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2020-01-31

お笑い芸人世代分けを再考する

多くの人はこちらのWikipedia記事を参照していると思われる。

日本お笑い史 - Wikipedia

この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。

芸名活動開始人気が出た年代備考
横山エンタツ花菱アチャコ1930年1930年しゃべくり漫才元祖コンビとしては1934年解散するが、それから60年代までラジオ映画などで活躍アチャコ吉本看板芸人となる。
夢路いとし・喜味こいし1937年1950年代1949年ごろからラジオ番組上方演芸会』に出演して名をあげる。いとしが亡くなる2003年まで漫才を続けて「上方漫才の宝」と称される。
中田ダイマル・ラケット1941年1950年代1957年開始のテレビ番組ダイラケのびっくり捕物帖』はテレビの「上方コメディ番組元祖
ザ・ドリフターズ1956年1960年代1963年開始のテレビ番組大正テレビ寄席』に出演したこからコントを中心とするようになり、1969年開始のテレビ番組8時だョ!全員集合』にて大ブレイクする。
てんぷくトリオ1961年1960年代大正テレビ寄席』などへの出演で人気を博す。「トリオブーム」の中心的存在三波伸介1970年テレビ番組笑点』の司会に就任するなどしてテレビスターに。
コント55号1966年1960年代1968年開始のテレビ番組『お昼のゴールデンショー』『コント55号の世界は笑う』などで支持を得てドリフと人気を二分する。1975年以降は萩本欽一がピンで活躍する。
横山やすし・西川きよし1966年1960年代60年代後半に演芸ブームに乗って人気を獲得、80年代前半までバラエティ番組の司会などで活躍する。「漫才ブーム」では大将格となる。
B&B1972年1980年代実力は評価されつつ関西でくすぶっていたが、吉本芸人としていちはや東京進出したことで人気を得て、漫才ブームを牽引した。
ツービート1972年1980年代漫才ブームに乗って「毒舌」を武器に台頭。特にビートたけしは、1981年開始のテレビ番組オレたちひょうきん族』などへの出演からピンで大人気となった。
明石家さんま1974年1980年代70年代後半から関西で人気を獲得、東京進出してのち『オレたちひょうきん族』でブレイク。たけし・タモリと合わせて「お笑いBIG3」の一人と称される。
タモリ1976年1980年代キワモノ芸人としてマニアックな人気があったが、1982年開始のテレビ番組笑っていいとも!』の司会を務めるなどしてお茶の間の顔となる。
島田紳助松本竜介1976年1980年代漫才ブームに乗って「ツッパリ漫才」で若者の支持を得る。『ひょうきん族』にも出演して人気を博す。1985年コンビ解散して以降は、島田紳助がピンで活躍した。
とんねるず1980年1980年代お笑いスター誕生!!』に素人ながら出場して知名度を高める。ラジオ深夜番組若者からの支持を獲得する。1984年楽曲『一気!』がヒット、1988年に冠のテレビ番組みなさんのおかげです』を開始する。
ダウンタウン1982年1990年代1987年開始のテレビ番組4時ですよーだ』の司会をきっかけに関西若者から爆発的な人気を得る。80年代末に東京進出深夜番組夢で逢えたら』を経て、1991年に冠のテレビ番組ごっつええ感じ』を開始する。
ウッチャンナンチャン1985年1990年代結成当初に『お笑いスター誕生!!』に出場している。1988年開始の深夜番組夢で逢えたら』で知名度を上げ、1990年に冠のテレビ番組『誰かがやらねば!』『やるならやらねば!』を開始する。
爆笑問題1988年2000年代1994年開始のテレビ番組タモリのSuperボキャブラ天国』で人気を博す。90年代後半から深夜帯を中心に冠番組が増えはじめ、2000年ごろからゴールデンでもレギュラー番組をいくつも抱えるようになる。
雨上がり決死隊1989年2000年代1991年に結成されたアイドル芸人ユニット吉本印天然素材」のリーダー格。2000年開始のテレビ番組ワンナイR&R』や2003年開始の冠番組アメトーーク!』などで人気を博した。
さまぁ〜ず1989年2000年代90年代前半に「バカルディ」名義でいちど人気が出たが、2000年ごろに「さまぁ〜ず」に改名して再ブレイク、多数の冠番組を抱えるようになる。
ナインティナイン1990年1990年代吉本印天然素材」出身1994年開始のテレビ番組ぐるぐるナインティナイン』、1996年開始の『めちゃ×2イケてるッ!』など、早くから冠番組を持ってブレイクする。
くりぃむしちゅー1991年2000年代タモリのSuperボキャブラ天国』にて「海砂利水魚」名義で人気を博す。2003年ごろから再び人気が出はじめ、2000年代後半には多数のレギュラー番組を抱えるようになる。
ロンドンブーツ1号2号1993年1990年代ダウンタウンナイナイに続く、若者人気の高いコンビとして早くからプッシュされ、90年代後半から『ぷらちなロンドンブーツ』『ロンドンハーツ』など多数の冠番組を持つようになる。
ネプチューン1993年2000年代タモリのSuperボキャブラ天国』で人気を博す。1999年開始のテレビ番組『力の限りゴーゴゴー!!』で司会に抜擢されるなどしてブレイク2000年代には多くのレギュラー番組を抱えるようになる。
バナナマン1993年2010年代あえて『ボキャブラ』への出演をせず、ライブ中心に活動したことで売り出しが遅れたものの、2000年代半ばから徐々にテレビに出演しはじめ、2012年ごろから冠番組が急増してブレイクした。
有吉弘行1994年2000年代『進め!電波少年』の企画1996年に「猿岩石」としてブレイクするもまもなく停滞。2004年からピン芸人として活動を始め、2007年ごろから毒舌ネタ再ブレイク
タカアンドトシ1994年2000年代札幌で結成されたコンビで、2002年東京進出2005年ごろから笑いの金メダル』などで披露した「欧米か!」というツッコミ流行り、2000年代後半には複数冠番組を持つようになる。
ブラックマヨネーズ1998年2000年代2005年M-1グランプリで優勝する。2006年東京進出し、2010年ごろから冠番組を持ちはじめる。
チュートリアル1998年2000年代2006年M-1グランプリで優勝する。2007年東京進出し、2010年ごろから冠番組を持ちはじめる。
サンドウィッチマン1998年2000年代2007年M-1グランプリで敗者復活から優勝する。2010年代後半からレギュラー番組が増加し、2018年芸人好感度ランキングトップに立った。
オードリー2000年2000年代2008年M-1グランプリで敗者復活から2位となりブレイク
オリエンタルラジオ2003年2000年代結成してすぐの2005年ごろに「武勇伝ネタブレイクし、まもなく冠番組を含むレギュラー番組を持つことになった。
霜降り明星2013年2010年代2018年M-1グランプリで優勝する。

