り、祝福してくれました。次は、私が約束を...
安倍晋三 (@AbeShinzo) October 28, 2013
キャメロン英国首相と首脳会談を行い、日英の安全保障分野の協力強化、経済、オリンピックに向けての協力等について合意しました。今日の夜ギルドホールでスピーチします。
スーパービバホーム豊洲店前にて秋元司 @akimoto_tsukasa候補の応援演説会。東日本大震災のとき、いちはやく南相馬市に入りレポートを書き復興支援法の中味に反映させた秋元さん。東京オリンピックにむけ、若い行動力が必要です。
安倍晋三 (@AbeShinzo) December 7, 2014
2020年東京オリンピック・パラリンピックの会場となる新国立競技場の姿を、今日、決定しました。世界最高のバリアフリー、日本らしさを取り入れた設計となっており、ここが世界の人々に感動を与える舞台となることが、今から楽しみです。
安倍晋三 (@AbeShinzo) December 22, 2015
昨日、平昌オリンピック・パラリンピックの選手の皆さんを、官邸にお招きしました。日本中にたくさんの感動と勇気を与えてくれた皆さんに、感謝状をお送りしました。東京オリンピック・パラリンピックは、いよいよ2年後。世界中にたくさんの感動が生まれる素晴らしい大会にしたいと考えています。
安倍晋三 (@AbeShinzo) April 26, 2018
半世紀ぶりの東京オリンピック・パラリンピックがだんだん近づいてきたことを実感しました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) May 11, 2019
「健康長寿社会の実現」たけみ敬三候補「東京をつよく、優しく輝く街に」丸川珠代候補いよいよ来年、東京オリンピック、パラリンピックの開催を控えた東京都では、今回の参議院選挙に自民党きっての行動力を誇る二人が立候補しております。
安倍晋三 (@AbeShinzo) July 8, 2019
世界柔道選手権が行われている日本武道館で、東京オリンピックから新たに加わる種目の男女混合団体戦を観戦しました。日本チームがフランスとの決勝を制し、圧巻の優勝でした!
安倍晋三 (@AbeShinzo) September 1, 2019
来年は、新しい国立競技場でのコンサート、東京オリンピック・パラリンピックなど、2020年という節目の年にあたり、世界中に嵐を巻き起こしていただきたい。一層のご活躍を心より期待しております。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 30, 2019
「復興五輪」と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、世界の多くの方々に、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたいと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) March 11, 2020
本日、ギリシャのオリンピアで、2020年東京オリンピックの聖火採火式が行われます。26日には、福島から聖火リレーが始まる予定であり、オリンピックの成功に向けた機運を高めていきたいと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) March 12, 2020
このほか、来年のオリンピック・パラリンピック開催に向けて、今後、アスリートや大会関係者等の入国に向けた措置を検討していきます。
安倍晋三 (@AbeShinzo) July 22, 2020
本日IOCトーマス・バッハ会長よりオリンピック・オーダーの最高章にあたる金章をいただきました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 16, 2020
私は本章をオリンピック・ムーブメントに貢献し、倦むことを知らず、TOKYO2020を待ち望み、成功させようと勇んでやまない、すべての日本人になり代わる思いで頂戴いたしました。
安倍晋三 (@AbeShinzo) November 16, 2020
池江選手、本当におめでとうございます。「自分がすごくつらくてしんどくても、努力は必ず報われる」。白血病から復帰し、オリンピックの代表へ。ここまで重ねてこられた努力は本当に並大抵のものではなかったと思います。
安倍晋三 (@AbeShinzo) April 4, 2021
もう10数年前の記憶だから美化されているかもしれないけれど、進研ゼミの会員用のサイトがあって、そこにぶっ飛ぶほど面白いゲームがあった。
会員用のサイト自体は今でもあると思う。まず大元のページにアクセスして、自分の学年を偉ぶ。会員番号とパスワードを打ち込むとマイページが表示されて、自分で家具をおけるマイホーム(?)から、無料のマンガやゲームを選んで遊べるっていうシステムだった。
当時家には古びたパソコンが1台しかなくて、当然勝手に触ることは許されておらず、母親が帰って来てから夕飯を作るまで、たった30分かそこらの間しかパソコンの前には座っていられなかった。起動の遅さに苛立ちながらパスワードを物凄い速さで打ち込んで、いちはやく自分のマイページにアクセスしようとしていたのを覚えている。
限られた時間、初めてのパソコンゲームだからこそ面白いと感じたのかもしれないけれど、今でもたまに、「あのゲーム」をプレイしたくて堪らなくなる時がある。まるで禁断症状みたいに同じワードで検索したり、とっくに退会した進研ゼミの会員番号を思い出そうとしてみては、何やってるんだって我に返って虚無感に襲われる。
何度検索しても引っかからないし、もうサイトは見れないし。パソコンゲームがやってみたくて、自分が一種の幻覚を見ていたのかもしれないとさえ思うんだけど、誰か覚えてないかな。
・ネコが主人公で、1人で星に住んでいる。自分の星にはペンペン草が生えていて、家には調合室と操縦室(?)がある。
・何となく算数の要素が取り入れられていて、「割合について理解する」事を建前に、母親にゲームを許してもらった記憶がある。自分の星のペンペン草や他の星の特産品(?)を拾って、ちょうどいい割合で調合すると新しいアイテムが生まれる、ような感じ。
・他の星が沢山あって、新たな星を開拓するには特別なアイテムを調合しなきゃいけなかった。(ような気がする)
・アイテムがどんどん豪華になっていく。ダイヤモンドとか、よく分からない名前の宝石とかも調合できたような気がする
思い出したらまたやりたくなってしまった…。
このゲームってまだ進研ゼミのサイトにあるの?虚偽申告してでもチャレンジに登録し直してもう一度やりたい。記憶が美化されていただけでもいい、もう一度遊んでみて、「やっぱつまんねぇな」でもいいからさ。
コロナで在宅勤務推奨、できるだけ外出しないっていう通達が出た。
弊社はもちろん在宅勤務をいちはやく取り入れていますよ!みたいなアピールを外部向けにしてる。
でも誰も在宅勤務しない。
そしてその状態を見て上の人たちは、
「皆会社好きなんだなぁ」って笑ってる。
ここで気付いた。
「推奨」って、すすめるけどあとは自己判断ですよ。ってことなのか。
在宅勤務を1日だけやってみた勇者達が数人いたけど、
って言われてた。
その人達とても真面目で社内の評判もいい人たち。
在宅勤務しろって言ったじゃん。
他の会社もこんな感じ?
在宅勤務は建前で、皆会社いってるの?それとも本当に在宅勤務できてるの?
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
読書という荒野 (NewsPicks Book) 単行本 – 2018/6/6 見城 徹(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07D9D1QVM/
今をときめく幻冬舎の編集者、箕輪厚介氏による自社の社長アゲの一冊である。
元々、箕輪氏は双葉社で勤務していたが、その頃に見城氏にアプローチをかけ、『たった一人の熱狂』という書籍を編集した。
その際に見城氏に見初められて幻冬舎に転職し、その後、数々のヒット作をつくる。
つまり、元々この見城徹という男は箕輪氏にとって恩人のような存在であり、本書はいわばその「黄金タッグ」とでも言うべき二人による共同制作本なのだが、悲しいかな、文章は読みにくく、何とも昭和臭の漂う精神論やモーレツ主義が垣間見られる何とも言えない言葉が羅列され、かつ見城氏の既刊とも内容の被りが多く新味に乏しい。
つまり、純粋な編集能力や書籍の質という観点から言えば、高く評価することが難しい一冊であり、手に取った多くの方が後悔することになるであろうと予想される。
それでは、なぜこれだけ話題になり、勢いよくベストセラーへの道を突き進もうとしているのか。
そして、どうして箕輪氏の手がけた本は次々と売れていくのか。
そこには、彼がホリエモンから学んだ一種の戦略(スキーム)が存在する。
箕輪氏は「箕輪編集室」(通称”みのへん”)という名前で、自身のコミュニティを持っている。
そのコミュニティでは、箕輪氏を慕う約1000名の会員が月額でそれなりの会費を集い、イベント等に参加し、そして箕輪氏が手掛けた書籍をいちはやく贈られている。
メンバーたちは、書籍が発売される前に予め本をもらい、読み込み(あるいは読まないでいる方もいるかもしれない)、そしてAmazonに一気に星5個のレビューを書きまくる。TwitterなどのSNSでも盛大に感想を発信し、あたかも「大波が来ている」かのような演出に貢献する。
他のレビューで、この本を「News Picksメンバーにだけ向けた内輪本」と表現されていた方がいるが、非常に的確な指摘である。そもそもとして、この書籍は第一義的には自前のコミュニティメンバーに読ませることを意識してつくられているのだから。
さらに、箕輪氏の周辺にいるファンなども早い段階でAmazonの予約を入れ、人気ランキングを一気に押し上げる。
かくして、箕輪氏の担当した本は世に出た瞬間に、恰も「超話題作」であるかのような堂々たる風評を追い風に、勢い良く売れていく。
書店も利益を最大化したいもの。初速が良く「売れている」本は目立つように置き、堂々と展開する。
そして幻冬舎お得意、特大新聞広告などの宣伝と一気呵成の大増刷である。数万部を世に送り出して、「大ヒット!!」という流れをつくっていってしまう。このあたりの既成事実の作り方というか、本の勢いの出し方と売り伸ばす力は幻冬舎という版元が誇る最強の武器であり、出版不況の中で確実に結果を出しているのだから凄いとは思う。
かくして、クオリティとは無関係に、書籍のイメージと評判は肥大化し続ける。
そして、「どうやらこの本、人気らしいぞ」という噂に釣られた方々までもが買い求め、そして多くは失望していくわけである。
こうした「売り方」最優先のテクニックに走った商売をいつまで続けていくのだろうか。
根本的な編集能力を磨かず、ひたすらに勢いと話題性だけに頼った本づくりは、どこまで寿命が保つのだろうか。
これから箕輪氏のつくった本を手に取りたいという方は、冷静に立ち読みなどを通して内容と、そのクオリティを冷静に見極めた上で購入されることを勧めたい。さもなくば、期待した分だけ失望も大きいかもしれないから。
https://www.hatena.ne.jp/register
「ソーシャルブックマークサービス」というやつです。
みんなで色んなURLを共有したら便利じゃね?というものです。
要するに「Yahoo!知恵袋」や「教えて!goo」と同じQ&Aサービスです。
大昔に人気だったサービスです。
ちなみに、はてなアンテナの強化版サービスが「大チェッカー」です。
簡単に言えば、
みんながそれぞれ「自分が興味のあるウェブページの一覧」を作れば、
自動的に「みんなが興味のあるウェブページの一覧」も出来るんじゃね?