まず画期としては1953年テレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこいダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。

次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語漫談漫才コントコミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフ萩本欽一コント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。

続いて、1980年放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし明石家さんま山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。

その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成出身の若手が、小劇場ライブで腕を磨き、夕方番組深夜番組きっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴であるとんねるずダウンタウンウッチャンナンチャンがこの世代代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。

次に来るのが「ボキャブラ世代である1992年から1999年まで続いた『タモリボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人ネタ見せ番組に移行。この番組登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題くりぃむしちゅーネプチューンあたりが代表格となる。

2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組スタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人レベル底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年M-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算番組が増加した。(2010年までの)M-1ブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。

2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代バラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか2020年現在芸人の主戦場YouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。

2017-11-15

anond:20171115002317

砂糖黍の艶やかな皮をむいて、あの白い中身をしゃぶる甘味快味を、私は終生忘れないだろう。

――豊島与志雄「「自然」」

誰も誰も、食うためには、品も威も下げると思え。さまでにして、手に入れる餌食だ。突くとなれば会釈はない。骨までしゃぶるわ。

――泉鏡花紅玉

この飴細工と糝粉細工とが江戸時代形見といったような大道商人であったが、キャラメルドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨てられて、東京市のまん中からは昔の姿を消して行くらしく、場末の町などで折りおりに見かける飴売りにも若い人は殆ど無い。

――岡本綺堂「半七捕物帳 54 唐人飴」

梅干布などというものもあって、これは島田で作っていただきますさらし木綿に梅干汁をひたして天日に乾かし、それを小さく切っていざという時しゃぶるのだそうです。

――宮本百合子「獄中への手紙 09 一九四二年(昭和十七年)」

蛇さん、ずいぶんのろまだなあ。おいらのしりでもしゃぶるがいい。

――楠山正雄「物のいわれ」

コリャ堪らん。英雄豪傑の汗なら好んでもしゃぶるが、こんな懦弱い奴の汗を舐めるのは御免である

――押川春浪本州横断 癇癪徒歩旅行

私の母なんかも、昆布をしゃぶるには人後に落ちた事がない。

――直木三十五大阪を歩く」

あんこのついた指をしゃぶるものもある。鼻の頭へ黄豆粉をつけているものもある。上唇についた黒ごまと鼻汁とを一緒になめているものもある。

――長谷川時雨「旧聞日本橋 20 西川小りん」

「今ライムがはやっているの?」「ええ、みんなライム買うわ。メグさんだって、けちだと思われたくなかったら、きっと買うわ。そして、みんな教室で机のなかにかくしておいてしゃぶるの。」

――ルイーザ・メイ・オルコット「若草物語

人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶるけれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。

――有島武郎「生まれいずる悩み」

ね、ほら、おもちゃがほしくば、この鼻の頭をしゃぶるといいよ。

――佐々木味津三「右門捕物帖 25 卒塔婆を祭った米びつ」

しかし、かわいそうに軽業の女たち、折助は逃げ去ったが今度はいっそう怖ろしい骨までしゃぶる獣、それの襲撃と聞いて歯の根が合わなくなりました。

――中里介山大菩薩峠 09 女子小人の巻」

2011-10-14

UN-GO(ノイタミナアニメ)がTOHO系劇場レイトショー

忘れないようにメモ

UN-GO episode:0 因果論」
(上映:約45分予定)
11月19日(土)よりTOHOシネマズにて2週間限定レイトショー上映
監督: 水島精二
ストーリー脚本: 會川昇
アニメーション制作: ボンズ
 
[上映劇場TOHOシネマズ六本木ヒルズTOHOシネマズ渋谷お台場メディアージュTOHOシネマズ府中TOHOシネマズ川崎TOHOシネマズららぽーと横浜TOHOシネマズ名古屋ベイシティ、TOHOシネマズ東浦、TOHOシネマズなんばTOHOシネマズ二条TOHOシネマズ伊丹天神東宝

原案: 坂口安吾明治開化安吾捕物帖監督: 水島精二
ストーリー脚本: 會川昇
キャラクターデザイン: pako、高河ゆん
アニメーション制作: ボンズ
制作: 「UN-GO製作委員会キャスト結城新十郎: 勝地涼
因果: 豊崎愛生
海勝梨江: 山本希望
虎山泉: 本田貴子水星玄: 入野自由
海勝麟六: 三木眞一郎UN-GO episode:0 因果論」
(上映:約45分予定)
11月19日(土)よりTOHOシネマズにて2週間限定レイトショー上映
監督: 水島精二
ストーリー脚本: 會川昇
アニメーション制作: ボンズ
 
[上映劇場TOHOシネマズ六本木ヒルズTOHOシネマズ渋谷お台場メディアージュTOHOシネマズ府中TOHOシネマズ川崎TOHOシネマズららぽーと横浜TOHOシネマズ名古屋ベイシティ、TOHOシネマズ東浦、TOHOシネマズなんばTOHOシネマズ二条TOHOシネマズ伊丹天神東宝

原案: 坂口安吾明治開化安吾捕物帖監督: 水島精二
ストーリー脚本: 會川昇
キャラクターデザイン: pako、高河ゆん
アニメーション制作: ボンズ
制作: 「UN-GO製作委員会キャスト結城新十郎: 勝地涼
因果: 豊崎愛生
海勝梨江: 山本希望
虎山泉: 本田貴子水星玄: 入野自由
海勝麟六: 三木眞一郎