それって集合知じゃね?
という感じです。
ブックマークを追加するページにいきましょう。
上のメニューバーの「追加・アプリ」というリンクです(スマホ版なら左メニューの「ブックマークを追加」)。
場合によっては、記事に「はてブボタン」が付いていることもあるので、
それをクリックすれば「エントリーページ」と呼ばれる画面に行くことができます。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20180906/k10011611431000.html
エントリーページです。
そのページの情報と、そのページをブクマするための追加ボタンと、みんなのブクマコメントが並んでいます。
タグ機能こそがはてなブックマークの最重要機能と言っても過言ではないです。
コメント欄にはページに関する補足情報などを入れておくと良いでしょう。
ちなみに、「b.hatena.ne.jp/entry/」という文字列を覚えておけば(IMEのユーザー辞書に登録するとか)、
ブクマしたいURLの先頭にそれを付けることで、いつでもエントリーページを表示させることができます。
上のメニューバーの「ブックマーク」というリンクです(スマホ版なら左メニューの「マイブックマーク」)。
たとえば「増田」「はてブ」「解説」などとタグを付けておけば、
「あのはてブの使い方を説明していた記事、確か増田で見たんだけど何だったかな〜」
検索欄にキーワードを入力してサジェストっぽく表示されるのは、
普段はこれだけで十分です。
検索ワードを入力した状態でエンターを押せば全文検索になりますが、いまいち性能が悪いです。
ドメイン部分をクリックすれば同じサイトの過去のブクマが見られます。
「http://b.hatena.ne.jp/my/20180906」というURLで日別のブクマも見られます。
見るべきページは三つあります。
いわゆるホッテントリです。
http://b.hatena.ne.jp/hotentry/all
単純なusers順のランキングではなく、一日くらいでぐるぐると入れ替わっていきます。
ホッテントリに並んでいるのは要するに「万人向け」の記事なので、ここばっかり見てるだけではつまらないです。
ちなみに「過去の人気エントリー」リンクからどんどん過去へ遡ることもできます。
http://b.hatena.ne.jp/entrylist/all
3users以上の記事が「最初にブックマークされた時間順」で並んでいます。
ホッテントリよりも流れが速くてバリエーションも豊富ですが、そのぶん好みに合わない記事も多いです。
自分のブックマーク→左メニューの「お気に入り」というリンクです。
http://b.hatena.ne.jp/my/favorite
このページでは「お気に入り」に入れた人のブックマークを見ることができます。
長くブクマをやっていれば、「自分と同じ記事をよくブクマしてるな」とか
「こいついつも1getしてるな」みたいな人が、何人か思い浮かぶと思います。
(最近はコメントしか見られないので、無言で1getしてる職人を見逃してしまうのが残念ですが)
そういう人をお気に入りに入れておけば、自分好みの記事をいちはやく見つけることができるというわけです。
ホッテントリに飽きたら新着エントリ、新着エントリに飽きたらお気に入り、という感じで、
「タグ」「タイトル」「本文」から検索できて、ブックマーク数や検索期間も指定できます。
たとえば「5年前のはてな匿名ダイアリーの100users以上の記事」なんかを検索することができるわけです。
みんなが真面目にタグを入力していたら、「増田」でタグ検索するだけで十分なはずなのですが、
残念ながらタグを入力しない人が多いので、「増田」タグのついてない100users以上の記事があるかもしれません。
そうなると本文検索とかも併用しなきゃいけなくなるので、みなさん、タグは入力しましょう。
また、URLで検索するとドメイン単位での「新着エントリ」「人気エントリ」を見られます。
エントリーページの上のほうにあるドメイン部分をクリックしても見られます。
はてな匿名ダイアリーならこうですね。
b.hatena.ne.jp/entrylist?url=https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2F
こちらの「人気エントリ」は、ホッテントリとは違って単純なusers順なので、
いわば「そのウェブサイトの歴代人気記事ランキング」になっています。
どちらの検索結果もRSSを吐いているので、RSSリーダーを今でも使っている人なら、
好きなキーワードの検索結果のフィードを登録してみてもいいかもしれません。
(標準でそれに近いことをやってるのが「関心ワード」ですね)
ただし筆者ははてブアプリを利用していないので使い勝手は知りません。
読書という荒野 (NewsPicks Book) 単行本 – 2018/6/6 見城 徹(著)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07D9D1QVM/
今をときめく幻冬舎の編集者、箕輪厚介氏による自社の社長アゲの一冊である。
元々、箕輪氏は双葉社で勤務していたが、その頃に見城氏にアプローチをかけ、『たった一人の熱狂』という書籍を編集した。
その際に見城氏に見初められて幻冬舎に転職し、その後、数々のヒット作をつくる。
つまり、元々この見城徹という男は箕輪氏にとって恩人のような存在であり、本書はいわばその「黄金タッグ」とでも言うべき二人による共同制作本なのだが、悲しいかな、文章は読みにくく、何とも昭和臭の漂う精神論やモーレツ主義が垣間見られる何とも言えない言葉が羅列され、かつ見城氏の既刊とも内容の被りが多く新味に乏しい。
つまり、純粋な編集能力や書籍の質という観点から言えば、高く評価することが難しい一冊であり、手に取った多くの方が後悔することになるであろうと予想される。
それでは、なぜこれだけ話題になり、勢いよくベストセラーへの道を突き進もうとしているのか。
そして、どうして箕輪氏の手がけた本は次々と売れていくのか。
そこには、彼がホリエモンから学んだ一種の戦略(スキーム)が存在する。
箕輪氏は「箕輪編集室」(通称”みのへん”)という名前で、自身のコミュニティを持っている。
そのコミュニティでは、箕輪氏を慕う約1000名の会員が月額でそれなりの会費を集い、イベント等に参加し、そして箕輪氏が手掛けた書籍をいちはやく贈られている。
メンバーたちは、書籍が発売される前に予め本をもらい、読み込み(あるいは読まないでいる方もいるかもしれない)、そしてAmazonに一気に星5個のレビューを書きまくる。TwitterなどのSNSでも盛大に感想を発信し、あたかも「大波が来ている」かのような演出に貢献する。
他のレビューで、この本を「News Picksメンバーにだけ向けた内輪本」と表現されていた方がいるが、非常に的確な指摘である。そもそもとして、この書籍は第一義的には自前のコミュニティメンバーに読ませることを意識してつくられているのだから。
さらに、箕輪氏の周辺にいるファンなども早い段階でAmazonの予約を入れ、人気ランキングを一気に押し上げる。
かくして、箕輪氏の担当した本は世に出た瞬間に、恰も「超話題作」であるかのような堂々たる風評を追い風に、勢い良く売れていく。
書店も利益を最大化したいもの。初速が良く「売れている」本は目立つように置き、堂々と展開する。
そして幻冬舎お得意、特大新聞広告などの宣伝と一気呵成の大増刷である。数万部を世に送り出して、「大ヒット!!」という流れをつくっていってしまう。このあたりの既成事実の作り方というか、本の勢いの出し方と売り伸ばす力は幻冬舎という版元が誇る最強の武器であり、出版不況の中で確実に結果を出しているのだから凄いとは思う。
かくして、クオリティとは無関係に、書籍のイメージと評判は肥大化し続ける。
そして、「どうやらこの本、人気らしいぞ」という噂に釣られた方々までもが買い求め、そして多くは失望していくわけである。
こうした「売り方」最優先のテクニックに走った商売をいつまで続けていくのだろうか。
根本的な編集能力を磨かず、ひたすらに勢いと話題性だけに頼った本づくりは、どこまで寿命が保つのだろうか。
これから箕輪氏のつくった本を手に取りたいという方は、冷静に立ち読みなどを通して内容と、そのクオリティを冷静に見極めた上で購入されることを勧めたい。さもなくば、期待した分だけ失望も大きいかもしれないから。
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。
法務委員会は予想通り、不信任案でいったん休憩。本会議の開催は大島さんの日程の問題で、衆院通過は来週にずれ込む模様。参院日程を考えると、延長が見えてきました。
さて今朝の朝日ですが、やっと加計学園関係で内部文書が出てきましたね。今朝の玉木雄一郎議員の農水委員会質疑の中で、松野博一文科相も存在の可能性は認めて、書いてあるやり取りが行われたこと自体は認めているもよう。菅官房長官は、「誰が作成したかもわからない、こんな意味不明なものにいちいち政府は答えない」とか抜かしてたけど、松野さんが内容は大筋で認めちゃってるからなぁ。これは、多分内部リークだけど、この文書は森ゆうこ議員、宮崎岳志議員らが要求してた、内閣府、文科省、農水省の内部でのすり合わせの段階の資料なわけだけど、さっさと出さないからうそつきが発生するという話。
(文部科学)大臣ご指示事項との文書について、その真偽をただしたあと(確認していないという回答)
玉木
「そのなかにですね、”平成30年は早い、無理だと思う”という部分がありますね。つまり文科省としては設置認可申請がきても、教員が集まるのかどうかとか、いわれるような教育ができる施設が作れるのかどうか、当然確認しなければなりませんね。ですから、やらないといってるんじゃなくて、せめてもう一年。平成31年開学にできないかなという提案をしているわけです。そういうことを議論した経過はありますか。あるいは大臣の指示として、大臣ご指示事項とありますが、松野大臣ご自身が、平成31年開学を目指すべきではないかと指示をされているんです、今言われているよりも1年先にする、大臣が、今文書があったなかったはまだ確認していないとして、大臣のご指示として、平成31年の開学にしたほうがいいのではないかと、内閣府に確認しろ、といったほうがいいのではないかというような指示をだしたことがありますか。」
「まずですね、この記事(朝日)の中にある、大臣の指示事項という文書を私、見たことがないものですから、これがあるのかないのか、どういった性格のものなのかは承知しておりません。その上で、今玉木先生からご指摘がありました点について、私の記憶にある中で、お答えをさせていただきますと、まずあの、大学の設置認可というのは当然ながら設置審議会において専門的な議論をもとに認可が進められるものであるので、国家戦略特区の中にあるものであっても、審議会が始まって、その審議の中では、認められる場合も、認められない場合もある。その中において、設置の時期をあらかじめ書き込むというのは、設置審議会との関係において、これはどうなんだろうか、という話をした記憶、はございます。」
*松野さんは、高市早苗大臣と並んでファッションで右翼やってるんじゃないかと疑ってるんだけど、まぁ一応聞かれたらちゃんと答える点で、最低ラインを守ってない、安倍さん、金田さんよりはずっとましだと思います。