高河ゆんって久しぶりに見たわ。

最初見たのはカラートーンの美麗なイラストの頃(CLAMPも当時カラートーン多用で美麗だった)

漫画家としても活動しているのね。

コミカライズも読んでみようかな。

2010-04-02

おれは、ゲームが作りたいんだ。


 小学校の頃に「どろけい」という遊びが流行った。

 団地中の遊びともだちでランドセル姿のまま一号棟前に集まる。

「何人いる? もうはじめる?」

「森口、まだ来てないじゃん」

「あいつ、今日スイミングスクール田無は、ピアノ

「なんだあいつ、男のくせにピアノなんてならってんの?」

田無うまいらしいぜ、東野が言ってた」

 少ないときでも十人は面子が集まる。

 今にして思えば、習い事でぽつりぽつりと面子が抜けていく直前だったから、小学校の低学年、しかも3年生ぐらいの年頃だったような気がする。

 おれの住んでいた団地新築共働き世帯ばかりがどっと入った団地だったから、小学校クラスでも団地子供が占める割合が多く、揃いも揃って鍵っ子ばかり。それでランドセル姿のままでしょっちゅう一緒になって、あれこれ新しい遊びを始めるのが常だった。

 そのとき流行っていた「どろけい」は、泥棒チームと警察チームの2チームに分かれて、泥棒はひたすらに逃げ、警察はひたすらに泥棒をつかまえるというシンプルゲーム。泥棒はつかまれば開けたところにある刑務所に入れられ、仲間の泥棒にタッチして貰えれば見事脱獄ということになる。そうなってはたまったものではないので、警察チームは刑務所を陣地にして、あれこれと泥棒をつかまえる作戦を練る。

 おれたち小学生にとっては、五号棟まであった団地は格好の遊び場で、当然ながら「どろけい」も団地舞台に繰り広げられる。団地は、最上階が8階、左右に二棟のエレベーターホールがあり、両端はどちらも非常階段になっている。高島平のような左右に長い団地想像すると分かりやすく、そこを小学生のおれたちは駆け抜けた。

 よく迷惑だと苦情が来なかったものだと思うのだが、共働き世帯ばかりだったこと、そして、今よりも寛容な時代だったのだと、振り返って思う。

 この「どろけい」という遊びは、逃げるにも追いかけるにも工夫とチームプレイが必要な遊びだ。

 舞台となっていた団地には袋小路のようなものがなかったので、泥棒をつかまえるために警察チームは、複数人での挟み撃ちをする以外にない。泥棒が潜むことができるのは二棟のエレベータホールのみで、非常階段廊下警察の陣地から丸見えなので、捕物帖が始まれば、警察の陣地から指示が飛ぶようになる。

「錦原が、五階の西! 誰か西の非常階段を抑えろ!」

非常階段、誰かいる! 降りてる!」

 三人四人で泥棒の逃げ道を封鎖していくのだ。

 警察の陣地でもひそひそと作戦会議が開かれる。

「なあ、野々村どこにいると思う? エレベータの9階(作業室があった)みたよな?」

「みたみた。そういえばこの前は非常階段の裏に隠れてたな」

 けっこう丸見えな割にはちょこっとずつ死角になるところがあり、そういった所に泥棒は好んで潜む。それを警察は必死になって探すのだ。

 泥棒の方でも無策ではなく、エレベータホールなどでばったり出くわすと、情報交換になる。

小田捕まった?」

「たぶん、みてないけど、走る音が聞こえないから」

「じゃあ、あと3人か。泉川はどこだろ?」

「あいつ、隠れてるの好きだからさ」

「じゃあ、こうしよう。おれは三階で仕掛けるから、木村は二階な。泉川は東の方にいる気がするから、おれは西の非常階段から脱獄かける。お前は東のエレベータホールな。泉川も気付いて、いっせいに脱獄かけれるかも」