玉木
「今、私の記憶に頼った答弁になるので、詳細にどこまでいえるかわかりませんが、要はですね、私の、何年に開学を目指すというようなのは、設置審議会との関係において書き込めるものなのか、という質問に対してはですね、従前も戦略特区の中で目標として書き込んできたことがございます、と内閣府からではなく、文科省の事務方から説明を受けた記憶がございます。」
(略)獣医師需給の話について、
2.ライフサイエンスなど新たに対応すべき分野で具体的需要があるもの
という4条件を改めて確認して、農水省から、地域偏在はあるけど、数は不足していないというこれまでの見解を繰り返させたうえで、160人という定員はいったい誰が決めたのか、と問いただしましたところ(この件に関しての山本幸三大臣の答弁については下に書く)
文科省は、「加計学園からの設置認可申請で160名とされている。内閣府、農林水産省が確認している。」
需給への影響がない確認はどのようにやったのかと農水省、内閣府に聞くと
農水省は、「獣医師の事務はつかさどっているが、大学の設置事務は農水省の所管外である、設置については所管省庁が精査するが、新たな需要に対応するための学部だから従来の獣医師需要には影響がないと考えている」
内閣府は、「我々の担当は規制緩和、定員の是非については所管官庁が、国家戦略特区が求めるニーズに対応しているかを審査し、事業計画が愚弟的実現性があるか等を確認した。内閣府として、定員160名を含めて提案書全体から事業の実現性を確認した。」
玉木
「まったく答えになっていませんね、全体から判断されたと。または自分のところは大学設置に責任持ってませんと。じゃあ誰が責任持ってるんですか、これ(農水宮崎質疑でもダチョウ倶楽部状態になって最終的に山本大臣がきめたことになりました。)今、答えが出るかなと思ってあえて言いませんでしたが、私の手もとに、岡山理科大学の獣医学科の入学定員等について2月28日、愛媛県畜産課経由で加計学園より回答がありましたのでお知らせしますと、本年3月1日付けの文書があります。みなさんお持ちですか。皆さんお持ちですか。定員160名の定員の根拠について、問い合わせをしているんですね。それに対してどういう計算をしたかというと、平成26年度の獣医師法第22条に基づく就業獣医師の総数は39,098人。この人数を維持するため、獣医師一人が35年働くとして、年間1,117人これは39,098人を35で割っているだけですが、の獣医師が必要。現在ある全国の獣医師学科の定員は930人。このため年間187人が不足していると試算。年間定員を160名としているんです。これすごく矛盾しているのはなぜかというと、必要な、今のライフサイエンスとかじゃない獣医師が、180名不足しているから、160名要求してるんですね。でもずーっと説明あるのは、不足はないないない言ってるんですよ。農水省も、文科省も、内閣府も。でも加計学園は、後で必要なら出しますが、足りないから187名、160名の定員にしますと計算してるんですよ。こういうこときちんと調べておられますか。」
「いま委員からご紹介ありました3月1日づけの文書については私ども承知してございません。計算の中にございました、39,000人を母体として、引き算をするものでございますが、現実の獣医師免許所有者というのは、人間の医者と違って、全員が獣医事についているというわけではございません。したがって39,000人がおられましても、その相当数が獣医事以外に従事されておりますので、これを元に考えるのは需給を考えるのに適当ではないと考えております」
玉木
「適当でないんです。そういう人もいれて、きちんと需給を評価するというのが農水省の役割なんじゃないですか。今まさに答えありましたよ。そんなことで計算ダメだ、といわれた計算で、160名の定員が出されてるんですよ。なぜこれが適当なんですか。農水省は適当でないといわれた。この計算で正しいとしたのは誰ですか。」
「本年の今治市の分科会における、内閣府としての審査の観点について申し上げます。(玉木:いやいや違うよ)獣医学部の設置認可とは異なりまして、医学部の設置自体や定員160名を認めるものではなく、あくまでも規制の特例措置を受けて、設置認可申請を行える主体であるかということを審査いたしました。公募要綱に記載されましたとおり、11月9日の諮問会議の決定への適合性、平成30年度開学についての確実性について確認したところでございます。」
答弁になってないという指摘を受けて再度
「獣医学部の設置事態や定員160名を認めるものではなく、その養成内容が、新たな獣医師のニーズに適合しているものであるか、また平成30年開設の確実性の一環として、入学定員が、学校の施設や、教員の規模に比して著しくバランスを欠くものではないかという概略的な確認はしたものであります。」
玉木