「ちょ、ちょっと休ませてよ」

「たく、だらしねえな、60秒な」

 エレベータホールに囁くような60カウントが響く。

 そして、作戦開始。

 それはたぶん子供の頃の大切な思い出だった。

 「どろけい」は毎日のように号棟を換えて遊ばれる。

 おれの住んでいた団地は、おそらく建設された時期が違っていたからだと思うが、それぞれの号棟に微妙な差異があった。たとえばエレベータホールが一棟しかなかったり、廊下の柵に隠れやすい板がついていたり、階が6階までしかなかったり、屋上と称する場所があったりする。

 そうすると、号棟が変わる毎に作戦やセオリーが代わり、泥棒も警察も新しい手を考えなければならなくなるのだ。

 なので、一号棟前にランドセル姿で集まって、今日の面子をながめながら、みんなでわいわいと相談する。

「なあ、今日どうする?」

「少ないから五号棟じゃん?」(五号棟は一番ちいさい号棟だった)

「五号棟好きじゃないんだよな」(エレベータホールが一棟しかないとつまらない)

「じゃあ、こうしよう3号棟で6階まで、これならどう?」

「作業室なしかぁ。あ、お前ずるとかするなよ」

「しないって。分かった。したら3回警察でいい」(警察は不人気だった)

「よし、じゃあみんな、ずるしたら3回警察な」

「あ、あのさ、三号棟にするなら、刑務所近くしない?」(エレベータホールにの意)

「どの辺にするの?」

ピロティーを刑務所にしたらって思うんだけど」

「え? 近すぎない?」

「いいよ! いいよ! ピロティーからなら警察見えないじゃん。そっちの方が絶対面白いよ!」

 他のみんなはどうだったのかは分からないのだが、おれは分かってしまった。

 こうやって、どうすれば「どろけい」が面白くなるかという事を相談しているときが一番楽しいって。「どろけい」をしているときももちろん楽しいのだけど、それよりもルールを決めながら、どんなルールにすれば、遊び方が広がるかを考えることは、小学生のおれにとっては、とてつもなく楽しいことだったのだ。

 そうやって、少しずつ楽しさの源泉となるルールが積み上がっていき、「どろけい」はますます洗練されたゲームになっていく。おれたちは気付かないうちにゲームデザインをしていて、それは小学生のませた心に、楽しいってどういうことかって事を植え付けてしまった。

 おれは「どろけい」をしている間にも、こんなルールにすれば「どろけい」はもっと面白くなるのに、ということをしきりに考えるようになった。それで、もっとみんなが面白くなれば、それはとても嬉しいし、楽しくなる。

 この「どろけい」遊びがやがて終息していったのは、人数が増えすぎたというのが原因だった。

 この面白い遊びが徐々に広まり、仲間が増えてくると、少人数の精鋭でやっていた頃とは格好が違ってくる。日曜日などには女子まで入って数十人で「どろけい」を行ってしまう。

 そうなると、一号棟だけでは足りなくなって、一号棟から三号棟まで、といったように無秩序に規模が拡大していく。それはそれで楽しかったではあるが、やはり散漫で緊張感のない遊びになってしまった感は否めない。

 さらに、休日に数十人の小学生たちが団地中を駆け巡り、大きな声で泥棒を追い詰めたりするとなると、さすがに周囲も迷惑を感じ始める。それで、どこだったか何号棟かで禁止令が出て、それから徐々に終息していたような気がする。折良く習い事で仲間もどんどんと抜けるようになり、外で大規模に遊ぶという事はこれが最後になってしまったと思う。

 ただ、あの楽しさを味わってしまうと、今この歳になっても胸がうずく

 ああ「どろけい」がやりたい。

 楽しかったって。

 そして、あの初期にルールを作り上げていったときが一番楽しかったと。

 おれは趣味ゲームを作っていると、しばしば言われて、誤解されて困ることがある。

 増田ストーリー面白い

 増田ストーリーきゅんきゅんきた。

 おれは、そのたびに思う。

 おれは、物語が作りたいんじゃない!

 おれは、ゲームが作りたいんだ!

 「どろけい」みたいにルールを考えるのが、好きなんだよ。

 物語はその上に載っているパセリみたいな物なんだよ。

 って。

 
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