「概略的確認てなんですか。閣議決定で、4条件を守ると、石破大臣のときも、これはしっかりと守ると明言しているのに、その確認もせずにどんどん手続きだけ進めてるんじゃないですか。今日は時間がないのでもうやめますが、大臣確認事項の3爪なんかはですね。平成30年4月の開学に向け、11月上旬には本件を諮問会議にかける必要があり、と全部逆算でやろうとしてるんですね。しかも官邸から、内閣としてやろうとしていることを、党の部会として議論するなと怒られた(くっそ笑うわww)と、自民党内の中の議論まで口出してるんですよ。しかも大臣ご確認事項の内閣府の回答の中に書いてあるんですよ。しかも、(義家副大臣レク概要の中で)斉藤(農水)副大臣に、需給のことちゃんとやってもらわないと困るよということで話したら、まったく聞いてない、これはやばい話じゃないかという反応があって、萩生田官房副長官にアポを取って、調整してくれとお願いをして、萩生田官房副長官の回答概要がありまして、さっきの4条件の話がありましたけども、「既存の大学がうちのほうでもできますよといわれると困難になる」、「平成30年4月は早い。無理だと思う」、「要するに加計学園が誰も文句が言えない、よい提案ができるかどうかだなぁ」、「学校ありきでやっているという誤解を招くので、無理をしないほうがいい」(結局無理をされたのでその後がめちゃくちゃなわけですが。)ですね、あとすごいのは、「福岡6区補欠選挙、10月23日が終わってからではないか」。何でかというと、蔵内日本獣医師会の会長の息子が補選に出ましたね。鳩山さんと争って負けることになるんですけども、そういうのも見守ったほうがいいんじゃないかと、親切丁寧に教えているわけで、これは大変疑惑が深まったといわざるを得ない。また大臣ご指示事項の中にも、福岡6区補選が終わってからではないか、鳩山二郎氏、蔵内健日本獣医師会会長長男、林芳正元大臣の秘書が候補と書いてある。ちょっとどうかな、と思いますが、さらに、閣内不一致、麻生財務大臣反対を何とかしてくれないと、文科省が悪者になってしまう。文科省への悪影響を心配する詳細な分析ペーパーもあります。こういったことについて、きちんと提出を、公式にしていただいて、この間の獣医学部設置の不透明な部分の解明をしていきたいと思います。私、文科省はね、文科省の立場でがんばってると思います。行政がおかしな方向に捻じ曲げられないように、麻生大臣も心配されておりましたが、ロースクールの例をあげて、やたらめったら乱造してしまうと、需給が崩れて、結局困るのは獣医師だし、それを利用する利用者の方々と心配されておりましたが。現在審査しているところでしょうが、もう一度、必要な資料を全部出していただいて、しっかりとした説明責任を果たしていただくことを求めて、質問を終わります。
これ朝日の報道が回り暗くしたらり全体を提示してないのは、自分たちの持っている情報がどのぐらいあるのかを明かさないで、泳がすためのアレだったんだろうけど、玉木さんがだいぶ暴露してしまいましたね。
「加計学園の来年3月開校予定というのは極めて厳しいスケジュール。今年の1月に公募して、来年1月には入試をやらないといけない。座学中心の文型ならわかるが、理系で、実験施設や実習必要だし、なぜこんなに急ぐのかという疑問があるが、平成30年開校という条件がでた経緯をご説明ください。」
「国家戦略特区の特徴はスピーディなことでありまして、獣医学部の新設においても具体的な事業をいちはやく実現することが重要と考え、まずは最速のスケジュールということで平成30年度を念頭において、平成30年度とした。その意味で30年度の開設ができると考えております。」
「理由を聞いているんではないんです。平成30年度の開設というのを、どういう検討をして、どの段階で決まったのかということをきいているんです。なぜなら今回の件も、加計学園に落とすために無理なスケジュールを決めたんじゃないかと。このスケジュールであれば到底加計学園以外はできないですよね、とそういうことなんじゃないかと疑われているんです。確かに、1月の共同告示には平成30年度開校とされている。では、事前に、文科省や農水省とはどういうご検討をされたんでしょうか」
「あのーえー新たな獣医師の養成が急務であるからまずは平成30年度の開学が可能な事業者を公募したということは事実でありますぅ。獣医学部の新設については、具体的な事業をいち早く実現することが重要と考えておりましてー、まずは最速で事業が実現するスケジュールである、平成30年4月の開校を念頭において、共同告示に開設を規定したものでありましてー、特に加計学園ありきというようなご指摘は当たらないと思います。この件に関しては、当然農水省、文科省と、調整をした上でーえ、告示を決定したわけであります。」
「調整をされたというが、いつ調整されたんですかとお伺いをしてるんです。前年の12月22日にまとめられたいう、三大臣合意ですか、文科省と農水省との合意の中には平成30年ということばは出てこないですよね。じゃあその前なんですか、あとなんですか、どこなんですか。どういう調整でどういう協議でいつ合意したんですか」
「平成28年11月18日から行われたパブリックコメントの資料におきまして、平成30年度に開設と明記がされております。」
「昨年11月18日のパブコメの時に決まったと。パブコメの文言っちゅうのは、何かに基づいて作るわけですよね。パブコメで突然出るって事はないですよ。じゃあその前のどの段階で決めたんですか。11月9日の特区諮問会議ではでてきてますか」
「開学時期につきましては、特区諮問会議では出てきておりません。(じゃあどういう経緯で)基本的にはですね、大学の設置に関することですので、加計学園あるいは今治市がですね、今治市はもちろん用地に対する支援とかをしておりますので、今治市のほうで、大学設置にはままあることだとおもいますけども、できるだけ早く設置したいという意向で、もっともスケジュールからいって早いのが、平成30年4月だとおそらく判断されて、それをパブリックコメントの資料として、使わせていただいたことだと理解しております」(だから11月9日の諮問会議では加計学園に決まってないはずなのに、なんで加計学園の言い分を資料に使ったとか堂々といってんのw)
「今の話だと、加計学園と今治市の意向で、30年4月にしたと、そういう話になるじゃないですか。今までの話だと京都産業大学のことも含めて、この段階で決めうちしてたわけじゃないと。あの1月4日から募集したと、その段階でどこがくるかはわからなかったと。今治は来ると思ったけど、他だって可能性はあったんだってこういういい方してたじゃないですか。今の言い方だと明らかに今治ありき、加計ありきじゃないですか。どういうことですか。」
「もちろん先生おっしゃいますように、えー、きめうちというわけではございません。京都産業大学、今回一校に限るということで、最終的に今治になったんですが、京都産業大学についても、意向としてはできるだけ早くやりたいとそういう意向であったと思います。11月にパブコメを行いまして、二月に認可申請を行いまして、えーおそらく今年の夏ぐらいには文科省の認可ということになるわけですが、そうしますと、30年4月が最近の最も近い開学時期となるということだと思います。」
続きはトラバ
先週木曜日(間違えた)総務委員会。籾井さんのときの質疑と比べて、別に新しい情報があったわけではなかったんだけど、高井議員はNHKと政権との距離の問題はかなりしつこく聞いてきています。学生時代NHKの集金のアルバイトをして生活の足しにしていたとか。指摘するのは大事だけど、特段有効打は出せてない感じですね。
こういう、政権の意向に反した奴を左遷させる、というある種の忖度のようなものは、かなり省庁、NHKなどの中で広がってるんだろうと思うんだけど、いかんせん証拠がないので、そういう例がどれだけあるのか、ということを示していくしかないんでしょうが。魚住昭さんが書いた、月刊現代に中川昭一、安倍晋三の両議員からのNHKに対する圧力についての朝日新聞記者の取材テープとされるものの中で、松尾武氏が答えていたようなNHKの内情からするとだいぶ変容してるんだろうな、と思います。
岩田明子さんは、NHKの解説委員で、今井尚哉首相秘書官のお気に入りとされる人で、田崎史郎、山口敬之氏らとならんだいわずと知れた寿司友ですが、週刊誌的には、彼女は政治部内での発言権が非常に大きく、人事にまで口出ししている、と噂されているところです。最近で言えば、籠池理事長の会見の最中に、安倍総理のぶら下がり開始の10分前にご登場あそばして、南スーダンPKO撤退について、政府見解のご解説をなさっていらっしゃったことが記憶に新しいところ。まぁそれに関する質疑もありましたが、唯一新味のあった話だったのが、前任の政治部長(山下毅熊本放送局局長)が、岩田さんの文芸春秋への寄稿に対していかがなものかと異議を申し立てたらしい、ということで、籾井氏の粛清とされる昨年4月25日発令人事で、通例2年の政治部長職ですが、1年で熊本に異動になった、という話が、どうもNHK内部では、岩田さんのインタビュー記事が原因なのではないかとされているというところでしょうか。
これももう何回も聞いてるけど、何を聞いてもまったく答えないので、ほんと聞いててむなしいだろうな、と。昨年11月のAPECでの日露首脳会談の事前協議の映像が、内容をNHKがスクープドキュメント北方領土の中で流れたことに対して、いったい誰が撮影して、どうやってNHKが放送することになったのか、という話。これを外務省や内閣官房に映像を撮影したのかと聞いても、「お答えを差し控えさせていただきます」、NHKに聞いても個々の取材についてのお答えは差し控えさせていただきます。という流れなんですが、撮影の事実があるかないかも答えられない理由が、「政府内部の協議は一般には公開していないから、撮影の有無を含めて答えることはできない」といってるんだけれども、放送の中で、「外交機密が含まれているから音声は流せない」といいながらNHKで放送されるというのなんでそんなもんが流出してんのっていう疑問に繋がるのは当然じゃないかしら。NHKにだけ撮影に入らせてるっていうのであれば、政府の機密的事項を話し合う場面にNHK記者が入っている、という時点で、コンプライアンスがぶっ壊れてるし、官邸が撮影して提供してるんなら、NHKに提供できるものを誰が撮影したのかについて、政府側が答えないっていうのは、国民の代表たる国会議員なめてる案件なわけで、どっち方面に転んでも頭おかしいとしか、っていう話なんだよね。(NHKがニュースソースを答えないのは仕方ないけど、政府は答えない理由はないはず。だってNHKに提供してんだから。)
「NHKが政権と距離を接近させすぎてまで、特ダネ、スクープを追い求める必要性はあるのか、政権が流したいものを、スクープをあげるから、ということで流す、というのは税金が入っている公共放送としてあってはならないと思うがいかがか」
「NHKは報道機関として、視聴者の判断のよりどころとなる情報を、正確に、そしてより早く提供することが重要であると考えております。そのためにも、取材や報道のあらゆる段階で、真実に迫ろうとする姿勢を徹底することが、大切と考えております。今後も社会に必要とされる情報をいちはやく伝えてまいりたいと考えております。」
「いちはやく、ということは否定しないが、NHKが、独占的に、他社が入手していない情報を追い求める、これ自体を否定はしないが、相手が政権の場合、当然見返りがあるから問題だと思っている」
この上田さんの答弁も、もう何回目、という感じで、ただの作文読み上げだけど、籾井がやめてもNHKの本質は変わってないなというのは思いますね。籾井に反抗するような幹部は粛清済みみたいだからしかたないのだろうけども。確か、オバマ大統領との首脳会談がセッティングできなかったときに批判の声があがったときも、NHKは独占映像として、オバマ大統領と安倍さんが2人で話してる映像を流してたよね。G7の首脳会合には海外勢含めてメディアは入れないからどこから出たっていわれたら官邸からしかないわけだけどね。
http://webronza.asahi.com/journalism/articles/2017021700004.html
これね。これを読んで会長の感想を求めるが、「感想は差し控える」
「感想はいえないということでしたら、もう少し具体的に聞きますが、私はこの中にはちょっと問題だと思うところがいくつかあるんです。
(略)永田町での取材を通して思うのは、記者と取材対象者の関係においては、権力のチェックという側面と、信頼関係の確立の側面の絶妙なバランスが大切だということです”その通りだと思いますね。バランスが大事なんです。”取材相手に誠意と情熱を持って全人格で向き合い、その一方で私を超えた公の立場でチェックをする、と同時に情報はよい意味で、ギブアンドテイクであるべきだと実感をしました。権力主体が隠したい事実がわかり、それが不正だった場合、外交上やむをえない場合を除き、この事実を報じなければなりません”報じなければなりません、ってか報じる、当たり前ですよね。報じるに決まってるじゃないですか。”そのためには、日ごろから取材対象に肉薄し、情報を取る力と交渉をする力が不可欠です”こう書いてるんですね。つまり今回のスクープドキュメントNHKスペシャルの話もそうです、あるいは国会で何度か取り上げてきた、南スーダンから撤退するときの、情報をいちはやく入手して、しかし、その見返りというんでしょうか。夕方の放送でですね、ちょうどあのとき、籠池理事長の記者会見とあえてぶつける形で、記者会見をした、その後すぐにですね(事実誤認、記者会見がはじまる前です)、岩田明子さんが出てきて、長々と政府の立場を解説する。やはり。情報をとる、ということに対してですね、どうしても、政権よりの放送に、どうしてもなる、と。だからこそ政府も情報を出すんじゃないですか。ですからバランスが大事だといいながらですね、私は権力のチェックこそマスメディアの使命だと、ましてや受信料で成り立つ、NHK、公共放送として、大事な使命だと思いますが、会長、NHKとして、こういう考え方、この考え方、これでいいと思いますか。」(質問がわかりにくい、もっとストレートに、コレは癒着だと思いませんかとか聞いたほうがいいよ。岩田明子氏が権力のチェックを果たして、政権の思惑と違うことをしゃべったことがこの5年で何回あるか知らんけど、外見からは、政府のスピーカーとしての機能しか果たしてないと思うけどね。)
「NHKの姿勢に関しましては、取材・政策のルールブックであります、放送ガイドラインがありまして、そのなかで、取材相手との関係については、放送倫理や公平・公正な姿勢を意識し、節度ある距離を保たなければならないと定めております。また国民の知る権利や、公共の利益のために、密着取材が必要な場合でも、相手の利益を図ったり、癒着と受け取られる行動を取ってはならない、と定めております。この冊子を全職員に配布いたしまして、周知の徹底をいたしております。また真実を明らかにするために、取材相手に食い込むことと、いっぽうで、取材相手と一定の距離を保つことは、ジャーナリストが必ずわきまえなければならないことであると認識しておりまして、現場ではこのことを十分に踏まえて、日々の取材・制作に取り組んでいるものと承知しております。」
「会長まだ就任されたばかりでね、まだ、まぁ監査委員やっておられましたけども、昔のNHKはそれを守っていたかもしれませんが、そうじゃない実態が、だんだんそうじゃなくなってきているということを、皆さん、NHKの内部からも、皆さん危惧されて私のところにも情報を下さる方がいる。この委員会でも取り上げました。去年ですかね(5月24日衆院総務委員会)、あのーこれもまた岩田明子さんが、文藝春秋に安倍総理のお母さんのロングインタビュー、4時間半のインタビューを書いたと。これも内部ではですね、なぜNHKの記者が、解説委員が、文藝春秋に、自分たちが集めたリソース(NHK記者として安倍洋子氏との人脈を築いたわけだからね)を使って、集めた情報を、文藝春秋に出すんだと、反対した方がね、部内にもいらっしゃるそうですよ。しかしその方はね、定期じゃない人事異動で地方にいってしまったそうですよ、政治部長がね。異動になったと、これはもうNHKの内部では有名な話ですが、会長がご存じなかったというのなら、この機会に是非知っておいて頂きたいと思います。結局、NHKの組織が権力をチェックするというバランスに対して、鈍感になってしまっているのではないか、これは前の会長の籾井さんの体制の悪い影響がでているんではないかと思います。これ以上聞いても堂々巡りの議論に・・・(略)
高井さんはここでとまっちゃだめだよ。わざわざNHKが籠池理事長の記者会見に合わせて、前から持っていた情報を流し始めるというのは癒着だと思いませんか、岩田さんが会長賞を受賞されたそうですが、彼女のどの報道を評価されたんですかってしつこくしつこく聞いて欲しいわ。この、寿司ともを利用して適度にスクープを読売、産経、日テレ、フジテレビとかに与えながらやっているメディアコントロールと、桜井充さんの質疑で出てきたような、国家戦略特区に関して、変に便宜を図るようなことはしないほうがいいって発言したら、次官経験者から脅しの電話がかかってきて、地方の大学に飛ばされた、みたいな人事権を使った官僚コントロールが安倍政権を磐石にしてるものだと思うから、ここをしつこく突っつくのは、ホントに大事なとこだと思うんで、ここでやめちゃいけない。、
一応時系列を整理しておくと、岩田氏のインタビュー記事、「晋三は「宿命の子」です」の取材は当該記事によると取材の申し込みは昨年3月、当該記事の出版が5月10日、NHKの定期人事は例年6月で山下毅氏を含む籾井氏の粛清人事があったのが4月25日、山下毅氏の熊本異動後の記事によると、内示を受けたのは、熊本地震の前日、4月13日ということです。まぁ一応筋道としては通った話なのかな。真偽は知らんけど、こういう話は、この政権ではごろごろ聞く話ではある。